悪夢とミルクティー 3
ぎいっと音を立てて開いたのは、出口の筈の扉のすぐ手前の、詰め所の扉であった。
ネアがとても暗い目になるのは勿論であるが、迎えに来てくれたミカも渋面である。
そんな真夜中の座の精霊王の背中に隠れ、ネアが大事な魔物に連絡を取ったのはつい先程のこと。
“ディノ。この国の王様が、紅茶を淹れることを、出口迄の案内と王宮への迷い込みを不問にし、付与された何らかの繋ぎを切る条件にするのです”
“……………その人間はまだ必要なのだけれど、困ったものだね”
そんな返答を読めば、なかなかに不機嫌なのは顔を見ずともわかる。
そもそも、本当にネアが国王の兄弟子に似ているのかも謎であったし、国王に兄弟子がいるとなると何の弟子なのかも謎ではないか。
だが、それは本当の理由だろうかと怪訝そうに見ていると、説明が必要だと察したのだろう。
王様は、朗らかに説明を始めた。
「ああ、私は、人間の魔術師に擬態している魔物に弟子入りした事があってね」
「お茶を欲し出した途端から、ぐいぐいと話しかけてきます……………」
「遊学に出た宝石と妖精の街で、彼に出会ったんだ。様々な角度から世界を見る事を教えてくれた人で、……………彼は、聞いたこともないような不思議な国の物語を作るのがとても得意だった。そんな兄弟子と過ごすと、作家になるのもいいかもしれないなと憧れもしたものだ」
「王様になられる前には、作家さんになりたかったのですか?」
そう尋ねたのは、ネアハーレイという怪物だって、幸せなだけのただの人間になりたかったからだ。
そうして、自分が本当は何になりたかったのかを知っているということは、場合によっては、あまり幸福な事ではなかった。
現在、カードの向こうでは、どのような条件付けでお茶を振舞うのかを議論してくれている。
ひとまずお茶は出してもいいという方向性なので、ネアはお茶の準備をしなければならず、椅子を勧めたミカが座らなかったので、ヴェルクレア王は一人で座ることにしたようだ。
ぎしりと軋む椅子の音がやけに大きく聞こえ、先程迄聞こえていた風の音はあまり届かなくなった。
(この部屋には、窓がないのだわ。遮蔽の役割がある部屋なのだろうか……………)
壁は落ち着いた琥珀色で、石材そのものの色なのだが、不思議と木の色に見える。
部屋の中には、簡素なテーブルが一つと椅子が四脚置かれており、奥には小さな厨房があった。
三人ほどの騎士や役人が仕事をするのが限界というくらいの広さなので、ミカが、さり気無くネアとヴェルクレア王の間に立ってくれている。
視線でお礼の気持ちを伝えると、なぜだか僅かに目元を染めたので、この方法でははしたなかっただろうかと、ネアも少しだけもじもじしてしまう。
この三人でなぜこの部屋にいるのだろうと思考を混濁させるような環境だが、ヴェルクレア王は、部屋の狭さも全く気にならないようで、奥に厨房があるのでお湯を沸かせるよとにっこり微笑んでいた。
(……………勝手知ったるという具合だけれど、まさか、よく来ているのでは……………)
ウィームでは、誰かが長時間過ごすであろう場所は、どこもかしこも居心地よく整えられていた。
だがここは、王宮の中らしい調度品は見当たらないのは勿論のこと、ネアの見た事のあるウィームの騎士の詰め所とはだいぶ様子が違うようだ。
まさかこんな部屋を王様が選ぶとは思わず困惑を覚えつつ、ネアは、こんなところからも感じられる、ウィームの人間とヴェルクレアの人間の価値観の違いに驚いていた。
(…………それに、この国の王様が、怪物だった頃の私を彷彿とさせるような異端さを持つ人だとも思わなかった)
簡素な文官服で護衛も連れずに歩いている王は、そもそも、どんな目的でこの建物を訪れたのだろう。
偶然ネアを見付けたのか、入り込んだ者達がいると気付いて自ら確認に来たのか、はたまた、王妃と共に誰かを狩りにきていたのか。
どうしてこんな仕掛け罠のような建物を王宮の中に作り、ここは、王宮の中のどの区画にあたるのだろう。
ネアにとっては充分に長く感じられる時間だったが、こちらに迷い込んでからは、まださして時間は経っていない。
それはつまり、現在がまだ夜明けに相当するということなのだ。
悪夢で大騒ぎの筈の現在、そんな時間に国王がこの様子ともなると、さすがにどんな人物なのだろうかというあたりも考えてしまう。
(そして、どうして、一杯のお茶を望むのだろう)
けれどもネアの中に浮かび上がる疑問の多くは、ウィームで暮らす薬の魔物の歌乞いにとっては、知らずともいいことだ。
疑問に感じはしても、うっかり説明をされて余計な事を知ってしまわないよう、王宮や王都の特殊な事情に関しては、とても興味がありませんという表情を維持したい。
大事な家族であるエーダリアの父親ではあるし、この国の王様である。
とは言え、ネアにとっては見知らぬ人なので、こちらを危うくしかねない話題についてはぽいする所存であった。
「その頃は、いずれ羊飼いになると知っていても、まだその選択をしてはいなかったからね。どんな羊飼いになろうかと考える合間に、他のどんなものにでもなれるのだと心の中に思い描くことが出来た」
「………物語を書いてみたかったのですか?」
「そうだねぇ。私を傷付けた心無い魔物を、物語の中でこてんぱんにするのは、とても楽しかった」
「…………むぅ。そのような作風の大人気小説を知っているので、複雑な気持ちになりました」
「共に過ごした時間は短いものだったが、兄弟子は、私に何度か紅茶を淹れてくれた。………寒い夜や朝に、何の果実の香りも祝福もない、純然たる紅茶だけの茶葉を使い、濃く煮出した紅茶にたっぷりの牛乳と砂糖を入れて。……………そんな時間をまた過ごせたのなら、とても懐かしい気持ちになるだろう。しがない羊飼いには、もはや望めないものだ」
ああ、それは、大国の王になった人にとって、どんな時間だったのだろう。
まだ王子だった頃の王様は、傍仕えの妖精の帰郷に合わせて、たまたまその都市を訪れていたのだそうだ。
同行したのは二人の騎士とその妖精のみで、四国統一の直後で政情が不安定だったヴェルクレアから、外遊という名目で王子を避難させておく為の措置でもあったのかもしれない。
何しろ彼は、ヴェルリアの民にも慕われていた兄王子を殺した、弟王子の息子なのだ。
敗戦国となった三国から向けられる負の感情だけでなく、それまでは親しくしていたウィームを含めた周辺諸国に攻め入るような仕打ち、つまりは、統一戦争自体を望まなかったヴェルリア人もいたに違いない。
当時の王都が、どれだけ混乱していたのかは想像に難くなかった。
そして、お忍びの王子は、一人の魔術師とその弟子に出会った。
魔術師はあまり社交的ではなかったが、王子自ら、教えを請うたのだそうだ。
けれども、彼の心に最も強く残ったのは、不思議な国の物語を語って聞かせてくれる兄弟子と過ごした時間と、寒い夜や朝に彼がふるまってくれた甘いミルクティーだった。
「あの時の私は、羊飼いではない誰かに、ほんのひと時だけでもなっておきたかったのだろう。知らないという事は心を狭めるし、私には、他の未来はなかったからね」
「それでも、羊飼いになりたかったのですか?」
「まぁねぇ。父が王なんてものを望んでしまい、いずれは私が後を継ぐのだろうなと考えてからは、自分は父よりは上手くやるだろうと思っていたし、私は、羊たちの世話をするのが幼い頃から好きだった。だが、羊飼いという生き物になる為には、もうそれ以外の者にはなれないと認めなければいけない。私はね、…………魔術師にもなりたかったんだ。だからと言って、二番目の息子の考えていることはさっぱり分からないので、適性はなかったのだと思うけれど」
王子の師事した魔術師は、ほんの四回ほどではあるが、魔術を教えてくれた。
その時に、お前の代では決してウィームには手を出すなよと言われたので、あれはきっとウィーム贔屓の魔物だったのだろうなと笑う王様は、もしかするとそれこそが、魔術師のふりをした魔物が、身分を隠した王子を弟子にした理由だったのかもしれないと呟く。
だが、なぜその魔物が人間の魔術師に擬態していたのかは、外遊として定められた時間が終わり、先に街を離れた王子には、終ぞ分からないままだった。
手紙をくれないかと頼んだ兄弟子から手紙が届くことはなく、二度と再会することもなかった。
「兄弟子が官僚の父を持つ育ちであることを知り、騎士の一人は、私が王子であると知った上で近付いてきた者達なのではないかと言った。私の側仕えだった妖精は、それは運命のようなものの交差路だと教えてくれた。何しろその時にはもう、ウィーム王家の最後の一人がいずれは私の側妃となるべく王家に迎え入れられていたのだから、彼等と過ごした時間の上に重ねられた魔物の忠告は、確かに私に響いたのだろう」
「ふむ。もし、それを見越してあなたを弟子にしたのであれば、その魔物さんは、良い魔物さんだったのでしょう」
「はは、ウィーム領民はそう考えるか。……………私の師は、慈悲深く情深いかと言えば違うだろうが、少なくとも、自分の弟子をとても気に入っているようだった。………私に兄弟子は、あの街によくお忍びで来ていた妖精の王子にも気に入られていて、私は、何度かその友情を妬んだこともある。妙に、……………私のような、或いはあの妖精の王子のような、生まれた場所から出られない者達を惹き付ける青年だったよ。……………そしてあの兄弟子は、恐らくは迷い子だった。……………君もそうだろう」
(ああ、だからなのだ)
きっとこの王様は、どこでもないどこかから来た、自分を損なわない者と語りたいのだ。
その額縁を通して眺める、作家かもしれず魔術師かもしれない自分だっていたのだと、忘れないように。
そしてそれは、妖精の王子もそうだったのかもしれないし、或いは、魔物だという魔術師にとってもそうなのかもしれない。
この世界に生まれ、強固な枠組みの中に暮らし、どこかに行きたくてもどこにも行けない者達にとって、その迷い子は、夜道を照らす憧れだけの星明かりだったのではないだろうか。
怪物になるしかなかっとネアハーレイが憧れた、物語の中の魔法のように。
(私が、この王様の中にかつての怪物だった私を見たように、この人も私の中に何かをみたのだろうか。この話をしてくれたのは、私を納得させる為なのだろう…………)
一杯の紅茶に意味があるということ。
そしてそれが、自分の心の中だけのものだということ。
彼はその理由を手際よく説明してみせ、ネアがそれを理解すると信じて疑わない。
“ということなので、他意はないとは思います”
“………確かにそうなのだろうね。彼は、ノアベルトの呪いを受けるヴェルリアの王族だから、悪意や作為があれば、その魔術に触れる筈なんだ”
“まぁ。そう言えばそうでした!…………では、ノアのお陰で、私にとっては安全な方でもあったのですね”
“うん。……………だとしても、ミカがその場にいなけば、許容出来ない提案だった。けれど、彼は食楽を司る者でもあるから、その種の魔術を切るのも得意だからね。ミカに、魔術の繋ぎを切って貰い、買い取りという形で支払いは後からにしておくといい。……………いつか、今日のようなことが起きて、その支払いが君を守る日が来るかもしれないからね”
“はい。ではそうしますね!”
“支払先は、ノアベルトが引き受けるそうだ”
“むむ、ノアが引き取ってくれるのであれば、ますます安心ですね”
「ふむ。私の魔物からも、条件付きで許可が下りましたので、紅茶を淹れて差し上げましょう。私の祖国でも、濃い紅茶にたっぷりと牛乳とお砂糖で作る紅茶がありました。望んでいたものとは違うかもしれませんが、苦情は受け付けませんよ?」
「はは、構わないさ。んん、……………そちらの精霊にも振舞ってしまえるのか」
「あなたへではなく、私が紅茶をいただくので、この場にいる方にも分けて差し上げると言う体にしますから」
ネアがそう言えば、ヴェルクレア王は、ウィームの民らしいやり口だなぁと小さく微笑んだ。
親しげにも悪戯っぽくも見える微笑みだが、ネアはふと、傘にされた悪食の竜や、グリムドールのように、見た通りの形をしていない影を持っていそうだと考えてしまう。
けれども、そうだとしてもそれは、悍しいと言うよりは、風に揺れる麦穂のように、ただ穏やかであるのだろう。
「材料は私が取り寄せよう。この場にある物を使わない方がいい」
「まぁ。では、お言葉に甘えてしまってもいいですか?」
ミカは、ネアが密かに大好きな精霊だ。
グレアムの友人でもあるし、カードからはディノも信頼を置いている様子が伝わってきたので、ここはミカに全てを預けてしまうのがいいだろう。
強欲な人間がまとめてえいっと任せてしまうと、美しい真夜中の座の精霊はどこか満足げに微笑み、茶器と茶葉と牛乳、更にはお茶を煮出す為の小さな琺瑯の小鍋をどこからともなく取り出してくれる。
(アルテアさんは、大丈夫だろうか……………)
ネアは、手渡された茶葉を手早くお湯で煮出した。
簡易厨房の火にかけられた小鍋の中で、茶葉が踊る。
鮮やかで深い色に変わってゆくお湯を眺め、森蛾と呼ばれる生き物に囲まれていたアルテアや、リーエンベルクで待っていてくれるに違いないディノの事を考えた。
カードからディノにアルテアについても聞いてみたが、こちらで手助けをしたから問題ないよとは言われている。
とは言え、王様から聞いた森蛾という生き物の生態を考えると、ネアがうっかり引き寄せられてしまったせいで、いっそうに難しい状態になったのは間違いない。
(でも今は、私も、この状況への対処を優先させよう……………)
煮出したお茶を茶漉しを使って淹れるのは、既に牛乳を注いでおいたカップではなく、ジョーンズワース家のレシピでは牛乳は後からでも構わない。
今回は初めましてのカップであったので、牛乳の配分を見誤らないようにそちらの方式にし、最後に角砂糖の入った砂糖壺を添えて、ずずいと差し出す。
さすがに砂糖の量くらいは、自分で調整していただこう。
「ああ、……………これだ」
そう呟きカップを持ち上げたヴェルクレア王を、ネアはどうしてだか嫌いではなかった。
であれば心を寄せるという訳でもないが、ただ、嫌いだとは思えなかったのだ。
同じようにカップを差し出されたミカも、おずおずと持ち手に手をかける。
「時間を短縮する為に手荒い煮出し方になりましたので、失礼にあたらないといいのですが」
「いや。ご……………あなたからのものだ。有難く頂戴しよう」
「ご…………?」
うっかり零された言葉が嫌厭を示すものではないといいなと思いつつ、カップを取ってくれたミカをじっと見上げる。
僅かに目元を染めて困ったように微笑んだ精霊はとても美しかったので、ネアは、砂糖を入れたお茶を飲んで、嬉しそうに懐かしい味だなと呟いた王様は捨て置き、お気に入りの精霊をじっくり観察しながら紅茶をいただく時間に充てた。
牛乳を温めておく方法もあるが、濃い紅茶をあつあつのお湯で作ってしまったので、作り立てのミルクティーは、丁度いい温度でごくごく飲めるくらい。
ネアはこの温度が一番好きで、自分用に作る際にはティーバックで何杯も飲んでしまう。
「……………いい味だ。洗練されていなくて、がさがさした味で」
「ふむ。その椅子をひっくり返せばいいのでしょうか」
「だが、これこそが、生活の中で飲む紅茶なんだろう。寒い夜や寒い朝に、勿体ぶって飲まずに、体を温める為に。…………魔術師が飲むのであれば、このようなものがいいだろう」
「ですがあなたは、もう羊飼いなのでしょう?」
ネアの問いかけに、こちらを見た王様は青い瞳を細めてにっこりと微笑んだ。
人外者のような艶やかな美貌ではないが、それでも、はっと目を引くような魅力的で美しい人の姿に、ネアは、その笑い方が、王様ではなく魔術師風だとは言わずいることにした。
もしかするとその指摘は、酷なことなのかもしれないから。
「さて、今もまだ、私は魔術師の弟子なのかもしれない。……………時折、私を訪ねてくる魔物の中に、かつての私の師が紛れているような気がするのでね」
(……………それでもこの紅茶に拘ったということは、兄弟子さんにはもう会えないのだろうか)
テーブルの上に、ことりとカップを置く音がした。
その途端、空っぽになったカップは闇が溶け出すようにしゅわりと解けて消えてしまう。
その様子をどこか残念そうに見つめ、ヴェルクレア王はふうっと満足気な息を吐いた。
「良い取引きだった。……………今夜のお客は、残念ながら私の待ち人ではなかったが、人生にはこのくらいの褒美があってもいいだろう。何しろ、……………これから私は、可愛い可愛い長男にどうやって伴侶を娶らせるかを、死に物狂いで考えなければいけないからね」
「…………あの方に、取られてしまわないようにですか?」
「はは、こればかりは私の失態だ。かの魔物の災いや、あの土地に古くから住まう者達の障りを避ける為に、子供達にウィーム風の名前を付けたところ、思ってもいない影響が出た。まさか、名前に引き摺られて、息子達の全員があちら寄りの運命に転がるとはなぁ……………」
ネアがここでお喋りに応じたのは、先程の回廊で出会った女性の情報が欲しかったからだ。
こちらにも興味を示した以上、ある程度は注視しておいた方がいいだろう。
あの場での邂逅ありきの戯れだとしても、次がないとは限らない。
だが、そんな事はお見通しなのか、老獪な足取りでその問題は踏み越え、王様はくしゃりと笑う。
「ヴェルリア王家の血を引く者の中で、これ程までに人ならざる者達と共に在る事に傾いた子供達が現れたのは、今代が初めてだろう。いやはや、ウィームというものの貪欲さは恐ろしい」
約定の魔術を結ぶと厄介なので、ネアは、何も言わなかった。
ヴェルリア王も、答えを求めてはいないのだろう。
してやられたと、愉快そうに笑うばかりなので、厄介な者に気に入られたらしいヴェンツェルにも、きっとこの人が適切な抜け道を用意するに違いなかった。
「名前程に大きな力を持つ魔術はない。仮にも魔術師の弟子を名乗る者が、それを見誤るものなのだな」
ちゃんと約束を守って仕掛け罠のような建物を出ると、ミカはすぐにネアを抱えて浅い転移を踏んだ。
ふわりと魔術の風が翻り、扉の所で親し気に手を振ってみせたヴェルクレア王はあっという間に見えなくなる。
どうやら先程迄いた場所は、離宮のようなところだったようだ。
奥に見えた大きな屋根が、王宮の中心部に違いない。
ミカの不思議そうな声に頷きながら、ネアは、また少しだけ王様の事を考える。
転移の先はまだ王宮の中のひと部屋であったが、少なくとも、魔物達が立ち入れないような場所ではない。
あの建物は、入り込んだ者の魔術階位を下げ、望まれない配役を受け入れないような舞台魔術を応用した特殊な仕掛けがあったのだそうだ。
そんな場所にまで駆け付け、王様が待っているのは、ミルクティーを淹れてくれた人なのだろうかと考えかけたが、それは無粋だなと思い、ネアは思考を止めた。
その思い出にどんな色を付けるのかは、彼だけなのだ。
「…………或いは、贈り物だったのかもしれません」
ネアがそう言えばミカは不思議そうな顔をしたが、微笑んで首を横に振った。
ウィームを損なわないという姿勢を見せて、師となった魔術師や共に過ごした兄弟子への敬愛を示したのか、或いはそれは、何も持たずに祖国にも帰れないまま亡くなった側妃への、ウィームを自分の代では損なわないという言葉を受けた羊飼いなりの秘された贈り物だったのか。
或いは、双方含めての、彼がウィームへと示した、羊飼いなりの黙祷だったのかもしれない。
だが、その真意がどうであれ、その思いもまた、当人だけのものだ。
表向きの理由以外のものは、本人が話さない限りは、誰かが知る事はないだろう。
「そろそろ、黎明の領域に完全にかかるな。……………私も引き続き側にいるが、これからの時間は、寧ろリドワーンなどの方があなたを守るのには相応しいのかもしれない」
「むむ、リドワーンさんの方が良いのですか?」
「ヴェルリアという土地で、尚且つ、海の契約を持つ者として、海から迷い込む者達には強い。……………この王都は、敢えて古い海の底の門の近くに作られたのだろう。あのような仕掛けで災いを退ける必要があるくらいには、こんな日にはあちら側の者達が近くなる」
それはミカの領分ではないが、最も大きなあわいや境界を司る王でもあるので、ミカにも、そのあたりの変化はよく見えるのだという。
「あの女性や、アルテアが対処している森蛾達は、どちらも古い世界の生き物達だ。どの層のどの世界の記憶やあわいなのかは分からないが、古の書の魔物のようにこちら側に触れる者もいれば、今回のように、境界が開いている時に強い風や嵐が向こう側のものをこちらに運ぶ道になることもある。……………本来であればそれだけでは弱いのだが、気象性の悪夢の、実現する悪夢と言う資質が、例外的に彼等をこちら側に顕現させていたのだろう」
「予めあのような建物を作り、その備えをしていたのだとしたら、こちらでは珍しくはないものなのかもしれませんね……………」
「ああ。海辺の大きな都市は、必ずそうして、海からやってくるものの障りを軽減する為の備えをしている。どのようなものが現れるかだけの違いで、大差はないのだろう」
「……………境界というものの向こう側には、思っていた以上に色々なものがいるのですねぇ……………」
幸いにも、この世界以前の世界の生き物達は、実現する悪夢やその他の特殊な条件を満たしている時以外、この世界に定着することは出来ないのだそうだ。
体や魂の成り立ちが違う以上、こちら側に長く留まるとしゅわんと消えてしまう。
そうならない為には、この世界に適応する形に書き換えるしかなく、ネアは、おやそれはまさかこの身に起きたことなのかもしれないぞと考えた。
「そろそろ、道を整えられるな。私の優位性が完全に失われる前で良かった。……………迎えに来るのは、塩の魔物になるだろう。王都には幾つも道を持っているようだから」
「ミカさん、リーエンベルクを守って下さったばかりか、このようなところまで来てくれて、有難うございました」
ネアがあらためてお礼を言えば、穏やかに微笑んだ真夜中の座の精霊王は、対価として、一緒にリーエンベルクに戻り、朝食と昼食を振舞って貰うのだと教えてくれた。
悪夢が居座る間は遮蔽の中に留まるが、時間の座が夜から外れるので、のんびりさせて貰うと話している。
食楽の資質も持つ真夜中の座の王様なので、リーエンベルクの料理にはずっと興味があったらしい。
(でも、ここから真夜中の座の精霊のお城にだって、帰れる筈なのに、リーエンベルクに残ってくれるのだわ)
「……………ああ、良かった。無事だね?」
「ノア!」
そこに現れたのは、黒いコートを翻して転移してきた義兄の魔物だ。
ぱっと笑顔になったネアをすぐさま持ち上げ、ぎゅうっと抱き締めてくれる。
その腕の中でふしゅんと息を吐き、ネアは大事な家族にしっかりとしがみつく。
「ごめんよ。僕もシルも、まさか海の向こう側の違う世界層の生き物が、君をこんな場所に引き入れるとは思わなかった。怖かったよね。……………ミカ、有難う」
「いや、……………良い時間だった」
「ありゃ。……………それもそうか」
「むむ?」
ノアが得心気味に頷いたので、何か他にも得るものがあったのかなと考えていたネアは、こちらを見た家族の青紫色の瞳が僅かに翳ったことに気付いた。
「何か、私は困った状況になってしまっています?」
「ネアじゃないんだ。……………うーん。連れ帰ってもいいものかな。シルあたりは、心配症だから連れて帰ってきて欲しいのかもだけど、まだ仕事が残っている可能性もあるんだよね……………」
「……………もしや、アルテアさんでしょうか?」
ぞっとしてそう尋ねると、ノアは、そうだねと頷いた。
「あの時に私が……………」
「ありゃ。ネアのせいじゃないよ。とは言え今回は、アルテアの側にもそこまで落ち度があった訳じゃないんだけどね。…………強いて言うなら、厄介な状況になるくらいなら、引き取る前に僕達に相談するべきだったってことかな。シルなら、こちらの世界に属さないものを追い返すのは得意だったのにさ」
「なぬ……………」
「でもまぁ、アルテア的には、シルは君の側に置いておきたかったんだとも思うよ。ウィームの様子を見に来れない事も、かなり気になっていたみたいだし。……………うん。アルテアの方は無事に解決したみたいだね。ウィームに戻ろうか」
「……………むぅ。とても心配ですので、傷薬を飲ませてゆきたいところですが、このような状況ですので私の素人判断ではどうにもなりません。きっと、必要なお仕事もあるのでしょう……………」
ノア曰く、アルテアは突然ネアが巻き込まれた事にたいへん驚きはしたが、ネアを探しにゆくよりもまず、森蛾を退ける事に集中したようだ。
あの生き物達がネアを呼んだのは、獲物を捕らえる為の囮としてである。
そちらをどうにかしない限り、却って危険を増やしかねない。
ネアにはさっぱり分からなかったが、どうにかしてアルテアと意思疎通して、状況を確認したようだ。
それが人間の価値観の上でも本当に無事なのかどうかはさて置き、解決したと聞いてほっとする。
「ほら、この王宮界隈にある赤や赤紫色の中ではさ、アルテアの持つ色が最高位だから、森蛾からしてももっといい獲物は他に存在しないんだよね。より上位の獲物を示してそちらに引き取らせるのが難しい以上、あれを野放しにして君に接触させる訳にはいかなかったんだ」
そう説明してくれるノアは、悪夢の波目を見て、ウィームに戻る為の道を作る好機を待っている。
ミカが転移したこの部屋は、塩の魔物が王宮の中に所持している隠し部屋の一つで、王様ですら知らないような場所なのだとか。
「あの王はどうだった?」
「……………不思議な王様でした。お気に入りという方ではありませんが、理解は出来るような気がします」
「まぁ、……………そんな感じかな。ヴェルリア王家は、定期的にウィーム王家の者への妙な執着心を持って生まれる王族が出る。これはもう、それぞれの持つ魔術資質上のただの相性的なものなんだけど、呪いみたいにね」
「呪い……………」
「僕的には、ウィーム王家が取り入れた光竜の血に、ヴェルリア王家の取り入れた火竜の血が反応している気もするんだよね。特に火竜って、そういう気質を拗らせがちだし。でもまぁ、先代にそれが顕著だった分、今代のあの王には弱めの気質だ。……………というか、バーンディアは、どちらかと言えばヴェルリアには珍しい気質の王って感じもするね。……………で、次の世代の第一王子はエーダリア贔屓になったって感じかな」
「王様が、子供達の名前をウィーム風にしたせいで、皆がそちらの運命に傾いてしまったと話していました」
ネアがそう言えば、ノアがにやりと笑った。
「そりゃそうだよ。それを知った上で、王子達の名前にその要素を入れるからこその贖罪でもあるんだ。ただの災い除けっていうよりは、そうしなければ障りを避けきれないように追い込んだ者達が多かったからね」
「ノア以外にも?」
「ありゃ、ばれてるぞ…………」
気質や運命をこちら側に偏らせてゆけば、全く違う資質のものでも、理解が出来るようになる。
互いの立場を理解していれば、どう共にあるべきかを考えるられるだろう。
そうすれば、統一戦争のような悲劇はそうそう起こるまい。
そんな思惑で敷かれた追い込み式の罠だったのだと思えば、ネアは、ヴェンツェル王子のような人物こそが、ウィームの障りが望んだ次の世代のヴェルクレア王族なのだなと理解した。
「それにしても、一杯の紅茶の為に、あいつも随分な好機を手放したなぁ。ここで取りに来ないあたりも老獪さなんだけど、もう少しこちら側の手綱にも欲を示すかなと思ってたよ」
「この国の民は、船乗りさんで商人さんだったのですよね。……………であれば、そこを治める王族の方々にも、ここではないどこかへ行きたいという願いを持つ方が多いのかもしれません。王様が、あの場所にいたのは、……………ここではないどこかからきた古いご友人に、ただ、もう一度会いたかったからなのかもしれません。私が同じような迷い子でしたので、今回は代役になれたのでしょう」
「…………そういうこともあるかもしれないね。何しろこの都は、大きな港だからさ」
その言葉にネアは、夜の海や月の光の煌めく船の上の物語を想像してみる。
だが、以前の光竜事件で乗船した船での思い出があまり芳しくなかった人間は、潮風や海の上の冒険にあまり心惹かれないぞと思い直し、すぐに作りかけの物語を放り投げた。
「……………海から来てもいいのは、素敵な白もふと美味しい海産物くらいです」
「うん。そんな可愛い妹の為に、そろそろ道を開くよ。ミカ、次の悪夢の波で転移を踏むけれど用意はいいかい?」
「ああ。やっと、悪夢も定着してきたな」
「さぁ、帰ろうか。大冒険を終えたばかりの僕の大事な女の子は、そろそろ朝食の時間だからね」
「はい!」
一杯の紅茶の支払いは、支払い先を義兄なる塩の魔物にしてあるので、ネアがもうあの王様に出会う事はないかもしれない。
だが、あの王様が、遠い日の師や兄弟子と過ごした日々を大事に取っておき、今も一杯のミルクティーを望むのであれば、安易な感情でウィームを損なう事はないような気がした。
ウィームに魅入られ、それを滅ぼした王様の子供は、どんな寝物語を糧に育ったのだろう。
ノアが今代の王にはない執着だと語ったウィームへの思いが、もしかしたらそこに隠れているのかもしれないと、ネアはちょっぴり考えてしまうのだ。
今でも自分は魔術師の弟子かもしれないと、そう言って微笑んだあの眼差しを見たからだろう。
 




