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悪夢とミルクティー 2




ごうごうごとんと音の響く寝室の中で、ネアは、エーダリア達から齎される国内の被害状況を聞いていた。


時折、竦み上がるような激しい音が窓の向こうから聞こえてくるが、強風に吹き飛ばされてきた何かが、排他結界に当たったのだろうと聞き、ほっと胸を撫で下ろす。



(街にも、大きな被害がないといいのだけれど……………)



幸いにも、ウィーム中央には王都としての守りがあるそうだ。


気象性の悪夢だけではなく、普通の嵐や災いの系譜の荒天までを含め、ウィームらしい潤沢さで、街としての機能が失われないような守護が敷かれているのだそうだ。


なので、どれだけ激しい嵐が来ても、そうそう簡単に街中の街灯がぽきんと折れてしまうことはないし、家の屋根が風に負けてばらばらと引き剥がされる事もあまりない。



だが、魔術にも経年劣化がある。


使い暮らす人々の生活が変わる事で、うっかり書き換えられてしまったり、全く予期せぬ事情で守護そのものが損なわれることも珍しくはない。


なのでその先は、老朽化してゆく魔術の手入れを丁寧に行い、適切な補助金を活用して、暮らしてゆく人々にも魔術の維持を義務付けている、現在のウィーム領だからこそ。

かつてのウィーム王家が作り上げた頑強な魔術の守りを維持し続けていられるのは、それを継続可能とする運用があってこそということなのだ。


現領主のエーダリアが、ウィームの財産である数々の魔術を正しく保護し、必要な備えをこつこつと積み上げているからこそ、このような災害に強い都市となるのだ。



「……………現在、視認されている限りでは、ウィーム中央では大きな被害は出ておりませんね」

「そうか…………。街路樹や看板、小さな鉢植えなどの被害はまだどうにかなるが、ウィームの建築は建材にかける守護や祝福が厚い。そのようなものが大きく損なわれると、飛ばされた先で連鎖的な被害を出しかねないからな……………」

「ええ。それでも多少の被害が出るでしょうが、生活に支障のある被害さえ出なければ、領民達の暮らしは取り戻し易くなります。……………王都とは真逆の手法ですが、悪夢に於いては有効でしょう」


そんな会話に首を傾げたネアに、こちらを見たノアが、ヴェルリアでは、壊れたものを再建し易いかどうかということも視野に入れて国造りをしたのだと教えてくれた。


「まぁ。……………となると、王都ではかなりの被害が出てしまうのですね……………」

「ヴェルリアは、船乗りの商国からの成り立ちだからね。国民の嗜好として、都市よりも換金可能な財産の方に重きが置かれるんだ。とは言え、王宮のあたりはさすがに堅牢な魔術障壁を敷いているけどさ、周辺はそうもいかないんじゃないかな。ドリーあたりは、ずっと燃やしっ放しかもね」

「……………むむ?」


何を燃やすのだろうと眉を寄せると、エーダリアが説明を引き取ってくれる。


公式行事に出るような装飾の多い上着までを着込んでいるのは、万が一悪夢に触れた場合に、防壁になる装いだからだ。


ウィーム領主の盛装には、装飾に見せかけた祝福石の縫い込みや飾り帯、祝福を宿した美しい刺繍糸、円環を模した魔術などが随所に組み込まれているらしい。

いざとなれば、着ている上着の装飾を解いてゆきながら身を守れるような特別な仕立てである。



「ドリーの魔術は、対象物を一瞬で焼却をするほどの高位の火の魔術だ。王宮一帯は現在、その守護で守られているのだろう」



(そうか。王宮は頑強な造りでも、周辺の港や王都の他の建物が崩壊した場合には、そちらから何か大きな物が風で飛ばされてくることもあるのだろう……………)



「つまり、…………何か困ったものが飛んできた場合は、それが、王宮の壁や窓などに激突する前に、ドリーさんがじゅわっと焼いてしまうのですね?」

「ああ。……………とは言え、一人では負担も大きい。恐らく国王は、兄上とドリーに王宮の守りを任せ、ご自身で指揮を執られているのだろうな」



本来であれば、そちらこそが第一王子であるヴェンツェルの役割である。


現場に出るとまでは言わないが、王宮で指揮を執り、各地の被害報告を取りまとめて対策を練る。

そんな泥くさい執務を国王が引き受けているに違いないと聞けば驚いてしまうが、魔術的な影響も含め、瞬時に適切な判断が出来、それを許されるだけの人物となると、王都に残された王子達では心許ないのだろう。


宰相やその他の優秀な高官もいる筈だが、魔術を扱う国の為政者は、より多くを許された者にしか出せない最終指示というものがある。


それがウィームであれば、エーダリアはダリルに多くの権限を預けているし、ヒルドや、リーエンベルクの騎士達、各地の騎士でも重きを置く者達などがいるが、場合によっては国防の根幹に触れる王族の権限ばかりはそうもいかない。


安易に譲渡出来ない最終承認が、このような場合は、情報の集約される現場で必要になる。




「勿論、ガレンからも、七人の魔術師が専門家として派遣されている。とは言え、王家が成すべきなのは、最終的な決定を出す事だ。その役目を担える者が、………兄上が動けないとなると少ないのだな………」

「まぁ、いいんじゃない。あの王や宰相あたりは、こういう仕事も好きそうでしょ」

「……………そうかもしれないな。……………だが、王都の被害状況によっては、この悪夢が去った後に、幾つもの厄介な政治的な駆け引きが必要になるだろう」



(……………ああ、そういう事なのだわ)



その言葉に、一つの疑問が解消した。

ウィームでは、水鉢の悪夢の外周となる土地でも大きな被害が出そうにないと判明しても、エーダリアとヒルドの表情は、なぜか冴えなかった。


ネアは、とは言え、領内の各地で相応の被害が出るからだろうと思っていたが、そうではなかったのだ。



(………この悪夢の被害を受け、国内の均衡が崩れる事こそが問題なのだ)



ウィームが無傷で他領により大きな被害が出れば、ウィームからの支援を望む声も高まるだろう。


お金の問題だけで済めばいいが、技術や人材を求められると、手痛い損失や厄介な干渉になる。

そうならない為にも、人的な被害ではなくてもいいので、ウィームとてそれどころではないという姿勢を見せられるだけの材料は必要なのだった。


不均衡を嫌う選択の魔物が忙しくしているのは、そのような調整もあるからに違いない。


土地そのものを損なう程の大きな災厄ではないのに、高位の人外者達が落ち着かないのは、地上の表層に巣食ってそれなりに大きな顔をしている、人間という生き物の勢力分布に影響が出かねないからなのだろう。



「ってことは、悪夢の後は、ダリルがそちらにかかりきりになるかな。まぁ、彼に任せておけば毟り取られる事はないだろうけどさ、領内の事後処理にダリルの手を借りられないってのが痛いのか…………」

「そうなのだ。……………となれば、思い入れがあるという訳ではないのだが、出来る限り被害が出ないよう祈りたい土地もある」

「むぅ。それはもしや、ザルツめでしょうか……………」

「ああ。………どうか、遮蔽地の中にいてくれればいいのだが………。ギルドなどの交渉で片付く被害で留められるよう、祈るしかないな………」



(……………エーダリア様が、二度も祈るという言葉を使った……!)



それは即ち、祈るしかないということでもある。


これまでにザルツが引き起こしてきた騒ぎを考え、ネアは、きっと誰かがとんでもない失態を犯していそうだぞと遠い目をした。

エーダリアも遠い目をしているので、恐らくそのような事案は皆無とはならないだろう。




「……………ノアベルト、……………今夜は満月だったね」

「うん。……………ありゃ、シル?」



ふいに、ディノがそんなことを尋ねた。


エーダリアの持っている資料を覗き込んでいたノアが顔を上げ、僅かに眉を顰める。

寝台に腰かけているネア達と、窓辺の長椅子に座ったノア達とは少しだけ距離があって、ネアは、ちょうど大事な魔物の髪の毛を綺麗な三つ編みに整えたところだった。



「…………海の底にあるものまで、風が届いてしまったのかな。……………アルテアが、厄介な領域の者達の目に留まったようだ。あの海域の者達は、赤色やそれに準じる色を好むからね」

「……………アルテアさんが?」



思わずそう声を上げてしまい、ネアは、ひゅっと息を呑む。



そこは、がらんとした石造りの部屋であった。


赤茶けた石床は、けれども磨き抜かれていて、黄金の燭台には大事に使われていそうな蝋燭が挿してある。

溶けた蝋が重なって固まり、ごつごつとした古木のようになった蝋燭が灯す火は、ぼうっと部屋の中を橙に染め上げていた。



木の一枚板の大きなテーブルの上に、華奢な手が幾つも差し出される。

それぞれの手には青銅の古びた盃が握られており、なみなみと注がれているのは葡萄酒だろうか。


その盃を差し出されているのは、漆黒の盛装姿の選択の魔物だ。

冷ややかな眼差しはぞっとするような酷薄さだが、とは言え、盃を差し出す者達は、ぐるりとアルテアを囲んでいる。



(なんて、不思議なドレスなのだろう)



真っ先に思ったのは、そんな事だった。


アルテアを囲んでいるのは全員が女性で、栗色のふわふわした髪の毛を耳下で切り揃えており、枯れ葉色のふわりと広がるドレスを着ている。


特徴的なのはそのドレスの模様で、ネアは、梟の羽のようだと考えてじっと見てしまってから、いや、もっと別の物だと気付いた。


ヘッドドレスのように黒い天鵞絨のリボンを頭に巻き、リボン結びの端は長く取ってある。

ふわりと広がるドレスとふわふわの髪、その全てを組み合わせると、どうしてか大きな蛾のようではないか。


そう思ってぞっとしてしまったが、それでもまだ、ネアがそこまで怖いとは感じなかったのが、彼女達が目隠しをしていたからだ。

絨毯のあわいで見た海から来たもののように、目元をすっかり覆い隠してしまっている。



今のネアが見ている光景は、ディノが見ているものなのだろうか。


枯れ葉色のドレスの女性達は、無言でアルテアに盃を差し出している。

不機嫌そうに座ったままでいるアルテアは何も言わないが、どのような状況なのだろう。


もしや、それなりにまずい場面なのだろうかと考えてぎゅっと指先を握り込むと、ごとんと音を立てて、膝の上に置いてあったブラシが落ちた。



「……………っ、」


その瞬間の怖さは、言葉に出来なかった。


ネアが見ているのは幻のようなものの筈だったのに、目隠しをした女性達が一斉にこちらを見たのだ。

はっとしたように目を瞠ったアルテアと確かに目が合い、慌ててブラシに手を伸ばそうとした途端に、拾うなと叫ばれた。



多分。




「……………ふぇぐ」



咄嗟の時、人間は、一度流れに乗せた動作をそう簡単には止められないのだろうか。

アルテアの声が聞こえた瞬間に手を止められた筈なのに、どうしてだか間に合わずにブラシを拾ってしまったネアは、その瞬間にもう、見た事がない場所に立っていた。



「ディノ……………」



誰かに気付かれないように小さな声でその名前を呼ぶけれど、隣に座っていた筈の魔物の姿はない。

ちょうど三つ編みにリボンを結んでやり、ディノから手を離した瞬間でもあったことを悔いても、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったのだ。



慌てて手に持っているブラシを腕輪の金庫に押し込み、ネアは、すぐに壁にぴったり張り付くようにして身を隠した。


今立っているのは、見上げる程に天井の高い壮麗な回廊で、足元の床石の美しさも、見上げた天井の高さや壁沿いに立ち並ぶ円柱の装飾の素晴らしさも、これまでに訪れてきた人間の建築の中では、段違いな程に壮麗である。



それが堪らなく恐ろしくて、ネアは身が竦みそうな思いで、周囲を見回した。

つまりここは、ウィームの旧王宮を凌ぐほどに豊かな国の、恐らくは王宮の中ということだ。




(……………暗い。ここもまだ、悪夢の中なのだ)



ごうごうと風のうねる音に、ばぁんと大きな物が壁や窓にぶつかる音。

広大なと言ってもいい程の廊下は静まり返っていて、壁にかけられた国旗を揺らす風などはないようだ。



(……………ヴェルクレアの国旗だわ。……………ここはまさか、)



ごくりと息を呑み、小さな声でノアを、続けてアルテアを呼んでみた。

場合によってあんまりな仕打ちになるがウィリアムも呼び、それでも叶わないとなると、オフェトリウスのことも呼んでみる。


だが、誰かが突然目の前に現れて守ってくれるということはなく、ネアは、不安のあまり胃が締め付けられるような思いがした。



(落ち着いて、落ち着いて。………ここは敵国ではないし、あの国旗は、統一戦争後のものだわ。悪夢が訪れているということは、少なくとも時間のずれもない可能性があるということ)



すぐさまカードを取り出して開きたいが、廊下があまりにも壮麗で広いので、どこかで誰かや何かがこちらを見張っていないとも限らない。

これは迂闊に首飾りの金庫には触れられないぞと思えば、冷たい汗が背筋を伝った。



こつん。

かつかつ。



その靴音が聞こえた時に感じたのは、最初に安堵で、続いて恐怖であった。



女性の物に違いない軽やかな靴音なのに、なぜ、今は姿の見えないどこか遠くから来るものが、とても悍ましいものだと分かってしまうのだろう。

かたかたと震え出しそうになりながら必死に冷静さを搔き集めていたネアは、この気配に覚えがあることを思い出した。



(……………あ、)



それは、統一戦争の悪夢の中で、ネアが大事なショールを拾おうとした時のこと。

その場に現れ、ネアの大事なものを傷付けた恐ろしい精霊がいた。


慌てて武器を取り出そうとしたものの、指先を彷徨わせたのは、こんなにも冷静さの欠片もないネアにだって、あの精霊達がこの国を守る為の盾でもあると理解出来ているからだ。

滅ぼしてしまえと言われたのなら、まだいいだろう。

だが、それは出来ないのだ。



(ど、どうしよう。……………もしここが、王妃様の居住棟だったりした場合は、確実に不法侵入者だわ。王都の王宮に見ず知らずの人間が入り込んでいて、そう簡単に解放されるとは思えない…………)



知り合いがいても、弁明をするにしても。

僅かに救いの手が及ばない時間や手続きの合間に、どのような待遇を受けるのかは想像するまでもない。

ましてや、これから遭遇しかねない相手は、よく知らない者の為に公平さなどを切り出しはしないだろう。



(………逃げるしかない。転移門は使えるだろうか。………ディノ達を呼んでも反応がないということは、何か特別な魔術が敷かれている可能性が……)



「……………これは厄介ね」


必死に考えを巡らせていたネアは、ひょいと横から覗き込まれるようにしてそう言われるまで、誰かが近付いていることに気付きもしなかった。


飛び上がる程の驚きを消費するだけの余裕すらなく、ただ声もなく顔を上げたネアを見ていたのは、美しい黒髪の女性であった。


その女性を見て僅かに心を揺らしてしまったのは、アルテアと同じような瞳の色をしていたからだろうか。

なぜだか、選択の魔物に似ていると強く感じたのだ。



「誰かがかけた悪意のある術式に、誰かの手立てと誰かの介入が重なって、私の足跡やこの建物にかけられた魔術に重なって迷い込んでしまったのかしら。………それも、決して損なわれてはいけないような、大事な駒ね。……………あらあら、………おまけに、私のお気に入りとも、無関係ではないのかしら」

「……………あなたは、」



どう見ても、人間ではない美しい女性である。


ウィームの女性達より僅かに色の濃い蜂蜜色の肌に、こんな暗い回廊で出会えば恐怖を覚えるような程の鮮烈な美貌だが、陽光で温められた土焼きの食器のような、不思議な温かさを感じた。


けれども、ネアはこの女性の線引きの内側に入ってはいなかったし、気に入られたようにも思えない。

それは、とても恐ろしいことなのだ。



「いらっしゃいな。……………そうね、一度だけ、助けてあげるわ。お前は、私のお気に入りにとっての損なわれては困る駒でしょうし、お前が欠けると地上がひび割れてしまいそう。それに、……………彼女を船に乗せてくれたのね」

「……………船、でしょうか?」

「ええ。花を沢山積んで、彼女を迎えに来たでしょう?……………それが気休めにしかならないのだとしても、古くから知っている者が在るべき場所に戻れたのかもしれないと思えるのは、悪くない事よ」



すいと伸ばされた手に、ネアは戸惑った。

相変わらず、廊下の向こうから靴音が聞こえている。

だいぶ近くなってきたようだし、何人かいるようだ。


でも、ここで見ず知らずの人外者の手を取っていいのだろうか。


この女性を見た瞬間に感じた、どこか選択の魔物を思わせる気配に、安易に手を預けていい相手だとは思えなかったのだ。



(けれども、……………廊下の向こうから来るものと比べたなら)


そう考えたネアが、僅かに態度を軟化させたのを感じたのか、こちらを見ている女性がにっこりと微笑む。

息を呑む程に美しい女性だが、やはり、優美なけだもののような酷薄さがあった。



「では………」

「あああ、ちょっと待った!善意からの手助けでも、海の底との繋がりを深めるのは良くないからね。……………息子にご執心のお嬢さん、この子は、私が預かろう」

「……………む。……………むぐ?!」



次なる声が割り込んだのはその時で、普段は周囲の気配に敏い筈なのに、再び慌てて振り返らねばならなかったネアは、割って入った壮年の男性の顔を見た瞬間、びゃいんと飛び上がってぱたりと倒れたくなった。



ネアは、王都の貴族達や、要人達の顔や名前を殆ど知らないが、さすがに、この国の王様の顔くらいは知っているのである。



突然現れ、持ち上げかけたネアの手を掴んだのは、その人だったのだ。



「あら。私が海から出てきていることに、気付いている人間がいたの」

「水鉢の悪夢のせいで月光がこちらにも溢れて、わらわら出てきて難儀しているからね。この少女は、私が保護しよう。いいかい、君は、私の可愛い息子やまだ使い勝手のいい王宮の職員たち以外であれば、誰か一人くらいは持ち帰ってもいいから、どうか大人しく引き下がってくれるかな」

「無粋な人間ね。……………私はただ、私に綺麗な金貨をくれた旅人が、森蛾の群れに目を付けられないように忠告に来ただけ。でもまぁ、そちらは、………誰かが代わりに引き受けたみたいね。……………ねぇ、あなた、名前はなんて言うの?」

「っ、……………」



ヴェルクレア王は、この女性がどのようなものなのかを良く知っているのだろう。

こちらもとんでもない相手だし、王様と二人きりになるのはとても御免であったが、なぜだか、今、一番安全なのはこの男性だという気がした。


なので、うっかり少しだけ心を緩めてしまっていたネアは、安堵の息を吐きかけたところでそう声をかけられ、零れ落ちそうになった声をぐっと飲み込む。


そんなネアの瞳に何を見たのか、にっこりと艶やかに微笑んだ女性は、美しかった。



「私の名前を、教えてあげましょうか?」

「いえ、……………ご遠慮させていただきます」

「あら。まだ、古い友人を送ってくれたお礼をしていないし、……………あなたの名前は、私の知っている音かもしれない。随分と古く、……………けれども磨き上げられた、祝福の形をした災いの匂いがするもの」



その言葉には、何と答えるべきだったのだろう。



ネアは、目の前の美しい女性が、安易に言葉を交わしてはいけなかった生き物だと知り、溜め息を吐きたいような思いでいた。


断る為にであれ、今は応じるべきではなかった。

隣に立つ王がネア達の応酬に口を挟まなくなったのは、ネアが彼女の問いかけに応じてしまったせいで、割って入る事が不敬となったからだろう。



おまけに、この女性は本当に名前を預けたいのではなく、ネアを弄びたいのだ。

これはまずい事になったぞと冷や汗をかいていると、また、ふいに誰かの気配が揺れた。



「随分と不愉快なやり取りが聞こえてきたようだ。…………彼女に名前を預けたいと思う者の多くが、その足元に傅きたくなる衝動を堪え、列もなさずに息を潜めているというのに」

「……………ああ、精霊は嫌い。……………夜なんてもっての他だわ。私は、太陽と明るい篝火が好きなのに」



けれども、その声が割って入った瞬間、女性はそう言い残し、しゅわんと王都の回廊の闇に紛れてしまった。


そろりと顔を上げ振り返ったネアは、思っていた伴侶や家族の魔物ではないものの、頼もしい知り合いの姿を認めて、へなへなと座り込みそうになる。




「……………ふぐ」



そこに立っていたのは、髪色などの擬態はしているものの、美しい真夜中の座の精霊王であった。

気遣わし気にこちらを見て、どこか安堵したように微笑んだミカを見て、ネアは、漸く深い深い息を吐いた。



差し出された手のひらに指先を預けると、しっかりと握ってくれる。

家族ではないし、輪の内側にいる者でもないが、それでもミカが一緒なら安心だ。



「無事だったようだな。…………夜が明ける前で幸いだった。完全に黎明の手の中に落ちてからでは、私とて、万象に道を作られてもここには辿り着けなかっただろう。悪夢のせいで現れたものだが、悪夢のお陰で夜明けに至っていないことを感謝するより他にない。……………彼女は私が引き取ろう」

「……………はは、……………いやはや。有史以来、この土地では目撃例のない、高位精霊とは、寿命が半年分くらい縮んだかな……………。だが、この建物は、王都に忍び込んだ人ならざる者達の、捕獲用の檻のような特殊な魔術の箱になっている。飛び込むことは出来ても、出て行くには手間がかかるので、出口への案内の間くらいは、私も同行させて貰えるだろうか」

「……………捕獲用の?………成る程、それで魔物達の声が届かず、転移が叶わなかったのか」

「まぁ、……………それでだったのですね」



思わずディノの名前を口に出しかけ、ネアは、今度こそもうなにもしでかさないように、慌ててその響きを飲み込んだ。



この国の王様が何をどこまで把握しているのかはさて置き、確証や材料となるような言葉を与える訳にはいかない。

けれども、そんなネアの思惑にも気付いたのか、ヴェルクレア王はどこか愉快そうに微笑むと、ひらりと片手を振った。



「安心するといい。私だって、ウィームの歌乞いや二番目の息子がとんでもない階位の人外者達に日替わりで会えているのを羨みもするが、とてもではないが、魔物の上位数席から目を付けられるような真似はしたくない。……………だが、どうしてこんな高位の精霊が迎えに来てくれるのかはとても興味が……………いや、やめておこうか!爪先が凍えそうな目をされてしまったからね」

「……………むむ」

「であれば、彼女の手を離してはどうだろうか」



ミカが、静かな声でそう言うのも無理はない。


先程、あの女性の人外者の手を取ろうとしてしまったからだろうが、ネアの片手は、エーダリアの父親でもあるこの国の王様に、がっしり掴まれてしまっているのだ。



「ははは、この手を離した途端に、とんでもない目に遭うかもしれないので、それはやめておこう。………幸運な事に私はこの国の王で、彼女に、少しの間だけ、この哀れな男と手を繋ぎ盾になっていて欲しいと頼むくらいの関係性はあるだろう」

「……………まぁ。それはさすがに個人的過ぎる接触ですので、あまり……………」

「えええ?!そこで断るのかい?!」

「ですが、無事にここから出られるようご案内いただくのですから、勿論、そのような方に対しては、危害を加えたりはしないのでしょう。……………私にとって、大事な方のお父上でもあります」



ネアはここで、漸く人心地がつき、深々と淑女のお辞儀をした。

貴族文化に根を下ろしておらずとも、そのくらいの礼儀作法は備えている。

なお、その際に手は素早く引っこ抜いてしまったので、わざと不愉快そうに手を取られていることを指摘してくれたミカも、それ以上荒ぶりはしなかった。



こちらを見てにっこり微笑んだ男性は、どう見ても下級文官の服を着ているので、何やらお忍び中だったに違いない王様だったが、ネアが、あの靴音が聞こえなくなったと背後を気にしていると、こちらに来ないように人払いは済ませてあるよと微笑むくらいには、この土地で大きな力を有する人なのだ。


すぐさま擬態をしたのに、この乙女がウィームの歌乞いだと気付いていて、擬態をしていても高位の精霊であることは隠さないミカと対応に交渉している。



(……………そして、王妃様一派は、…………言葉を交わさず、……………恐らく、何かの合図や魔術のようなものを介して、この人からこちらに近付くなと言われても従うのだわ……………)



そんな失礼なことを考えているネアをじっと見つめ、少しだけ眉を下げたヴェルクレア王は、出会ったばかりの頃のグラストくらいの年恰好に見える。


だが、もっと年上である筈なので、可動域が高く、あまり歳を重ねて見えないのだろう。



「私にそう告げることで、エーダリアの為の盾にもなるか。…………つくづく、二番目の息子は、得難い守り手を得たようだ。ウィームの子供らしく、誰かが、守り手を呼ぶまじないでもしたのかな」

「あなたは、……」

「私に、エーダリアを愛しているかとは尋ねない方がいいだろう。また、王でいることが幸せかどうかも、尋ねないでくれ。……………君は、どうやら私の古い友人に似ているようだ。そういう、答え難い問いかけを突然正面から投げつけてくる手合いに違いない」



そう微笑んだ王様は、ミカを恐れてみせたくせに、少しも怖がっているようにはみえなかった。


不思議な事に、あれだけ扱いに苦慮しているという正妃すら容易く動かしてみせ、こんな悪夢が渦巻く夜に、質素な服を着て、きっと特殊な造りに違いない王宮を一人で歩いていて、魔物達の気配に慣れたネアですら恐ろしいと思った人ならざる者と、いとも容易く交渉してみせた。



(……………思っていた人とは、随分違うのだわ)



有体に言えば、ネアはとても驚いていた。


これがこの国の王なのだなと思い、こちらが出口だよと背を向けて歩き始めた男性の背中を見ている。


ふさふさとした髪の毛は淡い金糸の色だが、色合いの擬態をかけているようだ。

青い瞳の色も色味を変えてあるのか、違和感がないのに別人も装えるように工夫されている。


背は高く、ヴェンツェルと近しい体型なのだろう。

だが、威圧感という意味では、どこか飄々とした軽やかな印象を与える男性だ。



「ここを出る前に、この人間には、何か贈答品などを与えておいた方がいい」

「……………繋ぎや貸しが残らないよう、すっぱり切っておいた方がいいのですね?」

「ああ。海から入り込むものを警戒しているのだろうが、こんな仕掛けを作るだけの人間だ。………念の為に」

「はい。………そしてここは、王様が作った仕掛けなのです?」



それが驚きで目を瞬くと、僅かに振り返って微笑んだのは、王様その人であった。

どこか得意げな目をされ、ネアはむぐぐっと、ミカの影に隠れる。



「そうだよ。ここは、古い古い魔術の狩りの仕掛けを模して、ここではないどこかから、想定外の扉が開き迷い込んだものだけがかかるように作られている。こちらにあるものを拾ったか、橋を渡るか、流れる水を跨ぐかした筈だ」

「……………自分の持ち物を、こちらに落とし、それを拾った事も鍵となるでしょうか?」

「うーん、その範疇で呼び込まれるのは珍しいのだが、元々呼ばれていたのか、何か繋ぎのある相手がいたのであればそういうこともあるだろう。……………ああ、統括の魔物は、今暫くこちらで足止めだな。息子を篭絡しようとした得体の知れない連中を渋々引き取ってくれたので、後で、丁重にもてなしておかねばなるまい。……………その様子だと、君は、そうして統括の魔物を脅かした森蛾達に呼び寄せられたのかもしれないな」

「森蛾……………という生き物なのですね」



ミカは、ネアが情報を得る為に、敢えて言葉を挟まずにいてくれるのだろう。


なのでネアは、それが、満月の日にだけ現れる海の底のあわいに暮らすここではないどこかの面倒な生き物で、十三人の姉妹たちで常に行動し、気に入った男性に毒杯を差し出し、難解な問いかけを与える生き物だと知る。



頭が良くてなかなか手に入らない獲物がいると、その獲物の家族や恋人、主人や恩師などを呼び寄せてしまい、どうにかして獲物の心を揺さぶろうとする事もあるそうだ。


王様は、だからこそ統括の魔物は、第一王子にかけられたその罠を自分が引き取ったのだろうと教えてくれた。


王子を壊す為に呼び出されるのは、損なわれるとこの国の安全を脅かすような者達。

火竜の祝いの子か、或いはこの国の王や、可愛がっている弟王子かもしれないのだから。



(であれば、あの瞬間の私は、……………そんな森蛾達のせいで、ここに繋がってしまっていのだろうか。ディノがいたので完全には呼び込まれていなかったのに、落としたブラシを拾おうとしたせいで、最終的にはこの建物の仕掛けに巻き込まれるようにして呼び寄せられてしまったのだとしたら……)



似たような事をあの女性も話していたので、彼女がここにいたことも原因なのかもしれない。

実現する悪夢のせいで繋がりやすく、尚且つ、既に誰かが開いていた扉に吸い込まれたようなものだとしたら。



そして、この長い長い廊下を歩く時間、ネアは、ミカが、手を腕にかけさせてくれるエスコート式の補助を許してくれたことに感謝していた。


思いがけないことが続いたせいか、膝に思うように力が入らない。

転ばないように歩くのに、人間が一人ぶら下がった程度ではびくともしない高位精霊のエスコートは有難かった。



(でもまさか、……………こんな形で、王都に来る羽目になるなんて)



そう考え、未だにざわつく胸を何とか鎮め、大事な魔物や家族はどれだけ驚いただろうかと考える。

ミカをこちらに届けてくれたのはディノのようなので、すぐさまカードを開かずとも、きっと大丈夫だろう。


この王の前では、出来るだけ手札を伏せておきたい。



(まさか、こんな形でエーダリア様のお父様に出会うだなんて……………)



そんな感慨が心を傾けないよう、ネアは、小さな諦観と共に、ただの王様の声でその名前を口にしたヴェルクレア王に、身勝手な期待も失望も向けないようにした。



多分、この人は王様なのだ。

かつてのネアハーレイが怪物になったように、なるべくして何かになった異端な人間なのだろう。

王が全てそうではないのだと思う。

多分、この人物が特異な有り様を選んだのだ。



(一目見て、………この人がとても異質なものだと感じた。孤独ではないけれど、皆と同じようなコートは羽織らなかった人なのだわ)



そんな事を考えていると、ようやく、外に繋がっていると思われる大きな扉が見えてきた。


若干、この悪夢の中、現場の指揮を執っている筈の王様がこんなことをしていて、どこかでとんでもない騒ぎが起きていないだろうかと心配になってくるが、あまり深く考えないようにしよう。



(そして、何かお礼の品物を渡してしまい、今後に縁を残さないようにした方がいいのだわ……………)



そう考えながら近付いてくる扉を見ていると、そう言えばと呑気な切り出しで振り返ったヴェルクレア王が、とんでもない事を言い出した。



「何か、魔術の繋ぎを切るための贈答品などを考えているのだろう。であれば、紅茶を一杯淹れて貰おうかな」

「……………たいへん面倒な要望がありました」

「それは受けられない。彼女は、高位の魔物の伴侶だ。食事や飲料を振舞う作法が、魔術的にどんな意味を持つのかを知らない筈もない」


すぐさまそう答えてくれたのはミカで、ネアがほっとしたのも束の間、ヴェルクレア国王は、なぜかぽんと手を打つ。


「よし、では彼女が淹れた紅茶を買おう。それでいいだろう。或いは、あなたが魔術の繋ぎをこれでもかと切ってくれればいい」

「……………なぜ、そうまでして、彼女に紅茶を淹れて貰いたがるんだ」



その尤もな質問に、こちらを見た王様は酷く穏やかな目で微笑んだ。



「先程、少しばかり触れたが、彼女は、私のもう二度と会えない兄弟子に似ていてね。感傷的な気持ちになったのさ。そんな思いを噛み締める贅沢こそ、王宮に迷い込んだ者を咎めず解き放つ善行に相応しい。………そして、最近あまり顔を出さなくなった知り合いの魔物や、そろそろ引退をちらつかせ始めた騎士団長に自慢する為だ!!」

「……………おかしいです。なぜ私は、色々なところで復讐の道具とされるのでしょう……………」

「紅茶を一杯淹れてくれるだけでいい。牛乳と、砂糖をたっぷりと入れて。そうしてくれなければ、……………そうだな、私はここで泣き喚く」

「……………泣き喚く」



あんまりな脅しにさすがのミカも唖然としてしまい、ネアは、ぎりりと眉を寄せた。


ちょっぴり頑固そうな目をした王様を昏倒させてこの場から逃げ出すべきかどうかは、ミカの背中の影を借りて、伴侶な魔物にお伺いを立てた方が良さそうだ。
















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