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悪夢とミルクティー 1



ひたひたとぷん。

小さな闇がカップの中に満ちて、渦巻くように踊る夢を見た。

はっと息を呑み目を覚ますと、窓の外は同じ色の闇に満ちている。


ネアは慌てて体を起こそうとしたものの、気持ちばかりが焦ってしまい、むがむがと毛布に絡んでしまう。

そのままじたばたしていると、そっと差し伸べられた手が、優しく抱き起してくれた。



「……………ディノ」


暗闇の中で見上げた魔物は、薄く光を宿すような鮮やかな色に染まっている。

真珠色の髪は、新月の夜もぼうっと光る雪明りのようで、内側から光を透かしたような澄明な水紺色の瞳は、そのまま引き込まれそうな美しさだ。


けれどもそれは、ネア達がいる寝室がどれだけ暗いかを示していて、ふるりと震えた心に大事な伴侶の体温がじわりと沁み込むよう。

いつもとは違う何かが起きているのは、まず間違いなかった。



「安心していいよ。気象性の悪夢だね。……………君が眠ってから、ウィームに警報が出たんだ。起こしてあげたかったのだけれど、……………昨日は薔薇蜜の酒を飲んでいただろう?」

「……………むぐ。ぐっすり眠り過ぎていて、私が起きなかったのですね?……………っ、エーダリア様は?!」

「ヒルドから連絡があった。エーダリアも、……………眠そうではあるが起きているらしい。起きてしまえば、酔い覚ましを飲めるので大丈夫だろう。ノアベルトは、ヒルドが抱いているそうだ」

「……………という事は、狐さんなのでは」

「……………うん」



昨晩一緒にお酒をいただいた家族もひとまずは無事だと知り、ネアは胸を撫で下ろした。

今日はお休みだからと、エーダリアも珍しくしっかり飲んでいたのだ。

その夜の内に気象性の悪夢が発生するなど、不運でしかない。


気象性の悪夢は、この時期になるとウィームを訪れ始める魔術異変だ。


よく、闇が落ちて来るという表現が取られるが、まさしくそのように周囲が闇に包まれてしまう。

大抵の場合は事前に予測が出ているものだが、今回は、予期せぬ急成長で警報級の悪夢になったらしい。

遮蔽空間に籠ってやり過ごすのが一番の策で、それをせずに悪夢に触れると、実現する悪夢に取り込まれてしまう。



「以前の、ムゲの悪夢の時のような事が起こったのでしょうか?」

「いや、今回は気象条件なのだそうだ。昨日は例外的に暖かく、昨晩からぐっと冷えただろう?小さな悪夢が成長し易い環境が調ってしまい、ちょうどそこに悪夢の発生があったらしい」

「まぁ。……………そのようなことでも、これだけの規模になってしまうのですね」

「そうだね。加えて、風の強い夜には悪夢が広がり易いのだそうだ。つむじ風の妖精がウィームを通り抜けたせいで、風の道が残っていたのだろう」

「おのれ、ハンカチ泥棒め……………」


昨日は、小さな騒動があった。


たまたま、リーエンベルクの中庭で銀狐とボール遊びをしていたエーダリアから、上空を通り抜けたつむじ風の妖精王がハンカチを盗む事件があったのだ。

つむじ風の妖精王はびゅおんと飛び去ってしまい、慌てて魔物姿に戻ったノアがその証跡を魔術で繋いでくれたので、ネア達とヒルドとで、奪われたハンカチを取り戻しに行ってきた。


持ち去られたのがエーダリアの私物なのでひやりとしたが、つむじ風の妖精王は、狐姿の時の塩の魔物くらいの生き物なので、悪意あっての略奪というよりは、ひらひらしているものが見えたので持っていってしまったというくらいなのだとか。


謝罪の品として国宝級の精霊宝石を貰い、休日前の思いがけない事件の解決を祝って、晩餐の時に珍しいお酒を開けたのが昨晩である。

そしてその結果、ネアはこの時間まですやすやと眠りこけていたらしい。



「ネア……………?」

「…………ふにゅ。眠ったままでいたせいで、ディノに負担をかけていませんか?」


大事な時にお酒を飲んで眠っていたという失態に、ネアはへにゃりと眉を下げた。

ふわりと微笑みを深めた魔物が、すぐに優しく抱き締めてくれる。


「あの酒は、とても美味しかったのだろう?君はずっと私の隣にいたから、余計に負担がかかるようなこともなかったよ。もう少し眠っていても良かったくらいだけれど、……………今回の悪夢は冷えるからね。それで目が覚めてしまったのだろう」

「温かなお酒に、とろりとした薔薇蜜を入れて飲むのが初めてで、ついつい夢中になって四杯も飲んでしまいました。飲みやすいお酒なのですが、強いものだと聞いていたのです」


だが、こうして目が覚めたのなら、せめて着替えは済ませておこう。

ネアは、髪を下ろしたままのディノを見上げ、まずはこの魔物を三つ編みにしてあげねばと頷いた。

だが、じっと見上げられた魔物は、何かを訴えていると思ったらしい。


「寒くないかい?コートを出してあげようか?」

「……………む。確かに少しひやっとしますね。首飾りの金庫の中に、厚手のニット地のドレスがありますので、まずはそちらを、この寝間着の上から着込んでしまいます」

「うん。暖かくしておいで。悪夢が落ちきったら部屋を暖めてあげるけれど、今回は満ち方が独特なので、少し時間がかかりそうなんだ」



そんな特異性もあるのだと目を瞠ると、ゆっくりと渦巻くように落ちて来る悪夢なのだと教えてくれる。

ネアは、夢の中で見たカップの中に渦巻く悪夢を思い出し、眠りの端でそんな気配を感じたのだろうかと頷いた。


(ディノの髪の毛をやってあげたいけれど、まずは上に何かを着てからにしよう。ここで気温差で体調を崩したりしたら、ディノを怖がらせてしまうだけだもの…………)



「……………そして、失敗したので着替えをし直しますね」

「失敗してしまったのかい?」

「はい。……………横着をして、この寝間着の上からニットドレスを着ればいいと思いましたが、袖の部分がぎゅっと詰まってしまい、もさもさごわごわになりました。……………やはり、アンダードレスに着替えてから、ドレスを着る必要がありそうです……………」

「ごわごわ……………」



やはり寝起きは判断能力が落ちるのか、時間短縮を見込んだせいで却って時間を無駄にしてしまい、ネアは、しょんぼりしながら寝台の上で着替えた。


こんな時に留意しておくべきことは、リーエンベルクの中だからと慢心せずに、現在いる輪の中から不用意に出ないようにすることなのだ。


例えばネア達の寝台には、天蓋があるので、そこも一つの輪の中と考えられる。

区切られた境界を排他結界で補強している可能性もあるので、必要がないのであれば、今はここで大人しくしているのが利口なのだ。



「アルテアから、君が部屋にいるかどうかの連絡が入っていたよ」

「……………酔っ払いでぐうぐう眠っていることが、既にばれています……………」

「薔薇蜜の酒は、幸福な眠りを齎す高価な嗜好品の一つだ。そのような意味では、悪夢の中でもこれ以上に安全な眠りはないと安心していたよ。今回のように特殊な悪夢の場合は、アルテアは少し忙しくなる。こちらには来られないかもしれないからね」

「……………まぁ。アルテアさんが忙しくなるような悪夢なのですか?」

「うん。このような悪夢の事を、水鉢の悪夢と言うのだけれど…」



ゆっくりと渦巻いて落ちて来る悪夢のことを、水鉢の悪夢と言うのだそうだ。

水鉢に注ぎ入れた水が渦を巻く様に似ているから命名されたようで、ウィームでは、何年かに一度は現れる程度の特別に珍しいとは言えない程の悪夢なのだとか。


悪夢が水鉢になるのは様々な気象条件などが重なり偶然起こる現象で、ハイダットの悪夢が渦巻くと、外周にある集落や小さな村などは消し飛んでしまうこともある。



「ほわ、……………消し飛ぶのですね……………」

「遮蔽を壊してしまうばかりではなく、実際に、悪夢の定着の際に強風が吹き荒れるんだ。気象性の悪夢に加えて、小さな嵐が起こることを想像して御覧」

「むぐぐ…………とても厄介に違いありません。……………まさか、今回も……………」

「今回、ウィームでは、ヴェルリアとの境界域がその外周に該当する」

「……………大きくありません?」

「悪夢そのもののが中央で動き、その外側で一番風が強まる部分を外周と呼ぶんだ。悪夢そのものの輪郭ではないので、出来上がる風の渦によって大きさが変わる。今回のものは、元々風の道が出来ていたのでかなり大きいね」


その説明に、ネアは頭の中に風の流れを思い描いた。

悪夢そのものの輪郭沿いが荒天になるのではなく、渦巻く悪夢が作り上げた風の渦が、外周と呼ばれる領域にあたるようだ。


「お、おのれつむじ風め!」

「最も深刻な被害が出るのは、ヴェルリアとガーウィンだろう。本来であればあまり望ましくない状況なのだけれど、今回は大陸全土に同じような気象の変化が現れたから、隣国などが欲を出すこともないのが幸いだね」

「……………だからこそ、アルテアさんが忙しくなるのですね?」

「うん。統括の魔物としての役割が増えるからね」



(……………こんな事は、そうそう起こる異変なのだろうか)



そう考えてしまったネアがぶるりと身震いしていると、ディノが、その不安を見透かしたように、何か特別な問題があって起こるものではないのだと重ねて説明してくれた。


勿論、魔術的な異変にはそれぞれの理由があるのだが、今回は、気象条件が揃い過ぎたという一言に尽きるらしい。


「なので、各地の悪夢の発生には各々の理由があるにせよ、その全てが水鉢の悪夢になってしまったのは、大陸全土の気象条件がたまたま揃ってしまったからと言うしかないんだ。……………偶然という表現は適切ではないのだとしたら、……………悪意や作為のない重複という感じかな」

「それを聞いて、すっかり安心してしまいました!てっきり、今年は漂流物などもあるので何か特別なのかなと考えてしまっていましたから……………」

「うん。そう考えてしまうと怖いだろう。そちらの影響もいずれ出て来るとは思うけれど、今回は関係がないから安心していていいよ」



ここで、寝台の横に置かれた台の上の魔術通信板が、じりりと音を立てた。

どうやらディノがこちらに運んでくれたらしく、騎士棟の様子などが気掛かりだったネアはほっとする。

連絡はヒルドからで、今、リーエンベルク内の見回りを終え、遮蔽漏れなどがないことを確認し終えたところなのだそうだ。


(となると、ヒルドさんは執務室を離れて、この建物の中を見回ってくれていたのだわ……………)


見回りに出ていた騎士達は呼び戻され、休暇などでリーエンベルクを離れていた騎士達とも連絡が取れ、その場の待機を命じてあるという。

帰還が間に合うだろうと思われる者がいても、その道中でどんな問題が起こるかは分からないので、このような場合は、可能な限りその場に留まるように命じるのだそうだ。



「確か今夜は、グラストさんとゼノが、お屋敷に戻られていたのですよね?」

「そちらは、屋敷に留まるように言ったそうだ。僅かな距離の差だけれど、リーエンベルクよりも外周に近くなるからね。そちらの状況を共有出来るのも、一つの益となる」

「確かに、各地の情報を得られれば、ウィーム領としての対策にも厚みが出そうです」

「それと、リーエンベルクに二名の外部者を受け入れているよ。たまたま近くにいたそうで、グレアムから、リーエンベルクで引き取れないかと連絡が入ったんだ」

「……………むむ。帰宅困難者さんです?」

「と言うより、ゼノーシュの不在と、アルテアがこちらに来られないことを危惧したグレアムが、彼等をそれぞれの領域に帰らせるより、リーエンベルクに滞在させることにしたのだろう」



今回の水鉢の悪夢は、カルウィでも発生している。

当然だが、そちらの統括であるグレアムが、ウィームに留まり様子を見る事は出来なくなるだろう。

それは、悪夢の影響を受ける土地に暮らしていたり、そのような場所の管理をしなければならない他の人外者達も同様で、例えば、もう一人誰かの手を借りたいとなっても、ヨシュアに助力を請うということは難しくなる。


よって、こんな日に自分の予定を優先させられる者達は、気象性の悪夢の影響を受けない場所に、国や棲み処を持つ者達なのだ。



「ふむふむ。であれば、妖精さんでしょうか?妖精さんの国がありますものね」

「ミカとベージだよ。グレアムを交えて、今夜は、ウィームで久し振りに晩餐を共にしていたらしい」

「……………まぁ。あのお二人が、こちらにいてくれるのですね」



言われてみれば確かに、精霊には精霊の国があり、統一戦争を機に人間達との共存を解消してしまった氷竜も、人間の生活域とは違う層にその国を持っている。

特に氷竜などは、ついつい同じウィーム住まいだと安易に考えてしまいがちだが、彼等の暮らす国は、人間が簡単に踏み入る事の出来ない隔離地の中にあるのだ。


思いがけない高位のお客を迎え入れてしまったエーダリアは、とても緊張していたそうだが、幸いにも、ミカとは初対面ではないし、ベージとも交流がある。



「それを聞けば安心するばかりなのですが、グレアムさんが、いざという時のことを考え、お二人をこちらに滞在させてくれるだけの懸念もあるのでしょうか?」


ネアの問いかけに僅かに目を細め、ディノが浅く頷いた。

ああ、やはりそうなのかと指先を軽く握り込んでしまったネアは、どこかでばおんと大きな音が聞こえ、びゃんと飛び上がってしまう。


「風が強まってきたようだね。本当は、真夜中の座の領域にある内に、もう少し悪夢に落ちていて欲しかったのだけれど、こちらは、渦の最後の方にあたるらしい。悪夢が完全に落ちきるのは、夜明けになるだろう」

「ふぁ…………。急に風が強くなってきました。窓が、風でがたがたしています……………」

「水鉢の悪夢は、悪夢が地面に触れ始めた瞬間から、強い嵐のような反応が出るんだ。リーエンベルクの周辺は様々な魔術が敷かれているから、グレアムは、それを壊されてしまわないようあの二人に手を貸してくれるよう頼んでくれたのだろう」

「そうだったのですね。……………びゃむ!」



どおんと激しい音がして、続けて、地鳴りのようなごごごという音が聞こえた。

寝台ががたんと揺れたような気がしてネアは動転してしまったが、あまりにも大きな音だったので、その振動が胸に響いたのかもしれない。



余談だが、ネアは、体に響くような鈍く大きな打撃音などがとても苦手である。


ネアハーレイが一人ぼっちで生きていた頃、そのような音や振動は、度々、心臓の持病を悪化させた。

誰かにとっては些細な仕草で、会話の折りに興奮してどんどんとテーブルを叩くだけのことでも、その音を振動として感じる距離にいるネアハーレイにとっては、発作を引き起こしかねない恐ろしいものだったのだ。



「大丈夫かい?……………おいで」

「……………ふぇぐ。昔苦手だった系統の音でしたので、びっくりしてしまいました」

「うん。では、こうしていようか」


それまでは肩を寄せてぴったり寄り添っていたのだが、ディノの腕の中に収めて貰い、背後から羽織もの兼、背もたれになって貰うような姿勢に落ち着くと、ネアは、ほうっと息を吐いた。


風は強まる一方で、庭園の草花や、木々などが心配で堪らなくなる。

ぎゅっと体を縮こまらせて、そんな被害ですら見たくないと思う強欲な人間は、まるで呑み込まれるように激しくなってゆく窓の向こうの嵐の音を聞いていた。



「……………真夜中の内にこうなっていれば、ミカさんが対処出来たのですか?」

「真夜中の座の資質には、安息や静謐もあるからね。……………今も、随分と抑えてくれてはいるけれど、時間の座としては黎明に傾いてしまっているので、そちらの資質に零れた風がどうしても逃げてしまうんだ」

「これでも抑えてくれているとなれば、そのままの風が吹き荒れてしまえば、お庭の薔薇の茂みや、大事なブルーベリーの木が吹き飛んでしまったかもしれません……………」

「そちらは、ヒルドの魔術を借りて、私が覆いをかけているよ。花枝が折れてしまったり、君の大事なブルーベリーがなくなってしまったら困るからね」

「……………ほわ」


びっくりして見上げた先で、魔物の目をしたディノが深く深く微笑む。

ああ、そんな風に力を切り出してくれているからこんなにも人ならざるものらしい姿なのだと得心し、ネアは、優しい伴侶が大事なものを守ってくれていることに心から感謝した。


いつかの荒天時に、楽しみにしていた薔薇の枝が折れてしまったとき、ネアはとても落ち込んだのだ。


ディノはきっと、その時のことを覚えていてくれたのだろう。

ここには、リーエンベルクの固有種や、ヒルドと育てていたブルーベリーもそうだが、山猫の紫陽花のように大事な思い出のある植物も多い。


(でも、その全てをこの場から守っているというのは、どれだけのことなのだろう……………)



「ディノ、有難うございます」

「うん。君が大事にしているものばかりだからね。それに、家というものは大事なものなのだろう?」

「ふぁい。ですが、ディノが一番大事なので、もし負担があったら言って下さいね?」

「……………ずるい」


ここで、がたがたごうごうという音に、ぎゃおるるという獣の叫び声のような音が混ざった。

小さな声で、疫病が混ざっているねと呟いたディノに、ネアはぎくりとする。


「このような風が吹くと、より清廉な魔術の気配のある場所に、疫病の種などが舞い込んできてしまう事がある。今のはその音だろう。……………でも、今のものはそのまま風に飛ばされてしまったようだけれどね」

「……………なぬ。ゆるすまじです」

「うん。だからグレアムは、ベージをこちらに滞在させてくれたのだと思うよ。彼はそのような気配に敏感だから、悪夢が落ち着いたところで、ゼベル達とリーエンベルクの中を見回ってくれるらしい」

「グレアムさんは、そうして、必要となることを見越した上で、ご友人にお願いしてくれたのですね……………」

「彼ら自身も、それを望んだのだろう。……………君の周囲には様々な要素があるけれど、それでもと思うのは、このような時だね」

「まぁ。もう竜さんは狩ってしまったりはしませんよ?」


ネアがそう言えば、ディノはどこか神妙な面持ちで髪の毛を持たせてきたが、ネアは、沢山のものを守ってくれている伴侶の為にも、一筋の髪の毛をしっかりと握ってやった。

もっと早くに起きていれば、悪夢がこんなに激しさを増す前に、三つ編みにしてやれたのに。


「ダナエがいれば、一番良かったのだけれどね」

「春の竜さんで、闇の属性もあるからです?」

「うん。とは言え、連絡を取って招いているだけの時間はなかったから、今回は、今ここにある要素でどうにか凌いでしまおう」

「はい。私にも出来る事があれば、何でも言って下さいね!」

「……………少し落ち着いたら、三つ編みにする」

「ふふ。では、髪の毛を梳かして三つ編みにしましょうね」

「ご主人様!」



窓の外は真っ暗なままであったが、部屋の中にある時計を見ると、夜明けが近いようだ。

ごうごうとうねる風の音の向こうに、ゴーンと響いた鐘の音が遠くから聞こえた気がしたが、それは果たして、実際に聞こえるべき音なのだろうか。



「ディノ、……………鐘の音が聞こえました」

「私にも聞こえたから、大丈夫だろう。何か耳に残る音があれば、都度教えてくれるかい?」

「はい。……………むむ、誰かが扉をノックするような音です」

「……………聞こえるね」



二人は顔を見合わせ、少しの困惑を覚えながら扉の方に行ってみる事にした。

寝台を降りるのは不安であったが、途中で鏡台の前を通って貰い、ブラシとリボンを回収しておく。

ネアはディノに持ち上げて貰い一緒に扉に向かったが、やはり、こつこつというノックの音が聞こえてきた。



(……………これは、開けてもいいものなのだろうか)


ひやりとするような不安に、どうしても体を強張らせてしまう。

だが、ノックの音が何回か続くと、ディノの表情がふわりと緩んだ。



「……………おや。クルフェダのノックの合図だね。ノアベルトのようだ。開けるよ」

「むむ……………?」


ネア達の部屋の扉は、一種の遮蔽の境界にあたる。

なので今回は、廊下から直接繋がる扉のある小さな部屋と、続き間の間の扉もきちんと閉めておいた。

もし、この扉を開いた事で悪夢の侵入があったとしても、生活する部屋には持ち込まない工夫なのだ。


ディノが片手を取っ手にかけ、かちゃりと扉を開く。

小さな部屋とは違い、両開きの扉だが、片側は留め金で固定してあるので、こちら側だけを開けるようにしてあった。



「……………良かった。僕の合図に気付いてくれたみたいだ」


そこに立っていたのは、昨晩まで一緒にお酒を飲んでいた義兄の魔物である。

にっこり微笑んではいるが、悪夢の色相のせいか、瞳の色がやけに鮮やかに見える。


「ふにゅ……………本物の、ノアです?」

「ありゃ。疑われてるぞ……………」


立っていたのはノアだけではなく、エーダリアとヒルドもいるではないか。

三人は素早く部屋の中に入り、ディノもすぐに扉を閉めた。

その途端、ノアが何かを胸の前で解くような仕草をし、するりと光を孕んだヴェールのようなものが落ちていった。


「よいしょ。これで覆って隔離していたから、遮蔽は崩してないよ」

「……………うん。そのようだね。……………どうしてこちらに来たんだい?」

「ミカからさ、リーエンベルクの中央棟に敷かれた魔術を守るにあたって、僕達があちらに居ない方がいいって話があったんだ。僕もそうだけど、エーダリアとヒルドもそれなりの魔術階位だし、全員、真夜中以外の系譜の魔術も複雑に所持しているからね。そちらを空けておいた方が、少ない労力でリーエンベルクを守れるらしいよ」

「……………そうか。あちらの棟を中心に置いて結ぶ魔術が多かったね」

「うん。そういうこと!だから、一刻くらいの間は、ミカの守護を邪魔しないようにして、この部屋に避難させて貰おうと思って」


そう言ったノアに頷いたネアは、避難を受け入れ魔術の調整を図らねばならないだけの状態にはあるのだが、それでも、家族の顔を見たことで安堵感でいっぱいになってしまう。

だが、ここでただのんびりしていればそれでいいという訳でもなく、エーダリア達は、ここから騎士棟とも連携を取り、悪夢の落ちてくる中での身動きの取れない時間とは言え、問題があればその対処の指揮を執る必要があるのだ。



「こちらの部屋でもいいけど、シル的には、寝室の方がいいかい?」

「そうだね。窓側になるけれど、君達が座れる場所もあるし、一部屋に集まるのなら、あの部屋が一番安全かな」

「……………す、すまない」



迎え入れるのが寝室だと聞くと、エーダリアはおろおろしてしまったが、既に起きて着替えなども済ませていたので、寝台は綺麗に整えてあった。


また、ネア達の寝室にはテーブルセットもある。

二人掛けの長椅子が向かい合わせで二脚設置されているので、少し手狭とは言え、エーダリア達が執務をすることも充分に可能だろう。


数ある部屋の中で一番守りが頑強なのは、やはり、最も無防備な時間を過ごす寝室だからなのだそうだ。

同じような理由から浴室も安全だが、そちらに集まって時間を潰すのは現実的ではない。



「お外だと、浴室などに入る時にはとても警戒する印象でしたが、ここでは安全なのですね……………」

「他の部屋よりも手をかけているからね。ただ、入浴をするとなる際には、少し警戒を深める必要があるだろう。でも、これまでにも魔術の守護を蓄積しているから、今の段階では比較的安全を維持し易い場所の一つかな。…………行ってくるかい?」

「……………むぐ」



図らずも、全員の注目を集めてしまう悲しい状況で、ネアは、渋々だがトイレなどに行かせて貰う事にした。


全員が部屋に落ち着いてしまってから動くよりも、立っている間に済ませて貰った方がいい。

とは言え、この状況で顔を洗うのは遠慮しておき、獲物などを触った時用で金庫内に常備のあるほかほか濡れタオルで顔を拭き、ささっとクリームなどを塗り込んでおいた。


可憐な乙女という立ち位置なので、少しの気恥ずかしさを抱えて寝室に戻ると、部屋に備えつけのポットなどが既に寝室に移されており、ほかほかと湯気を立てるミルクティーが振舞われたところであった。



「さてと、何かつまむかい?」

「……………む。おやつも持ってきてくれたのですか?」

「一応は、悪夢の定着にかかる時間が読めないから、朝食の準備もあるよ」

「その言葉で気になったのですが、ミカさんとベージさんは、どちらにいらっしゃるのでしょう?」


力を貸してくれている二人をおざなりにしているようで、ネアは少しだけ心配だった。

この部屋に招いた方が良ければ声をかけようかと思ったのだが、その心配はないらしい。


「あのお二人には、客間をお使いいただいております。状況などを話し合えるようにしたいということでしたので、お二人一緒の部屋としましたのでご安心下さい。先程、リーエンベルク内部を見回った際に、食事類の備えなどもお届けしておきました」

「ふぁ。良かったです。ヒルドさん、有難うございました」

「いえ。ネア様との交流があってこそ、こちらに滞在して下さった方々ですからね。今回のような状況では助かります」


そう言われ、二人に助力の依頼をしてくれたのはグレアムなのだと考えたネアは、それはつまり、ディノがここにいるからであり、ディノがここにいるのは自分の伴侶なのだからだと考え、ふんすと胸を張った。

勿論、二人とはお喋り出来る仲ではあるが、今回はあくまで、グレアムの友人としての訪問である。



「そう言えば、ノアは無事に目が覚めたのですね」

「そうそう。見回りに行く際に、エーダリアに付いているようにって、ヒルドが僕をぶんぶん揺さぶってさ……………。びっくりしたよね」

「まさか、あそこまで起きないとは思いませんでしたからね……………」

「でもまぁ、あそこで起こしてくれて良かったよ。水鉢の悪夢では、初回の遮蔽確認に一人で行くのは絶対に駄目なんだ。遮蔽は完全でも、強風で飛んできたものが窓を破る可能性だってあるんだからさ」



そう聞いてネアはぞっとしてしまったが、既にリーエンベルク内の見回りは済んでいるので、魔術の綻びのある部分はなかったそうだ。


もし、結界や戸締りに不手際があると、吹き込んだ風で何かがぶつかり、窓が割れて一気にその場の遮蔽が崩れるということもなくはないらしい。

なので、ただの気象性の悪夢だけで済まない今回のような場合は、最初の見回りばかりは、複数人で行い、不測の事態が起きた際に助け合えるようにするべきなのだとか。



「さてと、今回の被害だけれど……………、既に、あちこちで大きな被害が出ているみたいだね」

「あまり鮮明に見通せるとは言い難いけれど、ヴェルリアの方では小さな町が遮蔽を崩したようだ」

「わーお。シルは、ここからでもそこまで見えちゃうのか……………。そうそう。たまたま宴が開かれていて、騒いでいる内に悪夢の前兆を見逃して、遮蔽が間に合わなかった集落があったらしい。後は、ヴェルリアの港でも、大きな帆船が一つやられたらしいね」

「……………ああ。王都の中央港なので、それなりの被害が出るだろう。商船だと聞いているので、積み荷を降ろした後であればいいのだが……………」

「ガーウィンでも、既に、一つの村で壊滅的な被害が出ているそうです。風向きでは、ヴェルリアより不利な位置にありますからね……………」



次々と聞こえて来る被害の大きさに、ネアは、ざらりとした不安を噛み締め、ウィームの報告を待った。

しかし、そこで聞こえてきたのは、思ってもいなかった言葉である。



「……………ウィームで最も影響が出る土地なのだが、偶然だが、ジッタがいるらしい」

「……………ほわ。ジッタさんは、大丈夫なのですか?」

「ああ。友人の子供の結婚祝いがあったらしく、昨日の夕方から、友人達と共に滞在していたようだ。ネイアもその祝いに呼ばれているそうなので、招待客たちが主導して周辺の遮蔽などを行ったそうだ。……………その土地の備えとしては、何の不足もないと連絡が入っている」

「……………まぁ、ネイアさんまで呼ばれていたのですね。もはや、どのような方の結婚祝いなのかがとても気になってきました……………」



ネアはそこで、花嫁は、ウィーム中央市場のキノコ専門店のおかみさんの姪っ子なのだと聞いてしまい、もうそちらは何の問題ないのではという気持ちになった。

よく分からないが、集まったお客の質が相当に高いのは間違いないので、不測の事態にもすぐさま対応してくれそうだ。



ごうごうと音を立て、悪夢は未だに渦巻いている。

またどこかでどおんと聞こえた大きな音にびくりとしながらも、ネアは、先程よりは温かな安堵に身を委ね、大事な魔物の為にブラシを手にしたのだった。






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