夜の砂漠と砂の中の楽団
その夜は涼しい風が砂漠に吹いていて、どこからともなくはらはらと舞い落ちるのは白い林檎の花の花びらであった。
慣れない異国風の装束を身に纏い、ネアは、布を巻いて少しだけ重くなった頭を振る。
どこからともなくずっと聞こえているのは優雅なオーケストラの演奏なのだが、この夜の砂漠でそんな音楽が聞こえる筈もないのだった。
さりさりと、丘の上の砂が風に崩れてゆく。
ゆっくりと形の変化してゆく砂漠を眺め、なんて色だろうと呆然としていると、銀色の尾を引いて星が一つ流れ落ちていった。
艶やかな紫色の夜だ。
なぜにこんなに色鮮やかなのかと言えば、夜の系譜の妖精の慶事があったらしい。
夜の色が深い紫紺になったことで、満月に照らされた砂漠が艶やかな紫色に染まり、絵の中のような不思議で美しい砂をざりりと踏むクルツの蹄を見ている。
「ディノ、……………あの木です!」
「キュ!」
先程まで、少し離れた場所に敷物を敷いて遮蔽空間を設け、ネア達は、ウィリアムと夜食を楽しんでいた。
夜食と言っても香草塩だれの鶏肉とルッコラのサンドイッチという罪のないものだが、こんな美しい夜の砂漠で過ごす時間は格別だ。
ミントの葉を贅沢に使ったミントティーにはお砂糖をたっぷり入れ、少し甘くして飲むのがこちら流なので、それは踏襲せねばなるまい。
けれども近くにオアシスはないので、全てはリーエンベルクから持ち込んだものであった。
目を閉じて、また開く。
美しく不可思議な夜の向こうには、どこまでも続く砂丘と、真ん丸の月がある。
先程までネア達が砂漠のピクニックをしていた場所は、とっぷりと闇の中に沈んでいた。
まるで砂漠に現れた湖のようにも見えるが、月光が届かないだけなのだ。
(月の位置が変わったからと言われて、あの場所を離れたのだけれど、ここから見るとあんなにも暗いのだわ。砂漠の夜は、月影に入ると危険なのだとか…………)
何てことはない影の中に亡国のあわいなどが燻っていると、ただでさえ冷え込む砂漠が、突然氷点下に近い温度になったりすることがあるそうだ。
どこからともなく聞こえてくる音楽も危ういと聞いていたので、ネアは、まだ微かに聞こえてきている旋律に耳を澄ませ、そちらには近寄らないようにと心掛けた。
「ウィリアムさんは、大丈夫でしょうか……………」
「キュ」
「少しだけここで待っていて欲しいと言い残して、クルツを降りてどこかへ走っていってしまいましたので、何か良くないものが現れていないといいのですが。…………もし、困ったものがいたら、きりんさんで即刻抹殺なのですよ……………」
「キュ?!」
「折角、ディノが気付いてくれてこうして時間を作れたのですから、今日は素敵な夜でなければなりません。……………むぐ。あの塩だれ鶏肉は素晴らしく美味しかったので、また、こんな夜に一緒にサンドイッチを食べたいですね」
「キュ!」
さくさくざくり。
砂を踏みながら砂丘を登り、クルツが足踏みをした。
ここから先には行かないよという合図に、ネアは微笑みを深め、その首をそっと撫でてやる。
浮気をしているように感じてしまったのか、胸元に入れてある伴侶のちびこい三つ編みがへなへなになったが、今ばかりは体を預けている大事なクルツなので、たっぷりと労っておこう。
「……………ここからでも、充分に見えますね」
「キュ」
ウィリアムがクルツを降りたのは、この少し下のところだ。
今は少しだけ影になっているが、その影の中で、月光を浴びた小さな砂粒がきらきらと光っている。
さながら星空のような煌めきに、何か素敵なものが埋まっていそうにさえ見えた。
最初はそのまま大人しく待っているつもりであったが、風にはらはらと花びらが混ざるので、これは何だろうと興味を惹かれたのである。
とは言え、近付くと宜しくないものが潜んでいる可能性もあるので、ほんの少し見晴らしのいい場所にこうして上がり、そこから、砂丘の向こうがどうなっているのかを見てみようという魂胆だったのだ。
勿論、事前に伴侶なムグリスに確認を取り、胸元に設置したもふもふの伴侶が、この近くは安全であると頷いたからこそ、ネアはクルツの手綱を引っ張ってみたのだが、それでもクルツの訴えを無視してあの林檎の木に近付こうとは思わない。
多分、生き物のそれぞれには境界や領域があって、あの木の周囲は異質な場所に思えた。
「……………不思議ですねぇ」
「キュ!」
「こんなところに、林檎の木が生えているだなんて、物語の中の風景のようです」
かくして覗き見た砂丘の向こうには、どっしりとした、一本の林檎の木が生えていた。
何もない砂漠に一本だけ生えている林檎の木となれば、明らかに只事ではないぞという不審さしかない。
だが、ごつごつとした節だった枝は随分と古い木なのだなと思わせるひたむきさで、艶々とした緑の葉と真っ赤な林檎の色の組み合わせが、はっとするような美しさだ。
禍々しく感じたり、不穏な気配がある訳でもなく、どこか高貴な佇まいですらある。
この夜の紫に染まった砂漠が幻想的な美しさであるのなら、あの林檎の木は、瑞々しく生き生きとした、生命そのものの美しさのように見えた。
けれども、そんな林檎の木だってきっと、よく分からない人ならざる者側の何かなのだろう。
そう考えてきりりと頷いたネアは、砂丘のこちら側から、可憐な花を満開にし、同時に真っ赤な実を実らせた林檎の木を眺めるだけにしておいた。
「綺麗な林檎の木ですが、何もない砂漠に生えているのは気になるので、近付かないようにしますね」
「キュキュ!」
「クルツさんも心得ているのか、これ以上は上がろうとしませんね」
「キュ……………」
「あらあら、またしょんぼりなのですか?浮気ではないのですよ?」
「キュ……………」
(……………む)
そこに、ざくりと砂を踏む音が聞こえた。
はっとして振り返ると、息を呑む程に鮮やかな白い軍服のケープが紫紺の夜闇に揺れ、ざあっと満開のスリジエが散るように、漆黒のこの土地の装束に切り替わった。
どんな事情で、この少しの間にどこへ行っていたにせよ、擬態を解いて終焉の魔物として動いていたのだなと思い、ネアは僅かに眉を寄せる。
転移を踏んでこちらに戻ったようだが、擬態の漆黒の装束に戻る直前まで、剣の柄に手をかけていなかっただろうか。
少し低くなった砂丘の中腹に立ち、こちらを見上げたウィリアムがにっこりと微笑む。
「すまない。少し離れていたが、大丈夫だったか?」
「はい。ここで、砂丘の向こうにある林檎の木を見ていました。これ以上は近付かない方がいいと思ったので、眺めていただけなのですが、不思議ですねぇ」
ネアがそう言えば、ざりざりと砂を踏み近くまで来てくれたウィリアムが、あぶみに足をかけて素早くクルツに跨る。
ネアは先程の位置から体を動かしていなかったので、ウィリアムが元の位置に収まると、やっと背中を預けられて安心感にふぅと息を吐いた。
僅かな魔物らしい静謐な香りと、服を通して伝わる体温がある。
砂漠の夜は冷えるので、ネアの羽織っている装束も、たっぷりの羊毛を使ったぶ厚い織物なのだが、誰かの体温はやはり違うのだ。
そして、ウィリアムがふわりと跨ったにせよ、この、不安定な角度がついた砂の上での騎乗に難なく耐えたクルツの足腰も凄いではないか。
「ああ。埋葬の木だな。……………砂漠で亡くなった者の亡骸を持っていけない時に、埋葬の魔術を宿した林檎の苗床にして残してゆくことがある。林檎の系譜は残忍な者も多いので、そうすると、遺骸を荒らす生き物が少ないんだ。旅や移動の間に林檎の苗を持ち歩くのは手間がかかる。高貴な者の墓所なのだろう」
「まぁ。きっと人外者さんが関わっているのだとばかり思っていましたが、そのようなものあるのですね……………」
「砂漠で生きる者達の知恵だな。林檎の系譜は残忍で獰猛な事が多いが、仲間に対しては愛情深いと言われている。最悪、亡くなった者の魂がそちらに取られても、林檎を育んだ死者が苦しめられることはない」
ざざんと風に揺れ、砂漠の中で月の光を浴びている林檎の木を見つめた。
背後から抱き締めるようにして手綱を引き取ったウィリアムの声が、耳朶に触れる。
振り返ってその瞳を見上げるには、いささか近過ぎる距離だ。
また、残念ながらとても柔軟性に長けているとは言えないネアは、ここから振り返ろうとすると、腰がぽきんと折れてしまう可能性があるので最初から挑まない事にした。
ただ、ぽふんとウィリアムの胸に背中を預け、身を委ねてしまうのがいいだろう。
僅かに感じた、香草と冬の日の朝のような香りは、既に消え去っていた。
「お仕事が入ってしまったのですか?」
「ああ、いや、そうではないから安心してくれ。……………少し面倒な資質の精霊の気配が近くにあったので、こちらには近寄らないように話をしてきたんだ。どうやら、インクの材料を狩りに来ていただけのようで、俺が、砂竜の首を落としたらすぐに帰ってくれた」
「まぁ。砂竜さんは、インクになるのです?」
「ああ。鬣や鱗を煮出して作るインクは、黄土色なんだが、夜にだけ黄金の光を帯びるインクが出来る。だが、水気の多い土地では使えないそうだ」
「むぅ。べっとりしてしまうのでしょうか……………」
「キュ……………」
ふうっと息を吐く静かな音。
僅かに吐息が白くなり、けれども魔術の層に守られているので、凍えてしまうことはない。
その外側はもっと寒いに違いないのだが、この辺りの砂漠には、雪は降らないのだ。
じんわり肌に染み入る体温と、すっぽりと腕の中に収められた安堵感。
その感覚は、上手く言えないが、伴侶であるディノや義兄のノア、使い魔であるアルテアともまた違う。
力強く災いを祓うような、頼もしい庇護者を得たような不思議な穏やかさである。
「…………ネア。……………今夜は、わざわざ俺を訪ねてくれたんだろう?」
「む。…………美味しいお夜食を手に入れたので、ウィリアムさんと食べたいと思いました?」
「それだけか?」
「……………むぐ。ディノが、ウィリアムさんが、アルテアさんとの魔術の繋ぎの件で、ウィリアムさんが少しだけ悩んでいるかもしれないと教えてくれたのです。でもこれは秘密なので、内緒にしておいて下さいね」
ネアがそう言えば、背後でふっと微笑みが深まる気配がした。
胸元のムグリスディノはけばけばになっていて、三つ編みがびゃいんと逆立っている。
だが、気遣ったということを隠すより、あなたが心配だったのだと言った方ががいいこともあるので、ネアは白状してしまうことにした。
「…………もし、今回のことを提案した俺の懸念や手配が、負担だったなら……………。それでも俺は魔物で、終焉を司る者だからな。備えを引き下げるつもりはないが、……………すまなかった」
静かな声だ。
しんしんと深まる砂漠の夜に落ち、紫紺の夜空に玲瓏と輝く月の光の中に響く。
「むぅ。この位置からだとウィリアムさんのお顔が見えませんが、私は、皆さんが必要だと思ったものは、貪欲にいただく主義なのですよ?」
「だが、ネアは、シルハーン以外の指輪を増やすのは嫌だろう?今回の儀式が、あくまでもその体裁を借りるだけの魔術の繋ぎ方だが、……………俺はよく、人間の心を見誤るからな」
静かな声はどこか沈んでいたので、ネアは、手綱を持っているウィリアムの手に、そっと自分の手を重ねてみた。
「ウィリアムさんは、私が伴侶はディノだけだと決めているので、……………婚姻の形を模した儀式に強制的に参加させられたことで、不快感を覚えると思ったのですね?」
「……………そうだな。或いは、君を傷付けたかもしれないと思った。俺たちはどうしても魔術の輪郭を追うが、ネアが生まれ育った世界には、魔術がないことを失念していた。……………馴染みのない儀式でいきなり婚姻と言われたら、………驚いただろう?」
(……………あらあら)
珍しく、どこか力なく問われる声音に、ネアは、小さく微笑みを深める。
きっと後ろにいるウィリアムは、いつものように微笑んでいるのだろう。
だが、その眼差しは少し暗いに違いない。
「ええ、少しだけ驚きましたが、そうして必要なものを調えて貰い、臆病者の私はとても安心してしまいました。ただの婚姻だぞと言われたなら、怒り狂って脱走しましたが、そのような儀式なのだと言われたら、成る程と頷くばかりなのです」
「……………ということは、………その説明は、口下手な俺からではなく、グレアムに任せておいて良かったらしい」
ふっと声が和らぎ、ネアも微笑みを深める。
重ねた手が返され、ぎゅっと片手を握ってくれた。
手綱は片手で扱える派なのだなと思い、乗馬は両手運転派のネアは、少しだけ羨望に胸を焦がした。
「それに私は、大事な伴侶のしょんぼり具合が、なかなかによく分かるのです」
「……………ん?そうなのか…………?」
「ええ。お出かけの際のディノが、お留守番は少し寂しいという以外に、落ち込んでいる様子や、がっかりしている様子がなかったので、きっとあの儀式は、ディノにとっても問題のない範疇だと分かりましたから」
「キュ!」
「ああ。……………さすがに、シルハーンとの婚姻に影響が出るようなものであれば、俺も勧めはしない。……………と言うよりも、必要であっても手を伸ばす事が出来ないだろう。これは、決していい事ばかりとは言えないんだがな………」
「ふむふむ。蝕の時に、ダナエさんの中に入るのを皆さんが嫌がったように?」
「ああ。あくまでも俺はそうだということなのだが、それは、どうしても許容出来ないだろう。……………そのような頑固さが、魔物は狭量と言われる所以なんだろうが、………どうしてもな」
今夜のネアは、ディノから、ウィリアムが思い悩んでいるようだと聞き、夜食の入ったバスケットを持って、晩餐がまだなら一緒に過ごさないかとこの砂漠にやって来たのだ。
ウィリアムは幸いにも仕事中ではなく、一人でクルツに乗って夜の砂漠にいたらしい。
そう知ればもう、とても悩んでいる感じがしたので、ネアは強引に砂漠のピクニックに誘ってしまったのだった。
「怒っていませんし、悲しんでもいません。そして、ウィリアムさんのことは、嫌いになったりしないのですよ?」
「……………っ、……………ああ。………少し、刺激的な慰めだな」
「むむ……?」
そうだろうかと考えて首を傾げていると、背後からもたれかかるように、肩口に顔を埋められる。
髪を下ろしているばかりか頭に巻いた布を垂らしてもいるので、感じるのは重みと体温ばかりだが、ネアは、ここは凛々しく受け止めてみせると、ふんすと胸を張って背筋を伸ばした。
手綱を持った片手は、そのままネアを抱き寄せるように腹部に回されている。
そうして、落ちないようにしっかりと押さえて貰っているので、多少ウィリアムが羽織りものになっても、基本はそちらの体幹でクルツに乗っていられる。
「ウィリアムさんは、漂流物が来ても危険はないのですか?」
「ああ。そこまではな。……………それに、俺がネアと結んでいる騎士の誓いは、ネアの資質の守りも受けられるようになっている。もし効果があればだが、俺の場合は、使い魔としての契約だけのアルテアよりは、遥かに安全だったんだ」
「アルテアさんの、使い魔さんの契約だけでは、いざという時には色々と足りなかったのですね」
「ああ。君にとっても。彼にとっても。………俺が、蝕の時に備えを誤ったように、アルテアがそうならないとも限らない。…………ここからは、少し言い難いことでもあるが……」
「私がいることで、アルテアさんも、今迄のように回避出来ないかもしれないからなのですね?」
ネアがそう言ってしまうと、ウィリアムの体が小さく揺れた。
今度は悲し気に微笑んでいるうような気がして、ネアは、困った魔物であると眉を下げる。
「一人でいる頃のように、ある程度の損失を引き受けた上で、その部分を切り捨てるようなやり方は、もう好まなくなるだろう。………そう考えてのことだからな。どうか気に病まないでくれ」
「あら。もしかしたら皆さんの盾になれるかもしれない私なので、その指摘があったくらいでは、しょんぼりしてしまうことはないのですよ?」
ネアがそう言えば、体を離したウィリアムに、おもむろに抱え上げられた。
にゃぐっとなって慌てて足を引っ張り上げ、横乗りするような体勢になる。
跨りからの横乗りへの移行はなかなかに高度な技術が求められるので、いきなりの移行ではなく、事前に申請が欲しいところだ。
胸元のムグリスディノも、ぴゃっとなっている。
「……………だが、今夜は気を遣わせたな」
やっと顔を見て話を出来るようになったウィリアムは、いつものように穏やかに微笑んでいた。
白金の瞳は光を孕み、先程風に舞い散っていた林檎の花の花びらのよう。
そんな瞳を見上げ、ネアは、いつかの悪夢の中で、この魔物を押し倒してしまったときのことを思い出した。
(あの時に、これは踏み込み過ぎただろうかと考えたのは私で、でも、この先の為に引く事は出来ないと思った。多分、今回はウィリアムさんがそう考えてくれているのだろう。私としては、必要な事を教えてくれた方が嬉しいのだけれど、……………何か、過去にあったのかな…………)
そう考えて凝視していると、僅かに唇の端の微笑みを深め、ふわりと身を屈めたウィリアムが、おでこに口付けを一つ落としてくれる。
「む。祝福です……………」
「今は擬態をしているから、祝福は弱いが、その代わりに遠慮なく」
「ふふ。では、この砂漠の夜のお散歩も、安全ですね」
「キュ」
「あら、ディノもしてくれるのです?」
「キュキュ!」
「まぁ。二つも祝福があったら、悪いものが出てもずたぼろ出来てしまいますね?」
「キュ…………?」
伴侶が思わぬ残虐さを示したので、ムグリスディノは、祝福を重ねて良かっただろうかと首を傾げてしまった。
小さなもふもふが、ふるふるしながら首を傾げてしまう姿な愛くるしいしかないので、ネアは、胸をほこほこさせる。
毛皮の会の仲間でもあるウィリアムにも見せてあげようと顔を上げると、微笑んで頷いてくれた。
さりさり。
ざらり。
ゆっくり、ゆっくりと、夜の砂漠の中を歩いてゆく。
時折風に崩れる砂がざあっとどこへ吹き飛ばされてゆくが、風や砂が体に当たり不快になることはない。
きっと、排他結界である程度の遮蔽があるのだろう。
どこか遠くに、駱駝かクルツのような生き物の姿が見えた気がしたが、目を凝らすより先に消えてしまった。
砂丘を下りたのか、或いは夜の砂漠の幻だったのだろう。
「……………ずっと昔に、親しくしていた騎士の伴侶が、妖精に狙われたことがある。………その時に、もし、力を貸してくれる知り合いの妖精がいれば、婚姻を模した魔術で守護を繋ぎ、一時的に身を守ってはどうかと提案したことがあるんだ」
「むむ。そのような事が、あったのです?」
「ああ。問題の妖精からは逃げられたが、……………その騎士は、自分の友人の妖精と、婚姻を模した儀式……………その時は夏至祭の夜に行われる、妖精のダンスだったが……………を行った伴侶を、遠ざけるようになった」
そう教えてくれたウィリアムの微笑みは、少しだけ自嘲的でもあった。
もしやその出来事を、死でも終焉でもないものなのに自分の手で壊してしまったと、ずっと記憶の中の棘にしていたのだろうか。
「……………まぁ。その騎士さんは、きっと繊細な方だったのかもしれませんね。私は大雑把な方ですし、目的の為に手段は選ばない強欲な人間です。……………ですが、時折、善良であるあが故に融通が利かない方がいたりしますから」
「ああ。とても善良な男だった。仲のいい夫婦で、俺が良かれと思って与えた助言で破綻した。……………その時に、魔物には人間の心は分からないのだと言われたが、…………今回は、それでもあの儀式が最適だったので俺も引けなかったんだ」
「むぅ。自分で選んだ事の顛末を、その方は、どうしてウィリアムさんに押し付けたのでしょう。ウィリアムさんの伝えたやり方を取る事にした結果、心がどう捩じれたのであれ、それは、ご夫婦で決めた事。まひてや、そのお二人の間での話し合いの不足による問題です。そんな方の言い分など、どこかへぽいなのですからね」
「キュ!」
またそんな目に遭っていたのかとぷんすかしたネアに、ウィリアムが小さく笑う。
きっと、同じようにムグリスな魔物の王様も荒ぶってくれたのが良かったのだろう。
ディノだって、ウィリアムが落ち込んでいるような気がすると案じていた、頼もしい友人なのだ。
「すまないな。弱音を吐いた。それに、あらためて考えると、こんな風に気遣わせて、その後の対応としてもかなり大人気なかったな」
「それぞれの思い方や履歴が違うので、こうなる夜もあるでしょう。私は、私の大事なものの手入れが好きなので、騎士さんなウィリアムさんのところに押しかけてしまいましたが、ちょっと面倒だったりしませんか?」
「まさか。……………嬉しかったよ。有難う、ネア」
「うむ。作戦成功ですよ、ディノ!」
「キュ!」
「シルハーン、心配をおかけしました」
「キュ!」
安心させに来たのだと隠しもしないネアだったが、ウィリアムは、一緒にサンドイッチを食べている時よりもずっと穏やかな目をしていた。
砂漠の夜の中で、すっぽりと体を覆ってくれている体温が、ぬくぬくの毛布のよう。
(この話を切り出すまでに時間がかかる可能性もあったから、一応、お泊りになる覚悟で来たけれど、あまり長居しない方がいいのだろうか)
であれば、そろそろ帰ると言うべきなのかもしれないけれど、夜の砂漠があまりにも美しくて、どうしてだか別れ難かった。
大きな月はまたゆっくりと位置を変え、先程までは月影だった場所が、月光が白くけぶるようになる。
(……………あ、)
その時の事だ。
月の光に晒された場所に、青白く光るような楽団が現れたのだ。
ぼうっとした影だけだが、こちらに気付く様子もなく、演奏を続けている。
少しばかり異国風ではあるものの、燕尾服のような装いの指揮者が見えるので、砂漠の周辺にある国々の人達とは違う文化圏の者達なのだろう。
「………ザルツの楽団だな。ウィームと統合する前の、古い時代の者達だ。カルウィの王に招かれて国賓として演奏会を開いたが、その演奏会の翌日に王族の一人が毒殺された。…………内乱によるものだったが、楽団員達は不幸を運んだという疑いをかけられ、この砂漠のどこかに埋められたと聞いている」
「……………ふぁ。………悲しいお話でした」
「これだけの土地の中で、恐らくはもう随分と砂も深くなっただろう。今でも彷徨う者達だが、埋葬や鎮魂をしてやるのは既に現実的ではない。………俺が回収出来るような魂でもないから、既に、あわいや影絵の亡霊になっているのかもしれないな」
ネア達は、ゆっくりとその横をクルツで通り過ぎてゆき、美しく華やかな演奏を聴きながら夜の砂漠を見ていた。
「今夜は、俺のテントに泊まっていくか?」
「まぁ。いいのですか?………その、休息を取るのに邪魔にはなりません?」
「ああ。ネア達が嫌じゃないなら、是非にそうしていってくれ。……………なぜだろうな。少しだけ、離れ難い夜だなと考えていたんだ」
「ディノ、今夜は、お泊まり会でも良いですか?」
「キュ!」
「実は私も、もう少しここにいたいなと思っていたのです。なので、お泊まり出来ると嬉しいです。………ただ、やっぱりちょっと邪魔だなと思ったら、いただいたテントに移動するので遠慮なく言って下さいね」
「ああ。だが、今夜は側に居て貰えた方が有難いな。…………目を覚ました時に、やはり都合のいい夢だったのかと思うのは避けたいからな」
僅かに茶化すようにそう言ったウィリアムに、ネアは少しだけ考え、ウィリアムと繋いでいた手を引き抜くと、胸元のムグリスディノを両手に乗せ、ずずいとウィリアムの顔の前に差し出してみた。
「キュ?」
「………ネア?」
「今回の事は、ディノが気付いてくれて、ウィリアムさんが悩んでいそうで心配だと話してくれたので、私も慌ててこちらに来られたのですよ?………なので、ディノだって、ウィリアムさんの提案に、怒ったり傷付いたりはしていませんからね?」
「キュ!」
「…………ネア。………シルハーン」
はっとしたように瞳を揺らし、ウィリアムは、途方に暮れたようにこちらを見た。
三つ編みをしゃきんとさせたムグリスディノと見つめ合う姿は堪らなく愛くるしい場面だったが、ウィリアムにとっては、ディノはとても大切な存在なのだ。
(きっとウィリアムさんは、私のことだけではなく、ディノが実際にはどう考えているのかも、とても心配だったのではないだろうか)
実は今回の春告げの後、リーエンベルクに戻った後に広間で踊りながら、ネアは、ディノとも沢山の話をした。
ディノとしては、伴侶としての結びを重ねられるのは嫌だが、儀式の型としての結びであれば、ネアの安全に勝る事はないという認識であった。
また、ノアやウィリアムやアルテアという、ディノが必要だと思う者達を守る為の措置としても、ネアが不快でないものは積極的に取り入れようとしているようだ。
とにかく優しい魔物で、根の部分が優しいので、一般的な魔物よりは寛容なのかもしれない。
だがそれは、自分達だけでなく、それを取り巻く環境としての家族や友人達のことも、ディノが大切に思うようになった証でもあった。
「私もディノも、ウィリアムさんのことは大好きなので、今日は楽しいお泊まり会です!」
「キュ?!……………キュ」
「あらあら、恥じらいましたね?」
「………キュ」
ふと、返事がないので見上げると、片手で口元を覆ったウィリアムが目元を染めている。
顔を背けるようにして染まった目元を隠しているが、同じクルツの上では隠しようもない。
聞こえてくる音楽を背に、ネアは、にんまりと微笑んだ。
今夜は美しい砂漠でのんびりと過ごし、もう少しこの終焉の魔物の隣にいよう。
あなたは大事な人なのだと伝える夜が、枕のタグではなくて、ネア達からの直接伝える言葉であってもいいのだから。