36. ダンス中の会話は危険です(本編)
(何だったのかな…………?)
肌に感じた誰かの強い視線は気になったが、ネアはひとまずダナエ達のところまでアルテアを引っ張ってゆくことに専念した。
白持ちの特等の魔物の中でも際立って厄介とされる魔物をぐいぐいと引っ張って歩く人間の姿に、すれ違った何人かの参加者がぎょっとしているが、これは必要な牽引作業なのである。
「ネア、………元気にしていた?」
正面まで歩いてゆけば、そうおっとりと微笑むのは白い片角を持つ春闇の竜だ。
桜色の瞳に濃紺の髪を片側に流して三つ編みにしており、どことなくディノを思わせる雰囲気を纏う、ネアの大好きな美しい竜である。
そう考えかけてふと、ネアは、自分にとってのこの世界がいつの間にか大切なものに溢れる失い難い場所になっていることに気付いた。
気紛れに交わる人ならざる者達との道筋の中で、これまでのネアは、価値観も違うのだからとあまり誰かを深く自分に結び付けることを良しとしてこなかった。
勿論、家族になった人達やリーエンベルクの騎士達、ウィリアムやアルテアのように友人だと言える存在もいるものの、親しくはしているが、せいぜい知り合いという範疇であるという人達も多い。
でも、微笑みかけてくれたダナエを見た時に、ああ大事な友人にまた会えたと幸せな気持ちになったのだ。
深く深く染み込むようにごく自然に心の中からそう思えたことに、ネアは何だか嬉しくなって微笑みを深める。
「蝕の時にダナエさんが来てくれたお陰で、元気に春を迎えられました。ダナエさんは、昨日まで石馬を食べていたのですよね?」
カードに書いてくれた事を思い出しながらそう言えば、ダナエはこくりと頷いた。
人差し指をちょびっと伸ばしてきたので、そのまま頭を撫でさせてやると、嬉しそうに口元をもぞもぞさせている。
ダナエにとって、食べたくならないネアはとても大切な友人なのだそうだ。
友達だと最初に言ってくれたのはダナエで、その時からダナエはネアをとても大事にしてくれていた。
「うん。……………ごりごりして美味しかった」
「まぁ。その食感ということは、硬かったのでは…………」
まさか石製だったのではとネアは不安になったが、綺麗な瞳を瞠って首を傾げたダナエは、幸いにも歯が欠けてしまっていたりはしないようだ。
しかし、隣に立ったバーレンが厳しく首を振っているので、やはり食材としては石寄りなのかもしれない。
「お久し振りです。バーレンさん。もしや、バーレンさんも石馬さんを………?」
「…………あのようなものは食べない。鉱石から派生する鉱石の馬だ」
「ふむ。とても綺麗そうですが、ごりごりすること間違いなしですね…………」
「…………食べ物じゃない」
「バーレンは好き嫌いが多いのかな。石馬は美味しいよ」
ネア達の横を歩いてゆく男女が、そんなダナエの返答に渋面で首を振っていたバーレンに目を止めている。
けぶるような銀髪に、はっとするだけの深さとその静謐な水の下に密やかな物語を隠し持っていそうな青い瞳。
そして、本日の装いは光竜らしからぬ装いだからこそ彼の美しさを際立てる危うさの漆黒の正装姿。
かつてのバーレンも充分に美しい男性だったが、竜としての姿のまま伸びやかに旅をするようになってからは、身に纏う雰囲気が研ぎ澄まされたようだ。
表情や言動が柔らかくなった分、竜としての気配は強くなったと感じる。
竜種の中でもかなりの階位だというダナエと共に過ごす事で、彼がその血に引き継いだ威風堂々とした高位の竜らしさが表に出て来るようになったのかもしれない。
二人連れの男女は、女性が目元を染めてうっとりとバーレンを見ているので、パートナーの男性が慌てたようにぐいぐいと引っ張って遠ざけている。
この場限りのパートナーではなさそうに思える仲睦まじい様子だった二人でもあの様子なのだから、一緒に来ているダナエがバーレンの恋人ではなく友人だと知らしめる事が出来れば、最後の光竜はあっという間にご婦人達に囲まれてしまうだろう。
「バーレンさんは今年も……………」
「言わないでくれ。だが、どうなるのかが分かっていただけ、今年の方が心には優しかったな…………」
そう呟き、バーレンは微かに染まった目元を隠すように息を吐いている。
春告げの舞踏会は、参加者の意識をお相手探しに傾けないように、恋人や伴侶などのパートナーとの参加が義務付けられているので、二人で訪れればそのような解釈をされるのだ。
(そんな思いをしても、バーレンさんが春告げの舞踏会に来るのは、本来なら光竜がこのような場所に居るべきだった種族だからなのだと思う…………)
あんなに嫌がっていたのに、なぜ今年も二人で参加するのだろうと首を傾げていたネアにそれを教えてくれたのは、その時に一緒に好きな竜討論会をしていたエーダリアだった。
光竜という種族が滅びたとされている現在、バーレン個人では、本来なら参加資格のある春告げ及びに夏告げの舞踏会に招かれる資格を持たない。
けれども、光竜の唯一の生き残りだと名乗り出ることはあまりにも危うく、そんな友人の為にダナエは、バーレンをパートナーにしているのだろうとの事だった。
(だからきっと、バーレンさんもこんな風に遠い目をしていてもダナエさんの提案を受け入れて、その優しさを受け取ろうとしているのだわ…………む?!)
そんなダナエはと言うと、ネアが目を離した隙に、バルバでアルテアに食べたいものを伝えているようだ。
ネアは、バルバへの使い魔の参加は自由参加にする方針を決定したばかりだと慌ててしまったが、この二人はカードを分け合った仲なので、ダナエとしてはやはりアルテアのバルバ料理が食べたいのだろうと考え直すことにした。
(…………それに、アルテアさんにバルバに来て貰えるのなら、休み中に一回出勤みたいな感じになってしまうけれど、またそこでアルテアさんのお料理を食べられるんだわ…………!)
一定間隔で貰えていたお届けのパイやタルトなどは、作り置きを貰っておいてちびちび食べればいいのだ。
今までのペースであればアルテアの方にも幾つか作り置きがあるようなので、それを一足先に受け取っておければ、不在時の備えになるだろう。
そんな事を考えていると、食べたいものを伝え終えたらしいダナエがこちらに戻ってきた。
「バルバをやる」
「ふふ、ダナエさんから、アルテアさんに提案してくれたのですね?」
「うん。またあの青い鯨はあるかな」
「…………胡瓜」
ネアは、青い焼き胡瓜にしか思えない焼き鯨を思い出し、微かに遠い目をした。
美味しかったが、あの見た目のせいで何だか落ち着かない気持ちで食べた記憶がある。
眉を寄せてぐぬぬっとその姿を思い出していると、そっと手を伸ばしたダナエがネアの頭を指先で撫でた。
「やっぱり、ネアのことは食べたくならない」
「それなら、ずっとお友達でいてくれますか?」
「………………うん」
その問いかけに微笑んだダナエがとても嬉しそうだったので、ネアは、おやっと思った。
ディノもこんな風に微笑む事があるが、そんな時は事前に不安を抱えていて、それが払拭されての微笑みなのだ。
ちらりとバーレンの方を見れば、青い瞳を細めて僅かな苛立ちを浮かべているので、何かダナエを悲しませるような事があったのかもしれない。
以前、藤の谷でダナエを陥れるべく行われた工作があったが、それを受けて哀れな妖精の子供を埋葬した事を話してくれた時のダナエの眼差しを思い出した。
「またダナエさんが来てくれたら、エーダリア様も大喜びでしょうね」
「…………ネアは嬉しいかい?」
「これは内緒ですよ?実はダナエさんは、私の大好きな竜さんなので、一緒にバルバが出来ると、とても嬉しくなってしまうんです」
「ネア…………」
ほにゃりと微笑みを深め、ダナエはバーレンを振り返っている。
その様子が、自分を受け入れてくれる人間もいるよと伝えているように見えて、ますます何があったのか心配になってしまう。
だが、悲しみの受け取り方は人それぞれだ。
話さない事までを聞き出す必要はない。
「おい。………節操なしめ」
「むが!なぜに頭をずびしっとやったのでしょう。せっかくウィリアムさんに綺麗にして貰った髪の毛なので…」
「ウィリアムだと…………?」
「はい。今日の髪の毛は、ウィリアムさんがリーエンベルクに来て整えてくれたのですよ。潜入調査の後でお喋りしていた時に、今年は髪結いをしてくれる方の時間が合わなかったので、自分でやってみるのだと話していたところ、短い時間で出来るので任せて欲しいと言ってくれたのです。………この、後ろの部分の少し崩したようなところが、とっても可愛いですよね?」
「……………ほお、あいつは、ガーウィンの件で自分の取り分が分からなくなったらしいな?」
なぜか瞳を眇めて剣呑な面持ちのアルテアに、ネアはこてんと首を傾げた。
しかし、そうこうしていると、ダナエがおずおずとこちらに手を伸ばすのが見えた。
「ネア、誰かと踊らないといけないんだ。バーレンは駄目だと言うから、踊ってくれるかい?」
「はい。勿論です!では…………むが?!」
「まだ一曲も踊ってないだろうが。ダナエ、こっちが先だ」
「アルテアとまだ踊っていなかったんだね。では、沢山踊るだろうから、後で踊って貰うことにするよ」
アルテアがぞんざいに追い払ってしまいそうで、ネアはハラハラしたが、幸いにもダナエと踊ること自体は反対ではないらしい。
まずはこちらで踊ってくるとダナエ達とは一度別れ、ネア達はその場を離れた。
(何かしら…………。とても大切な事を忘れている気がする………)
しっかりと腰に手を回されて会場の中央に連れ出されつつ、ネアは、何かとても大切な事を忘れているような気がしてならなかった。
けれども思い出せないまま、今は、向かい合って立ったアルテアにお礼を言う事にした。
「アルテアさん、有難うございます」
「何がだ?」
「先程は、ダナエさんが少ししょんぼりしていたので、ここに友達がいるよと踊ってあげたかったのです。アルテアさんが、後でという言葉を使ってくれてほっとしました」
「春の系譜の障りや呪いへの防壁になる、最たる資質だからな。余分は増やせないにしろ、ダナエとは踊っておけ。何しろ、お前は息をするように事故に雪崩れ込むからな」
「まぁ!アルテアさんとて、事故の王様ではありませんか。これから暫く森に帰るにあたり、くれぐれも事故には気を付けて下さいね?」
「何で森に帰る設定なんだ」
「それは、アルテアさんを森に返そうと…………む?……アルテアさんにお暇を出そうと考えていたので…」
折しも、ちょうどそこで音楽が流れ始めた。
優雅な動きでネアの手を取り最初のステップを踏んだアルテアだが、その瞳は底冷えするような鋭さである。
それでいて、ダンスのステップはこの上なく繊細で優しいのだから、踊りの輪で近くにいた男性が真っ青になってしまうのも頷ける。
(魔物らしいという言葉で片付けてしまっていいのかは分からないけれど、これは人間なんて気紛れに蹴散らしてしまうような、とても怖い魔物の気配だわ…………)
けれどもネアは、こんな瞳をするアルテアを見るとどこかでほっとしてしまうのだ。
それは、美しく恐ろしい獣を家の中に引き摺り込んでしまった事で、その獣が望まぬ形で息苦しさを覚えていないだろうかと案じる身勝手さのようなもので、魔物らしくこちらを見据えた酷薄さに安堵する。
これもまた選択の魔物の形なのだとしたら、その鮮やかさを削るのが自分ではありたくないと思う。
けれども、もふふかの野生の獣に顔を埋めて駄々を捏ねるようにして、ネアはついついお料理上手で器用な使い魔に頼ってしまうのだから、人間とは何と罪深い生き物なのだろうか。
「契約の解除は出来ないのだと、俺はお前に話しただろう?」
(あ、…………)
くるりとターンで回され、また体を寄せる。
とっておきのドレスの裾はひらりと揺れ、その裾の中で桜がぶわりと舞い散った。
そんな中に、静かに成されたその問いかけに、ネアは目を瞠った。
どうやらこちらの魔物は、本当に怒っていると却って穏やかな口調になるらしい。
けれども、勘違いで不愉快な思いをさせているのなら、それはネアの至らなさだ。
アルテアから貰っている守護を裏切る為に考えている事ではないのだから、きちんと説明しなければならない。
「こんなに良くしていただいていて、使い魔さんの終身雇用な約束もしたのに、先程の言い方は失礼でしたね」
ネアがそう切り出せば、アルテアは視線で続きを促す。
ステップを間違えてはならない春告げの舞踏会でのことなので、なかなかの緊張感だ。
また一人、アルテアの近くを通った参加者達が、真っ青になってステップを踏み違えた。
そのままどこかに消えてしまったので、戻り雪の領域に落ちてしまったのかもしれない。
「昨年から今年まで、何度も暇ではないのだと言われながらも、随分とアルテアさんに頼りきりでした。…………さすがに頼り過ぎではないかなと考えもしたのですが、手を貸していただいたところには、確かにアルテアさんの手助けが必要だったのです。…………でも、これから暫くの間は厄介なお仕事は予定されていませんから、せめてその間くらいは私も使い魔さんからの自立を図ろうと思っています」
「…………それは、お前が決めるべきことなのか?」
そう尋ねた魔物の瞳は暗く鮮やかで、もし、これが出会ったばかりの頃の関係であれば、ネアは、今すぐこの魔物を無力化するべくきりん札を使っただろう。
けれども、ディノだけではなくこの魔物とだって、人間の感覚では、それなりに長い付き合いになってきたところなのだ。
「本来、高位の魔物さんがお相手であるのならば、私のような人間風情がその処遇を決めることは不敬なのでしょう。でも、アルテアさんは私の使い魔さんなのです。ですから、私こそが、労働改革を図るべく少しお休みしましょうかと提案出来るのだとは思いませんか?」
「………………成る程な」
すっと体を寄せ、アルテアがネアの瞳を覗き込む。
顔を寄せた事で影になり、息が触れそうな程の距離で翳った瞳が冷ややかに微笑む。
「つまりそう言う事だ。必要としないだけの余裕があるからこそ、お前はそう言えるんだろうな」
「誤解を恐れずに頷くなら、確かにそれもあるのかもしれません。何故なら、私はアルテアさんがパイやタルトの作り置きを隠し持っている事を知っています」
ネアのその言葉に、アルテアは片方の眉を持ち上げた。
明らかに続きを促す仕草なので、返答としては足りないようだ。
「そして、森に帰っていてもカードから呼びかけたら助けに来てくれるかもしれないくらいには、お腹撫でが癖になっている事を知っているのですから……?」
「何でだよ」
「むむ、では、帰ってこないときりんの刑である事をアルテアさんが理解している筈だからでしょうか?」
「やめろ」
「それとも、休暇中の使い魔さんであっても、怖いことがあったらすぐさま相談してもいいのだと、もう知っているからでしょうか?」
その言葉に、ふつりとアルテアの瞳の色が変わった。
ふ、と怜悧な微笑みを浮かべていた唇がほころび、それまでとは違う不思議な微笑みを深める。
「…………それなら、賭けてみるか?お前が俺を呼ばざるを得ないようにしてみるのも悪くないな」
まるで睦言でも囁くかのように、耳元でそう言われ、ネアは微かに眉を寄せた。
「長期休暇のある、より良い職場を目指した筈なのに、なぜ悪さをされる前提なのでしょう?」
「それを提示するのがお前の役目なら、俺にもその受け取り方がある。いい加減、しつこく森に帰れと言われるのも煩わしいからな」
「その場合、休暇前の三個以上のパイかタルトの提出と、ダナエさんとのバルバが終わってからという条件は守られますか?」
「…………その条件で、ぬけぬけとよくも休暇だと言えたもんだな?」
「…………お休みは、バルバの後から夏までです。ぎゃ!なぜに足を踏ん……………ステップが」
そこでなぜか、ぐらりとよろめいたアルテアに爪先を踏まれてしまったネアは、男女の体格の違いから当然のように飛び上がる。
思えば魔術的な緩和があったものか、踏まれた足はちっとも痛くはなかったのだが、頭の中で想定された痛みを思って驚いてしまったのだ。
そして、ネアは見事にステップを間違えた。
春告げに参加して初めて、自分でステップを間違えてしまったのだ。
ネアが驚きに目を丸くして何かを言おうとしたその僅かな一瞬で、アルテアが、素早く自身のステップをわざと踏み足したのが見えた。
「…………っ!」
ダナエと落ちた時よりも長く感じる落下の暗転に飲み込まれ、すっと意識が遠くなる。
そう言えばあの時は意識を失っていたのだったと思い返しながら、ネアはぎゅっと抱き締めてくれた腕の中で安心して目を閉じた。
これからどうなってしまうのだろうと考えるよりも、垂直落下で酔いそうだという思考に集中出来るのは、一緒にいるのがアルテアだからだ。
「ぎゃ!」
そして長く感じた落下時間の後、ネア達はどこか柔らかな地面にぼさりと落ちた。
最後のところでぺっと吐き出された感じになったので悲鳴を上げてしまったが、幸いにも着地は柔らかだった。
そろりと目を開けば、周囲は吹きすさぶ雪でびゅおるると風が唸っている。
目を瞬きその確認をしてから、あの美しい春告げの舞踏会からここに落とされてしまったことに悲しい気持ちになる。
「…………ったく」
ネアを抱えたままそう呟いたアルテアが、呆れた目をする気配がした。
項垂れてしまったネアがもそもそと顔を上げると、さぞかし怒っているだろうと思った魔物は、なぜか上機嫌ではないか。
「…………ごめんなさい、アルテアさんはわざとステップを間違えて一緒に落ちてくれたのですね?」
「お前を一人で落としたら、戻りようがないだろうが。俺に暇を出すと言い出した早々、このざまか」
「………………ふぁい。さっそくお仕事を増やしました。アルテアさんに、二年連続落下の不名誉を…」
「やめろ」
「おまけに今回は、自損事故ですので言い訳が出来ません。近くにグレアムさんがいれば、ひょいっと持ち上げてくれたのかもしれませんが、……………む」
「間違えた本人については、引き上げは不可能だぞ。引き止められるのは、あくまでも巻き込まれた者だけだ」
「むぐぅ…………」
アルテアは、片側にだけ下ろしていたケープのどこかに触れると、ばさりと普通に下ろせるようにしてしまい、そんなケープの内側に抱き上げたネアを入れてくれる。
周囲の状況を見たら寒くない筈はないのだが、アルテアと一緒だからか先程と変わらないくらいの気温にしか感じなかった。
ネアは、僅かに乱れたアルテアの前髪を伸ばした指先で直してやると、悲し気に溜め息を吐いて周囲をもう一度見回す。
以前に落ちてしまった時にどうやって帰ったのかがよく思い出せないが、アルテアが戻り雪な誰かをくしゃっとやった記憶がある。
どうやら少し歩くようなので、ネアは、小さな声でアルテアに話しかけた。
直前までのやり取りを続けようと思ったのだ。
「……………こういうことがあるから、なのかもしれません」
「事故っておきながら、手札を減らそうとしているのだとしたら、愚かとしか言いようがないな」
「私と一緒にいてくれると、アルテアさんは色々と思ってもいなかった目に遭ってしまうでしょう?ご自身のお仕事や、趣味や、お友達との時間にも手をかける方であることを知っているので、ゆっくりと休んで魔物さんらしい悪さをする日々を過ごして欲しかったのです」
「最後のは何だ」
「森の獣さんはきっと、人里の刺激のない環境では退屈してしまうのではないかと思ってしまいます…………」
「思ってもいなかった事ばかりなら、退屈する暇もないな」
「むぅ、…………望んで手を出す愉快な刺激と、これはお呼びではないという事故とでは比較にならないと思うのですが……」
こつんと、額を指で弾かれてネアは小さく唸る。
いつもより控えめなのは、ネアのせいで戻り雪の領域に落ちてしまっているからだ。
そんな、雪でけぶった厄介な場所の中で、こちらを見て微笑んだのは、やはりなぜか、ひどく満足気な魔物である。
「悪いが、俺はこれを気に入っている。敢えてお前の傍を離れて必要とさせるのも愉快そうだが、その隙に俺の領域を誰かに荒らされるのも不愉快だ」
「……………最近、彼女さんがいないのは、使い魔さんのお仕事が負担になっているからではないのですか?」
「お前はもう黙れ。結論は出た筈だぞ」
「し、しかし、お休みという形を取らないと、私からは今まで通りにパイやタルトの注文が入ってしまいますよ?」
「ほお、それを控えようという気持ちはないんだな?」
「む、むぐ。我慢したくても出来ません。アルテアさんは世界一のパイ職人の称号を持つだけでなく、最近、グラタンの新世代も切り開いてしまいましたし…………」
「何だそれは…………」
呆れたような目をしたものの、アルテアはまた不可思議な微笑みを深めると、ネアの顎先にひょいっと指をかけた。
顔を持ち上げられて目を瞠ると、ふっと口付けが一つ落とされる。
「むぐ…………」
「……………馬鹿な人間だな。自分で自分を強欲だと言うのなら、自分のものはしっかりと繋いでおけ」
「……………長く使い魔さんでいて貰う為に、休める時には休んで欲しかったのだと言ってもですか?」
「その線引きは俺がつける」
「そして、少し前から教本を読んで悩んでいたのですが、使い魔さんは、一緒に寝たり、もっとお風呂に入れて欲しいですか?」
「………………は?」
それまでの魔物らしい凄艶さが剥がれ落ち、呆然とこちらを見た魔物はどこか無防備だった。
そんなアルテアの表情が、思いがけない提案に驚いているのか、本音を暴かれて動揺しているのかの判断がつかず、ネアは首を傾げる。
どこか遠くで、鳥のような生き物がギャアと鳴いたような気がしたが、何しろ雪で視界が悪いので定かではない。
「教本に書いてあったんです。使い魔さんとのより良い関係の為には、体にいい森の仲間のおやつなどを与えたり、ブラッシングやお風呂に入れたりしてやり、尚且つ、時々は頭などを撫でてやりながら一緒に寝るといいのだそうです」
「待て。お前が読んだのはどんな本だ………」
「わくわく使い魔と仲良し、二年目の過ごし方編です」
「その本は捨てろ。獣用だろうが」
「でも、私は使い魔を持ったことがないので、どのような形がまっとうな職環境なのかを知らないのです。他の使い魔さんが得ているものを、アルテアさんだけが貰えていなかったら悲しくなりませんか?」
「そもそも、森のなかまのおやつは、捕縛用の従属魔術が入った商品じゃなかったのか?」
「どんな成分が入っているのかは企業秘密らしいのですが、食べるととても素敵な気分になって甘えん坊になれる仲良し用もあるのですよ?」
「やめろ。いいか、絶対にだ」
「まぁ。アイザックさんからのお勧めだったのですが、アルテアさん向けではなかったのですね…………」
「………………ほお、その本もあいつか?」
「いえ。本はダリルさんからお借りしました」
ネアの使い魔運用教育に誰が関わっているのかを知り、アルテアはまたしても剣呑な表情を浮かべると、抱き上げた腕の中から自分を見上げているネアの鼻先を摘まんだ。
「そんなに俺の扱いが心配なら、今度じっくりと教えてやる。それでいいな?」
「むが!鼻先の解放を要求します!!」
「やれやれだな…………」
いつの間にか戻り雪はくしゃりとやられてしまっていたらしく、足元に魔術の風が逆巻くと、淡い薄闇を踏んでネア達はいつの間にか春告げの舞踏会の会場に戻っていた。
突然すぐ近くに白持ちの魔物が現れたのでかなり動揺している妖精たちがいたが、ネアはそこで、忘れていた大事なことを思い出した。
「お、お料理を食べるのを忘れていました………」
「もう一曲踊ってからにしろ」
「先ほど、四曲も踊ったではないですか!食べられるお花のゼリー寄せは、私的春告げの舞踏会の必須料理なので、絶対にいただきます!」
「充分に残っているな。後にしろ」
どうやらアルテアは、ダンスが大好き過ぎる魔物に違いない。
ネアは、そんな使い魔の手で怨嗟の表情のまま会場の中央に拉致された。
唸りながら料理のテーブルから遠ざけられてゆく人間の姿に、そんな光景を見てしまった参加者達がざわざわしているが、ここはネアにも譲れない一線があるのだ。
「お前が始めた契約の再確認の後なんだ。諦めろ」
「むぐるる。おのれ、私とゼリー寄せの仲を引き裂いた場合は、謹慎処分にしますよ!」
「ほお、その場合は当分、食べ物の持ち込みがなくなるがいいんだな?」
「お、おのれ、なんという邪悪な魔物なのだ…………」
結局、後一曲が二曲になり、アルテアとは計六曲のダンスとなった。
へろへろでネアが食事のテーブルにたどり着いた時にはもうゼリー寄せは影も形もなかったが、ネア達のやり取りを聞いていてくれたらしいグレアムが、なくなりそうだったゼリー寄せを確保していてくれたので事なきを得る。
どうやら使い魔の運用については、休暇取得のしやすい環境作りを目指す前に、食べ物の恨みは恐ろしいのだと教育をする必要があるようだ。




