223. 春告げで事後承諾させます(本編)
「そろそろ、時間だな。…………あちらには戻らなくても良さそうだ」
「あらあら、グレアムさんのパートナーの方は、無事に、あちらの方とお互いの気持ちを確認出来たようですね」
遠くを眺めるようにして瞳を細めた犠牲の魔物は、夢見るような灰色の瞳を細めて、嬉しそうに頷く。
そちらを見れば、寄り添って踊る妖精達がいる。
黎明の質の妖精は老婦人だが、夜の質をもつお相手は容姿的には随分と若く見える男性だ。
だが、あまりにも幸せそうに体を寄せて踊っているので、かつては伴侶だった二人が再び心を通わせたことが、こちらにまで伝わってきた。
グレアムがこんな風に見守るのだから、きっと素敵な妖精達なのだろうと考えたネアは、さらりと揺れた白灰色の髪に落ちた花びらを見付け、ひょいと手を伸ばした。
「グレアムさん」
勿論、伴侶でも家族でもない魔物なので、こちらに花びらが付いていますよと、お知らせするに留めた。
ネアの指先が示した位置に触れ、グレアムがふわりと微笑む。
こうして微笑む時、この魔物の美しさは言葉に出来ない程なのだ。
「有難うネア。うっかり、春告げの祝福を、授かるべきではない者達のところに落としたら大変だからな」
「まぁ。そのような事があるかもしれないのですね。靴底になど付いてきてしまわないといいのですが……」
「今日のネアなら大丈夫だろう。儀式に必要な要素だけを取り込む為に、特別な靴にしている筈だからな」
「………そうなのですか?」
ネアが目を丸くすると、小さな丸いなにやつかを食べていた選択の魔物が、呆れたような顔で、靴裏に薬草と柊のリースの刻印があるのだと教えてくれる。
ここで足を持ち上げてみてもドレスの裾に隠れてしまうので、ネアは、帰って靴を脱ぐときに見てみようと足元を見下ろした。
「まぁ。靴底が素敵な水紺色なのだなと思っていましたが、それは気付いていませんでした」
「色については、シルハーンが作った物だからだな。リースは、こちらの用意した魔術の軌道から外れないようになっている」
「………ディノが、靴底を作ってくれたのですか?」
「おや、ネアは聞いていなかったのか?」
「はい。言葉の意味を取り違えて、聞いていないと思っているだけかもしれませんが、初めて知りました」
であればと、説明を引き取ってくれたのはグレアムだ。
白灰色の盛装姿は、過分な装飾は一切なく、体の輪郭を優美に見せる仕立てと、使われた布の美しさではっとするような存在感を見せていた。
きっと、他の誰が着ても同じようには見えないだろう。
犠牲の魔物を何よりも引き立てるのは、夢見るような美しい灰色の瞳なのだから。
「春告げの舞踏会は、愛情の付与に長けた祝福が満ちているだろう?復活などの春告げの祝福は欲しいが、今回の儀式でそちらが望まない形で結ばれると、シルハーンとの繋ぎに割り込む形で魔術が深まる可能性がある」
「ぐるる………」
ネアが思わず小さく唸ると、グレアムが、ふっと総合を崩した。
うっかり遠くから見てしまったご婦人方がへなへなになっているくらいに、艶やかな花が咲きこぼれるような美しい微笑みだ。
「なので、靴底のリースにシルハーンの魔術を内包させ、その上で踊る事で、必要な魔術だけを取り込み、余計なものが浸透しないようにしたんだ」
「という事は…………もしや、グレアムさんも、今回の事にご協力して下さっていたのですか?」
「ああ。少しだけな。とは言え、今回の魔術の結びについては、シルハーンは当然として、アルテアとグラフィーツが魔術構築に長けているので、その三人が中心になってはいるが」
(となると、グラフィーツさんも協力してくれたのだわ………)
さっぱり預かり知らぬところであったが、そう言えば、新しい入浴剤の話をした時に、ディノが、今日はゆっくり入れないのでまた今度使うと言い出した日があった。
それなのに、その日も入浴時間はしっかり取っていたので、入浴と称してどこに行っているのやらと考えていたのだが、今回の春告げの舞踏会の準備をしてくれていたのかもしれない。
「グラフィーツは、依頼をしてという形だな。人間の魔術についてはエーダリアが、この手の魔術に長けた妖精として、ヒルドの知恵も借りている。何でお前が何も聞いていないんだよ」
「………なぜだれもおしえてくれないのだ。………もしや、春告げで事故らないようにと、リーエンベルクの大広間で行進をさせられたのが、予行練習だったのでしょうか?」
「もしかしなくても、それだろうな」
(………あれが………?)
その時は、今年の春告げの舞踏会では、様々な事に備えて魔術の祝福をより多く引き上げられるようにし、古い形の魔術を一つ構築するのだと言われたような気がする。
思い出してみると、確かに今回の儀式向けの予行練習だったのだろう。
ディノとノアが、魔術的な細部の織り上げをどうするべきか、あれこれ議論していような記憶もある。
「いや、春告げに間に合わせることを優先させたのかもしれないな」
微笑んでそう言ってくれたグレアムによると、今回の魔術の結びは、春告げで行うからこそ再生の質を強く宿す方向へ傾けたが、もし、春にも夏至祭のような祝祭があれば、そのような日にこそ行いたい魔術だったのだそうだ。
本来であれば、その祝祭や舞踏会自体に婚姻の形を模した魔術の儀式が元より設けられている方が、より強固な結びになるからだ。
だが、残念ながら、婚姻の形を借りる儀式のある祝祭や、或いは、そのようなことに長けている舞台が春の中で整わず、独自な儀式を構築し、春告げで行われることになった。
アルテアの説明でも、婚姻の形を模しているのは魔術の上で必要だからと聞いていたが、どちらかと言えば、婚姻を模して行われる調伏や契約に近しいものなのだと聞けば、ダンスの中で成されたアルテアの問いかけにも納得する。
ネアとディノの婚姻が愛情で手を取り合い結ぶものであるなら、今回の儀式は、問いかけと了承の上で結ぶ、魔術の約束なのだ。
だが、このように婚姻の魔術を扱うのは人間だけだと聞けば、ネアは、同族の強欲さにも感心させられてしまった。
「婚姻の形を模倣するのは、魔術的な対価として、これだけの覚悟があるのだと示す意味もある。また、受け取る側は、婚姻にも等しいだけの対等な結びを約束し、結んだ相手の安全や利益を損なわず、責任を持って面倒を見ると魔術的に誓うものでもある。そのあたりは、俺の系譜の魔術だな」
「……春は、季節の系譜としては恋の季節でもあると聞いていたのですが、婚姻を模した儀式が残るのは、今では夏至祭が一番大きなものなのですね……………」
ネアのその言葉に、アルテアが短く頷いた。
自身も食事をしながら、時々、ネアのお皿にも美味しいものを届けてくれる。
「夏至祭は、あわいの住人や妖精達の伴侶探しが行われる、一年で最も境界の揺らぎ易い日の一つでもある。あそこまでの規模となると、婚姻を模した儀式や、慶事の儀式でしか封じられなかったんだろう。例え災厄の形をしていても、伴侶や探しや求婚の祝福の持つ魔術的な影響を切り捨てると、予期せぬところで大きな支障が出かねないからな」
「春には、そのような方法で対処する程のことが起こらないので、夏至祭のような祝祭がないのですね…………」
確かに春は、季節の境目でも、懸念されるほどに大きな問題が起こらない季節のように思えた。
夏至祭や大晦日のような揺らぎ方はせず、雪溶けがあって新芽が出るというような、ゆっくりと変化しながら季節を遷移させてゆく印象だ。
「一つ、似たような条件を整える季節の祝祭があるが、あれは死出の舞踏会だからな」
「…………初耳の舞踏会ですし、とても不穏なのでぽいです」
「冬に出た犠牲を終焉と結び、こちらに残り続けないようにする為のウィリアムの系譜の祝祭だが、元より埋葬が丁寧だったヴェルクレア周辺では設けられていない。カルウィとあの周辺の国では古くからある祝祭で、死者達や冬の資質を、終焉に預けて春には持ち込まないようにする為の約定の儀式がある」
「ほほう。その舞踏会には、美味しいお料理などはあるのでしょうか?」
「料理は出なかった………」
「まぁ。ダナエさんがしょんぼりです………」
そちらも春の系譜の舞踏会なので、ダナエも参加した事があるそうだ。
しかし、終焉への婚姻となると危ういという理由から食べ物は出ないと知り、とても悲しかったという。
生まれた土地の祝福も必要となる祝祭なので、その土地で暮らしたことのないネアが参加するのは、少し難しいようだ。
「今回のアルテアが結んだような、婚姻を模した魔術や儀式は、昔はとても多かった」
そう教えてくれたダナエに、ネアは目を瞬いた。
夏至祭のようなものだと言われてみれば確かに、婚姻の形を取るという儀式や風習は、生まれ育った世界でも珍しくはなかったように思う。
(きっと、多くの者達に分かりやすい約束の形なのだろう)
違いに互いを守り、共に手を取り合ってゆこうと願い、約定の下にその魔術を結ぶ手法は、人間の目には婚姻に似ているように見えたのかもしれない。
「ああ。私が幼い頃も、そのような魔術で光竜の祝福を得ようとした者達に招き入れられた仲間が、限られた時間ではあったが人間に手を貸していた。婚姻を模した儀式やダンスで土地の魔術と結んだり、異種族の力を借りる者達は、とても多かったからな」
「バーレンの一族は、そうしていたのだね。春闇は、そのような声には応じていないかな………」
「系譜の資質もあるんだろうよ。光竜は、調停役としても重用されたからな」
古い時代は、まだ人間の文化が未熟であったので、線引きの外側に暮らす、人ならざる者達の力を借りる事が多かったのだそうだ。
その為に差し出す対価として、通常よりは豪華だが、生贄程に極端ではないもの。
また、成果として、伴侶のように誠実に慈しみ、真摯にもてなすという約束で結ばれ婚姻を模した魔術は、左程珍しくなかったのだとか。
「だが、その手の約束は、不幸な事に度々破られた。破る側も破られた側もそれなりの損失を出すので、あまり好まれなくなってゆき、廃れていったんだ。ウィリアムの領域程ではないが、犠牲の魔術の系譜の上でも、歴史的な悲劇と称されるような騒ぎが何度か起きていたな」
「元はと言えば、歌乞いや使い魔との契約もそのあたりの魔術を源流としている。ヴェルリアで行われる、海との結婚の儀式も、古い時代の名残りだろうな」
「むむ。エーダリア様がはしゃいでしまいそうなお話ですね!…………あら、バーレンさんが」
「………そうか。では、今度のバルバの時にでも、古い時代のその手の魔術について話をしてやろう」
ぽそりと呟いたバーレンは、顔見知りでもあるエーダリアが、光竜の要素の継承があると知って、嬉しかったのだろう。
だが、かつての寄る辺ない竜の孤独な眼差しはずっと前に消えており、隣には、この先を共に過ごすダナエがいて、同族の血を継ぐ者を見付けた相棒に自分の事のように喜んでくれている。
なのでネアは、今のバーレンであれば、エーダリアとの関係も適度な距離感で育めるような気がした。
ダナエと出会う前の心が飢えていた頃のバーレンだったなら、ネアは、どうしただろうか。
望まない形で依存され過ぎても危ういと、エーダリアを隠してしまいたい気持ちになったかもしれない。
でも、最後の光竜はもう、一番大切なものを見付けてしまったのだ。
一緒に喜んでくれているダナエに、探し物を見付けたからと言って、お前と旅をするのはやめないからなと何度も言い含めているバーレンを見ると、きっとダナエに代わる者はもういないのだろう。
出会った頃には諦観にも似た冷ややかな微笑みを浮かべていた竜は、今は、こんなに自然に笑うようになった。
兄弟のような存在なのか、親友や相棒なのかまではバーレンの心の内のものだが、ダナエが、バーレンにとっての失い得ない居場所になったのは間違いない。
(そしてそれは、エーダリア様もそうなのだと思う………。エーダリア様にだって、ヒルドさんがいて、ノアがいるのだもの)
なお、アルテアは、エーダリアの瞳の青は、途中でウィームを離脱した旧王家の血が出たのだと思っていたらしいが、実は、そちらにも光竜が入っているという。
古くから竜種との相性が良かったウィーム王家には、二度も光竜との婚姻があったのだ。
とは言え、随分と前なので継承という意味ではそうそう表に出てくる事はないようだが、ウィーム王家にはその上で雪竜の血なども混ざっていると聞けば、市井に下りた者達が残るウィーム領民の特異さが、何となく察せられるような気がする。
どちらにせよ光竜の子孫で間違いないのだが、血の継承があるかどうかは、バーレンにとっては大きな違いなのだろう。
簡単に言ってしまえば、より近い世代に光竜の血を継ぐ者がいたという情報の更新であったが、秘密も多いウィーム王家の内側にいた者しか知らない事はまだあるような気がする。
現に、ウィーム王家の中には、記憶や記録から消えた王族達が少なくない。
きっと、魔術可動域が高い者達が多いということは、それだけ選択肢を得られるということでもあるのだろう。
望まない離脱や悲しい事件もあるが、自らの意思で王家を離れた者達も多い。
「………おい。ローストビーフの様子がおかしいだろ」
「むぐ。………一枚なのですよ?」
「ほお?俺の見ている限りは、四枚目に見えるが?」
「…………きのせいです。ちびちびたべているからまだのこっているだけで、かさねてかくしたりはしていません………」
「ったく。これは没収だ」
「ぎゃ!わ、私のローストビーフ!!」
六枚重ねの最後の二枚の内の一枚は、とても大切なローストビーフなのだ。
それを奪われて怒り狂った人間は、慌てて足踏みをする。
「だいたい、おかしいだろうが。お前が今日の舞踏会で、最も心を砕いたのが、ローストビーフをどれだけ多く食べるかになっているぞ」
「むぅ。お相手がローストビーフ様ともなれば、このくらいの労力は厭わないのですよ?」
「何でだよ」
「……………ところで、一つ疑問だったのですが、今回の事は、アルテアさんにとって何か不利益になるようなものは残さないのですか?ディノやノアが魔術の作成に関わっているのであれば、私には問題はないのでしょう。けれども、アルテアさんの側の事情は考慮されていない可能性もあります……………」
それがずっと、気になっていたのだ。
魔物達は、歌乞いの契約がただ一度きりと知りながらも、望ましくない関係が育っても何も明かさないような部分がある。
残忍で酷薄であるくせに、時々とても言葉足らずに己を差し出し、嘆息して静かに立ち去ってしまう。
それは異種族だからこその諦観なのかもしれないが、ネアは、アルテアにそんな思いはさせたくなかった。
(尤も、自分の不利益をただ飲み込んで頷くような魔物さんではないのだけれど、人間と魔物の価値観の違いはあると思う。………もし、こちらから見て過分なものであれば、代替え案を問うてみることも可能なのではないだろうか………)
「踏み込むなと言いたいところだが、お前が懸念しているような意味での影響はない。寧ろ、そんな影響が出るのに婚姻を模した儀式が広がる筈がないだろうが。あの第一王子が、海との結婚の儀式に参加しているのも、そういう訳だ」
ネアは、形だけとは言え、婚姻というものに紐付く何かを損なうのではと心配であったが、どうやらそれはないようだ。
同性のお友達計画の為にも、使い魔のご主人様としての環境整備の観点からも安堵し、ネアは、ほっと胸を撫で下ろした。
「アルテアのような魔物は、対価を気に入らなければどれだけ必要でも約定は結ばないから、この契約は嬉しいのだと思う」
「おい………!」
「ふむふむ。ダナエさんの説明で、よりほっとしました!きっと、使い魔さんとしての同じ岸辺からだけではなく、対岸などからも全体を見回す必要があるのかもしれませんね」
そう考えたネアに、グレアムが頷いた。
こちらは既に食事は終えたのか、しゅわしゅわと泡を立てるシュプリを飲んでいる。
「今回は、主にその為だな。シルハーンが漂流物の影響を受けて思うように動けない時に、最低でも二人は動けるようにしておきたいというのが俺達の結論だ。シルハーンの代理が求められる時には、アルテアとノアベルトでその不在を補い、尚且つ、ウィリアムが外側の澱を払うという形が望ましい。………建て前上はな」
「建て前ではない理由もあるのですか?」
ネアと言葉に、ふっと微笑みを深めたグレアムが、アルテアを見つめる。
怪訝そうに眉を顰めたアルテアに、犠牲の魔物は、夢見るような瞳を細めた。
「自分の力が及ばなくなることと同じように、シルハーンは、アルテアの為の錨としても、この魔術を結ぶことを決めたようだ。………俺は、アルテアもやはり魔物らしい欲があるかもしれないと最初は反対したんだがな」
「………余計な勘繰りだな。言っておくが、俺はシルハーンの領分のものなんぞ、欲したことはないぞ」
「ああ………。シルハーンからも、そう言われた。その上で、シルハーンがウィリアムと話をして、アルテアには今回の措置が必要だと話したようだ」
「………は?」
ネアは、アルテアが瞠目している隙に、ささっと花びらゼリー寄せをお皿に載せ、爽やかな檸檬のソースをかけた。
澄んだ琥珀色のゼリー寄せは、しゃくしゃくとした花びらが入ったシンプルなもので、ゼリー部分がしっかりめの牛コンソメの味なので、酸味の効いた檸檬のソースがとてもよく合う。
「漂流物は、ここではないものの資質を得るには絶好の機会でもある。アルテアは、商会の仕事や様々な土地での事業の中で、問題がないと判断した個体であれば、漂流物に手を出す可能性もあるだろう?………ウィリアム曰く、ここにいるバーレンの時のようなことや、蝕の時の自分のような事になると困るからだそうだ」
「まぁ。今回の事は、ウィリアムさんからの提案でもあったのですね!」
「ウィリアムに言わせると、アルテアは、意外なところで足を掬われる事があるからだそうだ」
「いや、あいつにだけは言われたくないだろ………」
そう返したアルテアは渋面であったが、ネアは、そんな魔物達の思いも何となく分かってしまう。
(私が、エーダリア様がいて、ヒルドさんがいてくれることがとても大切だと思うように………)
ディノやノアも、ウィリアムも、今の輪にはアルテアも必要だと確信しているのではないだろうか。
ネアの守護の一環として、ディノに不利な場面ではアルテアの手を借りたいと思うことも、選択の魔物が、共に楽しく暮らしてゆく為の欠かせない一人となったということを示している。
「うむ。アルテアさんがまた捕まってしまったら、私が取り返しに行けば良いのですね!」
「お前の可動域でか?」
「ぐるる!!」
「いいか、こいつを重しにするな。そもそも…」
「ネア自身も、漂流物に近いのかな」
そこで、おっとりと言葉を挟んだのはダナエだった。
はっとしたように言葉を失ったアルテアに、グレアムは何も言わない。
(……………ああ、そうなのかもしれない)
そしてネアは、成る程、そうでもあるのかもしれないのだと得心してしまった。
ここではないどこかから、こちら側に迷い込むもの。
大いなる災いでもあり、得体の知れないもの。
であれば、違う世界から呼び落とされたネアは、この上ない異端者でもある。
「ふむ。言われてみれば、そうかもしれません。そしてその場合、私との関わりが、私の大事な家族やお仲間を守る為の錨や盾になるのかもしれませんね。………あら、アルテアさんは、そんな目をしても、これもまた私を守る為の措置なのだと思いますよ。ディノは、私がどれだけ強欲なのかを知っているので、私が私のものを手放すのがどれだけの苦痛なのかを考え、この手でも自分の宝物を守れるようにしてくれたのでしょう」
ネアにとっての漂流物は、この世界で出会うここではないどこかのものなのかもしれないが、もし、ネア自身がわディノ達にとっての漂流物相当となれるのなら、どれだけの備えとなるだろう。
(となると、恐らく………)
いつもは説明が丁寧なディノやノアからの話がやや不明瞭なまま本番となったのは、取り急ぎ今日は儀式を済ませておくにせよ、理由付けの細かなところは綿密に確認を済ませてから一度に説明しようとしたのではないだろうか。
こんな時のネアは、よく分からないが必要ならお任せします型の判断をする人間なので、説明を後回しにしたというよりも、後からでも大丈夫だと信用してくれていたような気がする。
「確かに、使い魔の契約では弱いな。契約の破棄に準じる行為をした上で、彼が自分を切り捨てさせるという可能性がある」
そう言ったのはバーレンで、かつてアルテアを出し抜いて魔術で縛った人物からの発言はとても重い。
「だからこそ、今回の魔術が有効でもあるのですね。私にとっても、アルテアさんにとっても。………なお、いざという時に一方的に切り捨てられない約定なのであれば、森に帰るかもしれないアルテアさんですので、使用期間が過ぎたらきちんと解除しますからね」
「…………ったく。今更、そんな禍根の残る断ち切り方をするか。俺が、目を離せばこいつがどんなことをするのか、想像がつかないとでも思ったのかよ」
「ぐるる………」
「確かにウィリアムは、自分の経験を踏まえてより慎重になってもいるんだろう。だが、手数が多いのはいいことだと思うぞ」
「……………成る程。ネアに詳細を下ろしていなかったのは、お前が事後で俺を説得する迄の時間稼ぎでもあったか」
(あ、…………!)
その指摘に、ネアも腑に落ちた。
不用意な発言でアルテアに逃げられないようにする為に、敢えてネアへの報告も事後とされた可能性もあるようだ。
「さて。その質問に答えるのはやめておこうか」
「ほわ。………お腹を撫でて差し上げましょうか?」
「何でだよ」
アルテアが大きく荒ぶらず、ネアを錨とすることと受け入れたようなので、グレアムがふうと息を吐くのが見えた。
どうやらネアの家族達は、まずは儀式を終えてしまった後に、建て前の後ろにあるこちらの運用も、アルテアに了承させておきたかったのだろう。
立ち会い人として、知識が潤沢で柔軟な思考を持つダナエや、かつてアルテアを魔術で縛ったバーレンがいることも良かったのではないだろうか。
「…………ああ、受け取ろう」
視線を巡らせたグレアムが声をかけたのは、こちらの会話の様子を見て、少し離れた位置で足を止めた初老の給仕だった。
手には小枝を載せた花石のお盆を持っていて、内輪の大事な話ならばと、そのまま近付かずに様子を伺ってくれたのだろう。
許可を受けてあらためて小枝を持ってきてくれたので、ネアも、ふんすと胸を張り受け取る。
「春告げの女王にはならないくらいで、けれども、なかなかやるなというくらいの花を咲かせて下さいね」
「清々しいくらいに何の躊躇いもなく、俺に差し出してきたな………」
「むぅ。魔術の繋ぎを増やしたばかりの使い魔さんですので、今日は、パイの代わりにこちらの小枝でいいですからね」
「やれやれだな………」
ここでネアは、認識としては、それでいいのかなという新たな呼びかけを使ってみたのだが、反論されなかったのでこれでいいのだろう。
呆れたような目はされたものの、小枝を受け取りったアルテアの手の中で、ぽこぽこんと美しいスリジエの花が開く。
目をきらきらさせてその様子を見ていると、お願いした通りに、多いとは言えないが少なくもない花数を咲かせてくれた。
隣を見れば、ダナエの枝の方が花数は多く、ささっと視線を戻せば、アルテアとグレアム、バーレンの小枝の方が、ネアの枝より何輪か多いくらい。
この適度さが良いのだと重々しく頷きながら、ネアは、受け取った小枝を、さも自分が咲かせましたと言わんばかりに掲げてみせた。
残念ながら、参加者達の花枝を確認してゆく給仕たちはあっさり通り過ぎてしまったが、今年はこれでいいのだろう。
何しろ、話し合わなければならない事柄があったせいで、今もまだ、こうしえ料理のテーブルの横に立っていられる。
これからデザートに取り掛かるので、余分な時間はないのだった。
「うむ。無事にどなたかが、春告げの精霊さんのお宅訪問の権利を勝ち取ったようですね」
「珍しいな。ヴレメが競り負けたのか………」
「おい、何であいつなんだよ………」
「まぁ。木蓮さんが、今年の春告げの王様なのですね。………さて、スリジエのクリームケーキがあるので、そろそろそちらに取り掛かりましょう」
「その前にダンスだな。儀式的なものは終えたが、春告げ本来のダンスがこれからだ」
「…………もう、たくさんおどりましたよ?」
「お前の要求通り、食事の時間は設けてやっただろう?」
「ぎゃ!なぜにここから離れようとしているのだ!これからデザートなのですよ!」
「最後でいいだろうが」
「ダンス大好きっ子め!!」
連れ去られるネアを見送り、グレアムは苦笑していた。
ダナエは、踊りたいだろうかとバーレンの方を見てしまい、暗い目をしたバーレンが首を横に振っている。
花びらの散らばる床石にレースのような模様を落とすのは、満開の花を咲かせた様々な木々。
今度のダンスは満開のスリジエの下に立ち、こちらをひたりと見据えた魔物と向かい合う。
「むぐ?!」
しかしここで、ネアは鼻の頭にひらりと花びらが落ちてきてしまい、両手が塞がっているので、慌ててふるふると首を振った。
「……………おい、やめろ」
その結果、アルテアがなんとも言えない暗い目になってしまった。
「ふぅ!花びらめがお鼻に着地したので、振り落としただけなのですよ?」
「お前の情緒だと、弾むのを禁止するだけでは足りないようだな………」
「解せぬ………」
なぜか体を振るって花びらを落としただけなのに選択の魔物に詰られるという一幕があったものの、音楽が奏でられ始めると軽やかなステップに入る。
見上げた先で微笑んだ魔物との関係は、どうやらいつも春告げを機にして変化するようだが、来年はどうなるのだろう。
「来年は、どんなドレスになるのでしょうね」
「……………シシィとは、しっかり話をしておいてやる」
「私としては、復讐の道具にされるのだとしても、素敵なドレスを作って貰えるので満足なのですよ?……………む」
「おい、何を踏んだ………?」
「なぜだか分かりませんが、床に寝転がっている方がいたので踏むしかありませんでした。おかしな趣味の方だと言わざるを得ません」
うっかり踏んでしまった男性はぎゃっと声を上げて動かなくなったが、最初から床になっていたので自損事故だろう。
周囲を見ていると、どうやらこの時間からは、今後のお付き合いを見定めての二曲目以降のダンスに入るお客が多く、それを回避しようとした男性側が怒り狂ったご婦人に打ち倒される事件が起きているようだ。
床の上に参加者の一人が伸びていたのはそのせいかと頷き、ネアは、避けようのなかった事件だと忘れることにした。
ふと、人波の向こうに白虹の魔物を見たような気がしたが、ちょっぴり落ち込んでいる様子だったので、春告げの精霊のお宅に遊びに行けずに悲しかったのかもしれない。