222. 春告げのダンスで願います(本編)
ゆっくりとカップの中の紅茶をスプーンでかき混ぜるような、優美な旋律から始まる。
今年のどこか詩的な儚さを覚える春を告げる舞踏会の会場は、繊細な演奏がこの上なく似合っていた。
(ああ、綺麗だな………)
見上げた花枝の天蓋はパッチワークのようで、外周の霧雨は、灰色に銀色の筋の入ったカーテンのよう。
美しい美しい春の景色の中で、淡い灰色に会場を彩る花々の色を映した床石を踏み、春の雨の匂いに頬を緩める。
今年の春告げに用意された靴は、淡い菫色のものだ。
靴の飾りに使われている物と同じ色の宝石が、アルテアの飾り帯にあったりするので、意識的にお揃いにしてくれている部分もあるのだろう。
繋ぎ石の耳飾りは、もう少し色を濃くした菫色だが、髪に飾った薔薇の花の影になっているので、このくらいの方がきらきら光る。
ステップを踏み、柔らかなターンでドレスの裾がふわりと広がる。
今年のドレスは花びらを重ねたような形になっているので、全体的に広がるというよりは、ふぁさりと重なり合う生地が揺れさざめくような感じなのだ。
自分では見えないが、このドレスの真骨頂は背面なのだぞと得意げにしていると、また少しだけ、音楽が歩調を速めた。
一斉に翻るスカートの裾に、明るい色が舞い揺れた。
「…………ほお。側陸地の曲が多いと思っていたが、ランシーンの宮廷音楽家がいるな」
「この音楽は、ランシーンのものなのですか?」
「ああ。この曲については、本来、王宮の外に出る譜面じゃないからな。譜面を継承する為には資格がいるとなると、そう多くは知る者がいない筈だ。今年だからこそ、側陸地やランシーンなどの様々な土地の音楽で踊らせているんだろう」
「………漂流物が、来るからでしょうか?」
少しの不安が胸に宿り、ネアは、こちらを見ている赤紫色の瞳を覗き込む。
酷薄な美貌は鋭い程だが、預けた手を握る指には贈り物のリンデルが輝いているし、無茶なステップでネアを乱暴に振り回す事はない。
ここにいるのは、どれだけ野生の森の生き物でも使い魔でもあって、その約束をしっかりと結んだのは、かつての春告げの舞踏会なのだった。
「安心しろ。この春告げのダンスで、幾つか古い魔術を結んでおく。春の資質のあるダンスとなるとやはり春告げだが、もう少し儀式的な側面を持つか、古い時代の音楽がいいと思っていたところだ。この曲であれば、思っていた以上の効果が出るだろうよ」
「…………それは、アルテアさんの装いに関係があるのです?ダナエさんが、婚姻などの儀式を利用する為の装いなのではないかと話していました」
ネアがそう言えば、ふっと微笑みを深めたアルテアが、弄うように顔を近付ける。
噛まれてはいけないので目は逸らさなかったネアを見つめたまま、唇を耳朶に寄せた。
「…………そうかもしれないな」
囁くような低く甘い声は人ならざるものらしい艶やかさで、はらりと舞い落ちる花びらの影にいる美しい魔物が、微笑みを深める。
ターンに合わせて揺れる白い聖衣のような服裾に、宝石刺繍の美しい飾り帯は、ネアの角度からはあまり見えないが、さぞかし美しいのだろう。
「さては、永久就職的な感じで、雇用契約をしっかりしておくのでしょうか?」
「……………何だその言い方は」
ネアがこうなのかなと考えた上で尋ねてみると、なぜかアルテアは顔を顰めてしまったが、儀式的な意味合いで備えるのであれば、ネアだって、しっかり知っておきたいのだ。
魔術の細部までを理解出来るとは思えないが、もし、誰かの助けが得られない場所に立たねばならなくなった時に、自分がどんな武器を持っているのかは知っておくべきだろう。
「何か良くないものに備えて、春告げの祝福と、繋いだり、紐付けておいてくれたりするのですよね?」
なので、もう一度そう尋ねてみると、ふうっと息を吐き、アルテアが頷いた。
踊る人波の向こうに、以前にも見た事のある白虹の魔物がいたような気がしたが、すぐに見えなくなってしまう。
くるくると入れ替わる視点に、春の色が尾を引くように残った。
「お前は大丈夫だろうと、シルハーンは言うがな。とは言え、それがお前を損なわずとも、お前の運命の足元は脆弱だ。他の誰かごと巻き込まれて落ちるなら、俺の側にしっかり繋いでおくに越したことはない」
「むむ?アルテアさんと、なのです?」
「春告げから得られるものについては、再生などの類の祝福に繋げてある。…………同時に、お前との契約の内側の魔術誓約を辿って、俺自身に繋げている部分もある。分岐に立たされた時に、道を選び損ねないようにな」
ぐっと体を寄せ、また次のターンに入る。
ドレスのスカートとアルテアのケープが同じ幅で揺れ、床石には、幾つもの淡いドレスの色が花影のように開いた。
「では、それがあれば、きっと大丈夫ですね。先程、ダナエさんにも、私は大丈夫だと言われたのですよ。そして、バーレンさんが素敵な祝福石をくれるのだとか」
「ああ。それについては、話を聞いた。………ダナエは、お前には、祝福の形をした災いとしての備えがあると話していたそうだ」
「…………むぅ。初めて聞く言葉ではありませんが、それが私を助けるものであれば、災いであろうが大事に持っていようと思うのです」
「………まぁ、お前なら、そうなるだろうな」
今度の言葉はどこか満足気であったので、恐らくは、魔物達もそれを良しとするのだろう。
魔術の境界はとても曖昧で、言ってしまえば、ウィリアムの守護などは、人間の多くが災いとするものだ。
ディノ自身にも、全てであり、全てでないという万象そのものの資質があり、それを災いとする土地や組織も多い。
であれば、今更そんなことを恐れはしないのだが、こうして説明してくれるからには、きっと、その言葉の内容にこそ意味があるのだろう。
ネアは、大人しく続きを待った。
「だからこそ、今回はこの形の結びにした。祝福と災いの二面性を持つ魔術に手綱をかけるのに、婚姻に寄せた儀式作法程に向いたものはない。人間は様々な儀式にその形式を持たせるが、最もよく知られるものでは、夏至祭のダンスがまさにそうだ」
「ふむふむ。きっと、ダンスというもの自体も、その手法としては向いているのですね」
「ああ。…………だから、婚姻の作法を利用するといっても、夏至祭のダンスとさして変わりはしない。………それとも、お誂え向きに指輪もある以上、もう少し深めてみるか?」
(おや…………?)
その問いかけには魔物らしい微笑みはなく、弄うような含みもなかった。
とても穏やかで、けれども静謐で。
だからネアは、目の前の魔物が久し振りに対岸に立っているのだと気付いた。
「伴侶的な結びであれば、ぽいです」
「恋情や肉欲がなくとも、得られる恩恵もあるだろう。………高位の魔物を丸ごと手に入れるのであれば、今より可能とする事も多くなる。………それこそ、可動域も上がるかもしれないぞ?」
「まぁ。困りましたね。そう言われても、少しも欲しくありません。私は、私の一番大事なものを私なりの頑固な方法で大事にしているので、そこからはみ出るものはいらないのですよ」
ダンスの中で交わされる言葉はとても親密だったが、どちらかと言えば、これは雪食い鳥の試練にも似ていて、こちらを見ている魔物は恥じらいもせず、思い詰めた様子も見せず、ただ、静かな夜や深淵のような眼差しでこちらを見ていた。
どれだけ睦言のような問いかけでも、問われている内容自体は、その趣きではないのだと告げるように。
「手のひらの黄金を、むざむざと地面に捨てることになるだとしてもか?」
「それは私の黄金ではないので、後悔などするでしょうか。人間は、とても我が儘なのですよ」
「だろうな。………お前は殊更に我が儘だ。だが、………どうしてだか、お前が他の返答をする様は、想像出来なかった」
そう言ったアルテアが満足げだったので、どうやらネアは正解を引き当てたらしい。
呆れたような声音だが眼差しは柔らかく、満腹になったけだもののように優雅に微笑む。
「それでも、確認してみたのですか?………もし私が、うきうきして黄金に手を伸ばしたなら、一歩くらいはこの輪の外に出る為に」
この問いかけは、今も決して対岸には立たないとは言えない魔物によるものだったのだろう。
ネアの言葉に、ふっと眇めた赤紫色の瞳は光を孕む魔物らしいものだったが、先程よりは温度がある。
いや、これは、手を伸ばした物が形を変えずにいたことへの安堵だろうか。
「当然だ。守護の一環とは言え、これからくれてやるものは、使い魔の契約よりも一層深くなる。永劫に逃れられなくなる鎖ではなく、婚姻を模した儀式の形を借りて、俺と対等に紐付ける為のものだ。繋がれる魔術は従属や隷属ではなく、お前が、シルハーンやノアベルトと結んでいるものに近い」
「それを差し出すのは、アルテアさんとしては、少しだけ腹立たしいのです?」
「…………お前にならくれてやるが、喜ばしくはないな」
「ということは、もしや、お届けのパイの数が増えたりします?」
「………おい」
使い魔と婚姻の結びは違う。
それが例え儀式的な役割だとしても、差し出す側面が変わるのだろう。
だからこそ、アルテアはこんな問いかけをしたに違いない。
ネアがそれを受け取るのに相応しくないと判断すれば、与えるという選択は変わらずとも、この身勝手な魔物は失望するのだろう。
たいそう我が儘な生き物だが、人ならざる者達はそんなものである。
「パイが増えず、アルテアさんにとってあまり心地よくないものであれば、他の方法も考えてみて下さいね。私が踊っているのは使い魔さんで、そんな魔物さんのものは、既に全てが私のものでもありますが、とは言え、野生の獣さんは無理やり室内飼いにすると儚くなってしまうそうですから」
「妙な言い回しをするな。…………今はもう、契約の魔術の上だ。今更、織り上げ始めた術式の破棄は出来ないが、どちらにせよこれも暫定的なものだ。夏至祭のダンスと同じように、翌年の同じ舞台が来ればその約束は上書き出来る。…………一年間だけだ。不本意だろうが、堪えろよ」
(こんな時に、この人は堪えろと言うのだわ……………)
そんな事に少しだけ驚いて、ネアは、頷くのは違うかなと思い、小さく微笑んだ。
ディノも知ってのことであろうし、となればこちらに何か我慢を強いられるような要素はない筈だが、この魔物は、ネアという人間の嗜好を知り抜いてもいるのだろう。
とても困ったことに、ここで踊っている人間は、ちくちくするセーターを着せられてしまうと、真冬の屋外でも脱ぎ捨てる事があるのだ。
(でも、これは嫌ではないわ。私の望まない形ではなく、今の場所を守る為に切り出された、少し特殊な手法と言うだけなのだもの)
「アルテアさん、有難うございます」
「お前の事故の多さを考えると、最上位の守護でも足りないくらいだがな………」
「そんな使い魔さんもたいそう事故り易いので、もし、何か異変があったら声をかけて下さいね。使い魔さんを守るのは主人の務めですし、………このような形で結ぶ儀式は、対等でもあるのでしょう」
「……………そうだな」
ふっと息を吐き、あえかな口付けが落とされる。
六曲目のワルツは物悲しいが詩的な調べで、周囲を踊っている者達の顔ぶれはいつの間にか変わっていた。
「俺がお前を損なう決断をしようと、俺自身が足を掬われようと、それでも結ぶ魔術の輪だ。……………正直、シルハーンが許容するとは思わなかったが、この形でなければ不可能なことも多い。だからこそ、ノアベルトもそうしたんだろう」
「ディノはとても怖がりな魔物で、そして優しいのですよ。……………そんな優しい魔物が、一つの世界の終わりに生まれたのです。それはもう、どうしようもなく寂しかったに違いありません」
ネアの言葉に一つ頷き、アルテアは何も言わなかった。
けれども、魔物だって物思いに耽るだろう。
それはもしかしたら、遠い遠い始まりの日を思い出しているのかもしれなかった。
(誰かの慟哭を産声にして、終わりの日に一人ぼっちで生まれたから、ディノは、そのようにならない為のより多くをという選択をするのだろう。手を伸ばそうとしてもこぼれ落ち、戻らなかった人を知っているから、もう二度とそんな思いをしないように、誰よりも怖がりなのだ)
そんなディノにとって、アルテアはきっと、安心して肩を借りられるような存在になったのだと思う。
今はその間にネアがいるのだとしても、こうして歩み寄り、何かを共に成した記憶はずっと残る。
だからネアは、人間の価値観や常識では婚姻の結びなどと聞くと驚いてしまうとしても、ありったけの必要なことを、ディノや、ネアの大切な人達が必要だと思うだけ、かき集めて貰おうと思う。
ずっと昔にひと欠片の願いも残らずに全てを踏みにじられた人間だって、自分の宝物を守る為にはとても貪欲になれるのだ。
息を吸うだけで硝子を飲むようだった哀れな怪物が、こんな風に美しい花影の下で、溜め息を吐くしかないような美しいドレスで踊っているのだから、いっそうに。
その時、思ってもいなかった行動を取ったご婦人が目に入り、ネアは小さく息を呑んだ。
「……………ぎゅ。……………私の、ぜりよせ……………」
「お前の情緒は、息を吐くよりも簡単にこぼれ落ちるな……………」
「あちらにいる黄緑色の羽の妖精さんは、私の狙う花びらゼリー寄せを、三個もお皿に載せたのですよ。場合によっては、可憐な乙女の心を傷付けた罪で、誰が何と言おうと叩きのめします」
「可憐さのひと欠片もない言い分だがな……………」
ぐっと腰を抱き寄せられ、ぴったりと体を合わせてターンをする。
しゃわんと音を立てて揺れたアルテアの腰帯に飾られた大振りな菫色の宝石に、天蓋の花の影がレース模様のように映っていた。
「それと、今年は春告げの女王にはなるなよ。…………グレアム曰く、ヴレメが狙っているらしい。そう何度も、誰かと分け合うものでもないしな」
「引き続き、見ず知らずの精霊さんのお宅には行きたくないので、絶対になりません。寧ろ、ヴレメさんは、案外社交的なのですね……………」
「魔術を強請るつもりか、庭の花でも盗むつもりだろ」
七曲を踊り、どうやら儀式の結びは落ち着いたようだ。
今回は魔術的に適切な曲数があるようなので、ダンスが大好きな選択の魔物も、そこでぴたりと足を止めた。
「……………さて。婚姻を結んだばかりの花嫁には、花婿が贈り物をするらしい。何か欲しいものはあるか?」
だが、いよいよお料理のテーブルを攻め落とす時がきたと喜びに心を震わせていると、アルテアが、突然そんなことを言うではないか。
ぱちりと目を瞬き、ネアは、思いがけない問いかけに首を傾げる。
「………儀式的なものでも、そんな贈り物があるのですか?」
「夏至祭で振舞われる料理や酒、或いは、事前に恋人から贈られる花冠などもその役割を果たす為のものだ。一枚の金貨や、結晶石のついた装飾品、磨き上げたナイフや川底の石という場合もあるな」
「まぁ。思っていたより不思議なものや、素敵なものもあるのですねぇ」
「欲しい物を探し出すよりも、思い浮かんだ願いにしておけ。原初の魔術は、大抵がそんなものだ」
そう言われ、ネアの頭の中に浮かんだのは、思いがけないものであった。
一瞬、なぜそれを思い浮かべてしまったのだろうと目を瞠り、反対側に首を傾げる。
ぎりりと眉を寄せたネアに、会場の中央からお待ちかねの料理のテーブルの方に向かいながら、アルテアが怪訝そうな顔でこちらを見た。
「消耗品でもいいのでしょうか?咄嗟に思い浮かんだのが、そのようなものだったのです」
「……………食い物じゃないだろうな」
「ぎゅむ。…………コロールのお店で売っている、薔薇の軟膏でふ……………」
「薔薇の軟膏?……………ああ。あの店のものか」
おずおずと告白したネアに、幸いにも、アルテアは荒ぶりはしなかった。
不思議そうに目を瞬き、お前がその手のものを欲するとは思わなかったと呟く。
「あの軟膏だけは、なぜか最後まで使い切ってしまうのです。青くて綺麗な平べったい円筒形の瓶に素敵な薔薇の花の絵のラベルがあって、どこかお薬的で、わくわくとする感じがいいのでしょうか」
「嗜好品であり、手入れの品であり、薬でもある………か。まぁ、悪くはないな。明日には届けてやる」
「はい!」
容易に行ける店ではないが、市販の軟膏だ。
蜜蝋色のこってりしたクリームが肌の温度でじゅわりと蕩ける、ネアにとっては大好きな軟膏だが、所詮は軟膏でしかない。
でも、ここでアルテアが、そんなものと言わずに頷いてくれたのが何だか嬉しかった。
(それは例えば、ディノがどうしても捨てられない、列車の切符や、お出掛け先のパンフレットのように)
ゼノーシュの集めるクッキー缶や、ノアの持つ、擦り切れた青いボールのように。
特別な宝物には見えなくても、心を寄せて慈しむ大事なものというのはあって、ディノやエーダリア達のように最初から同じ岸辺にはいなかった筈の魔物が、そんなネアの思いを理解してくれたのが、とても嬉しかったのだ。
(たった一人でいいと願うけれど、そのたった一人が唯一であるけれど、……………それでも人間は、我儘で強欲だから願うのだ。……………大切なものや温かなものは、幾つだってこの手の中に持っていたいって)
「アルテアさんは、いつから、私の手の中のきらきらになったのでしょうね」
「…………っ、……………自覚があるのなら、今度は情緒を育てたらどうだ?」
「多分、白けものさんに出会い、ぎゅっとした時からだと思うのです」
「なんでだよ」
「ちびふわが、じっとりした目でお部屋の扉に引っかかっていて、自分も一緒に寝るのだと訴えていた時?」
「やめろ……………」
そんな会話をしていると、淡いピンク色のライラックの木の下にある、料理のテーブルに到着した。
ぱっと目を輝かせたネアは、そこに並ぶのが美味しそうなお料理だけではなく、ダナエとバーレンやグレアムという、お喋りをしたかった人達であることに笑顔になる。
「グレアムさんです!……………同伴者の方は、別行動なのですか?」
「ああ。彼女は今、元伴侶と踊っている。……………そろそろ、互いに何か答えを出すべきなんだろうな」
「……………まぁ。素直になれないお二人の、手助け的な………」
「はは、そうかもしれないな。二人ともよく知っているんだが、……………少し頑固なんだ」
その二人はグレアムの知り合いで、春の夜と春の黎明に属する妖精なのだそうだ。
どちらも災いに触れる資質があるので、認知の魔術の結びを避け、ネアに詳細は明かされなかったが、たった一度の喧嘩が拗れに拗れ、今は別々に暮らしている。
そろそろ、双方の胸の奥でとげとげしていた怒りが丸くなったようだと聞けば、ネアは、長い時間を生きるからこその取り戻しの機会なのだなと考えた。
「そして、お料理なのですよ!」
「このスープが美味しい……………」
「なぬ。グラスに入ったサフラン色のものです?」
「海老がとろりとしていた」
そう教えてくれたのはダナエで、ネアは、慌ててアルテアの手を引っ張ると、確保に向かった。
料理のテーブルは何か所かあるが、こちらはダナエがいるからか、他のお客の姿はない。
とは言え、場所を押さえるまでに食べられてしまったものも多いようで、手に持って食べやすい小さなグラスのスープは、残り五個であった。
「ったく……………」
「ふふ。渋々という感じですが、海老なのですものね」
「その微笑み方をやめろ。……………ほお、サフランとフェンネルのスープか」
「むむ!とろりとしていて、中に入った半生の海老さんも、………むむ!海老さんにも味があります」
「薔薇塩を振り、火が通らない程度に軽く燻製にしたんだろうな」
「ふにゅ……………とろじゅわ……………」
小さなスプーンでいただくスープは、とろりとしたスープに半生の燻製海老を絡めていただく。
冷たくて満足感があるのに、フェンネルの香りですっきりする上に、スープの黄色と海老の色が目にも鮮やかだ。
周囲を見回したアルテアは、特に危険はなさそうなので、羽織りものにしていれば良しという運用を見出してくれたようだ。
片手を捕獲されたまま食事をせずに済んだネアは、ほっとする。
すぐ隣のお皿に泡雪のようなお料理があったので何かと思えば、カッテージチーズとセロリの根の蒸し物を和え、濃厚な旨味のあるドライトマトを細かく切って散らした前菜のようだ。
小さなお皿に入っているのでこちらも食べやすく、ぱくぱくといただいてしまう。
僅かに効いている香辛料は、ネアの舌では名前までは分からない。
「これは、見た事がないお料理です……………」
「棘豚のプラム詰めだな。手前のソースと奥のソースで味が変わる。二個取っておいた方がいいかもしれないな」
肉巻き的な何かだろうかと、また新たなお料理に目を付けたネアに、微笑んだグレアムがそう教えてくれた。
犠牲の魔物的にはかなり好きな味だというし、小麦色の焼け目のついた棘豚の表面が何とも食欲をそそるではないか。
「岩塩が振ってあるので、俺はそのままの方が好きだったが、ソースがあってもいいかもしれないな」
「バーレンさんから、三個目の指令が下りました」
「おい、半分に切ればいいだろうが…………」
「……………あぐ!………む、むむ!!」
文句をつけたアルテアには、一口大のお料理に対し、何という事を言うのだと遠い目をしておき、ネアは、棘牛のお料理を素早く三個確保すると、最初のそのままの一口の美味しさに、目をきらきらさせる。
立食形式の食事に於いては大量確保は恥ずべき行為とも言えるが、自分に甘い人間は、仲間内の残数だけ確保すれば、後は知った事ではないのだ。
何しろ隣には、お皿ごと食べてしまう春闇の竜もいるので、三個は善良な範疇とも言える。
「……………美味しいでふ」
「豚肉とプラムは相性がいいからな」
「もはや、使い魔さんというより料理人さんの回答ですが、こちらの料理は、いつ再現していただいても構わないのですよ?」
「やれやれだな……………」
ソースは二種で、香草と刻んだオリーブのタプナードソースに、もう一種は、マスタードのソースのようだ。
そのどちらも素晴らしく美味しいので、ネアはじっと使い魔を見上げ、このソースは再現出来るだろうかと目で訴えておく。
呆れたような顔をして肩を竦めているので、きっと近い内に再会出来るだろう。
「無事に、祝福の繋ぎのダンスは終わったようだな」
そう切り出したのはグレアムだったので、ネアは、やはり魔物達は了承済みなのだろうなとこっそり頷いておいた。
「先にダナエと踊らせておいたお陰で、季節への繋ぎが思ったより安定したな」
「ああ。春告げの精霊よりも、春闇の方が、祝福と災厄という魔術そのものとの親和性は高いからな」
「そう言えば、祝福石をまだ渡していなかったな」
グレアムとアルテアの会話に自然に入ったバーレンは、きっとここで、グレアムと色々な話していたのかもしれない。
とても自然に輪に入ると、どこからともなく、きらきら光る淡い白金色の宝石を取り出す。
「まぁ。………お星様のようで綺麗ですね。リーエンベルクの飾り木の星飾りと同じような色です」
「……………いや、この輝きは光竜独自のものだ。同じ色合いではない筈だが……………?」
「ああ、そう言えば、リーエンベルクの星飾りは、光竜のものだったな。光竜の妃が嫁いだ際に、その兄が自分の瞳を捧げ、星の形の結晶石を象ったと聞いているが……………」
そこでグレアムは、呆然と自分を見ているバーレンに気付いたのだろう。
隣でローストビーフを食べていたダナエも、目を丸くしている。
「ほわ、……………そう言えば、ダナエさんとバーレンさんは、イブメリアの時期には、ウィームに来ませんものね……………」
「……………ウィームにあったのか……………」
ふるふるしているバーレンの背中を、ダナエがそっと叩いた。
その様子に驚いているグレアムに、ネアは、バーレンが光竜に纏わるものを探す旅をしているのだと説明しておいた。
「そのような事であれば、そもそも、……………古い竜種の血程に薄まりやすいから、もうかなり薄まってはいるだろうが、………エーダリアは光竜の血を継いでいる筈だぞ」
「……………え」
またしてもバーレンは絶句してしまい、ダナエがそっと頭を撫でている。
普段なら嫌がりそうなのに、余程余裕がないのか、されるがままだ。
「まぁ、そうなのですか?エーダリア様からそのようなお話を聞いたことはなかったので、秘密でなければ、ご存知なかったのでは………」
「あの世代の王家は、何かと出入りと秘密が多いからな。その血統だとは思っていなかったのだろう。だが、どちらかと言えばエーダリアは、先祖返りなのではないか?魔術の扱いに長け、銀髪だ。加えて、本来は違う系譜の色を持つ瞳なのに、時々青が見えるのは光竜の血のせいだろう」
「ほわ……………。バーレンさんが、動かなくなりました……………」
「良かったね、バーレン」
「……………ああ。……………彼が……………、そうだったのだな……………」
「………魔術の階位が、後天的に伸びるなと思っていたが、そういう訳か……………」
「そして、アルテアさんも初めて知った風でした………」
ネアが首を傾げると、その子孫にあたるということと、光竜の血を受け継ぐということは厳密には違うらしい。
最古の竜種でもある光竜は、異種婚姻で竜の質を残した子供を授かり難い種族なので、二世代以降は、直径でも血を継がないことも珍しくはないし、そもそも、表に出ている記録通りなら、エーダリアは光竜の血を継ぐ者の子孫ではないのだとか。
おまけに、ウィームの王家は元々、旧王家の血を引く者達の可動域が異様に高く、その上で竜との婚姻も多いので、とても紛らわしいという。
「エーダリア様に、カードからお知らせします?」
「…………帰ってからでいいだろ」
はらはらと、花びらが舞い落ちる会場を見つめ、ネアは、丁寧に重ねてお皿に移築することで、全体量を誤魔化したローストビーフに、ほくほくしながらソースを回しかける。
どうやら、バーレンの探し人は、思いがけない程に近くにいたようだ。