221. 春は厄介者もいるようです(本編)
優雅なワルツは、穏やかな旋律から弾むような軽快なステップに入る。
昨年までの音楽とは違うようだぞと思えば、どうやらこれ迄の春告げとは呼ばれている楽団が違うようだ。
とくに驚かれている様子もないので、たまたま、ネアが参加し始めた頃からは同じような選曲の楽団だったというだけで、こうして、給仕も含めがらりと雰囲気を変える事も珍しくはないのだろう。
一言で春と言っても、様々な顔がある。
今年の春告げは、霧雨の額縁の中に広がる舞踏会会場で、とは言え、細やかな煌めきを宿す霧雨が、床石の上に落ちる事はない。
それでいて会場の中央にいても感じられる不思議な瑞々しさは、ぐいんと伸びをして深呼吸したくなるような気持ちよさであった。
(…………むむ!)
ここで、音楽が速くなり、ダンスに参加した者達のわあっという声が響く。
速めとなったステップで楽し気に声を上げる者もいれば、思っていたより速いステップに顔色を悪くしている者もいる。
だが、その次のターンで女性達のドレスの裾がふわりと翻る様は、やはりほうっと溜め息を吐いてしまいそうな美しさであった。
花びらが舞い散り、振り撒かれた花びらがスカートの裾やステップを踏む足に舞い上がり、くるりくるりと回る度に石畳の向こう側に咲き乱れる春の花々の彩りが揺れる。
途中、ネアもひやりとするような複雑なステップがあったが、アルテアが巧みにリードしてくれたので事なきを得た。
気付けば隣にいた男女の姿がないようなので、ステップを間違えて戻り雪の領域に落とされてしまったのかもしれない。
「ふぅ!一曲目を乗り切りました。今年は初めましての音楽からでしたが、春告げの舞踏会らしい音楽でもありましたね」
「とは言え、こちら側の大陸ではあまり好まれない音楽だな。……………次は、いつものワルツのようだが、あちらの出身者が楽団にいるんだろう」
「これはゆったりめの綺麗な曲なので、先程とは違う楽しみ方が出来てしまいますね。……………むぅ」
ふっと体を屈めたアルテアに、口付けを一つ落とされる。
長い睫毛の影の映った赤紫色の瞳を見上げ、吐息の温度が離れるのを感じながら、なぜに祝福多めなのだろうかと思えば、ネアの近くに、同伴者が落ちてしまったものか、お相手を探すお米生物がいたようだ。
「………ふむ。あやつは立ち去りましたよ」
「あんな形状でも、毛皮だからといって触るなよ。木蓮は植物の系譜の中でも、伴侶選びにかけてはかなり気位が高いからな」
「謎でいっぱいですが、お米生物と踊るだけの才能はさすがに持ち合わせていないので、是非にご遠慮させていただきたいと思います」
音楽の上に爪先を乗せ、ゆったりとステップを踏む。
穏やかだが心が沸き立つような華やかさもある旋律に、恋人たちはようやく安心して微笑みを交わし、そうではない者達は、パートナーと楽しくお喋りを楽しみながらダンスを踊っていた。
ネアは、今年もめげずに料理のあるテーブル近くにアルテアを誘導しようとしていたが、気付けばターンなどを経ていつの間にか元の場所に戻ってきてしまうではないか。
慌てて次のステップでまた少し横に移動すれば、ふっと意地悪な微笑みを浮かべた選択の魔物が、耳元に唇を寄せる。
「少なくとも、後四曲は踊るんだぞ。今から端に行く必要があるのか?」
「アルテアさんは、なぜダンスとなるとはしゃいでしまうのでしょう?楽しいダンスは大事ですが、お料理も含めた主催者側のもてなしを満遍なく楽しんでこそ、舞踏会上級者と言えるのですよ?」
「少なくとも、こうしておけばお前も事故らないだろう」
「ま、まさか、私をお料理のテーブルに連れて行ってくれない訳ではないですよね………?」
「さて、どうだろうな」
「ゆ、ゆるすまじです!お料理は、決して私から取り上げてはいけない当然の権利なのですよ?!」
そんなやり取りを経つつも、無事に二曲目の音楽が終わった時のことだ。
こつりと床石を踏む靴音が聞こえ、ネアは、知り合いが会いに来てくれたかなとそちらに顔を向ける。
すると、ネア達に歩み寄ってきた美しい女性がおり、ネアと目が合うなりあからさまに顔を顰めた。
(おや………?)
ひらりと揺れたのは、水色のドレスだ。
どこか物憂げな紫の瞳が印象的な美しい黒髪の女性は、万人受けするというよりは個性的な美貌だが、ネアは、何て素敵な女性だろうと見つめてしまう。
刺繍を片手に、カフェなどにいて欲しい系の美女であるが、背中に透けるような赤色の羽があるので、妖精なのは間違いない。
(鮮やかな色ばかりだけれど、人外者の持つ色らしく、どこかの色が浮いてしまうと言うこともないのだわ)
民族刺繍のような色合わせがとても好きで、ふむふむと眺めてしまう素敵な妖精だが、見つめられた方は怪訝そうに眉を顰めるばかりなので、こちらの印象は宜しくないらしい。
「まぁ。なんて無粋なのかしら。春告げに冬の色彩を持つ人間が入り込むなんて。…………でも、高位の方には様々な暇潰しの方法があるのでしょうから、なんて醜い子を連れて来たのかしらと、とやかく言っても仕方ないわね。………アルテア、勿論、私とも踊ってくれるわよね?愛する者を腕に抱いてこその、春告げの舞踏会ですもの」
おっとりとした穏やかな声だが、口にしている事はなかなかに辛辣だ。
けれども、当然のようにそう告げるのであれば、ある程度の階位にある人物なのだろうか。
ネアは、この女性とアルテアが踊るのなら、ダナエ達のところに預けて欲しいなときょろきょろしかけ、なぜかぐいっと抱き寄せられ、むがっとなった。
何をするのだと見上げると、すっと瞳を細めた選択の魔物が、ひやりとするような微笑みを浮かべたのが見えた。
(…………あ、)
これはお怒りだぞと考え、ネアは脱出を諦めた。
残念ながら、こちらの妖精は、歓迎するような相手ではないらしい。
「………ほお?お前と踊れだと?冗談じゃない。アネモネの王配は、新代の女王に礼儀を教えるだけの役目も果たしていないのか?」
刃物のような声音は却って穏やかで、けれども、苦言を呈れたのは、女性の後方に立っていた男性であった。
こちらは、お髭の立派な壮年の人物で、目尻の下がった困り顔から気弱そうにも見える。
だが、きらりと光った瞳には、どこかこの状況を面白がっているような様子もあった。
(王配というからには、伴侶の方なのだわ……)
さり気なく会話から外されたアネモネのシーは不愉快そうに瞳を瞠ったが、その表情を見せたのはほんの一瞬で、すぐににっこりと微笑む。
「まぁ。まだ、そんな風に意地悪な事を言うの?確かに、以前の私は少し余裕がなかったわ。あの時の事は恥じています。けれども、あなただって、もう少し私を大事にするべきだったのよ?」
「………言っておくが、俺はお前に心を砕いた事もなければ、気紛れに時間を潰す為にすら、手を伸ばした事もない。自分の嗜好くらいは知っているんでな」
「………アルテア、そんな風に本心を隠さなくても、もう、あのお姉様はいないのに………」
「いないからこそだろう。お前の姉はまともなシーだったが、今代のアネモネは見る影もないな。二度と俺に近寄るな」
「二度となんて………」
「ほお?それなら代替わりだな。魔物の指輪を持つ者を悪し様に罵っておいて、階位も踏まえずに、俺にダンスを強請る浅ましさか。アネモネの評判は、地に落ちたにも等しいぞ。俺自身が手をかけることすら悍しい」
(こんなに饒舌なアルテアさんは珍しい………)
それが少し意外で周囲を観察すると、ひそひそと囁き合う他の妖精たちがいる。
どの妖精達も春の花や春の系譜の者達だが、黒髪のアネモネのシーが慌てて周囲を見回しても、軽蔑するような表情を収めはしなかった。
であれば、使い魔のこの様子は、自身の立場をはっきりさせるためなのだろうかと考えていたところ、ぱっと頬を上気させ、黒髪の女性がドレスを翻して背を向けた。
そのまま、ざりりと踏み締めるような靴音を立て、その場から立ち去ってしまう。
高位の魔物に非礼も詫びずに立ち去った伴侶の代わりに、その場に残って深々と頭を下げたのは、王配と呼ばれた男性であった。
「…………お前は、まだあの女の好きにさせているのか」
「はは、お見苦しいところをお見せしましたが、今回の春告げで限界でしょう。地道に負債を積み上げてきましたが、この話も必ずどこかから先王にも伝わりましょう。我らの氏族の仲間達で、もはや彼女を支持する者などおりませんよ。それがあなたの不興まで買ったともなれば、系譜の未来の為に彼女の事は廃せざるをえなくなる。………先日も、終焉の方を酷く怒らせておりましたから」
「ウィリアムを怒らせておいて、よくも春告げに出してきたな………」
(おや………)
二人が会話を始めると、思っていたよりも親しげではないか。
これは知り合いに違いないと考えた人間は、次のダンスに加わらないのであれば料理のテーブルに向かうのだとじたばたしたが、ネアを後ろから腕の中に収めるようにしたアルテアは、その場から動かなかった。
「とは言え、そろそろ先王のご寵愛にも翳りが見えてきましたね。彼女の振る舞いは、先王陛下のお立場をも大いに傷付けております。………早く、私の本来の伴侶に王座を渡してやりたいのですが、まさか六年もかかるとは………」
「お前の手腕のなさだろうな」
「はは、面目ありません。あなたとの仕事には響かせませんので、どうぞご容赦を」
胸に手を当ててもう一度お辞儀をしたアネモネの妖精の王配は、にっこりと微笑んで立ち去っていった。
周囲の妖精達はこの王配には好意的なので、何が事情があるのかもしれない。
「お知り合いの方なのですか?」
「側陸地にある、染料の原料配送部門の統括だな」
「なぬ………。部下の方でした。先程の奥様はとても植物の系譜の方ですが、あのようにぴしゃりとやってしまってもいいのです?」
「あれは、自分を甘やかす男しか好まないから、追い払う分には問題ない。出会う男の全てが自分に恋焦がれているという思い込みを損なう者は、存在しなかった事になるらしい」
うんざりしたような口調でそう言われ、ネアは成る程と頷いた。
恐らく、美しさを誇る花の系譜である以上は、自己肯定は強めでもいいのだろう。
だが、様々な種族がおり、その中での自分の階位がどれくらいのものなのかぐらいは、表に出てゆく以上必要不可欠な認識である。
「あらあら。それはもう、とても面倒な方なので、早々に相応しい方に王座に座って欲しいですね………」
「春の系譜の連中の、殆どがそう思っているだろうよ。…………やれやれ、今度は春風とか」
「むぅ。今度はあちらで、春風の妖精さんと何やら揉めています………。とても素敵な妖精さんに見えたのに、ちょっぴり残念でした」
そう言えば呆れたような目をされたが、先程のシーの姉である青アネモネの妖精は、春の多くの者たちに慕われるような女性なのだそうだ。
アネモネの氏族は五氏族程いるが、その中でも才女と名高く、この氏族の王になるのは彼女だと、誰もが思っていた。
「だが、アネモネには嫉妬の質もある。娘への期待の声が高まることに先王である母親が腹を立て、羽を奪って追い出した上で、今の王座にあの女を据えたという訳だな」
妖精の中には、出産を経て我が子を得る者達と、個別派生の妖精がいるのだが、アネモネは後者のようで、親子とされる妖精達でも、個々に派生しているので諍いは決して珍しくはないそうだ。
「ふむふむ。そして、先程の王配の方は、追い出された青アネモネさんが未だにお好きなのですね」
「元の婚約者だ。俺としては、あいつの伴侶込みで雇い入れていたからな。さっさと解決しろと言ってあったんだが………」
「となると、先程の一幕は、アルテアさんなりのお手入れでもあったのでしょう。………因みに、私が、あちらのアネモネさんを滅ぼせば、素敵な方に違いない青アネモネさんは、お友達になってくれるでしょうか?」
「……………俺の話を聞いていなかったのか?アネモネは、赤羽の妖精で、尚且つ嫉妬の質がある。そもそも、お前がヒルドの耳飾りを付けていてもあの始末だ。まともな方とは言え、絶対に近付くなよ」
「むぐふ!ほっぺたを摘むのはやめるのだ………!!」
だが、そう言われてみるととても苦手な感じがしたので、ネアは、すとんと表情をなくし、青アネモネの妖精をお友達にすることへの憧れを捨てた。
青いアネモネのシーがどれだけ素敵な女性でも、種族的な気質は厄介である。
もし相性が悪くて手に負えない事態になると困るので、懸念のある場所には近付かないに限るのだ。
アネモネは、リーエンベルクの庭にも咲いていて好きな花なのだが、幸いにもそちらは、雪アネモネなので植物そのものとしてより、冬の系譜の気質が強いのだとか。
それを聞いたネアは、思わずほっとしてしまった。
「ネア」
もう二度とあちらの女性には絡まれませんようにと祈る身勝手な人間の視界が、ふわりと翳る。
おやっと見上げたネアは、横に立った仲良しの竜の姿に笑顔になった。
「まぁ。ダナエさんです!」
春色の瞳を揺らし、心配そうな目をしたダナエが、いつの間にか隣に立っていた。
長い髪を一本の三つ編みにして体の前に流し、本日の漆黒の装いは、クラヴァットに花びらのような美しいフリルがあり、他に装飾はぐっと抑えてある。
そんな美麗さは、春闇の竜にとても似合っていた。
周囲にいた参加者達が慌てて逃げてゆくのは、この美しい竜が、参加者をぺろりと食べてしまう悪食の竜だからだろう。
けれども、ネアにとっては、大好きな仲良しの竜なのだ。
「アネモネに虐められたのなら、私が食べてしまおうか?」
「まぁ。見ていて下さったのですね。先程の件は、アルテアさんが声をかけられ、ご自身で追い払っていただけですので、もうこちらには来ないと思います。でも、心配してくれて有難うございました」
「それなら、良かった。エティメートから、あの妖精は煩くて嫌な妖精だと、注意するように言われていたんだ」
「むむ、そんな春風さんは、アネモネさんの羽を掴んで、どこかへ投げ捨ててしまいましたね………」
「うん。エティメートは強い。………ネアが無事で良かった」
「ふふ、そんな風にダナエさんが見ていてくれたのであれば、私はずっと安心ですね!」
微笑んでそう言えば、ダナエがそろりと手を持ち上げたので、頭を差し出してみる。
何を勘違いしたのか、少し離れた位置にいたご婦人が真っ青になって倒れてしまったが、春闇の竜は指先を伸ばしてちまりとネアの頭を撫でただけであった。
「撫でられた………」
指先でネアの頭を撫でたダナエは、ほわりと微笑み、今も変わらずに友達であるネアを歓迎してくれる。
「ふふ、これからもお友達でいて下さいね。………そして、奥にくしゃくしゃのバーレンさんがいますが、どうされたのでしょう?」
「一緒にダンスを踊ったからかな」
バーレンはどうしたのかなと思えば、ダナエから二歩半くらい離れたところで、なぜかくしゃくしゃになっている。
とても弱っているので、一人でいる美麗な竜に気付いたご婦人方が声をかけようとしたものの、様子がおかしいぞと怪訝そうにし、次に、近くにいるダナエに気付いてぴゃっと離れていった。
「まぁ、お二人で踊られたのですね?」
「今年は、漂流物も来るから、春告げの祝福をしっかりと持っておいた方がいい」
「うむ。であれば踊るべきです」
「………他人事だから、そう言えるんだ」
「早めに来て踊ったけれど、何人かに見られたからかな………」
「あらあら、祝福の為だと割り切ってしまえばいいのに、弱ってしまうのですね」
「こちらを見た月の魔物や、白百合の魔物の目を知らないから、そんな事が無責任に言えるんだ」
「むむ?白百合さんは、比較的理解のある方に違いないので、きっとバーレンさんの思っているような眼差しではなかったに違いないのですよ?」
ネアはそう言ったのだが、とても傷付きやすくなっているバーレンは、頑なな眼差しで首を横に振った。
その間、ダナエはアルテアと何かを話し込んでいて、ネアが首を傾げれば、どうやら旅をしてきた土地の様子などを、アルテアが聞いていたようだ。
カードでもやり取りがある筈なのだが、細かな質問などは、会っている時の方がいいのだろう。
「そう言えば、料理はもう食べたのか?」
「これからなのですよ。是非に、私を捕獲している魔物さんをそちらに連れてゆきたいので、手伝って欲しいのです」
「自分でやってくれ……」
自らその話題を振ってきたくせに手助けをしてくれない光竜に、ネアはへにゃりと眉を下げた。
てっきり、か弱い乙女の願いに気付き、力を貸そうとしてくれているのだと思っていたのだが、違ったらしい。
仕方なく、ダナエと話しているアルテアの腕の中で、小さく弾んでみる。
「…………おい」
「アルテアさん、ダンスは後にして、ひとまず、お喋りをしながらお料理をいただきませんか?」
「お前をあちらに連れて行って、そう簡単に離れられるのか?」
「適切な時間をそちらで過ごせば、私だって、ダンスを楽しんでしまう乙女なのです」
ネアは淑女の微笑みを意識してそう返したのだが、なぜか、アルテアは眉を顰めて呆れたような顔をするではないか。
「却下だな」
「ぐるる!」
「だが、俺より先にダナエと一曲踊っておけ。今年は厄介な花の姿もある。おまけにこいつが、ヴレメを見たらしいからな」
「まぁ。ダナエさんとのダンスであれば、久し振りに再開したお友達なので、吝かではありません!」
「ほお………」
「むが!………はにゃ、はにゃを解放するのだ!!」
こちらも自分で提案しておきながらの荒ぶりだったので、ネアは、手を取ってくれてダンスの輪に一緒に入ったダナエに、相次いでの悲しみを訴えておいた。
すると、おっとりと微笑んだ春闇の竜も、生真面目な表情で、食べ物はとても大事だと頷いてくれる。
さらりと揺れるダナエの紫紺の髪は艶やかで、時折、煌めく霧雨の色が映り込み、流星雨のように輝いていた。
その美しさに目を瞬き、白い牡鹿の片角を持つ美しい竜を見上げると、穏やかに微笑んだダナエが、ネアを丁寧にエスコートしてくれる。
「でも、ネアは、アルテアと多めに踊っておいた方がいい。アルテアがあの装いなのは、信仰の儀式と魔術の婚姻の要素を使って、春告げの祝福を結ぼうとしているのだと思う」
「こんいん………?」
「夏至祭でも、婚姻や求婚の輪郭だけを魔術にして、魔術の約束に使う。………色々なところで、………使うと思う」
片手を繋いだまま向かい合って一礼し、もう一度手を取り合って踊り始める。
周囲の者達は少し距離を取っていたが、それでも、春告げのひと柱の竜のダンスに、恭しく頭を下げる者達も少なくない。
悪食と恐れられるダナエだが、最高位に等しい竜でもある。
得体の知れない恐ろしいものとされながらも、それもまた春の資質の一つとして、美しい季節の色彩を宿し、相応しい畏怖を集めはするのだ。
また、一人の男性として見れば、この竜の美しさは相当のものだろう。
竜種というものの中に於いては、一般的な種は分かりやすい頑強さを望みはするが、それでも他の氏族たちにもその美しさが語られると聞けば、ネアの自慢の友達であった。
ステップを踏み、春の彩りの上で踊る。
はらはらと舞い落ちる花びらと、その向こう側で霧雨が静かな音を奏でる。
楽団の選んだダンス曲は、またしても馴染みのないワルツであったが、どこか郷愁の念を掻き立てるような美しく穏やかな曲であった。
「婚姻と聞いて驚いてしまいましたが、言われてみれば、そのようなお作法に見立てた儀式は多いような気がします。…………アルテアさんが必要だと思い、あの装いを見たディノがそれを許容したのであれば、私には、そのようにして結ぶべき祝福があるのですね」
「うん。……………ネアは大事な友達だから、怪我をしたり、怖い思いをしない方がいい」
「最近、人間の祟りものさんに出会ったのですよ。その結果、魔術洗浄に時間をかけていたりしたので、もしかすると…………むぐ?!」
ここで、ダナエが体を傾け、首筋に鼻先をこすりつけてきたので、ネアは、危うくステップを間違えそうになってしまった。
周囲で踊っていた何組かの参加者もぎょっとしたように目を丸くし、ステップを間違えたのか、どこへともなくすとんと落ちてゆく。
「……………その残り香はないよ。人間の祟りものは、あまり美味しくはないかな」
「まぁ。調べてくれたのです?」
「同族には、悪い影響が大きいものだから。………その障りが残っていると、松の木を燃やしたような匂いがする」
伝えられた香りを思い浮かべようとしたが、ネアは、なぜか、クリスマスの日の朝のモミの木の香りを思い出してしまっていた。
(松の木………)
親しみのない香りではない上に、人間の祟りもの全般に於いても、なぜか信仰の系譜の特徴に近しい要素が出てくるのだなと不思議に思いながら、こくりと頷く。
「ダナエさんが確認してくれて何もないとなると、アルテアさんの装いは、別の理由なのでしょう」
「漂流物かな。…………バーレンが、後で祝福石を渡すと話していたから、ネアとエーダリアは大丈夫だと思う」
「バーレンさんの、祝福石………?」
「うん。……………ターン………。……………光竜の祝福は、あるべき形に留めるものだから、漂流物が嫌がるんだ」
「ふふ。ダナエさんとのターンは、とても軽やかですね。…………そして、そんな素敵なものをいただいてしまえるのなら、ここは、遠慮せずにえいっと強欲に貰ってしまいます」
「うん」
微笑んだネアがそう言えば、ダナエも、微笑んで頷いてくれた。
出会った頃はもう少し言葉少なであったが、バーレンと旅をするようになってから、より多くの言葉を尽くして色々と教えてくれるようになったのは、きっと、この優しい竜がお喋りに慣れたからなのだろう。
先日、恋人になった精霊をうっかり食べてしまう悲しい事件があったようだが、それでも、ダナエの隣には、ずっとバーレンがいる。
一人であちこちを旅して回っていた時も、ダナエは孤独ではなかったと話していた。
けれども、バーレンと旅をするのは、とても楽しくて嬉しいのだとか。
「ネアは、今でも大丈夫だと思う」
「漂流物が来ても、ということでしょうか?」
「うん。ネアが持っている祝福と災いは、…………それを退けた事がある標なのだと思う」
「私が…………?」
「こちらでなら、対岸から来るもので、あちらなら、そこにあったものなのかな。……………多分」
少しだけ曖昧な言葉を聞き、確かに、対岸から来るものは何度か退けたりやり過ごしたりしているネアは、そのどこかに、漂流物対策になる要素があったのだろうかと考えた。
考え過ぎてステップが疎かにならないようにしているので、帰ってから、家族に相談してみてもいいのかもしれない。
(何しろダナエさんは、どこか本能的というか、匂いや感覚で考えることも多い竜さんだから……………)
或いは、長くを生き、より形を捕らえにくいものを司る竜だからこそ、その曖昧さの中に答えを見付ける事こそがダナエの資質なのだろうか。
漂流物は、それを一度退けた者の事は、損なう事が出来なくなる。
退けるという表現から、破壊したり追い返したりという意味にも取れるが、正確には、使役したり捕縛することなどの魔術の繋ぎも対象とされるのだそうだ。
そんな条件を生かし、海の系譜の生き物達は、影の国へと続く扉を管理することで、あちら側の資質の影響をあまり受けないようにしているという。
あの扉の立地上、海の系譜でなければ管理の難しいものなので、今はその独占に意を唱える者は少ないが、そうでなければ奪い合いになった資格だろうと、ディノが教えてくれたのだ。
海で生まれた者達という縛りがある為に、ネア達がその資格を一時的に借りるという事は出来ないが、そうして手があると知るのは有益な事なのだろう。
「もしや、……………森に居た頃のアルテアさんを、狩ってしまったことがあるからでしょうか?」
「どうだろう…………?」
(それとも、影の国やモナの海で、絨毯のあわいや、花葬の船で、あちら側から来たものの障りを、回避しらからなのだろうか…………)
もしかしたらそれが、魔物達には分からない感覚や予兆に等しい部分で、ダナエには感じ取れたのだとしたら。
そう考えて嬉しくなってしまったネアが小さく弾むと、ダンスを終えたばかりで手を繋いでいたダナエが、嬉しそうに微笑みを深める。
「ダンス、楽しかった………」
「私もです!ダナエさんと一緒に踊ると、上手く言葉に出来ませんが、春の上で踊っているという感じがとてもするので、とても楽しいのですよ」
「……………うん」
目元を染めて嬉しそうに微笑んだダナエと一緒に、次のダンスの邪魔をしないよう、招待客達の輪を抜けて戻れば、なぜかとても不機嫌な使い魔がいるではないか。
寂しかったのかなと思い首を傾げていると、近付くなりおでこをびしりとやられ、可憐な乙女は怒り狂った。
「ゆ、許しません!おでこは、二度目ではないですか!!」
「竜に首筋への口付けを許すな。加えて、弾むなとも言っておいた筈だが?」
「……………むぅ。あれは、ダナエさんが、先日の人間の祟りものめの影響が残っていないか、くんくんしてくれただけなのですよ?」
「……………は?」
瞠目したアルテアの様子を見ていると、やはり、匂いで障りが残っているのかを確かめられるのは凄い事のようだ。
そんなダナエは、待っていてくれたバーレンに、もう一度踊るかどうか尋ね、絶対に嫌だと叱られている。
叱られてしゅんとしたダナエと、腰に手を当てて叱っているバーレンが周囲から微笑ましく見守られているのは、何度かの春告げを経て、バーレンがダナエの調整役として認識され始めたからだろう。
「そして、そろそろお料理などを…………」
「こちらのダンスの続きだ。行くぞ」
「ぎゃふ!!私のパイ包み的なお料理が、残り三分の二くらいになっているのだ………!!」
「それだけ残っていれば充分だろうが……」
「ぐるるる……………」
同伴者があまりにも威嚇するので、溜め息を吐いたアルテアは、ネアを一度だけ料理のテーブルに連れてゆくと、春野菜のムースと濃厚な味わいの生ハム的なものを入れた小さなパイを一つ、ネアのお口に入れてくれる。
たまたま近くにいたロサが、選択の魔物の給餌を正面から見てしまいぎょっとしていたが、ネアは、大事な一口を美味しくもぐもぐしているままにダンスの輪に連れ戻され、三曲目のダンスの始まりの音に立った。
「むぐぅ。隣にあったゼリー寄せも、絶対に食べてみせます」
「食い気しかないことにつて、自分でもおかしいと思わないのか?」
「あら、舞踏会の楽しみの半分は、お料理なのですよ……?」
「配分がおかしいだろ。催しの名称を考えてみろ」
「それは、ご招待の名目であって、目的ではないのでは……………」
そう言いながらふわりとターンに入ったネアは、ダナエが、何かそこそこに大きなものをぼりぼりと食べてしまった瞬間を見たような気がしたが、即座に見なかった事にした。
新芽の妖精がいなくなってしまっても、春の訪れに問題がないと信じるしかない。
もしかしたら、春闇の竜にも、あの妖精は棒ドーナツに見えたのかもしれなかった。