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絵本のあわいと竜のお茶会




その絵本を見付けたのは偶然であったし、幸いにもその時、ネアの胸元にはムグリスディノが詰め込まれており、膝の上には赤紫色の瞳のちびちびふわふわした生き物がぺしゃんと潰れていた。


膝の上のもふもふについては、珍しく髪の毛を上げていたところ首筋を指先でついっとやられ、不意打ちを受けた人間が変な声を上げてしまったのを笑った、邪悪な魔物への制裁措置である。



「……………竜の王子と菫色のドレス。素敵な題名の絵本ですねぇ」

「キュキュ!」

「フキュフ!」

「荒ぶるもふもふがいますが、絵本の中でくらい竜さんは諦めていただきましょう。私とて、竜さんの成分を補充したくなることがあるのですよ」

「キュ…………」


そう告げた伴侶に、ムグリスディノはちびこい三つ編みをしおしおと下げる。

ネアはそんなむくむくの伴侶を撫でてやり、あくまでも物語の中の事なのだと告げた。


「物語の中では、やはり竜さんが出て来るものにわくわくしてしまいます。とは言えこれは、想像の中の物語を綴った読み物ですので、許容して下さいね」

「キュ……………」

「フキュフ!」



綺麗な装丁の絵本であった。


表紙の小さな窓の中に描かれているのは美しい庭園で、そこには一匹の黒い竜がいる。

黒一色という訳でもなく様々な色を宿した複雑な色味の鱗は、黒真珠の輝きで、何て美しい竜なのだろうと考えたが、賢明な人間は魔物達の前ではそれを口に出すことはなかった。


ネアの生まれ育った世界ならいざ知らず、この世界では多色持ちの稀有な竜だ。

けれどもこれは物語の中での設定なので、窓のこちら側からそんな竜を見付けた子供は何を思うのだろう。


ぱらりと頁を捲ると、そこに広がるのは小さな屋根裏部屋である。

お城のと書かれているので、お城にこんな形の屋根裏部屋があるのかどうかはさて置き、主人公はあまり宜しくない扱いを受けているのはよく分かった。



(……………あ、ウィームの絵本ではないのだわ)



文字を追いかけてゆくと、そんな事に今更気付いた。


リーエンベルクの書庫にあったのですっかりウィームの絵本だと思っていたが、慌てて絵本をひっくり返してみると、後ろの部分に見た事のある紋章が入っている。


ネアはディノのお陰で色々な文字が読めてしまい、そのせいで異国の書物だと気付き難い場合があるのだが、今回はロクマリアの絵本だったようだ。


念の為に絵本を調べてみると、立派なスタンプが背表紙の裏側に押されており、そこには、ロクマリア王家からウィーム領への寄贈品であることが記されていた。 



(そう言えば、エーダリア様に、ロクマリアの王女様から縁談の打診があったと聞いた事がある)



国であった頃のウィームであればロクマリア繋がりも不思議ではないが、記載されているのはウィーム王国ではなくウィーム領なので、統一戦争後もこうしたやり取りなどがあり、その際に受け取ったものの一つなのだろうか。


つるつるした装丁は上質なもので、箔押しの題名の文字も繊細である。

きっとこの絵本は、贈り物にされ国を渡るのに相応しい立派なものなのだろう。



かくして物語に戻れば、これは意地悪な家臣に領地を乗っ取られた不遇のご令嬢が、美しい黒い竜を友に得て、領地を奪還する冒険物語であった。

主人公は、最後に王家からやって来た使者を丁重にもてなした事で、王宮の舞踏会に招かれ、王子に見初められる。


竜と一緒に仲良く暮らして欲しかったネアにはあまり納得のいかない結末だが、小さな子供達は、この物語を読んで素敵な恋や美しい竜との冒険に憧れるのかもしれない。


立ち去り際に竜は、小さな友人にぴかぴか光る不思議な石を授けてくれる。

何か困った事があれば自分を呼ぶようにと言い残し立ち去った竜もまた、主人公に恋をしていたのだ。

けれども、異種族間の恋は叶う筈もなく、星降る夜に夜空に旅立ってゆく。



「むが!何なのだあの王子は!!苦楽を共にした訳でもなく、突然最後に現れただけではないですか!!」

「キュ!」

「フキュフ………」

「このお嬢さんは、竜さんと領地で暮らす方がずっと幸せになれた筈です。そもそも、ずっと屋根裏部屋に閉じ込められており、その後も使用人に混ざってお料理をしたり、川で素足で遊んでいたような子が、なぜに王妃になってしまうのだ……………」

「キュ!」



素敵なお話だっただけに、ネアは少々荒ぶってしまった。


心の中の憤りにむぎゃむぎゃしながら、テーブルの上に置いておいたグラスから杏の果実水をごくごく飲み、異種族だからと竜にあっさり別れを告げて、見目ばかりは麗しいらしい王子と王宮に戻ってゆく主人公を恨めしく凝視した。


今開いているのは、最後の頁だ。


夜の王宮の前で手を繋いだ王子と主人公の絵は素晴らしかったが、そのどこにももう、あの竜の姿はない。

思っていた結末ではなかったことに腹を立ててしまうのもまた、狭量な人間の我が儘なのだろう。



(ああ、でも、あんなに優しい生き物はいないだろうに。惜しみなく知恵を与え、寝る時も主人公に寄り添ってくれた優しい竜なのだ……………)



ネアがこんな風にむしゃくしゃするのは、その寄り添い方が、かつてのネアハーレイの憧れた隣人だからなのかもしれない。


貧しくてもいいのだ。

美しい自然に囲まれた長閑な領地で、不正さえ正されてしまえば、長命種の叡智を持つ竜と共に、幾らだって幸せに生きられた筈なのに。



「…………私は、王宮などで過ごすよりも、素敵なお家で、家族や竜さんと過ごす方が素敵だと思うのです。……きっと、私はリーエンベルクでディノやエーダリア様達と暮らしてゆくのが幸せなので、個人的な嗜好が合わずにもやもやしてしまうのでしょうね」

「キュキュ!」


そう告げたネアに、ムグリスディノはちびこい三つ編みをしゃきんとさせ、誇らしげにしている。

そんなむくむくの伴侶をまた指先で撫でてやり、ネアは、膝の上のちびふわもそっと撫でた。


「フキュフ」

「あらあら、勿論、ちびふわもこちら側なので、こんなに素敵なふかふかを置いて、王子様などの手を取る事はないのですよ?」

「フキュフ!」



もふもふした生き物達とは同じ考えであったことに安堵し、ネアは、見事な絵をそっと撫で、ぱたんと絵本を閉じた。


だからもし、絵本を閉じた瞬間に見たこともない場所に立っていたのだとしても、こちらには過失なしという案件で間違いない。


何しろ、どこにも過失のない、一般的な読書終わりの作法であったのだ。



「……………ほわ」


しかし、その瞬間にはもう、ネアは見知らぬ場所にいた。



「ここは、どこだろう?」

「む。ディノが元の姿に戻ってくれました」

「うん。君に何かあると危ないからね」

「………フキュフ!!」

「む。………有事ですので、ちびふわも、お仕置きを解いて差し上げますね」

「……………くそ、こういう場合は、一刻も早くその擬態を解け!」

「お仕置きなのに我が儘なのだ………」



ネア達が立っているのは、美しい庭園の中であった。

石造りのアーチがあり、噴水には澄明な水がきらきらと陽光に輝いている。


ピチチという声に顔を上げれば、頭上にせり出した木の枝には可憐な小鳥が止まり、ふくふくとした体を膨らませて陽光をたっぷりと浴びていた。


咲いている花々は、春のものなのだろう。

色とりどりのチューリップは、八重咲の物などもあり実に表情豊かで、花壇の様子を見ているとかなり丁寧な手入れを受けている。


うっとりとするような甘い芳香は、中階層の茂みになっている植物の細やかな黄色い花の香りだろうか。

初めて見る花であるが、形状は苺の花に似ているような気がする。



「……………あわいだな」

「うん。この植物の重なりは、先程の絵本で見かけたような気がするから、絵本の中のあわいなのだろう」

「もしや、出る為に必要な条件があったり、何か大きな試練に見舞われたりします?」

「どうだろう。……………アルテア、擬態をしておいた方が良さそうだ」

「だろうな。このあわいを壊すと厄介な事になる」

「なぬ………」



魔物達曰く、ここは絵本の中に派生したあわいで間違いがないのだそうだ。

本来の白持ちの姿でいると、絵本の核となっているものを脅かしてしまう可能性があるのでと、慌てて擬態をしたらしい。


周囲を見回しても人影はないが、後ろにはお城のような立派なお屋敷がある。

絵本の中では全体図が描かれていなかったのだが、これが、主人公の暮らしていた領主館だろうか。



「誰かを探した方が、良いのでしょうか?」

「かもしれないが、頁を開いていたのはお前だ。くれぐれも、取り込まれないようにしろよ。ったく、信仰の影響がないかどうか最後の魔術洗浄に来てみれば、案の定だな」

「ぐぬぅ…………」



噴水の水音と、小鳥たちの囀り。

さわさわと風に揺れる枝葉の葉擦れの音に、さくさくと下草を踏む音。

麗らかな春の日の空は青く、敷物を敷いてピクニックをしたいような穏やかさだ。


ネアは、リーエンベルクの大広間のようにここでのんびりして帰るだけならいいのにと思ったが、魔物達は、かなり周囲を警戒しているようであった。



「おや、お客人かな」



背後から声がかかったのは、そんな時のこと。

ぎくりとしたネアより先に、アルテアがそちらを振り返る。


「……………お前!!」

「おや、アルテアか。これは久し振りだね。………となると、私の隠れ家を、とうとう選択の魔物に見付けられてしまったらしい」



だが、息を詰めていたネアが聞いたのは、驚いたようなアルテアの声と、日差しで温めた地面のようなあたたかな男性の声であった。


若々しい瑞々しさよりはザハのおじさま給仕くらいの年頃に思え、けれども、年齢を重ねざらついた声音には、何ともいえない魅力がある。


乗り物になっているディノがはっとしたように振り向き、青灰色に擬態した三つ編みが揺れた。

そして、そこに立っていたのは、腰下までの黒髪の美しい男性だ。



(…………わ、綺麗)


思わずそう思ってしまってから、この美しさは造作ではなく、きらきらした瞳や、微笑みが良く似合う唇の形や、僅かに下がった目尻にくしゃくしゃの黒髪の輝くような艶による表情の美しさだと知る。


人外者特有のぞっとするような美しさや、人間的なものであっても如何にも整っているという輪郭はないが、ただひたすらに、胸を温かくする魅力的な容貌なのだ。


そんな輝きに目が眩むように、何て綺麗な男性なのだろうと感じてしまったらしい。



「…………ナシャーエル、かい?」

「おお、シルハーンではないか。君がいれば、悪しき魔物がいようとも一安心だ。アルテアが、私をここから引き摺り出そうとした場合は、諫めてくれると嬉しい。………おや、このお嬢さんは?」

「私の伴侶で、歌乞いなんだ。……………君は、ここにいたのだね」

「伴侶!………君が。…………君もか!!」



ぱっと笑顔になった男性は、こちらに来るとディノの肩を親し気に叩いた。


ネアは、そんな仕草が何とも親し気で、話に聞いてはいないものの友達だった人なのだろうかと目を丸くしてしまう。

だが、相手の階位や資質によっては問題が出るので、口は開かずにいた。



「可愛い子じゃないか。私は竜だから、このお嬢さんが、実はなかなか獰猛そうだぞと分かってしまうし、そうなると、君の伴侶にはぴったりだ。魔物の伴侶に気安く話しかけはしないから、君の奥方に、どうぞ私のかつての盟友を宜しく頼むと伝えておいてくれ」

「……………盟友」

「おや、違ったかな。私は、勝手にそう思っていたのだが」

「………いや、………そうだったのだろう。あの頃の私は、そのようなことがよく分からなかったんだ」



ディノがそう言うと、ナシャーエルと呼ばれた男性はにっこり微笑んだ。

ちらりとアルテアの方を振り返り、声を潜めて体を寄せる。


「もしや、アルテアに何かされたのか?私も家族がいるので、あまりな騒ぎになると困るのだが、困っていたら言ってくれ。この屋敷の裏手には沼があるんだ。どうにかして誘導して、そこに落としてこよう」

「おい、全部聞こえているぞ。…………お前な、武器部門の事業をそのまま全部置いていきやがって。どれだけ引継ぎに苦労したと思っているんだ…………」

「それは仕方がない。君が、私をあの辺境伯令嬢に売り飛ばすから、こうしてあわいに移り住む羽目になったんじゃないか」

「いや、あのくらいどうにかしろよ」



(これはもう、……………相当親しい人なのではないだろうか) 



三人の人外者の会話には、相応の親しさがなければ感じられないような温度がある。

目を瞬き、ディノの三つ編みを引っ張れば、まだ少し驚いたようにしていた魔物が、はっとしたように視線を戻す。


「ずっと昔に、ロクマリアの前身だった国で一緒に過ごした事がある、夜の入りの時間の座の竜だよ」

「まぁ、そのような竜さんなのですね」

「うん。彼は夜の入りを司るから、君との相性はいいだろう。人間の伴侶を得ていて………」


ここで、ディノが困ったように視線を彷徨わせた事に気付き、アルテアと何やら仕事の話をしていたナシャーエルが振り返る。

目をきらきらさせると、ディノを安心させるように微笑みかけてくれた。



「私を気遣ってくれたのだな?安心していい、妻は健在だ。今日も、私にボートで睡蓮の池でお喋りをしようと言ってくれた可愛い人でね。外では長い時間なのだろうが、こちらではまだ二百年程なのさ」

「二千年と少しだから、かなり時間の流れが違うのだろうね。今は、外側とこちらとの時間の流れに差が出ていないようだけれど、何か条件があるのかい?」



そんなディノの言葉を聞くまで、ネアは、ひやりとしてしまっていた。


うっかり姿を消している間に、何日も時間が経ってしまっていたら、たいへんな騒ぎになる。



「ああ、お客が来たばかりの時は、一刻程、外側と時間の流れ方が重なるようにしてある。客人がこちらに留まる選択をすれば時間はこちら側のものに戻り、帰ると決めればまた扉が開く。…………残念ではあるが、君達は帰るのだろうな。だが、少し時間があればお茶を飲んでいかないか?」

「構わないけれど、……………君の伴侶は、良くないのではないかな」

「ああ。王と三席ともなると、さすがに刺激が強い。残念ながら、私だけしか出席出来ないだろう。息子がいれば同席させたかったのだが、生憎、王都へ買い物に出ていて三日戻らないんだ」



(王都………!)



ネアはここで、驚きと好奇心でいっぱいになってしまい、伴侶の瞳を見上げてから、素敵な竜に話しかけさせて貰うことにした。



「初めまして」

「初めまして、お嬢さん。名前を名乗らない用心さも、私が君の伴侶の敵ではないと知ってから微笑みかけてくれる聡明さも、私の古い盟友にとっては得難いものだろう。彼を選んでくれて有難う」

「ふふ。私はそんな伴侶が大好きなので、そのように言ってくれて、有難うございます。……………どうしても気になってしまったのですが、このあわいには、王都までがあるのですか?」 



ネアがそう尋ねると、ナシャーエルと呼ばれた竜は頷いた。


優しそうな微笑みとくしゃりとした髪の毛がとても似合っていて、こんな友人がいればさぞかし自慢だろうなと思える人だ。


装いは黒の一色で、どこか真夜中の座の精霊王に似ているが、貴族的でもある。

だが、表情が何とも生き生きとしているので、春の庭園の中でも浮いてしまう事はない。



「あの絵本から入ったのなら、そう思うのも当然か。……………実はここは、私が、伴侶やその一族と共に暮らす為に作ったあわいでね。あわいの中だからと息が詰まらないように、広域で作ってあるんだ。その為に、あの物語には、王都での場面も多く出て来るようにしてある。海辺の街や、ごろごろ石の谷なんかもね」

「まぁ!あの絵本は、ここに、皆さんのお住まいを作る為のものなのですね」



夜の入りの竜によると、以前、アルテアに引き合わされた顧客があまりにも厄介で、伴侶となる前の恋人やその家族に障りが出そうであったので、あわいの中に引っ越すことにしたのだそうだ。


外側では失踪したかのように見せかけ、あの絵本を媒介にして不特定多数の読者の心を集め、あわいを分厚くしながら、こうして何不自由なく暮らしている。



アルテアの紹介してしまった女性は、ナシャーエルを気に入って伴侶にしようとしたのだとか。


辺境伯の娘であり、王家の血を引く権力のある女性で、その国の貴族だったナシャーエルの恋人は、危うく馬車の事故に見せかけて殺されるところだったらしい。


怒ったナシャーエルは、辺境伯領を壊してしまおうとしたが、当時、その土地には高位の魔物がいた。

また、厄介な水仙の妖精の女王の守護などもあり、自分一人ならいざ知らず、守る者達を抱えての正攻法での解決が難しかったのだという。


結果としてナシャーエルは、内々にあわいへの移住を決め、恋人の一族が襲われた日に諸共殺されたふりをして、こちらへ移り住んでしまった。



「最初は、家族や家族の持っていた領地の一部の領民達以外の者達はあわいの住人だったが、絵本の広まりと共に、入植者が増えた。今は、随分と多くの者達が暮らしている」

「あの絵本を読み終える事で、何か条件指定が動くようにしてあるのか」

「あの絵本を読み、竜の側に親身に心を寄せ、王都から離れた自然豊かな領地での暮らしこそが望ましいのにと痛切に望む者に対してのみ、門が開く仕組みだ。王宮での暮らしや、王子の伴侶に憧れた者には開かない」

「……………おい、お前のせいだぞ」

「むぐぅ。しかし、あの王子めは気に食わないのです」

「ああ、お嬢さんの心が開いた扉だったか。これは、失礼した。だが、久し振りに知った顔に出会えたのは、あわいの暮らしを選んだとは言え、僥倖だな」



絵本の選別は、絵本の中の物語に大きく心を動かされること。


自分ならばと考える程に心を揺らし、尚且つ、物語の結末に疑問を抱き、竜と人間という異種婚姻に理解を持ち、地位や名誉よりも穏やかな幸福こそを望むこと。


つまりは、ここで暮らす者達と価値観が近ければ、比較的簡単に扉が開くのだ。



そう決めたのは、当時、ナシャーエル達を苦しめた辺境伯令嬢や、その国の王族に苦しめられている者達が多かったからなのだそうだ。


心優しいナシャーエルの恋人やその家族は、国の上層部の政策や領政の惨さに意見してしまい、元々、いつ謂われもない罪で投獄されてもおかしくないという危うい立場にあった。


国策のせいで貧困に喘ぐ見知らぬ同胞達を、そんな国を残してゆくのが忍びなく、絵本の入り口を残し、表の暮らしを捨ててもこちらで生きたいという者には門戸を開くことにした。


とは言え、希望のあった者達を一律に受け入れた訳でもなく、招かれた者に対しても、選定の上で機会は一度きりとするあたりは、人外者らしい線引きである。

ここは彼と彼の愛する者のあわいなのだから、救う為だけの扉ではないのは当然なのだ。



「……………そうして繋げておくのは、危なくはないかい?」

「ここから出てゆく者に対しては、私がそうしなくていいと望まない限り、記憶が消えるようになっている。絵本を読んだ後に、ふっとこの庭園が見えたような気がするくらいの証跡しか残らないようにしたので大丈夫だろう。…………そもそもが、子供向けの絵本だからな、君達のような、もしもがあれば私すら危うくなるような者が扉を開くことは、まずない筈だったんだ」

「あわいの規則を整えられたのは、お前だからか……………」

「ああ。私は、空想や想像を司る夜の入りの竜だからね。そのような魔術を作るのは得意なんだ。……………さて、お嬢さんはどのケーキがいいかな?」

「ケーキ!!」



庭園には、テーブルと椅子が出されていた。


ナシャーエルが持ち上げて見せてくれたのは、お茶会用だという銀盆の上の何種類ものケーキだ。


ネアは、その中から白葡萄のムースに白いクリームで繊細な薔薇の飾りがある素敵なケーキを選び、ディノは、アーモンドと林檎のタルトを選んでいる。

アルテアが選んだのは檸檬パイで、その全てがナシャーエルの屋敷で暮らす料理人の手作りなのだとか。


サーブも含め、階位のある主催者が給仕をしてくれる不思議なお茶会だが、ティーポットの扱いなどを見ていると、この竜は随分と手慣れているようだ。



「妻と娘たちと、今は孫たちもかな。美しい庭園があって家族の人数が多いから、この季節になると、お茶会は毎日のようにやるんだ。お客はよく来るし、家族で賑やかに過ごすのも大好きだからね。今日の参加者は少ないが、その代わりに久し振りに愉快な時間が過ごせそうだ。……………この砂時計で半刻なので、そこまではゆっくりとしていってくれ」



魔術の繋ぎも問題がないと言うので、ネアは安心して紅茶をいただき、ほわんと頬を緩めた。

今迄、アルテアやヒルド、ザハのおじさま給仕の淹れてくれた紅茶は美味しいなと思ってきたが、この竜もかなり上手い。


茶葉の質も勿論のこと、このカップに注ぐ絶妙なタイミングを計れるからには、言う通りにこれまでにかなりの数のお茶会をこなしているのだろう。



「私はね、かつて、アルテアと仕事をしていたんだ。竜としての資質ではないのだけれど、以前に仲良くなった武器商人から武器の商社を預かっていてね。けれども、地上を去る時に、その商社は丸ごとアルテアに渡してきてしまった。アイザックでは戦争に繋がる利用が多くなる。その点に於いては、アルテアなら安心だ。善良な男ではないけれど、欲望よりは安心出来る剪定を好む魔物だからね」

「ほお。その割に、後は任せたの一言だっただろうが」

「はは、君であれば、それで伝わると思ったんだよ。………シルハーン、彼女とは歌乞いの儀式で出会ったのだろうか?」

「いや、私が呼び落として、その後で契約を交わしたんだ。……………すごくかわいい」



何かを言おうとしたが言葉を彷徨わせ、きりりとそんな事を言ったディノに、ナシャーエルは生真面目に頷いている。



「ああ。それは私にも分かる。妻は、今朝もこれからもずっと、誰よりも可愛いのだろう」

「ずっと、こちらにいるつもりなのだろうけれど、困っている事はないかい?」

「……………君は、きっと昔から優しい男だったのだけれど、柔らかくなったなぁ。ああ。不自由などはなくのんびりと楽しくやっているよ。この道は開いておくから、どうかまた遊びに来てくれと言いたいところだけれど、君達程の階位のお客となると、三年から四年に一度くらいかな。それより間隔を狭めると、この庭の魔術資質が偏ってしまうからね」

「だろうな。これだけ広域のあわいは珍しいが、実在している土地ではない分、予期せぬ魔術の傾きには弱い」


アルテアの言葉に頷き、ナシャーエルは愛おし気に目を細めて庭園やその奥に続く森を眺める。


「ここで初めて、私の妻やその家族は、穏やかなばかりの暮らしを得たんだ。今ではこちら側しか知らない家族も増えた。今更表に戻るのは難しいだろう。あわいの特性上、外に子供達を出す事は危ういからね。……………だからこうして、古い友人達に再会出来たのは、この上ない喜びだ。有難う、お嬢さん」



あわいで生まれた子供達は、表に出ても存在していられるのか分からないのだという。

ましてやここは絵本の中のあわいで、外に出されてしまえば、お話の中の存在だったと消えてしまうかもしれない。


そればかりは、このあわいを作ったナシャーエルにも分からない。


それでもあわいの中で暮らしてゆくことを選んだ竜とその家族は、これから先のどれだけの時間を、物語の風景の中で過ごしてゆくのだろう。



ネアは、金庫の中にあったお菓子やお酒など、こちらでは手に入らないものの一部を、ケーキのお礼として渡しておいたが、過ぎたる刺激にならないように量は控えめにした。


見知らぬ外の世界への憧れだけを無責任に置いてゆく事はできないが、ナシャーエルの穏やかな微笑みを見ていると、きっとここでの暮らしは外に焦がれる事がないくらいに満ち足りているのかもしれない。


より狭い箱庭であれば刺激を求めてしまう者もいるかもしれないが、このあわいは、領地の外までがある広い物語を有しているのだ。



「ほら、あちらで遊んでいるのが孫たちだ。ああ、娘もいるな。私はこの通り幸せなので、君が幸せで良かった。シルハーン、きっとまたいつか会いに来てくれ。君と過ごしたあの国での日々は、陽の落ちない長い夜に皆で酒を飲んで語り合うくらいだったが、とても愉快だった」



穏やかな午後の陽が、ゆっくりと翳ってゆく。

素敵な再会の時間が終わり、砂時計の砂はさらさらとこぼれ落ちた。



「うん。またここを訪ねよう。君のあわいへの入り口となった絵本も、大事にしておくので安心しておくれ」

「今度は、ノアベルトも連れてきてくれないか?あれもあれで、漸く幸せになれたと聞いてほっとしているんだ。何度か、………満たされていないのだろうなという、無茶な享楽を見ていたからね」

「では、次はノアベルトも連れてくるよ。…………家族、……だからね」

「ああ。それにしても、アルテアが使い魔になるとはなぁ……………!」

「……………いいか、それは忘れろ」



じっとりとした目でこちらを見たアルテアに、それを話してしまったのはディノではないかと、ネアは、首をぶんぶんと横に振った。


古い知り合いに再会出来た万象の魔物は、お喋りが楽しかったのか、こちらの魔物が使い魔であることも話してしまったのだ。



「恩寵なのだろうさ。どのような意味でも、そういう出会いはきっとある。だが、心を預ける者を一人も得られない者に伝えるには酷な話だ。………君達が幸せでいてくれたお陰で、私は、散々家族自慢が出来たという訳だな」

「お前の孫の話は、もううんざりだな」

「そう言えばこの前は…」

「おい、帰るぞ。門が閉じれば時間が動き出す」

「はは、ふざけただけだよ。………出口はこちらだ。この薔薇のアーチを潜ると、元いた場所にいるだろう。半刻だけ、時間は経ってしまっているがな」



念の為にと、ネアはディノに持ち上げられた。

振り返り手を振れば、笑顔で見送ってくれている夜の入りの竜がいる。



「………少しだけ、ディートリンデさんのようでしたね」

「うん。どちらも、己にとって必要なものを選び、世界の表層から去ったのだろう。………彼が生きていてくれて良かった。…………あのような竜が、愛する者達と共に殺されたのであれば、……………上手く言えないけれど、あまり愉快ではないなと思っていたんだ」

「まぁ。では、あの絵本は宝物にしなければですね。大切に管理しておきましょう」

「うん。…………ノアベルトも、喜ぶのかな」



薔薇の花影を抜けて、ふくよかな香りを吸い込む。

秘密の花園を後にして元居た場所に戻るような感覚に、ネアは、夢の終わりのような、言葉に出来ない切なさを覚えた。

ぶーんという蜜蜂の羽ばたきや、鳥の囀りが遠ざかってゆけば、確かにそれは物語からの目覚めであったのだろう。




「…………ほわ」

「戻ったな」

「元通りだね。君の紅茶は、冷めてしまったようだけれど」



目を瞬くと、ネアは書庫にある椅子に座っていて、目の前のテーブルには、頁を閉じた絵本が置かれている。


表紙の絵は相変わらず美しかったが、あの庭園で一人の美しい竜の話を聞いた後は、窓の向こうの竜ばかりを見つめてしまう。



「………不思議な絵本でしたねぇ。ディノ、この絵本はエーダリア様に相談して、どこかに大切に保管しておきましょうね。この次も、またその次も、きっとこれから、何度もあの竜さんに会えるに違いありませんから」

「………そうだね。………君もまた、一緒に行ってくれるかい?」

「ええ。勿論です」





なお、絵本の中の竜の話を聞いたノアは、とても荒ぶった。


お気に入りのお城を貸した際に渡しておいた鍵を持ったまま失踪されたので、とても大変だったらしい。

だが、ナシャーエルのことは嫌いではないので、次の訪問の際には、家族自慢をしに行くようだ。




「ずっと昔に、美しい庭園の夢を見たことがある。そこには黒髪の竜がいて、ケーキを振る舞われたような気がするのだ」



そして、絵本の持ち主のウィーム領主は、どうやら既にナシャーエルに出会っていたらしい。

とは言え記憶は朧げで夢だと思っていたようで、この絵本を読んだ日の夜に、美しい庭園の夢を見たという記憶になっていたようだ。



その日に自分は夜の入りの竜に出会っていたのだなとほんわり微笑んだエーダリアに対し、ネアは、素早くノアとヒルドと視線を交わし、大事な家族があわいに取られてしまわずに良かったと胸を撫で下ろす。



竜が大好きな一人の元王子がこちら側へ帰ると決めたのは、ここが、ウィームだったからだろう。


そして、いつか必ずこちらに呼び寄せると誓った美しい森と湖のシーや、グラストを筆頭とした、リーエンベルクの騎士達がいたからこそなのかもしれない。



絵本の挿絵を手がけたのは有名な妖精で、本職は、刺繍妖精だったのだそうだ。


晩年をロクマリアで終えたその妖精の絵本に魅せられ、ウィームの王族の一人が絵を学んだという記録があるそうだ。

その王子は、王家にかけられた厄介な呪いを引き受けてウィームを去ったようなので、残念ながら彼の作品は残っていない。












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