王都の騎士と祟りもの 4
「それで、君の理想の騎士についてじっくり話を聞きたいな。僕もまぁ、騎士としての生活が長いからね。主人にと望む君の価値観にはいささか興味がある」
「なぜこうなったのだ……………」
悲しい呟きをこぼし、ネアは部屋の向こうにある窓を眺めた。
現在は特殊な環境下にあり、このまま視線を下げると厄介な事になる。
なので、窓の方を見るようにしていた。
窓の外は曇天で、ゆっくりと夕闇に近付いてゆく時間だ。
庭の雪にはもう、冴え冴えとした冬の白く輝くような煌めきはなく、代わりに白蝋のような独特の美しさがあった。
とは言え、明日はまた雪予報が出ている。
本当に降るのだろうかと思っていたが、ラベンダーがかった灰色の雲を見ていると、どうやら降りそうだ。
であれば、明日の朝は雪を見上げて咲く雪薔薇の芳香を楽しむ、最後の機会かもしれない。
そんな事を考えていると、微かに笑う気配があった。
頑なに視線を下に向けないネアを、世慣れた魔物は愉快に思っているのだろう。
ネアは現在、外客棟にある部屋で、剣の魔物による聞き取り調査をされていた。
先程、三年でウィームに移住することになったオフェトリウスに荒ぶる義兄との会話の中で、騎士と言えばという言葉で始まる憧れの騎士について語ります風な発言をうっかりしかけてしまい、慌てて言葉を飲み込んだものの、こちらの剣の魔物はしっかり聞いていたらしい。
魔術洗浄待ちで客間にいると、訪ねてきて、この通りに尋問が始まってしまったのだ。
「ぐぬぬ……………」
オフェトリウスについては、家族の輪の外側の魔物に荒ぶられても本来ならぽいなのだが、助けて貰ったばかりであるし、尚且つ、騎士姿の魔物にとってのそのような言動は、自己肯定などに響く可能性もある。
バタークッキーの精は、うっかりココアクッキーを褒めると死滅してしまうそうなので、そのような悲劇を引き起こさないよう、ある程度誠実に対応した方がいいのだろう。
そして、そう思うが故に、ネアはこの場での対処法を探しあぐねていた。
「……………あの話しぶりだと、君達のよく知る人物のようだった。その上で、僕も知っている人物だね」
「おのれ、なぜに微妙に鋭いのだ……………」
「ウィリアムではないのだろうけれど、……………リーエンベルクの騎士かい?」
「さらりとウィリアムさんを外してきましたが、私の騎士さんなのですよ?」
「それならそう言えば良かったのに、君は言葉を濁しただろう?……………となると、別の者であるようだ」
「ぎゃふ……………」
とても困ったことに、ネアの膝の上には、オフェトリウスの頭が乗せられている。
そこまで近しくないので、若干排他的な傾向の強い人間からすると、一刻も早くやめて欲しいのだが、これがオフェトリウスなりの捕獲方法であるようだ。
甘える為ではなく、ネアを動けなくさせ、質問に答えさせる為の振舞いである。
この手のやり口で距離を狭められることを苦手としていると、早々に気付かれてしまったからこうなっているのだが、ネアの淑女在籍期間では、膝の上にそこまで親しくはないが滅ぼしたくはない魔物が頭を乗せて寝そべってしまった場合、どうやって排除するかの手引きがない。
もう少し引かれた線から遠くにいるのなら、問答無用で立ち上がって頭を落としてお終いなのだ。
では、乱暴にはしたくないものの、この状態から解放し給えという場合は、何が正解なのか。
(……………反対側にずれることは出来ないし、立ち上がって貰うしかないので、きりんさんの端っこを見せてみるのはどうだろうか……………)
だが、そんな事をしてお世話になったばかりの魔物が死んでしまったら困るし、現在のオフェトリウスの肩書を思えば、王都が大騒ぎになってしまう。
とても悲しくなったネアは、甘やかすか滅ぼすかの二択の履修しかしてこなかった自分を恥じた。
次からは、洒脱な会話で小粋に立ち去らせる手法を学んでおこう。
「リーエンベルクには、素敵な騎士さんが沢山いるのですよ。グラストさんは文句なしに素敵ですし、他の騎士さん達も、皆さんそれぞれに魅力的なのです。やはり、私にとっての騎士さんと言えば、そうして身近にいらっしゃる方々と言えるでしょう」
「…………リーエンベルクの騎士ではないようだ。となると、……………あの場にいたのは、明らかに人外者の擬態であろう青年と、……………ベージか」
何か思うところがあったのか、小さく呟くような声にぎくりとし、ネアは、慌てて口をぎゅっと噤んだ。
部屋にはディノもいるのだが、現在は、ネアの隣に座って目を閉じている。
ほんの少しだけの休息をとこの伴侶な魔物が居眠りしている隙に、ご主人様は膝を占拠されてしまったのだった。
珍しくこんな風に目を閉じているディノは、オフェトリウスのように目立った負傷がなくとも、かなり消耗しているのだろう。
ノアによれば、祟りものの魂に触れるという行為は、とても危ういものであるらしい。
ディノでなければ出来ないのは勿論のこと、ディノであってもかなり疲弊した筈だと教えて貰った。
なのでネアは、このくらいの危機では、疲れて眠っている大事な伴侶は起こさないのである。
とは言え、この状況下でネアの膝の上に頭を乗せられたオフェトリウスは、なかなかに肝が据わっていると言えよう。
何しろこちらの人間は、野生の魔物に噛みつかれたりしないよう、念の為にハンマーを手に持っているのだから。
「……………むぐ。黙秘権を行使します」
「ベージかな。……………ふうん。成る程。……………僕の次の主は、あのような騎士ぶりがお気に入りなのだね。とは言え、彼は、優し過ぎて少し決断力に欠けるような部分がないかい?」
「まぁ。そんな事はないのですよ!ベージさんは、一族の方々の為に、いざとなればご自身を犠牲に出来る、しっかりとご自身の理想や思考を持たれた方です。唯一惜しむらくは、氷竜さんなのに少しもとげとげしていないところでしょうか……………」
「成る程、やはりベージで確定か」
「ぎゃふ?!」
うっかり殿堂入りの騎士を知られてしまったネアは、己の失態にふるふるしたが、オフェトリウスは、内面で気に入っているようだし、彼ならいいかなとくすりと笑う。
「ぐるる……………」
「ごめんよ、どうしても気になってしまってね。それに、君がこんな風に油断をしてくれるのは、今日くらいのものだろうし」
「だとしても、お膝は家族専用なので、なりません」
「おや、時々、君の騎士を甘やかしてはくれないのかな?」
悪戯っぽく微笑んでそう言われ、ネアはすっと半眼になる。
これが、例えば、以前の選択の魔物のような生き物なら、ハンマーで威嚇して追い払うだけなのだが、悪事を働く為の距離感ではないので、排除には移れずにいた。
だが、本気で何かを要求されるのであれば、早い段階からお断りしておかなければならない。
「王都で、どんな爛れた生活をしているのだ……………」
「はは、冗談だよ。それに、君は、勿論承知の上で暴れずにいてくれたのだろうけれど、こうしていたのは、君が逃げ出し難いようにしただけだからね。……………いいかい?もし、今度こうする者がいて、それが望まない状況だった場合は、相手が病人や怪我人でもない限り、容赦なく立ち上がって頭を落とすといい」
「むぅ。今からやってみます?」
「この状態で立ち上がると、反対側にいるシルハーンが起きてしまうので、それをしなかったのだろう?では、このままにしようか。…………さて、僕はそろそろ部屋に戻ろう。……………騎士というものは、少々厄介でね。やはり仕える主には大事にされたいものだ。君の嗜好も分かったことだし、それが真っ当な理想だと知れたから、安心してウィーム移住の準備を進められる」
「……………真っ当ではない理想もあるのですか?」
やはり、話を引き出す為だけの膝枕であったかと暗い眼差しになっていたネアだが、思っていたよりも静かな声に、思わずそう尋ねていた。
「……………そうだね。僕達は剣で、騎士だけれど、同時に司るものの王でもある。である以上、ただの道具に成り下がるのは矜持が許さないんだ。我が儘だろう?」
「それは、一般的な騎士さんも同じでしょう。それを否と言える立場をお持ちかどうかの違いではありませんか」
「そうだろうか。道具でいるままの方が楽だという者も、今は少なくはないんだよ」
静かな静かな声に、ああ、それがこの魔物は悲しいのだなと思った。
ウィリアムが戦場を憂うように、剣の魔物は、ただ磨耗されてゆくだけに成り下がっている騎士がいることが悲しいのだ。
「そのような方達もまた、我が儘なのでしょう。選ばないということは、なかなかに強欲なのですよ?」
「……………はは、そうかもしれないね。その上では、僕はこの上なく善良だ。何しろ働き方を選ぶし、主人だって選びたい。特に僕は、主人選びには口煩くてね。ずっと昔に気に入っていた主人の気質があって、そのような者をついつい探してしまうんだ」
「……………まぁ。さては、私はここでも額縁なのですね」
「額縁か。…………うーん、そのようなものというよりは、後継者のような感じかな。……………さて、本当にそろそろ部屋に帰った方が良さそうだ。シルハーンに見付かると、叱られてしまうからね」
「そう思っているのに、よくも隣でやりましたね……………」
「気配には敏感なんだ。これでも騎士だからね。……………おや?」
なぜかここで、オフェトリウスがぎくりとしたように体を揺らした。
慌てて体を起こしかけたが、何かあったものか、額に手を当ててがくりと肩を落とす。
どこかを見ているのでその視線を辿り、ネアは、戸口に立ち、丁度扉を開いたところな二人の魔物を発見した。
「まぁ。ウィリアムさんとアルテアさんです」
「……………ネア?」
「むむ、ディノも起きましたね?ウィリアムさんとアルテアさんが、来てくれましたよ」
「うん。……………どうして、オフェトリウスはそこにいるのかな」
「こちらの魔物さんは、私から必要な情報を引き出す為に、このような作戦に出られたのですよ。どうやら、資質的に譲れない問題だったと思われますが、なかなかに狡猾な敵でした」
「オフェトリウスなんて……………」
ネアがそう説明しても、眠たげな水紺色の瞳を揺らして体を起こすなり少し荒ぶった魔物は、慌てて三つ編みを持たせてきた。
とは言え、ここで気になるのは、無言のままの戸口の魔物達である。
オフェトリウスはもう立ち上がってしまったが、お家に帰って来たら野生の魔物がいたからか、ちょっと呆然としているようだ。
ネアは、魔物とは言え、このような場合はやはり気になるのかなと首を傾げてみた。
「……………おい」
「むぅ。膝を押さえ込まれていましたが、この通り、いざという時の為に武装はしているのですよ?」
ネアがそう主張し振ってみせたのは、片手に握り締めていたハンマーである。
何か悪さをしたらこれで戦うという威嚇の為に持っていた物だが、オフェトリウスからは、うっかりにでも振り下ろされると本気で危ないので、出来るだけ動かさないようにと言われていた。
有事の際の抑止力なので、ネアも、むやみに暴力を振るうような真似はしていない。
だが、オフェトリウスも公認の効果のある抑止力なので、充分な備えであった筈だ。
「オフェトリウス。……………ネアの騎士は、俺で充分だと言わなかったか?」
「はは、これはまずいところを見られてしまった」
ウィリアムの声は若干低めであったが、剣の魔物は僅かに苦笑するばかり。
ネアは、これは、後で喧嘩しないようにと、脳内の多頭飼い教本の頁を捲り、こちらにいる魔物は、肘から下を失ってまで守ってくれたのだと告げてみる。
即ち、野生ではあるが、敵ではないのだと主張したのだ。
「ほお。それでお前は、また余分を増やした訳か」
「むぅ。思ったような効果が得られません……………」
「彼等の心象を良くしようとしてくれたのだろうけれど、このような状況下では、言わない方がいい事だったかもしれないね」
「……………こ、こうなったら、きりんさんを出し、等しく皆を弱らせればいいのですね!」
「……………は?」
それでは最終手段に出るしかない。
慌ててポケットに手を突っ込めば、選択の魔物がぎょっとしたような顔をする。
素早く動き、ネアの手をそっと押さえたのは、ウィリアムだった。
「ネア、ポケットの中の物は取り出さないでくれ。オフェトリウスとは、後で話し合うようにするからな」
「むぅ。大きな恐怖を前にすると、皆が仲良くなるということは、壮大なる実験を経て学習しているのですよ?」
「どんな実験をしたのか気になるところだけれど、僕は客間に戻ろう。ネア、これから魔術洗浄をするのだろうけれど、きちんと薬湯は飲むように」
「……………まじゅつせんじょうがあるのはしっていましたが、にゅまはしりません…………」
「少しも影響が出ているようには見えないが、もう王都に帰ったらどうだ?」
冷ややかな声でそう言ったアルテアに対し、オフェトリウスは小さく肩を竦めてみせる。
にっこり微笑んだ表情のどこにも隙のない、穏やかで理知的な微笑みだ。
「いずれ同僚になるんだ。そう警戒しないでくれ」
そして、胸に手を当てディノに優雅に一礼してみせると、剣の魔物は部屋を出ていった。
後に残されたのは、しっかりハンマーは手にしていたのに、なぜか使い魔から渋面を向けられているか弱い人間である。
ウィリアムからも無言で首を横に振られたので、なぜか風当たりはこちら向きのようだ。
「ネア。オフェトリウスを、あんな距離に近付けたら危ないだろう?」
隣に座った終焉の魔物にそう言われ、ネアは、くしゅんと眉を下げる。
「まぁ。ですが、このハンマーでがつんとやると、やや本気でまずいと仰っていたので、危険などはなかったのですよ。それに、あの魔物さんは、ウィーム大好きっ子だと本日判明しましたので、こちらへの移住にあたっての障害となるような問題は起こさないでしょう」
「あの状況でか?」
「あれは、私の理想の騎士さん像を聞き出そうという魂胆の元、ちょっぴり弱っているのを利用して、私が逃げないようにする作戦だったのでしょう。対処法がないのはむしゃくしゃしましたが、情報を引き出すとあっさりお部屋に帰ろうとしていました」
「理想の騎士か。……………彼も諦めないな。ネアはもう俺と契約をしているのに、その質問をする意味があるのか?」
「……………お前も大概だな……………」
呆れたように溜め息を吐いたアルテアにじっと見つめられ、ネアは、荒ぶるちびふわはお腹を撫でて欲しいのかなと両手をわきわきさせてみる。
なぜか隣のディノがぴゃっとなってしまい、アルテアはさらに眉を寄せたようだ。
「……………何だそれは」
「お腹を撫でれば、少し気持ちが落ち着きます?」
「何でだよ」
「……………ネア、アルテアを撫でるのも駄目だぞ。その位置は絶対に駄目だ」
「あら、ちびふわはお腹をなでなですると、すっかりくたくたになるのですよ?」
「やめろ。そんな訳あるか」
「そして、いつだって、このように素直ではないのです」
そう告げてふんすと胸を張ったネアは、こちらを見ているウィリアムを、ちらりと見上げた。
今のやり取りで、何とか先程聞こえた単語が流れてしまわないかと思ったが、薄く微笑んだウィリアムはそこまでお見通しだったのか、きちんと薬を飲まないと駄目だぞと言われてしまった。
「アルテアが準備をしているそうだ。魔術洗浄をかけた後で、薬湯を飲むことになる。シルハーン、それだけで大丈夫ですか?」
「うん。……………オフェトリウスがここにいたのは、私が眠ってしまっていたので、君達が来るまでは様子を見ていた方がいいと思ったからかもしれないね。ネア、信仰の系譜の付与魔術が厄介なのは知っているだろう?薬を飲んでしまおうね」
「ほわ、……………にゅま……………」
だからこそ客間にいたのだから、魔術洗浄を受ける準備は出来ていた。
魔術洗浄をしなければ部屋には戻れないが、目に見えないような疵や浸食、痕跡や変質がある場合は、最初の洗浄こそが重要になる。
なので、しっかり洗浄をかけてくれるというアルテアが到着するまでは、何もしないで待つことになっていた。
しかし、大人しく待っていた善良な人間に提案されたのは、沼風味の薬湯だというではないか。
お腹撫でも辞さないご主人様の優しさに対し、あまりの仕打ちと言えよう。
魔術洗浄は聞いていたが、沼味の薬湯は今知ったばかりのネアは、慌ててディノの方に体を寄せ、お口の中のコンフィチュールの風味を消してなるものかと唸り声を上げたが、ウィリアムにひょいと持ち上げられてしまった。
「ほわ……………捕まえられました」
「アルテア。ネアは俺が見ていますから、用意をしてきては?」
「お前が抱き上げる理由は、全くないがな」
「ウィリアムなんて……………」
「シルハーン、薬湯を飲むまでは俺が抱いていましょう。ただ、その後で、ネアを慰めるにはどうしたらいいか分かりませんので、お任せしても?」
「……………ギモーブかな。それとも、ムグリスになるかい?」
「……………ふぇぐ。ディノも疲れているので、ムグリスは今度にしますね。お口の沼感が消える迄ギモーブを沢山食べた後は、一緒に雪薔薇のお部屋でごろごろしまふ」
「うん。では、そうしようか」
「おい待て、一度に一つで充分だろうが!」
「ぐるるる!!」
だが、ここで思わぬ事が起きた。
魔術洗浄をかけた際に、ネアが立っていた術式板に、一つの異変が現れたのだ。
アルテアが杖でこつんと叩いた床に現れた、艶々とした真っ白な正方形のタイルのようなものを踏むと、そこに、ざわりと灰色の影が揺れる。
タイルは、ネアが両足で乗っかってしまえるくらいの大きさで、一般的なウィームの公共建築の床石はこの大きさだ。
本当であれば、このタイルを踏んでも何も起こらないのが望ましい。
反応があったということは、即ち魔術の介入や接触などがあったことを示しているからだ。
「やっぱりだな。……………守護で弾いていたにせよ、少しは手を伸ばされていたらしい。……………ネア?」
「………くしゅむ!」
「ネアが…………」
「くしゅん!……………まぁ。ディノ、泣いてしまわないで下さい。なぜか、お鼻がむずむずして、くしゃみが出るだけなのですよ。素足で踏んだタイルが、ひんやりしていたからでしょうか?」
「信仰の悪変の浸食のあった、表層を洗浄したことによる反応だな。……浸食を退けたのは、……………シルハーンとウィリアムのものか」
「まぁ。その守護が、怖いものから守ってくれていたのですね?……………くしゅん!」
「このような時は、温めるのだよね…………?」
「むぅ。インヘルではないようなので、対処法を調べた方がいいかもしれません。くしゅむ!」
ネアがくしゃみをする度に竦み上がってしまい、おろおろしたディノは、不安げにアルテアの方を見たので、選択の魔物であれば対処法を知っていると考えたのだろう。
だが、皆にじっと見つめられたアルテアが短く首を振り、慌ててウィーム領主の執務室へ連絡が入る事になる。
すぐに駆け付けてくれたのはエーダリアで、幸いにも、ウィーム領主はその対処法を持っていた。
ベージが話していた通り、ウィームに信仰の庭の祟りものが現れるのは初めてではなく、当時の記録が残っていたのだ。
アルテアもその討伐に参加していたのだが、人間の側で行われた対処までは把握していなかったらしい。
「ああ。このような魔術洗浄の反応は、以前も確認されたと聞いている。…………記録によると、浸食がなく、くしゃみだけという場合は、表層でそれだけの浸食が排除されていたという証にもなるようだ。…………この場合は、流星オリーブの油と、夜明かりの長毛牛の牛乳を使った料理を摂るといいらしい。材料から手に入れるとなると一刻程時間を有してしまうが、厨房に何か用意させよう。他に、魔術付与として必要な物があるだろうか」
「……………この子の可動域もあるから、こちらでその材料を伝えた上で、アレクシスにスープを作って貰えるか聞いてみる事にするよ。私達が見落としている要素があると、後々に影響が出る可能性がある。出来れば、それ以外の要素の洗浄や補填が必要かどうかも含めて、他の者の話も聞いてみたい」
「アレクシスが戻ってきているのか!であれば、食材を扱う事に長けている彼の方が、必要な物を知っているかもしれないな」
「うん。週末あたりに店に行くよと話していたので、これから手を借りられるかどうか、カードで相談してみるよ」
ネアは、体を冷やさないようにとアルテアにもふもふしたストールで巻き上げられながら、ディノがそうしてアレクシスと仲を深めてくれている事に笑顔になってしまう。
魔物達とは違う目線を持つスープの魔術師は、きっと、このような時だけでなくても、ディノの助けになってくれる筈だ。
大事な魔物が、より多くの手を借りられるようになったのが、とても嬉しかった。
「ふふ。ディノは、すっかりアレクシスさんと仲良しなのです?」
「…………ご主人様」
「あらあら、そんな風に恥じらってしまわなくても、アレクシスさんも、ディノはもう義理の息子のようなものだと仰ってくれていますものね。くしゅむ!………む、アルテアさんがまた難しい顔になりました」
「……………あいつは、俺やアイザックが、どれだけレシピの共同開発を何度交渉しても、さっぱりなんだぞ。…………お前のその引きは何なんだ」
「とても商売に取り込もうとしています…………」
ディノが少しだけそわそわしながらカードにメッセージを書き込むと、アレクシスは、たまたま店にハツ爺さんが来てお喋りしていたらしく、そんな常連客からの助言を得て、すぐに人型祟りもの用のスープを作ってくれるという。
流星オリーブの油と、夜明かりの長毛牛の牛乳については、その組み合わせをウィーム領に広めたのは、なんとハツ爺さんだったらしい。
本来は、ポリッジかスープにするのが良いそうで、であればと、アレクシスが軽めのポリッジを作り、すぐに届けてくれることになった。
「じゅるり……………。どちらの材料も持っていてくれて、さすがのアレクシスさんです!」
「あの記録書にある封印の魔術師というのは、ハツ爺さんだったのか……………」
「そう言えば、彼は、古い時代の魔術に触れた茨の魔術師だったね。古くからの対処法を知っている者がいて良かったよ。近年に継承されている茨の魔術よりも、より古い時代のものの方が効果が高いからね」
「ったく。春告げ迄には、増やした分を減らしておけよ」
「ふ、増えていませんよ!今日も、それなりにどきどきはらはらで減った筈なのです」
「やれやれだな……………」
カードに目を通し、ディノの真珠色の睫毛が揺れる。
静かに瞳を揺らした伴侶に気付き、ネアは、ディノの顔を覗き込んだ。
「ディノ?」
「くしゃみが出てしまった後では、必要な食品を摂っても夜半過ぎに少し熱が出るかもしれない。その場合は、悪い熱ではないので、ゆっくりと休むといいらしい。…………この症状は、祟りものが獲物と見定めていた者に現れ易い後遺症なのだそうだ」
「……………まぁ」
優しい魔物は、ネアが、あの祟りものの標的だったとあらためて知らされたのが、悲しかったのだろう。
そんな魔物はすかさず椅子にしてしまい、しょんぼりしているディノの三つ編みをにぎにぎする。
「罪人の館で、魔術洗浄をしたばかりなのに。……………怖くないかい?」
「同じような懸念が重なってしまったのでと、私を心配してくれたのですね?」
「君に負担をかけているだろう?……………離婚はしない」
「あらあら。こうして魔術洗浄で済んでいるのは、私に立派な守護がある証なので、荒ぶる事などあるでしょうか。そして、ディノはもう私の魔物なので、離婚はしません」
離婚されないと知り、ディノはほっとしたようだ。
けれども、まだ悲し気に項垂れている。
「…………ごめんね、ネア。どうにかして周囲に影響がないように収めたつもりだったのだけれど、最初の攻撃の際に、君の守護の表層には触れてしまったのだろう」
「むぅ。困った魔物ですねぇ。しょんぼりしている伴侶を慰めるには、椅子だけでは足りないのですね?…………であれば、…………くしゅん!………元気になった後は、フレンチトーストを作ってあげるしかありません」
「……………かわいい」
「なので、どうかそんなに怖がらないで下さいね。エーダリア様のお陰で対処法が分かりましたし、アレクシスさんがポリッジを作ってくれます。ウィリアムさんとアルテアさんも、今夜はリーエンベルクに泊まってくれるようですよ!」
そう言えば、ディノはウィリアムの方を見た。
ふっと薄く苦笑したウィリアムが、小さく頷く。
「あちらの土地も、今は不安定だろう。…………いいのかい?」
「ええ。今夜はナイン達がいるので、大きな問題は起こらないでしょう。俺の代わりに戦場の様子を見に行ってくれたグレアムからも、暫くは問題ないだろうと言われています」
そのやり取りを聞き、ほっとしたように息を吐いているのはエーダリアだ。
ネアに魔術洗浄の異変が出てしまったので来てくれたが、今夜は遅くまで事件処理にあたるのだろう。
祟りものが派生することまではオフェトリウスの一存で伏せられていたが、無事に解決した以上、ヴェンツェル達にも共有することになる。
なぜ、逃げ出した教会魔術師が銘のある武器などを持っていたのか、もう一度、アリステル派の問題を審議し直す必要がありそうだ。
今は少し休憩に入っているようだが、夜は忙しくなるので、それまでにネアの問題が解決し、尚且つ頼もしい魔物達がこちらに留まると知って安心したのだろう。
「すまないな。前回に引き続き、お前に負担をかけてしまった」
「その代わりに、エーダリア様は、今夜は遅くまで寝ずのお仕事になるのでしょう?私は、ポリッジを食べてゆっくり休むばかりですので、お仕事の分担が出来て良かったです」
「……………ああ。だとしても、無理はしないでくれ。明日もゆっくり眠っていて…」
「あ、明日の朝食は、マスタードとローストビーフのホットサンドイッチなのですよ?!」
「そ、そうか、思う存分食べてくれ」
うっかり祟りものと称されることもある人間からローストビーフのホットサンドを奪いかけてしまったウィーム領主は、慌ててそう言い直すと、その代わり、今夜はゆっくり休むようにと言いつけ、執務室に戻っていった。
あまりないが、遠征に出る騎士がいる日の朝には、朝食の席に美味しいサンドイッチが出る事がある。
早朝から騎士達のお弁当作りがあるので、こちらも同じメニューで構わないとエーダリアが料理人達の負担を軽減したお陰で、遠征に出る事はないネアも、美味しいサンドイッチをいただけていた。
「……………くしゅむ!」
「洗浄は、ポリッジの後の方がいいのかな」
「いや、熱が出るのであれば、先に済ませておくべきだろうな。……………洗うぞ」
「あらう……………。ポリッジを美味しく食べるばかりではないのですか?」
「手足と髪はこちらで洗っておいてやる。その後、薬湯風呂にしておいてやるから、それ以外のところは自分で洗ってこい」
「なぬ。私は立派な大人なので、自分で入浴出来るのです。なお、髪の毛は洗って貰うと気持ちいいので、そちらについては吝かではありません」
「魔術洗浄は出来ないだろうが。……………いくぞ」
「むぐぅ……………くしゅん!」
その夜、ネアはふと、この世界で最も偉大なものの一つに気付いた。
「くしゅむ!」
ふわふわの柔らかなティッシュペーパーは、この一枚がなければどれだけ不便だっただろうという素晴らしい輝きではないか。
コンソメとローズマリーを使い、セロリと鶏ひき肉のお団子の入ったミルクポリッジは、最後に薔薇塩と胡椒にオリーブ油を回しかけ、美味しくいただく。
食べ始めの頃はまだくしゃみが出たので、ネアは膝の上にティッシュペーパーの箱を抱えていたのだ。
夜半過ぎになると、ウィリアムとアルテアは、ウィーム中央で、あの祟りものの痕跡が残っていないかを、調べに出たようだ。
街の騎士達やそれぞれの会からの人員が出ると話していたので、ウィームの街である程度の人員を集め、火の慰霊祭の時のように見回りが行われるのかもしれない。
ネアはその頃には微熱が出てしまい、ディノの付き添いで寝台に入っていた。
お見舞いに来てくれたノアとヒルドに頭を撫でて貰い、むにゅりと目を閉じる。
眠りの向こう側で、ネアはあの夏至祭の夜の中に立っていた。
その周囲には、もう帰る事のない古い屋敷の庭が広がっていて、さあさあと静かな雨が降っている。
肥料不足ですっかり花の咲かなくなった薔薇の茂みは茨のリースのようで、悲しくなったネアが足踏みをすると、どこからともなく伸ばされた真珠色の三つ編みがあり、しっかりと握り締めたところで目が覚めた。
「……………ディノ」
まだ真夜中なのだろう。
夢の中と同じようにしっかりと握り締めた三つ編みの向こうには、ネアの大事な魔物が眠っている。
看病をしながらそのまま眠ってしまったようで、無防備な寝顔を見ているとふわりと心が柔らかくなり、ネアは、もう一度目を閉じた。
その後は概ね静かな夜であったが、朝一番で念の為にと薬湯を飲まされたのは大いに疑問である。
温かな沼味の飲み物は、念の為にという理由で人間に与えてはならないのだ。
明日4/7は少なめの更新予定、明後日4/8の更新は、お休みとなります。
4/8はSSを予定しておりますので、もし宜しければ、当日Twitterをご覧下さい。




