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王都の騎士と祟りもの 3



いきなり吹き飛ばされたネア達は、何か硬いものにばすんとぶつかった。

オフェトリウスがすぐに体を丸めるようにして抱え込んでくれたので、幸いにしてネアはどこもぶつけなかったが、がすっという硬質な音にぞっとしてしまう。


誰かの肉体越しに感じる衝撃はやはり鈍く、体に響かない痛みの分だけ、受け止めてくれた人に負担がかかるのだ。


遠くで誰かが名前を呼ぶ声に、じわりと濡れた音が重なる。

独特な薔薇の香りのような臭気に、ネアは胃が沈むような怖さを覚えた。


ひたり。

ぴしゃん。


その湿った音に震え上がっている間に、もうもうと立ち込めた暗い闇が辺りを覆ってしまった。



「……………オフェトリウスさん?」

「……………怪我はないね?」


そろりと見上げた先で、その表情は一瞬だけ歪んで見えた。

だがすぐに、ふわりと柔らかな微笑みに変わり、青緑色の瞳が気遣わし気にこちらを見る。


周囲はとっぷりとした闇に沈んでいて、ディノ達の姿はなぜか見えない。

それが怖くて堪らないのに、ネアは、自分を抱えているオフェトリウスの様子を確認するのが嫌で堪らなかった。


おかしな言い分だが、これがディノやノアなら、大騒ぎをするだけだ。

ウィリアムやアルテアなら、じわりと涙が滲むだけ。

けれどもこの人の受けた傷は、どう反応すればいいのだろう。


明らかに、ネアを抱えていなければ受けなかった傷なのだ。



「…………っ、………ディノの作ってくれた傷薬がありますが、使いますか?」

「いや、擬態は解いているから、このくらいであれば自分で治してしまうよ。君は、どこも怪我をしていないね?」

「……………ふぁい」


一瞬だけ。

ほんの一瞬だけ、視界の端に、ざあっと黒い光が凝るような不可思議なものが見えた。

コートの片肘から下がなかったようにも見えたが、瞬きの間に元通りになる。

とは言え、か弱い人間の心を痛めつけるには、充分な光景であった。


ネアは指先できつく服地を握り締めたが、淡く微笑んだオフェトリウスは、その動揺に気付かなかったふりをするのだろう。

自分の負傷そのものを、なかったことにしてしまうつもりなのだ。

それが分かるから、ネアは謝るのはやめておいた。

それでいいよと微笑んで頷いたオフェトリウスは、ふうと小さく息を吐く。


「教会の鐘の音が、祟りものの自我を固めたようだね。……………ウィームは、あわいや隔離地が多い。有事の際にも警報が届くよう、あの鐘の音の階位をかなり上げておいたのを、僕としたことがすっかり忘れていた」

「……………オフェトリウスさんが、そうしたのです?」

「統一戦争で、一度破壊された物が多くてね。アイザックと相談して新しいものを修復したのだけれど、今回はその決断が不利に働いてしまったかな。こちらが刺激しなければとすっかり油断していた。……………シルハーンは、警鐘の響きがウィルシーズの結界の中にまで届く階位である事を、知らなかったのだろう」

「ディノは大丈夫でしょうか……………。名前を呼んでしまっても構いません?」

「いや、祟りものを刺激するのを避けたいので、今は声を上げないでいてくれると嬉しい。あの程度のものの階位で万象を損なう事はないから、大丈夫だ。ただ、捕縛と鎮静化は手間取るかもしれないな。…………後は、同じように巻き込まれている筈の、僕の大事な部下が無事だといいのだけれど」

「そ、そうでした。ウィズレックさんもいたのでした……………」

「……………今更だけど、ここで、君が、取り乱して声を上げるような子じゃなくて良かった。僕達にとっても、シルハーンにとっても悪手になりかねない。とは言え、そんなことをしない君だからこそ、僕は次の主人にと思ったのだけれどね」

「…………むぅ」



ごうっと黒い風がうねり、泣き叫ぶような風の音が響く。

それは不思議な感覚で、すぐ近くで大きなものが動いているのに、直接肌に触れはしないのだ。

それはまるで、窓硝子越しに嵐を見ているような感覚であった。


(……………あ、)


ネアは、もしやと思い見上げた先で、はっとするような魔物らしい好戦的で残忍な眼差しを見せたオフェトリウスに、結界か何かを展開して、先程の祟りものの攻撃を防いでいるのだと理解する。

けれども、この魔物が滅多に見せない獰猛な眼差しもまた、ほんの一瞬で消え失せる。


(不思議な魔物さんなのだ)


差し伸べられるその手は、ネアの知る、家族の輪や、そこに連なる人達の外側の誰とも違っていた。

ネアを額縁にしているグラフィーツも、友人のように接してくれるヨシュアの心の動きも予測が出来る。

だが、将来仕えるべき主として気に入っているというこの魔物の齎すものは、相変わらずよく分からないままだ。


何度か厄介な場面を共に越えても尚ともなれば、それはきっと、ネアが、騎士としての欲でも持たなければ分からないままの執着や好意なのかもしれない。

けれども、こちら側なのだなと考えた。


オフェトリウスはもう、多分、この人間を自分の線引きのどこかに引き入れたのだ。

でなければ、ネアの持つ守護に賭け、ある程度の磨耗は見過ごせた筈なのだから。


(だけどこの人は、自分の手を欠損しても、私を守る方を選択してくれた…………)


高位の生き物にとっては、さしたる磨耗ではないのかもしれない。

だが、その微々たるものですら切り出す義理がないのが、線引きの外側の魔物達なのである。



「私が、きりんさんか何かでえいっとやってきます?」


見上げてそう言えば、おやっと目を瞠ったオフェトリウスが、どこか不思議そうにこちらを見る。

けれども、すぐに微笑んで首を横に振った。

朗らかで穏やかな微笑みはとても落ち着いていて、あれだけの怪我をした直後とも思えない。


「いや。……………君は、信仰の庭の災いには、あまり触れない方がいいだろう。……………君には何か、その界隈のものをあまり揺らさない方がいいような、独特の気配がある。絶対に手を出さないでくれ」

「……………むむ。…………それは、私が歌乞いだからでしょうか?」

「どうだろうね。…………僕は、信仰の相手は本来なら不得手ではないのだけれど、今回の獲物は、その他の条件上、あまり得意ではないんだ。祟りものである以上は最後に僕の手で斬る必要があるんだろうけれど、そんな訳で、今回は少し分が悪い。…………それでもどうか、少しだけ辛抱していてくれるかな?」

「はい。オフェトリウスさんが、止めを刺した方がいいのですね?」

「そうだね」


オフェトリウス曰く、信仰の系譜には様々な魔術の理がある。

複雑なその規則性は、これはそうあるべき、あれはそうなるべきという教義に皆で祈りを捧げてしまうからで、そのようなものの一部が、認知の上で世界の理となってゆく稀有な領域であるらしい。


その中には、今回の祟りものの顕現の法則も含め、鎮める際には討伐という形が必要である事や、結界などによる遮蔽を比較的受け付け難いという、信仰のテーブルの上での奇跡という品目の面倒さもある。

そう聞けば、強く願えば叶う信仰の系譜だけが何だか優遇されているように感じてしまい、ネアは荒ぶってしまった。



「お、おのれ。奇跡などぽいです!自分達に都合のいいことばかりを、信じたがっているだけではないですか」

「うん。それでも、そのようなものが力を得るのが、信仰なんだ。剣は災いや障害を絶つにはとても向いた魔物だけれど、信仰の庭の今回のような対象に限っては、そのような障害を無効化するという特性がある。汝、成就に向かう我々を傷付けることなかれ、という主張だね。そちらの理は特に武力に対して有効で、因果の成就の系譜も宿し、実は、僕以外の剣の魔物はこの特異性にとても弱い」

「……………オフェトリウスさん以外、なのでしょうか?」

「幸い僕は、信仰の系譜をひと括りにするより階位が高いし、古い時代や前世界の魔術の資質もあるので、信仰だけの独自の規則に縛られない。……………のだけれど、その場合は力で押し切るから、周囲を大きく損なう可能性が高い。それが今回の相性の悪さだ。……………さすがに、自らの手で復興を手掛けたウィームを、自分の剣で傷付けたくはないかな」



それでも、被害を最小限に抑え、やるしかないけれどねと、オフェトリウスは苦々しく続けた。


とは言え、その為に剣を振るうにも、一定の条件を整えなければいけない。

ディノがやっているのはまさにその作業なのだが、自我を持ったばかりの祟りものは狂乱に近しい状態なので、土地を穢さないように捕縛するには細心の注意を払う必要がある。


(要するに、ディノが祟りものを押さえ込み、出来るだけ周囲に被害を出さないように状況を鎮静化させた後、オフェトリウスさんが、最低限の斬撃であの祟りものを払うということであるらしい)


暗闇の向こうを見つめ、ネアはむぐと唇を噛み締めた。

冷静になれるよう心掛けてはいるが、大事な魔物がこの暗闇の向こうでどうなっているのかが見えないのは、思っていた以上に堪えた。


それは多分、ネアを持ち上げているこの剣の魔物が、肘から下を失うような斬撃を受けたからだろう。

クライメルと対峙したあの時でさえ、オフェトリウスは目立った損傷もなく事件を終えたのだ。



「ディノでも、ここまで時間がかかってしまうものなのですね……………」


心配のあまり、少しはらはらしながらそう言ってみれば、オフェトリウスがくすりと笑う。

二人は闇の中に佇んでいるばかりだが、オフェトリウスは、何かの合図を待っているように見えた。


「土地そのものの書き換えを行えば、一瞬なのだと思うよ。でもそれは、ウィームからこの区画を取り上げる事になる」

「なぬ……………」

「リーエンベルクの中であれば、ある程度の万象の書き換えにも耐えきれるけれど、さすがにここでは難しい。……………ほら、ウィーム中央は、円環になっている通りがあるだろう?ここは、その線上にあたるし、リングと呼ばれるその魔術の流れを遮ると、この場所以外にも支障が出てしまうんだ」


ウィームは、土地の魔術の親和性を高め、より良い循環を目的に開発された王都である。

様々な場所や場面で土地をより安定した状態で使えるよう、長い時間をかけて都市作りが為されてきた。

その設計が精密であればある程、万象程のものによる書き換えが行われると、土地の上で繋がった円環が、一時的にとは言え途切れてしまうのだそうだ。


なので、最も効率的で効果的な手段を、今のディノは封じられているらしい。

オフェトリウスと同じではないかと思えば、今回は、状況が邪魔をして、魔物達が思うように動けないという案件であるのだろう。


どんな高位の魔物であっても、この世界では、決して万能ではない。



「……………加えて、あの祟りものの階位が、想定より三段階くらい高い。悪夢で言えばハイダットに近い上に、因果の成就の祝福を得ている」

「だからこそディノは、オフェトリウスさんと役目を入れ替えたのですよね……………」

「誰かが事前の調査を誤ったか、買収されていたのかもしれないね。もしくは、調達関係の部署となれば、個人的に教会の聖遺物を手に入れる事も出来るかもしれない」

「何かを、既に取り込んでいると考えているのですか?」


ネアの問いかけにオフェトリウスは、その面立ちを憂鬱そうに翳らせてみせる。

そうすると、清廉で穏やかな美貌が、どきりとする程に悩ましくも見えるのだ。


「間違いないね。それは断言出来る。……………それにこれは、逃げる為に持ち出した物を偶然取り込んだのではなく、死して目的を達成する為に最初から用意されたものだろう。つまりは、祟りものになってからの階位を上げる為に、何か準備をしていたということになる」

「ご自身で?」

「外部者の介入はない。派生の確認をする為に、監視を続けていたからね」

「……………では、それもまた、教会だからなのかもしれませんね」

「そうだね。信仰の庭では、殉教者を何かと持ち上げる風潮がある。そのせいで、死して結実とすることへの嫌悪感が薄いんだろう。…………そのような嗜好も、祟りものを生み出し易いのだとレイラも気付くべきだろうね」



とは言えそれはもう、流れる血のようなものに違いない。

鹿角の聖女の悲劇が信仰として脈々と受け継がれ、きっと、これからはアリステルの悲劇も同じような糧になるだろう。

どれだけ悪循環でも、信仰の庭の根幹たる美学を、彼等は諦めることはないに違いない。


(ああ、だからなのだ)


なぜ、その魔術師がウィームへ向かい、ネアやエーダリアを狙ったのか。

それもまた、恐らくはアリステル派の信仰なのだろう。

殉教者として最後まで信念の為に足掻く様を見せれば、そこからまた次の信仰へ繋がる。

目的あってこその襲撃ではなく、信仰の火を消さない為だけの襲撃に思え、ネアはぎりりと眉を寄せる。



ぎゃおん。

またしても暗闇がうねり、ふわっと凝った闇が薄くなった。


「そろそろのようだ。しっかり掴まっていてくれ。少し荒っぽい動きになる」

「は、はい!」


立ち込める霧の中を突っ切るように、ぐっと体を屈めたオフェトリウスが、地面の石畳を蹴った。

ぐんとかかった風圧と重力に奥歯を噛み締め、ネアは、失った片手が握っていた筈の剣が、いつの間にかオフェトリウスの手の中に戻されている事に驚いてしまう。

剣の魔物が剣を失う事などはないのだろうが、取り戻している素振りすらなかったのだ。


直後、がきんと、硬い音が響き火花が散るように周囲が明るくなる。


(ディノ!)


暗闇の向こうに立っているディノの姿が見えたような気がして、ネアは目を瞠った。

そして、オフェトリウスが振り下ろした剣を弾いたのは、刃の付いた丸い金属の盾のような不思議なものであることも。



「……………銘持ち武器か」

「っ、……………ぎゃ?!」


剣を持つ手を返して、今度はあちらからの斬撃を、オフェトリウスが跳ね返す。

だが、受けてから思っていたよりも重かったのか、ばすんと音がして片足で祟りものの足元を払ったようだ。


(ウィズレックさんは、……………あそこにいる)


少し離れた位置だが、恐らくこの隔離された空間の境界なのだろう。

防壁の魔物だと言われた黒髪の騎士は、何かを堪えるような表情で立っているばかりだが、その実、かなり負担の大きい作業を強いられているのではないだろうか。


剣だけで攻撃を受けようとしたオフェトリウスが足も使ったように、この祟りものは、魔物達の想定を超えた規格外のものに違いないという確信があった。


(ディノが、攻撃側に加わらないのは、土地の魔術をどうにかしているからなのだろうか…………)


手が空いたのなら、オフェトリウスはネアをそちらに預ける筈だ。

それをせずに人間一人を抱えたまま交戦しているからには、ディノの側にも何かがあるのだろう。


剣を振り下ろし、反撃を返し、また打ち込む。

その度に金属同士がぶつかる鈍い音が響き、ばちんと周囲が青白く明るくなる。

オフェトリウスと戦っている祟りものは人型だ。


相変わらず黒い顔を隠す装束のままだが、ネアはふと、よく自分が人間の祟りものだと異様に怯えられた事を思い出した。


(勿論あれは、可憐な乙女に対してたいへんな侮辱なのだけれど……………)


けれども、常々不思議に思っていたのだ。

高位の者達であれば、人間の祟りものだろうが、動物の祟りものだろうが、同じではないのかと。

ただ脆弱に見えた生き物が獰猛だっただけという表現かもしれないので、これまではさして気に留めずにいた。


だが、本当に唐突に、それはあまり良くないものなのではないかと思ったのだ。



「……………っ、硬いな。これだから、人間の捧げる信仰への妄執は厄介なんだ」

「妄執……………」

「ここまで、己を不確かな価値観に捧げる生き物は、人間の他にいないよ。……………っ、……………特定の者に傅く訳でもなく、思想そのものへの服従で、…………おっと、……………こうして苦痛を飲み込み自ら災いとなってみせる」


思うように削れないのか、顔を歪めたオフェトリウスがそんな事を言う。

撃ち込まれる剣戟の鋭さを見ているだけで、どれだけ苛烈な凌ぎ合いなのかは言うまでもないのだが、そんな相手を得ながら、オフェトリウスは、更にはネアを抱えている。


そして、そんな風に保護して貰っている人間は、こんな時なのに遠い夏至祭の日の夜を思い出すのだ。



(……………ああそうか。これもまた、あの日の私と同じものなのか)


暗闇の内側を覗き込み、自分の願いの為にそう在るべきだと言われるものを手放せる。

であれば、そんな相手こそ、ネアは今の自分の暮らしを守る為に打ち砕いてしまいたいのに、オフェトリウスのこの祟りものには触れるなという言葉が援護を躊躇わせた。


ネアには、魔術の煌めきや動きが見えないのだ。


自分の判断一つで、戦況をひっくり返すどころか、ここにいる魔物達全員を窮地に陥れるかもしれない。

知りもしない領域でそれでもと手を伸ばせる程には、やはり高慢にはなれないのだった。

ネアは充分に戦える乙女だが、自分の手に余るものはしっかりと見極めなければいけない。



「……………ああ、ここかな。オフェトリウス、崩すよ」



どうすればいいのだろうと歯噛みしたネアに、ディノの声が届いたのはその時だ。

静かな静かなディノの声は、荒れ狂う嵐の夜に現れた、雲間からのぞく星空のようであった。



直後、人間の断末魔が響き渡る。

進んで聞きたい声ではなく、思わず両手で耳を塞ぎたくなってしまうくらいに、悍ましく苦痛に満ちていて、ネアはひゅっと息を呑む。


すかさず、防戦用に剣を持ち替えていたオフェトリウスが、素早く手首を返してまた剣を持ち替える。

鋭い風切り音を立てて振り下ろされた斬撃は、寧ろ、これまでの応酬より軽いように思えた。



「ウィズレック!」

「くそっ、これで俺も限界です!!閉じますよ!!」



ぱたん。


ざあっと晴れた暗闇と、雪に反射する曇り空の陽光の光に目が眩む。

場面の転換に目を瞑ってしまったネアの耳に届いたのは、革のトランクを閉じるような、場違いな程の軽い音だった。



「……………ふぁ」


光が弾け、目を瞬く。

決して明るい日ではないのに、あの暗闇の中からの転換だったので、眩しい光に涙目になった。

ぱちぱちと瞬きをしていると、隣にはディノがいて、安堵のあまりに深い息を吐く。


「ネア、もう終わったよ。思っていたより力を付けていて、時間がかかってしまった。……………オフェトリウス、この子を守ってくれて有難う」

「いえ。あの瞬間は、僕も完全に油断していました。教会魔術師を起こすのに、警鐘程のものはありませんでしたね」

「うん。どこかで別のものが、或いは先程の祟りものの気配があって、鳴らされた鐘の音だったのだろう。すぐに排除してしまえば良かった。……………腕は、大丈夫かい?」

「支障はありません。……………ああ、応援が来たかな。……………ネア、シルハーンに戻そう」

「は、はい」


剣を魔術でしゅわりとやってしまったオフェトリウスにそう言われ、ネアは慌てて頷いた。

それよりも早く、少し離れた位置でべしゃりと雪の上に座り込んでいるウィズレックが心配で、そちらを見てしまっていたのだ。


「……………おいで」

「むぐ!……………オフェトリウスさん?!」


受け渡された瞬間、背後の気配が、がくんと沈んだ。

ぎょっとして振り返ると、オフェトリウスは雪の上に座り込んでしまっている。

ネアと目が合うと、力なく笑ってみせた。


「シルハーンが、あの祟りものの魂に干渉して縛りをかけなければ、もう一度、手か足かは失っていたかもしれないな。……………銘持ちの教会武器でしたね」

「そのようなものを、死ぬ前にどうやって取り込んだのかは分からないけれど、人間は、……………随分なことをする」

「ええ。……………時として、僕達を損なう程の執念と災いを作る、不思議な生き物だ」

「ディノは、怪我をしていません?」

「うん。私は大丈夫だよ。この土地を穢す訳にもいかず、想定よりかなり時間がかかってしまった」


(……………多分、あの瞬間)


祟りものの上げた悲鳴は、オフェトリウスが言う、ディノがその魂に干渉した瞬間なのだろう。

そんな事が出来るのはきっと、ネアの大事なこの魔物しかいなかった筈だ。

そう考え、ふんすと胸を張ったネアは、大事な魔物にぎゅっとしがみつき、頑張ってきりりとしていた魔物の目元を染めさせてしまった。



「シルハーン!!」


そこに駆けつけたのは、オフェトリウスが応援が来たと話していた者達だろう。

てっきり街の騎士達が来たのかと思っていたネアは、顔見知りの魔物の声に、安堵のあまりにへにゃりと眉を下げた。


「グレアム。どこからか、連絡が入ったかな」

「お怪我はありませんか?!……………ネア、君も無事か?!」

「は、はい。私は大丈夫です。ディノも怪我はしていないようですが、沢山頑張ってくれた筈ですし、オフェトリウスさんは一度腕が……………ふにゅ」

「君とシルハーンが無事なら、そちらは気にしなくていい」

「……………はは、これは酷い」


ばっさり背後の魔物を切り捨てたグレアムに、オフェトリウスが力なく笑う。

グレアムの背後には、先程市場で出会ったばかりの栗色の髪の青年もいた。

更には、ネアの中の騎士度が殿堂入りしている、氷竜のベージの姿もある。


「まぁ、ベージさんです!」

「……………良かった。ご無事でしたね。……………ガーウィンのこの手の祟りものが出るのは、久し振りですね」

「む。…………以前にも、このようなものが現れたのですか?」

「統一戦争の開戦の数年前に一度。かなりの被害が出たので、今でも覚えています」

「そんな事があったのか……………」


驚いたように顔を上げたグレアムやオフェトリウスは、そうして現れたものについては知らなかったのだろう。


頷いたベージが、さすがにそのままでは収拾が付かなくなると判断され、ウィームに暮らす高位の魔物達が協力して鎮めたのだと教えてくれる。


「欲望と選択の魔物と、他にも数名の魔物がいたそうだ。俺は、友人から聞いたばかりだったが」

「成る程な。あの二人なら、対処可能だろう。…………シルハーンとオフェトリウスがいて、これ程迄とは…………」



ふうっと落ちた溜め息の下に、僅かに黒ずんだ雪がある。

だがそれも、ほろほろと崩れていっており、やがて、水の中で汚れが剥離するようにただの雪に戻った。

ネアは、他の魔術特異点のように慰霊祭などが必要になるかと思ったのだが、幸いにも、綺麗に祓われているので問題はないらしい。


オフェトリウスが懸念していたような広域被害はなかったが、それは、ディノがあの祟りものの魂にまでの介入をしたからこそだという。

ネアの大事な魔物と剣の魔物は、街一つを滅ぼしかねない災い相手に、雪の上に切れ目一つ残さない解決を可能としたのだ。



「久し振りに消耗した。……………今回は元々追っていたとは言え、あれだけのものが気付かれずに忍び寄っていたと思うと、ぞっとするな」

「あちらで倒れていた騎士を拾っておいたが、こちらも魔物のようだな」

「ああ、彼は僕が引き取るよ。……………やあ、ウィルシーズ。あの暴れようで、よく抑えきったね。シルハーンの調整を損なわないように隔離結界を維持するのは、さぞかし大変だっただろう」

「……………会議には、……………でてもらい…………ますよ」

「うーん、出ないかな」


そんな返答を受け、辛うじて保っていた意識を失い、がくりとなったウィズレックに、ネアは、そっと頭を撫でてやりたくなってしまった。

そんなウィズレックを拾ってきてくれたベージが、また心配をかけているのかとオフェトリウスに話しかけている。


そう言えばここは、ウィームに暮らす氷竜とかつてのウィーム領主なのだと思えば、ベージが、以前も変わらずにリーエンベルクとの交渉役に立っていたのなら、顔を合わせる事もあったのだろうか。




その後、すっかりくたくたになってしまったオフェトリウスは、リーエンベルクに滞在することになった。

とは言え一晩程度だが、体調を崩しているので預かるという体で、今回の事件の擦り合わせも行われるのだろう。


王都に帰れる程に復調していないというウィズレックが泊まるのは街のホテルだと思えば不憫であるし、ネアとしては、王都に残されているオフェトリウスのもう一人の副官の安否が気になるところだ。

そちらの人物はひたすら中和剤のような御仁であるらしく、ヒルドも案じる程なので人格者なのだろう。

ネアは、遠くのウィームからではあるが、無事を祈っておいた。


連絡の入ったノアによれば、リーエンベルク周辺には何も現れなかったらしい。

それにはダリルもほっとしたようで、危うく、あれだけの祟りものをリーエンベルクに受け入れてしまう可能性があったのだと、オフェトリウスにはお礼があったようだ。



ガーウィンがまだ国であった頃の名称ではあるが、人間の祟りものは茨の怪物と呼ばれていたそうだ。

また、ウィームに暮らすとある魔術師を茨の魔術師と呼ぶのは、かつてその一族が、人型の祟りものや災厄を封印することに長けていたからなのだとか。

固有の魔術を持ち悪変するその他の生き物の祟りものより、外部の魔術を取り込む人間の祟りものは、悪食の狂乱と並んでの災厄とされるらしい。


そう聞けばネアは、かつてその道を辿った夢見るような瞳の魔物についても考えてしまう。



「本気の本気で、ウィームに移り住むつもりなんですね……………」

「とは言え、ウィルシーズは正式な移住はなしだからね」

「……………でしょうよ。王都の騎士団をあなたが放り出していく以上、いずれ、あちらを纏める者が必要になる。最初から、俺を王都に残してそちらの管理を任せ、自分はのんびりするつもりでしょう。俺の話を出したのだって、どうせ、自分だけでは快諾が得られなかった時の為にウィーム側に付録をちらつかせただけですよね?」

「猶予を三年に縮めて貰えたから、少し準備期間は短くなってしまったが、まぁ大丈夫だと思うよ」

「いや、おかしいですよね。俺にだって謝礼が為されて然るべきでは?その三年を、五年に戻せませんか?」

「それは困る。折角、僕の王を見付けたんだ」

「……………あの場で、自分の欲求だけであなた方の魔術の盤上を崩さなかったのは、俺としても感心するところでしたが……………そこまでですか……………?」

「はは、それでいいよ。君にまで僕の王の魅力を知られては困るからね。……………何しろ君は、いつも僕を踏み台にしてご婦人方の関心を引くだろう?」

「その妙な言いがかりをやめていただきたい」



事件の周辺確認があるので、ウィズレックも、ひとまずはリーエンベルクに招かれている。

そんな王都の騎士達のやり取りを聞きながら、ネアは、椅子になったまま五年と力なく呟いたディノを丁寧に撫でてやった。

ノアも暗い目をして頷いているので、オフェトリウスの移住予定日は、またどこかで引き延ばされてしまうかもしれない。



でもネアは、あの緊迫した状況で、復興を手掛けたウィームの街を傷付けたくないと言ったオフェトリウスは、もうウィームに来てしまっていてもいいような気がした。


ほんの些細な、そのような部分だと思うのだ。

いざという時に、この土地を慈しめるか、ここに自分のものとしての執着があるかどうか。

気紛れな人外者の線引きは、そんな些細な場所で窺い知る事が出来る。

そうして重ねてゆくものが、ネアの手のひらの譲れないものを守るのなら、充分に結構であるという結論なのだ。


オフェトリウスの王様とやらにはなりたくないが、ウィームの守り手が増える分には吝かではないばかりの人間こそ、とても我儘な生き物なのかもしれない。

たっぷりのコンフィチュールを添えてシフォンケーキをぱくりとやり、数名の魔物達をきゃっと慄かせながら、ネアはそんな自分の強欲さにむふんと微笑んだのだった。













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