王都の騎士と祟りもの 2
「………ところで、本来の目的は何なのです?」
ジャムの祟りものを討伐した現場を離れた後で、ネアが尋ねたのはそんな事であった。
ふうと息を吐いたのはディノなので、こちらの魔物も、王都からやって来た騎士の目的が、団長探しだけではない事を承知していたのかもしれない。
三人が歩いている歩道は、この時間は人通りが少ない場所だ。
勿論ウィームに暮らしているネア達は、そのくらいの事は知っているのである。
足元の雪の上に落ちる街路樹の影は、冬の最盛期よりは淡くなった。
やがてはこの雪が消え、春の花々が咲くのだろう。
「おや、俺は団長をこちらに探しに来ただけですよ」
黒いコートをひらりと翻してにっこり微笑んだウィズレックに、ネアも微笑みを返せば、ふと、黒髪の騎士の眉が顰められた。
「あら、それは不思議ですね。そう言いながらもあなたは、私達と行動を共にしてから、一度も周囲を気にしてはいないでしょう」
「はは、そこは俺も本来は魔物ですからね。お嬢さんには分からなくても、あの方が近付けば分かりますよ」
「あら、先程の場所には、オフェトリウスさんがいらっしゃったのに?」
ネアがしれっとそう言えば、黒髪の美麗な騎士の瞳がぎょっとしたように瞠られた。
だがすぐに、ひやりとするような微笑みを深めた。
どこか人を弄うような歪んだ微笑みではなく、魔物らしい、暗く鋭い微笑みだ。
それが人間の擬態でなされると、人ならざるものの気配がじわりと滲み、ああ、これは見かけ通りの生き物ではないのだなと思わせる。
(……………こんな風に人間に紛れているものなのだ)
あらためてそんな感慨を抱くが、何度か見た事のあるヴェルリアの賑やかな様子を思えば、あちらの土地にはそうして重なり合う事が合っているのだろう。
共存はしていても、異種族として隣り合うウィームとは少し違うのだ。
「それが、あの方だと?剣の魔物でもある、オフェトリウス様だと?」
「ええ。あなたはお気付きではなかったようですが。………ですよね、ディノ?」
「うん。祟りものを囲んだ騎士達の中にいたね。君に気付いて、敢えて名乗り出なかったようだよ」
「………っ、……………あの人は………!」
小さく呻き、頭を抱えたウィズレックに、ネア達は顔を見合わせた。
あの時、おやいるなとは思ったが、微笑んで首を横に振っていたので、ひとまずそのまま捨て置いてみたのは、ウィズレックが同行を申し出た理由がいささか弱かったからだ。
だからこそディノも、乱暴な理由だと言ったのだろう。
魔物の伴侶を持つ人間の側に、見知らぬ魔物が並び立つなど、魔物の発想としてそもそもおかしい。
魔物という単語だらけになったが、つまりはそういう事なのだ。
この騎士が本当は魔物であるからこそ、あの理由は成り立たない。
であれば他に目的があるのかなと、このように先程の場所を離れてみたが、そのままオフェトリウスが立ち去ったのなら、そちらにも何某かの理由があるのだと思う。
あの魔物は、問題を放置することで、後々に自分の首を絞めることを良しとはしない筈だ。
(だとすると、ウィズレックさんの目的は、私達と行動を共にすることこそになるのだけれど………)
「加えて、あなたのお嫌いなダリルさんから、早朝に連絡が入りました。オフェトリウスさんから、可能であれば本日はリーエンベルクの外に、ディノと共に出ているようにと忠告が入ったと。何某かの脅威があり、それは、リーエンベルクに近付ける方が厄介で、とは言え我々が表立って動くのは望ましくないそうです」
「………そのような忠告を届けるだけの繋ぎをつけているとなると、あの人は、本気でウィームに移住しようとしているようですね。それも、ご自身の意思で………」
独り言のようなその言葉に、ネアは僅かに眉を寄せる。
言葉通りであれば、この騎士は随分と上官を大事に思っているらしい。
「あら。本気にされていなかったのですか?」
「あの方は剣の魔物ですからね。騎士団や軍部の規模が小さなウィームは、さして魅力的ではないと思っていましたが」
「それであなたは、………オフェトリウスさんの移住は、私やディノの我が儘で強いられたものだと思ったのですね?」
「……………お恥ずかしながら」
(それで、何か企みのある感じだったのかしら………)
「やれやれ、そんな事であれば、まずは僕の話を聞くべきだろうに」
少しばかり呆れたネアがふすんと息を吐いたところで、呆れたような声が背後から届いたのは、その時だった。
がばっと振り返ったウィズレックが、額を片手で押さえて天を仰ぐようにする。
ネア達の後方には、淡い金色の髪に青緑の瞳の美しい男性が立っていた。
灰色の上質な仕立てのコートは、しっとりと柔らかなカシミヤのような素材で、腰紐できゅっと縛るデザインはやはりトレンチコートに似ているのだから、やはり剣の魔物はこの形のコートが好きなのだろう。
「……………オフェトリウス」
「おや、この姿の僕をそう呼ぶくらいの分別はあるようだね」
ウィズレックの低く詰るような言葉に、剣の魔物はにっこりと微笑んだ。
その微笑みを見たネアは、声をかけてきたウィズレックの微笑みは、この表情を模倣したのかなと考える。
寧ろ、似ているのはこの人の方だったのかと。
「会議から逃げ出したあなたを捕まえに来たのも、理由の一つなんですがね」
「そのついでに、僕の大事な移住先に、宜しくない印象を刷り込みにきたのかい?それとも、僕が対処するべき獲物を横取りしに来たのかな。…………これでも、手土産は少しでも多く持ち込みたい派なんだ」
「…………となると、例の獲物は、駆除を強要されている訳ではないのですね?」
「勿論だとも。…………まぁ、僕が離れている間に、君がシルハーンとネアに付いていてくれたのは助かったけれど、あくまでも僕の手柄用の案件だよ」
すっかり内輪の話を始めてしまった二人の騎士から視線を外し、ネアは伴侶の袖をくいっと引っ張ってみる。
こちらを見たディノは、小さく頷いた。
「…………あの様子ですと、オフェトリウスさんが忠告を下さったのは、ウィズレックさんの襲来ではないようです」
「そのようだね。駆除ということは、面倒なものなのかな。ネア、三つ編みを持っておいで」
「ぐぬ。ここは、ぎゅっと手を繋いでくれる場面なのでは?」
「…………ネアが大胆過ぎる」
「ウィズレックさんとそちらの問題は、オフェトリウスさんが引き取ってくれそうですので、我々はコンフィチュールのかかったパラチンケンを食べに行ってもいいのでしょうか?」
「ご主人様……………」
けれども、もう部外者でいいかなというこちらの気配が伝わったものか、何かのやり取りを途中で切り上げ、オフェトリウスがこちらに視線を戻した。
ふわりと微笑んだ剣の魔物の甘く怜悧な微笑みに、ネアは、王都では自分の方が人気があると断言したウィズレックの発言の信憑性について考える。
個人的な嗜好で言えば、やはり騎士はこのくらい清廉そうな微笑みの方がいい。
中身がどうであるのかを、どこかに置いておいての嗜好であるが。
とは言えここに立つ我儘な人間の評価に於ける、騎士らしさの最高峰は、最近はなかなか見かけない一人の竜の騎士だ。
騎士としての契約となったウィリアムよりも、騎士らしさという意味ではそちらに軍配が上がってしまう。
ここはもう、嗜好の問題なので致し方あるまい。
「申し訳ありません、シルハーン。ウィズレックが、ご迷惑をおかけしたようですね」
「彼が懸念していることは、理解していたつもりだよ。私達を観察することと併せて、祟りものという言葉に反応をしていたようだけれど、何か、そのような問題での懸念があるのかい?」
「おや、そちらも気付かれましたか。ええ。そのご報告もと、こうして合流させていただきました。初手で詳細な情報がご共有出来ませんでしたことを、お詫びいたします。あの段階では、まだ魔術が成っておらず、警戒だけをお伝えするのがやっとでしたので」
深々と一礼して謝罪をしたオフェトリウスに、ディノは鷹揚に頷く。
このあたりはさすが、王と騎士の質を持つ魔物という構図だ。
「ダリルもそのように話していた。先程の段階で、私達に声をかけなかったのはどうしてだろう」
「あの段階でも、まだ魔術が満ちておりませんでした。……………ただ、つい先程」
「という事は、派生か顕現なのかな。……………祟りものだね」
「……………ええ。王都での魔術裁判を逃れた教会派の魔術師が一人、ウィームに逃れるという事件が、七日前に起こりました。第一王子が気付いて内々に処理しましたが、……………あの壊し方は甘いのではと、若干の懸念を抱き、個人的に調査をしておりました」
「その懸念を、君は、第一王子には言わなかったのだね」
「ええ。それは、魔物としての目で見てのことですから。騎士団長である僕が、彼に接触を図るのは簡単ですが、その懸念を知らされた第一王子が兵を動かすとなれば、なぜその懸念を得たのかと問われる事になるでしょう。……………何しろ相手は、怨嗟から顕現或いは派生する信仰の系譜の祟りものですからね」
その説明で腑に落ちたのだろう。
頷いたディノに、オフェトリウスは、ウィズレックに何か指示を出している。
(そうして派生した祟りものを、ヴェンツェル王子が指揮を執って討伐にあたるとなれば、何かの矛盾が出かねないということだろうか。そしてオフェトリウスさんは、そのような状況だからと、ウィーム移住の手土産として、わざわざウィームにその祟りものを排除しに来てくれたらしい…………)
分かったような気もするが、細部までは呑み込めていないのだろう。
ぎりぎりと眉を寄せたままでいれば、気付いたディノが言葉を足してくれる。
「王都から逃れたのは、教会派の魔術師だと話していただろう?そちら側での裁判を必要とするような問題があったとなれば、王都と教会の間に蟠る問題に因るのだろうし、その警戒の中から逃れ出た者は、それなりに階位の高い魔術師であった可能性がある」
「ふむふむ。だからこそ、一度は逃げおおせたのですね」
「…………教会魔術はね、一定の階位を得た者が、為政者からの迫害や処刑の段階を経ると、祟りものに転じやすいものなんだ。信仰の庭の嗜好から生まれ出た特性なのだけれど、その派生の予兆を得られる者は限られている。秘めやかな悪変というのもまた、そちらの領域の資質だからね」
「ヴェンツェル様の側で、そのようなことまでをご存知の方はいらっしゃらないのですか?」
ネアがそう尋ねてしまうのは、ドリーや代理妖精達の存在があるからだ。
第一王子の守護者たちらしく、彼等はそれなりの実力者ばかりである。
ガーウィンがヴェルクレアの一領である限り、その掌握は完全であるような気がしたのだが、違うのだろうか。
けれどもディノは、薄く微笑んで首を振った。
「火の魔術の系譜や、あの王子の代理妖精の系譜では、予兆の認識は難しい。加えて、信仰の庭の禁忌に近い秘密だから、系譜の秘密に明るい者達は、そのような事実は決して表には出さない筈だ。…………そのような場面で第一王子に深追いさせなかったのは、彼が禁忌に触れる事が後々に足枷になるからかい?」
その質問に、オフェトリウスが頷く。
「ええ。信仰の庭から祟りものが生まれ易いことは、レイラが伏せておきたい、系譜の禁忌ですからね。第一王子が何らかの方法でそれを予期したとなれば、秘密に触れた者を、あちらの領域の者達はよく思わないでしょう。また、魔術師が果ててからきっかり七日後の派生になる祟りものですので、その場に第一王子の動かせる兵達がいるというのは不自然です。秘密を知り得たという疑念の他に、ウィームとの必要以上な親密さまで疑われかねない」
(……………あ!)
ディノの問いかけに応えたオフェトリウスの言葉で、ネアは、逃げ出した魔術師がウィームに入っていた事を思い出した。
となると、領外であるその地に、そうも都合良くヴェンツェルが兵を置いているのは確かにおかしい。
だとしても、理由を作れば誤魔化せる範囲だが、次期国王の筆頭候補であるヴェンツェルをその座から追い落そうとする者達の全てが、記された足跡通りに言葉を読めるとは限らない。
言葉を選ばずに言えば、正しく状況を紐解けるくらいに頭がいい者ばかりではないのだ。
時として、政治の場では、辻褄の合わない声までもが大きく響く事もある。
ウィームとの関係でそのような声が上がった場合、実際に密かな繋がりがあるので、こちらとしてもまずい。
「…………だいたい理解出来たような気がします。ただ、……………そこで派生した祟りものめを警戒するにあたり、なぜ、私達がリーエンベルクを出ていなければならなかったのですか?」
ネアのその質問に、オフェトリウスがにっこり笑う。
この表情は少しだけウィリアムにも似ていて、そのような意味では、近い資質も持っているのだろう。
「今回の祟りものに転じた人間は、アリステル派の残党なんだ。彼女の死後に増えた信奉者なので、残党という表現もどうかなと思うけれどね」
「……………まぁ。もしかして、私が標的になると考えていらっしゃるのですか?」
「正直に言えば、君か、ウィームの領主が危ういと思っている。オズヴァルト殿下にも護衛が付いているが、今回は、ウィームに入り込みその中で派生及び顕現したものなのでね」
「となると、…………オフェトリウスさんは、標的が揃うよりもと、敢えて二か所に分けたのですね」
「うん。出来れば、そのようなものはリーエンベルクに行かない方が望ましい。信仰の系譜の祟りものは穢れが強い。君一人であれば守護で弾けるけれど、領主館としての守護魔術に触れてしまえば、洗浄しなければいけなくなるだろうね」
「………どうやらご事情があるようですが、なぜ、そこまでを事前に話して下さらなかったのですか?」
ネアの問いかけに微笑んだ魔物は、剣を司る者らしい硬質な微笑みであった。
酷薄にも見えるが穏やかで、優しそうに見えるのに残忍にも見える。
「秘密を知る者は、復活が成されるまではそれを明かせない。それもまた、信仰の庭の厄介な魔術の理でね。遠い昔に崩壊した鹿角の聖女と呼ばれる者に向ける、隠れて生き延びていて欲しいという願いから生まれたものらしい」
「まぁ。ちょっぴり、面倒な決まり事があったのですね」
「それを明かし、君がこちらに戻っているということは、既に派生したのかな?」
「ええ、間違いないでしょう。派生する日は決まっていても、派生は、それを妨げる誰にも見付けられない。これも厄介な理ですね。……………先程の祟りものの出現の一報はかなりひやりとしましたが、確認したところ混ざっている様子はありませんでした。……………或いは、グラストの因果の祝福が、事前に紛らわしいものを省いたのかもしれません」
どうやらあの場にオフェトリウスがいたのは、ジャムの祟りものを調べる為だったようだ。
「そういうこともあるかもしれないね。………では、ノアベルトにも、話をしておこおう」
「派生が成されたと感じた段階で、ダリルには連絡を入れてあります。こちらには、僕自身がこのように馳せ参じました」
「おや、であれば私達が最後だったようだね」
「はは、そう言われてしまうとそうなのですが、ウィズレックがおりましたからね」
朗らかに微笑んだオフェトリウスの後方で、そんなウィズレックが頭を抱えているが大丈夫なのだろうか。
とても疲れた様子であるし、何やら苦労人の気配がしてきている。
少し不憫そうにそちらを見たディノに、ネアは、ずっと感じていたことを聞いてみた。
「………ディノは、あの方があまり嫌いではないのですね」
「ウィルシーズのことかい?………彼は、忠実で働き者の魔物だよ。子爵位だが器用な男で、……………よく、オフェトリウスの世話を焼いているかな」
「まぁ。その説明だけで、色々な事が呑み込めてしまいました」
「そうかな。僕は自分の世話は自分で焼けるつもりだけれど」
「ご本人としてはそう思うでしょう。ですがきっと、そうして気儘に後ろに残してきた様々な問題を、一つずつ片付けてゆくのがあの方なのでしょう」
そうなってくると、確かにご婦人方にはあちらの騎士の方が人気があるのかもしれない。
嗜好としては雰囲気が違うので平等な判断にはならないが、ウィズレックの方が、人間味があるのではなかろうか。
ちょっと癖のある悪そうな騎士が、その実、団長のお守りで苦労している姿などが見えていれば、尚更に人気が出そうではないか。
(おまけに、ヴェルリアは、はっきりとした性格のご婦人が多い土地だというから、そのようなご婦人方の傾向からすれば、あらあらと微笑ましく眺められるような要素がある方がいいのではないかしら………)
冷酷な人間にそんな分析をされているとはいざ知らず、ウィズレックは、君は王都に帰ったらどうだろうと言ってのけた酷薄な上官に、会議に出席させるまでは帰らないと告げているところだった。
だが、無慈悲にもあの会議には出たくないねとはっきり言ってしまうオフェトリウスに、がくりと項垂れている。
「いいですか、俺は、あなたの代理はやりませんよ」
「その場合、こちらの騎士団は欠席でいいのではないかな。他の者達で決めるだろう」
「…………そんな真似をして、他の騎士団の連中の煽りを食わずに飄々としていられるのは、あなただけですからね?!」
「とは言え、僕達は王妃のご機嫌取りの為に騎士をしている訳ではない。国防の為に、他の騎士団よりも負担の大きい役割を担う以上、任務の差別化も必要だろう。その点については、僕から他の騎士団長にも話をしておいた筈だけれど?」
そんな風に返しているオフェトリウスに、今更ながら、王都の騎士団長なのだなと感じてしまう。
組織の中で役職を得ている魔物を見るのは珍しく、ネアはついつい聞き耳を立ててしまった。
「真っ当な任務であれば、それでいいでしょう。ですがあれは、……………誰も引き受けたがりませんし、引き受けてもいいと手を上げる中身のない貴族令息の連中は、あちらが実力不足として断ってくる始末だ」
「なぜ、各騎士団の中の四席、或いは五席までという決まりを設けたのだろうね。その席次の騎士であればこそ、暇ではないのだけれど。……兎に角、今回は我々の騎士団からは人員を出す必要はない。それは各騎士団を束ねる私の一存で決められる事でもあるけれど、必要であれば、宰相とも話をつけておくよ」
オフェトリウスはそう切り上げてしまったが、下の者達は針の筵だろうなと考え、ネアは、こっそり心の中でウィズレックの幸せを祈っておいた。
恐らくだが、他の騎士団との関係を損なわないよう、必要ではなくてもその会議に出てきたのだろう。
被害者となるのは各騎士団の上の者達なのだから、ウィズレック達にとっては、目上の騎士という事もあり得る。
(………ということは、オフェトリウスさんは、全ての騎士団の統括の役割をしつつ、一つの騎士団の騎士団長もしているという立場なのかな………)
うろ覚えだが、オフェトリウスはそこまで高い位置の騎士だっただろうかと首を傾げ、ネアは、人事関係まではよく知らない王都のことを、ほんの少しだけ思った。
知らない事こそが一種の防御とは言え、貴族名簿の中身や各部門の役職者達も含め、王都は、ネアが知らない事ばかりである。
「……………やはりこちらに来るようだ」
二人の騎士のやり取りを何ともなしに聞いていたネアは、そう呟いたディノに目を瞠った。
見上げた先で小さく微笑んだ魔物は、不愉快な訪問だねと魔物らしい眼差しになる。
「ウィズレック」
「……………はいはい。張りますよ」
「むむ………?」
「彼は、防壁の魔物なんだ。その質を明かさずに、剣の系譜の魔物だということにしているようだけれど」
「まぁ。……………そうなのですね」
ディノの説明に頷きながら、ネアは、容赦なく正体を明かされてしまったウィズレックが、向こうで悲しそうな顔をしているが大丈夫だろうかと案じてしまう。
何をしているのかなと不思議そうにしてしまったネアも悪いが、知らないままでも支障がなかった部分なので、是非に、秘密のままにしてあげていて欲しかった。
「祟りものさんが、こちらに向かったのですね?」
「うん。ノアベルトに話をしておいたから、周辺で被害が出ていないかは、調査させるだろう。これは、結果としてはウィームにとって良い方向の資質だけれど、今回のようなものは、証跡を残さずに移動することに長けているんだ」
人知れずに派生し、人知れずに移動するものだと思えば、悍ましさもある。
ましてやそれは祟りもので、こちらに害を成す為に近付いてくるのだから。
(その魔術師さんは、アリステルさんの死後にそちらの思想に傾倒したらしい。………そろそろ、鹿角の聖女と同じように、語り継がれた記録や思想が、神格化されてゆくような状態にあるのかもしれない)
だとすれば、そうして信仰の系譜に名を残すアリステルの存在は、王家にとってどれだけ目障りな事だろう。
そのような部分でも今回の裁判が行われたのかもしれず、関わりのない問題のようで、こうして火の粉が飛んでくることもある。
むぐぐっと眉を寄せていると、すっと隣に立ったオフェトリウスが、安心させるように微笑みかけてくれた。
「安心していい。………君の場合は、恐らく、害を為す為の接近ではない。次なる聖女として欲し、取り込みたいという欲求なのだと思う。身勝手な事だが、彼等は、国の歌乞いはガーウィンの管轄であるべきだったと考えているようなんだ。……………シルハーン、排除は僕にお任せを」
「うん。それは君に任せておいた方が良さそうだね。………ネア、持ち上げるよ」
「はい!」
(私を取り込もうとするのなら、……エーダリア様は、排除だろうか)
ウィズレックが展開した結界の中で、祟りものの訪れを待っている。
そんな緊迫した状況で、ネアが気付いたのは、その部分であった。
ネアを都合のいい道具として持ち帰ろうとしているのなら、今代の歌乞いをウィームに繋ぎとめる役割を果たしているウィーム領主を、快くは思わないだろう。
生者達は、さすがにそこまで短慮な問題をそうそうに起こさないが、祟りものとなったものの怨嗟や執着は、人間でいた時には、背景や事情などを踏まえて抑止が働いていた思考を崩してしまう。
存命の内にウィームに逃れた理由も何かあるのかもしれないが、どちらにせよ、ここからは、祟りものは祟りものの思考で動くと思われる。
(ダリルさんなら、その魔術師さんの事も知っていたのではないだろうか。その上で判断をし、私より危険な襲撃になるかもしれないエーダリア様を、より奥に遠ざけておいたのだろう)
祟りものの標的がどちらなのかは最後まで分からなかったのだろうが、見方によっては、ネアは囮でもある。
だがネアは、その役目を任せる事が可能だと預けてくれた信頼が嬉しかったし、もし祟りものがエーダリアに害を成せば、怒り狂っただろう。
エーダリアの仕事がネアには難解であるように、適材適所というものがあるのだ。
その天秤の上では、ネアはこちら側。
襲い来る祟りものを駆逐する側である。
ぎゃおん。
突如として、空気が小さく唸った。
すると、どこからともなくぴたぴたと不思議な足音が聞こえてきて、真っ白な雪の上にじゅわっと黒い煙が上がる。
突然足跡が見え始めたので、獲物を見付けて姿を現したのだろうか。
じわじわと輪郭が浮かび上がり、ばさりと翻ったのは頭までをすっぽり覆った漆黒の聖衣で、絨毯のあわいで出会った異形たちを思い起させた。
先程まで風などなかった筈なのに、ざわざわと街路樹が揺れさざめく。
祟りものが顕現しているのに周囲に人影がないことからして、魔物達がこの場所だけを上手く遮蔽しているのだろう。
空がぐっと暗くなり、はらはらと雪が舞い始める。
吐き出す息が、ダイヤモンドダストの見られるような日くらいに白くなった。
けれども、現れた祟りものは、ネア達の少し手前で立ち止まると、進路を遮られているがどうしようかというように、ゆらゆらと頼りなく体を揺らしている。
(…………思っていたものとは、違う感じだ)
では、この隙に倒してしまうのだろうかと思ったのだが、剣を構えたオフェトリウスを、なぜかディノが片手を上げて制した。
ウィズレックは、ネア達よりは祟りものに近い位置に立っているが、進路上からは外れている。
「オフェトリウス。素材となった生前の魔術師は、どのような系譜の魔術を扱ったのか知っているかい?」
「シルハーン?」
現れたものを見て眉を顰めていたディノが、そんなことを言った。
怪訝そうにこちらを振り返ったオフェトリウスの手には、既に、以前にも見かけた剣が握られている。
「調達周りの部署に配属されていた、青銅階位の教会魔術師だったようです。……………いや、……………確かに妙ですね。このような魔術は、……………祟りものになってもそう結ばれるものではない」
「想定していた系譜の魔術ではないようだ。となると、私と君で、役割を変えた方が良さそうだね。ウィリアムかグラフィーツがいれば良かったのだけれど……………」
「僕の剣でも力押しでどうにかなりそうですが、土地に禍根を残さない方が良さそうですね。………交代しましょう」
何か不測の事態が生じたのだろうかと息を呑んだネアに、ディノがそっと頬を寄せた。
安心させるような仕草だが、それはつまり、何かが起こっているということではないか。
「……………ディノ?」
「ネア、少しだけ、君をオフェトリウスに預けるよ。今回の祟りものは特殊な個体で、因果の系譜の魔術を有している。……………その部分を事前に壊しておかないと、土地の魔術基盤を傷付けてしまいそうなんだ」
「ディノが、怪我をしたりはしません?」
「うん。幸い、まだ朦朧としているようだ。派生してすぐにこちらに来たのだろうし、まだ、祟りものとしての自我のようなものは明瞭ではないらしい。今の内に、すぐに終わらせるからね」
「はい!」
そう微笑んだディノの手からこちらに戻ったオフェトリウスの手に渡され、慣れない温度に触れるようにして、その肩に手をかけた。
どうやら、ウィリアムやグラフィーツは、召喚に応じられない状態のようだ。
剣の魔物な乗り物も安定はするが、ネアとしては、やはり顔見知りの魔物達の方がいいと思わずにはいられない。
(でも、ディノの様子を見る限り、大きな心配はなさそう………?)
オフェトリウスと入れ替わり前に出てくれたディノが心配だったが、そんな事を考えたネアが、僅かばかりではあれ、強張った肩の力を抜こうした時だった。
ここで、魔物達にも思いがけない事が起こってしまったのだ。
「………っ?!」
「しまった………」
突然、ゴーンゴーンと鳴り響いた鐘の音に、ゆらゆらと立ち尽くして体を揺らしていた祟りものが、ごうっと小さな竜巻のように渦巻いた。
しまったと珍しく焦ったような声を上げたディノに、はっと息を呑んだオフェトリウスが、片手に持っていた剣を翳した直後、ネア達は、物凄い勢いで後方に吹き飛ばされた。