林檎砂糖と春周り
水仙絡みの厄介な事件があり、ネアが罪人の館での任務を終え、ウィームに戻った日の翌日の事だ。
側陸地で見たものについてエーダリアと話していたネアは、今日の執務は終えてしまい、存分に部下の体験談をメモで起こしてゆくぞとなっている上司を見ていた。
雨外しや、白百合の乙女の話に、窓の向こうに見えた白いお城のような建物群。
いや、あの夜の雨の色までもが、エーダリアにとっては興味を掻き立てる異国の情報なのだろう。
特に魔術そのものでもあるという白百合の精霊の話では、ちょっと興奮気味にペンを走らせており、乙女が部屋の前から立ち去った際にネアが感じた事などを詳しく聞いていた。
びゅおん、びゅおるる。
風の音の響く今日のリーエンベルクは静かで、ネアは、林檎砂糖の溶けてゆく紅茶を見ていた。
綺麗な紅茶色の水面の下で、陽炎のように揺らぐのは氷砂糖のような塊砂糖が溶けてゆくからだ。
林檎の甘さを月夜に抽出して作られる林檎砂糖は、ヴェルクレアではよく見かける商品の一つである。
大抵のウィーム人は、幼い頃に親の目を盗んでこの砂糖の保管場所を襲い、甘酸っぱくて美味しい林檎砂糖を飴のようにぱくりと食べてしまった記憶があるのだとか。
料理にもお茶の時間にも大活躍で、強欲な妖精に悩まされた場合に、鎮めの砂糖菓子の代わりにも使える便利なお砂糖なので、だいたいの家庭にはひと袋常備されている。
甘党の大人も、一粒ぱくりとやる贅沢をこっそり楽しむのかもしれない。
「……………むふぅ」
「どうだ?…………飲めそうだろうか」
「寧ろ、素晴らしいお味になりましたよ。私は、残念ながら大抵の紅茶は美味しく飲めてしまうので、ちょっぴり口煩いような方に飲んで貰うのが一番ですが、とても美味しいと思います」
「そうか!…………このような場所では、保存期間ぎりぎりの紅茶の蓄えも出るからな。料理や、森の生き物達への振舞いにも使えていたが、とは言え、勿体ないと思っていたのだ」
ネアの感想を聞き、エーダリアがほっとしたように微笑む。
心優しいウィーム領主は、前の領主時代に買い付けられた、質は悪くないのにあまり好まれる味ではなかった紅茶の箱を、無駄なく飲み切ってしまうための作戦を考えていた。
残ってしまっていたのは、特に心躍るような肩書きを持たない一般的な茶葉である。
魔術付与を持たず、果実などが入っている変わり紅茶でもない。
そうなってくると、ある程度の階級の茶葉でも紅茶の中では安い方にあたるので、前領主はそれを大箱で買い付けることで更に値切らせ、使い切れずに仕舞い込んであったのだ。
領主館で振舞う紅茶であったので、見栄っ張りでもあったと有名な御仁は、さすがにこれ以上は品質を落とせなかったようで、中階級くらいの程度の品物ではある。
「私の生まれ育った世界では、紅茶はこんなに長い時間は保管出来ないのですよ?」
「様々な保存の知恵があるように思っていたが、紅茶の保存は苦手なのだな」
「こちらでは、何十年という単位で保存が可能になってしまうのですね……………」
現在のリーエンベルクで行っている紅茶の仕入れは、一つの種類の大量購入ではなく、様々な種類を少しずつ買う手法だ。
双方で注文票のやり取りなどがあるので手間はかかるものの、主にエーダリアへの好感度の高さから、定期購入契約の上で、季節の新作なども買い付けることが出来るようにという提案が先方からあった。
新作のお試し茶葉なども届けてくれるので、時々、ウィーム領主から、この魔術付与はどのようなものなのだろうという質問のお手紙が届いたりもする。
現在リーエンベルクとの取り引きがあるのは三社だが、どこともいいお付き合いが出来ているようだ。
「では、この紅茶は、林檎砂糖を入れて飲むことが出来ると、騎士棟にも伝えておこう。いくら鍛錬明けなどは質より量だと言っても、彼等にこそ好きなものを飲ませてやりたいのだが、今回はこのようなことに協力させてしまったな……………」
「あら、選択肢が多い中での節約や無駄の排除は、意外に楽しいものですよ。選択肢なくしてのそのような行為は、心を削るばかりですが」
「…………お前は、以前の暮らしでは紅茶を買うのも大変だったと話していたな」
少しだけ心配そうにそう尋ねたエーダリアに、ネアは微笑んで頷いた。
この世界に呼び落とされ、初めての食事で出てきた香り高い紅茶を飲んだ瞬間の喜びは、今でも忘れられない。
見上げる程に高い天井の壮麗な建物の中で、テーブルにはシャンデリアの影が映っていた。
白磁に繊細な青色の絵付けのあるカップは花びらのような薄さで、あの日の紅茶には、贅沢にも温めた牛乳と砂糖壺が添えてあった。
たっぷりと牛乳を注いだ紅茶のブライトカラーが幸福だった時代の色になったとき、どれだけ嬉しかったことか。
「ええ。あの頃の私は、そろそろ公園にある植物の何かを使い、自家製の紅茶を作るべきだと考えていました。かつての暮らしの中で、バターと紅茶は選択制だったのですよ」
「あまりいい言い方ではないのだが、……………そんなお前に、もう好きなだけ紅茶を飲んで欲しいと思うのと同時に、………お前のような者の目線を、こうしてすぐ近くで得られるということも得難い事だと思ってしまう。私は、幸運にも貧しさに苦しんだ事は一度もない」
そんな事を言うエーダリアだって、食事に毒やその他の厄介なものが入っていないかを警戒し、恵まれた生活を送る兄弟や、他の高位貴族の子供達をすぐ近くで見ながら生きてきた人なのだ。
ただ幸せなばかりの暮らしを享受してきた誰かに、かつての自分の経験を糧にされたらクッションの一つでも投げつけてしまうかもしれない狭量な人間は、エーダリアには、幾らでも助言出来てしまう。
少しだけ俯き加減に苦笑した上司はきっと、ネアの苦しく孤独だった時代を糧にしてしまうことを恥じているのだろう。
けれども、そんな自分を隠さない、優しくて強い人だ。
「ふふ。そういう意味では、私は魔術の知恵などはさっぱりですが、僅かな分野でもお力添え出来る事があって良かったです。ウィーム領の中がどれだけ豊かであっても、一部の貧困層は必ず存在します。であれば、かつての私と同じような思いをしている人も、必ずいるでしょう」
「お前の暮らしていた国は、とても豊かだったのだろう?」
「豊かな国でしたよ。衣食住に困らず、教育や平等は一般的な持ち物でした。けれどもね、一度その道から転がり落ちてしまった者が這い上がる為には、当然ですが、多くの対価を必要とします。以前の私には持病があり、それは度々の大きな医療出費や、安定した職に就くことへの障害を意味しました。また、一人ぼっちの私にとって、他に何も大切なものがないのに、家族の残した家を安価に売り払い、僅かばかりの未来を繋ぐ為に使うのはあまりにも惨めで、そして悲し過ぎたのです……………」
そんなネアの言葉に、エーダリアが短く、だがしっかりと頷く。
きっと、ウィームのどこかにだって、その頃のネアと同じ思いをしている者はいるだろう。
だが、ネアがそれでもと思ってしまうのは、この世界には、道端の綺麗な花にだって美しい妖精が宿ったりするからなのだ。
かつての暮らしの中では、救済というものは、高嶺の花でもあった。
そうして身近に現れる人ならざるものの気配を、幸運へのチケットとして認識してしまうことは、多分、一般的ではないのだろう。
このあたりの執着は、恐らくネアが、おとぎ話に焦がれるそのようなもののいない世界から来たからだ。
「…………それなりに大きな屋敷だったと聞いているのだが、安価という言葉が出て来るとなると、そこにも何か問題があったのだろうか?」
領主らしい着眼点に、ネアは、成る程と微笑む。
確かにこのあたりの問題については、エーダリアにとって必要な情報かもしれない。
つい先ほどまで異国の話に目を輝かせていたエーダリアが、今はウィーム領主の顔をしている。
なお、万象の魔物と塩の魔物はそれぞれがもふもふになり、ネアとエーダリアの膝の上でくたくたになっていた。
久し振りにムグリスディノにヨシュアから貰った雲の寝台を使わせていたところ、その寝台に寝そべる事が出来ない大きさの銀狐が荒ぶってしまい、こちらは、そんな契約の魔物を案じたエーダリアが動くボールで沢山遊んでやったばかりなのだ。
「私が暮らしていたのは、古くからある上流階級向けの住宅地です。ただ、私の時代にはもう、その周辺の家々の設備は、時代にそぐわないものになっていました」
「……………そうか。家の手入れは、大きな出費にもなるのだな」
「ええ。……………結果として、同じくらいの築年数の家を持つ方々の中で、もっと便利な新しい住宅に移り住む人々が増え、更には、時代と共に社会の価値観が変わってゆくと、私の暮らしていたような古い屋敷は、設備不足で管理に資金がかかる時代遅れの家で、尚且つ、幾つも空きのある珍しくないものという扱いになってしまったのです。………ましてや住宅は、手入れをする資金が減ってゆけば、どんどん経年劣化が進みますから、同じ階級の売り家の中では、我が家は状態が悪い方のものだったのでしょう」
「…………そうか。そのような面に於いても、目が届くようにしておきたいものだな。住宅の価値によっては、それを担保にして新しい生活を始めるということさえ、難しくなってしまうこともあるのか…………」
エーダリアは手帳に何かをメモしていて、小さく、幾つかの地名を呟いた。
それらの土地は、ウィームの中で一時的に高級住宅地としての開発が進んだが、様々な事情や歴史があり、今はあまり土地の評価が高くないのだそうだ。
その時代に開発を推し進めたのは前の領主だったそうで、中には、本来は住宅地には向かなかった街などもある。
家族がいる者達や資金がある者など、余力のある住人がその土地から離れてゆけば、いっそうに土地の価値は下がる。
ウィームは人外者の恩恵の厚い土地でもあるが、その他の領土と同じような人間の居住地ならではの問題を抱えている場所も多い。
また、他領と同じような感覚で居住区にすると、土地の魔術量やご近所さんな人外者との間に厄介な問題が出てくるという、ウィームならではの苦悩もある。
「ええ。そして、転げ落ちた先で過去の思い出に暮らす人間は、最後に残った思い出を手放したがらないものなのですよ。…………合理的だと説かれても、唯一残されたそれを手放したら、私の人生は何だったのだろうと考える愚かな人間もいるでしょう。…………そうして持ち続けることで破滅するのだとしても、どれだけ無様でも、何も失わずに生きてゆける人達が大多数を占める中で、もう一度の喪失を受け止める事が出来ないくらいに弱っている人間も。……………何しろそれは、たった一つの最後のものなのですから」
「お前の話を聞けて良かった。…………障りや災いに転ぶ可能性もあるので、そのような不幸や苦痛を残してはいけないな。表面的な正論で手を差し伸べても、そのような者達には届き難いのだろう。何を望み、何を苦痛とするかを知るという意味では、人外者達との関わり合いにも近しいのか……………」
「とは言え、このような問題には必ず、ただの我が儘という方もいるので、援助の手が都合のいいお財布にならないようにする工夫もまた、必要なのだと思います」
例えば、かつてのネアは、持病に影響の少ない在宅の仕事などがあれば大喜びで頑張ったのだが、そのような仕事は得てして健康でゆとりのある人々にとっても魅力的なので、残念ながら雇用の機会が回ってくることはなかった。
やむにやまれぬ事情で追い詰められていく者達だって、そこから抜け出す為に足掻きもする。
欲しいものと差し出せるものを上手に結べば、きっと僅かな道筋が見えてくるだろう。
その点、何もしたくないし何も手放さないが、支援の手だけは差し伸べて欲しいというのはあまりにも我儘だ。
(でもまぁ、……………そのあたりの精査は、ダリルさんが上手に線引きを付けてくれそうな気がする)
幸いにもこの世界には魔術があり、資格のない者達を弾くのは、前の世界より簡単だろう。
ウィームでも取り入れている政策だが、調査員を妖精などにすれば、虚偽の申告で障りを得る事がある。
管理する組織がきちんとしてれば、不正を減らせる力にもなるというのが、こちらなりの知恵なのだ。
「……………む」
「ノアベルト?!」
突然、ばすんという音がした。
どうやら、エーダリアの膝の上で眠っていた銀狐が、寝返りを打って膝から落ちたらしい。
慌ててテーブルの下を覗き込んでいるエーダリアに、ムギーという銀狐の抗議の声が聞こえてくる。
公爵位の魔物なのだから、膝の上から落ちてはいけないと言ってあげたいところだが、涙目でけばけばのまま抱き上げられた銀狐は、寝返りを打っても落ちないように守って欲しかったようだ。
エーダリアの膝の上に戻されると、たしたしと膝を踏んでくるくるっと回り、居心地のいい角度を見付けて再び丸くなってしまった。
すやすやと眠り始めた銀狐を共に覗き込み、ネア達はふうっと息を吐く。
席を立つ間だけ伴侶をテーブルの上の雲の寝台に移せばいいネアの方が動けるので、ここでポットから紅茶のお代わりを注ぎ、小さな陶器の入れ物に入った林檎砂糖をぽちゃんと落とす。
初めてこちらの紅茶を体験するエーダリアも、一粒の林檎砂糖を丁寧にカップの底に落としていた。
「……………そう言えば、季節ごとに渡りをする人外者達がいるのだ。そのような者達は、古い家を好むことが多い。魔術的な契約書を作り各地に預けておくことで、先程話したような暮らしをしている者達の屋敷の一部屋を、一時的に貸し出すことなども視野に入れてもいいかもしれないな」
「まぁ。一人ぼっちの方のお宅の一部屋に、何かが泊まりにきてくれるのですか?……………お部屋を汚しません?」
「そのあたりは、種族的な生態を見極め、契約に織り込む必要がありそうだがな…………。とは言え、渡りの人外者に勝手に家に入り込まれたという被害は少なくない。そのような者達と、提供する側の求めるものが上手く一致すればいいのだが。…………丁寧にもてなせば祝福を授ける者も多いのに、なかなか上手くいかないものだと悩んでいたところだった……………」
そんな言葉を聞き、ネアは想像してしまった。
家族のいなくなった古い屋敷の一部屋に、とある季節だけ渡りの妖精や精霊がやって来る。
その受け入れによって謝礼が貰えるようになり、また、受け入れた者達との関係によっては、祝福を授かるかもしれない。
勿論、そのような運用になれば、多くの問題も出て来るだろう。
だが、既に被害が少なくないのであれば、そちらと差し引きで恩恵が多くなるよう調整出来るのではないだろうか。
「……………春告げの前に、どこかで」
「むむ……………」
ここでエーダリアは何かに気付いたように立ち上がると、膝の上で眠っていたすやすや狐を抱っこしたまま、少し待っていてくれと言い残して魔術通信をしにゆく。
まるで子育て中のお父さんのようだが、腕の中でぐでんとなっているのは高位の魔物なのだ。
「……………キュ」
「あら、起きましたか?喉が渇いていれば、美味しい林檎砂糖の紅茶もありますからね?」
「キュ!」
目を覚ましたムグリスな伴侶は、ちびこい三つ編みの先までが艶々になっていた。
雲の寝台でうっとりとろりな睡眠を得た後にご主人様の膝の上に移動したのだが、心地よい睡眠を促す魔術道具の力はかなりのもののようだ。
「キュキュ…………」
「エーダリア様と、領内の事をお話ししていました。それと、騎士さん達から飲み切ってしまうという申し出のあった紅茶は、林檎砂糖で美味しくなりましたよ」
「キュ!」
「香りや祝福のある紅茶ばかり飲んでいましたので、こうしてお砂糖で甘酸っぱさを足すのは初めてでした。すっかり気に入ってしまったので、今度ミルクティーで試してみましょうか」
「キュキュ!」
暫くすると、ダリルと話していたというエーダリアが戻ってきた。
テーブルの上にぽてりと座ったムグリスディノは、林檎砂糖の紅茶が気に入ったのか、ぴるぴるしながら飲んでいる。
「早速だが、先程の話を試してみる事になった」
「まぁ。……………もうなのです?」
「ああ。比較的温厚な気質の人外者と、先程話していた土地で暮らす生活困窮者の双方に思い至ったので、ダリルに相談してみたのだ。また来年となれば、それだけの期間手のひらからこぼれてしまう。このような事は、取り組むに早すぎるということはないからな」
先程出てきた地名のあたりに、春周りという妖精の渡りがあるらしい。
小さなむくむくした長毛兎のようなその妖精は、滞在中、古い家の一部屋に勝手に住み着いてしまう。
その部屋が、夫婦の寝室や子供部屋だったりすると大騒ぎになるので、早速今年から何か出来ないかということであるようだ。
ウィームとしては、渡りの妖精用に空き家なども準備しているのだが、今回は、領民に負担のない形で支援金が渡るように出来ないかという側面からの提案である。
春周りの妖精は滞在先さえ得てしまえばたいへんに温厚で、家主が春の花や四葉のクローバーをおやつにあげるとお礼に金貨を落とすこともあると聞けば、まさにうってつけの妖精なのだった。
そしてその土地には、エーダリアの記憶にも残るような悲惨な事故で家族を喪った、一人のご婦人が住んでいる古い屋敷があるらしい。
「……………金貨」
「……………お前は、金貨目当てで、契約の魔物達を不安にさせないようにするのだぞ」
「ぐぬ。もふもふの居候を得た上に、餌やりの楽しみを得るだけで金貨が貰えるかもしれないなんて……………」
あまりの羨ましさにネアは少し荒ぶってしまったが、素人の考えを実行に移せる知識と行動力のある者達がいるということは、とても得難いことなのだろう。
制度作りに無知なネアのような側の者の声が大き過ぎてもいけないし、その声を受けるエーダリア達の側では、やるだけやってみてというようないい加減な仕組みを作る事は出来ない。
どんなに素敵に見えても決して簡単な事ではないのだが、ウィームの住民の気質と、エーダリアの嗜好としては上手く噛み合いそうな方向へ向かうのではないだろうか。
後日、夫と子供を事故で亡くしたご婦人が、春周りの妖精の同居人を受け入れる事になった。
川に違法投棄された魔術書を、危ないからと善意で拾ってしまい、彼女の大事な家族はいなくなったのだ。
ウィームには、春周り対策予算があるので、その中から謝礼金が出るだけではなく、受け入れに向いた状態になるように開放される部屋には魔術師達によって、相応しい手入れが入る。
春周りが立ち去った後、特殊な魔術遮蔽のあるその部屋は、住人にとってのシェルター代わりにもなると聞き、ネアは笑顔になった。
勿論、その手入れについては、ウィーム領の費用負担だ。
もふもふ妖精の同居人を得たご婦人は、魔術書の暴走の現場にもいたらしい。
事故の際に足を痛めており、働きに出るのが難しいまま、高価な魔術薬の出費が生活を傾けていた。
他に親族もおらず、内向的で友人などもいなかったそうだ。
時折、どうしてもという時だけ近所の人の手を借りてひっそり暮らしていたが、今回の施策は思っていたよりも相性が良かったようだ。
今後も続けたいと申し入れがあり、毎年春には春周りの妖精を迎え入れるとなれば、張り合いなども出てきたのだろう。
かつての事件を良く知り、屋敷の近くの見回りを欠かさなかったその土地の騎士から、ご婦人の表情が目に見えて明るくなったと報告があった。
受け入れ準備で魔術師達が家に入るようになるが、それ以外では煩わしい出入りもなく、春周りの妖精は部屋の窓の鍵さえ開けておけば、自分で窓を開けられる賢い妖精だ。
そのあたりも良かったのだろうと話してくれたダリルによれば、ご婦人は、妖精の滞在中に、静まり返った屋敷の中に響く、とてとてという春周り妖精の足音を聞くのが、何よりも嬉しかったのだとか。
余談だが、春周りの妖精は、冬明けに春の魔術をその足跡に宿す妖精だ。
閉ざされたものを緩める事を嗜好とするので、一人ぼっちで暮らすご婦人がたいへんに気になったらしい。
もふもふしながら寄ってきてすりすりしてくれたり、ご婦人の為に、金貨の祝福などもぽこぽこ落としていたそうだ。
あの妖精の目には、孤独に生きる女性が冬を纏った者に見えたので、春を齎したかったんだろうねぇと笑ったダリル曰く、春周りの妖精はそれぞれの作業担当を持つので、また来年も同じ家にやって来るだろうという事だった。
なお、その妖精に毎年夫婦の寝室を占拠されていたご近所の一家は、出ていくものかと荒れ狂うもふもふとの戦いに明け暮れる春から解放され、感謝の差し入れをご婦人に持っていったらしい。
その屋敷は、今迄の寂れた様子とはまるで違い、春の祝福に溢れ花々が咲き乱れる美しい庭に囲まれていたという。
長命の妖精と、それなりにお年を召したご婦人の時間が重なるのは短い時間だとしても、そうして出会ったことで生まれる幸運や幸福は、やはりウィームだからこその恩寵である。
次の春を待つご婦人にとって、季節の廻りは、これまでとは違って見えるのかもしれない。