雲なお客と春嵐とパンケーキ
「まぁ。今日はどうしたのですか?」
その日、騎士棟から連絡が入り正門前に向かうと、そこにはターバン姿の一人の魔物が蹲っていた。
めそめそしているので屈みこんで視線を合わせてそう問いかけると、うりゅりゅとした銀灰色の瞳がこちらに向けられる。
はっとするような怜悧な美貌の魔物だが、ネアには叱られてしまうことが多い。
なお、それ以外の所では、残忍な魔物として人間達には恐れられているのだとか。
そんな雲の魔物は、ぽそりと悲しげに呟く。
「イーザが、僕を置いていった」
「……………念の為に伺いますが、もう二度と会えなかったり、お亡くなりになられたりはしていませんね?」
「ほぇ。そ、そんなことはないんだ!また、あの会………趣味の用事で、出かけただけなんだよ!」
「……………良かったです。一瞬、嫌な汗をかいてしまったではないですか……………」
「今日は、ルイザも忙しいんだよ。僕は一人でいたくないんだ。君は僕を敬って傍にいるべきだよ」
「ふむふむ。寂しくて遊びに来てしまったのです?」
「……………ふぇ」
幸いにもその日はお休みであったので、ネアは、エーダリアとヒルドに確認を取った上で、雲の魔物を預かることにした。
最近では何かと祝祭の際などにウィームの手助けをしてくれる魔物なので、リーエンベルクの騎士達の間でも人気が高い。
しかし、他領ともなるとそうはいかないようで、やはり残忍で冷酷な魔物として、雲の魔物と聞くだけで震え上がる者も多いそうだ。
立ち上がればネアより背が高いのは勿論のこと、長い睫毛を揺らした美貌はほうっと見惚れてしまうくらいだが、おずおずと手を伸ばしてネアの袖を掴んでくる様な部分を見ていると、幼気にも見える。
「甘い匂いがしますが、何か食べています?」
「飴だよ。泣いていたら、ゼベルがくれたんだ」
「あらあら、いつの間にか仲良しですねぇ」
「あの人間は、悪くないのではないかな。エアリエルは僕もよく知っているしね」
「ヨシュアなんて……………」
もそもそと隣を歩くヨシュアに、ご主人様の反対側はしっかり押さえたディノが少しだけ荒ぶっているが、今回の荒ぶりは甘えに近いもので、ヨシュアを迎え入れることを本気で嫌がっている様子はない。
なので、突然ヨシュアが立ち止まってしまい、じわりと涙目になるとおろおろとしてしまっている。
「……………イーザは、僕も連れていけばいいんだ」
「仲良しですものね。ですが、他の方々の手前、毎回ご一緒する訳にはいかないのでは?ヨシュアさんは、その同じ趣味は楽しまれないのです?」
「僕は、………僕の方が偉大だから嗜まないんだよ」
「むむ。となると、他の高位の方が関わるような趣味なのですね」
「高位ではないけれど、イーザはそのご………相手を、とても尊敬しているんだ」
「ふむふむ。伝達者のような方のいるご趣味なのかもしれません」
「ほぇ………」
聞けば、数日前からイーザが出かけるのは分かっていたらしい。
しかし、いざ一人になってみるととても寂しかったので、ルイザに遊びに来て貰おうと思ったところ、今日は他の用事があるということで断られてしまったのだそうだ。
おまけにハムハムも、半年に一度ある有識者会議に参加する為に出かけている。
誰も一緒に居てくれないと思って悲しくなってしまい、ウィームにやって来たらしい。
(ハムハムさんの参加している有識者会議とは……………)
若干、大きな謎を孕む情報もあったが、そんな日もあるだろう。
今日はパンケーキを作って、リーエンベルクのとっておきの部屋で食べるのだと言えば、ヨシュアは目を瞬き、途方に暮れたようにディノの方を見る。
「僕も食べていいのかい……………?」
(おや……………)
こちらを見たヨシュアの眼差しには、理知的で叡智深い高位の魔物らしい問いかけが見えた。
このようなところでは、お伺いを立てるのだなと見ていると、ディノは小さく頷き、魔術の繋ぎを切った上で食べるようにと伝えている。
パンケーキが食べられると分かった雲の魔物は、ぱっと笑顔になってクリームがいっぱい添えてあるのがいいと言い始めたので、ネアはにんまり微笑んでおいた。
「では、一緒にクリームを立てましょうね」
「ほぇ……………僕は、食べるだけだよ?」
「今回は手作りの物を食べる日なので、働かざる者はパンケーキに出会えないのですよ」
「僕は偉大な魔物なのにかい?」
「ええ。ディノもお手伝いしてくれるのです。それとも、パンケーキは見送りますか?」
「……………ふぇ。食べるんだ」
ここで、エーダリア達との一つの会議を終えて戻ってきたノアが、廊下の向こうから歩いてくる。
話は聞いている筈だが、おやっと眉を持ち上げて魔物らしい眼差しでこちらを見た。
歩調に合わせて揺れる漆黒のコートを見る限り、これから外出する予定でもあるのだろうか。
「わーお。どうしてヨシュアがここにいるんだい?」
「僕はパンケーキをするんだよ。ネアとシルハーンと一緒にね」
「ふうん。騒ぎを起こさなければ別にいいけど、ネアのパンケーキは、僕だって大好きなんだけどなぁ」
とは言えノア達は、聞けばやはり外出を控えているらしい。
今日は王都で、非公式ながらもヴェンツェルだけではなく、宰相も交えた昼食会があるのだそうだ。
漂流物の対策について、ガレンの長としての意見交換をする場なのだとか。
「呼びつければいいんだ。それなのに、ノアベルトが、ヴェルリアに行くのかい?」
「そりゃあ僕は、契約者のことを慮れるからね」
「………では、この国ではそのような配慮が必要なのだろうね。面倒だけど、守護を与えた相手の為であれば励むといいよ」
「ありゃ。ヨシュアに言われると癪だなぁ………」
「当然のことだよ。僕はとても偉大だから、いつだってイーザの側に立って考えるんだ。それは、守護を与えて守りたいと思う者がいる者の役割だからね」
(あらあら…………)
先程までは寂しくて泣いていた魔物なのに、穏やかな声音は魔物らしい静謐さを湛えていた。
統括地を持つ魔物達の中でも、魔物らしい気紛れで翻弄することもありながら、ヨシュアの治める土地はとても安定していると聞く。
それは、数ある雲の系譜の者達の仕える系譜の王として、この魔物がどれだけ優れているかという証でもあった。
(雲の系譜の人外者は、様々な気質や性質を持っていると言われているのに、その評価なのは凄い事なのだとか………)
例えば氷の系譜の者達であれば、ある程度の多様性こそあれ、氷そのものの気質から大きく外れることはない。
だが、それが雲ともなれば、目まぐるしく変わる雲そのものの複雑さで、ありとあらゆる者達が一括りにもならずに連なるのであった。
雲の魔物は、気紛れで残忍だとされる一方で、王としての資質は高い。
だからこそ恐ろしいのだと、そう思う者達は少なくはないだろう。
つまり、ここで涙目でパンケーキは食べると主張している魔物は、とても凄い魔物でもあるのだった。
「イーザには、連絡を入れておきましょうか?」
「………やめておくよ。今回は帰ってきて欲しい訳じゃないからね。でも、本当は僕も連れて行くべきなんだよ………」
「あらあら。また悲しくなってしまったのですか?」
「春嵐が狩りをしているから、僕と一緒にいるべきなんだ。グ………他の仲間がいて心配はないと言うけれど、それでもイーザは僕の友達なんだよ」
(おや………)
ネアは、思いがけない理由を聞いて驚いてしまった。
寧ろ、そんな理由があるのなら、引き留めて話をしておくべきだったのではないだろうか。
「イーザさんは、その、春嵐さんとやらの事をご存知の上で出かけられているのです?」
「一緒にいる魔物が、春嵐より階位が高いんだ。…………でも、イーザを守るのは僕なんだよ」
「春嵐なら、ウィームの近くにはいないのではないかな。ウィリアムが彼を嫌っているからね。昨日こちらに来た際に、近くで見かけたので他の土地に追い出しておいたと話していたよ」
「ほぇ。…………ウィームにはいないのかい?」
「少なくとも、今日明日で戻ってくることはない距離だね。ウィリアムは雑だからなぁ」
それは、しょんぼりしていたヨシュアにとっては朗報だったらしい。
目を瞬くとふにゃりと微笑み、それならいいんだよとにっこりする。
「イーザさんの事が心配で、心配だからこそ余計に寂しくなってしまったのですねぇ」
「僕が大事なのは、イーザとルイザとハムハムなんだ。君はシルハーンだと思うけれど、そういうものなんだよ」
「ええ。私にとってはそれは誰よりもディノで、…………なのでヨシュアさんは、もう少し真ん中に立ちましょうね」
「ほぇ…………」
出掛けていくエーダリア達を見送り、ネア達は厨房でパンケーキ作りを開始していた。
粉を篩い生地を作るネアの横で、雲の魔物は生クリームを立てている。
しかし、ヨシュアはからからと音を立ててボールの中で泡立て器を動かすのが怖いらしく、恐々と果物を切っているディノにべったりくっついてしまうのだ。
それでも涙目になりながら生クリームを立てているので、真面目な生徒である。
なお、ディノは最近になって、包丁の使い方を覚え始めた。
果物を切ることしか出来ないが、みんなで集まる時にアルテアが手際良くやってしまう果物の配布について、思うところがあるらしい。
それがちょっぴりの羨望でも、ネアは大事な魔物には出来るだけ多くのことを経験し、必要なものは手に入れて欲しいので、やってみましょうかと始めたのは先週あたりからであった。
「包丁を使っている方にぶつかると、危ないでしょう?」
「どうして危ないんだい?」
「手を切ったりと、怪我をしてしまうかもしれません」
「シルハーンは、こんなもので手を切らないよ?」
「…………なぬ」
さっと伴侶の方を見たネアに、ディノはどこかぎくりとしたように体を震わせた後、ふるふると首を横に振る。
「怪我はするかな…………」
「ほぇ、シルハーンは、こういう刃物で怪我をするのかい?」
「……………する……と思う」
「むぅ。さてはしないなという感じしかしませんが、怪我をしてしまう方もいますので、お料理の最中は、互いに適切な距離を保ちましょうね」
「僕は、偉大なんだよ……………」
悲しそうに訴えるヨシュアは、怯えながらも生クリーム作りは続けてくれていた。
多分、最初だから怖いだけで、すぐに慣れるだろう。
「ええ。だとしても、美味しいパンケーキをいただく為の試練だと思って下さい。ほら、パンケーキ制作に関わったと言えば、お留守番の間にまた一つ成長したのだなと、イーザさんも喜んでくれますよ」
「……………生クリームくらい簡単に作れるよ」
「ふふ。その調子です」
「ヨシュアなんて……………」
「まぁ!ディノは、苺をそんなに綺麗に切れてしまうのですか?さすが私の魔物ですねぇ」
「……………ずるい」
かくして全ての準備が調うと、ネアは、いよいよパンケーキを焼きに入る。
本来生クリームを立てるのは完全な素人には難しい作業かもしれないが、幸いにも高位の魔物達は器用な生き物だ。
大丈夫かなと思っていたが、しっかりと完成させてくれたヨシュアを褒めると、嬉しそうにディノに自慢している。
ディノとノアがリボン結びが出来ないように、意外なところで不器用さも発揮するが、不慣れな作業と不得手な作業の見極めさえこちらでしてやれば、大抵の事は出来てしまうのも、魔物らしい巧みさなのだろう。
(そしてヨシュアさんはやはり、やらないだけで全般的に器用な魔物さんなのだろう……………)
何かをやってみるということには不器用だが、やり方を提示し、本人のやる気さえ出せれば何でも出来る魔物なのかもしれない。
ネアは、以前に義兄が、本来はグレアムなどのタイプに近しいと話していたのをきちんと覚えていたのである。
じゅわっと音を立てて、パンケーキの生地がフライパンに流し入れられる。
アクス商会で揃えた調理器具は、いつだって最善の状態で料理に挑んでくれる素敵な相棒だ。
すぐに牛乳と卵の甘い香りが立ち籠め、魔物達は目をきらきらさせた。
料理を作って振舞う行為は愛情の受け渡しに近いが、ある程度の魔術を削ぎ落した上でも残るそれは、隣人や友人、自分の輪の外側ではあっても一緒に笑い合える誰かからの仲良しの握手のようなものだとネアは考えている。
そして、そんな許容と優しさを、多くの魔物達はあまりよく知らないのだった。
(高位の魔物さん達は、たった一人で生まれて、生まれた時から完成しているというけれど……………)
それは、どれだけ寄る辺なく、不安な事だろう。
完成された者として全てを噛み砕いていても、彼等にだって、怯えたり孤独を感じる心はあるのだ。
ヨシュアのように、親しい友人達が寄り添ってくれ、尚且つ本人もある程度安定した心を育てている魔物でも、一番大事な人ではないネアに焼いて貰えるパンケーキの為に口元をむずむずさせてしまうのは、彼等が、そうやって大事にされることを喜ぶからこそ。
勿論、そんな心の在り方を持たずに、形成から人間とはまるで違う嗜好や思想の人外者も少なくはない。
けれども、こうして触れられる心の温度を持つ隣人がいるのであれば、ネアはやはり、目を輝かせてパンケーキをひっくり返す瞬間を見ている魔物にだって幸せになって欲しいのだ。
(ああ、私は贅沢になったな……………)
そう考えるのは、ディノが優しい魔物だからなのだと思う。
もしネアの伴侶がディノでなければ、ネアはこんな風に暮らせないのは間違いないのだから。
「はい。出来ましたよ。今、果物を並べてクリームを盛りますからね。シロップはこちらですが、一度に大量にかけずに、私が回しかけるくらいの量を見ておいて、まずはそのくらいから始めましょう。料理に於いては、どんなものも過分にしてしまってからの取り返しは付かないと覚えておいて下さい」
「……………ほぇ。多過ぎると、よくないのだね。そっちの方がいいのに……………」
「ええ。お料理は、そのような気性のものなのです。ただ、自分の好みの量を把握した上で、誰がどう言おうと、自分はたっぷり使うのだというものもあるでしょう。その嗜好に於いては、一緒に食卓を共にする方々の迷惑にならなければ、好きなようにしていいのですよ」
それは、ディノは既に履修済のお料理の作法であったので、どこか誇らしげに頷いている万象の魔物を見て、ヨシュアもこくりと頷く。
「イーザは、僕が好きなものを、僕の好きなだけ持ってきてくれるよ」
「あらあら。他人の嗜好をそのように満たすのは、とても難しいのですよ。それこそ、私とディノくらいでなければいけませんので、イーザさんはきっと、ヨシュアさんのことが大好きで、注意深く色々なことを見ていてくれるのですね」
「イーザは僕の友達なんだ。ルイザも、ハムハムもだよ!」
嬉しそうにそう宣言したヨシュアに、ネアも頷いてやる。
大事な人に大事に思われているという証は、いつだって心を温かくしてくれるものだ。
ことりと、パンケーキのお皿をテーブルに置く。
ぷわんと漂う甘い香りに、道具類を片付けたばかりの厨房の水の香り。
「はい。出来ました。温かな内にどうぞ」
「……………ほぇ。パンケーキだ。店でもこんな風に出てくるんだよ」
「ネアのパンケーキは美味しい……………」
「うむ。正確には、市場で売られているパンケーキの粉が美味しいというのもありますが、私がこうして綺麗に焼けるので、パンケーキの美味しさを最大限に引き出していると言わざるを得ません。ディノ、グラスを出してくれて有難うございます」
「うん。……………このような時は三個出すのだろう?」
「ええ。私達の分と、お客様の分ですよ」
とくとくとグラスに注いだのは、果実の香りのある冷たい紅茶だ。
渋みのしっかりした何にでも合わせやすい茶葉のものもあったのだが、今日は果物と味が被っても、少し贅沢な美味しい紅茶を飲みたいと意見が一致している。
「春嵐さんは、どんな魔物さんなのですか?」
もぐもぐあぐりと、生クリームと果物たっぷり載せの、シロップがけパンケーキをお腹に入れてしまい、幸せなおやつの時間が後半に差し掛かると、ネアは気になっていた魔物について尋ねてみた。
そんな質問を聞いたヨシュアの銀灰色の瞳が、きらりと光り魔物らしい酷薄さを帯びる。
そうしていれば長命高位で老獪な魔物以外の何者にも見えないヨシュアが、考え込むように指先を唇に当てた。
「身勝手で、気紛れで、手に入らないものを欲しがる魔物かな。穏やかそうに見えるけれど、あまり気持ちがいい魔物じゃないんだよ。……………僕は前の包丁……トムファリドと春嵐のサムハリスが嫌いだ」
「むぅ。同じような響きの名前をお持ち同士で、嫌な奴なのですね……………」
「ほぇ、何で怒っているんだい?」
「人間はとても単純な生き物なので、以前の包丁の魔物さんが好きではないので、きっと春嵐めも嫌いだろうと考えてしまうのです」
「ご主人様……………」
「ディノは、その方をどう思いますか?もし、お会いしたことがあって、あまりいい気分で過ごせない魔物さんであれば、そんな奴めはぽいなのですからね?」
「……………サムハリスは、あまり好きではないかな」
珍しく、ディノがそうきっぱりとそう言うのを聞き、ネアは目を瞠った。
今迄のお喋りの中に出てきた魔物ではないようだが、何か因縁があるのだろうか。
「そやつめに、何かをされたのです?」
「……………ウィリアムが、よく話しかけられていたんだ」
「サムハリスは、ウィリアムが大好きで大嫌いだったんだよ…………」
「むむむ………」
二人の魔物の話を統合すると、春嵐の魔物は、終焉の魔物に対してかなり歪んだ執着を持っているらしい。
自分はこんなに幸せで器用なのに、その有り様はどうだろうというような含みの嘲笑を、親切めかした言葉に乗せてくるあたりは包丁の魔物に似ていたが、そこに魔物らしい獰猛さや、我が儘さが加わるのが、春嵐の特徴だ。
そのお陰で、包丁の魔物の時のように大多数の者達が、春嵐を善人だと言うことはないが、信奉者や仲間の多い魔物でもあるという。
なお、正しくは春嵐の魔物ではなく、春曇りの魔物であるらしい。
ただ、本人がヨシュアの系譜の下位にあたるその名前を嫌がり、春嵐と名乗り出したのだそうだ。
「なんと我が儘なのだ。嵐の系譜の方々は、それでもいいのですか?」
「その資質も有していたので、致し方なくという感じだろう。彼は、………欲しいものを得るまで満足しない事が多かったから、系譜の者達で話し合って好きなようにさせておいたのかもしれない」
とは言え高位の魔物なので、好きなようにしている内にその名前も魔術的な力を持つようになる。
本来の春嵐の領域の者達からすれば面倒なばかりだが、今はもう、春嵐でもいいくらいにはそちらの性質を強めたのだとか。
「春嵐は、霧雨の妖精達が嫌いなんだ。霧雨の妖精達は、春嵐が気に入った詩人を欲しがった時に、その詩人が嫌がっていたから引き渡さなかったんだよ」
「まぁ。であれば当たり前のことなのに、それで霧雨の妖精さん達に悪さをするのですか?」
「意地悪で高慢だと言うんだ。だから僕は、サムハリスを見付けたら、大雨で流すんだよ」
「理由にはとても同意しますが、ウィームではやめて下さいね」
「ほぇ……」
だが、ネアとしては安心なことに、サムハリスはディノには近付いてはこないらしい。
また、ウィリアムもよく絡まれはするものの、鬱陶しいのでとどこかに捨ててくるくらいには対処が可能な相手なのだそうだ。
「シルハーンの事は怖がっているよね」
「一度だけ、ウィリアムを困らせていたので、どこかに落とした事があるから、それでかな………」
「むぅ。冬の傾斜地でご一緒する前に会われたということでしたので、あの日に、ウィリアムさんともっとお話をしておけば良かったです」
「落ち込んだりは、…………していなかったのではないかな」
最近になって、こんな会話をも出来るようになったディノの言葉に、ネアは、確かに楽しそうに過ごしてくれていたなと頷く。
だとしても、不愉快な相手に遭遇したばかりであったのなら、あの何でもないお出掛けの日があって良かったのだろう。
そう考えて満足しながらグラスの紅茶を足していると、なぜかヨシュアがもじもじするではないか。
「ヨシュアさん……………?」
「ここは、普通の厨房なんだよ。特別な部屋には行かないのかい?」
「むむ。窓の外を見ていなかったのですか?今日は鯨さんが淡い金色の雨を降らせているのですよ?」
「ほぇ……………それだけ」
「それだけでも、充分に綺麗なので、今日は特別なお部屋なのです!私だって見るのは二度目で、こうして窓に近い席を押さえてしまうくらいなのですよ?」
「雨だけ……………」
ヨシュアは良く見るのだとがっかりしていたが、ネアは、鯨が降らせる金色の雨が好きだった。
金色と言っても実際に雨に色がついている訳ではなく、お天気雨のようにどこからか差し込む陽光が雨粒に反射してきらきらと光るのだ。
だが、鯨の影で空と周囲が暗いので、その雨だけが光り輝くように見えるのであった。
パンケーキをたらふく食べて紅茶を飲む素敵な午後が終わると、ヨシュアは、お風呂アヒルの最新の調整状況を見せてくれた。
もはや、自力で浴槽を泳ぎ回り、があがあと鳴く不思議な生き物になってしまっている気もしたのだが、ヨシュアはとても満足そうだ。
これはもう、いつか本当に生き物になって派生するのではと考えふるふるするネアに、入浴時間が終わると自分で巣に帰ることまでを説明してくれる。
「エーダリアが帰ったら、エーダリアにもこのアヒルを見せるんだ」
「むむ。確かにエーダリア様は、この不思議道具に興味津々な気がしますが……………」
「彼は、僕が偉大だということをちゃんと分かっているからね。ネアみたいに乱暴もしないし…………」
「む?」
「……………ふぇ」
夕刻になり、ヨシュアがエーダリアへのアヒルの説明を終える頃、リーエンベルクを訪ねた一人の妖精がいた。
ヒルドに憧れているというイーザの弟の一人は、ルイザに頼まれてヨシュアを引き取りに来たらしい。
ルイザも夜には帰って来るので、霧雨のお城にいるようにと言われ、お留守番の時間を過ごしていたヨシュアは嬉しそうにしている。
やはり、そちら側こそが雲の魔物の輪の中なのだ。
ぺこりと頭を下げてヨシュアを連れて帰る青年に、ヒルドが何かを話しかけてやっていた。
嬉しそうに目元を染めて頷いている青年にとって、ヒルドは憧れの妖精の一人なのだろう。
そんな様子を、エーダリアが微笑ましげに見ている。
「だが、あのような魔術設定を道具に出来るとなれば、常用の魔術道具にも、もっと幅広い展開が出来るのではないだろうか……………」
「ありゃ。よく考えて使わないと、あちらの魔術は悪用が出来るからね。あまり人間に普及させるのは望ましくないかな」
「……………そ、そうか。その懸念があるのだな」
「でもまぁ、エーダリアが自分で使う分にはいいんじゃないかな。エーダリアにとっては有用なら、道具作りを手伝ってあげるよ」
「……………いいのか?」
「勿論。エーダリアの契約の魔物は、僕だからね」
「……………ほわ。ノアは、ヨシュアさんがエーダリア様にあれこれ教えてしまったので、拗ねているのです?」
「……………ありゃ。そうなのかな?」
「やれやれ……………」
思いがけないお客が帰り、リーエンベルクの門が閉じた。
ゆっくりと暮れてゆく空の明るさは、長い冬の終わりが見えてきた、淡い菫色。
それを少しだけ寂しく思いながら、ネアは差し出された三つ編みを握りしめた。
「では、晩餐に備えてお庭の散歩でもしましょうか?」
「ご主人様!」
「ネイ、あなたには少し話があります。外客棟の廊下のカーテンのタッセルが紛失したそうですが、心当たりがあるでしょう」
「……………ありゃ」
「ノアベルトが………」
どうやらまたカーテンに悪さをしたらしい塩の魔物が項垂れると、ばびゅんと、森からどこかに向けて飛んでゆくむくむく毛皮の妖精が見えた。
小さな隣人たちも、夜の支度に向けて忙しくなる時間なのだろう。




