ありふれた隣人と夜明け前の略奪
例えば夜明け前に目が覚めたとする。
そこは不思議で美しく、悍ましく優しい世界で、窓の向こうにはきっと不思議な雪明かりが見えるだろう。
真夜中に目を覚ましたのは、カーテンの向こう側が明るくなったことに気付いたからで、何だろうと起き出してカーテンの隙間から森の方を見ると、ぼうっと青白く輝く森の向こうには、飾り木のような不思議な木が見えた。
(……………明るい)
煌々と明るく輝く木の上の星は、夜空から迷い落ちたものか、一本の木の王冠なのか。
カーテンの隙間から怖々とその森の奥を眺めていると、細めた目に、木の根元で輪になって踊っている妖精達が見えたのなら、どうするべきだろう。
不思議な木の周辺にだけ、なぜか春の庭園のように花が咲き乱れていた。
甘い花蜜の香りが漂ってきそうな花々は、あんなに離れているのに、満開になった花々の花びらの質感までがくっきりと見えていて、パッチワークのキルトの敷物の上には美味しそうなパンケーキのお皿もある。
苺や木苺、ブルーベリーなどのたっぷりの果実に、とろりとシロップを回しかけ、生クリームはこんもりと。
他にもクッキーの缶と思わしきものに、籠いっぱいの瑞々しい果実。
更には、チーズやサンドイッチを盛りつけてあるような気がする、その奥のお皿まで。
そんな様子を一瞥し、ネアはふぅっと息を吐いた。
カーテンの隙間は閉じてしまい、もそもそと寝台に戻って眠っている伴侶の真珠色の長い髪に触れる。
寝息も聞こえないくらいにぐっすり眠っている魔物は、伴侶の人間にムグリス姿で撫でまわされてしまったせいで眠りが深いようだ。
ちょっとだけ。
ほんの少しだけ、庭に出る続き戸を開けて外に出て、どんなワルツが聞こえてくるかを知るくらい。
ふと、さも自分の心の囁きのようにそんな思いが浮かび上がり、ネアはぎりりと眉を寄せる。
そうしてほんの僅かな冒険に心を傾けるよりも、ここで眠っている無防備な魔物の方が、どれだけ美しく、そしてどれだけ大事なことか。
如何にも楽し気に誘う明るい夜の向こうにやれやれと溜め息を吐き、ネアは、ぷいと窓に背を向けると、寝台に戻って、ふかふかの個別包装の毛布をじわりと剥ぎ取った。
そのままぐいとディノの毛布に潜り込めば、ふっと真珠色の睫毛が震える。
「……………ネア?」
「森の向こうに、悪いやつがいるのです。私は、ディノを置いて森に行くような真似はしないので、ここで伴侶にくっついてぬくぬくしていますね」
ふっと開いた水紺の瞳がこちらを見る。
眠たそうな甘く優しい声音の余韻が残っているのに、眇められた瞳の温度は酷く冷たくなった。
「何か、困ったものがいたようだね」
「窓の外がずいぶん明るくなったので覗いてみたのですが、あまり素敵なものではありませんでした………」
「季節のあわいが近付いてくると、あちこちであわいの扉が開くのだろう。彼等もまた森の隣人だけれど、どれだけ同じような姿をしていても、絶対に応えてはいけないよ」
「はい。あの方達は、森の向こうでぴかぴかやってみせて私を起こしたものの、我が儘な人間が、こんな夜にぬくぬくの寝台から雪の積もったお外に出てゆき、尚且つ、大事な伴侶と離れて森に出かけるような真似をする筈もないと、どうして分からないのでしょう」
何か収穫や獲物として良いものが現れたのかなと起き出してしまった人間は、そんな期待を裏切られて少しばかりむしゃくしゃしていた。
温かな寝台と大切な伴侶から離れさせたところで、あれっぽっちのもので、これだけの幸福感をどうやって埋め合わせ出来るというのだろう。
「……………知らないのだろう。君のことも、私のことも。追い払ってしまおう」
「………むぅ。折角気持ちよく寝ていたのに、起こしてしまいました」
体を起こしたディノに、ネアがそう眉を下げると、ふわりと微笑んだ魔物は淡い口付けを落としてくれる。
三つ編みを解いた長い髪は真珠色のオーロラのようで、その内側ですっかり自分のものになった体温に寄り添えば、幸せにむふんと心が蕩けてしまう。
「君には私がいるけれど、騎士達が招かれてしまうといけないからね」
「きりんさんボールでも投げておきます?」
「………それは、やめておこうかな。あのような者達もまた、禁足地の森の一部なのだろう。彼等はとてもありふれた者達だから、クレドアの宴にはいなかったけれどね」
「……………ずっと昔から、時々こんな季節になると、ぴかりと光って誰かを誘い込んでいたのでしょうか」
「そうかもしれないね。あのあわいの糧になった者もいたのだろう」
そんなディノの言葉を聞きながら、どこか憂鬱そうに窓の方に視線を向けたディノの横顔を見上げる。
カーテンは閉まったままであったし、ディノはただ森の方を見ただけだったが、明るく輝いていた森の向こうの光が、ふっと瞬くように揺れふつりと消えた。
「もう、いません?」
「うん。また森の奥へ帰ったか、あわいを渡って別の場所に出たのかもしれないね。魔術連絡板に、今夜は森に近付かないように書いておこう」
「……………ふぁぐ」
寝台に戻ってから一度も体を起こしていないネアは、うとうととしかけながらも、騎士達の為に情報共有をしてくれているディノを労うべく、むぎぎっと目を開く。
ディノは、起き上がって魔術連絡板に何かを書き込みにいったようで、さらさらと深い夜の光の中に揺れる真珠色の長い髪を見ていた。
ディノが起き上がったからか、ネアが潜り込んだ毛布の中にあった温もりは少しだけ逃げてしまったようだ。
寝台の上に投げ出した片手が少し毛布からはみ出しているし、一緒の毛布で眠るのなら、ネアはもう少し寝台の反対側へずれるべきである。
それなのに、眠くて仕方なくてそのままぺしゃんと横たわっていた伴侶に、寝台に戻ってきたディノが淡く微笑んだ。
優しい手のひらが、ネアの頬に添えられる。
「眠っておいで。今夜の残りの時間は、個別包装ではなくていいのかな?」
「……………ぐぅ。……………一緒に寝まふ。あのぴかぴかにむしゃくしゃしたので、ディノにくっついていますね」
「うん。…………ちびふわの籠は、そのままでいいかい?」
「……………むぐ。ちびふわをすっかり忘れていました。シシィさんの採寸があると思い、リーエンベルクに偵察に来てしまった魔物さんです。ウィリアムさんまでちびふわなのは、私の所為ではなく、飲み比べに誘ってしまったノアの仕業なのですよ……………」
「どちらも、起きなかったようだね。フルーツケーキのお陰かな」
「ふふ。悪酔いな魔物さんなど、ちびふわ符とフルーツケーキで一撃なのですよ」
そんな話をしていると、また少し目が覚めてきた。
ネアは、ごろりと自分の領域に戻りつつ、ディノの毛布からはみ出ないように位置取りをし直し、枕の向こうですやすやと眠っている魔物の二席と三席なちびふわの姿を確認した。
同じ寝台の上にはいるが、寝返りで圧死させてしまわないよう、二匹のちびふわは、柔らかな布編みのバスケットの中に火織りのタオルハンカチをかぶせて寝かせてある。
ちょっと興が乗ってしまったのか、賭け飲みなどをしてしたたかに悪酔いした結果、使い魔は耳を齧られたネアによって、酔っ払いちびふわの刑に処されているのだ。
ウィリアムについては、疲れていたのかすとんとその場で眠ってしまい、起こそうとしたところ少し剣呑な気配を纏ったので、こちらもちびふわにしてしまった。
仲良く一緒に寝かせたところ、義兄からはあまりにも無慈悲だと言われたが、まだ夜は冷えるので一緒に眠っていた方が温かいだろう。
ここはもう、一人ではないのだから。
「……………フッキュウ」
「……………フキュ」
「なでなでしても、この通りぐっすりですので、夜明け前に起き出してきて、悪さをすることもないでしょう。ディノ………?」
ふと、寝台に戻りながらいつもとは違う悲し気な微笑みを浮かべたディノに、ネアは目を瞬いた。
ちびふわ籠には火織りのタオルハンカチをかけ直しておき、そっと隣に横になった魔物に体を寄せる。
「……………魔物には、それぞれの資質があるからね。酩酊している時や、深い眠りから目を覚ましたばかりの時、或いはその資質であってこそ動く感情に触れている時。………そうして揺らぐものが自分でも意図せずに表に出た時、……………私達は、他の生き物をとても損ない易くなる」
「そういうものなのです?」
ディノの言いたい事はよく分かったけれど、ネアは、確かにそうなるだろうなとは頷かずに、曖昧に微笑んでおいた。
何しろそれはネアには齎されない障りであるし、であればこうするのがいいだろう。
「とても不自由なことだけれど、そういうものなのだろう。………いい魔術符を貰ったね。そうして眠らせてしまえば、彼等も、意図せずに揺らいだ資質で大事なものを失ってしまったのかもしれないと考えるような事にはならない」
「ええ。ちびちびふわふわしていて、可愛いだけです」
「うん。君に、その手段があって良かった。…………そう思ったんだ」
「私の大事な魔物は、優しい魔物なのですね。ウィリアムさんやアルテアさんが怖くないようにと、そんなことまで考えてくれたのでしょう?」
「私達も、……………先程の隣人と同じように、とてもありふれていても、君達とはどうしても違うものだからね」
その呟きはもう、少しも悲しげではなかった。
だからネアは、先程ディノが見せた眼差しには、きっと、ここではないどこかでそうして失った、誰かの大事なものがあったのではないかなと思う。
何となくだがディノではなさそうなので、誰かが手痛く失ってゆくのを見ていたのかもしれない。
それを思い出して少しだけ心を痛め、今回、ウィリアムやアルテアがそうならずに済んで良かったと安堵していたのではないだろうか。
「ええ。私もディノとは違う生き物なのです。でも、ディノはすっかり私の伴侶なので、安心してここでぬくぬくしていますね」
「………先程、君が見付けた者達は、不満や寄る辺なさを持つ者を招き入れるのだそうだ。……………君が、幸せでいてくれて良かった……………」
「ふふ。幸せなのですよ。そして、そもそもこのぬくぬく毛布にすら敵わないのに、私の伴侶に敵う筈もないぴかぴかでしたね」
「……………うん」
ふにゅりと幸せそうに微笑み、ぎゅうと抱き締められたネアは、珍しくそのまま眠ってしまった。
いつもであれば解放を求めて暴れるところなのだが、やはりネアにも、沢山飲んだ雪霞と水晶のお酒の影響が出ていたのかもしれない。
その夜は、一人の騎士が危うく森の輝きに招かれるところであったが、ディノが伝えた情報で他の騎士達が警戒していたお陰で、大事にならずに済んだらしい。
その青年はまだ若い騎士で、身に持つ魔術で可動域の低い友人とあまり会えない事を気に病んでいたらしく、その夜は、グラストがじっくりと色々な話を聞いてやったのだそうだ。
ディノが、彼等はありふれた隣人だと話していたことを思い出し、ネアは、くたくたで二度寝を楽しむ朝に、エーダリアからのそんな通信を聞いた。
夜遅くにディノが連絡をしてくれたお陰だと、朝一番でお礼を伝えてくれた律儀なウィーム領主は、お酒が入った事で眠たくなるのではなく、徹夜で魔術書を読んでしまったらしい。
今朝は遅い時間に朝食をずらしてあるので、一刻程だがこれから、少しでも寝るということであった。
「ふにゅ。今日はヒルドさんも遅めの朝ですし、家族がみんなまだお部屋で眠っていると思うと、何て穏やかで素敵な朝なのでしょう」
「今日は、雪が降っているのだね。もう少し、君の好きなウィームの雪が見られそうだよ」
「ええ。雪がはらはら降る窓の向こうを見ながらの二度寝は、選ばれし者にしか与えられない至福の喜びなのですよ。このまま………むが」
「……………フッキュウ」
「なぜ、ちびふわのお尻がお口の上に乗ったのでしょう。………むぅ。二匹とも、私の首元でマフラーになっていたのです?」
「ウィリアムとアルテアなんて…………」
どうやらこちらのちびふわ達は、大人しく眠ってはいなかったようだ。
いつの間に籠を抜け出してこちらに来ていたのだろうと眉を寄せたものの、ふかふか毛皮を首周りに感じられるので、ネアとしては吝かではない。
まだ酔いが醒めないらしいちびふわ達を撫でてやりながら、ネアは、毛布の中のぬくもりに溺れるように目を閉じた。
夜明け前に一度起き出していたらしいちびふわ達が、こちらも少しだけ酔っ払いだったらしいネアの不手際で隣室のテーブルの上に置きっぱなしにしていたフルーツケーキの箱を襲撃し、残りのフルーツケーキを略奪していたと知ったのは、すっかり目が覚めてからであった。
伴侶に鎮めの三つ編みを持たされたまま、大事なおやつだったのだとわなわなするネアの向かいでは、擬態の解けた二人の魔物達が、途方に暮れたような目で立ち尽くすこととなった。
繁忙期につき、本日の更新は短めとなります。