空の薬と小さなお客
「まぁ。シシィさんが…………」
その日、約束していた仕立て妖精のシーの訪問がなくなったと聞き、ネアはへにゃりと眉を下げた。
伴侶であるルグリューがトマトの祟りものにあたってしまい、寝込んでいるのだそうだ。
一定時間ごとにトマトを食べさせないと弱ってしまう恐ろしい呪いにかけられているので、付き添いが必要なのである。
「…………そのような呪いがあるのだな」
しみじみ驚いた様子で呟いたエーダリアに、ヒルドが頷く。
「ええ。今回は不特定の近くにいた者達全員に不均一な影響が出ているようですので、呪いというよりは正確には障りに近いのでしょうが、そうして呪いや障りで損なわれた予定を、本来の形ではなくして無理に遂行するのは良くありませんからね。数日で解けるそうですし、ディノ様とご相談させていただき、延期とさせていただきました」
「ヒルドさん、有難うございます。エーダリア様の受けた呪いが、トマトでなくて良かったですねぇ………」
「……………ああ」
連絡を受けたヒルドがディノと話をしてくれている間、ネアは、エーダリアの執務室にいた。
エーダリアが参照した古い資料からうっかり触れた呪いがあり、並べた書類の順番がばらばらにされ、大騒ぎだったのだ。
こちらは前の領主に恨みを持つ誰かが仕込んでおいた呪いのようで、代理妖精や契約の魔物などの手伝いは受けられないという縛り付きである。
その上で、仕上げたばかりの大量の書類の全ての順番が一枚残らずばらばらにされるという呪いなので、なかなかに邪悪だと言わざるを得ない。
エーダリア以外に作業を手伝えるネアとグラストが駆り出され、つい先ほどまで、部屋中に吹き飛んだ書類を三人でせっせと並べていたところだ。
「そちらは無事に終わったようですね」
「ああ。ネアの手際が良く、とても助かった………」
「うむ。文官の方のするようなお仕事をしていたことがあるので、書類の整理などは得意なのですよ」
得意げにふんすと胸を張ったネアは、ヒルドにも褒めて貰ってしまい、慌てたディノも褒めてくれる。
そして会話が再びトマトの呪いに戻り、このような常備野菜は時々苛烈な呪いを齎すのだという話になった。
「ほら、ジャガイモの件もあったしね」
「むむ、精霊さんを呪ったお話ですね…………」
「特定の、障りが多いとされる植物よりは温和なのですが、扱う機会が多いからこそ障りとなる案件も多いのでしょう。植物の系譜であり、尚且つ、より生育環境に近しくなりがちな食料だということもあるようですよ」
「確かに、家庭菜園などもありますし、新鮮なお野菜をいただくとなると、まだお元気………お元気な状態なのです?」
「ご主人様………」
ここでネアが心の迷路に入ってしまい、ディノも少し怯えてしまったようだ。
寧ろ、近しい野菜だからこそ気軽に荒ぶられては堪らないのだが、今回のような事件が引き起こされる場合は相応の理由があると聞き、ネアはほっとした。
これでもし無条件ともなれば、注意のしようもないではないか。
「トマトにまで荒ぶられるとなると、我々の生活には甚大な被害なのではと思いましたが、特定の条件を満たした場合のみなのですね」
「ああ。系譜のトマト達を治めるトマトがいるそうなのだが、その者が動いた近くでは、損なわれたトマトに影響が出易いそうだな」
「…………難しい言葉ではないのですが、エーダリア様の説明が、少しも頭に入ってきません」
「…………ご主人様」
「僕も、そこについてはあんまり深く考えないようにしているんだけど、ジャガイモの場合は広域被害で障りが出て、トマトの場合は、統治者の目に留まると障りやすくなるみたいだね」
「ほわ………統治者………」
まだちょっとよく分からないが、きっと、当然のように受け入れられる日はだいぶ先のことになるだろう。
なのでネアは、深く考えないことにしておき、こくりと頷いた。
ルグリューが受けた障りは、そうして統治者の通り道で活性化したトマトによるもので、たまたま、よく行く飲食店で誤発注によるトマトの一箱廃棄が出ていたことで巻き込まれたのだとか。
それを知らずに店に行ってしまい、たまたま居合わせた他の客達と共に障りを受けたという。
そんな話を聞けば、いつ何時自分が巻き込まれるのか分かったものではない。
ルグリューの場合は数日間の影響で済み、明日には回復するだろうというところまで来ているようだが、たまたまその程度で済んだという事例に過ぎないのだ。
「………今回のお話は、国外なのですよね」
「ええ。今回、シシィの伴侶の障りは幸いにも国外ですが、どうやら、そこからヴェルクレアに入ったようで、国内でも目撃情報が上がっております」
「ぎゃ!」
「………っ、………そ、そうなのだな」
「ええ。そちらについても、ディノ様とお話をさせていただいておりました」
「ありゃ。そうなのかい?」
「グレアムから話が入っていたんだ。今は、ヴェルリアの商人を追ってウィームに入っているそうだけれど、ヴェルリア商人達の様子を内偵しているそうなので、外部には姿を見せないようにしているようだよ。通り道での影響の心配はないだろう」
「わーお。………ってことは、誰かが接触したのかぁ………」
「…………もはや、トマトとは何なのだ」
ディノは、障りを出す市販のトマトは怖いが、トマトの統治者については気にならないらしい。
そのあたりの線引きもたいそう謎めいているので、ネアは、とても混乱している頭をふるふると振った。
どんな理由でトマトがヴェルリア商人の内偵をしているのかも気になるが、無関係で済ませてしまえるのなら深く関わってはいけない。
日々のトマト料理を美味しくいただく為にも、心の中のトマトには、トマトのままでいて貰わねば困るのだ。
「採寸がなくなったのであれば、………今日は、午前中の内に仕事を済ませておいたのだろう?どこかに出かけたりするかい?」
「特別にお出かけしたい場所はないのですが、ディノはどこかに行きたいですか?」
「ネアと一緒かな………」
突然行きたい場所を尋ねられてしまった魔物は、まだこのような主張は苦手なのか慌てたように羽織ものになってくる。
そこで、ぱっと目を輝かせたのはエーダリアだ。
「であれば、一件、お前達に相談をしておきたい市販の水薬があるのだ。仕事となってしまうが、少し時間を貰っても構わないだろうか?」
「まぁ。であれば、そちらのお手伝いをしましょうか。………ディノ、もう少しお仕事になっても構いませんか?」
「うん」
ディノが頷くと、ほっとしたような表情をしたエーダリアが、ヒルドの方を仰ぎ見ている。
ノアがどこか遠い目をしたので、どのような相談がなされるのかを知っているのだろう。
「………時々さ、人間はとんでもないものを作るよね」
「おや、困った物なのかい?」
「ガレンに持ち込まれた物らしいよ。アルビクロムで作られて、ガーウィンで流通しているって言えば、ちょっと想像が付くかもだけど」
「…………信仰の系譜の物かな」
証拠品となった水薬を実際に見て欲しいというので、会食堂ではなく、リーエンベルク内にある遮蔽室に移動することになった。
魔術的な弊害が出る品物ではないので、ネアも同行して構わないそうだ。
「と言うよりも、今回は、お前にも見て欲しいのだ」
「まぁ。魔術のお薬の調査で、私もお役に立てそうなのです?」
「流通そのものはガーウィンなのだが、開発がアルビクロムでな。………となると、可動域が低い者達による開発なのだとしたら、状態の異常さを見極めるには可動域の低さも必要なのかもしれないと考えている」
「………ぐる」
「前例のない魔術薬というものは以前にもありましたが、魔術的な効果が読み解けないというものも珍しいですね」
ふうっと溜め息を吐き、ヒルドが部屋の扉を開けてくれる。
薬そのものは、エーダリアが魔術金庫に保管してあるようなので、取りに戻る必要はないらしい。
どうやら、折を見てこちらに相談する予定だったらしく、その為に持ち歩いていたようだ。
作業用の遮蔽室はさほど大きくはなく、中央に大きなテーブルが置かれている。
さてさてとテーブルを囲み、まずは、薬の調査をする為の魔術基盤をエーダリアが構築した。
これは、部屋や家具からの魔術的な影響を受けて薬の成分を見誤らないよう、干渉を受けない作業台を作る作業なのだそうだ。
エーダリアは魔術師でもあり、自室に小さな工房を構えてはいるのだが、今回は、外部から持ち込まれた薬品なのでそちらで作業をすることはないらしい。
力のある魔術師は、自身の魔術付与を行わないようにと、このような検証や調査の品物は自分の工房に持ち込まないそうだ。
「物によって持ち込める場合もあるのだが、この薬のようにどのような魔術付与なのかが分からないとなると、私の魔術道具や作業用に構築した魔術式が、解析の邪魔になるのでな」
「ふむふむ。そうして作業場所を変えるのですね!」
「わーお。興味津々だぞ………」
「このような世界に来たのですから、魔術師さんにだって憧れていたのですよ!ですが、叶いませんでしたので、工房や魔術師さんのお仕事を見るのは好きなのです。…………私だって、いつかは世界を平伏せさせる程の偉大な魔術を………」
「ご主人様………」
うっかり野望を漏らしてしまい、ネアは、とても怯えた魔物からお口にギモーブを押し込まれ、むぐむぐと噛み締めた。
お口の中の瑞々しい甘酸っぱさに心はふんわりするが、可動域ばかりが全てではないと、この無情な世の中をひっくり返し、さすが偉大なる狩りの女王だと皆に称えられる日を夢見る思いは少しも色褪せなかった。
有り体に言えば、異世界らしい魔術をえいっと使ってみることが出来れば大満足なので、強欲なばかりの人間は、それ以上のことはあまり考えていない。
出来れば、目の前の相手を愛くるしいもふもふに変えてしまえる魔術などがいいと思っている。
「この薬だ」
ことりと、テーブルの上に置かれたのは華奢な緑色の小瓶であった。
その中に収められた水薬は、たぷんと揺れる透明の液体に見える。
だが、瓶そのものに色が付いているので、同じような色がある液体なのかもしれなかった。
しゅわんと淡い光が弾けた。
慌ててそちらを見れば、エーダリアが、ぱさりと開いた小さめの魔術書の文字を、指先で撫でたようだ。
ざあっと光った文字が細い細い糸となり、小瓶に巻き付いていくと、ぐるりと取り巻くようにぴしりと張り詰める。
「もしもがあるといけないのでな。このように捕縛しておいた。……………この水薬なのだが、謳われている効果がないということでガレンに持ち込まれたのだが、検査の結果、………何も分からなかった」
「……………何も、なのかい?」
エーダリアの説明に目を瞬いたのは、ネアだけではなかったようだ。
ディノも不思議そうに首を傾げ、先に調べたらしいノアが、とても儚い目で遠くを見る。
「材料の段階ではさ、色々な魔術付与はあった筈なんだよね。でも、…………あれこれ効能を押し込もうとして、反発し合う魔術を重ねたんじゃないかな。アルビクロムの商人は、それを異国から入ってきた珍しい薬だってガーウィンの連中に売りつけた。魔術の障りを中和する薬だって言ってね」
「……………ああ。実際に魔術反応がないので、ガーウィンでは本当にそのような効果があると思われてしまったようだ。薬を飲む者達に祝福も与えておこうと、信仰の祝福を重ね………こうなったのだろう」
「…………信仰の祝福は残っているけれど、確かに、それ以外の要素は全て空になっているね。とても珍しい状態だと思うよ」
暫く困惑したように水薬を見ていたディノが、そう言えば、エーダリアは頭を抱えてしまった。
ノアも疲れたような目をしているので、何か厄介な状態なのだろうか。
首を傾げたネアは、そもそも、薬の流通の経緯は嘘がある以上は完全に違法だなと思いながら、綺麗な緑色の薬瓶を凝視してみる。
「……………お前の目で見ても、何も感じ取れないだろうか」
「む。魔術的なものは、寧ろ私には見えないのではないのですか?」
「先程も話したが、これは、可動域の低いアルビクロムの商人が造った薬なのだ。さすがに反発し合い空の状態を固定するような魔術薬を作らないと思いたい。可動域の層の違いでこそ、何か見えればと思ったのだが……………」
「……………むぅ。私の目には、綺麗な緑色の薬瓶と、そこに入った瓶の色を透かしてみれば透明に見える液体が入っているばかりなのです。……………ほわ、エーダリア様がくしゃくしゃになりました」
ネアは、これはもう何か魔術的な障りがあるに違いないと思い、慌ててディノの手をぎゅっと握ってしまったのだが、いきなり伴侶に虐待された魔物が息も絶え絶えに教えてくれたことによると、空というのは、ただ単純に魔術が空っぽというだけなのだそうだ。
「……………虐待する」
「むぅ。それがなぜ、エーダリア様が頭を抱えてしまうような事になるのです?」
「明らかに問題のある商売ですが、魔術を宿さない魔術薬の売買を裁く為の法律が、この国には現在存在しないからですね」
答えをくれたのはヒルドだった。
そして、思わぬ方向の返答に、ネアはぎりりと眉を寄せる。
「まぁ。…………魔術的に空っぽなお薬なのに、これを売り捌いても問題はないのですか?」
「うーんと、僕が説明を引き継ぐとね、………今回はさ、ガーウィン側は、薬を検品した上で購入契約を結んでいるんだよね。おまけに、この国にある現在の薬事法だと、こういう効果があるものは駄目だとか、効能の偽りはいけないだとか、そんな方向でしか縛れないんだ。そして今回はさ、魔術効果を中和する薬っていうのがこの薬の説明だったんだよね」
その言葉を順を追って呑み込んでゆけば、目の前の緑の小瓶がどんな物なのか、やっとネアにも理解が出来た。
「……………ほわ。検品をした筈だろうと言われれば契約としては成り立ってしまい、薬事法でも裁けず、尚且つ薬の説明もあながち間違っていません………」
「うん。そういう事。だから、この薬が本当に奇跡的に空になっている以上、薬を取り扱っていた業者を、現行の法律では裁き難いって感じかな。多分、入手経路なんかでは偽りがあるから裁けなくはないけど、それだけじゃガーウィンの側が納得しないだろうしね。…………ってことはつまり、凄く面倒臭い裁判になるし、ガレンからも検証を行う魔術師を派遣する必要が出てくる。……………これからの時期は、各領で季節の移行に伴って様々な魔術異変が出る季節だっていうのに、そこそこ優秀な魔術師がそっちにかかりきりになる訳だ」
聞けば聞く程とても悲しい話なので、ネアは、テーブルに突っ伏しているエーダリアの肩を優しく叩いておいた。
何でもいいので、何か中和効果とは言えない魔術を含んでさえいれば簡単に取り締まれたともなれば、こうして最高位の魔物の目に頼りたくもなるだろう。
ディノにしか見付けられなかったとしても、含有が判明していれば、検証魔術で証明することは出来るらしい。
しかし、たいへん残念なことに、目の前の薬瓶の中の液体は、魔術的に空っぽなのだった。
「……………例えば、このお薬を飲むと健康被害が出たりなどは……………」
「そのような報告は全くないし、…………魔術的な効果がないのであれば、被害の出ようもないからな。せいぜい、ガーウィンでかけられた祝福の効果で気分が良くなるくらいだ」
「その祝福のせいで、発覚まで時間がかかって流通しちゃったんだよねぇ………」
「……………残念ながら、とても面倒臭い訴訟が残るばかりとなりそうです……………」
「……………ああ。……………魔術師達の軽口で、商品や薬などで空の魔術が現れてしまったならという話が語られる事はあったのだ。だがまさか、こうして現物を見る羽目になるとは思わなかった……………」
魔術効果がない薬を販売してはならないという規制は、この国にはないのだそうだ。
それは、どんな薬にも材料がある以上は、寧ろ、魔術効果がない薬というものこそがほぼ存在し得ない幻の薬となることに起因する。
だが、ただ現れただけならガレンでも大喜びで研究対象になったこの薬は、よりにもよって、ガーウィンの教会関係者の中でも、それなりに高位の者達の評判と矜持を傷付けてしまっていた。
「効果のない薬を掴まされたかもしれないと訴え出るだけでも、相当な審議があったでしょう。隠し通しておいた方が、教会の威信に傷は付かなかったのですから」
「……………ということは、自分達はそこまでしたのだから、悪徳業者にも相応の罰を与えて欲しいと思って当然なのですね。……………なんと面倒な事をしてくれたのだ……………」
エーダリアはここでとても弱ってしまい、気を利かせたヒルドが、だいぶ早いが執務室でのお茶の時間にしたようだ。
ふらふらと執務室に向かう上司を見送り、ネアは、思った結果は出なかったとは言え、追加のお仕事をしてくれた魔物を労う為に、差し出された爪先をぎゅっと踏んでやった。
「ずるい……………」
「相変わらず使用方法は旅に出たままですが、お疲れ様でした」
「……………疲れては、いないかな」
「あらあら、これは、お仕事をしてきた伴侶を労う言葉なのですよ。お知り合いの方にも使いますが、今回は伴侶用に言ってみました」
「……………虐待」
「今日も儚いですねぇ……………」
自ら差し出された爪先を踏まれて弱ってしまったディノを連れ、ネア達は部屋に戻る事にした。
まだまだ午後のお茶の時間迄は時間があるし、先にお茶の時間を取ったエーダリア達とは別になるだろう。
であれば、一度部屋に戻り、空いてしまった時間で何かしたい事があるかなと考えてみようと思ったのだ。
(……………おや)
しかし、廊下を抜けて本棟を抜けようとした時、ふと視線を向けた庭園の様子に、ネアは眉を寄せる。
三人程の騎士が集まっており、忙しなく動いている姿が見えたのだ。
その中に、まだ本調子ではない筈のアメリアの姿を見付け、ネアはくいくいっとディノの袖を引っ張った。
「どうしたんだい?……………おや、何かいたのかな」
「そんな感じの動きをされていますよね。覗きに行ってみてもいいですか?アメリアさんがいるのが、少し気になるのです」
「うん。では、これを持っておいで」
「三つ編み……………」
庭に出られる扉を開けながら、今日はこんな日なのかなと思う。
予定していた採寸がなくなり、その代わりにリーエンベルクで小さな役割が続けて現れてくれている。
時折こういう日があるので、運命の魔術の盤上での巡り合わせがあるのかもしれない。
「……………ネア様!」
案の定、騎士達の方に近付くと、こちらに気付いたアメリアが安堵の表情になった。
お役に立てそうな雰囲気であるのでいそいそと近付くと、やはりまだ本調子ではないのか顔色があまり良くないではないか。
「アメリアさん、もしやあまり体調が宜しくないのではありませんか?」
「…………実は、禁足地の森より訪問者がおりまして……………」
「む。お客さんなのです?」
それが、あまりよくない生き物なのだろうかと考えたネアが騎士達の向こうを覗こうとすると、はっとしたように瞳を揺らしたディノがいる。
そろりと動いた魔物はなぜか、ネアの背中の後ろに隠れてしまった。
「……………ディノ?」
「合成獣なんて……………」
「………は!………もしや、先日の斑の獣さんです?」
「ええ。あの獣と、同じ個体だと思われる合成獣がおりまして…………、その、もし宜しければ様子を見ていただいても構いませんか?」
「はい。あの愛くるしいもふもふであれば、勿論です!…………まぁ、ミカエルさんもご一緒なのですね」
「ええ。彼が、取り次ぎを頼まれたようで、私に連絡が入ったのですが、エーダリア様とヒルド様に連絡が付きませんでしたので、訪問の許可を与えていいものかどうかの判断が出来かねていたところです」
「先程まで遮蔽のお部屋に入っていたので、それでなのかもしれません。まずは、私が会ってご事情を聞いてみますから、その上で必要であれば、もう一度連絡されてみてもいいかもしれませんね」
助かりますと頭を下げたアメリアに、一緒にいた騎士達も、ほっとしたように息を吐いている。
リーエンベルクの騎士達は、席次のない騎士でも充分に優秀な者達ばかりではあるが、相手が合成獣となればやはり分が悪いのだろう。
では、取り次ぎを頼まれたミカエルはどうだろうかと思い前に出てみると、こちらを見た雨降らしは、比較的落ち着いた様子であった。
ぎゅうぎゅうとネアの背中に顔を押し付けて怯えている魔物とは違い、足元にぴょこんと立っているもふもふを恐れている様子はない。
ばさりと揺らした大きな翼を少しだけ広げ、目が合うと淡く微笑んでくれた。
「ミカエルさん、お久し振りです」
「久し振りだな。……………君は、本当に何ともないのだな」
「ふふ。可愛らしいお客様ですね。…………お一人なのかなと心配していましたが、ご家族なのです?」
その足元に立っているのは、先日のクレドアの宴で出会った合成獣だ。
兎耳に牡鹿の角があり、銀狐くらいの大きさの素敵な斑毛皮の愛くるしいもふもふである。
根元に鱗のある猫尻尾をゆらりと揺らし、こちらを見るとみっとなっているので、ちょっぴり怖がりなのかなと思ったネアは、視線を近付ける為に屈んでみることにした。
ディノが酷いと呟いているが、ここは我慢していただこう。
「今日は、リーエンベルクに御用なのです?」
「……………ギャム」
くりくりとした瞳は黒曜石のようで、美しい面立ちの獣である。
面立ちも兎に似ているが、体型としてはムグリス寄りのもふもふころんとした丸さが堪らない。
ネアの事は覚えていたのか、少しだけけばけばになると、耳をぱたぱた動かしている。
「……………ああ、そうなのか。……………君に会いたかったそうだ」
「まぁ。私になのです?」
「ああ。彼女は、君に、先日の薔薇のお礼を言いたいそうだ。お陰で、求婚に成功したらしい。一緒にいるのが伴侶だな」
「ギャム……………」
「まぁ!薔薇の花びらを手に取られていたのは、求婚の為だったのですね」
幸いにもミカエルが通訳をしてくれるので、会話に困る事はなかった。
ネアが出会った個体は雌だったようで、伴侶となった斑の獣は一回り小さい。
雌の方が大きい生き物なのかなと考えながら、ネアは、どうやらお礼を言いに来てくれたらしいもふもふに微笑みかける。
「ギャム!ギャ……………」
「求婚なので、森にはない、薔薇色の花が欲しかったのだそうだ。……………ああ、もういいのかな」
「……………む。またしてもびゃっと逃げてゆきました。今回はなでなで出来ませんでしたが、ディノが弱ってしまうのでこれで良かったのかもしれません……………」
「合成獣なんて……………」
恥ずかしがり屋なのか、相変わらずつんつんしているのか、言いたいことを言うと満足してしまったらしい獣たちは、二匹揃ってびゃんと森の方へ駆けていってしまった。
遠ざかってゆくむちむちのお尻と猫尻尾を見送り、やはり撫でてみたくなってしまった強欲な人間は、行き場のない手をわきわきさせる。
ディノは、天敵がいなくなった事を確かめる為にそろりと顔を出し、甘えるようにぐりりとネアの肩に顔を寄せた。
「満足したようだな。アメリアを怖がらせてしまったようだが、大丈夫だろうか」
「ミカエルさんは、あのような獣さんは大丈夫なのですね」
「いや、何度か寝込んで、漸く慣れたくらいだな。森に暮らしていると出会う事もあるし、彼等は禁足地の森の固有種のようなものなのだと思う。後からあの森に暮らし始めたのだから、土地で派生した生き物と共存しておくのは必要な事だ」
「……………複数の個体がいたのだね」
もそもそと顔を出したディノに、種族は違えど礼をしたミカエルが、森の奥に禁足地の森の魔術基盤に繋がる小さな木のうろがあり、その中に作られた小さなあわいに、あの獣たちの集落があるのだと教えてくれた。
他の森に暮らす生き物達に比べれば多いとは言えないが、それでも群れで暮らしているらしい。
「君に挨拶をしにきた雪斑が、今の群れの中では一番強いようだな」
「ゆきまだらさんという、種族のお名前なのですね」
「森の生き物達はそう呼んでいる。雪の系譜の獣なのだろうが、花の蕾を食べるらしい。貰った薔薇の蕾は、求婚の貢ぎ物だったのだろう」
「お花を贈ったのかと思っていたら、まさかの食糧でした……………」
「どのような資質を司るのかはよく分からないところも多いが、森の住人達は、恐れながらも敬意を払っている。隣人でもあるのだから、お礼を言われたのは良かったのではないかな」
「ふふ。私としては、あの獣さんが寂しくなく、森でお仲間と暮らしているのだと知れただけでも、素敵な贈り物を貰えたようです。ミカエルさん、取り次ぎをして下さって有難うございました」
皆が恐れてしまう愛くるしい毛皮の生き物を、実は少しだけ案じていたネアがそう言えば、ミカエルは、僅かに瞳を瞠ると、そうだなと頷いてくれた。
折角復調したところでもう一度合成獣を見てしまった友人が心配だそうで、アメリアと話をしてから森に戻るというミカエルに手を振り、ネア達はその場を離れて部屋に戻ることにした。
「……………ディノ、とっておきの紅茶を淹れるので、一緒に飲みませんか?」
「ネア……………?」
「あの獣さんにお仲間や伴侶がいて、とても嬉しかったのです。……………恐れられるばかりで誰にも見て貰えないだなんて、やはり寂しいでしょう?私もかつてはそういうものだったので、幸せそうな姿を見れて、勝手にほっとしてしまいました」
隣を歩く魔物を見上げて微笑みかけると、ふっと深く微笑んだディノが、そうだねと言ってくれる。
ネアは、ほんの少しだけ、ディノがあの獣にかつての自分を重ねているような気がした。
アメリアはまた少し弱ってしまったが、後から合成獣の訪問の報告を受けたエーダリアとヒルドからは、未だに謎も多く危険もある禁足地の森の中でも、最も危険を孕むかもしれない存在と交流が持てた事を褒めて貰った。
騎士達は、ネアが合成獣にまでお礼を言われていたと大興奮だったようで、取り次ぎにあたって心労をかけてしまったが、こちらもとても喜んでくれたようだ。
ディノがクレドアの宴に求めたのもそのような事であるが、土地の資質との結びは大きな祝福になる。
その中でも、対処が難しい相手であるからこそ、今回の出会いには意味があるという。
「人為的に作られたものや、魔術の成果として生み出されたものではない自然派生の合成獣は、生き物としての成り立ちが、この世界の中でも特異なものだ。だから、祝福というものとは少し違うのだけれど、…………あの獣は、君に心からの礼が言いたかったのだろう。良い魔術が動いていたよ」
「伴侶がいるというのは、素敵な事ですものね。私も、ディノに薔薇を贈れる暮らしがとても幸せなので、あの獣さんもきっとそうなのでしょう」
「…………うん。君があの宴で怖い思いをせずにいて、このような結果に繋がってとても良かった。君が自分の手で紡いだことなのだけれど、………どれだけ丁寧に整えても、望んだような良い物を得られるとは限らないからね」
その言葉に頷き、ネアは、予定とは違う過ごし方になった一日を振り返り、むふんと頬を緩める。
また会えるかどうかは分からないが、窓の向こうに見える禁足地の森に、幸せに暮らす斑の獣がいると知っているだけでも素敵な事ではないか。
しかし、その日はちょっぴり胸をほかほかにして眠りについたネア達であったが、一方で、空っぽの魔術薬の案件について各所との連絡に追われたエーダリア達にとっては、とても悲しい夜だったようだ。
当事者ではないのにもみくちゃにされながら夜明けまで仕事をしていたエーダリア達の為に、ネアは、その日の仕事として、とびきりの回復効果のある魔物の薬をディノに頼んだのであった。
明日3/23の更新は短めのお話となります!