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ブラシ怪人と薔薇の木のブラシ





その日は朝からとても悲しい事件があり、ネアはとてもくさくさしていた。



怒り狂って暴れるのはもうやってしまい、となると次なる段階は、心の奥にくしゅんと凝る悲しみをどうにかして取り出し、遠くに投げ捨てたいところである。


しかし、これが最も難しいことなのだ。


素敵な出来事で心をいっぱいにしたり、うきうきと心を弾ませて追い出してしまうのがいいのだが、そう都合よく心を動かすような要素が得られるとは限らない。


また、当然だが、現在のネアの心はとても悲しみに満ちているので、その状態からどうやって立て直すのかという手法と状態的な難問でもあるからだ。




「…………ぐるる」



こんな日に、名もない人間は世界を滅ぼそうと思うのだろうか。


そんな事を考えながら窓の向こうを眺めていると、部屋の中に誰かが入ってくる気配がある。


ご主人様を慰める為に近づいて来た伴侶ではないことは、奥の長椅子の上でくしゃぼろになっているディノを見れば言うまでもない。

万象なる魔物も、現在、同じ理由でとても落ち込んでいるのだ。




「………やぁ。僕の妹は、まだしょんぼりかい?」

「…………むぐる。ノアでふ………。ブラシの恨みはとても深いのですよ」

「うん。通りすがりのブラシ怪人にブラシを盗まれるなんて、災難だったね」

「私は今後、生涯をかけてあやつを破滅させてみせます………」

「わーお。物凄く怒ってるぞ。………でもほら、僕達には、ブラシがどれだけ過労働状態にあるのかなんて、分からないからね」

「ぎゅ!!……………ぐるるる」




昨晩遅くに、ウィーム中央にはブラシ怪人が現れた。


この怪人は、各種聖人達と似た働きをするこの世界で出会いがちな得体の知れない生き物の一種で、ブラシ姿にぴょこんとしたひよこ脚があると思えばいい。


現れる場所によってはホラーにもなりかねないが、ネアが発見したときには盗人風であった。

何しろその怪人は、過労働を強いられているブラシを見付けると、ブラシ怪人の名に於いて正当な権利とし、解放の名の下に連れ去ってしまうのだ。


連れ去られるブラシは解放の魔術祝福を与えられ、どれだけ高価な物も安価な物も、誰かの持ち物という状態から解き放たれる。

所有魔術や使用者の証跡なども消滅するので安心と言えば安心だが、手元のブラシが持ち去られる事に変わりはない。



そして、昨晩連れ去られたブラシの中には、ネア達の部屋で使う大事なブラシもあったのだった。




「ええとほら、………シルは髪が長いし、毎日梳かして貰ってるからね。それに、ネアと共用だし。………僕の騎士棟で使っているブラシも一つなくなったんだよ」

「…………一緒に、ブラシ怪人を滅ぼします?」

「うーん………。滅ぼすよりも先に、今日使うブラシを手に入れるかな。ほら、こんな風にね」

「……………ブラシ」



青紫色の瞳を煌めかせ、にっこり微笑んだノアが取り出したのは、ふっくらとした厚手の布袋だ。


表面はシルクのような艶々とした生地だが、あの厚みからすると恐らく内側はしっとりふかふかした生地に違いない。

思わず目を瞠ったネアを見て、そんな袋を手にした魔物は優しい目で笑う。



「そう。これはね、夜薔薇の木の結晶と、雪竜の毛を使ったブラシなんだ。ネア達の使っていたブラシを作った、ウィームの工房の限定品だよ」

「げんていひん………。夜薔薇は、すてきなやつですか?」

「そうそう。白がかった薔薇色の木の鉱石だよ。お兄ちゃんから妹への贈り物のつもりなんだけど、見てみるかい?」

「…………見まふ」



椅子から立ち上がりよろよろと近付くと、ノアは、しっとりとした深緑の生地に薔薇色の文字で店名が記された袋から、艶消しの鉱石素材のような質感のブラシを取り出してくれる。


見た目がもうあまりにも素晴らしくて、ネアはその場でびゃんと立ち竦んでしまった。



「持ち手の下の部分は、夜の系譜がかってるから少し青みもあるよね。ブラシの毛は染色して持ち手と同じ色にしてあるらしいよ。綺麗に保つ為の魔術もかけてあるんだってさ」

「……………ほわ。掠れたような薔薇色に、荒く白色を塗り重ねたような素敵な色なのです。夜の色が入っているので甘くなり過ぎず、…………むぎゅわ」



伸ばした手にブラシを持たせて貰い、ネアは、ふにゅりと涙目になってしまった。

なぜなら、持ち手の部分に刻まれているのは、ネアの印章だったのだ。



「これは、ブラシを盗まれた可愛い妹に、僕からの贈り物だから、どこにも行かないようにしてあるからね」

「ふぁ………む。………いいのですか?きっと、とても素敵過ぎて、後からあげなければ良かったと思うような特別なブラシですよ?」

「うん。ネアが、これからもそう思ってくれるくらいに使い心地が良ければ、もっといいかな。素材は限定品らしいけれど、同じ工房のブラシだから、きっと気に入るよ」

「……………もうお気に入りなのですよ?」

「うん。僕の大事な女の子だから、こうやって大事にしなきゃね。ブラシがないままになんてしておけないよ」

「……………わ、私も、ノアにブラシを買います!」



しかし、お返しに銀狐用のブラシを買わんとしたネアは、とても悲しい返答を聞く事になった。


どこかとても遠い目をしたノアから、アルテアが揃えておいてくれている換毛期用のブラシとお揃いの普段使い用のブラシの予備があるので、騎士棟でも、今後はそちらを使う事になったと告げられたのだ。



「………い、いつ告白するのですか?」

「ええと、………春の予防接種が終わってからにしようか!」

「春告げは死守し、その上で今年の漂流物とやらにかからないようにして下さいね?」


強欲な人間がそう言ってしまえば、ノアは青紫色の瞳にどこか儚い微笑みを浮かべ短く頷いた。

絵になりそうなくらいに美しい佇まいだが、会話の内容は一人の魔物の心を深く傷付けるかもしれないもふもふについてのものである。



「うん。………言い方や切り出し方は、何種類か考えてあるんだけどね………」

「きっと、その告白の後の使い魔さんは、森に帰ってしまうのですね………」

「でも、ネアとシルとで、傷心旅行に連れて行くんだよね?………そこで、………ええと、また銀狐と遊んでねって説得して欲しいな」

「なぜ狐さんを主として考えたのだ…………」

「ありゃ………」



ネアはここで、長椅子の上に力なく横たわっている伴侶に、ノアから渡されたブラシを持って歩み寄った。

ご主人様とお揃いのブラシを奪われた魔物は、心なしか髪の毛までぱさぱさになってしまっている。



「ディノ?……………このブラシを、ノアがくれたのですよ。以前に使っていた物と同じ工房のブラシで、私の印章まで刻印してある物なのです」

「……………ブラシ、……………なのかい?」

「ええ。一本なので、また一緒に使うようになりますが、この辺りでディノは専用のブラシを揃えてみます?」

「一緒に使う……………」



もそもそと起き出してきた魔物は、薔薇の木のブラシを持たせて貰い、どこか無防備な表情で瞳をきらきらさせている。


ネアは、先程の自分もこんな風にブラシを見ていたのだろうかと考え、素敵な贈り物を持って来てくれたノアを振り返った。

微笑んで頷いてくれる義兄は、今朝も廊下でお腹を出して寝ていたとは思えない頼もしさだ。



「……………ノアベルト、有難う」

「うん。やっぱりネアとシルは、お揃いのブラシじゃなきゃね!このブラシは印章が刻んであるから、また、ブラシ怪人が現れても大丈夫だよ。でも、過労働にならないようにする為には、時々薔薇の香りのする場所に置いておくといいんだってさ」

「この部屋かな……………」

「まぁ、それでいいのですね!であれば、こんなに薔薇の祝祭で貰った薔薇を飾ってあるお部屋なら、このお部屋に置いておくだけでいいのかもしれません。貰った薔薇を保管しておくお部屋もあるので、いつだって薔薇は沢山あるのです」

「僕もさ、それを思い出してこっちにしたんだ。星のブラシもあったけど、ウィームの冬は雪の日も多いからさ、薔薇だったらいつでも屋内で手入れを完了出来るしね」



(以前のブラシだって、お手入れはしていたのだ……………)



けれども、それでも連れ去られてしまったのだから、その方法だけでは足りなかったのだろう。

となると、こうして手入れ方法が決まっているのは有難い。


ネアは早速ブラシを使ってみる事にして、愛用のブラシを失い三つ編みにしないままべそべそしていた魔物を椅子に座らせてやる。


真珠色の髪に通す前に指先で撫でたブラシは、しなやかで柔らかい毛の部分が、必要以上に髪を引っ張らずにつやつやにしてくれそうな素晴らしい手触りであった。



「いきます!」

「ご主人様!」



ノアも立ち会い、ネアは、夜薔薇の木のブラシで、まずはそっとディノの髪を梳かしてやる。

すると、鏡の中からこちらを見たディノが、水紺色の瞳をきらきらさせるではないか。

単に、また一緒に使うブラシが手に入って嬉しいというだけの表情ではないので、ネアはごくりと息を呑んだ。



「さ、さては、素敵な使い心地なのですね?」

「……………うん」


説明しようとしたようだが、上手く言葉が見付からなかったのか、もじもじしながら頷いた魔物に、ネアも期待が膨らんでしまう。


ブラシで丁寧に髪を梳かす作業は、頭皮と髪の毛が健康であれば、心地よさも伴う行為だ。

特にこちらの世界のブラシは魔術付与があるので、使えば使う程という素敵な道具である。


ディノは、弱っていないと髪の毛が絡まるようなことのあまりない高位の魔物だが、先程まですっかり弱っていたディノの真珠色の髪の毛は、梳かした場所からくすみが晴れてゆくように美しい艶が蘇ってゆく。

 


その変化が楽しくてますます丁寧に髪の毛を梳かしてしまい、三つ編みにされた長い髪に大好きなラベンダー色のリボンを結んで貰ったディノは、先程とは違う意味でくたくたになっていた。



(次は、私も……………!!)



そんな憧れと期待を胸に小さく弾んだネアはしかし、その場にいる魔物達を見回しすとんと表情を鎮めた。


残念ながらこの部屋には、一本結びすらままならない魔物しかいないではないか。

折角のブラシを堪能するのであれば、もう少しの手練れが必要である。


しかし、あなた方はブラシの扱いが上手くないのでと残酷な真実を告げることはせず、ネアは、もぞもぞと椅子に腰かけ、自分の手でブラシを髪に当てた。



「……………むぐ?!」



とは言え、自分で使ってもその効果はあった。

頭皮に触れるブラシの毛の感触に、するすると髪を梳く不思議な滑らかさ。

ぞわわっと心地よさが肌を統べるような不思議な感覚に、ネアはうっとりとろりとしてしまう。


ふにゃりと緩めた表情に、ネアも気に入ったことが伝わったのだろう。

ノアが、嬉しそうに微笑む姿が鏡越しに見えた。



ネアは、そのまま夢中で髪の毛をさりさり梳かしてしまい、顔周りから毛先にかけて僅かに入っている髪の毛の巻きが、すっかり伸びてしまうくらいには梳かしていただろうか。


とは言え元々の髪質なので、少しばかりの乙女らしさに憧れて買ってある薔薇のスプレーでしゅっとやって髪を潤せば、髪の毛の柔らかな巻きもくりんと戻ってくる。


何やら素晴らしくお手入れされた女性になった気分で至福の思いでいると、にっこり微笑んだノアが頭を撫でてくれた。



「わーお。こりゃいいね。髪の毛がつやつやだよ」

「ふふ。ノアのブラシのお陰なのです。これからは、私とディノはつやつやの髪の毛なのですよ!」

「喜んでくれて良かった。……………こういう贈り物ってさ、家族だけのものだから」

「ええ。ノアが家族だからこそ、この贈り物がいっそうに嬉しいのでしょう。ノア、素敵な贈り物を有難うございました」

「うん。昨晩にブラシ怪人の目撃情報があったお陰で、この工房も終夜営業をしてくれていたしね」

「なぬ。……………もしや、ブラシを奪われた人々が、新しいブラシを買い求めにくるからです?」

「そうじゃないかな。妖精や精霊の中には手入れをしていないと弱る種族もいるし、女性の魔術師は、髪の毛に魔術を蓄える子もいるしね」



そんなことを教えて貰えば、異世界なりの髪の毛事情があるようだ。


だから、髪の毛を毟ると言うと皆が酷く怯えるのだなと考えつつ、ネアは、大事なブラシの横に、薔薇を生けてある花瓶を持ってきた。

この場合は勿論ノアが薔薇の祝祭でくれた薔薇なので、塩の魔物の瞳が幸せそうにきらりと光る。



「これで、ブラシさんも疲労回復です!」

「うん。ブラシの為に、ここにも花瓶を置いておこうか」

「まぁ。それはいいですね!薔薇の祝祭の薔薇ですので、きっと効果絶大の筈なのですよ」

「わーお。僕のブラシが凄く大事にされてるぞ………」




先程までの憂鬱さを払拭し、贈り物の喜びを噛み締めたネア達が会食堂に向かうと、どういう訳かウィリアムの姿があるではないか。


訪問の予定はなかった筈なので目を瞠れば、こちらを見た終焉の魔物はほっとしたように表情を和らげる。



「良かった。少し元気になったみたいだな」

「む。…………もしかして、ブラシの一件を聞きました?」

「ああ。今、エーダリア達とそのことを話していたところだったんだ。街の方に居た時に、ネア達のブラシも連れていかれたらしいという話を聞いて急いで駆け付けたんだが、その様子だと新しいブラシを手に入れたみたいだな」



ふうっと息を吐いたウィリアムの向かいで、エーダリア達も、ほっとしたような表情でいる。


同じ屋根の下に暮らしているエーダリア達がそうしてくれるのは納得なのだが、なぜウィリアムが近くにいたのだろうと首を傾げていると、ネアの疑問に気付いたヒルドが、その理由を教えてくれた。



「髪結いの魔物や妖精など、愛用の道具を奪われた事で狂乱に近い状態になる者達もおりますからね。また、髪紐の妖精の一人は、ブラシを失って死んでしまったようです」

「……………儚過ぎるのです」

「死んでしまうのだね………」



ネアは、ブラシを失うだけで儚くなってしまう妖精がいることに驚いたが、ブラシ怪人の出現によって引き起こされた様々な終焉の予兆を危ぶみ、終焉の魔物が駆け付けていたと知ってもっと驚いてしまった。



(そこまでのことになってしまうのだわ………)


もはや、ブラシ怪人の存在自体がこのままではいけないのではという気もしたが、新しく素敵なブラシが手に入った以上は、得体の知れない生き物とは関わらずに生きてゆこうと考えた人間はその思考を捨て置く。

人間というのは、とても利己的な生き物なのだ。



「そうした影響があったからな。七件程の現場を確認してから、最後に、街の職人街でネア達のブラシが注文されたという噂を聞いて、リーエンベルクに寄ったんだ」

「…………あやつは、七件ものブラシ失踪事件を引き起こしたのですね」



ネアがそう言えば、こちらを見たエーダリアが、首を横に振るではないか。



「解放されたブラシは、確認が取れているだけでも七十八個だ」

「なぬ。………ななじゅうはち……………」

「その中で、俺の系譜の予兆が出ていたのが、七件だったんだろうな。………シルハーン、今であれば終焉の予兆から捕縛出来るかもしれませんが、連れ去られたブラシを取り戻しますか?」

「……………どうだろう。そのような資質の存在なのであれば、奪われたものは諦めた方がいいのだろう。……………ネア、取り戻したいかい?」



先程までは長椅子の上で髪の毛までぱさぱさになっていた魔物だが、新しいブラシが来たので、落ち着いて判断が出来るようになったらしい。


かくいうネアも、今であればブラシ怪人の破滅ばかりを祈らずに、鷹揚な判断を下せるだろう。



「ノアがくれた新しいブラシがいてくれますので、前のブラシは、お役目を終えたのだと思って諦めようと思います。………その代わり、今度のブラシに手を出そうものなら、あのぴよぴよ怪人めは、どこかの湖に投げ込んでくれる………」

「ご主人様……………」



最後に少しだけ怨嗟が残ってしまい、そんな人間に慌てたディノが、すぐさま椅子に座らせてくれた。

ここは、リーエンベルクの昼食の力を借りて、荒ぶる伴侶を鎮めようとしたようだ。


ネアも、気を取り直して昼食に向かうことにする。



「ほら、君の好きな牛コンソメのスープがあるよ」

「……………むぐ。このスープは、あつあつで飲むのが美味しいのですよ」

「うん。これは、パイ包みかな………」

「ほわ。ソーセージのパイ包みなクリームソースがけです!」



本日のメインがバターソースを使った白身魚の料理なので、前菜のお皿をいつもよりも重めにしており、ジューシーな自家製ソーセージのパイ包みを添えて、じゅわっとお肉感を添えてくれたのだろう。


敢えて少し凝った一品にして、どちらかと言えばお肉派なネアでも、今日はちょっと物足りなかったなということにはならないようにしてくれるのが、リーエンベルクの料理人達なのだ。



(それに、この、雪鱒の香草バターソースがけもとても美味しい………!)



そろそろ脂の乗った美味しい時期が終わるのでと、こうして雪鱒の食べ納めもさせてくれるのもまた、リーエンベルクの食卓の素晴らしいところではないか。

旬の食材に、各自の好物を反映した食卓は、いつだって嬉しい驚きと安堵に満ちている。


幸せな気持ちで昼食をいただきながら、ネアは、美味しいものを美味しく食べられる精神状態に戻してくれたノアにもあらためて感謝した。



「むぐ。ノアが次なるブラシをくれたお陰で、美味しい雪鱒を堪能出来てしまいました」

「僕の大事な女の子が、元気になってくれて何よりだよ。雪鱒ってさ、この時期はこんなに美味しいのに、春からがくんと味が下がるのが面白いよね」

「なぜか、ぱさぱさになるのですよねぇ……」

「雪鱒は、久し振りに食べたな………」

「……………美味しい」



どうやら魔物達は雪鱒が好きなようで、ネアは、もくもくと雪鱒を食べている姿をおやおやと見つめる。


三者三様ではあるが、魔物たちの食事姿は見惚れる程綺麗で、一緒に席に着いているエーダリアも、元王族らしい所作で劣らず優美な食事風景だ。


美味しい香草バターソースをパンでお皿からこそげ取り、そんな食事の様子を眺めていた乙女は、同時に、お皿のソースをパンにつけるこんな食べ方がこの国の作法で禁じられていない事がどれだけ素晴らしいことなのかについても一考していた。



じっと見ていると視線に気付いたのか、折角なのでと昼食を一緒に摂ってゆくことになったウィリアムがこちらを見る。


おやっと眉を上げて微笑んだ終焉の魔物に、ネアは、おずおずと滞在時間を尋ねてみた。



「ウィリアムさんは、………昼食の後も、少しだけこちらにいられます?」

「ああ。それは問題ないが、何かあったのか?」

「……………む。……………むぎゅふ」



とても大切なお願いがあったのだが、言い出せずにもだもだしてしまい、ネアはふうっと息を吐く。

カトラリーを一度お皿に置いてすはすは呼吸して心を落ち着かせてから、ぐっと拳を握り締めた。



「ノアが素敵なブラシをくれたので、ちょこっとだけ、髪の毛を梳かして欲しいのです………」

「ネアが浮気した……………」

「ん?髪を?」

「わーお。それは狡いぞ………」

「ネア…………?」



なぜかとても過剰な反応を示している者達がいるが、怪訝そうに目を瞠ったエーダリアが慌てて反対はしなかったので、ネアは、それなら大丈夫だろうと、ふすんと背筋を伸ばして交渉に入った。



「素敵なブラシなので、髪の毛を梳かしているだけでほわほわになるのです。ですが、どなたかに髪の毛を梳かして貰うという心地よさがあり、このブラシについては、私は是非にそちら側の体験もしてみたいので、……………その、………お時間があれば少しだけ……………」

「ああ、そういうことだったんだな。それであれば、俺で良ければ好きなだけ………というのも変か」



くすりと笑い快諾してくれたウィリアムに、ネアは、ついついぱっと笑顔になってしまう。


だが、すぐに隣で荒ぶる伴侶がいる事を思い出し、これは愛情に纏わる依頼というよりは、舞踏会の前に髪の毛を整えて貰うことと相違ないのだと説明をしておいた。



「えー、僕がやってあげたのに」

「……………その、……………ノアは」

「ありゃ。僕だといけない感じ?」

「………むぐ。………ひ、一つ結びが出来ない方は、ご遠慮させていただきます!」



理由をはっきりさせないと落ち込んでしまいそうだったので、大雑把な人間は先程の気遣いを投げ捨て、はっきりと理由を告げてしまう事にした。


そんな理由で自分達が候補から外されたと知り、ディノとノアは途方に暮れたように顔を見合わせている。


ここに、ヒルドがいれば風向きが変わってしまったところだが、ブラシ怪人の事件の報告の取り纏めなどもあり、時間をずらして休憩に入るそうだ。


お陰で、戦況はブラシ使いに長けていない勢と、髪結いの得意なウィリアムとなる。


こちらもどちらかと言えばやって貰う側であるエーダリアが、よく分からないが、ウィリアムが髪結いが出来るからこその依頼なのだろうなという感じでこくりと頷いていてくれたので、その反応を見た魔物達も、そういうものなのかなと目を瞬いている。



「その代わり、ディノの髪の毛は私が梳かしますし、ノアも、希望があれば髪の毛を綺麗に梳かしてあげますからね」

「……………ずるい」

「ありゃ。求婚されたぞ……………」

「……………成る程。このような場面であっても、儀式的な髪結いの意味の方に重きをおくのだな」

「わーお。ってことは、エーダリアも違うのかい?」

「ああ。どちらかと言えば、人間の中では、技術のある第三者に依頼することがおかしくはない分野だろう。特に女性については、髪結いとまではいかない日頃からの手入れとしても、髪を整える為の侍女を持つ者たちもいる。得意とする者に手入れをして貰いたいという欲求があるのだろう」



そのような場合の人間は、髪結いや髪を任せる行為に紐づく魔術的な意味合いよりも、その作業が得意な専門家に手入れを任せる事を優先させる。


特にエーダリアなどは、王宮に上がる為に多くの使用人を抱えた高貴な女性達をよく知っている筈なので、今回のようなやり取りにはさして抵抗がないのだろう。



「あー、そう言えばそうかぁ。人間は、身なりの手入れを系譜の従者達以外の相手にもやらせるもんね………」

「そうなのかい?」

「はい。今回、私が日常的に他人の手を借りるような身なりの整え方はしていないので、きっとディノは、親密な方のやり取りと勘違いをしてしまったのでしょう。ただ、髪結いがあんなに得意なウィリアムさんであればとお願いしてみただけですので、もし、ディノが不快であればやりませんからね」

「…………それなら、いいのかな」

「………ディノも、やって貰います?」

「……………それは、いいかな……………」




かくしてネアは、無事に至福の時間を手に入れた。


ウィリアムはすっかり心得ていて、昼食を終えて部屋に戻れば、すぐに夜薔薇の木で作られたブラシで、さりさりと髪を梳かしてくれる。


そのあまりの心地よさにネアはくしゅんとなってしまい、ほんの僅かな時間の中で与えられた幸運を、心より堪能してしまうより他にない。



「ふにゃむ……………」

「はは、気に入ってくれたみたいだな」

「……………ふぁい。このブラシも凄いのに、ウィリアムさんが梳かしてくれると、先程自分でやってみた時より、各段に心地良さが違うのでふ……………、ふにゃむ」



丁寧に髪を梳かして貰い、ネアはとろとろになった。

役得だなと微笑んだウィリアムが、またいつでもと耳朶に口づけを落としてくれる頃には、つやつやさらさらの髪の毛に触れてほふぅと満足の息を吐くだけの乙女が出来上がってしまう。



「…………しふくのじかんでした」

「ウィリアムなんて………」

「え、今度ウィリアムに換毛期ブラシでブラッシングして貰おうかな………」

「ノアベルト、………それは辞退させてくれ。さすがに複雑だ………」

「アルテアは、来る度にやってくれるよ」

「…………いいか、今年中には本当のことを言うんだぞ」

「………ありゃ」




ブラシ怪人は、その後王都にも現れたようで、宝石などを使った高価なブラシを連れ去られたご婦人達が憤死しそうになったという。


そちらでも、ブラシを大切にするような系譜の妖精が二人儚くなってしまったそうなので、ネアは、一度その系譜の者達とブラシ怪人との間に、話し合いの場を設けるべきだと思わずにはいられなかった。









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