金色の森と手のひらの悪夢
ゴーンとどこかで鐘の音が聞こえた。
ネアはその日、伴侶と共に街に出ていたのだが、どこからともなく聞こえてきたのは、耳に馴染みのない鐘の音だ。
これからゆっくりと遅い春に向かう、まだ清廉な雪景色に閉ざされたウィームの街は、そんな鐘の音が聞こえてきた途端にざわりと揺れる。
隣に立つディノが微かに目を瞠り、そんな魔物に話しかける通行人の男性がいた。
「金色の森をご訪問されたことはありますか?ないようであれば、職人か騎士、あるいは商会主などの知り合いと共におられた方がいいでしょう」
「……………ないはずだよ。有難う」
いきなり見ず知らずの人から話しかけられた魔物は驚いていたようだが、きちんとお礼まで言えており、ネアは密かに胸を熱くする。
だが、会話の内容を考えるとあまりいいものではなさそうだ。
この鐘の音は、何かの顕現や浸食を告げるものなのだろう。
「ディノ……………」
「遮蔽地へという言い方はしていなかったし、既に予兆や浸食があるのなら、別の場所に移動しても難しいだろうね。……………騎士か商会主。ウィリアムかアルテアなら、条件に見合うだろう。二人に声をかけてみるけれど、まずはリーエンベルク周辺に転移するよ。二人が不在にしていても、騎士達がいるからね」
「はい!」
ぐるりと見回したウィーム中央市場付近の通りは、比較的落ち着いているようだ。
だが、中には幼い子供を抱いて走ってゆく母親や、友人か家族だと思われる青年と共に、街の騎士のところへ駆けてゆく者達がいる。
(その、金色の森というところへ行ったことがない人が、困ったことになるのだろうか……………)
そう考えて首を傾げ、ネアは、ディノに持ち上げられたまま淡い転移を踏んだ。
「一般の方にとっては、特定の病と同じようなものです。一度罹っておけば、二度目はありません。その代わりに、職人と騎士、商会主は避けようもなく巻き込まれます。金色の森とこちらの時間には乖離があり、目を覚ますとほんの瞬き程の間だったという、夢のようなものですね。……………とは言え、あの中で迷うとこちらに戻れないままになりますので、脱出に長けた条件を満たしている者が近くにいることが大事なんです」
戻った先のリーエンベルクでそう教えてくれたのは、エドモンという灯台妖精の血を引く騎士だ。
最初に出会ったのはゼベルだったのだが、ゼベルが、金色の森についてはエドモンがいいと慌てて探してくれたのである。
毎回巻き込まれる者達こそ堪ったものではないと言えるのかもしれないが、彼等はふっと瞼の奥を横切るようにやり過ごす事も可能なのだとか。
しっかりと森の内側に立つのは初めての訪問となる者に付き添う時だけなので、こうしてエドモンが駆け付けてくれたのは、とても有難い事なのだ。
「その条件を満たしている方と共にいれば、森を抜けるだけで帰れるのですか?」
「ええ。金色の森は、特定の仕事を選んだ者達のあわいの森で、手のひらの悪夢という、特定の職種の領域の中で、落胆や絶望を抱えた者が顔を覆う手のひらの中に派生する悪夢が現れると、金色の森も出現することが多いですね。なので、その夢を叶えた者達が共にいると、森が追い出したがると言われています」
それは、美しく奇妙で、幸せなあわいの森なのだそうだ。
どこか夏至祭の音楽に似ているのだと話してくれたエドモンに、ディノが不安そうに眉を顰める。
幸いにもアルテアがすぐに来てくれることになったので、ウィーム近郊の事象をよく知るという意味で、頼もしい限りだ。
もし間に合わないと大変なので、それまではエドモンが一緒に居てくれる。
「ウィームでは、アクス商会が、あの森から持ち帰った金色の小枝を管理し、前兆を知らせています。ウィーム領から委託された事業として、出現の半刻前には必ず報せがありますので、他領よりも犠牲者は少ないですね」
「国外では、あまりないものなのかな」
「いえ、職人や騎士の数が多く、大きな商会などが揃う国であれば、似たようなものがあると言われているようです。カルウィでは翡翠の森が現れますし、かつてのロクマリアには紫紺の森があったのだとか」
多くの場合、現れる森が反映する色は、その土地にあまり馴染みのない魔術の資質を映すという。
豊かな森を抱えてもいるが、国土に砂漠を多く有するカルウィでは、豊かな森を示す翡翠となり、夜の系譜の守護の薄い旧ロクマリア域では、紫紺の森となる。
ウィームに現れるのが金色の森なのは、この土地が陽光や黎明の系譜との縁が薄いからだろう。
「となると、各領ごとにも変わってくるのですね」
「アルビクロムは、同じ金色の森だと聞いています。ガーウィンには青藍の森、王都には白銀の森が現れるようですが……………いらっしゃいましたね」
ほっとしたように微笑んだエドモンに、ネアは、慌てて振り返った。
そこには、お洒落な黒にも見える深い葡萄酒色の天鵞絨のスリーピースを着たアルテアが立っており、こちらを見るとふぅっと息を吐いた。
「アルテア、来てくれて有難う。これが、以前に君が話していた森かな」
「ああ、そうだ。こいつの場合は、守護の層が問題になる可能性もある。同行するのは、俺がいいだろう」
「アルテアさん、宜しくお願いします」
勿論、エドモンの同行でも大丈夫なのだろうが、ネアには魔物達の守護がある。
特定の資質を持つ者達だけが鍵となる森の中で、複合的な資質がどのように影響するかは未知数なところも多い。
そのような不安要因もあるので、アルテアが間に合って、エドモンはほっとしたようだ。
何かがあるといけないのでとその場に留まってくれたエドモンにお礼を言い、側に控えていてくれたゼベルにも大丈夫だったと頷いておいた。
「こっちに来い。はぐれると厄介だからな」
「むむ。では、アルテアさんに持ち上げて貰いますね」
「うん。……………アルテアなんて」
「あらあら、とても控えめに少しだけ荒ぶるのです?」
一緒に行けないと知ったディノは落ち込んでいたが、こちらでの不在は瞬き程の間だけ。
その代わりに、しっかりと森の中に招かれた者達は、短ければ一刻程の時間をそちらで過ごす事になる。
(作り上げること。守ること。そして売買すること)
手のひらの悪夢は、そんな資質を持つ者達を好み、派生する悪夢だ。
特にこの季節は気象性の悪夢との親和性が高く、大規模な悪夢展開となることも少なくない。
そうすると、金色の森の出現域もまた大規模になる。
アルテアは、元々金色の森の出現を警戒していたようで、いざという時の対処法はディノに伝えてあったらしい。
ネアには知らされていなかったが、知っていれば役に立つ筈の情報を共有していなかったとなると、知っておくことで何かが危うくなる可能性もあったのだろう。
「今回の場合は、似た資質のあわいの展開が幾つかあるからだな。こちらの情報で対処すると、反対に足枷になるあわいもある。お前の可動域ではその区別が難しい。自滅しないように情報を与えずにいたんだ」
「……………ぐるる」
「そろそろ始まるぞ。……………いいか、この先の森では、差し出された物を何も手に取るなよ」
「は、はい!」
「何か形のあるものを手で受け取った場合は、それを差し出した者は滅ぼせ」
「むむ!ずたぼろにします!!」
そんなやり取りの後、どこか遠くでもう一度鐘の音が響いた。
この、報せの鐘と始まりの鐘の音までが、ウィーム領がアクス商会に委託している業務である。
ウィームでの被害の少なさを知り、近年では、王都でも同じ運用に入ったらしい。
そんな事を聞き、ネアはおやっと眉を持ち上げた。
「ガーウィンやアルビクロムでは、お知らせがないのですか?」
「ガーウィンには、教会の中に独自の危機管理の部署がある。アルビクロムの場合は、軍部が管理しているが、出現情報自体はアクスから買い上げ、領民への周知をアルビクロム軍が行っているな」
「ふむふむ。成る程なのです。その領に見合った、連絡体系があるのですね……………」
始まりの鐘の音が響いてもお喋りを続けてくれたのは、アルテアなりの気遣いなのかもしれなかった。
ふっと視界の焦点が合わなくなるように周囲の景色が曖昧になると、淡い金色の靄のようなものが立ち籠め、あっという間に景色が変わってしまう。
何も知らずにこんな事が起こればさぞかし恐ろしいだろうが、その点に於いても、しっかりと教育がなされているウィームでは問題がないようだ。
金色の森自体を知らなかったのはネアくらいかもしれないが、勘のいい人間は、以前に見た歌劇の中に、この金色の森を表現したに違いない黎明の森とやらが登場していたことを思い出してしまった。
(………心を迷わせるような魔術の障りを、敢えて物語の雰囲気を個性的にする為に森の姿として表現しているのかと思っていたけれど、実際に、このようなものがあるのだわ……………)
その時のネアは、想像力に満ち溢れる思慮深い乙女であったので、ついつい作品のあるがままを受け入れるあまりに、それは何だろうと深く考えることはなかった。
もし実在するとしてもこの世界ならあるだろうなと、さして深く考えてはいなかったのだ。
「……………甘い香りですね。木の香りもしますが、……………人工的な香りにも感じます」
「ウィームで最初に確認された金色の森は、調香の工房から生まれた悪夢の森だ。土地の森は変わらずに同じ物が展開され続ける。その時のままなんだろうよ」
「だからなのですね……………」
金色の靄の向こうに、深い深い淡い艶消しの金色の森があった。
金色とはいえ、軽薄にぴかぴか眩く明るいだけのものではなく、古い大聖堂や寺院などに使われる金の装飾のような、使い込まれ暗い色になった部分もある重厚な色の重みも備えている。
その全てにけぶるような靄を重ねがけると、透けるような奇妙な透明感や柔らかさを備える金色の森となるのだ。
中に入ったのでと、ネアはアルテアな乗り物から下りて地面に立った。
(不思議な感触だわ………)
足元を見る限りはある程度手入れされた雑木林くらいの感じであるが、靴裏から伝わってくるのは、まるで石畳の道に立っているような安定した質感である。
そんな森に立ち籠める香りは、決して不快なものではないのだが、上品な佇まいの香水店の店舗の中に漂う、何種類かの香水の香りが薄く薄く混ざり合うような複雑な香りによく似ていた。
苦手な人もいるかもしれないと考えながら、アルテアに手を引かれ歩く。
じゃくじゃく。
少しばかり森を歩くと、どこからともなく奇妙な足音が聞こえてきて、ネアをぎくりとさせた。
すりすりしたいような天鵞絨の生地に包まれた腕をぎゅっと掴めば、すぐさま引き寄せられて腕の中に収められる。
「……………鉄の靴か。職人だな」
「職人さん……………」
「いいか、横を通り抜ける事になると思うが、足は止めるな。加えて、何も受け取るなよ。手に取るという行為さえしなければ、問題はない」
「は、はい!」
ふと、金色の靄が薄らげば、ネア達のいる森は美しいの一言に尽きた。
だが、木々の幹の質感やごつごつとした枝ぶりなどは、どこか繊細な木工細工のような不自然な整い方をしており、美しい作り物の森という気配がずっと抜けきらない。
その僅かな歪みや違和感めいたものが、美しさに水を差すように、或いは小さな棘のように心に刺さっているのだ。
じゃくじゃく。
そんな音が大きく聞こえるようになると、森の向こうから。不思議な一団がやって来た。
(……………わ、)
一団は同じ装いをしていて、長方形の袋の上辺の中央をへこませたような見慣れない形の帽子は、顔の下まで布を引き下ろしているような変わった意匠であった。
後ろの部分は長く長く服裾まで流してあって、男性も女性も、民族衣装めいた色鮮やかな長い衣を纏っている。
じゃくじゃく。
鉄の靴という言葉の通り、彼等が履いているのは重そうな鉄の靴だ。
しかし、施された細工は銀細工のような美しさを引き出していて、鈍い光を放っている。
その靴で森の中を歩くと、砕いた石片を踏むようなじゃくじゃくという音が聞こえるのだった。
「手彫り、手びねり、手紡ぎ、手塗り。手織りに手縫いだよ」
「それはもう、見事な細工さ。失われた技術ばかりがここにある。お買い上げも良し、弟子入りも良し」
「あちらの工房もこちらの工房も、希少で習得し易い伝統の技術を用意している。引き継がなければ廃れてしまうものばかり」
「そんな工房で作られた逸品を手にするとしたら、この森しかあるまい。ほら、この通りの見事な品だ」
(……………きれい)
そう言った一人の男が手に取って翳したのは、ぞくりとするような美しさの銀水晶細工ではないか。
透かしの細かさと意匠の美しさは、アルテアの誘導がなければ立ち止まってしまいそうな程だ。
魔性の魅力を持つ品物というのは時折現れるが、それはまさにこのような品物であろうと思わせた。
ネアの心が動いてしまったことに気付いたのか、男は手に取って見てご覧と、いそいそと近寄ってくる。
だが、アルテアは構わずにネアを連れてその場から足早に遠ざかってしまい、残された職人達からはどこか白けたような空気がやんわりと漂ってきた。
(誰の顔も見えないのに、全員が、こちらを冷ややかな目で見ているような気がする……………)
じわりと背中に冷たい汗が滲み、この居心地の悪さを解消する為だけに、素敵な細工物ですねと愛想笑いしてしまいそうだ。
とは言え、そんな事をすればどうなるのかも、容易に想像のつく場所であった。
かつこつ。
暫く歩くと、鉄の靴の靴音は聞こえなくなった。
また少し靄が濃くなり、ネアは無言で柔らかな落ち葉混じりの土に見えるのに、酷く硬い森の中を歩いた。
「もういいだろう」
ややあって、アルテアがそう言うまで、ずっと無言だったので、ネアは思わずぜいぜいしてしまう。
「……………ぷは!………何というか、異様な気配の方たちでしたね」
「あの場では会話も控えるのが正解だが、人間の場合は引き摺られる事が多い。よく無言で通したな」
靄の中でも鮮やかさを失わない瞳がこちらを見ると、アルテアは、そんなことを言うではないか。
だからこそ、会話をするなとは言わなかったのだなと頷き、無言で押し通しきれたネアは、ふしゅんと肩の力を抜く。
「私は、異端であることが得意な人間なのでしょう。爪弾きにされていた時間が長いので、協調を強いるような空気とはいっそ相性が悪いのですよ。ですが、そんな私ですら気まずさを感じたのですから、元より社交的な方だと、ついつい言葉を交わしてしまうかもしれません」
ネアがそう言えば、アルテアは納得したようだ。
妙なものが守護になることもあるのだなと呟き、どこからともなく取り出したグラスをネアに渡した。
たぷんとわずかに揺れたのは、グラスの中のお茶である。
「む。……………むむ?」
「飲んでおけ。しきりに喉を押さえていることに、気付いていなかったのか?」
「……………ほわ。喉がからからになっています……………ぐむ」
手渡されたのは美しいカットのグラスで、中には、冷たく冷えた紅茶が入っていた。
すっかり喉が渇いていた事に気付いていなかったネアがごくりと飲めば、体に染み渡るような微かな甘みは、紅茶そのものの甘さだろうか。
その後はもう、夢中でごくごくと飲んでしまうと、アルテアは空になったグラスを受け取り、どこかに消してしまう。
人心地ついてへにゃりと眉を下げたネアは、思案深げに眉を寄せた使い魔に、指先で唇を拭われる。
「むぐ……………」
「耐性はあるが、何かを削られてはいるな。精神か体力かは定かではないが、強い疲労感や息苦しさがあれば、すぐに言え」
「そ、そんな影響があるのですか…………?」
ぞっとして足踏みしたネアに、こちらを見たアルテアは、その可能性が高いと呟く。
先程よりも鋭い眼差しには、魔物らしい不愉快さを隠しもせずにいて、その仄暗い美貌だけに目を留めれば、先程の職人達よりずっと恐ろしい生き物に見えるだろう。
「この森を生み出す悪夢は、零れ落ち顧みられることがなかった者達の絶望だ。ここに招き入れられる者達もまた、悪夢を生み出した者達が絶望の先に夢想した世界の何某かを、魅力的に感じることが多い。だからこそ、正しい同行者を得ていないと彷徨い取り込まれることが多いんだ」
「……………同行者として望ましいと言われる方々は、そんな悪夢とは反対側の岸辺に立つ、願いや理想の岸辺に渡られた方々なのですね……………」
「ああ。だからこそ、無意識にこの森はそいつ等を排除しようとするんだろう。夢想と理想の森に於いて、実際にそれを叶えた連中程に疎ましいものはいないからな」
静かな声はなぜだかその端が焦げ付くような不思議な色があって、ネアは、初めての感覚に小さく息を呑む。
多分、この世界の何かと選択の魔物は折り合わないのだと思えば、条件を満たしている者を、森は追い出そうとしているという言葉はこうして現れているのかもしれない。
「……………私は、そのような方々とも違うのですね」
「ああ。お前の場合は、お前の言葉のまま言うのであれば、………異端だ。それが身を滅ぼす矜持や贅沢だとしても、自分を富ませない選択を取り続けられる者は少ない。そうした自分を削る選択を持つことで、お前の体力や気力は、この森では削がれるんだろう」
「……………なぜでしょうか。むしゃくしゃしてきました」
美しいが、作り物のような場所だ。
けれども、夢や理想を叶えられるのであれば、それでもいいのだと思う者達もいるのだろう。
叶わぬ願いに身を焦がし、ここであれば生きてゆけるという者達の慟哭も、ネアには想像出来てしまう。
(……………でも、ここはきっと、私にとっては、私がかつて着たくなかったちくちくするセーターなのだろう)
そんな確信に心を震わせ、小さく唸り声を上げて暗い目で森を見回せば、それまで冷え冷えとした魔物らしい眼差しだったアルテアが、ふっと微笑みを緩める。
「……………そうだな。お前はそう思うだろう」
「勝手に誰かの願いが作り上げた理想と、私の願いは違うというだけなのです。それなのに、なぜ、またしてもその違いに虐められなければならないのでしょう」
「それこそが、在るべきとされる理想や願いの形だからだろうな。…………お前を損なわれるのは不愉快だが、このまま異端として認識されれば、二度と呼ばれることもないだろう。俺達のように忌避されることはなくとも、靴の中の小石のようなものとして避けられる」
「……………ぐるる」
がこんがこん。
ネア達が話をしながらも先を急いでいると、今度はそんな音が聞こえてきた。
アルテアは僅かに眉を持ち上げたが、こちらには来ないなと小さく笑う。
「今度のどなたか達は、我々を認識していないということなのです?」
「いや。対象外なんだろう。騎士の靴音だからな」
「……………確かに、騎士にならないかというお誘いを受けても、ぴんとこない自信があります…………」
「名誉や権力でもある。お前の場合、自分の領域で自負するものがあるだろう。そのせいで、避けられたようだな」
「うむ。私は狩りの女王なので、それ以外の称号などは取るに足らぬものなのですよ」
「まさかそれを認識したうえで忌避するとは思わなかった。……………一つ、知見を得たな」
靴音の者達が近付いてこなかったからか、靄は晴れないままだ。
そんな視界の悪い森の中を、ただひたすらにぐんぐんと歩いてゆく。
道を知っているのかと思えば、前に進めば森を抜けられる簡単な仕組みなのだと知り、ネアは驚いた。
つまり、そうして簡単に抜け出せる森で、迷い道がなくとも帰れない者達が出るのは、どこかで森を出たくないと考えてしまうからに他ならないのだ。
(そう言えば、今度は喉も乾かなかったし、…………息が苦しかったり、疲労感を覚えたりはしないみたいだ)
成る程こういうものなのかと思いながら歩いていると、僅かだが木々の形が歪になってきたようだ。
ネアは、アルテアが誘導してくれるのでとすっかりお任せしきりで上を見上げたりしてしまい、頼もしい魔物の腕にしっかり掴まったまま、とてとてと歩いた。
「森の様子が変化してきたのは、出口が近いからでしょうか?」
「ああ。夢の出口だからこそ、こうして整然とした美しさが壊れてくるんだろう」
「ほわ………」
歩いていると、時折、アルテアがこちらを振り返り、何かを確認するようなそぶりを見せる。
まだ、新しい何者か達との遭遇はないのだが、なぜか、こちらの様子をかなり慎重に観察しているらしい。
目を瞬き首を傾げると、まだ大丈夫だと言うように小さく首を振られた。
「……………もしや、この森に入ると、全ての方々に遭遇する羽目になるのですか?」
「ああ。……………忌避する資質をお前が持たない限りは、そうなるだろうな。……………そろそろだな」
「……………む。またおかしなものが来るのですね……………」
その時はまだ、ネアも、危機感に近いものまでは抱いていなかったような気がする。
ただ、先程のように奇妙でどこか空恐ろしい一団と遭遇するのかなと思い、しっかりとアルテアに掴まろうとしたところで、再び持ち上げられてしまっていただけだ。
因みに、使い魔がご主人様を乗せたり降ろしたりを繰り返すのは、出来るだけ自分の足で歩いた方が、この森を抜けたという証跡を得やすいので、持ち上げっ放しには出来ないからであるらしい。
がりがり。
がこん。
がりがり。
次に聞こえてきたのは、そんな靴音だった。
今迄の中で一番嫌だなと思い眉をぎりりと寄せたネアは、その直後、ずしりと空気そのものが重たくなるような息苦しさを感じた。
「………っ、………息が、苦しいです」
「……………ああ。口を開けるか?」
怖いというよりは驚いてしまい、少しでも呼吸が楽になるように、はくはくと息を吸い込みながら、慌ててアルテアに報告する。
低い声でそれに答えたアルテアは、今はそれどころではない筈のネアでさえぎくりとするくらいに冷ややかな怒りを隠そうともしなかった。
「……………あぐ」
「これを口に入れておけ。雪菓子の中でも、滅多に出回らない嗜好品だ。高位の人外者の慶事があった夜にだけ収穫される」
「……………む。瑞々しくて、じゅわっと美味しいでふ」
「……………やはり、得られないということを枷として、削りにかかってきたか」
その呟きは独り言のようでもあったが、ネアは、なぜだか雪菓子をお口に入れた途端に少しだけ呼吸が楽になったお陰で、どのような意味なのだろうと考える余裕が生まれた。
(……………それは、次に現れるのが、商会主だからなのだろうか……………。それとも、商人なのかしら………)
そんな者達が広げて見せる美しい絵は、ネアに、何を見せようとするのだろう。
かつては異端者であった自分が、その領域で諦めたのは何だったのかと思い考えてみれば、それは、あまりにも多くの物であった気がした。
(ああ。だからだ。……………だからアルテアさんは、あの靴音が聞こえてくる少し前から、私の様子を気にかけてくれていたのだわ。……………次に遭遇するものが、一番私を削ると気付いていたんだ……………)
がりがり。
がこん。
その音が近付けば、なぜそんな音が響くのかもまた、見えてきてしまう。
こちらに歩いてくるのは、色とりどりの服を着た商人達の集まる煌びやかな商隊で、けれどもそこには、足を引き摺るように項垂れて歩く木靴の男達もいる。
(……………奴隷だわ)
決して、必要以上に酷い待遇を受けているような身なりではなかったが、豪華絢爛な宝箱や書箱を抱えながらも重たい木靴を履いて足を引き摺る奴隷たちは、とても残酷で何の綺麗事もない、商人達の世界の現実なのだろう。
富める者は多くの見事な品物を手に入れ、力なき者達を仕えさせ、自分の手足とすることが出来る。
ウィームは奴隷を禁じてはいるが、もしかすると、だからこその稀有なる財産なのかもしれない。
動物などはおらず、商人達は自分の足で歩き、大きな荷物や台車については、奴隷達に持たせているようだ。
「この織布はどうだろう。あたたかな布で、凍えずに済むよ」
最初にかけられたのは、そんな言葉だった。
アルテアに持ち上げられたままのネアは、もはや顔を上げる力もないまま、その声を聞く。
「いやいや、やはり宝石ではないか。美しく財産にもなる。どのような者達も、最後に望むのはこのような形の分かりやすい品物なのだ」
「何を何を。滅多に手に入らない葡萄酒や、安価だがだからこそ誰もが持っている葡萄酒もある。皆が欲しがる珍しい物も、皆が当たり前のように手にしている物も、持っていて然るべきではないか」
「芸術はどうだろう。絵画に彫刻は歴史に残された足跡の数だけ存在する。例えば美しい装飾のドレスや靴なども、ご婦人にとっては立派な芸術だ」
「持ち運べるものばかりが商売ではないだろう。家に肩書き、薬に使い魔もある。安全も安堵も、栄光も健康も、そして孤独との決別すらも、買おうと思えば何でも揃うのが、我らの商会だ」
(……………安全も安堵も、健康も愛情も)
その響きに胸が軋むような痛みを覚え、ネアは、思わずアルテアの肩をぎゅっと掴んでしまった。
口の中には美味しい雪菓子が残っていたが、急に味気なく感じられてしまう。
「…………ほお。お前達に、この強欲な人間を満たすだけのどんな品物が用意出来ると言うんだ?ドレスに靴か?それとも、屋敷に薬か。或いは酒に料理か。……………おまけに、使い魔だと?……………そのどれも、俺に勝るとはゆめゆめ思うなよ。これは俺のものだ。その薄っぺらな銀盆の上の欲など、児戯にも等しいくらいに充分に満たしてやっている。これまでも、これからも、新しい商談なんぞが割り込む余地はない」
それはまるで、詠唱にも似た朗々と響き渡る宣言であった。
高慢だが冷ややかな刃のようで、穏やかだが眩暈がするほどに暗い。
よい獲物を見付けたかのようにわらわらとネアに近付いてきていた商人達が、ぎゃっと悲鳴を上げた。
誰かが、商会主ではないかと叫び声を上げる。
そしてその直後、まるで夢が晴れるように、大勢の商人達の気配が掻き消えてしまった。
「………えぐ」
「……………そのまま掴まっていろ。苦痛と呼吸は、すぐに落ち着く筈だ。もう森を抜ける頃合いだろう。もう少しだけ堪えろよ」
「……………ふぁい」
伸ばされた指先に、額に張り付いた前髪を持ち上げられ、ネアは、自分がびっしょり冷や汗をかいていることに気が付いた。
淑女としてはなしだが、この場合は気恥ずかしいとも言っていられない。
ただひたすらに、一刻も早くこの森から出られたならと、ぼんやりした意識の端でそう願い続けた。
かりりと、口の中に残っていた小さな雪菓子の欠片を噛み、また、瑞々しい甘さを感じられるようになったことに気付く。
ほっとして目を閉じれば、肌に感じていた靄の気配がふっと遠ざかった。
ネアは、こんなに綺麗で手触りのいい上着なのに申し訳ないと、なぜかそんな事を考えながら、アルテアの肩に頭を預け、そのままこてんと眠ってしまったのだろう。
「……………ネア」
「……………むぐ。ディノ?」
暫くして目を覚ますと、そこはリーエンベルクの中にある自分の部屋で、見慣れた天井と天蓋に目を瞠る。
金色の森を抜けてこちらに戻るまでは、ほんの瞬き程の時間だと聞いていたのだが、こうして寝かされるとなると、思っていた以上の時間が経っているに違いない。
ゆっくりと瞬きをして意識を覚醒しきり、心配そうにこちらを見ているディノに、何とか微笑みを作る。
「私は、……………弱ってしまっていたのです?」
「……………うん。思っていた以上に、君とは相性の悪いあわいだったようだ。あのあわいが派生することは前提だが、人間は殆どの者達が必ず迷い込むあわいだから、回避するということは難しかったのだけれど……………君にこんな苦痛を強いるのであれば、どうにかして回避する方法を探るべきだった…………」
そう言い、酷く悲しそうに項垂れたディノに、ネアは、まだずしりと重い腕を伸ばしてみる。
慌てて手を取るとしっかり握ってくれ、その温度に、何だか心がほろりと楽になった。
「ですが、回避した先でまた遭遇してしまったら、今度は、アルテアさんやウィリアムさんのどちらの助けも借りられない日であるかもしれません。ディノが側に居てくれて、……………あの森に一緒に入ってくれたのがアルテアさんで、本当に良かったです」
「……………ネア」
幸いにも、目を閉じると思い浮かぶのは、苦しさや怖さよりも、よくもまたあの頃の苦しみを思い出させてくれたなというような憤りだけであった。
こうして元気にむしゃくしゃ出来るのも、あの森から出たからこそなのであろう。
ディノがどこかに連絡を入れると、部屋にはすぐにアルテアとノアがやって来て、甲斐甲斐しく面倒を見てくれる。
アルテアが作ってくれた、とろりとしたトマトクリームのスープは美味しかったし、ノアは、ネアが受けた魔術的な障りの影響を払うにはこのようなものがいいのだと、リノアールで買ってきたという、綺麗な細工のある羽の形をした宝石のトレイをくれた。
「ふぁ。きらきらです…………」
「美しくて高価で、絶対に必要な物って訳じゃないのにちょっと欲しくなるくらいの品物だからね。今の君はもう、こういうものが幾らでも手に入るんだから、ずっとずっと安心していていいんだよ」
「……………ふぎゅ」
「ここにはシルがいるし、アルテアは、もう少し食べられそうだからってサンドイッチを作りに行ったし、リーエンベルクには君の家族がいて、ここは君の家だ。そう考えると、少し安心するかな」
「ふぁい。…………まぁ、ディノもぎゅっとしてくれるのです?」
「うん………」
じわっと涙目になって頷けば、スープを飲むために背中の後ろに沢山のクッションを入れて体を起こしていたネアを、ディノがしっかりと抱き締めてくれる。
こうして大事にされている時だからこそと、ネアは、敢えてあの森や商人達の言葉を思い出してみたが、やはり怖さを感じる事はなかったし、少しむしゃくしゃしたくらいであった。
(きっと、あの時の息苦しさや胸の痛みは、金色の森の商人達が、価値があると信じたものを望まなかったかつての私を、異端者として吐き出そうとしたことでの影響だったのではないかな…………)
あの森が、ネアにとっての恩恵を持たない場所であるからこそ、ネアは、あの森の中では多くを削られたのだろう。
ネアが、より強く望みながらも捨てた願いを叶えるものの方が、より強い苦しみを齎すようになっていたに違いない。
太陽の光に怪物が焼かれるように、そうあれと願われて生まれた理想郷こそが、ネアを苦しめたのだ。
「ローストビーフだ。このくらいなら、食べられそうか?」
「はい!……………アルテアさん、すっかりくしゃくしゃになってしまいましたが、一緒にいてくれて、有難うございました」
「森を抜ける際に確認はしておいたが、もう二度と呼ばれる事はないだろう」
「……………はい。それを聞いてほっとしました。私が一番相性が悪かった分野でこそなアルテアさんでしたので、今回は、一緒にいてくれるのは、アルテアさんでなければいけなかったのだと思います……………」
トーストしたパンで美味しいローストビーフサンドを作って持ってきてくれたアルテアに、ネアは、感じたままに、けれどもしっかりとお礼を言った。
騎士としての契約を交わしたウィリアムも条件を満たしていたが、何となく、あの森に一緒に入ってくれるのは、アルテアでなければいけなかったのだろうと思ったのだ。
恐らく、最後の商人達に対抗するには、ネアに多くのものを与えてくれたディノでも良かったのだろうが、残念ながら伴侶の魔物には商会主という肩書きはない。
だが、そうしてお礼を言えば、なぜかアルテアが、すっと不自然に目を逸らすではないか。
「……………食ったら、さっさと寝ろ」
「ありゃ。アルテアが照れたぞ」
「アルテアなんて……………」
「……………はぐ!………むむ!お肉とソースがじゅわっと絡み合う美味しさのローストビーフサンドでふ。……………あぐ」
「やれやれだな……………」
その夜の内に、ウィリアムもリーエンベルクに駆け付けてくれ、ネアは、もうすっかり元気になって夜の眠りを貪るばかりとなってからも、定期的に魔物達の検診を受ける羽目になった。
睡眠もまたとても大事なものなのだが、今回ばかりは心配してくれているので威嚇する事も出来ず、ネアはくしゃくしゃになって夜明けを迎えてしまい、心配したエーダリアに仕事を休むように言われてしまったのだった。