薔薇水と砂糖菓子
はらはらと舞い散る白薔薇を見ていた。
瞼の向こう側のあの劇場に立ち、今日もまた、あの歌声を聴いている。
あの日に咲いた薔薇程ではないが、彼女がいたからこそ咲いた白紫色の薔薇は、今もまだグラフィーツの城やこの屋敷の至る所に満開に咲いていた。
祝福や音楽を与え結晶化させたものについては、毎年丁寧に刈り取って専用の部屋に収めているが、そろそろ部屋そのものを拡張してもいいのかもしれない。
そっと指先で花びらに触れた歌乞いの薔薇は、今日も瑞々しい花を咲かせているが、新しい株を手に入れたとしても再びこの花を咲かせることは出来ないだろう。
この薔薇も、彼女が死んだ日に一度枯れかけたが、幾晩も音楽を与えて安定させてから漸く再び花をつけるようになったのだ。
目を閉じる。
瞼の裏の劇場の舞台を照らす照明の中で、心を震わせるようなあの歌を歌うのはいつだって彼女だったが、グラフィーツは、彼女の愛した歌劇の舞台を観に行くこと自体は今でも好きだ。
たった一人の歌乞いによる舞台は一度きりで充分な恩寵であったので、同じものを誰かに求めることはないし、であれば、素晴らしい公演に巡り合い、彼女の代わりにその音楽を堪能する方が余程健全だろう。
この薔薇が枯れかけた日にも崩壊せずに踏み留まったグラフィーツには、これから先にもこれ迄と同じくらいに長い時間が残されていて、そうなるとやはり、生活への彩りというものは必要になる。
今はまた砂糖を美味しく食べられるようになっているし、生きていれば愉快なことも少なくはない。
崩壊していった同胞たちと何が違うのかと言えば、恐らくグラフィーツは満足したのだろう。
愛するということを可能な限り全うし、彼女がかけた願いは叶えられるだけ叶えた。
自分の階位を思えば、奇跡といってもいいくらいの時間を共に過ごし、与えられるだけの心は彼女にくれてやった。
それに、こうして今も、彼女はグラフィーツのたった一人の恩寵である。
愛や執着そのものすら得られない者達が多い中、そうして抱き続ける思いがどれだけ稀有なものなのか。
それは、愛ですら簡単に色褪せて朽ち果ててしまうこの世界に於いて、何物にも代え難い恩寵と言えた。
先程まで弾いていたピアノの音楽を糧に、幾つかの蕾が膨らんだようだ。
緑の葉は艶を帯び、茎もしっかりとしている。
窮屈そうになれば庭に植え替えが必要だが、それにはもう少し余裕があるというところだろうか。
「だが、咲ききらない内に、このあたりは剪定しておいた方がいいだろうな」
ほころびかけた花は剪定し、雪陶器の花瓶に生けておいた。
通年で咲くように調整はしてあるが、薔薇の祝祭の前後は特によく蕾がつく。
なのでこの時期は、負担をかけないように結晶化の進行は祝祭当日の一本のみを避けて控え、後は、適時剪定しては花瓶に生けておくことが多い。
花瓶の前には薔薇の祝祭の焼き菓子と、ローゼンガルテンで貰ってきた薔薇のビーズを置いてある。
焼き菓子は完全に気分であったが、人間はそうするらしいと聞けばそうなのだろう。
薔薇のビーズは、以前に貰ってきてやったら喜んだので、それ以来出来るだけ欠かさないようにしてきた。
花を生け終えてしまうと、鋏の手入れをした後は箱に戻し、留め金をかけて抽斗にしまう。
先程から注文して届いたばかりの靴を履き慣らしているが、思っていた以上に腕の良い職人だったようだ。
滑らかな履き心地は床石を踏んでも靴音一つ立てず、柔らかな竜革は使い込んだように馴染んでいた。
(……………靴は好きだが、仕事で使い潰す事も多いからな)
そう考えて一つ頷く。
グラフィーツの仕事は、祝福と災いの天秤にある。
終焉や選択の魔物程ではないが、自身の領域の手入れにはそれなりに手間がかかるのだ。
それが嗜好であるのか責務であるのかは、同じような気質を持つ他の魔物程に明確な線引きがある訳ではないが、時には、気乗りがしなくても聖人やら聖女やらの剪定に出掛けることも多い。
そして、残念なことにそういう連中は、足場の悪い隔離地などに暮らしていることも珍しくはないのだ。
砂糖になる聖女であればまだしも、聖人なんぞの為に僻地へ呼び出されるのは堪らないのだが、畑が荒れると良い砂糖も育たなくなるので、その銘を持つ者達だからこその手入れは必要なのだった。
からりと氷が鳴った。
やるべきことを終えてしまい、気に入りのグラスから喝采と白薔薇の蒸留酒を飲む。
この酒は最近名前が知られるようになった蒸留所のものだが、癖があるので広く浅く好まれる酒ではない。
それでも、ずっと気に入って飲んでいるものだ。
白薔薇の魔物の領域であるのが気に食わないが、あれは大事な子供に害を為すものではないのでまぁいいだろう。
鏡の前に立ち、下ろしていた髪をひと括りにする。
折り上げていた袖を直し、義手の指先を磨くと、ふぅっと息を吐いた。
りぃんとどこかでベルが鳴り、僅かに眉を顰めて机の上に置いたままの聖典を開く。
ぱらぱらと捲られてゆくページがぴたりと止まったのは、カルウィの経典を示す頁であった。
「カルウィの聖女か。…………食指が動かんな」
小さく呟き聖典を閉じると、もう一度グラスに口を付ける。
からりとした辛口の酒はけれども淡白なばかりではなく、豊かで瑞々しい香りが素晴らしい。
喝采が鳴り止む瞬間のようにその香りがふつりと途切れるので、余韻を楽しみたい者には向かないだろう。
おまけに、最後に口の中に僅かな苦みが残る。
その後は、水晶のトレイの上に届いていた手紙に返事を書いてしまい、ナインから届いている予定表にはこちらの予定を書き込んでおく。
ガーウィンの教会での仕事は、最も豊かな畑の管理の一環として定期的に行っている。
精霊の多さにうんざりすることもあるが、とは言え、忍耐強く、一種の執念すら持ち人間達を管理するのに精霊程に向いた存在もないだろう。
増えすぎれば剪定が必要だが、死の精霊達が目を光らせている間は問題あるまい。
後はもう、ただの相性的なものをこちらが我慢すればいいだけだ。
グラスを手に取り窓辺に移動すると、いつもの椅子に腰かけ外を見ていた。
あるかなきかの風に薔薇の茂みが揺れ、その奥に続く深い森を覗かせている。
記憶のどこにもかからないただの豊かな森の景色だが、不思議とこの景色を一番気に入っていた。
(過剰に用意し過ぎても胸焼けするばかりだ…………)
甘い薔薇の香りに、在りし日の伴奏を流す音楽の小箱。
日々の暮らしに必要なのはその程度で、音楽の小箱が奏でるのはこの曲ばかりではない。
だが、薔薇の祝祭が終わったばかりの今日は、やはりこの曲がいいだろう。
椅子に深く腰掛けて目を閉じると、瞼の裏の暗闇で彼女の舞台が始まる。
この小箱に覚えさせた音楽が失われないように、楽譜に書き出した旋律は完全に記憶している。
そうしてくっきりと記憶に焼き付けたからこそ、今日もまだ、こんなにも鮮やかに思い返すことが出来る。
とは言え、こんなにも失われたものを揃える日があるのだとしても、今はもう、並べ置いた過去に宿るのは喪失の痛みばかりではない。
ただ、日々を飾り彩るのに必要な音楽であり、薔薇であり、瞼の裏側のあの日の舞台なのだ。
だから毎日、そんな縁取りの中で普通に暮らし、たった一人の恩寵がいなくなった世界でも、かつてのように支度を調えて、買い物や仕事に出掛ける。
最近は見ているだけで充分な暇潰しになる組織に属しているし、ご主人様と呼ばれるあの人間は、グラフィーツの恩寵とは似ていないが、それでも他の人間よりはこちらの領域の内なのだ。
あの大事な子供がいる限り、この世界は決して退屈ではない。
その足取りの向こう側で、嬉しそうに目を輝かせた彼女が微笑む限りは、ずっと。
ずっと。
「……………それで、この状況はどういうことなんだ」
「むむぅ。私は、ただの通りすがりなのですよ。こちらのお店の薔薇水が最近ご婦人方に人気だと聞き、買いに来ただけなので、この竜めはどこかにぽいです」
「…………薔薇の祝祭の積み残しか」
「その言葉を聞いた瞬間に、涙目でけばけばになってしまいましたが、ずっとこの有り様なのだとか。こちらのお店が女性に人気だと知り、お店の前で仰向けになっていればという狡猾な作戦ですね」
「くれぐれも撫でるような真似はするなよ。……………なんだ?」
「先生が立ち去ってしまいそうでしたので、私は今、こやつのお尻が爪先の上に乗せられてしまっているとお伝えしたく……………」
「なぜそれを早く言わないんだ。………シルハーンは、そこか」
「はい。すっかりすやすやディノなのですよ」
襟元に白い毛皮が覗いているので、そこに入って眠っているのだろう。
こちらの知った事ではないが、不用心ではないかと思いかけ、とは言え、この子供は問題ないのだったかと遠い目になる。
恐らく、竜をどかせないのは、何が求婚や婚姻の作法になるのかが分からないからに違いない。
そして、慎重に判断し、仰向けになった竜に触れずにいたのは幸いであった。
「……………求婚している竜の場合、おおよその場所は自発的に触れると問題がある」
「なんという面倒臭さなのだ」
「この場合は、自分の意思でどかせるしかないな。…………障りを残されても厄介か。祝福の砂糖菓子をくれてやる。その方が伴侶選びに役立つが、ここで魔物の指輪を持つ人間を不機嫌にさせたままでいるか?」
本来はここまでする必要はないのだが、ウィームの薔薇水の飲料店の前に仰向けになり、よりにもよってネアの靴先に体を乗せているのは雪竜だ。
ウィームの人間達に近しい種族である以上、不確定な因縁を残しておくのは得策ではない。
それはきっと、幾つも予備を作ったあの音楽の小箱のように、失う訳にはいかないものとして、こちらの守りも徹底しておかねばなるまい。
こちらについては、より、何かあっても取り換えが利かないものなのだ。
「……………ギュワ」
「まぁ。竜さん、そちらの方がきっといいですよ。何しろこちらの方は、高位の人外者さんなので、いただける砂糖菓子はそうそう手に入らないような物でしょう」
「ギュン?!」
ネアがそう話しかけた途端、仰向けだった竜が飛び起きた。
すっかり光を失っていた青い瞳に光が入ると、きらきらと輝くような白銀の斑が見える。
(……………やはりか)
幼竜にしか見えない小柄さであるが、これは祝福の子に近しい祝福持ちの雪竜だ。
ワイアート程に突出した祝福ではないが、種族の慶事などに生まれた個体だろう。
祝福は祝福と、災いは災いとの縁を繋ぐ。
魔術の縁を損なわぬよう、このようなものは祝福を与えて追い払うのが最も効果的な対処法となる。
祝福程に、簡単に災いに転ぶものもないのだから、このあたりは最大の用心とせねばなるまい。
翼をばたばたさせて伸ばされた手に、溜め息一つで砂糖菓子を載せてやる。
それをぱくりと食べた雪竜は、ぶるりと毛皮を膨らませて小さく足踏みした。
「……………綺麗な竜ねぇ」
直後、そんな声が聞こえてきたのはどこからだろうか。
はっとしたように視線を巡らせた雪竜は、慌ててそちらによたよたと歩いてゆくと、感嘆の呟きを漏らした女性をじっと見ている。
どこからか取り出し、そっと差し出したのは、淡い水色の薔薇の花束であった。
「……………恐ろしい程の即効性を見ました。先生、同性のお友達が出来る砂糖菓子などはありますか?」
「品切れだな。そもそも、交渉の対価としてならまだしも、お前に食わせる訳にはいかんだろう。俺の資質の食餌をさせることになる」
「むぐぅ……………。魔物さんのお作法に反しそうなので、諦めざるを得ません。その代わりに、竜さんの求婚が無事に成立しそうなので、あちらの女性にお祝いを言いに行く体で、お友達になれるか試してみますね。求婚に応じたばかりの女性であれば、きっと許可が下りる筈なのです」
「……………やめておけ。竜が付属してくる段階で、より拒絶反応が出るだろう」
「……………そ、そうでした。………ぎゅむ」
がっくりと項垂れたネアに小さく笑い、そちらの縁はそうそう結ばれそうにないぞとは言わずにおいた。
高位の魔物達は、それぞれに祝福と災いの双方を身に持つ。
そんな者達が願う事が、人間一人の努力でどうにかなる筈もない。
それは、大きな祝福としての呪いであり、災いとしての恩寵なのだ。
そんな事を考えていたら、こちらを見上げ微笑んだネアがいる。
雪混じりの風に青灰色の髪が揺れ、やはりちっとも似ていないではないかと苦笑した。
だが、魔物は身勝手で狭量だ。
こうして、事あるごとに似ていないと思うからこそ、この子供を気に入っていられるのだろう。
「……………グラフィーツさん、竜さんをどかしていただき、有難うございました」
「放置すると、シルハーンに影響が出かねないからな。ウィーム中央とは言え、ここは街外れに近い場所だ。シルハーンが眠っているのなら、迎えを呼ぶべきだろう」
「はい。ディノは、お店の薔薇の香りを立ち上げる蒸気の魔術道具でこてんとなってしまったので、お迎えな義兄を呼んではあるのです。泥遊び明けだったようなので、少し到着まで時間がかかるというところで、あやつのお尻が私の爪先の上に降ってきたのですよ」
「……………泥、……………遊び?」
聞き間違いだろうかと眉を寄せて問いかけると、どういうことなのか、ネアは生真面目な顔で頷いた。
もう一度聞き直したいくらいだったが、この様子を見るとそれ以外の何でもないのだろう。
(塩の魔物が、……………いや、あの擬態の時のことなのか……………。だが、そんなことまでしているのか?)
深く考えると酷く疲れそうだったので短く首を振り、人通りの多い店の前なら問題あるまいと立ち去ろうとしたところで、ふわりと揺れ開く転移の気配があった。
「ありゃ。……………グラフィーツは僕の妹に何の用かな」
「通りすがりだ。危うく、積み残しの竜に求婚されそうになっていたぞ。泥遊びとやらも程々にしておくべきだな」
「……………ふぅん。そういう感じってことは、真面目に気にかけてくれていたのか。まぁ、食事中じゃなけりゃあの正装もしないし、それ以外の時の君は、結構まともだけれどね」
「泥遊びをする魔物に言われたくはないが?」
「……………そう言うなら、一度獣に擬態して、やってみるといいよ。……………さて、もうお兄ちゃんが来たから安心だからね。帰りにケーキでも食べて帰ろうか」
「はい!………急に呼び出してしまいましたが、あちらは大丈夫なのです?」
「うん。客室に一人入ってるから」
「……………む。であれば安心です」
そんな会話を聞きながら立ち去ろうとすると、ネアが、もの言いたげにこちらを見る。
魔術的な傾斜をつけない為にも、このような時の彼女は、謝礼の品物などをその場で手渡してしまう事が多い。
贈与の縁切りをしてある謝礼品で、魔術的な借りを残さずに切り上げる役割もあり、加えて儀礼上は角が立たないのだから、なかなかに上手い手法だ。
「…………今回は気紛れだ。俺の為の災い除けだからな。無償で構わん」
「であれば、あらためて言葉だけはお礼を言わせて下さい。助けていただき、有難うございました」
「お前の絶望的な音階を、せめてあの曲だけはどうにか克服させるまでは、問題があっては困るからな」
「ぎゃ!ぜ、ぜつぼうてきではありません!」
そんな声が聞こえてきたが聞き流し、目的地へと向かう。
角を曲がると街路樹の影にある紅茶の店の前には、白灰色の髪を擬態もせずに立っているグレアムがいた。
「助かった。俺が出て行きたかったんだが、シルハーンが目を覚ました時に、却って気を遣わせてしまうからな」
「今回に限っては偶然だ。それと、待ち合わせ場所は二つ先の区画の店だった筈だが?」
「あの竜のこともあり、急遽こちらに移した。出来れば排除したくない竜だったんだ」
「……………そうか。………それと、言っておくが俺は、お前が苦手なんだが?」
そう言えば、親し気に肩に手を置いた犠牲の魔物が、淡く微笑む。
穏やかそうにも見えるが、魔物以外の何者でもない生き物の目だ。
この男は、さも善良そうな微笑みに長けているだけ始末に負えない。
グラフィーツの持つ祝福と災いの魔術の上で、グレアム程に大きな災いを持つ魔物は、シルハーンくらいのものだろう。
司るのが犠牲という擬態を被った願い事である以上、この男の魔術には、悍ましい程の災いも満ちている。
「あの竜は何なんだ。ご主人様の爪先の上に、仰向けに倒れるだと?!」
「……………ニエーク、店の中で待っているように言わなかったか?」
「全くだ。以前から、立場を考えない甘ったれた部分があると思ってはいたが……………」
「ワイアート、君もだ。落ち着け。……………グラフィーツ」
「……………俺は、会合に来たのであって、子守りに来た訳じゃない」
「そうか。……………かつて俺達が共に戦った偉大なるトマトの覇王の渡航情報を持っていたんだが、必要ないようだな」
「っ、……………待て!……………まさかとは思うが、ウィームに入っていないだろうな?!」
面倒な会員達の世話はグレアムに任せて店に入ろうとしていたところで、血の気の引くような名前が出された。
その得体の知れない覇王とやらのせいでどれだけ苦労させられたかを思い出し、つい振り返ってしまう。
グレアムがそんなものをウィーム中央に入れる筈がないと思いたかったが、あの時も、シュタルトで確認されていたのだと思えば、いつどこに現れても不思議はない。
こちらにまで影響を及ぼすとは思えないが、グレアムですら手こずった相手なのだ。
グラフィーツとは言え、トマトに呪われるのだけは御免であった。
仕方なく、その情報と引き換えにワイアートを店の中に連れ戻すのを手伝い、最も手のかかるニエークはグレアムに任せておく。
雪竜の祝いの子を連れて店に入れば、何人かの男達がこちらを見た。
「やあ。今日は君も来たのか。あの竜は、漸く伴侶を見付けたようだね。彼女の色彩や造作を好む冬の系譜のものだから、少し心配していたんだ」
そう微笑んだのは真夜中の座の精霊王で、奥には、一時的に帰郷していたというリドワーンの姿もある。
小さな店なので貸し切ったに違いないにせよ、目立たずにやり過ごすことは出来ないような顔ぶればかりである。
「……………求婚は、本来なら慶事だ。災いに転じると魔術が腐る」
「成る程。祝福と災いの領域を司る君は、そのように感じるのか。……………今日はまだ、黒い外套なのだね」
「……………砂糖なら、自分の屋敷で食ってきたからな」
「それは良かった。食事中の君は、……………少し、話しかけ難いからね」
そう微笑み、ミカは視線を戻す。
グラフィーツは、空いている椅子に適当に座り、メニューに目を通してから紅茶とミルクを頼んだ。
「……………いつも不思議だったのだが、君は、その紅茶を頼むときだけは普通の砂糖を入れるんだな」
ニエークを店内に引き摺り戻しながら、こちらの飲み方に目を留め目を瞬いたのはグレアムだ。
気を取り直したのか、無言で立ち上がったワイアートがニエークの拘束を引き取ったので、小さく息を吐いている。
「紅茶は、こう飲むと決めている」
理由などは添えずにそう答えれば、グレアムが灰色の瞳を揺らし、小さく頷いた。
「……………そうだな。そういうものはあるだろう。俺にも、そのようなものがある」
(……………お前と俺が同じということもない)
伴侶を亡くした魔物と、歌乞いを亡くした魔物と。
けれども喪失は一つの喪章となり、全く違うものであっても身勝手に同じ印を付けてゆく。
与えられた区分を煩わしく思い短く首を振ったのは、グラフィーツにとってのあの日々が、何物にも代え難い恩寵であったからだ。
後悔や絶望に汚させる程、その恩寵は安くない。
彼女が最期のその瞬間までこの名前を忘れなかったからこそ、歌乞いの薔薇は、グラフィーツの屋敷や城のそこかしこで咲き続けていた。
たった一つの願いを叶えた魔物を、幸運な魔物以外の何という呼ぶというのだろう。
愛用の義手でカップを取り上げ、小さく笑う。
薔薇の祝祭そのものはとうに終わっているが、祝祭の余韻の残る舞台の幕を下ろすには、いい一日だった。
あの子供のピアノの弾き方は惨憺たるものだが、百年もかければ少しは聴けるようになるだろう。
気の長い楽しみだ。