219. 薔薇雪のお城に向かいます(本編)
祝祭に賑わう街並みを歩き、はらはらと舞い落ちる薔薇の花びらや、歩道に敷き詰めれた薔薇の花びらを踏む。
夕暮れ前とは街の色相が変わり、夜の雪景色の中に色づく薔薇の装いのウィームは、いっそうに幻想的な光景となった。
「………見て下さい。あのお店の扉にかけられた薔薇のリースは、なんて素敵なのでしょう」
「ネアが可愛い………」
「あちらの建物は、窓辺にそれぞれ薔薇の花を生けた花瓶が置かれているのですよ。こちらのお家は、鉢植えの見事な薔薇があります!」
「弾みながら、引っ張ってくる………」
「あ、あれは!………磨り硝子のような半透明の硝子の薔薇のランプがありますよ………」
「氷水晶を使っているようだね。収めてあるのは、星の結晶石かな………」
「ふぁぐ。………柔らかですがしっかりと明るく輝く光が、建物の玄関ホールを綺麗に照らしていて、なんとも美しいのですねぇ………」
そこかしこに、薔薇の花が溢れる。
ネア達はゆっくりと歩いてザハに向かいながら、それはもう華やかな紫の薔薇の装飾が圧巻なリノアールや、水色の薔薇だけを使ったリースが清廉な印象を齎す、ダリルダレンの書庫の入り口などを巡り、お目当てのザハに辿り着いた。
胸の中をひたひたと満たしてゆく祝祭の色彩であったが、それはまだ、この美しい祝祭の夜を見届けるには足りないくらい。
何しろこの後にもまだ、大切な予定が控えてるのだ。
赤い制服のザハのドアマン達に扉を開けて貰えば、エントランスには見事な薔薇の木があった。
風景を魔術で移植したのだろうが、はらりと花びらを落とす薔薇色の花はうっとりするような美しさで、格調高いザハの内装によく似合う。
「ようこそおいで下さいました。今年の薔薇のビーズは、無事に手に入れられましたか?」
カフェの入り口でそう迎え入れてくれたのは、いつものおじさま給仕だ。
犠牲の魔物の願いの対価姿でもあるのだが、このような形で、薔薇の祝祭を少しだけ共に過ごせるのも何だか嬉しいではないか。
今年も、ディノと連名で薔薇の形をした焼き菓子の詰め合わせを贈っているので、仕事が終わった後でゆっくり楽しんで貰えたらと思う。
「ええ。いつもより早めの時間に伺ったので、まだまだ数が充分にあったようです。また宝物が増えてしまいましたね」
「うん……………」
「早めの時間に並ばれたようで幸いです。陶器のビーズは、花火の時間の後ですと残っていないことが多いと聞いておりましたので」
「そうだったのだね。列に並んだら、気に入った色のものを貰えたよ」
人気のビーズだと聞けば、いっそうに手に入れられたことが嬉しくなったのか、ディノがほわりと微笑む。
席に案内されながらの会話であったので、そんな美麗な魔物の微笑みを見てしまった給仕の女性がぐらりと体を揺らしていたが、すかさず、通りがかった同僚が支えていた。
なお、おじさま給仕なグレアムは、早速、ハンカチで滲んだ涙を押さえているので、こちらも頑張って欲しい。
祝祭の街並みを見下ろす窓際の席に着き、いつものシュプリを注文する。
窓から外を見てみれば、そろそろ花火の時間が近いので、歩道を歩く人影は先程より減ったような気がした。
「……………こうして、少し高い場所から眺めると、歩道のずっと先まで薔薇の花びらが敷き詰められている様子が、リボンのようにも見えませんか?…………街のあちこちに薔薇の色があって、イブメリアとはまた違う、華やかな景色ですねぇ」
「リボン…………」
「あちらのお店は、テラス席を作っているのですね。まだ雪の季節ですので保温魔術をかけているのでしょうが、きっと花火が見えるに違いありません。私達のように、花火を待っている方々がいるのでしょう……………」
そう言えば、小さく頷き、きらきらと光る水紺の瞳で窓の外を眺めている魔物がいる。
ふっと意識を引き込まれるような美貌は、無垢な程の喜びに満ちていて、こんな風に微笑んで窓の向こうを見ているディノは、間違いなく幸せな魔物に見えた。
ネアと同じことを、グレアムも感じたのだろう。
お待ちかねのシュプリを持ってきてくれたおじさま給仕は、はっとするような穏やかな微笑みを浮かべている。
今年も、細長いシュプリグラスの中には、宝石のように煌めく幸運の祝福の結晶が入っている。
細やかな泡がしゅわしゅわと揺れ立ち、飽きずにずっと見つめていられそうな美しさだ。
添えられた小皿には、本来ついてくるチョコレートではなく、シュプリにはおつまみを添えたくなるネアの為にと、小さな一口チーズと、可憐なおかずサレが付いていた。
いつもよりもしっかりとしたおつまみ感に目を瞬けば、ローゼンガルテンで焼き菓子を買いそびれていたとお聞きしましたのでと、悪戯っぽく微笑んでくれる。
「……………ふぁ。美味しそうです……………」
余談だが、ザハの給仕達は、お気に入りの常連客のもてなしにひと手間を加えられるよう、決まった自由予算を預けられているそうなのだ。
高貴なお客の多いザハのような場所だからこその気遣いで、その予算内でやり繰りをし、給仕たちは、大事なお客に一口のチョコレートケーキやお祝いのシュプリなどを贈れるのだった。
「良かったね。……………有難う」
「いえ。喜んでいただけるのが、何よりでございますから」
にっこりと微笑んだおじさま給仕が立ち去ると、ネアは、さっそくグラスに口を付ける。
きりりと冷えたシュプリは果実の風味のある飲みやすい味わいで、辛口だが瑞々しい香りが素晴らしい。
喉の奥から体に染み渡るような美味しさににっこりすると、ネアは、早速、用意されているチーズをお口に入れてみた。
「……………ほわ。中に、じゅわっと染み出てくる蜂蜜が入っています。蜂蜜に負けないしっかりとした味のあるチーズですので、この組み合わせだけでお口の中に楽園が生まれました……………」
「蜂蜜が入っているのだね……………」
一口チーズは、黄色い濃厚なチーズの味わいが楽しめるものだ。
そこに合わせた蜂蜜がとろりと口の中で広がり、ネアは、至福の思いでもぎゅもぎゅする。
そうこうしている内に、花火が始まるというお知らせの妖精の花火がどんと上がり、口の中に楽園がある内に花火も始まるという、幸せのマリアージュが実現してしまった。
(……………わ!)
どおんという花火の音が、微かに窓の向こうから聞こえたような気がした。
ザハの二階のラウンジには優雅な音楽が流れていて、ふくよかな薔薇の香りは、部屋の真ん中に置かれた大きなクリスタルの花瓶に生けられたアプリコット色の薔薇のものだろう。
爽やかな甘さは奏でられる音楽にも相応しく、集まった紳士淑女をいっそうの笑顔に導いてくれる。
そんな音楽の向こうに微かに聞こえた花火の音は、不思議と演奏の中の小さな音階のようであった。
「……………綺麗ですねぇ」
「うん。ネアが沢山動いて可愛い……………」
「花火を楽しむ時間なので、そちらを中心的に楽しんで下さいね?」
「ずるい……………」
夜空に打ち上げられ花開くのは、細やかな金色の滝のような花火だ。
しゅわしゅわと流れ落ちてゆく光の粒が星屑のようにきらきらと光り、なんて美しい夜なのだろうと、ウィームに来てから、数えきれないほどに繰り返された喜びに浸る。
花火の光に照らされたローゼンガルテンには沢山の人がいるようで、家々の窓にも、花火を楽しむ領民の姿あった。
「……………ふぁ。……………あぐ」
そうして皆が見上げる花火の美しさに夢中になりつつ、ネアは、今度はおかずサレを齧り、その美味しさに悶絶した。
オリーブだけのシンプルなおかずサレだが、それがまたとても美味しいのだ。
むふんと頬を緩めてもぐもぐしつつ、しゅわっと爽やかで薫り高いシュプリをいただく。
(この後は、ディノお城で晩餐をいただいて、薔薇の交換をして……………)
伴侶になった後の魔物なので、今夜はお城に泊まることになるだろう。
そう考えてしまったネアは慌ててテーブルの下の爪先をぱたぱたさせ、頬が上気するのを防いだ。
「綺麗ですね」
「……………うん。綺麗だね」
夜空を次々と彩る花火を見ている。
花火が打ち上げられている時間はラウンジも照明を落とすので、花火に照らされたディノの横顔を見たり、花火の煌めきの映るグラスのシュプリを飲むことに密かな喜びを噛み締めたり。
祝祭の夜の美しい色彩と馨しい薔薇の香りに包まれ、ネアは、空いっぱいに開いた花火の煌めきを瞼の裏側にしっかりと刻み付けた。
(何度でも、何度でも、この美しい夜や、こうして過ごした時間を忘れないように……………)
美しいものや素敵な物が多過ぎるこちらでの暮らしだが、大事な人達と過ごす時間の全てを余すことなく覚えておきたい。
この先どれだけの時間を重ねるのだとしても、きっと、過去に重ねた時間が色褪せることはないだろう。
「初めて訪れた薔薇の祝祭のウィームの街で、花びらを敷き詰めた歩道を踏んでしまうのが、勿体なくて怖々だったことを思い出しました」
「あの時の君は、まだ時々逃げようとしていたかな……………」
「む、……………むぐ。牛コンソメのスープに浮かべられていた、薔薇の花びらを覚えているのですよ。ディノが用意してくれたのは、雪原を望む薔薇のバルコニーでした」
ザハでの時間を終え、淡い転移を踏んでネア達が向かったのは、万象の魔物のお城である。
相変わらず、いつ来ても溜め息が零れる程に美しいばかりのお城だが、今日ばかりは薔薇の祝祭のように床一面に白い薔薇の花びらが敷き詰められていた。
大きく扉を開いた向こうには、ディノの薔薇を満開にした薔薇の庭園があり、そこから夜風が真珠色の花影を持つ白い花びらを吹き込ませてくる。
庭園には雪も積もっていたが、はらはらと舞い落ちる雪片は薔薇の花びらのようで、少しも寒くはなかった。
擬態を解いたディノの真珠色の髪に、薔薇雪と花影の煌めきが落ちる。
高い位置から吊るされたシャンデリアの明かりに、夜の祝福石のテーブルの上には、ほかほかと湯気を立てている、ネアの大好きなリーエンベルクの晩餐が並んだ。
初めての薔薇の祝祭の日にもあった牛コンソメのスープは、澄んだ琥珀色のスープに浮かべた深紅の薔薇の花びらが小粋で美しい。
薔薇の花びらと、赤い花びらに見立てた乾燥苺を砕きかけたサラダは、揚げた茄子やアスパラなどの触感が楽しく、山羊のチーズと塩気の強いサラミの薄切りがかけられ、クリーム系のドレッシングが堪らなく合う。
薔薇の花のように飾られた夜蜜林檎の薄切りを乗せてあるのは、棘豚のテリーヌである。
濃厚な美味しさのテリーヌは、甘酸っぱい林檎を花びらのように崩し、一緒に食べると美味しさにじたばたしてしまう程だ。
「今年は、薔薇の紅茶風味の鴨なのです!!」
「檸檬と青い辛子かな。……………うん。美味しいね」
「この青いつぶつぶざらりとしたソースが、堪らなく美味しいでふ……………むぐ!」
ディノの言う通り、鴨のソースは、檸檬の皮を擦り入れた青いチリソースのようだ。
ぴりりとした辛さに清涼感があり、薔薇塩を合わせてあるので、鴨肉の味をがらりと変えてくれる。
ただし、薔薇の紅茶で燻製された鴨肉はそれだけでも充分美味しいので、味の変化を楽しむにはどちらにどれくらいという配分計算が必要になるのだった。
「鮭のクネルのチーズ焼きに、酢漬けのキノコと薔薇も美味しいですね」
「キノコもこうしてしまうのだね……………」
「火を通してからですが、マリネにしてしまうとまた味が変わって美味しいですよね」
「うん……………」
「そして、エスカルゴ風なシャンテグです!……………あぐ!」
「蝸牛は食べない……………」
「香草と大蒜のバターソースが美味しくて……………、むむ?ディノはどうして震えているのでしょう?」
ネアがうっかり蝸牛発言をしてしまったせいで、ご主人様が蝸牛を食べた事があることを思い出してしまったディノは少し項垂れていたが、手を伸ばして撫でてやるとすぐに落ち着いたようだ。
ご主人様がもう二度と蝸牛を食べなくてもいいように、今後、シャンテグは食べたいだけ用意してくれるそうなので、そのお言葉に甘えて今後も楽しませて貰おう。
「クネルは、チーズをかけて焼き目をつけてあるので、普段食べるものよりもふかふかです。……………お口の中でムースのようにじゅわっと消えてしまうので、幾らでも食べられるのですよ」
「緑のソースは、フェンネルかな。君は、鮭の料理にフェンネルが使われるのが好きだったね」
「はい!鮭とフェンネルとチーズは、黄金の組み合わせなのです。……………むぐ。…………今日は鴨様がいるので、鮭そのものだと重たいでしょうが、こうしてふわふわクネルになると、幾つでもいただけてしまう魅惑のお料理なのでした……………」
美味しさを噛み締め、顔を上げれば幸せそうに微笑む伴侶がいて、素晴らしい薔薇の庭園が広がっている。
少しだけ、アルテアの仕事は終わっただろうかだとか、ウィリアムは晩餐の時間に起きられただろうかという心配もあったが、心の中をひたひたと満たしてゆく幸福感に、うっとりとろりと蕩けてしまいそうだ。
薔薇のお酒を使った甘酸っぱいシロップをスポンジにしみ込ませた、シンプルな苺のショートケーキのような、けれどもネアが椅子の上でずばんと弾んでしまうような美味しいケーキのデザートを終えると、ゆったりと紅茶などをいただく時間になる。
ネアは、香り高い紅茶を楽しみつつ、ちらりと隣の伴侶を見た。
「君に、今年の薔薇を渡してしまおうかな」
「まぁ。楽しみにしていたので、貰ってしまいたいです。ディノの薔薇は、いつだって大好きなのですよ」
「今年は、少しだけ花の形を変えてみたんだ」
「……………なぬ」
「君は、同じ形をした贈り物でも喜んでくれるけれど、色々なものを選べるようにしてあげたいからね」
手を引かれて立ち上がり、薔薇の庭園の前で向かい合う。
どこからともなく流れてくるピアノ曲は、優雅で軽やかなロマンティックなワルツだった。
物悲しい旋律がその美しさを引き立てはするが、幸福な結末を持つ物語の音楽だ。
「ネア、この薔薇を君に。受け取ってくれるかい?」
「……………ふぁ!花びらの縁がフリルのようで、いつもの薔薇より丸くぎゅっと詰まったような形の薔薇なのですね!!……………ふぁふ。……………いつもの薔薇も大好きですが、こちらの薔薇もなんて美しいのでしょう……………」
手渡された花束は、魔物の王様の色を宿した真珠色の薔薇だ。
だが、今年の薔薇は貴婦人のスカートのようなカップ型の薔薇ではなく、ころんとした丸いフォルムの薔薇になっている。
花びらの縁が少し波打つようになっているので、なんとも可憐で華やかで、ぎゅっと花びらの詰まった薔薇具合は、ネアの大好きなもののまま。
「……………気に入ったかい?」
「はい。こちらの薔薇も大好きです!……………ディノ、私の為に新しい薔薇を用意してくれて、有難うございました。こんなに優しい伴侶がいるなんて、どれ程の贅沢でしょう」
「……………大好きだよ、ネア」
珍しく躊躇わずにその言葉を言い、けれども一息に言ってしまってから息を詰めたディノは、頬を染めて恥じらう乙女のように視線を伏せる。
長い睫毛の影が頬に落ちる様は、ネアですらくらりと倒れてしまいそうなくらいに美しく色めいていた。
「私も、ディノが大好きで………むぅ。………死んでしまいましたね」
「……………虐待した」
ぼさりと肩の上に頭を乗せてきた魔物は、儚くもぺそりと項垂れているではないか。
完全に体重をかけられるとネアも倒れてしまうが、そこそこずしりとしているので、とても弱っているのだろう。
ネアはそんな伴侶の背中を撫で、まるでダンスを踊るようにゆらゆらと体を揺らす。
揺らしながら、おや、子守かなと思いそろりとディノの顔を覗き込むと、同時に顔を上げた魔物の、切り裂くような鮮やかな水紺色の瞳がこちらを見ていた。
(……………深い)
澄明で無垢な瞳のその色は、魔物らしい酷薄さとその断絶の抱える鋭利さが、静謐な湖面の底に透けて見える。
けれども、かつて森の女神の湖の畔に佇み、どこまでも続く叶わない物語の顛末を見つめていた怪物は、こんな怜悧さごときでその手を離してしまうほど慎ましやかではないのだった。
「ディノ、…………あなたは、私のたった一人の伴侶です。ずっと大事にしますからね」
「……………大事にするよ、君を。……………ずっと、ずっと。…………でも、私には分からない事も多いから、もし、間違えていたら教えてくれるかい?………君には、もう二度と、苦しい思いも寂しい思いも、………怖い思いや空腹な思いもして欲しくない」
静かな静かな声は低く甘く、出会った頃にどんな願いでも叶えてあげるよと言った魔物よりもずっと暗く艶やかだったが、これがネアのたった一人の大事な魔物だった。
そして、ネアの大好きな魔物なのだ。
「ええ。なのでディノも、怖い事や苦手なものを、そして気に入ったものや、幸せな事を沢山教えて下さいね。こんな話をするのはもう何度目かですが、何度だって私はそう思うのです」
「では、また来年も君に薔薇を贈ろう。君が、私の花束を受け取って、喜んでくれるのが好きなんだ」
そう微笑んで体を起こすと、魔物らしい夜の森のような馨しい香りがした。
いつかの夏至祭の夜に、世界なんてと噛み締めた憎悪や失望の道の先にこんなにも美しい魔物がいるなんてと今でも思ってしまうのだが、多分これもまた一つの願いの果てなのだ。
あちら側の世界とネアハーレイの全ての幸運を引き換えにして手に入れた、物語の結びの先に続いた秘密の物語。
「それなら私は、ディノに今年の薔薇を贈りますね。ディノが私の花束を喜んでくれると、胸の奥がほかほかになるのです」
「…………うん」
ネアが金庫から取り出した薔薇は、こっくりとした菫色に花弁の根本には水色を宿した、宝飾品のような佇まいと気品のある薔薇だ。
花束にするにあたり、ネアは他の色味の同じ薔薇も何本か差し込み、花びらが光を宿すような絶妙な色の変化を楽しめるようにした。
今年も喜んでくれるだろうかと考え、幸せな気持ちに胸を弾ませるのは、どれだけの贅沢だろう。
多分ネアは、こんな幸福のために、あちらの世界とネアハーレイを売り払ったのだ。
ぽいと捨て去り、二度と取り戻せなくても構わないと魔物の手を取ったのは、こんな魔物がいたからである。
「………有難う。………とても綺麗だね。大事にするよ」
「また来年も、その次の年も、何度も何度も薔薇の花束を贈れてしまうので、もし、お花以外の薔薇が欲しくなったら教えて下さいね」
「薔薇でいいかな………」
「まぁ。ちょっぴり警戒してしまいました?」
「ご主人様…………」
「私は、毎年大事な伴侶に薔薇の贈り物をするので、ディノが満遍なく薔薇の祝祭を楽しめるようにしたいのです。そうして趣向を凝らすことも吝かではないのだと覚えておいて、生花ではなくても、欲しい薔薇を注文することも出来るのだと知っていて下さいね。ディノはもう、他の誰かが貰っていた素敵なものを、自分も欲しいのだと言ってもいいのですよ?」
「……………ネア」
ディノは瞳を瞬き、小さく睫毛を震わせていたが、何かを言おうとして失敗してしまったのか、くしゅんと傾いてしまう。
「………あらあら、また泣いてしまうのです?」
「ネアが沢山虐待した………」
「解せぬ」
「…………一緒に居てくれるかい?これからも、………他の誰かにはそのような者がいるように。心を傾け、大切だと思う君がいるから、色々なものが手に入るようになったんだ」
「はい。では、その代わりにディノは、私にとってのそのような愛するものでいて下さい」
「……………虐待した」
「解せぬ」
ネアからの薔薇を大事そうにどこかにしまうと、少し体を離したディノに差し出された手を見て、ネアは微笑みを深める。
「踊ってくれるかい?」
「はい。喜んで」
どこからともなく流れてくるのは、今度はピアノ曲ではなく、優雅で艶やかなオーケストラのワルツだ。
庭園の雪景色の中に佇む薔薇園が、一斉に光を孕むようにざわりと揺らげば、はらはらと降り続く白薔薇の花びらのような雪が、細やかな光の粒子を立ち上らせるように見える。
ステップを刻み、互いを見上げて手を取り合う。
お辞儀を交わし、もう一度手を重ね、背中に回された温度の親密さに、踊り始めるとしゃわんと揺れる敷き詰められた薔薇の花びらも。
(何度でも、何度でも…………)
同じような約束や愛情を交わし、少しずつ、少しずつ、二人で織り上げる布は丈夫になってゆく。
(……………幸福は疲れない)
それは、ネアがこの世界で知った、特別な秘密だった。
安堵には少しも飽きないし、楽しさは少しも色褪せず、どこまでも続いてゆける。
よく似ていても毎回その色相は変わり、世界は色とりどりで溜め息を吐きたくなるくらい美しい。
そして、誰かを深く深く想うその時にだけ、胸が潰れそうなくらいに泣きたいような苦しさが寄り添うのだ。
「ディノ、ふわっとターンさせて下さい!」
「可愛い………」
「体がふわっとなりました……!」
ステップを踏みくるりと回る。
床に落ちる薔薇雪の影に、花明かり。
花びらを踏み、スカートの裾が揺れ動き、花びらが舞い上がる。
幸せにひたひたと満たされきった思いでその曲を終えると、ふわりと視界が翳り、甘やかな口付けが落ちた。
吐息を分け合う親密な温度に心を預けるのは、この手の中にある美しい魔物こそが、ネアの物語の向こう側に隠されていた一番の宝物だから。
そんな思いに得意気にむふんと微笑めば、こちらを見下ろした魔物が、はっとする程に艶やかに微笑んだ。
はっとしたネアは、すぐさま視線を彷徨わせ、また別の時間を切り開かんと会話の糸口を探したが、悲しい程に思考がまとまらなかった。
「……………む。……………お、お茶などをいただきます?」
「どうして、すぐに逃げてしまうのだろう……………」
「い、いえ。まだ宵の口ですので……………」
「おや、そろそろ夜も真夜中の座の裾にかかるところだよ。…………おいで、ネア」
「……………にゃむ」
あっという間に捕まって運ばれてゆきながら、ネアは、こんな時にぞくりとする程綺麗に微笑むのは反則だと、大事な魔物の三つ編みをぎゅうぎゅう握り締めたのだった。
繁忙期のため、明日3/16、明後日3/17の更新はお休みとなります。
TwitterにてSSを書かせていただきますので、もし宜しければご覧下さい。
(なお、本日20時より、明日のSSのお題をアンケートを取らせていただきます)