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216. 劇場の薔薇に出会います(本編)




ネアが薔薇を大事に花瓶に移して帰ってくると、なぜか、すっと立ち上がる魔物がいる。

おやなぜだろうと首を傾げると、使い魔は呆れたような顔をするではないか。



「なんだ、今年の薔薇は要らないのか?」

「むむ!時計をご確認下さい、まだウィリアムさんとのお時間なのですよ。今は、諸事情で一度戻ったので、ディノの様子を見に寄ったのと、大事な普通の薔薇の花束なのでくたりとなってしまわないよう、お部屋の花瓶に生けてきただけなので、もう少しお待ち下さいね」

「……………帰ってきたばかりだろうが」

「ま、まだ、ウィリアムさんに薔薇を渡してません!エーダリア様に借りたお部屋に入り直す為に、一度こちらでひと休憩していたのですよ!」



ネアは慌ててじたばたし、ささっと距離を取った。

怪訝そうな顔をしたアルテアは、ディノの方を見て何かを確認したようだ。

ひとまず事情があるらしいぞと納得はしたようなので、説明はディノに任せてもいいだろうかと振り返れば、こくりと頷いてくれる。



「このようなものは、特に制限がかからない内に、済ませてしまった方がいいだろう。行っておいで」

「はい、そうしますね」

「すみません、シルハーン。もう一度、ネアを借ります」



そうお辞儀をしたウィリアムとディノの姿は、魔物の王様と二席の死者の王という麗しさであった。

しかし、残念ながらディノは雪豹アルテアを抱っこしたままであったし、奥にいるアルテアは、きっとお前が事故ったのだろうという疑いの目でこちらを見ている。


むむぅと眉を寄せると、ネアは、ぶんぶんと首を横に振っておく。




(……………そうか。呪いが動いてしまわないよう、あまり言葉にしない方がいいものなのだわ)


今更だが、表立っての会話でその話は出ていなかったなと気付き、ネアはきりりと頷いた。

思い返せば、ウィリアムがかけられた呪いについての説明も、先程の部屋を拝見しながら、部屋の中で行われたではないか。


なので、どうかこのまま無事に終わりますようにと願いながら廊下を歩き、ウィリアムと共に先程の部屋に戻ると、ネアは、ほうっと息を吐いた。



「ふは!無事に戻ってきました」


あのまま連れ出されてしまっていたら、ウィリアムから薔薇を貰いっ放しという、悲しい事態に見舞われかねない展開であった。

どうやら、部屋に籠って仕事をしていたアルテアは、ウィリアムが、リーエンベルクのとある部屋経由でしか薔薇の祝祭に関われない理由を知らなかったらしい。



「……………やれやれ。今日ばかりは、アルテアも随分前のめりだな」

「仕切り直す為と、ディノが一人かもしれないのでと、一度こちらに寄った事で誤解されてしまいましたね。……………お部屋の魔術は作用しています?」

「そろそろ大丈夫そうだな。……………何度もすまないな」

「ふふ。ウィリアムさんに薔薇を渡す為の任務ですので、張り切ってしまいました。……………では、もうちょっとだけ待ってから、あらためてお渡ししますね」

「ああ。…………リーエンベルクだからこそ、この魔術剥離の部屋があったんだが、これがなかったらと思うとぞっとするな」

「巻き物さんのせいなのです……………」



実は、地下墓所で巻き物と戦ったばかりのウィリアムには、一つの厄介な呪いがかけられていた。


未決済、ないしは通達不可という恐ろしい響きを聞けば、それがどのような災いを齎すものなのかは、何となく分かるだろう。


せっかく頼まれていたお知らせをしたのに、誰にも褒めて貰えなかった巻き物たちは、最後に、裏切られた憎しみを込めてその場にいた者達に地味で嫌な呪いを付与して消えていった。


その呪いは、かけられた者が立てていた予定を取りこぼすというとても迷惑なもので、ウィリアムを含めた数人がその呪いを受けたのは、よりにもよって薔薇の祝祭の夜明けの事である。



(でも、その呪いを無効化出来る場所がリーエンベルクにあったお陰で、ウィリアムさんは落ち着いて呪いを受け止める事が出来たのだとか…………)



なので本日は、リーエンベルク内にあるこの決済の間をお借りして、先程のコルジュールに赴き、またここに戻って、今度はネアの薔薇を贈るようにしたのだった。



「階位の低い呪いなんだが、この通り、なんとも言えないところで行動に面倒な影響が出るんだ。王族や領主などを政治や審議の場から遠ざける為に、敢えてそのような呪いをかけようとする者は多い。書類一つを決済し損ねても、大きく国や領が揺らぐこともあるからな…………」

「ふむふむ。なので、このような、予定していた作業に取り掛かれなくなる呪いを受けた方用のお部屋があるのですね……………」



ここは、リーエンベルクがかつて王宮だったからこそ作られていた部屋なのだという。


しっとりとした緑色の絨毯はふくよかな針葉樹の森を思わせ、端正な佇まいの夜結晶の机や椅子なども含め、しっとりと落ち着いた印象を受けるのは、ここが執務用室の一つだからに違いない。


淡く色づくように落ちるのは花明かりのシャンデリアで、部屋にかけられた小さな呪いを無効化する魔術を助ける為に、結実や成就を示す祝福を宿していた。



「王宮のような場所には、必ずこのようなお部屋があるのでしょうか?」

「その国や土地の魔術量によるだろうが、ヴェルリアとガーウィンにはある筈だ。王都は勿論のこと、ガーウィンも、信仰にかかわる日程を動かせない以上、絶対に書類や申請の決済を遅らせられない土地だからな」

「確かに、教会の予定は簡単に変更出来ませんものね……………」



幸いにも、誕生日ならずとは違い、今回の呪いは、大事な予定の開始を阻害するだけの呪いである。


呪いとしての階位は、特定の言葉にかかる言動の全てを封じる呪いよりは遥かに低く、その代わりに多くの者達に扱えてしまう。

とは言え、始められないという呪いだけを取り払ってやれば、予定通りの行動をとる事が出来るらしい。



つまり、この部屋で呪いを無効化してからであれば、ウィリアムは薔薇の祝祭を楽しみに出かけられるし、尚且つこの部屋であれば、ネアの薔薇も受け取れるのだ。


大事な予定だけに作用するので、リーエンベルクを訪れる事を妨げはしないし、ディノの予想では、薔薇の祝祭でも、実際にウィリアムが自分事とする、薔薇の受け渡しのみを対象としているのではないかということであった。


ネアとしては、この部屋を介さないとどうなるのかも気になるが、どうなるのか試してみるような残酷な真似はしないので、永遠に謎のままかもしれない。


本来であればウィリアムのような高位の魔物が受ける事はない呪いなので、魔物達も、展開されるとどんな事が起こるのかまでは知らなかった。



(……………今回は、七万回分の内の、ウィリアムさんが滅ぼした巻き物の数だけ呪いをかけられたので、階位の低い呪いでも成立してしまったという事だったけれど、このお部屋を使って対処出来るような日で良かったのだわ…………)



何しろ、不明なことが多いので、ウィリアムも手探りだ。


エーダリアも魔術階位で排除出来るのでかけられたことはないらしいが、自身には必要がないと分かっていても、この部屋の手入れを怠らなかった素晴らしい領主である。



「……………さっきから会食堂で呪いの状態を確認していたんだが、普段の行動には、全く影響はなさそうだな。呪いを受けた者が重要な予定だと考えている、特別な行動にのみ影響が出るんだろう。夜が明けたら、呪いは既に受け終えたという指定をかけて魔術洗浄で引き剥がすが、そもそも、敢えて一度受けてやる必要もなかったかもしれないな」

「ですが、呪いは受けたという証跡を残しておいた方が、あるかもしれない後遺症などが現れないそうですので、今日は、このお部屋を有するリーエンベルクにいて下さいね!」

「ああ。そうするよ。……………さて、もう俺は大丈夫だぞ」

「はい!では、私の薔薇をお渡ししますね」



どんな規則性があるのか分からないので、薔薇の祝祭の大事な予定は、一件ずつ、都度この部屋に入って行う。


先程のネア達が、コルジュールから戻った後、一度部屋を出たのもその為だ。



ふぁさりと音を立て、ネアが腕輪の金庫から取り出したのは、ウィリアムへの薔薇だ。

ネアが選んだ今年の本命の薔薇の、僅かな色違いのものである。

ディノとノアに使う薔薇が青みの菫色なのに対し、こちらの薔薇は、ラベンダー色がかった柔らかな色だった。



(あちらの薔薇より、女性らしい雰囲気かもしれない……………)



そんな事を考えながら差し出すと、微笑んで受け取ってくれたウィリアムが、受け取った薔薇にそっと口付けを落とした。



「ネアらしい、綺麗な薔薇だな。大事にするよ」

「騎士さんになってくれたウィリアムさんと、今年もずっと仲良しでいられますように」


その言葉に、こちらを見た終焉の魔物は、はっとするような艶やかで魔物らしい老獪な微笑みを浮かべる。



「となると、俺も、もっとネアに会いに来ないとだな。これからは、リーエンベルクの部屋で過ごせる日も増えるだろう。オフェトリウスの対策もあるしな」

「ほわ……………」



ネアは、ここでもまた名前の挙がってしまうオフェトリウスは、どうも前途多難ではなかろうかと考えつつも、無事に薔薇の贈り物を終え、会食堂に戻った。



ウィリアム曰く、大事な予定はもうないので、後は、リーエンベルクでのんびり過ごすばかりなのだそうだ。

万が一に備えてこちらに滞在していれば、いつでも決済の部屋を使う事が出来る。




「むむ、エーダリア様です…………」


会食堂に戻ると、王都に出掛けていたエーダリア達の姿があった。


無事に戻ってきたようだが、エーダリアの鳶色の瞳はとても暗い。

間違いなく、本日が薔薇の祝祭で、王宮には妙齢のご婦人たちがわんさかいたからだろう。



「ああ、ウィリアムとの薔薇は、無事に受け渡しが出来たのだな」

「はい。エーダリア様、あのお部屋を貸して下さって有難うございました。……………それと、いつもよりくしゃぼろなのです…………?」

「……………ああ、王都への挨拶だったので、ある程度は想定していたのだが……………。ヒルド、大丈夫か………?」


エーダリアがそう声をかけたのは、テーブルに手を付いて項垂れていたヒルドだ。


「……………ええ。………もう二度と、あの訪問形式はやめましょう。あなたの禁術があっても、あそこまでだとは思いませんでした……」

「ああ。到着した直後だけだったが、すぐに気付けたのが幸いだった……………」

「僕は、エーダリアの契約の魔物なんだけど………」



ネアは、部屋のお礼を言ったエーダリアが、昨年よりもくしゃくしゃになっている事に気付き首を傾げたが、ヒルドの発言とノアの様子を見るに、ウィームにいる時のように銀狐襟巻で出掛けてしまったのかもしれない。


これは返答や会話に要注意だぞと素早く周囲を見回せば、お前が付いて行ったからかと呆れた目をしている選択の魔物にあわあわしている義兄がいたので、ささっとアルテアの方に駆け寄ってしまう。


使い魔が、こうなったのは人型の塩の魔物のせいだと思ってくれている内に、この部屋から連れ出さねばなるまい。



「……………何だ?こっちは暫くいいんじゃなかったのか?」

「むぐ…………。とても捻くれた目をしていますが、次はアルテアさんからの薔薇を貰う時間なので、自力で予定ならずとするのはいけないのですよ!」



奥では、エーダリア達の会話の不穏さに気付いたのか、ウィリアムが部屋のお礼を言う体で話しかけ、上手に話題を逸らしてくれていた。

エーダリア達には、この隙にどうか平常心に戻っていただき、銀狐関連の話題から遠ざかって欲しい。


ディノは、しくしく泣いているノアを恐る恐る慰めていて、雪豹アルテアを抱いてみるかどうか尋ねているところだった。



「ったく。行くぞ」

「はい。今日はお願いします!」

「シルハーン、こいつを借りていくぞ」

「うん。……………ネア、爪先を踏まなくていいのかい?」

「私から求めてゆく風になっていますが、今日は薔薇の祝祭なので、大事な伴侶の爪先をぎゅっとやっておきますね」

「……………可愛い」

「え、お兄ちゃんも慰めて………」

「爪先を………?」

「ありゃ。それをして欲しいみたいになったぞ……………」



ネアはここで、本日はたいへん時間に厳しい選択の魔物に回収されてしまい、人間を畳んでラベルをつけてしまう残忍で凄艶な美貌の魔物が、まだ決算書類から解放されていないことに気付いた。


とても落ち着かない様子なので、是非にそちらに戻らせてあげたいが、相互間での薔薇のやり取りがあってこそ、愛情を司るこの祝祭はより深い祝福となる。


今日の為に薔薇を用意してくれたアルテアに対し、大急ぎで片付けてしまおうなどとは言える筈もない。



「数字のお仕事は嫌いですが、出来ない訳ではないのです。後で何かお手伝いしましょうか?」

「魔術誓約の押印作業を兼ねた書類だ。お前は、あの紙に触れることも出来ないだろうな」

「か、かみくらい、えいっとやってしまうのですよ?」

「その可動域でか?」



意地悪な目でそう言われ、ネアは、抗議の為にぐるると威嚇した。


その隙に、どこからともなく取り出された白い杖がこつりと床を鳴らし、お仕事用のやや砕けた服装であった選択の魔物は、漆黒のスリーピース姿の盛装となる。



そして、淡く揺らぎ、くらりと翻った薄闇の向こうに現れたのは、誰もいない大きな劇場であった。



(……………あ、)



ネアは、この劇場を知っていた。


つい先日、ノアと一緒にコンパクトから訪問したばかりの、ザルツの帝国劇場ではないか。

慌ててそれを訴えようとアルテアの袖を引けば、だからここにしたのだと告げられた。


「招待と訪問は、魔術的な縁になる。今は俺の管理だから事故も何もないだろうが、一度、俺からの招待で歩かせることで、この領域内での浸食や損傷を緩和する術式を作れるからな」

「もしかすると、またあの日の劇場に呼ばれてしまうこともあるのですか?」

「いや。現れた道具が満足したのなら、そこでの役割は終えている筈だ。そのような場所に、二度呼ばれる事は滅多にない」



ふかふかと絨毯を踏みながら、そう教えてくれるアルテアの横顔を見上げる。


総じて魔物達は人間よりも長身なので、どうしても一緒に歩くときには見上げるようになってしまう。

だがネアは、その角度でしか知る事の出来ない睫毛の影の色を見るのを、密かに楽しみにしていた。


(長い睫毛の内側に瞳の色が淡く映って、人ならざるものらしい鮮やかな色の影は、なんて綺麗なのだろう………)



天井が高い回廊にはシャンデリアが吊るされ、壁灯の煌めきが等間隔で続いてゆく。

窓の外はまだ午後の光を湛えているが、この建物の中には、どこか不可思議な劇場の夜の気配が残っていた。



(どうして劇場なのだろう…………)



そう考えたネアに気付いたのか、アルテアがこちらを見た。

鮮やかな色の瞳がじりりと燠火のように光の尾を引く様は、先程のウィリアムがただのウィリアムでいたことに対し、魔物らしい姿と言えよう。



「今年の薔薇は、………歌乞いの薔薇と言われている」

「…………歌乞いの、薔薇」

「この薔薇を作ったのは、恐らく、歌乞いを得た魔物だろう。ユーグがどこからか手に入れてきたが、どこぞの魔物が改良を行った途中で出来た薔薇が、回収されずにその場に残って根を広げたものなのは間違いない。完全に完成することのない、未完の薔薇とも言われているが、……………まぁ、歌乞いの薔薇と言われる以上、未完という状態は好まれるからな。今は、歌乞いを得ている魔物達の嗜好品だ」

「ふむふむ。契約が終わらない歌乞いの薔薇となれば、縁起がいいと好まれる方も多いでしょう」



すっかり失念してしまいがちだが、歌乞いは短命な生き物である。


契約の魔物を使役することで磨耗される命は、少しずつ歌乞いの時間を削り取ってゆき、やがて歌乞いの命を奪う。



(………そのひとに生きていて欲しいと、そう願う魔物も多いだろう)



たった一人の恩寵に寄り添い、長く長く、どうか一日でも傍に居て欲しいと願い、手にする薔薇なのかもしれない。


そんな背景を考えてしんみりしてしまいながら、アルテアが開けてくれた扉をくぐり、思っていた以上に大きかった劇場の一階席に出る。



しんと静まり返る劇場は、どこか秘密めいた感じがした。



お客のいない劇場は、カーテンが下りていない舞台にだけ、どこからともなくスポットライトのような、けれども淡い光がかかっている。

その光の筋の中できらきら光るのは、塵のようなものなのか、或いは魔術の煌めきか。


劇場の造りは珍しいくらいにきっちりと箱型になっており、音響を考えてゆるやかにカーブさせることもない舞台を含め、ロージェや客席の配置の全てが整然とした印象だ。

座席に張られた天鵞絨は漆黒で、通路に敷かれている同じ色の絨毯を踏み、その間をゆっくりと歩いてゆく。


「転ぶなよ」

「むぐ。この程度の脆弱な段差になど、私は損なわれないのですよ?」

「どうだかな。……………今回は客席にはつかない。そのまま、舞台に出るぞ」

「はい。……立派な劇場だったのですね。このような劇場では初めて見る配色ですが、壁や天井の装飾が華やかなので、使われている黒が例えようもなく優美に見えるのですね……………」




そこに落ちる薄闇や輪郭は、不思議な艶やかさだった。



隣に立つ魔物の装いを見れば、漆黒という色の美しさや優雅さは言うまでもない。

だが、こうして劇場全体でふくよかな漆黒の装いを基調とされると、こんなにも高貴な印象になるとは思わなかった。


誰もいないことで落ちる静謐は荘厳な程で、天井の真ん中から吊るされた大きなシャンデリアは、下から見上げても惚れ惚れとする程に透明な輝きを湛えたクリスタルで飾られている。


「あれは、泉結晶だ。冬の系譜の正午のものだけを集めたものだな。シャンデリア一つで、それなりの規模の邸宅が買えるぞ」

「……………ぎゅわ。…………この劇場に来た観客の方々は、きっと、あのシャンデリアを見上げて贅沢な気持ちでいっぱいになったのでしょうね。……………むぐ?!」



ネアはここで、ぎゅっと鼻を摘ままれてしまい怒り狂ったが、アルテア曰く、段差があるのでちゃんと足元を見て歩くようにということであるらしい。


たいへん遺憾な通知であったので、ネアは、そのような場合は言葉でお知らせするのだと伝えておいた。



絨毯が途切れ、こつこつと石床を踏み、舞台に上がるアプローチに爪先を乗せる。


バックヤードから入らなかった理由は、そちらの入り口側は魔術承認が必要な扉が幾つかあり、個人情報を魔術に変換する作業が面倒なのだそうだ。


何しろネアの可動域だと、その魔術式をネアも使えるように書き換える作業から始める必要があるので、その手間を省いたのだった。



「このアプローチは、随分しっかりしているのですが、舞台と観客席側に行き来があったのでしょうか?」

「帝国の宮殿にある皇帝の座を模して、この形になったらしいな。演出で使うこともあったが、音響的な意味はない」

「……このアプローチや床の石材は、特別なものなのでしょうか。掠れたような黒の中に、薔薇色の斑点があって綺麗ですね」

「夜嵐の事象石だ。薔薇を取り込ませてから切り出したんだろうな」

「むむ、高価なものだという気がします………!」



帝国の滅亡には様々な理由が複合的に絡んでいるが、その美意識の高さも、滅亡を早めた原因の一つであったらしい。


美しく格式高い物を求めて使われた資金は、一部の階級の者達には還元されたが、当然ではあるが国民の生活を圧迫した。

決して、どこかの予算を切り崩して使い込んだ訳ではなくても、災害時に備えが足りないとなれば、無駄な支出は目に余るようになる。



「崩れ方としては、晩年のロクマリアに似ているな」

「国の最後の形として辿りやすい定型というのも、あるのかもしれませんね。………ふぁ!薔薇の苗です?」



舞台に上がると、そこに置かれていたのは、翡翠のような素材の鉢であった。

艶々とした石材には繊細な彫刻があり、薔薇の花輪が表現されているらしい。


そして、その鉢植えに植えられていたのは、まだ蕾を開いていないものの、枝葉を茂らせた見事な薔薇であった。




「舞台の上にあるのは、………薔薇の鉢とピアノと、一脚の椅子なのですね。さては、私がピアノを披露して薔薇を咲かせるのですね!」

「お前が弾いてどうするんだよ………」

「むぐぅ………」

「お前はこっちだ。………何曲か弾いてやるから大人しくしていろ。………飲み物は薔薇とカンデンツァの紅茶だ」

「こ、この硝子の器に入っているのは……」

「霧薔薇のムースと夜薔薇のジェラートだ。状態保存をかけてあるから、焦って食べる必要はない」

「はい!演奏を聴きながら、のんびりゆったりムースとジェラートをいただくのですね………!………じゅるり………」



ネアに用意されたたった一人の観客席の前には、象嵌細工の美しい小さな長方形のテーブルがあり、湯気を立てている紅茶と、美味しそうなおやつが用意されていた。


喜びのあまりにびょいんと弾めば、いつもなら叱ってくるアルテアが、ふっと淡く微笑む。



「やれやれだな」

「なんて贅沢な薔薇の祝祭なのでしょう!はぁはぁしてきてしまいました………」



ネアはアルテアのエスコートで席に着き、ふぁっと感嘆の溜め息を漏らした。

この位置に座って薔薇の鉢を眺めると、奥でピアノを演奏するアルテアと向かい合うようになるのだろう。

ふかりとしているが沈み込み過ぎない劇場らしい椅子に腰かけ、いそいそと華奢な硝子の器を引き寄せる。


「食い気ばかりになるなよ?」

「まぁ。勿論、最優先するのは、演奏会とそこで咲くであろう薔薇の鑑賞なのですよ。これは、そのような舞台なのですよね」

「ああ。歌乞いの薔薇と呼ばれるだけある。あの薔薇を咲かせるのは、ピアノの伴奏だけだ。……………自分の恩寵の為の演奏ということなんだろう」

「…………この薔薇を作っていた方はきっと、ご自身の歌乞いさんの為に、薔薇を育てていたのかもしれませんね。ユーグさんが見付けてきた薔薇が途中段階のものであれば、望むような花を咲かせた薔薇が、どこかにあるのかもしれません」

「さあな」



小さく呟き、アルテアはピアノに向かった。

ふわりと揺れた魔物の香りが僅かに残り、ネアは、すかさずスプーンと硝子の器を手に取りながらも、胸をどきどきさせて美しい魔物がピアノの椅子を引くのを見守る。



(どんな風に、花を咲かせるのだろう……………)



鮮やかな緑色の葉は健やかで美しく、僅かに膨らんだ蕾はどんな薔薇を咲かせるのだろう。

まだ、がくの部分に覆われて緑に見えるが、僅かに淡い色が窺えるような気がした。


はらはらと舞い落ちる白い花びらのように、舞台を照らす照明が僅かに揺らぐ。


けぶるような光を揺らしたのは、ネアの目には見えない魔術の動きなのかもしれず、僅かに目を瞠ったネアは、こくりと息を飲んだ。




はっとするような鮮やかな最初の一音が落とされたのは、その直後であった。














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