215. 憧れの薔薇でした(本編)
「シルハーン、ネアを借ります」
「ウィリアムなんて……………」
「あらあら、くしゃくしゃのままですが、荒ぶってしまうのですか?」
ひょいとディノの顔を覗き込むと、貰ったカードをそっと抱き締めた魔物が目元を染めてこちらを見上げた。
可憐な乙女を虐めてしまったような構図だが、ご主人様からの薔薇の祝祭のカードを貰っただけなので、すぐに元気になってくれるだろう。
「ネアが虐待した……………」
「もし、一人でいるのが寂しければ、アルテアさんのお部屋にいます?」
「ここでいいかな……………」
「では、雪豹アルテアと仲良くしていて下さいね」
「仲良く……………」
膝の上にお気に入りのぬいぐるみを配置された魔物の王様は、ぬいぐるみと仲良くするという文化はないのか困惑気味であったが、巣の中に寝床を作ってあげたりもする溺愛ぶりなので既に仲良しとも言える。
稚い目をした美しい魔物がぬいぐるみを抱いてこちらを見ている姿は胸にくるものがあったが、一応はご長寿さんなので我慢して貰おう。
ネアは、伴侶の頭を丁寧に撫でてからウィリアムの手を取り会食堂を離れると、エーダリアに事前に話をして借りているという部屋から、転移を踏んで移動した。
「まぁ……………!」
ふわりと揺らめくのは馴染みのない、けれどもなぜか懐かしい香り。
そこに広がっていたのは、美しい白壁の邸宅と綺麗に整えられた庭だ。
しかし、高位の魔物らしい特別な風景というものではなく、裕福な人間や高貴な人間であれば手に入れられる景色である。
だが、長い年月をかけて手入れされてきたであろう庭園の美しさと、睡蓮の咲いている池の配置の絶妙さに、ネアは目を輝かせてしまった。
ただの美しい庭ではなく、大事に育まれてきた場所なのは間違いない。
「………コルジュールに所有している屋敷だ。気に入ってくれたみたいだな」
「はい!ここは、あのファルゴなコルジュールなのですね。……………は!木々の向こうに見えるのは、もしや海ですか?」
「ああ。庭のあちら側に行くと良く見える。歩いてみるか?」
「はい!」
コルジュールは、ネアのお気に入りの観光地の一つである。
北方の国からの観光客の多い海辺のリゾート地で、色鮮やかな花々は南国の装いでありながら、気後れしてしまうような鮮やかさばかりではなく繊細な佇まいで、それがまた、ウィームで暮らしているネアの目にも優しい美しさなのだ。
ファルゴを踊った記憶が鮮明だが、食べ物も美味しかったし街も美しかった。
そんなコルジュールに、ネアはやって来たらしい。
ぱちりと瞬きをすると、煌めく陽光や緑の色は、やはり異国のものでしかない。
けれどもここは、ネアの心を動かす異国の風景なのだった。
(…………綺麗。日差しに暖められた石に触れるような、不思議な優しさがあるのだわ)
剪定に凝りすぎず、程よく伸びやかに草花を育てた庭園には薔薇が咲き乱れていて、ブーゲンビリアやその他の名前の分からない花々も満開になっている。
ネアはまず、ウィリアムが差し出してくれた手を取り見事な庭の中に踏み出すと、ウィームにはない花々の甘い香りに酔いしれた。
どこか遠くから、音楽が聞こえてくる。
何かが行われているのか、街の方はなかなかに賑やかなようだ。
「まぁ、こちらの花びらの少ない薔薇も、可憐で素敵ですねぇ」
「コルジュールに元々ある品種としては、こちらの薔薇が多いんだろうな。今日は北方の海から吹き込む風があるから土地の人間には涼しいくらいだが、気温は問題ないか?」
「ええ。コートはいらないと聞いていましたが、このドレス一枚で丁度いいくらいの気温ですね」
「そのお陰で、国内でも北方域の薔薇が栽培出来る土地とあって、コルジュールは花の都という側面もあるんだ。時々、波ラッコに荒らされるけれどな」
「波ラッコさん……………」
魔術的な風景ではなく、丹精込めて育てられた庭園は、薔薇のジュースを飲んだばかりの庭を思い出させる。
(でも、先程のヒルドさんのお庭とは違って、このお庭にある異国らしい空気や植物が、主張し過ぎずに、けれどもがらりと印象を変えるのだわ……………)
ヒルドの庭は春の景色であったが、それでもウィームの庭なのだと思う。
あちらもこちらも薔薇を主体とした庭造りでありながら、こうも受ける印象が違うのが面白い。
ネアは、庭園に設けられたテーブルセットに案内されながら、この机と木の椅子もまた、同じ結晶化した木製のテーブルセットなのに雰囲気が変わるので、ネアは、ほほうと溜め息を吐いた。
コルジュールが、海辺のリゾート地だからなのだろうか。
のんびりだらりと寝そべるのに向いた、ゆったりと座れる座面の広い椅子は、ふかふかのクッションが張り込んであって、背もたれを倒すことも出来るようになっていた。
恐らくは、四人がけくらいのものなのだろう。
張られた布地がリネンのような質感で、木の部分が掠れたような風合いの水色に塗られているのが、上品な白壁の邸宅と南国の庭の中で優美な差し色になっている。
「………は!」
「見付けたな」
ここで、ぴょこんと弾んだネアに、ウィリアムが小さく笑う。
テーブルの上には、しゅわしゅわと泡を立てるシュプリの入ったグラスと、白い陶器の鉢いっぱいの苺に、砕いた薔薇の花びらを散らし砂糖蜜をかけた、クリームパフのようなデザートが置かれていた。
思わず、興奮のあまりウィリアムの手を引っ張るようにして弾んでしまったネアに、ふっと、白金色の瞳を柔らかく細めてウィリアムが笑う。
「今日はあちこち回るだろうからな。軽めのものにしたんだが、食べられそうか?」
「も、勿論です!あの可愛いクリームパフは、もう私のものなのですよ!」
「はは、この様子なら大丈夫そうだな」
大きな手で頭を撫でられ、ネアはむぐぐっと頷いた。
凛と背筋を伸ばして淑女たらんとしてしまうヒルドとは違い、ウィリアムにはこうして少し甘えてしまう。
ネア個人の意見としては、体重を預けてぶら下がっても揺るがないような、力強さのせいだという気がした。
(それに、今日のウィリアムさんは、死者の王ではなくて、………おかしな言い方だけれど、ただのウィリアムさんという感じがする)
これ迄の薔薇の祝祭で見た、終焉の魔物だからこその風景も素晴らしかったが、今、目の前にいるウィリアムは、仕事から離れた一人の男性という感じがした。
まるで家族のような近しさがあるからか、そんなウィリアムと庭園を歩いていると、休暇を使って別荘に遊びに来たような穏やかさで、ふにゅりと心が緩んでしまう。
「まだ昼食を食べたばかりだからな。ここで少しお喋りをしたら、池の方を見に行こうか」
「ええ。あちらの池は近くで見てみたいです!睡蓮の花が、まるで淡い絵の具を重ねたような美しさでしたね。水面が揺れていましたが、もしや、お魚さんがいるのですか?」
「ああ。花影が、魚になって住んでいるみたいだな。宝石魚のような輝きがあるから、すぐに見付けられると思うぞ」
「ほわ……………」
ふかふかの椅子に座り、小粋な感じにシュプリグラスを手に取れば、気分はもう、のんびりほろほろの休暇中の乙女である。
ネアは、薔薇の茂みを揺らす柔らかな風や、その向こうに見える海の煌めきなどを楽しみながら、きりりと冷えたシュプリを美味しくいただいた。
「コルジュールの物だが、薔薇のシュプリなんだ。とは言え、本格的過ぎない果実味のあるものにしたから、重たくはないだろう?」
「はい!薔薇の香りも、如何にもお花という香りの薔薇ではなく、甘酸っぱく爽やかな香りの薔薇なのですね。………ぷは!………このお庭の気温は、冷たいシュプリを美味しく飲むのにぴったりなのでふ。……ぷは!」
並んで座る椅子も、程良い背もたれの角度のお陰で、少しも窮屈な感じはしない。
ぴったりと隣に座ってくれた終焉の魔物が人間などより遥かに体幹が強いので、背中と体の片側を預けられてしまい、とても姿勢が安定するのだ。
テーブルの物に手を伸ばす時にだけ腹筋の働きが求められるので、ネアは、クリームパフを取るのはシュプリをもう少し飲んでからにしようと決める。
忙しなく動かした視線に気付いたのか、ウィリアムが、言ってくれれば取るからなと小さく笑った。
(ほっこり、じんわりする。………つるつるの滑らかな陶器ではなくて、温かみのあるテラコッタのよう)
じんわりと伝わるウィリアムの体温を感じると何とも言えない頼もしさもあって、本日のコルジュールは、晴天であった。
ネア達のいる場所は、屋敷の影の中なので直接日差しが当たらず、けれども、足元の床石や背後の建物の壁に当たって暖められた空気だけを受け取れる場所だ。
「ここには、よく来るのですか?」
「ああ。コルジュールの祝祭の日に来て、この庭で街の喧噪を聞いているのが好きなんだ。そういう時は、一泊した翌日に、いつもより客の少ない店に昼食を食べに行く」
「ふふ。さては、ちょっぴり席が取りやすくなるのですね」
「ああ。地元の住民は、祝祭の翌日に外に食べに出て来ないからな。とは言え、観光産業で成り立つ土地だからか、祝祭明けの日も店はやっているんだ」
「ふむふむ。それを利用してしまうのですね。………きっと、祝祭の名残のあるコルジュールにしかない、素敵な空気があるのでしょうね。あの海辺のお店でのんびり過ごせたなら、素敵に違いありません……………」
ウィリアムによると、そんな日にも、午後過ぎになると、街角のあちこちでファルゴを踊る者達がちらほらと現れ始めるらしい。
だが、ファルゴの名手と呼ばれる者達は男女共に恋多き者であることが多いので、祝祭の夜に恋人を見付けてしまった場合は、夕方近くまで外に出てこないのだとか。
どこかでギターが掻き鳴らされると、コルジュールの住民達は窓を開けて家の外に出て来てしまい、すかさずファルゴが始まると聞けば、ネアは、そんな祝祭が終わったばかりのコルジュールの一日も見てみたいと思ってしまった。
何しろ、今日のコルジュールは薔薇の祝祭なのである。
どうやら、愛情を司る祝祭が行われるのは、ヴェルクレアだけではないらしい。
「薔薇の系譜の人外者達は、あちこちにいるからな」
「………そうでした!その方々から広がって、こちらでも薔薇の祝祭が行われるようになったのです?」
「諸説あるが、それが一番有力だろうな。北方の観光客が持ち込んだという説だと、祝祭の起源が古過ぎるんだ」
薔薇の系譜の人外者達は、丁寧なもてなしと、潤沢な愛情を望む傾向が強い。
ウィリアム曰く、国ごとの気質などを見極めた上ではあるが、向いた土地を見付けては、巧みに薔薇の祝祭を広めていったのではないかという。
薔薇の系譜の者達にとっても、一年に一度祝祭の魔術を落として貰える薔薇の祝祭は、大事な日なのだ。
系譜の力を強める為にも、祝祭の規模は大きな方がいい。
「となると、コルジュールばかりではなく、離れた国々にも薔薇の祝祭があるのですね」
「ああ。例えばカルウィは、薔薇を贈るというよりは親しい者達をもてなす日という認識が強い。その際に薔薇を使った料理を好むという傾向はあるが、愛する者や親しい者達に薔薇を贈るという祝祭として根付かなかったのは、未だに、政略結婚などの風習が根強い土地というのもあるんだろう」
「確かに、自由恋愛そのものに馴染みがないと、恋人達の祝祭としての盛り上げは難しいですよね。おまけに、親族間でもなかなかに苛烈な蹴落とし合いがあると聞いていますので、あまり、愛情の大切さに焦点を当てるのは好ましくないのかもしれません」
ネアの言葉に頷いたウィリアムが、そんなカルウィと対照的なのが、このコルジュールのような、愛情のやり取りを隠さない文化を持つ土地だと教えてくれる。
恋人達の語らいや、情熱的なファルゴを好むこの国の民達は、心に古くより深く根付いている価値観が近いのでと薔薇の祝祭をすんなり受け入れてしまえた。
惜しむらくは、恋人への薔薇が多い方がいいという、やや危険な思想である。
(そうか。だから今日は、街のあちこちから音楽が聞こえてくるのだわ……………)
途切れ途切れではあるが、屋敷の敷地の外から、祝祭に浮かれる喧噪が伝わってくる。
この様子だと、市街地に近いと賑やか過ぎて大変かもしれないが、このくらいの聞こえ方であれば心地よく耳に馴染んだ。
人々の暮らしが隣り合うような優しい気配は、終焉の魔物にとっては好ましいものかもしれない。
命の温度があるような手触りは、凄惨な仕事の後程あたたかだろう。
色々な話をしながら、ネアは、充分にシュプリでお口を潤すと、お皿の上のクリームパフをぱくりといただき、むふんと頬を緩めた。
「………美味しいです」
「ん?何で悲しそうなんだ?」
「ここまで美味しいと知らずに、大きく齧ってしまいました。もう少しちびちび食べるべきものです」
中のクリームは、甘酸っぱい苺のクリームに薔薇の香りをつけたものだろうか。
それとも、この酸味も含め、薔薇の花びらそのものの甘酸っぱさを生かしてあるのだろうか。
軽やかでさっぱりとしたクリームが食べやすく、ネアは、ゆっくり食べるつもりが夢中でむぐむぐしてしまい、あっという間にお皿を空にして眉を下げる。
くすりと笑う気配に顔を上げると、隣に座ったウィリアムが優しい目でこちらを見ていた。
「ネアが気に入るといいなと思って、持ち帰り用に何個か買ってあるんだ。お土産にするか?」
「……………ふぁ。い、いいのですか?!」
「ああ。もっと食べさせてやりたいんだが、……この後のアルテアも、何か食べ物を用意している可能性もあるからな」
「……………むぅ」
「それに、持ち帰って、シルハーンと二人で食べられるといいだろう?」
「ふふ。ウィリアムさんがそう提案してくれただけでも、ディノはきっと喜んでくれますね」
このあたりは、ウィリアムらしい配慮なのだろう。
ネアは、大事な伴侶と一緒に薔薇のクリームパフを食べる時間を想像してにこにこしてしまうと、机の下の爪先をぱたぱたさせた。
さわりと風が揺れ、ちらちらと木漏れ日が形を変える。
遠くに見える海はきらきらとしていて、庭園の薔薇はうっとりとしてしまうくらいに艶やかで美しい。
庭園には、ややピンク寄りの淡いライラック色の薔薇が多く、花びらの少ない白い薔薇は、階位に紐付かない白なのだろうか。
たっぷりと花びらを詰め込み、重たげに咲く白薔薇も美しい。
そんな風景を眺めながらふと、ウィリアムが小さな息を吐いた。
(ウィリアムさん………?)
その様子がなぜか困っているように思えて、ネアは、疲れてきたのかなと慌ててウィリアムの顔を覗き込む。
「ネア、………今年の薔薇は、これまでの年の薔薇とは少し違うんだ。予め伝えておけば良かったんだが、…………がっかりさせるかもしれない」
しかしウィリアムは、突然そんな事を言うではないか。
直前の重たい空気は、この告白が控えていたからだったらしい。
「まぁ。いつもとは違う薔薇なのですか?」
「………これ迄は、俺が、魔物として贈る薔薇が多かっただろう?………だから今年は、敢えて普通の薔薇にしてみたんだが、そうなると、どうしても他の薔薇よりは見劣りするかもしれないからな」
「普通の薔薇……………。となると、領民の皆さんがそうするように、カタログで取り寄せたり、街の花屋さんで買った薔薇なのです?」
「ああ。………特別な薔薇が増えてきただろうと思うからでもあるし、………実を言うと、俺にそういう薔薇への憧れがあったからなんだ……………」
ここでウィリアムが目を丸くしたのは、話を聞いていたネアが、突然、隣でびょいんと弾んだからだろう。
隣り合って座っているので自分が弾めばウィリアムにも振動が響いてしまうことを忘れ、ネアは、無言で二回も弾んでしまった。
「……………ネア?」
「それはつまり、普通の人が普通であれば貰える、街角の花屋さんで出会えるような素敵な花束なのですよね?………私は、生まれ育った世界でそのような物にとても憧れていたのですが、一度も貰った事がないのですよ………」
綺麗な包み紙に包まれて、艶々のリボンをかけられたお花屋さんの薔薇の花束はやはり、ちょっぴり特別な贈り物である。
それはもしかしたら、恋人からの花束だったのかもしれない。
もしくは、伴侶が贈り物として家族の家に持ち帰る花束や、友人達や職場の同僚からの、何か特別な日の贈り物だったのかもしれない。
けれどもネアは、家族を亡くして一人ぼっちになってからずっと、お悔やみやお見舞いの花束は貰ったことがあっても、愛情や友愛で届けられる花束は、貰った事がなかった。
仕事を辞める時は、大抵が体調を崩しての入院やそれ故の解雇であったし、友人を作って一緒に食事に行けるような経済状況にないのは勿論のこと、そもそも一人上手だったネア自身、少しでも金銭的な余裕があるのなら、交際費よりは家の修繕費やクリスマスのオーナメントなどの、自分の心を落ち着かせる為の用途を優先したかった。
そうなれば必然的に、限られた世界と歩幅で進むその先は、驚く程に孤独になってゆく。
ふと気付いて周囲を見回すと、もう誰もいなかったのはいつからだろう。
きっとそんなネアでも全てを失わない付き合い方はあったのだが、なぜかあの世界では誰にも見付けて貰えなかったネアには、どうしても上手く出来なかった。
そんな不運と自己責任の顛末として、ネアは、憧れの花束を手にせずにここまで来てしまったのだ。
わたわたとそんな事情を説明すれば、こちらを見たウィリアムが、はっとするような優しい目で微笑む。
伸ばされた手が頬に当てられ、ネアは、終焉の魔物の瞳の奥にも僅かばかりの安堵を見た。
(あ、………ヒルドさんの瞳に見たものと、ちょっとだけ似ている)
エーダリアが選んだノアの薔薇も、塩の魔物が欲したものへの漸くの回答であったのだから、もしかすると、今年の薔薇の祝祭はそんな気運なのかもしれない。
「そうか。……………俺とネアは、同じなんだな」
「そして、私もとうとう、普通の花束を手にする日がやって来たのですね……!」
「そういう意味では、自慢の花束だぞ。受け取ってくれるか?」
「はい。勿論です!………どうしましょう。楽しみ過ぎて、息が苦しくなってきました。これは、満腹だからなどではないのですよ?」
大喜びのネアの頭を撫で、立ち上がったウィリアムが、どこからか持ってきたのは持ち手のついた籐籠だ。
そこには、可憐な細い水色のストライプの入った白い包装紙に包まれ、何色もの薔薇が束ねられた花束が入っている。
かけられたリボンは蕩けるような淡い白みのシュプリ色で、どこかウィリアムの瞳の色を思わるもの。
「…………こ、これです!こういうのが、憧れの薔薇の花束なのですよ!………むふぅ。……………このお花屋さんの花束はこんなにもお洒落なので、きっと、ご近所の方々にも人気に違いありません!」
花束の中には、柔らかなラベンダー色の薔薇や、縁の部分がピンク色になった白い薔薇、花びらがぎゅっと詰まったカップ咲きの白薔薇が入っている。
うっとりとしてしまうロマンティックな花束だが、これ迄に手にしてきたような、特別で不思議な薔薇ではない。
きっと、魔物達のいつもの薔薇がザハのシュプリなら、こちらは、イブメリアの屋台で飲む美味しいホットワインなのだ。
どちらもネアの欲しかったもので、これでやっと二つ揃う。
「今年も、ネアと薔薇の祝祭が過ごせて良かった」
微笑む気配に視線を持ち上げると、腕の中に閉じ込めるようにされて口付けが落とされる。
今日はより深く結べる守護の為に、こうして取りこぼさずに与えてくれる愛情は、ネアの薔薇の祝祭が少しも寂しくない満ち足りたものであるという証明でもあった。
ネアは、花束が潰れないようにさっとどかしつつ、祝福を落としてくれたウィリアムを見上げて微笑む。
僅かに逆光になって翳った白金色の瞳には、この庭や貰った薔薇の花束のような、柔らかく解けるぬくもりがある。
「ウィリアムさん、有難うございます。毎年の薔薇よりも繊細な筈ですので、大事にお部屋に飾りますね」
「ああ。今年はどうしようかと考えていた時に、伴侶に花束を買って帰る人間を見たんだ。魔物としても知人に花束を贈った事はあるが、相手が人間だと、どうしてもアクスなどに手配を頼むしかないからな。……………一度、花屋で買った花束を、誰かに持ち帰りたかった」
「ふむ。そしてそこに、どなたかがお花屋さんで買ってきてくれる、普通の花束が欲しくてならない私がいたのですね…………!」
「最初はいい案に思えたんだが、今朝から、ネアががっかりするかなと心配だったんだ。せっかくの薔薇の祝祭だからな。喜んで貰えて良かった」
籠も可愛いのでと、ネアは花束をいそいそと籠にしまい、その後は絵のように美しい池の周りを散歩して花影の魚を見付けたり、街から聞こえてくる音楽に耳を澄ましてみたりして過ごした。
微かな祝祭の喧騒の載った風に髪を揺らし、ウィリアムがゆったりと微笑みを深める。
はたはたと揺れる白い軍服を見ていたら、庭木を訪れた小鳥達の囀りが聞こえてきた。
「…………そろそろか。あっという間だな」
「また、ファルゴを踊ったり、この街を観光してみたいです」
「その時は、俺にも声をかけてくれると嬉しいな」
「ふふ、コルジュールの祝祭の翌日の過ごし方を、ウィリアムさんに教えて貰いたいです」
そう言えば小さく笑ったウィリアムに、ネアは、今夜はもう、巻き物のことも仕事の事も忘れて、ゆっくり体を休められるようにと祈っておいた。
そんなウィリアムの部屋にも、たくさんの見本の薔薇を生けた花瓶が飾られるのだろうか。
もしかすると、擬態を解く場所で花を飾るのは難しいのかもしれないが、今迄そのような話は聞いてこなかったので、そちらの薔薇も楽しめるといいなと思う。
「……………ネアが浮気した」
しかし、リーエンベルクに戻ったネアを待っていたのは、予想外に荒ぶるディノであった。
ネアがウィリアムに貰った薔薇を紹介すると、悲し気にぺそりと項垂れてしまい、そこからずっとめそめそしている。
伴侶の願い事を叶えられてしまったのが寂しかったのかもしれないが、三つ編みを持たせた上に爪先も踏ませようとするのはどうかやめて欲しい。
「ディノ、落ち着いて下さいね。ウィリアムさんには、薔薇のクリームパフのお土産を貰ったのですよ?」
「ウィリアムなんて……………」
「このクリームはきっと、ディノの好きな味に違いありません。一緒に食べるのが楽しみですね」
「……………ずるい」
そんなやり取りを見ているのは、呆れたような目をしたアルテアだ。
仕事は無事に終わったのかが気になるところだが、そちらを見るとなぜか顔を顰めるではないか。
「もしや、アルテアさんもクリームパフを狙って……………」
「狙うか。何でだよ」
「ではなぜ、この箱を見ているのですか?」
「薔薇の方だ。……………ウィリアムはもう仕方ないにせよ、他の魔物からは同じような物を受け取らないようにしろよ」
「むぅ。私とて、見ず知らずの方から薔薇の花束などは貰わないのですよ?」
「どうだかな」
「普通の花束なんて……………」
「ふふ。今度、一緒に花屋さんに薔薇を買いに行ってみましょうか。私はまだウィームの花屋さんに行ったことはないのですが、きっと、薔薇以外にも色々なお花が置いてあるに違いありません」
「うん……………」
まだしゅんとしてはいたが、そう言われた事で、漸くディノは落ち着いたようだ。
くんくんしてみると、貰った花束の薔薇の香りは、本当にこれは薔薇なのかなというこれまでの特別な薔薇とは違っていて、瑞々しい花の香りだけでなく、切り花らしい青い匂いがする。
微笑んでそんな薔薇を覗き込むと、ネアは、伴侶の魔物がこれ以上荒ぶらないように、念願の薔薇を保管庫にしまいにいった。
繁忙期の為、もしかすると明日3/12の更新がSSに変わるかもしれません。
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