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214. 薔薇の時間が増えました(本編)



「ふぁ!」


扉を開いた先にあった見事な庭園に、ネアは思わず声を上げてしまった。

小さく微笑む気配に振り返れば、満足気に瑠璃色の瞳を細めたヒルドが立っている。



「ザルツの問題に対処するにあたり、今日の内に時間を取るのは難しいかと思っておりましたが、アルテア様のお陰で、祝祭当日にご案内出来て良かったです」

「ふふ。ああ見えてアルテアさんも、実はエーダリア様を気にかけているのですよ。それなのにエーダリア様は、お前は高位のものばかり拾ってくると言うのです……………」

「そのような部分はあるのでしょう。ネア様がいてこその縁ではありますが、高位の魔物がそのように手を差し伸べる事は、本来稀ですからね」



ウィーム領主とて会があるではないかとふんすと胸を張ったネアは、ヒルドも、そのあたりのことを汲んでいると知ってほっとした。


ネア達が一緒におらず、ノアも不在でアルテアとなら連携が取れるようなときに、選択肢の一つとしてその手を借りる事も考えられるようであって欲しかったのだ。


エーダリアやヒルドは、ネアの大事な家族なのだから、もしもの不在で二の足を踏んで欲しくない。

以前であれば難しくとも、今はもう大丈夫な気がするから。



さわさわと、木々の枝葉が葉擦れの音を立てる。

頬に触れる風は心地良く、ぷんと草木の匂いがした。



(……………あ、この角度で見ると、水色の光が透過されるのだわ)



しゃりりと風に揺れるのは、見事な薔薇の茂みだ。



扉の向こうに広がっていたのは小さな庭で、大きなミモザの木とオリーブの木があり、可愛らしい池まであるばかりか、その周りには、花々の咲き乱れる花壇がある。


リーエンベルクの庭園や、これまでにリーエンベルク内で見かけた不思議な空間とは違う、こぢんまりした小さな庭だが、そのせいか、どこか親密な空間にも思える不思議な場所だ。



菫や紫陽花などの様々な花が咲いているのだが、やはり、朝食の席で貰ったばかりの薔薇を咲かせている見事な薔薇の花壇は目を引いた。


あの場では皆と同じような二輪の薔薇を貰い、花束にしたものは後日に時間を取ってと聞いていたのだが、ザルツの騒動が無事に片付いたのでと、ネアがそのまま空けてあった時間を使い、こうしてヒルドと過ごす事が出来た。




「あちらに見えるのが、貰った薔薇の花壇なのですね。………なんて綺麗なのでしょう!しかも、このお部屋は……………指輪の中の避暑地にある農場のようです」

「恐らく、同じ仕組みなのでしょう。ここは、ウィームは雪の季節が長い代わりに植物の系譜の祝福の豊かな春の部屋があるのだと、私がこちらに着任となった際にエーダリア様が与えてくれた部屋です。休みの日には、よくここで読書をしておりますよ」

「ふふ。エーダリア様は、大好きなヒルドさんの為に、このお部屋で少しでものんびりして欲しいと思ったのでしょうね」



意地悪な人間がそう言ってしまうと、ヒルドの羽が僅かに開くのが見えた。

どきりとするような優しい目をしたヒルドに、ネアは幸せな温かさを噛み締める。



自分が大事にして貰うのも勿論大好きだが、家族のみんなが仲良しなのも堪らなく心地がいい。

大事に大事に手を繋いで、皆で贈り合う薔薇は、何て美しいのだろう。



(……………一枚の絵のようだわ)



ネアの寝室くらいの広さの部屋の中には、完璧な配置で絵のような庭園が広がっていた。


池の水の煌めきに、花を咲かせた大きな木の木陰。

花々を育む優しく澄んだ光は午前のもので、その中にヒルドが立つだけで、どこにも売っていない特別なフィンベリアのように見える。



「とは言え、性急でしたね。もう少し、ゆっくりと時間を取れれば良かったのですが……………」

「むむ。ではまた今度、リーエンベルクの素敵なお部屋や、このお庭を案内して欲しいです!」

「おや、そのような事で宜しければ、幾らでも」



急遽時間を取れたとは言え、例年より削られているのは確かなのだ。

申し訳なさそうに視線を下げたヒルドに、ネアは、これ幸いと次の約束を取り付けてしまった。


ネアが一番綺麗だと思う妖精と過ごす、何にも代え難い時間のお裾分け希望なのだから、強欲になってもいい筈だ。



「ネア様、こちらへどうぞ」

「はい。………ふぁ、先程貰った薔薇をお部屋で見るのも綺麗でしたが、こうして木漏れ日の中で咲いていると、複雑な光がきらきらと揺れて、宝石の資質を持つ薔薇だというのがとても良く分かりますね」

「ええ。ネア様に似合う薔薇であれば、やはりウィームの冬の光を映したものかもしれませんが、このような場所で見るとまた印象が変わるので、是非にこの庭をお見せしたいと思いました」

「…………木漏れ日を透かすと、どうして薔薇色の花びらにうっとりとするような水色の影が出来るのでしょう。花びらの質感は生のお花のような不透明なものなのに、透かし落ちる光の影が、宝石そのものなのです」



静かな興奮を隠してそう言えば、こちらを見ていたヒルドがふわりと微笑みを深める。


ばさりと広げた妖精の羽に落ちる木漏れ日を見た途端、ネアは、ああ、この薔薇に落ちる色影は、ヒルドの妖精の羽を透かした光の色に似ているのだと気付いた。



「気に入っていただけたようで、ほっとしました。いつものように特別な風景を宿す部屋を用意するべきでしたが、それでもとあなたをここに招待したのは、私の我が儘ですから」

「まぁ。私は、絶対に今年の薔薇の祝祭はここが良かったので、そんな願いが叶ってしまったのかもしれません!葉っぱにも、この綺麗な色の影が落ちるのですよ……………」



すっかり薔薇の祝祭の魔術から育まれた宝石薔薇に夢中になったネアは、エスコートしてくれたヒルドの腕に手をかけたまま、小さく足踏みしてしまった。


本来なら弾んでみせるのだが、隣に立つ美しい妖精の手前、淑女としての慎ましやかさを優先させたのだ。



さくりと踏む柔らかな下草には、春の景色らしい可愛い水色の花が咲いている。

四角い石を敷いて通り道が作ってあるので踏むことはないが、敷き詰められた庭石の隙間にも花を咲かせているので、ネアは、その可憐な花たちを踏まないよう、足元にも気を配る。


すはっと息を吸い込めば、胸の中にまで木漏れ日が落ちるようだ。



うきうきと庭を見て回るネアを案内しながら、ヒルドは、育てている他の花の説明をしてくれたり、ここで過ごす休日について教えてくれたりする。


やがて、庭を巡り終えた二人が腰を下ろしたのは、ヒルドが読書に使うという、結晶化した木で出来たテーブルセットだ。

ミモザの木の下にあり、薔薇の茂みが正面に見える好立地である。



テーブルに用意されていたのは、こちらの世界では甘酸っぱい果実のような味わいになる、薔薇の花びらを使った薔薇と木苺のジュースだというではないか。


ここではもう、抑えきれずにひと弾みしてしまい、ネアは、からんと氷の鳴ったグラスを手にして甘酸っぱくて美味しいジュースを堪能させて貰った。



「昼食の時間にここまで近くなければ、菓子類も用意出来たのですが、そちらはまた今度にしましょう。南国の果実と薔薇を使ったゼリーの店をアーヘムに教えて貰いましたからね」

「ゼリー様……………」



そんな素敵な提案を聞けば、ネアとしてはもう今でも吝かではないという感じになってしまうのだが、後日に美味しい薔薇のゼリーをいただくという楽しみを取っておくのもいいだろう。

想像の中のゼリーを大事に祀り上げておき、ネアはこくりと頷いた。



「むぐ」


ふっと微笑んだヒルドが、手を伸ばして指先で頬を撫でてくれる。


満足気な微笑みと淡い羽影の煌めきに、馨しい薔薇と清廉な庭園の緑の香り。

今日が薔薇の祝祭でなければ、この木陰で読書などをしながらお昼寝をしたい気持ちの良さだ。


そんな満ち足りた思いで、銀狐の配送遅延便の話を聞き、ネアは、ヒルドが用意したというアーヘムの作った銀狐クッションの寝心地に思いを馳せる。


ジュースをお代わりしつつまた少しだけお喋りをすると、ゆっくり立ち上がったヒルドに手を引かれ、複雑で豊かな影を落とす、薔薇の祝祭の魔術が育んだ薔薇色の花の前に立つ。




「では、私からの薔薇を」

「はい。……………綺麗ですね。……………ただ、ひたすらに綺麗です」



渡された花束を見たネアが、ふうっと感嘆の溜め息を吐きそう言えば、ヒルドは満足気に微笑んだ。

薔薇の祝祭に育まれた美しい宝石質の薔薇は、薄いセージグリーンの紙に包まれ、ヒルドの羽を思わせる色のリボンをかけられていた。



「一昨日までは本日に時間を取っていただく予定でしたので、花束の準備を済ませておいて幸いでした。ネイに状態保存の魔術をかけて貰い、何とか後日のお渡しまでこの薔薇の瑞々しさを保つ予定でしたが……………ああ、やはり薔薇の祝祭に渡すのが一番宜しいですね」

「……………はい。花びらの表面にしゅわんと煌めく影の色は、きっと祝祭に属するものだからなのですよね?」

「ええ。そして、私があなたに贈る薔薇だからこそ」



ふっと視界が翳り、木漏れ日の中で花びらが触れるような口付けが落ちる。

ネアは小さく目を瞬き、深い深い瑠璃色の瞳の向こう側に、深く美しい森を見たような気がした。



(ああ、……………そうか)


ここはヒルドの庭で、ヒルドを愛する者からの贈り物だ。

今日は愛情を司る祝祭であり、ネアの腕の中には、その祝祭の咲かせた薔薇がある。

だからこそ、王国と家族と民の全てを失った孤独なシーの中に、きっと今もこの美しい妖精王を愛し続けている深い森が見えたのだろう。


もう二度と戻れなくても、確かにその豊かな森があったのだと。



「ヒルドさんのずっと向こうに、豊かで美しい森が見えたような気がしました。この薔薇が、薔薇の祝祭だからと見せてくれたのかもしれませんね」


ネアがそう言えばヒルドの羽が小さく揺れる。

さあっと煌めきが走り、森の中に差し込んだ一筋の陽光のようであった。


「……………であれば、私が漸く愛する者を見付けたからでしょう。私達の一族は、育む者でした。この小さな庭で育み咲かせた薔薇が、愛情を司る祝祭のものであったのは、それを贈る者を得られたからに他なりません」

「ふふ。そんな薔薇を花束で貰えてしまうのは、家族の特権ですね。また一つ、宝物の薔薇が増えてしまいましたが、…………こっそり告白すると、ヒルドさんから貰った薔薇の中では、この薔薇が一番好きなのです」

「おや。ではまた来年も、ネア様に薔薇を贈れるよう、この庭の手入れを怠らぬようにしませんと」



そう微笑んだヒルドに、ネアは、きっとこの庭で、美しいシーは様々な植物を育んでゆくのだろうと胸の中をほこほこにした。



残念ながらヒルドとの時間はあっという間に終わってしまったが、ネアはとても満たされて帰ってきたので、我が心には豊かなる森があるのだという凛々しさに背筋をぴしゃんと伸ばし、待っていたディノの羽織ものを受け入れる。



「……………祝祭の魔術が豊かなものだね。良い薔薇を貰ったね」

「まぁ。ディノが荒ぶらずに褒めてくれるということは、さては、ヒルドさんの薔薇は凄いのですね?」

「祝祭の固有種を、魔術の繋ぎを気にせずに受け取れる事はあまりないからね。薔薇の祝祭は、愛情を守護や祝福に置き換えられる最上位の祝祭であるけれど、祝祭の固有種は薔薇の系譜のものが殆どなんだ。何の加工もせずに君が手にするのは難しかったから、これはとても良い守護になるよ」


良かったねと三つ編みを投げ込んできた魔物に、ネアは、その大事な祝祭の薔薇を抱えているので三つ編みは待たれよと、爪先をぎゅっと踏んでおいた。



本日の予定では、この後にウィリアムの薔薇を貰い、次にアルテア、最後にディノとの時間となっている。

戻ってくるなり会食堂にアルテアがいるのはどうかと思うが、どうやら昼食に参加するのではなく、リーエンベルクに届いたとある薔薇の花束に懸念を示して、顔を出してくれたらしい。



「ふむ。アルテアさんは、先程から、もうこちらに滞在されていたのですね」

「いいか、これはお前が個人で受け取るなよ」

「……………まぁ。綺麗な白薔薇です!しゅんとした剣高咲きの薔薇ですので、ウィームではあまり見かけない薔薇でしょうか……………」

「おや、私が外している内に、厄介な花束が届いたようですね」


静かな声でそう言ったヒルドに、アルテアの横に立っていたノアが頷く。

今は羽織ものになってしまっているディノも、その輪に加わっていたのだろう。


「オフェトリウスなんだよね。ほら、あの蒸留器の魔物がヴェルリアに屋敷があったみたいで、知り合いだったんだってさ。どこで話を聞きつけてきたのか、彼とやり合ったばかりだったから、もしその事が事件に繋がる切っ掛けを与えていたのなら申し訳なかったって。……………で、そんな謝罪の花束らしいよ」



会食堂の机の上に置かれた化粧箱の中には、真っ白なリボンで束ねられた白薔薇が、どさりと収められていた。

白薔薇の魔物ぐらいしか贈れないような驚きの白さだが、ご婦人方に人気の、貴族的な美貌の騎士団長からと言われると、ああ、こんな感じかなと納得出来てしまう。



「オフェトリウスなんて……………」

「届けられた理由を聞けばお前宛てなのだが、宛先としてはリーエンベルク宛てになっているので、受け取らざるを得なかったのだ。…………届けてくれたのも、ドリーだしな」

「むむぅ……………」

「やれやれ、そのような経路で届けられてしまえば、受け取らざるを得ませんね。ドリー様は何と?」

「少し困っているという様子だったな。それと、彼が王都を去るのは仕方ないと考えているようだが、せめてもう五年は待って欲しいと話していた」

「当然だろうが。引継ぎに最低でも三年はかかる。儀式周りの警備は、経験させなければ噛み砕けないからな。後任の副団長は、同じ剣の魔物とは言え、階位が違う」

「なぬ。副官さんも、剣の魔物さんなのです…………?」



ネアは思わぬ情報に驚いてしまったが、エーダリアも瞠目しているので、こちらも初耳だったらしい。


聞けば、騎士団の副団長も剣の魔物だが、最古参のオフェトリウスに比べるとまだ若い魔物なのだそうだ。とは言え、若いなりに器用で頭のいい青年らしいので、ヴェルリアの騎士団を預けるという意味で不足はないらしい。



「彼は、子爵の魔物だよ。陽光の系譜も持っているから、あの土地には見合った者だと思うよ。オフェトリウスによく懐いているから、彼がウィームに移住するとなれば、こちらに不利益な動きも取らないだろう」

「……………そうなんだよねぇ。オフェトリウスがそこまで計算してるのがさ、……………こう、腹黒い感じなんだよね。とは言え、あの剣はウィームに置いておきたいしなぁ……………」

「いいか。最低でも五年だ。階位が足りていようと、経験不足じゃ話にならん」



冷ややかにそう断じたアルテアに、ノアもうんうんと頷いている。


ヒルドもゆっくりと頷いたので、恐らくオフェトリウスの移住計画はもう少し先延ばしになるのだろう。


「となると、この薔薇は、リーエンベルク宛のものとしてエーダリア様にお預けしてしまっていいのでしょうか?もし、こちらで引き取った方が良ければ、ディノに頼むので言って下さいね」

「ああ。ノアベルトとも話していたのだが、剣の魔物としての贈り物だから、祝福は逃さないよう、会食堂に飾ることにしたのだが、それでいいだろうか。この時期であれば他の薔薇も飾ってあるので、……………その、気にならないだろう」

「オフェトリウスなんて……………」

「あらあら、すっかりしょんぼりですが、恐らくは移住に向けた賄賂ですので、エーダリア様にお預けしてしまいましょうね」

「うん……………」



ここでネアは、ヒルドから貰った薔薇を部屋に置きに行く前に、籠いっぱいに届いたドリーの薔薇を見せて貰った。


エーダリアとヴェンツェルが連携を深めてからは、こうしてリーエンベルクの皆で分け合えるようにどさりとくれるので、籠そのものは騎士棟に運び込み、グラストが、こちらの棟に飾る分を取り分けて運んでくれたらしい。



「篝火の祝福のある薔薇だね。災厄除けにもなるので、騎士達にはいいだろう。君も貰っておいで」

「はい。では、この薔薇とこの薔薇をいただきますね。…………今はお昼ですが、静かな夜にじっと見ていたい篝火の炎のような、赤混じりの橙の薔薇です」



それは、不思議な薔薇であった。

ネアとしては、似合わないこともあってあまり得意ではない色彩なのだが、この薔薇を見ていると不思議なくらいに心が穏やかになる。


ごうごうと燃え盛る炎ではなく、静かな夜に旅人が囲む火のような色合いが、如何にもドリーらしかった。



貰った薔薇を抱えて部屋に向かえば、リーエンベルクのそこかしこに様々な薔薇が飾られている。

何とも贅沢な気持ちでそんな花瓶ごとの小さな美術館を鑑賞しつつ、ディノが魔物らしい無尽蔵さで部屋に設けた薔薇を飾る特別な併設空間に入った。



これまでの薔薇の祝祭で貰った薔薇が飾られている部屋は、既に美しい薔薇を蓄えて圧巻であったが、毎年貰える薔薇を飾るに相応しい広さで、今はまだ空いている棚も多い。


部屋がいっぱいになり思い出が重なってゆけば、外の部屋に戻し、花として朽ちるまでを楽しむようにするかもしれないが、今のところはまだ、一つだって手放したくない大事な薔薇ばかりだ。


とは言え、ドリーからの薔薇の祝福の効果は一年程だと聞いたので、こちらの薔薇については、また来年の薔薇との入れ替えでもいいのかもしれない。

そう考えてしまう冷酷な人間は、ゆっくりと花びらのように重なる心の蓄えの贅沢さに苦笑する。



ネアにとって、初めての格好良く素敵な竜だったドリーは、以前であればもう少し近しい存在だった。


勿論、今でもドリーの事は大好きだが、この世界でもネアが思い浮かべられる人達の顔が増えてきた今、ドリーはたいへんお世話になった大好きな知人だが、ヴェンツェルの竜という認識に落ち着いている。


そんな贅沢な感慨にそっと爪先を浸し、ネアは、ディノとお喋りをしながら薔薇まみれの回廊を歩いてこちらも薔薇だらけの会食堂に戻ると、王都に出掛けるエーダリア達を見送った。


今回は、ノアも時間を調整して同行するそうで、ネアは、人型で出掛けた義兄が、狐になってお供するのか、騎士的な感じでお供するのかで悩んでしまう。




「そして、いよいよ昼食ですね。アルテアさんは、お部屋で仕事をしながらいただくようなので、ディノと私と、ウィリアムさんでいただきます!」


そんなネアの言葉にこちらを見たのは、リーエンベルクを訪れたばかりの終焉の魔物である。

帽子や手袋などは外しているが、真っ白な軍服姿なので、戦場からそのまま来たのだろう。


「……………ウィリアム、大丈夫かい?」

「シルハーン?……………ええ。先程までいた戦場が地下だったせいか、地上の光にまだ慣れないようです」

「今回のお仕事は、地下だったのですか?」



ディノが案じたからにはと、ネアは、今日は向かいに座った終焉の魔物の瞳を覗き込んでしまったが、にっこりと微笑んで大丈夫だと言ってくれたウィリアムによると、今回の戦場は惨いものではなく、寧ろ、押し寄せてくるおかしなものの山に頭を抱えたくなるような意味での戦場だったのだそうだ。



「……………地下墓地を使った魔術施設が、最近になって発掘されてな。古い時代の終焉の領域だからと、鳥籠で覆って魔術領域の回収を行うことにしたんだ」

「まぁ。死者さんの回収ではなく、そのようなお仕事もされるのですね……………」

「今回のような場合は、主にローンや…………この前にネアも会った、死の精霊王の作業だな。ナインや、戦事に長けた者達は参加しない。……………地下墓地を管理する魔術の、未更新の報告を宿した巻き物が、数百年かけて七万件近く放置されていたせいで、とんでもないことになっていた」



襲い来る巻物が七万の軍勢となったと知り、ネアは、とても遠い目になった。



その施設は、使われていた頃にとても丁寧に管理されていたらしく、その徹底した魔術管理の為に作られた、謂わば時報めいた仕掛けの動力を落としてゆくのを忘れた誰かが、そのまま扉を閉ざしてしまったらしい。



「魔術の循環を止めれば、施設そのものも、とうに風化していたんだろうけれどな………」



人々が立ち去っても動き続けた魔術は、今日まで生きていたというから驚きだ。

しかしその結果、荒ぶる巻き物を詰め込まれたまま何百年も放置された施設が、人々から忘れ去られながらも、良い状態のまま残される羽目になった。


国が落ちた訳ではなく、王都が場所を変えたことで放棄された施設だと聞けば、最終点検をする時間は幾らでもあっただろうに、誰がいい加減な仕事をしたのだと、ネアとて半眼になってしまう。



結果として、死者の王は、系譜の仲間たちと共に、物陰に隠れるとなかなか見付けられない巻き物達と、丸二日間をかけて地下墓地で戦う羽目になった。




「お、美味しい物をたくさん食べて下さいね!」

「ああ。そうさせて貰うよ。あの混乱の中で全ての巻き物を滅ぼす迄は、貰ったランチョンマットを出す訳にもいかなかったからな……………。蒸留器の関係で一度こちらに来ていなければ、もっと悲惨な目に遭うところだった……………」


その現場に向かう前にウィームに立ち寄っていた事で、ウィリアムは、グレアムとしっかり食事をしてから帰る事が出来た。

その日は本来、食事を抜いてテントで寝ているだけの予定だったそうなので、しっかりと食事を摂り、尚且つ気の置けない友人との食事なので適度なところで帰宅し、ゆっくり眠る事も出来ていたからこそ乗り切れた仕事だという。


せめて前日にまともな時間を過ごす事が出来、尚且つ、地下から戻ってすぐに薔薇の祝祭が控えていたことで、温かな食事にありつけたし、今夜はリーエンベルクに泊まれるからなと、ウィリアムはほっとした様子である。


終焉の魔物は一人で食事をすることも苦にならない大人の魔物だが、とは言え、他者から食事の提供がある場所で体を休められることは大きい。


こちらに来る前に入浴し、一刻程、リーエンベルクの部屋で仮眠してきたそうなのだが、ネアはじっくりとその表情を観察し、疲れているのに無理をして祝祭に参加していないかを確かめてしまった。



「むむぅ……………」

「ネア。ずっと今日を楽しみにしてきたんだ。俺は、大丈夫だからな?」

「はい。本当にへろへろの時のウィリアムさんは瞳に光が入らないので、このくらいであれば大丈夫そうですが、ちょっと疲れたなと感じたら、すかさずゆっくり休んで下さいね」

「ああ。そうするよ」



かくして、薔薇の祝祭の昼食会が始まった。



薔薇鱒の花盛りには、ディノの大好きなトマトの酢漬けや、赤蕪を花びらのように切って酢漬けにしたものが添えられている。


続けて並んだ、薔薇の花を思わせる絞り出しのあるポテトグラタンには、ぎゅわっと旨味の詰まった、薔薇の木の枝で燻製にされたベーコンが入っていて、素朴な美味しさで胸をいっぱいにしてくれた。



その次にお皿に現れたのは、二種のおかずタルトだ。


ぷりぷりのハイフク海老を薔薇に見立てたサラダをこんもりと盛り付け、その上に、乾燥させた苺と薔薇の花びらを砕きかけてあるタルトは、エビの下に隠されているしゃくしゃくとした薔薇の花びらのドレッシング和えが美味しい。


もう一種のタルトは、紅茶のパンをかりりと焼いたものを丸く切り抜いてタルト生地に隠し、その上に濃厚なファグフの層を設け、最上階に一枚の深紅の薔薇の花びらがそっと飾られている。

お口に入れると、ふわっと香るお酒の香りに贅沢な気持ちになり、ネアは、なぜに二口で終わる大きさなのだろうかとへにゃりと眉を下げる。


エンボス模様で縁取られた真っ白なお皿の上に、薔薇の祝祭を思わせるタルトが二個並ぶ様子は、姿絵をしたためて部屋に飾っておきたいくらいの麗しさであった。



「………ぎゅ。なくなりました。つ、次です!」



続いて現れるのは、籠いっぱいの焼き立てパンと、薔薇の祝祭の定番料理であるハム盛りのお皿である。

ハムのお皿には、薔薇の祝祭の定番、塩焼きにされた薔薇の精が盛られていた。


緑のブルーベリーのような見た目の薔薇の精は、大事に育てられた薔薇の枝に派生する食材だ。

質の良い祝福を得られるこの日の定番料理である一方で、食べ残して廃棄すると苛烈な祟りを齎す、なかなかに注意の必要な食材でもあった。



「アルテアさんは、お持ちの商会の担当者失踪により、溜め込まれた決算期の書類があるので、今年はお部屋でいただくそうですが、うっかり薔薇の精を残してしまわないでしょうか……………」

「うーん。アルテアなら、大丈夫なんじゃないか。彼はあれで、食事を残すのを好まないからな」

「……………ほわ、寝るときはパジャマで、食べ残し厳禁の魔物さん……………」

「アルテアが……………」



お皿の上にたっぷり盛られたハムは、ネアを唸らせるような素晴らしい品々ばかり。


あつあつの焼きハムはじゅわっと滴る脂まで美味しく、ハムの野菜巻きには、今年も、ディノが気に入っているしゃきしゃき食感の雪草が包まれている。

とろりと溶かしたチーズをかけてくつりと焼いたハムに、透けるような薄さに切った生ハムまで。



「むぐ!ボロニアソーセージもあります!!」

「もう一枚食べるかい?」

「むむ。…………野菜巻きと交換します?」

「ご主人様!」



野菜巻きは三つあるので、ネアは、その内の一つを伴侶に譲ってしまい、代わりにお気に入りのボロニアソーセージを手に入れた。


こちらの世界でもボロニアソーセージ名なこの薄切りの美味しいハム風のご馳走は、モルタデッラという呼称が、ネアの暮らしていた国では一般的なものであった。


しかしながら、ボロニア伯爵という人物がこのソーセージの買い占めによって起こった戦乱で亡くなった事から、ボロニアソーセージと呼ばれ始めたらしい。


ネアの生まれた世界でも、ボロニアソーセージという呼称はあったので、きっとこちらのものも地名に違いないと考えていたのだが、そう甘くはなかったようだ。


とは言え、この大好物を見付けた時には、歓喜のあまりに祝杯を上げたくらいである。



「あぐ!……………むふぅ」

「可愛い。弾んでる……………」

「美味しいでふ。ハムをそこまでという方には心を挫くお皿ですが、私にとっては、特別に素敵な盛り合わせなのですよ。……………むぐ。薔薇の精も、ほくほくしていて美味しいですね」

「うん。美味しいね」

「なかなか、一人で薔薇の精を食べる事はないからな。リーエンベルクだからこその贅沢だ」



焼き立てのパンにバターを塗っているウィリアムをちらりと見ると、その視線に気付いた終焉の魔物が、悪戯っぽく窘めるように目をきらりとさせてこちらを見る。


その微笑みには疲弊の影はなく、ネアは、もっと沢山食べるが良いと頷いた。



こちらも大丈夫かなと、薔薇の精をフォークに刺してタルタルソースにつけている伴侶を見ると、じっと見つめられた伴侶は目元を染めておろおろしている。

ご主人様が何か欲しいのかなと考えているようだったので、大好きな伴侶を見ていましたと告げたところ、へなへなになってしまうのだから、無事にいつも通りなのだろう。



ネアは、美味しい食事でお腹を満たすと、お留守番の控えた魔物の為に、用意しておいたとっておきのメッセージカードを取り出した。


伴侶から、突然、薔薇の絵のカードを贈られたディノは儚くなってしまったので、この隙にウィリアムの薔薇を受け取ってこようと思う。














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