212. 夜明けは薔薇が降ります(本編)
窓の向こうの、秘密めいた雪の夜明けを見ている。
はらはらと、はらはらと。
薔薇の花びらのように降り続ける雪の奥には、どこまでも続く禁足地の森の奥に淡い光がくるくると煌めいていた。
薔薇の祝祭の夜明けなのだ。
あの光の輪は妖精達のダンスだろうかと考え、微笑みを深めていると、不意に視界が暗転した。
「むぐ」
「妖精達の求愛のダンスだね。このような、人間の土地の近くで行われるのは珍しい。…………君は私の伴侶なのだから、あまり見ていてはいけないよ」
「…………ふが!………あのような光は、見ていると危ないものなのですか?」
毛布の間には柔らかな肌の温度で温められた空気の層があって、ネアは、夜明けにもう少し寝ていてもいいのだけどと考えながらそのぬくぬくとした幸福感を噛み締めているのが大好きだ。
とはいえ、背後から伴侶の手で目隠しをされると、隣にいるのが誰だかわかっていてもどきりとする。
いきなり触れられたことも勿論だが、伴侶だと判明してからも、羽織りものになるような魔物の腕の中にいるとそわそわするので、そろそろ解放して欲しい。
「求愛のダンスだ。森の系譜の妖精達は、伴侶のいる獲物を奪うのも好きだからね」
「ヒルドさんも森の系譜なのですよ………」
「彼は、分岐した系譜が違うんだ。森に育まれた、数多くいる一般的な森の妖精達とは違い、原初の森と生命を司る、より多くの資質を備える森の妖精だ。植物の系譜ではなく、宝石や湖に加え海の資質すら持ち、闇の妖精達と同じ階位にいた妖精であったのもその為だね」
「ふむふむ。となると、厄介なのは植物の系譜の森の妖精さんなのですね………」
「厳密に区分すると、より細かな名前がある筈だ。けれども、それが森を構成する要素である限り、総じて森の妖精や精霊と呼ばれる事が多い」
ここでネアは、この世界に来て初めて、とてもご近所な禁足地の森に暮らす森の妖精達と呼んでいた者達が、お馴染みの榛の妖精や松の木の妖精など、個々の名前を持つ妖精達と同一である事を知った。
とても今更の教えなので、とても分かり難いのだと、ディノの腕をばしばし叩く。
「可愛い。…………まだ時間があるかな」
「ぐるる。もっと早く、その情報を教えておいて欲しかったです!私は今、とても恐ろしいと噂に聞く森の妖精なるもの達が、お部屋から見えるこんな近くに現れて、何やら危ないダンスを始めてしまったのかとひやりとしたのですよ」
「ごめんね、言葉が足りなかったようだ。………ただ、何の妖精なのか分からないまま、森の妖精と呼ばれる者達もいるよ。弱点を探されないよう、己の名前を明かさない者達も少なくはないからね」
「………海の妖精さんも、もしやそうなのです?」
「うん。海や火、風や水などはそのようなものだね。山や砂漠の妖精もだ。湖の妖精や泉の妖精は、そのままの名称が資質となる」
「……ディノ?な、なぜ、そのお話をしながらぴったりなのです…………?」
「どうしてかな。まだ夜明け前だからかもしれないよ」
「……………にゃむ」
ネアは、ここでぞくりとするような美しい微笑みを浮かべた魔物に捕まってしまい、その甘やかさにくしゃりとなった。
くらくらするような暗く艶やかな魔物の眼差しは、ネアがあまり見る事の出来ない、ディノの魔物らしい優雅なけだもののような怜悧さで嫌いではないのだが、男性らしい色香やちょっと意地悪な微笑みの艶やかさに、ネアはいつも、受け止めきるには脆弱なまま翻弄されて、ぺしゃんとなる。
そうして次に目を開いた時にはもう、窓の外は明るくなっていた。
「……………は!………ね、眠ってしまいました。にゃむ……………」
「おはよう、ネア。もうそろそろだけれど、まだ起きる時間ではないから、焦らなくても大丈夫だよ」
「……………お、起きまふ」
すとんと甘く馨しい闇の中に落ち込んでしまい、あろうことかすやすやぐっすり眠ってから、ネアは慌てて目を覚ました。
幸い、いつもよりも早くに起きる薔薇の祝祭の朝は、まだ予定していた時刻よりほんの数分とはいえ早い。
よれよれと起き上がるネアの心はまだくしゃんとなっていたが、そこは老獪な魔物らしく、ディノが、体調面は丁寧に整えてくれてあった。
こちらを見るディノのどこか満腹の獣のような男性的な微笑みにまたくしゃんとなりつつ、ネアは頑張って体を起こすと、伴侶な魔物にえいっと毛布をかぶせてしまっておき、素早く室内着に着替える。
ててっと浴室に向けて走ってしまったのは、梱包を解いた魔物の撫でるような愛おしげな眼差しが、何だか気恥ずかしくてならないからだ。
(ああ、………薔薇の祝祭の朝だわ)
寝台を出ると、部屋の中は、夜が明けたばかりのひんやりとした空気に包まれていた。
窓の外はわずかに明るくなっていて、もう、あのくるくる回るような妖精の光は見えない。
部屋には既に、薔薇の香りが満ちている。
見本の残りとして配られた薔薇がふんだんに生けられ、こんもりと花瓶をいっぱいにしていた。
甘く清しい薔薇の香りと、咲きこぼれるような美しさにほろりと微笑みを深め、ネアは顔を洗いに向かう。
薔薇の祝祭の日には、蛇口を放って水を出すのも楽しみなのだ。
「…………わ」
蛇口を捻れば、しゃばりと溢れた水は、やはりいつもとは違っていた。
薔薇の祝祭の日に汲み上げられる水は、どこかで薔薇の香りが移るのか微かにいい匂いがして、祝祭の魔術にきらきらと煌めいているのだ。
可動域の低いネアの目には、細かくぱちぱちと煌めく魔術の光は見えないが、それでも屋内の照明が映り込むように細やかにきらきらと光って見える。
そんな水で顔を洗ってむふんと至福の溜め息を漏らすと、昨晩の内に用意しておいたふかふかの白いタオルで顔を拭き、至福の時間を堪能する。
「……………むぅ」
洗面台の上に置かれたクリームや化粧水の小瓶を見つめて眉を寄せると、いい匂いのする化粧水をしゃばりとつけたのは、こんな日だからこその淑女の作法と言えよう。
そこでむぐむぐっと眉を寄せ、今度は、詳細は忘れてしまったが色々な効能のあるクリームも塗り込んでおいた。
「ご主人様………」
いつもよりネアの戻りが遅いのでと迎えに来た魔物にへばりつかれながら部屋に帰還すると、共用のブラシで髪の毛を梳かし、ディノの美しい真珠色の髪も丁寧に梳かしてやる。
ディノの宝石を紡いだような緩やかな巻き髪を潰さないようにふんわりと三つ編みにして、薔薇の祝祭お気に入りのリボンを結べば完成だ。
「はい。ディノのお気に入りのリボンですよ」
「うん………」
薔薇色がかった白灰色のリボンは、ネアが以前の薔薇の祝祭に贈ったものだ。
ディノはこのリボンがご主人様からの愛の告白の一つだと思っているので、つけると恥じらってしまい、沢山は使えずにいるものの、今日はそんなリボンをきゅっと結んで貰ってご機嫌である。
次なる支度はと衣装部屋に行き、ラベンダー色がかった淡い水色のドレスを引っ張り出してくる。
これは、おととしの薔薇の祝祭で仕立てられていたものなのだが、その時はもう一着の方を選んでしまったことで、結局薔薇の祝祭では着る機会がなかったものだ。
せっかく祝祭の為に作られたドレスなので、翌年にと考えていたのだが、昨年は一目惚れで倒れてしまいそうなドレスが届けられてしまい、強欲な人間はそちらを先に着てしまったのである。
「……………まぁ」
そして今年、昨年の内から今度の薔薇の祝祭ではこのドレスを着るのだとディノに宣言しておき、やっと袖を通したドレスは、しっとりと肌に吸い付くような柔らかな素材である。
そういえば昨年に用意されていたドレスもこんな肌触りであったことを思い出し、ネアは、頬を緩めながらうっとりとするような肌触りのドレスを着た。
「もしや、こちらのドレスも、一角獣な羊さんの毛で織られていたのでしょうか?着てみて初めて分かるものなので、今迄、タフタのドレスだと思っていました」
「うん。昨年のものと同じ、ルワのドレスだね。気に入ったかい?」
「はい!……形はどちらかと言えば貞淑なものですが、詰襟の襟元の刺繍がとても繊細なのと、腰回りのリボンが花びらのような質感のシルク地なので、とても素敵なのですよ……」
「可愛い。弾んでしまうのかい?」
「は!こ、このドレスには、儚げに微笑む大人の女性が似合うのに、着てみていっそうに素敵なドレスだと知ってしまったせいで、どうしても弾んでしまうのです………。ディノ、薔薇の祝祭では遅れての着用になってしまいましたが、こちらの素敵なドレスを有難うございました」
「…………可愛い」
ネアは、やっと着てあげられたドレスに笑顔になってディノにお礼をしたのだが、伴侶は、その直前に鏡の前でくるりと回ってみたご主人様のせいで弱ってしまったようだ。
そろそろノアが迎えに来てくれる頃合いなのでと、そんなディノを捕まえてしまい、お留守番の間用の薔薇の砂糖菓子を持たせておく。
「ずるい………」
「今年は素敵な型を手に入れましたので、ハート型に薔薇模様の砂糖菓子になっていますからね」
「虐待する………」
「朝食のお皿も、昨年とても喜んでくれたので、ディノのものだけ、私が前菜のお皿に薔薇を作ってあります。今年は、お野菜といただく燻製鮭のムースが愛情たっぷりのご主人様から伴侶への作品ですので、美味しくいただいて下さいね」
「凄く虐待する………」
無垢な魔物にとって、クリーム状のもので表現される薔薇の花は、愛情たっぷりの印であるらしい。
昨年のハムの薔薇盛りよりぐっと弱ってしまったディノが、手渡された薔薇の砂糖菓子を抱きしめてへなへなになっているところで、ノアがやって来た。
「ありゃ、シルはまた虐待されたのかな………」
「むぅ。薔薇の砂糖菓子と、薔薇の形に整えた、サーモンのムースクリームなのですよ」
「うん。シルには刺激が強いかもね」
「解せぬ」
しかし、邪悪な人間はここで出かけて来ますの挨拶を忘れず、既に息絶え絶えのディノの頬に口付けを贈ってしまい、きゃっとなった魔物は巣の中に逃げ込んで行った。
ちゃんと会食堂で朝食を摂るように伝えておき、ネアは、舞踏会へのエスコートのように優雅に一礼して差し出されたノアの手に、そっと指先を置く。
いよいよ、最初の薔薇の贈り物と、素晴らしい朝食の時間の始まりである。
「いつもの薔薇のガゼボにしてあるけれど、今年は、ちょっと様相が違うんだ」
「むむ、そうなのですか?」
「うん。でもきっと、君は気に入ると思うよ」
白いシャツに黒いパンツだけのシンプルな装いのノアだが、髪の毛を結ぶ菫色のリボンが差し色になり、一枚の絵のようだ。
先日のザルツの劇場で見た懐かしい姿程ではないにせよ、光を孕む人ならざるものの色をした青紫の瞳を細めて微笑むノアは、はっとする程に美しい。
淡い転移の薄闇を踏み越え、ふわりと薔薇の香りの風が揺れると、その先に広がっていたのは、お馴染みの薔薇の庭園であった。
しかし、ノアの言うように、これまでとは様子が違うようだ。
「…………ほわ。ば、薔薇の花びらが、降っています」
はらはらと舞い落ちるのは、薔薇の花びらだろう。
白にラベンダー、淡い水色に透けるような檸檬色。
淡い淡い色彩の花びらが、さあさあと静かに振り続ける雨の中に溶け込むように降っている。
ネアは目をきらきらさせてそんな薔薇園を見回し、けれども、足元には落ちてきた筈の花びらが降り積もっていないことに首を傾げる。
くすりと笑ったノアが、そんな不思議の種明かしをしてくれた。
「薔薇の花びらが降っているように見えるのは、雨の中に薔薇の記憶が閉じ込められたからなんだ。君と過ごす薔薇の祝祭用にあれこれ手を加えていたら、偶然こうなったんだけど、僕の妹が好きそうな景色だから、今年はそのまま残しておこうかなって」
「……………ふぁい。大好きです。よく見ると、水溜りの中の景色にも薔薇の花びらが降っているのですね」
「うん。雨の中だけに降り積もっていっているみたいだ。君のお気に入りの森の木馬への道みたいに、花びらを敷き詰めようかなって思ってさ、あれこれ試行錯誤していたら出来たんだよね」
そう微笑んだノアに、ネアは興奮のあまりに小さく弾むと、魔術の叡智が濡れないように守ってくれる雨の中に足を踏み出した。
柔らかな絹糸のような雨に、はらはらと舞い落ちる薔薇の花びらが混じる。
ノアの説明を聞いていたので、こうして雨の中に淡い色ばかりが重なるのは、きっとその色の薔薇の花びらを敷き詰めようとしてくれたからなのだろうと気付いた。
どんな思いでノアが準備をしてくれたのかを考える切っ掛けにもなってしまい、ネアは、唇の端を上機嫌に持ち上げてにっこりしているノアを見上げ、ああ、大事な家族なのだなと胸の中をほかほかにする。
「……………気に入ったかい?」
「はい!ノアはきっと、ここを素敵にするために、色々なことを考えてくれたのでしょうね。この雨を見ているとそんなことにも思いを馳せられてしまうので、いっそうに素敵に見えてくるのですよ」
「うん。…………ほら、僕はネアの家族だし、君は僕の一番大事な女の子だからね」
「ふふ。ノアも、私の一番大事な…………おと……………むぐ、兄なのです」
「僕の妹は可愛いなぁ」
「むぅ。口に出すと悔しいのはなぜなのだ……………」
淡い淡い朝陽の煌めきが、ぼうっとした白い光を周囲に投げかけている。
雨や、雨の中に舞い落ちる薔薇の花びらにそんな光がきらきらと光る魔術の煌めきのような彩りを添え、言葉にならない程の美しい光景であった。
見事な薔薇を咲かせた庭園には、ネアの大好きな、花びらぎっしり型の薔薇が満開になっている。
雨の中で匂い立つ瑞々しい薔薇の香りに、紫陽花色の庭石の周囲に広がる、水溜りの中の異国の街。
その向こう側でも降りしきる薔薇の花びらは、見た事のない国の薔薇の祝祭を覗けるような楽しさまで与えてくれる。
咲き誇る薔薇には、昨年教えて貰った雨薔薇だけではなく、湖の畔に咲くという湖畔薔薇が加わったようだ。
清廉な白に僅かな水色を溶かし込んだような色彩は、どこかディートリンデの髪の色を思い起こさせる。
こちらの薔薇は、夜風に触れるとりぃんという涼し気な音を奏でるそうなので、是非に今度聞かせて貰おう。
青白い光を燻らせる森に囲まれ、秘密の花園のようなどこか密やかな庭園の美貌は、如何にも魔物の庭園だという感じがした。
水溜りの中にある街で、はたはたと揺らめく赤い布は、どこかの国の国旗なのだろうか。
二人で色々なお喋りをしながら庭を散策し、ネアは、うっかり雨薔薇の危険を失念したまま花に触れてしまい、爪先を水浸しにする事件に見舞われたりもした。
すぐさまノアが乾かしてくれたが、美しいだけでなく、この世界らしい危険も隠れた庭園なのだ。
(……………ああ、でも綺麗だな。薔薇選びの広間にあった薔薇雨の窓もそうだったけれど、瑞々しい薔薇の咲き乱れる庭園に降る柔らかな雨は、なんて美しいのだろう)
そんな庭園を、息を呑む程に美しい魔物と歩く時間は例えようもなく麗しい時間に思えるが、時々、銀狐目線の会話が混ざってしまうので、秘めやかな男女の空気というような傾きはない。
「むふぅ。いい匂いです……………」
「うん。美味しそうだね」
すっかり満ち足りた思いでガゼボに入れば、そこにはお待ちかねの薔薇の祝祭の朝食が並んでいた。
薔薇の祝祭と言えばのスコーンと薔薇ジャムを楽しむ為に控えめの盛り付けだが、この日の朝食を飾るに相応しい華やかさでもあった。
ガゼボの中にある椅子には、いつもの水色がかった銀鼠色のクッションが置かれているが、薔薇の刺繍のあるアメジスト色のクッションが増えていたりと、お客を楽しませてくれるための繊細な心遣いも随所に感じられる。
テーブルの上には庭園の白薔薇を生けたクリスタルの花瓶が置かれていて、その花瓶と、新鮮な果実水を入れたピッチャーやグラスが同じラインの物であるのが、なんとも洒落ているではないか。
ここで、食事をするのに丁度いい心地よさのクッションというのがまた、喜びに弾んだ心を大事に包んでくれる繊細さなのだ。
ノアにエスコートして貰いながら席に着き、ふかふかのクッションに口元をむずむずさせていると、ノアが、パイナップルジュースをグラスに注いでくれた。
最初はパイナップルジュースにしてしまったが、次は林檎ジュースも飲むのだと心の中で意気込みつつ、ネアは、真っ白なナプキンを膝にかけた。
「今年も、私の大好きなスープがあります。……………じゅるり」
「うん。今日は、向こうでのメニューだとジャガイモのスープなんだけど、こちらは、ネアのお気に入りの青りんごとセロリのスープにして貰ったんだ」
「そうだったのですね。という事は、ノアのお陰で、こんな素敵な薔薇のガゼボで、大好きなスープが飲めてしまうのですね」
「あ、……………可愛い。もっと褒めて」
「このスープは、甘酸っぱいばかりの爽やかスープではなく、適度な塩味も効いていてなんとも絶妙な美味しさなのですよ。朝食にピッタリのお味で、私はごくごく飲んでしまいます!」
「ありゃ、スープの賛辞になったぞ……………」
緑色のスープの上には、可憐なクリームイエローの薔薇の花びらが散らしてある。
料理などにも使われる花弁の小さなもので、見目は美しいが食感の邪魔になるということもない。
その他にも、エーダリアもネアも大好きなので、定番になりつつある薔薇の祝祭の具沢山キッシュは、中にぷちりとしたチーズの小玉が入っていて、焼き上がりに食べるときに、とろりと蕩けるのだ。
たっぷりの野菜や、使うチーズの種類を変える事で、同じキッシュでも毎年味が違う。
今年は、チェダーチーズのような濃厚な味わいのチーズだったので、野菜はしゃくしゃくとしたズッキーニなどになっている。
「はふ……………」
状態保存の魔術に感謝しつつ、ネアはあつあつ焼き立てのキッシュをぱくりと頬張り、ふにゃりとなった。
三切れくらいあってもいいお味だが、そうなると後のスコーンに響くので、今は我慢しよう。
流星鱒と薔薇の花びらのタルタルに、クリームたっぷりのまろやかな味わいの、薄切り牛のトマトクリーム煮込み。
薔薇の木の薫香を付けた、分厚く切り落とした生ハムは、口の中でとろりと蕩けるよう。
焼き立てのパンはバターの香りがして、新鮮なアルバンのチーズに蜂蜜と黒胡椒をかける一品は、デザートのような美味しさもある。
「……………ふにゅ。幸せでふ」
「うん。僕も幸せそうに食事をするネアと二人で、こんな風に過ごせるのが幸せだなぁ。リーエンベルクに来てから、食事をする回数が増えたんだよね。それってやっぱり、家族が出来たからかな」
「ええ。家族の食卓は、大好きな人達と一緒にテーブルを囲み、尚且つ美味しいものもやっつけてしまうという、二重の贅沢なのですよ」
「最近別れた女の子にさ、家族の方を優先するなんておかしいって言われたんだよね。でもさ、これ以上に楽しいことなんてないのに不思議だよね」
「ノアはきっと、家族至上型の魔物さんだったのでしょうね。でも、リーエンベルクの中に、ノアが大好きになれるものが沢山あって、本当に良かったです」
「……………うん。……………今年は泣かないぞ」
「あらあら、泣いてしまいそうなのです?」
ノアにも、伴侶や恋人と過ごす安らかで幸福な時間を得て欲しいという、身勝手な我が儘もある。
けれども、こうして家族で暮らすようになってこちらが安定してきても、ネアの塩の魔物な義兄は、いっこうに色恋の領域で落ち着く素振りをみせなかった。
色々助けて貰っていることが負担になっていないか少し心配もしていたのだが、ヒルドから、人間が思うよりもずっと魔物達の体感時間は短いので、五十年程はこのくらいでも仕方ないと教えて貰ってはっとしたばかりである。
(……………それに、エーダリア様やヒルドさんがいる間は、ノアも恋人さんを一番に持ってくるのは難しいだろうなぁ……………)
選択の魔物も忙しい魔物だが、実は、塩の魔物もかなりに忙しい魔物である。
何しろ、王家や王都の見張りに一番手をかけているのはノアであるし、ウィーム領主の契約の魔物として、領内の様々な問題に助言を与えたり、実際に解決に手を貸したりもしている。
その上で、一日に五時間あってもいいくらいの勢いで飛び込んでゆくボール投げに、ブラッシングやお散歩という銀狐時間もあるのだ。
大事なものや心を預ける時間が増えた結果、恋人達に捧げる時間はどうしても限られてしまうのだろう。
「ノアの今年の花束は、三つなのですよね」
「……………ありゃ。ばれてるぞ。でも、ネアへのものが一番だからね」
「先日、とても悲しい薔薇の祝祭ならではの事件を見ましたので、どうかノアまで、この薔薇の祝祭の期間で刺されてしまわないようにして下さいね」
「え、不吉なことは言わないで……………」
「とは言え、最も恐ろしいのは、アルテアさんへの告白なのかもしれません」
「え、……………ええと、予防接種の後にしたんだ」
「むぅ。そのようにどんどん先延ばしにすると、ますます言い出し難くなってしまうのでは?」
「告白に使う草案は、十種類くらい用意してあるんだけど、どれもしっくりこないんだよなぁ……………」
肩を落としてそう呟くノアに、ネアは、使い魔の傷心旅行は三日から五日に延長するべきか悩んだ。
ああ見えて魔物達はとても繊細なので、予め、一定期間でこちらに戻るような誓約などを交わした上での告白にして貰わないと、森から帰ってこなくなってしまうかもしれない。
「アルテアさんも、どんどん狐さんを可愛がっていることを、隠さなくなってきました。この先は、いっそうに厳しい戦いになってくると思います」
「……………うん。もう、この祝祭で薔薇の花束でも渡しておく?」
「なんとなくですが、違う理由で森に帰ってしまいそうなので、やめておいた方が賢明かもしれません」
「ありゃ……………」
かちゃりと銀のスプーンを使ってパンに盛り付けるのは、薔薇の祝祭お馴染みの薔薇ジャムである。
こうしてスコーンの前にもいただいてしまうのだが、こちらはバターを塗ったパンの程よい塩味と合わせていただくので、また違う味わいなのだった。
今年も用意されているのは、紫色の薔薇を使った真夜中の溜め息という薔薇ジャムだ。
ノアの瞳のような色をしていて、スプーンでジャムだけちびちび食べたい美味しさである。
この色彩は冬季限定だと聞けば、この季節に薔薇の祝祭があるからこそ出会えたジャムなのかもしれない。
もう一種は、薔薇砂糖と霧明かりのジャムで、綺麗な赤みがかった琥珀色をしている。
お酒を含んだような濃厚な甘さは、意外にもバターとの相性が良く、ぱくりと頬張ったネアは、むぐっと目を見開いた。
「スープにジャムに、この庭園もだけど、いつもの定番っていうのが増えたよね。……………僕はそういうのがお気に入りなんだけど、退屈しないかい?」
「もしかして、またちょっぴり心配になってしまったのですか?」
「うん。……………ほら、どう足掻いてもさ、僕は魔物で君は人間なんだ。大事に大事にしているつもりで、君を辟易とさせるのは、……………堪らないからね」
「であれば、私はずっとそんな定番のものに飢えてきた人間ですので、今年のノアとの朝食会も、楽しくて堪らないのですよ?もしかするとそれは、ノアが、毎日つけていてもどうしても大事に撫でてしまう、リンデルのようなものなのかもしれません」
ネアがそう言えば、自分のリンデルにかけた指に気付き、綺麗な瞳を瞠ったノアがくしゃりと笑う。
毎年心配事も抱えてしまう困った魔物だが、肌に感じる時間の重さが違うのであれば、だからこそ心許なく、未だに寄る辺なく思うこともあるのかもしれない。
「そんなノアに、贈り物をしてもいいですか?」
「あ、僕が先に渡すからね。ほら、お兄ちゃんだからさ」
「ふふ。では、ノアからの薔薇を先に貰ってしまいますね」
「うん。……………ええと、……………ありゃ、なんでだろう。今年は凄く照れるぞ……………」
目元を染めてもじもじした後、ノアは、ライラック色の薄紙に、ロイヤルブルーのリボンをかけた素晴らしい薔薇の花束を贈ってくれた。
包装の色合わせがもう素敵であるし、相変わらず、ネアが広間で目を留めた様々な形状や色合いの薔薇がこれでもかと花束にされているのに、絶妙な色合わせで繊細で美しいばかりなのだ。
今年は、薔薇色がアクセントになって白薔薇やアプリコット色の薔薇を甘く引き立てていて、けれども、水色なのにどこかあたたかな印象のころんとした薔薇や、うっとりとするような上品さの白灰色の薔薇も入っている。
「……………大好きです」
「わーお。結婚しちゃう?」
「伴侶はもういるので、ノアは弟にしますね!」
「ありゃ、弟にされると困るから、残念だけど兄のままでいようと思うよ」
きらきらと、幸せそうに弾けて煌めく。
そんなノアの瞳を見上げ、ネアは笑顔になった。
「素敵過ぎて、にっこりしてしまうというよりは、足踏みをしてしまいたくなる花束です!ノア、こんな素敵な薔薇は、とってもとっても大事にしますね!」
「うん。僕のとっておきだからね。やっぱりさ、何度だって言うけど、君はいつだって特別なんだ」
「むむ。となると、そんなノアには、私からのとっておきの薔薇を渡さねばなりません!」
「わーお。僕、生きていられるかな……………」
「受け取りの間は、どうか頑張って下さいね」
対するネアが渡したのは、ノアがこれがいいと言ってくれた菫色に水色の入った美術品のような薔薇と、柔らかな風合いの水色の薔薇を合わせたものだった。
ノアの花束に入っていた水色の薔薇と迷ったのでひやりとしたが、こちらは浅いカップ咲きのもので、花びらが浅く詰まっているので、開いてくるとフリルをぎゅっと詰め込んだような華やかさになる。
「……………有難うネア。僕の特別な花束だね」
「たっぷりの、家族の愛情を詰め込んであるのですよ。でも、これからもずっと薔薇の祝祭の度に家族の花束を渡すので、またここで、一緒に朝食を食べてくれると嬉しいです。なお、出来れば来年も青林檎とセロリのスープがあればいっそうに嬉しいので、心のどこかに、ひっそりと書き留めておいてくれますか?」
「うん。勿論そうしよう。……………あれ、……………目がしゅわしゅわする」
「ふふ、困ったノアですねぇ」
へにゃりと涙目になってしまった義兄にくすりと微笑むと、ふっと魔物らしい眼差しになったノアが、こちらに体を屈める。
その時、きらりと光った青紫色の瞳があまりにも綺麗だったので、ネアが思わずそちらを見上げてしまったのは不可抗力であった。
「むぐ?!」
「……………妹が、虐待した」
「じ、じこなのですよ?!……………ぎゃ!!死んでしまいました!!」
その結果、鼻先に口付けを落とそうとしてくれていたノアは、唇への口付けになってしまい、ぱたりと倒れてしまうではないか。
別に、唇への口付けも家族のお作法を外れていないのだし、これまでにして貰ったことも少なくない。
それなのになぜここで死んでしまうのだろうと困惑し、動かなくなった義兄を揺さぶったが、たいそう儚い魔物は暫くの間無反応のままであった。




