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召喚状と薔薇の積み残し




大きな薔薇の木の下で、ほかほかと湯気を立てるカップを手にする。

淹れたばかりの紅茶からはいい匂いがして、大きな薔薇の木陰の馥郁たる香りと柔らかに重なった。


ネアは、保温の為のキルトのカバーをポットにかけると、少しだけ悩んでカップにお砂糖を入れる。

これはまったくの気分なのだが、こちらはとても想像力のない人間なので、甘酸っぱいいい匂いがする紅茶は、香りに見合った甘さを加えてしまいたくなるのだ。



ざわざわとした店内の喧騒は、どこか遠いさざめきのよう。


薔薇の祝祭が近くなり、メニューや店内の装飾にもその影響があったが、席と席の間隔が広く、薔薇の木で丁寧に区切られたこの店は、周囲からの視線を気にすることなく過ごすことが出来る。



向かいの席に座っているのはウィリアムで、はっとするような怜悧な魔物らしい眼差しで、開いた便箋を手にしていた。


夜水晶のテーブルの上に投げ出された白い封筒には、レースのような可憐な鈴蘭の透かしがあるのだが、ウィリアムが広げている便箋はどんなものなのだろう。

かさりと鳴った紙の音に、男性らしい美しい手が便箋を入れ替え、僅かに書かれた文字が透けて見えたが、内容までは分からなかった。



(どんなことが、書かれているのだろう)



素晴らしい薔薇の木の下で、とっておきの薔薇の祝祭ブレンドの紅茶を飲む午後である。

綺麗な封筒で届いた手紙を読むのにはぴったりの舞台であったが、この手紙を、ネアが読む事はない。



土地の為政者の元には、時折、見ず知らずの高位の人外者から手紙が届く事がある。


それは、召喚状や案内状、招待状や督促状だったりして、殆どの場合が一方的な内容であることが多い。

通常であれば手紙の内容に見合った魔術処置を施してから、焚き上げなどで廃棄するだけでいいのだが、ごく稀に、開封した瞬間に魔術を動かすくせに、開封しないと捨てることも出来ない厄介な手紙が届く事がある。



この手紙もまさに、そんなものであった。


リーエンベルクに届いた段階で、騎士の一人が気付いて振り分けをしてくれており、エーダリアからディノに相談が入った上で、今日はこうしてウィリアムが同席してくれている。



(伴侶ではなく、契約の魔物でもない。そして、家族やウィーム領主でもない)



一人で読むように。


そう記された文字は、何て高慢なのだろう。

だが、その魔術を傷付けないように、ネアの向かいに座って手紙を開いたのは、騎士としての契約を持つウィリアムだ。


指定された一人が、ネアである必要はない。

とは言え、ネアと全く無関係の者が読めば、魔術の指定などが足りなくなる恐れもある。

そのような理由からウィリアムが選ばれ、同じ理由で、ここにはディノ達の姿はない。



(もし、そのままこちらに来るようにという指定であっても、ウィリアムさんなら対処出来るからなのだけれど…………)



それでも、手紙を読んでいるウィリアムを見て、ネアがはらはらしてしまうのは仕方のない事だろう。

手紙は、リーエンベルクの歌乞い宛てに届いたものであるし、仕事が終わってこちらに駆け付けてくれたウィリアムは、場合によっては、この手紙の差出人の下へ足を運ばなければいけなくなる。



「………成る程」


かさりと紙を置く音がして、そこに静かに息を吐く音が重なった。

それは、手紙を読むウィリアムの様子を見守っていたネアをぎくりとさせるには充分の、酷く酷薄な仕草ではないか。



「どのような内容だったのですか?」

「……………ああ、」



その問いかけに顔を上げた終焉の魔物は、魔術師に擬態している。

騎士ならばともかく、ウィリアムがこのような擬態をするのは初めてで、ネアは少しだけ慣れない姿にそわそわと足を踏み替えてしまった。



(……………容姿として慣れないというよりも)



緩やかに波打つ漆黒の髪は襟足に少しかかるくらい。

長めの前髪のかかる目元は、白金色の瞳がぞくりとする程に暗く鮮やかだ。


いつものウィリアムの造作はそのままなのに、髪型と装いの違いでまるで別人に見える。

このあたりは、全く原型が想像つかないくらいの擬態を重ねていても、どこかにその気配を残すアルテアの擬態とは違うのだろう。


けれどもネアが何よりも落ち着かないのは、黒髪に黒い装束で、こんな冷ややかな目をするウィリアムを見ると思い出すからだ。

それは、コンパクトの中に広がっていたザルツの劇場ではなく、乾いた風にトウモロコシの粉の匂いのした、緑の塔の聳える物語のあわいで、その中に降り立った、蝕の反転を受けた終焉の魔物であった。



(ただ、今のこの気配は、あの時のウィリアムさんの反転の影響というよりも、………怒っているのだろうなぁ………)



穏やかな微笑みを浮かべていると、いっそうに仄暗く残忍に思えるのは、あまりにも浮かべた微笑みが怜悧だからだろう。

元より、はっとするような残忍な微笑みの似合うアルテアよりも、ウィリアムのような均一な微笑みの似合う魔物の方が、こんなときは悍ましく見えるのかもしれない。



「困った魔物だな。リーエンベルクの歌乞いの契約の魔物が、誰なのかを知らないのは仕方のない事だが、この土地程に魔術階位の高い土地の領主館に詰める歌乞いに、このような要求をするということの危うさに気付くだけの思考もままならないらしい。ネアも、愚かな魔物は嫌いだろう?」

「………む、むぐ。愚かな魔物も顔見知りなら愛おしい事もありますが、見ず知らずの野良魔物に何かを要求されるのは、たいへん不愉快だと言わざるを得ません」

「ああ。………そうだな、俺も不愉快だ。どちらかというと、かなり」

「…………ウィリアムさん、昨日は寝ていないのでは?少し休まれますか?」


ネアは、これはもう計画は一度横に置いておき、寝台で寝かしつけた方がいいのではと思ってしまったが、こちらを見た魔物がなぜそんなことを言うのだろうという、薄い微笑みをこちらに向けたのでぶんぶんと首を横に振った。



「この手紙には、………魔物を満足させる歌声を持つ人間がいるのであれば、愛妾として城に迎え入れると書かれている。とは言え、保証されているのは、その言葉も烏滸がましいくらいの、慰み者のような待遇だがな」

「まぁ。………ええと、馬鹿でいらっしゃるのでしょうか?契約の魔物さんの狭量ぶりというのは、同族の方にも周知されているものなのでは?」

「ああ。だが、それを知った上で手を出す者もいる。相手の階位の方が上であれば、契約の魔物の存在が抑止力にならないことも少なくはないからな。歌乞いを奪われた魔物の狂乱までが、余興の材料であることは少なくない」



(……………ああそうか。だからウィリアムさんは、怒っているのだ)



ネアは、漸くこの冷ややかな微笑みの理由が腑に落ちた。


相手を知らずに届けられた悪意とは言え、その魔物が傷付けようとしているのはディノである。

ディノを大事に思ってくれているウィリアムにとって、それは許されざる事だろう。



「であれば、私がその方に会いにゆき、滅ぼしてくればいいのですか?」

「いや、召喚に応じるだけでも魔術的な負荷がかかる。魔物の城は、その魔物にとっての固有領域のようなものだからな。今回は俺が同行し、その魔物は黙らせてこよう」

「ウィリアムさんが、魔術師さんの姿をしているのにも、意味があるのでしょうか?」

「ああ。…………この魔物は救いようがない程に愚かには違いないが、完全に考えが足りない程でもない。書かれた文章から、幾つかの対策などは透けて見えた。………ネアの名前を知り、リーエンベルクにこの手紙を届けたのであれば、護衛が付くのは想定の上だろう。……ただ、騎士の付き添いは認めないと記載されているからな。魔術師としての同行しかないんだ」



思わぬ禁止事項に首を傾げかけ、リーエンベルクの騎士の力を恐れたのだろうかと考えたが、それでいて、ウィームの歌乞いと呼ばれる人間がどんな魔物と契約をしているのかも知らないとなると、表面的な情報しか手に入れられない場所にいるのだろう。



「ですが、私が、一人でそちらに行かないくらいの備えをすることは、想定されているという内容なのですよね。ウィームなのですから、もう少し用心されてもいいのでは?」

「ああ。こちらの自衛行動も、ある程度は計算に入れているようだな。実は、………階位も左程低くない」

「なぬ。爵位のあるような魔物さんなのです?」

「伯爵位だが、限りなく侯爵に近いな。ああ、グレアムの方のだ」



てっきり、その辺の野良魔物だと思っていたネアは、思いがけない相手の階位に目を瞠った。


しかし、ネアの契約の魔物は自分に手出し出来まいという自信を持つのであれば、確かにそれなりの階位であるのは当然なのかもしれない。

ウィームに手を伸ばせたのも、その階位故にだろう。

現に、リーエンベルクにいる魔物達が軒並み白くなければ、そうそう敵う相手ではない。



「何の魔物さんなのでしょう」

「蒸留器の魔物だ。系譜としては、精製と選択の系譜になる」

「まぁ。アルテアさんの……………」

「壊して終わりという階位ではないのが面倒だな。………この絡め手であれば、アルテアの方が有利だったかもしれない」

「むぐぐ………」



そんなアルテアは、仕事で不在にしている。


ディノから、おかしな召喚状が来たのでウィリアムに対処して貰うということは伝えており、それなら大丈夫だろうという返事であったらしいので、暫くは安心してそちらにかかりきりだろう。



(でもそうか、……………安易に壊してしまえるような階位ではなく、恐らくは、損なってしまうと司るものに影響が出かねない魔物さんであれば、本人もそれを知っている………)



蒸留器がどのような場所に使われているのかを考え、ネアは、頭痛がしそうだった。


様々な分野において、蒸留器という名前ではなくとも同じような仕組みの道具は多い。

侯爵という階位にあるのだから、相当に多くを司る魔物でもあるのだろう。



「…………手紙を開封して、三日以内か。俺に仕事の入らない、今夜あたりには向かった方が良さそうだな。出来れば、真夜中の座の時間も借りておきたい」

「はい。では、一度帰って準備をしておきます?」

「いや。この後でシルハーン達と合流すると、手紙に書かれた要求に背く事になる可能性がある。逃げられてこんな事をした理由が分からないままになっても困るからな、俺の持っている屋敷のどこか、或いはこのウィーム中央でホテルなどの部屋を借りるようにして時間を潰すのがいいのかもしれない」

「お、おのれ!出費まで強いてくる上に、本日のおやつの檸檬パイを私から取り上げる魔物です!」


腹を立てたネアが、がすがすと床を踏み鳴らしていた時のことだった。



しゃりん。



硬質な音が響き、薔薇の祝祭が近くなってきたこの時期、祝祭の買い物客や恋人達で賑わうカフェの一角に優美な人影が落ちた。


ネア達がいるのは、見事な薔薇の木が有名な老舗カフェで、ザハ程に歴史がある訳ではないが、ウィームっ子たちに愛されてきた名店である。


ザハが格式高い雰囲気であるのに対し、ご婦人同士のお喋りや恋人達の語らいに向いている内装のこちらの店は、どちらかと言えば客層が若い。

ディノが、恋人や伴侶に纏わるいけない知識を聞き齧ってしまうので、ネアは滅多に来ないお店だ。



だから、そこに現れた男性は、僅かであったが店内の空気に馴染まなかった。

詩的で美しい内装の店内ではあるが、どちらかと言えば、魔物や竜よりも妖精や精霊、高貴な男性であれば可憐な女性を伴ってという場所なのだから。



「…………ふむ。成る程な。手紙を開く気配が独特であったので様子を見に来てみたが、お抱えの魔術師にでも読ませたのか。ウィーム領主が手元に置いているくらいともなれば、噂に聞く程愚かな子鼠でもないらしい」



こつこつと床を踏み、ネア達のテーブルの横に立ったのは、壮年の男性だ。

銀髪混じりの濃い灰色の髪に、はっとする程に鮮やかな緑の瞳は、ダリルの青い瞳と同じようなネオン性の色調を持つ。


僅かに下がる目の下にあるほくろが添える色香は鋭く獰猛なもので、微笑みを湛えた口元には、これは一筋縄ではいかない相手だぞという雰囲気が伺える。



(……………まさか、この人が)



気配の調整などを行っているのだろう。

周囲の者達は、多少の違和感があれ特にこちらを気にする事はなく、男性は、片手を上げて店員を呼ぶと、こちらの了解などは取らずにこの席を使うと話をし、空いている席にどかりと座ってしまった。



(煙草の香り…………)



ネアの暮らしていた世界とは違い、こちらの煙草の香りは、どちらかと言えば薬草めいた趣きが強い。

苦みのある薬草に甘い煙草の香りが僅かに重なるようなものが、最も多く流通している種の煙草の香りだ。

そこかしこに溢れる魔術や人外者達との相性もあるので、ヴェルリアでは好まれるが、ウィームではあまり一般的ではない。


だからだろう。

衣服や髪などに僅かに残った煙草の香りが、くっきりと感じられた。



「……………手紙の送り主は、あなたか」

「如何にも。だが、男に読ませる為に書いた訳ではない」

「…………意外だな。代筆ではなく、自分で書いたと?」

「はは、俺がどんな魔物なのかを匂わせるには、いささか文章足らずだったか、お前の知識が足りないのか。不敬と言ってもいい態度だが、まぁいいさ。……………そりゃ自分で書くだろう。俺の暇潰しなんだ」

「暇潰しで、契約の魔物を持つ彼女を愛妾にしようとしたのか」

「まぁ、……………愛妾っていう程に継続的に遊びたい訳じゃない。そうだな。二、三回俺の暇潰しに付き合わせて、まだ残っていたら帰してやろうか。良心的な提案だと思うが」



その言葉に、ウィリアム扮する魔術師の纏う温度がぐっと低くなってしまい、目を瞠ってから肩を竦めて見せた男は、やれやれと苦笑している。


オリーブ色の革手袋を外し、渡されたメニューを開いていたが、注文が決まったのか、薔薇ジャムを使った甘い紅茶を頼むと、さてととこちらに向き直る。



「……………思っていたよりも、地味だな」

「お気に召さないのであれば、白紙撤回としていただいても結構ですが」

「いや、………多色性の灰色か。冬や夜の系譜に受けのいい造作だな。心が躍る程ではないが、まぁいいさ。所詮は暇潰しだ」

「こちらとしては、あなたの召喚には応じかねる。このような要求で、彼女を差し出すつもりはない」

「遮蔽空間は、………ああ、敷いてあるか。俺の紅茶が運ばれてきたときには、道を作り直せよ。一人だけ飲み物なしというのも癪だ」


ウィリアムの主張に答えずにのんびりとそう言った男は、貴族的な装いのように見えるが、よく見れば実務に向いた服装をしている。


書物で見た王族や貴族のお抱え画家や建築士の装いを思い起こさせるので、美しく華やかに装いつつも、自身の仕事を妨げない程度には華美さを削ぎ落してあるという意匠なのだろう。


黒一色に金糸の刺繍が艶やかだが、擬態してはっとする程に艶麗に見えるウィリアムも黒一色の装いなので、この魔物一人が目立つという訳でもない。

一人で店に現れた時にあった僅かな違和感も、ネアが同席する事でなくなっていた。


同行している女性の趣味でこの店になったのだなと、勝手に納得出来る絵になってしまうのだ。



(さて、どうしたものかな)



どういう訳か、お城で待っている訳でもなくここまで来てしまった魔物をちらりと見て、ネアは考える。


正直なところ、蒸留器の魔物がこのような人物であったのは意外だった。

高慢で残念な感じの魔物という気配は微塵もなく、言葉を選ばずに言うのであれば、魔物らしい魅力を持つ頭の良さそうな男性だ。


装いの華やかさも趣味のいいものであるし、となると、趣味の悪い魔物がそう擬態するということも難しいだろう。

つまりのところ、思ってもいない雰囲気の魔物が来てしまったので、ネアはたいへんに混乱していた。



有体に言えば、ウィリアムの話していたような、馬鹿げた召喚状を送る魔物には見えなかったのだ。




「こちらの主張は話した通りだ。早々に帰ることを推奨するが?」

「薔薇の祝祭の魔術の裾野にある、薔薇の木の下で無粋なことだな。魔術師ってものは、祝祭の魔術の気配にすら敬意を払わないのか?」



早速、ウィリアムと蒸留器の魔物はひやりとするような応酬をしている。

だが、ウィリアムの擬態をただの魔術師だと疑わないのか、蒸留器の魔物の方はまともに取り合う様子もない。



「……………失礼ですが、お相手に不足されているようなご容貌にも思えないのですが、なぜに私に、あのような召喚状を送りつける必要があったのでしょう?………余程、乱暴だったり…………その、技量が低く評判が悪いのか、何か、忌避されるような特殊な嗜好やご趣味でもあるのですか?どのような理由であれ、それぞれに対処に向いた専門的なお相手を探す方が、余程効率がいいような気がします」



しかし、ぴりりと張り詰めるような気配を纏った男達は、ネアがざっくり切り出した質問を聞いた途端、目を丸くしてしまった。



「……………っは、……………ははは!そうきたか!!」

「なぜか大喜びですので、これはもう、特殊な嗜好の方なのでは。となると、私をどうこうするよりも、そちらの専門的な知識を有する方の手を借りた方が、有意義な時間を過ごせる筈だと言わざるを得ません」

「……………ネア、……………そうじゃない」

「……………む?」

「ああ、いや、そうでもあるんだろうが……………そこまで露骨じゃない。もう少し前段階を踏むだろう」


そう言い重ねてから、俺は何を説明しようとしているんだと遠い目になってしまったウィリアムに、ネアは首を傾げた。



愛妾という響きから想像するのはそのくらいのものだが、そこは高位の魔物らしく、お上品にデートなどの手順を重ねるくらいの体裁は整えるのだろうか。


やっている事の乱暴さに見合わない気遣いだが、どちらにせよ、目的としては変わらないという気もする。

となるとやはり、なぜ、こんな面倒なことをと思ってしまうのだ。



「お前を、契約の魔物が最も忌避するやり口で壊して遊ぶという暇潰しもある」

「ええ。最初はそのような理由を持つ、もう少し頭の軽い魔物さんなのかと思っていたのですが、あなたの印象とどうもそぐわないのです。………となれば、そちらのお悩みは思い詰めると、少し暴走してしまうかもしれませんので、雰囲気に似つかわしくない浅慮さは、その焦り故のものかなと思いました」

「へぇ。俺の印象とは、そぐわないか。単純に、凄惨な悲劇や絶望を味わいたいのかもしれんぞ。激情によって抽出された感情は、いつだって味わい深い」



そう言われると、それならばと思えたネアは素直に頷いた。


獲物を引き摺り回す事で動く感情が嗜好品となるなら、確かにあの召喚状でもいいのかもしれなかった。



「となると、あなたの本当の獲物は、私の魔物なのですか?」

「……………んー、そうとも言えるのかもしれないが、俺が召喚状を送ったのは、お前だからな」

「もしや、私の魔物に、特殊な執着や歪んだ愛情を向けていらっしゃる?」

「そうきたか。断言するが、色恋沙汰にかかる執着はない。……………なぁ、最近の人間の女達はこんな感じなのか?」



呆れたように顔を顰め、蒸留器の魔物はウィリアムに親し気に尋ねている。


あなたが気軽に話しかけている魔術師は、とんでもなく不機嫌な終焉の魔物なのだと教えてあげたいくらいだが、感情を平坦にしてしまったような冷ややかな微笑みを浮かべた黒髪の終焉の魔物は、どこか穏やかな湖面のような気配ですらあった。



だが、ここでちょうど紅茶が来てしまい、おっと目を輝かせた蒸留器の魔物は、ウィリアムな魔術師が遮蔽結界を調整しなかったからか、自分で何かを操作して店員の通り道を作ったようだ。


薔薇ジャムを容赦なくカップの中に入れて銀のスプーンでかき混ぜている魔物に、ネアは、そんな場合ではないのだが、甘党なのかなと考えてしまった。



「…………そうだな。想定していた晩餐会は取りやめとするか。俺に気のある妖精の乙女達の牙にかけて、嬲られる様を見ておくよりは、普通にこうして喋っていた方が愉快かもしれん」

「素敵なご婦人方の爪研ぎ板になるつもりはありませんし、あなたとお喋りをするのも、少しも楽しくないのですが、そのような事は考慮していただけないのでしょうか?」

「ああ。残念だが、召喚状を丁寧にしたためてやったところで、俺の善良さは売り切れだ。後はまぁ、この気の短そうな護衛魔術師を帰してやる賢明さを見せるなら、多少は穏便な帰り道になるが」

「……………話が通じない場合は、ハンマーで、頭を力いっぱい殴ればいいのですか?」

「いや、俺が話をしておこう。…………とは言え、さすがに店の中はまずいだろうな」



ウィリアムはそう言うのだが、ネアは、ディノを悲しませるようなことを敢えて狙ったのだとしたら、取り敢えずこの魔物は一度くしゃぼろにするべきだと主張したい。


獰猛で残忍な人間は、引き下がる気がないのであれば、相応の報いは受けるべきだと強く信じていた。



「崩壊させるとまずい魔物さんであれば、一生お尻が痒くて仕方なくなる呪いに、嫌いな男性から熱烈な恋心を抱かれ続ける呪い、体臭がへどろになる呪いもありますが、どのあたりにしましょう」

「ちょ、ちょっと待て、何だそのえげつない呪いの数々は!……………待てよ、あいつだろう?!どう考えてもあいつの趣味だな?!」

「……………む?もしや、この呪いの制作者に、心当たりがあるのですか?」

「そりゃあるだろうね。先日の取り引きでは、大損をしたそうじゃないか。私の目を盗んで、ウィームを馬鹿にしたような取り引きをしようとなんぞするからだよ」

「ダリル?!」



すっと翳った視界に、ネアは、そこまで大柄ではなくても、陽光を遮りテーブルを不穏に暗くする存在というのもいるのだなと驚いてしまった。


ネア達のテーブルの横に立ったのは、こうして外で会うのは珍しい、ダリルダレンの書架妖精だ。


割れそうな程に青い瞳に黒ぶちの眼鏡姿の絶世の美女に見える男性なのだが、明らかにお怒りであるという引き攣った微笑みを見れば、ネアは、ぴゃっとお部屋に逃げ込んでディノの巣に避難したいくらいであった。


艶やかな深紫のドレスはいっそ上品な作りだが、そうして添えられる色が、ダリルをますます近寄りがたい美しさで縁取っている。



「うちの可愛い歌乞いに、召喚状を送りつけたんだって?」

「……………お前には、関係のないことだろう」

「へぇ。私に完膚なきまでに叩きのめされてから、その翌日に召喚状を書いたのかい。ウィーム領主を標的にしなければ、ある程度の魔術誓約には触れないと考えたんだろうが、あんたも、自分の階位に驕ったものだねぇ」

「言っておくが、これは、俺がこの人間を召喚したというまでのことだ。歌乞いは、どれだけ国や組織に属していても、魔物側にその扱いを委ねるという約定がある限り、完全には縛り切れない。それが許される訳もないからな。……………であれば、お前に、俺をどうこうする権利はないからな」

「そうかい。じゃあ、この手紙は、私も読ませて貰うよ。何らこちらの誓約には触れないものなんだろう?」

「勝手にしろ。どうにもならんぞ」



ふっと馬鹿にしたように笑った蒸留器の魔物は、まさか、ダリルが召喚状を音読するとは思わなかったのだろう。


いつの間にか遮蔽結界が解かれたらしく、ダリルがその手紙の内容を読み上げるごとに、店内の空気が冷え込んでゆくので、ネアは、ただ個人のネアではなく、リーエンベルクの歌乞いにこのような書状を送り付けてしまった蒸留器の魔物が安らかに眠れるよう祈ることに切り替えるべきか悩んでしまった。



リーエンベルクの歌乞いは即ち、ウィーム領主の部下でもある。



「因みにね、こいつは、私に取り引きをひっくり返された後、薔薇の祝祭の夜に食事に誘いたいと言い出してね。どれだけ自分に自信があるのかは知らないが、妖精の性別すら見抜けない腑抜けと出掛けるつもりはないと、きっぱりと断ってやったんだがね」

「や、やめろ!!!馬鹿なのかお前は!!」

「馬鹿なのはあんただろう。その上で、腹立ち紛れにネアちゃんにこんな物を送り付けたときた。資質上、代替わりが難しい魔物なのが腹立たしいところだが、それがなけりゃ、自殺願望があると思うところだよ」

「ほわ、………どうも雰囲気に見合わない浅慮さだと思っていましたが、そちらの方面で拗らせていたのですね……………」


あっという間に落ち着いた振る舞いが引き剥がされてしまった蒸留器の魔物に、ネアはとても悲しい気持ちになった。


しかし、相手がダリルとくれば、もうどうしようもないだろう。



「ダリル、彼は俺が預かってもいいか?こうなった以上、召喚状に敷かれた魔術に触れる事は、もう気にしなくてもいいだろう。公開させることで、召喚状の秘匿魔術を壊してくれて助かった」

「いや、今回はこっちの不始末だよ。まさか、ここまで暴走するとは思わなくてね。ネアちゃんが、カードから蒸留器の魔物だってディノに知らせてくれたお陰だ。任せてもいいならそうするけど、関わる分野が広い魔物でねぇ、階位を下げるのは悪手になる。扱いが面倒なんだが、それでもいいかい?」

「ああ。魔物としての話は、こちらでつけておこう。その後、対価なり誓約なりは、あらためてそちらで結んでくれ」

「そうだね。そうしようか。……………ああ、折角の薔薇の祝祭の時期に騒がせちまったね。今いるお客の支払いはこちらでしておくから、どうせなら、好きなものでも食べておくれ!」



何とも男前にそう言ってのけたダリルに、店内からわぁっと歓声が上がる。


若干、頬を染めて美しい書架妖精に見惚れてしまっているお嬢さんたちがいるが、彼女達のお相手は大丈夫だろうか。



「………魔物同士と言ったな?」


そんな店内で、ウィリアムにそう尋ねたのは、蒸留器の魔物である。


「そうだな。言っておくが、お前が話をしなければいけないのは、俺だけじゃないぞ」

「あんたのお気に入りの階位上の問題で言うなら、みんなあんたより上の階位だしねぇ。おまけに、店内の客が通報しちまったから、会の連中も黙ってはいないだろうよ。今回は、二つの会を怒らせたんだ」



そう言われてしまった蒸留器の魔物が、会とは何だろうという顔をしたので、ネアは、会などありませんというように微笑んでおいた。



その後、擬態したままのウィリアムに蒸留器の魔物は連れていかれてしまい、ネアは、ディノもそちらに加わるのでと迎えに来てくれた、ノアと一緒に帰ることになる。


もっと困った事になるかと思っていたが、お茶をしただけで済んでしまったぞと目を瞬いていると、ネアと手を繋いでいる塩の魔物を見たダリルが、青い青い瞳を眇めた。



「言いたかないけど、私の由縁の事件に巻き込まれた後、そいつと歩いてリーエンベルクまで帰るんじゃないよ。この季節は、あの手の連中が現れるからねぇ。薔薇の積み残しに目を付けられるのは、一度で充分だろう」

「……………ノア、最近の恋人さんとは、上手くいっています?」

「ありゃ。…………一人、求婚を断って別れたばかりの子がいるかも」

「て、転移です!転移でしゅばっと帰るのですよ!!」



これもまた、障りみたいなものでねと、少しだけ疲れたようにダリルが呟く。

祝祭という華やかな光の下に落ちる深い影のように、薔薇の祝祭があるからこそ起こる事件もあるのだと。



そんなダリルの的確な忠告により、ネア達は、無事にリーエンベルクに帰る事が出来た。


暫くして、ちょっとだけ荒ぶった後の鋭さを残して帰ってきたディノが、その後、蒸留器の魔物の断罪現場には、グレアムだけでなく、アレクシスやジッタ、エーダリアの会の面々も来たと話していたので、あの鮮やかな緑の瞳の魔物がどうなってしまったのかは定かではない。



後日、なぜかオフェトリウスからも、今回の事件の謝罪の薔薇が届いた。

蒸留器の魔物は、ヴェルリアに屋敷を持っているらしく、あまりオフェトリウスとの関係は良くないそうだ。



魔物としてのオフェトリウスに、あの魔物のお目当ての女性が向かってしまった後のダリルの一件だったそうで、蒸留器の魔物がこのような事件を企てる程に荒んだ原因の一端は自分にあるということらしい。


だが、寧ろ、今回の事件が薔薇を贈る動機に使われただけだろうと魔物達が言うので、貰った薔薇は、部屋ではなく会食堂に飾ることにしたのだった。







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