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コンパクトと白百合の呪い



淡い淡いシュガーピンク色の、薔薇の花びらのような色合いのコンパクトであった。


陶器のような質感だが軽やかな素材は、何で出来ているのだろう。

薄い円形のコンパクトで、艶消しの淡い金色のメダルのような装飾が蓋の中央にある。

繊細な細工のあるその装飾は、ホーリートの枝の円環と、その中を飛ぶ二羽の鳥を模したものだ。


ぱかりと開ければ、ふわふわのパフが入っていて、その手触りにはうっとりしてしまう。

シェルホワイトのパフは裏側が丁寧に水色の革で処理され、指先を差し込んで持ちやすいように、綺麗な水色のリボンが縫い留められていた。



「……………贈り物、なのでしょうか」



しかし、そんな素敵なコンパクトが、ある朝に突然洗面台の上に鎮座していたなら、若干の躊躇いを覚えるのは当然であった。


顔を洗いに来たばかりでこのコンパクトを発見したネアも、最初は、ディノからの贈り物かなとひょいと手に取ってしまったものの、パフはあるのに中身の入っていないコンパクトを見ている内に、ディノからのものではないのではという疑いを深めていった。



(そもそも、ディノが何かをくれるのなら、絶対に手渡しの筈なのだ)



であればこれは、ご主人様の顔の手入れに煩い使い魔が、何かの手入れの為に置いていった物なのかもしれないという考え方もある。

しかし、中身を忘れているともなれば、使い魔らしくない失敗ではないか。

何となくだが、アルテアはそういう失態を犯さない気がする。



どこか、成る程と着地出来ないような違和感があり、ネアはぎりぎりと眉を寄せた。



(女性ものであることは間違いないだろうし、どこか、……………実用的というよりは、ロマンチックな嗜好品という感じがするコンパクトだわ。鏡もついているので、あまり何度も開けない方がいいのかもしれない)


ネアがそう考えたのは、鏡というものが扉になるからだった。

生まれ育った世界とは違うこちらの世界には、魔術的な区分や役割が随所にある。

その中でも鏡は、多くの人々が映し出すという機能だけでなく扉として使用しており、となればそれは、何もこちらから出掛けてゆくばかりではないのだ。



「……………ノア!」


なのでネアは、遠慮をせずに義兄の名前を呼んだ。


ここでなぜにノアなのかと言えば、ザルツで起きている荒ぶる百合の事件に昨夜から大きな進捗があり、今回は、珍しくディノがヒルドに同行してザルツに出掛けてくれているのだ。


どうやら、話に聞いていた楽器の弦の張り替えは、思っていたよりも取り返しのつかない事だったようだ。


一挺のバイオリンが、楽器ではなく封印の贄だと知らずに保管されていたのは、よりにもよって数年前にも問題を起こした伯爵家だという。

著名な音楽家を輩出することで有名な一族なのだが、だからこそ、曰くのある楽器や楽譜も集まってしまうようで、今回のような事件が起こるのだろう。


その結果、バイオリンが最後に奏でた音楽と共に封じていた、古い白百合の呪いを吐き出してしまったのだった。



(作業を依頼された方は、亡くなってしまったらしい……………)



だが、幸いにも、その呪いについてよく知っていたのがディノだ。

当事者ではないのだが、その呪いを封じた者を知っているのでと、ザルツに赴いてくれた。

場合によっては小規模ながら鳥籠案件になりかねないので、別の鳥籠に入っているウィリアムの手を借りずに済むようにと手を上げてくれている。


なので今回は、いつものノアではなく、ディノがヒルドに同行して現地に赴いていた。

ネアがお留守番となったのは、古い時代の妖精の白百合の呪いは特に既婚女性に障るそうで、今回は古い魔術でもあるということを踏まえた上で、その呪いの標的ではないものの、耐性のないネアが近付かない方がいいだろうと判断されたからだ。


夜明けの光の内が一番扱いやすいというので、ディノは夜明け前からザルツに出掛けており、その間、ネア達の部屋には義兄が滞在してくれている。



本来であればなんてことはない、一日の始まりの時間だけ。

ディノが不在にするのはそんな時間で、何も起きない筈だったのだけれど。



「ネア?……………ありゃ、何だろうこれ。おかしな魔術領域だね。お気に入りの道具かい?」


ノアはすぐに来てくれた。

そして、ネアが視線で示してみせたコンパクトを見るなり、眉を持ち上げる。

いつもの夜明けのようにくしゃくしゃの髪の毛ではなく、今日ばかりはきりりとしたお留守番魔物仕様だ。


「いえ、朝起きて、顔を洗おうとしたらここにあったのです。逃げるといけないので、目は離していませんが、一度手に取って蓋を開けてしまいました」

「……………おっと、見ず知らずの道具なんだね。そうなると、何だろうな。……………障りや呪いの顕現にしては静かだし、……………うん、妙に物静かなんだ。品がいいという感じすらある。……………ネア、僕の背中にしっかり掴まっていられるかい?」

「むむ、こうです?」

「そうそう、腕を回して離れないようにね。……………うん。わーお、いいぞ。役得だなぁ」

「きりんさ……」

「ごめんなさい」


叱られてしまった塩の魔物はくしゃりとなったが、それでも、魔物らしい鋭い目で、繊細なピンク色のコンパクトを検分していた。

鏡越しに見つめるそんなノアの表情は、僅かに微笑みの形に歪んだ唇が、如何にも享楽的な魔物であるという感じがしたが、実際には、絨毯を虐待した罪でヒルドに叱られてしまう家族なのだ。


だが、そんな見慣れた魔物が整った指先でそっとコンパクトに触れると、ざざんと、鏡の向こうで何かが揺れた。



(……………あ、)



どこからともなく聞こえてきたのは、優雅なワルツだろうか。

ネアの世界にある歴史とは違い、こちらの世界にはこちらの世界のワルツがある。

諸説あるが、高位の人外者達が祝祭で踊った事で広められたダンスであるらしい。


そして、人間の奏でる音楽と、人ならざる者達の領域で奏でられる音楽はどうしようもなく違っていて、今聞こえてきているのは人間用の旋律だろう。


それでも、見知らぬ場所にいつの間にか立っているのだ。

こんな足元がすとんと抜けるような風景の転換には未だに慣れず、目を瞬いたネアがぎゅっとしがみつくと、ノアもそんなネアの腕を掴んでいてくれた。


ゆらゆらと雨の日の窓のように視界が揺らぎ、おや、徹夜で本でも読んだかなという具合に世界が曇る。

どこか曖昧な世界の中で、唯一くっきりとしているのは、どこからともなく聞こえてくるワルツだけ。



「……………夜です」

「ありゃ。夜になったね。……………うん。やっぱりこれは、招待状だね。恐らくはリーエンベルクからのものだろうから、危険はないと思うよ。僕は兎も角、ネアの事は凄く気に入っているからさ」

「まぁ。リーエンベルクからのものなのです?」

「うん。魔術の繋がり的にそうだと思うよ。……………でも、ここはザルツなのか」

「……………ザルツ?!」



ノアの思わぬ言葉に、ネアはぎょっとして周囲を見回した。


今、二人が立っているのは、王宮のような壮麗な内装を持つどこかの建物の、人気のない廊下である。

人気がないのは、どこか近くの広間で舞踏会が行われているからだろう。

ネアにも馴染みのある音楽と喧騒に、ふくよかな花の香りとシュプリの香りは間違えようもない。



ただ、そんな華やいだ場所に落とされたネアには、たいへんな懸念があった。


「ノア、……………アルテアさんのくれたものですが、私は今、寝間着なのですよ」


へにゃりと眉を下げてそう申告すると、こちらを見た塩の魔物は、青紫色の瞳を煌めかせて小さく笑う。


「あはは、だよね。化粧道具だったから、ある程度の装いを整えてから開くだろうって計算だったのかな。でも、どんな理由で招かれたのかは分からないけれど、このままザルツの帝国劇場を歩くとなると、僕の妹はさすがに嫌だよね。何かこの場所に相応しいドレスに着替えようか」

「……………ふぁい。緊急時用の靴は金庫に入っていますが、まさかの、ぺたんこらくちん部屋履きで、こんな場所に連れて来られてしまいました。ノアが一緒にいてくれなかったら、たいへんな事故になるところだったのですよ」

「……………うーん、多分だけど、僕やシルがいないと開かなかったって気がするよ。ネアが触れても何の反応もなかったのって、扉の魔術が動かなかったからだからね」

「ぐるる……………」



では、あの可憐なコンパクトは、ネア達をどこに招いたのだろう。



(……………帝国劇場?)



ノアは招待状という表現を使ったので、この場所に招かれた目的があるのは間違いない。

それとも、時々在りし日の広間を扉を開いて見せてくれるように、遠い日の思い出の景色を見せてくれているつもりなのだろうか。


ネアが王宮だと思った建物は劇場だったようだが、聞きなれない帝国という響きに首を傾げる。

ウィームであれば、王国と表現するべきだ。

それなのに帝国という名を持つ劇場は、どんな時代背景に建てられたものだろう。


大きく取った窓は硝子をふんだんに使ってあって、淡い金色と深みのある葡萄酒色の絨毯の組み合わせは、ウィームというよりも、ヴェルリアのような配色に思える。

あちこちに飾られた薔薇は深紅だが、さすがにそちらは、ウィームに多い花びらのぎっしり詰まったオールドローズの系統のようだ。


窓の外は美しい夜だった。

美しく、僅かに気怠げで艶めいている。

ザルツであることは間違いないのだとしても、どこか異国のような夜の色ではないか。



(……………でも、音楽の使い方が、ウィーム風ではないかもしれない)



聞こえてくるワルツは優雅だが、どこか焦燥感や歪さのある響きであった。

伸びやかに音楽を愛する者達の奏でる曲というよりは、誰かに弾けと命じられて奏でるような。

舞踏会そのものは華やいでいるのだろうが、ネアはふと、この舞踏会の主催者は好きになれないだろうなと考える。



「よいしょ。これでいいかな!」

「ふぁ!淡いラベンダー色のドレスになりました。斜め掛けのサッシュが綺麗な水色で、何て繊細な色合わせなのでしょう。……………むむ、ノアの髪型が、出会った頃の髪型になっています!」

「この装飾や魔術の感じだと、当時の僕はこうだからね。ここから擬態をかけるから、髪の色はネアと同じにして、ネアは少し色味を変えるよ」

「はい。ノアにお任せしますね」

「うん。らしさっていうのは、結果として強みであることが多いからね。本来の色彩からあまり離れないようにして、このくらいにしておこう」


近くに鏡がないので、ネアは、自分がどんな姿に擬態させられたのか分からない。

ノアに尋ねてみると、深い紫混じりの暗灰色の髪に、淡い灰色混じりの紫色の瞳になっているそうだ。

対するノアがネア本来の色彩を引き継いだ擬態を取り、漸く二人は、これで誰かに出会っても大丈夫という準備を調える。



「さて、ここはね、まだウィームに統合する前のザルツだと思うんだけど」

「そうなのですね。私は、ザルツはずっとウィームなのだと思っていました」

「ずいぶん昔からウィームの一部だったけれど、最初から少しというくらいの時代に愚かな領主がいてね、ロクマリアの前身だった国に取られたのさ。その国も今はもうないけど、ぱっと花火みたいに栄華を誇った国だったなぁ」

「ノアは、訪れた事があったのですか?」


遠くを見るような眼差しに思わずそう尋ねると、ノアは悪戯っぽい微笑みを浮かべる。

前髪をすっかり上げてしまい、髪の毛自体が短い今の髪型でそうすると、ひやりとするくらいに冷淡にも見えるのだから、装いというのは不思議なものだ。


「第三皇女と恋仲だったことがあるよ。でもまぁ、…………あの子はちょっと愚かだったね。国を滅ぼす土台を整えて、お洒落と舞踏会と見目のいい人外者との火遊びに夢中だった。僕が恋人だったのは、十日間だけ」

「十日間だけ……………」

「うん。試してみたいって言うから、いいよって言ったんだ。暇だったしね。この国はザルツを抱えて随分多くの音楽をあまりにも性急に磨耗したから、人外者が多かったんだよ。だってほら、そんな風に使い潰していったら、最上級の音楽もあっという間に枯れるからさ。最後に楽しんでおこうってなるからね」

「……………それは、愚かな事ですね」


ネアの声が低くなったことに気付いたのだろう。

ノアが小さく目を瞠り、得心したように頷いた。


「そっか。僕の妹の家族は、音楽家だったんだっけね」

「ええ。……………ですので、そうして音楽に身を捧げる方たちを、身勝手に使い潰すような道楽はいただけません。音楽はとてもありふれた楽しみですが、何世代にも亘って人々の心を震わせることの出来る爪と牙を持つ素敵な生き物なのですよ」

「ありゃ。……………僕の妹は、そんな風に音楽を見ているのかい?アルテアあたりが喜びそうな感じだけど、僕としては、大事な女の子が腹を立てているのは嫌だな」



そう呟いたノアが、すっかり剣呑な面持ちになってしまった乙女の鼻先に口付けを落とす。

むむうと顔を上げたネアににっこりと微笑み、舞踏会に誘うように腕を差し出してくれた。



いつの間にか、ノアは漆黒の盛装姿で、真っ白のクラヴァットが多色性の氷色を宿した白い髪によく似合う。

青紫色の瞳は硬質な輝きで、ディノと同じように、本来は温度のない冷たい美貌だ。

そんな面立ちで唇の端だけを義務的に微笑みの形に吊り上げると、アルテアとはまた違う色をした、悪しきものという感じがした。



「懐かしい夜の色だなぁ。僕にまだ心臓があった頃だから、この頃の僕は王族だったんだ」

「そう言えばノアは、ウィリアムさんと同じ魔物さんの王族だったのですよね」

「うん。だから、面倒な役割や付き合いも多かったよ。この頃が一番退屈してたかな。……………ネア、一曲踊ろうか」

「あら、廊下の真ん中で、でしょうか?」

「大広間には行きたくないしね。ここはさ、劇場を中心に配した作りで、こちらは左棟だろうね。こうして壮麗な回廊の奥に、ほら、……………あの扉の並びが分かるかい?あんな風に仕切られて、小さなサロンが幾つもある。お茶会や社交の為の小さな社交場だね。そこで親しい派閥ごとに部屋に集まって、演目や演奏の議論をしてから劇場に向かうんだ。劇場を挟んで奥にある右棟には、儀式会場や舞踏会が出来る大広間がある。公的な行事が行われるのはそちらだね」


巧みな説明のお陰で、ネアにも、この建物を使う人々の姿が鮮明に思い浮かぶようだった。

劇場を中央に配したせいで、王宮のような形になったのだなと思い窓の外を見ると、中央の大きなアプローチの向こうに広がる広大な庭園が見える。

花壇や薔薇園は左右の棟の側に偏っているので、中央にある広場では野外演劇や演奏会なども行われたのかもしれない。



「……………今のザルツには、もうこのような劇場はないのですね」

「どこかのあわいにはあるかな。……………ここは、アルテアに取られた筈だ」

「まぁ。アルテアさんに…………?」

「やるだろうなとは思っていたけれど、その権利や国を持っていた人間が、何か仕損じたんだろうね。そこに至るまでに、土地の守護を随分と失くしていたから、慎重なアルテアの管理なら、建物はもう残していないか、ある程度手を入れ直しているんじゃないかな。ネアの知っているザルツは、高低差のある土地だけれど、この劇場があった頃には、それなりに広い平地も有していたんだ」

「取られてしまった部分は、不可侵と言う感じなのでしょうか?それとも、忘れられてしまったのですか?」

「存在しなかった土地になっているんじゃないかな。私有地になってからは随分と見てないけど、さて、アルテアはどんな運用をしているやら。……………でも、今の僕達は、招待状に相応しいことをやっておこう」

「だから、ダンスだったのです?」

「うん。……………実際にその場に居た訳じゃないからちょっと記憶が朧げなんだけど、ここではダンスを踊っておいた方が良かった気がしたんだよなぁ……………」



伸ばされた手を取り、微かに聞こえてくる音楽に合わせてステップを踏むと、どこか不思議な気がした。


いつもの良く知っているノアなのに、まるで見知らぬ魔物のような眼差しに見える。

それは、ラベンダー畑で見かけたあの魔物よりも、ずっと謎めいた美しく恐ろしいものに思えた。



「ありゃ、……………緊張しているのかい?」

「ここにいるのは大事なノアなのに、まるで、見知らぬ魔物さんのようにも見えてしまうのです。こうして昔の髪型にすると、ノアはがらりと雰囲気が変わるのですねぇ」

「あー、それは結構言われるかな。何でだろうね。ウィリアムやアルテアは髪型を変えてもそこまで印象が変わらないのにさ。後は、昔の僕に寄せて気配を調整しているってのもあるね。知り合いに見付かったときに、説明するのは面倒だからさ」



そんな話をしていると、こつりと床が鳴った。


おやっと眉を持ち上げたノアが瞳を細め、ネアは、淑女の作法でふわり回り落ちるドレスのスカートの裾が落ち着くのを待ってから、ゆっくりと振り返った。



(……………あ、)



そこに立っていたのは、ノアとお揃いの漆黒の盛装姿のウィリアムだった。

一瞬、こちらに来てくれたのかと思いかけ、冷め切ったような冷ややかな眼差しに、この時代の終焉の魔物だと思い至る。



「……………ノアベルトか」


そう呟く声音すら冷たく、冬の夜にひたひたと森にたなびく夜霧のようだ。

夜闇の色の装いは軍服のようなデザインだが、僅かに異国風のビーズ刺繍のある腰帯が、不思議な色めかしさを添えている。

見る角度を変えると、僅かに聖職者めいた雰囲気もあるだろうか。

白い髪も白金色の瞳もそのままで、ネアは、人間の舞踏会にこの姿で現れたのだろうかと目を瞠ってしまう。



「やぁ、ウィリアム。擬態を解いたとなると、君の乙女はどうしたんだい?」

「君のように、移り気ではないからな。……………だがそうか、百合の口付け除けにここで踊っていたのか」

「……………ああ、……………まぁ、そうだね。そう言えば百合の口付けか」

「まさかとは思うが、もう酔っているのか?」

「嫌だな。いくら僕でも、大事な女の子と一緒にいる時にそんな事はしないよ。酩酊して楽しい遊びと、こうして女の子と過ごしたい夜は違うからね」

「……………参加者を連れ出すのは構わないが、広間での騒ぎに加わるつもりなら、少し削いでおいた方がいいのかもしれないが……………」

「わーお。そうやって、僕の話を聞かないで剪定に入るの、悪い癖だよ。言っておくけど、僕は白百合の呪いに繋がるような悪さには関わってないからね」

「皇女の一人と話があったと記憶しているけれどな」

「まぁ、暇潰しにちょっとね。でも、さすがに今夜の騒ぎは悪趣味だ。僕の良心はまっとうな形じゃないけれど、それでも嫌いなものもあるんだよ」



何か、思い出した事があったのだろう。

最初の歯切れの悪さから一転、ノアはすいすいと言葉を返している。

だが、最初に見せた僅かな躊躇いが、終焉の魔物をいたく警戒させたようだ。



(……………白百合)


そんな言葉に短く息を呑んだのは、そんな花に纏わる事件に伴侶が向かったばかりだからだ。

であれば、その日の朝にどこからともなく現れたコンパクトが、ネア達をここに招き入れたのは果たして偶然だろうか。


そう考えながら眉を寄せていると、ふいに視界が翳った。



「……………っ、」


距離を詰められ、シャンデリアの光を遮るように立ったウィリアムは、見知らぬ魔物の顔をしている。

それは、今のノアに感じる落ち着かなさとはまた違う、ラエタの影絵で会った終焉の魔物によく似ていた。


「……………やはり人間だな。望んで広間を出たのでなければ、戻った方がいいだろう」

「……………なぜ、そのように仰るのですか?」

「彼が、人間にとって良き隣人ではない事以外にか?」

「ええ。煩わしそうにされているのに、どうして気遣って下さったのだろうかと不思議に思いまして」


ネアがそう言えば、ウィリアムは、白金色の瞳を僅かに瞠った。

人間とは違う異形のものが、じっとこちらを見るような居心地の悪さを堪え、その瞳を真っ直ぐに見返す。



「だとすれば、君が終焉の子供だからだろう。俺の系譜の証跡を持つ子供が、この領地を腐らせる為の毒のひと雫にされるのは不愉快だからな」

「この場所を大事にしていらっしゃるようには見えないのに?」

「……………随分と踏み込むな。ノアベルトの寵を得ているのだとしても、彼と俺の線引きが同一だとは思わない方がいい。君に、俺の事を語る資格はない」

「踏み込むというよりは、少し気になったのです。うんざりしたような疲弊しきった目をした魔物さんが、私を見るなり不愉快でならないという顔をしたのに、それでも忠告をして下さったものですから」



隣にはノアがいて、そんな義兄は、何も言わずに面白がるような目をしていた。

この時代の自分に合わせてということなのかもしれないが、腕を引いてここは失礼しようと言わないのは、ノアも、目の前の終焉の魔物が何某かの限界を迎えつつあることに気付いているからだろうか。


ネアの言葉に短く息を呑み、ふっと、ウィリアムの瞳が揺れる。

けれどもそれは、心を揺らすような変化ではなく、単純に怪訝そうな面持ちなのだろう。



「……………疲弊している?」

「もううんざりだ、大嫌いだというような目をされているように見えます。……………そして、ご忠告をいただきましたが、私は広間には帰ろうと思いません。どうやら、ここにいる方々の音楽の弄び方は、私の嗜好に合わないようですし、広間では、何か面倒な事が起こっているようですものね」



(……………帰ってしまえばいいのに)



少しだけ乱暴な衝動で、ネアはそう思った。

こんなに冷え冷えとした荒むような目をしているくらいなら、こんな所からは立ち去って、あの美しい離宮や、砂漠のテントでのんびり体を休めていて欲しい。


それなのにどうしてこの終焉の魔物は、心底軽蔑するような眼差しで、けれども、こんな装いで舞踏会にやって来たのだろう。



「白百合の呪いだよ。悪趣味な催しだよね。……………音楽家達に才を競わせ、あの劇場で品評会を行ったんだ。この国の第一皇女のお気に入りの遊びは、一番才能のある音楽家を召し抱えることで、半年ごとに大勢の若く見目もいい男の音楽家だけを競わせて、最下位の人間からは音楽を取り上げる」

「……………その皇女様を、階段かどこかから突き落とせばいいのです?」

「ありゃ。もしかして怒ってる?」

「ますます、あの広間には行きたくなくなりました……………」

「うん。行かない方がいい。……………今夜はさ、そんな風に愛する男を壊された白百合の妖精が、皇女のお気に入りのバイオリン奏者に呪いをかけたばかりだ。彼女の愛する男が寝る間も惜しんで書き上げた楽譜を焼き払った、嫌な奴だったみたいでね。……………誰がそれを治めたのかなと思ったけど、ウィリアムだったみたいだね」

「……………あのままだと、鳥籠になる。階位はさておき、植物の系譜の固有の呪いは厄介だからな」

「でも、自分を思ってくれる誰かとのダンスは、踊れなかった?」



ノアの言葉に、ウィリアムの表情がいっそうに冷ややかになる。

それはどういう意味だろうと目を瞬いたネアに、ノアは、白百合の乙女の顛末を教えてくれた。



白百合の妖精に呪われた音楽家は命を落としたが、彼女は、呪い殺すつもりであった皇女の命までは奪えなかった。

突然現れた名もなき音楽家が、素晴らしいバイオリンの演奏で白百合の呪いを封じてしまったからだ。


だが、呪いを封じられた白百合の妖精は、広間に居る者達に最後の呪いをかけた。

それは、最初に展開されかけたもの程無差別ではなかったが、この夜に自分を心から案じてくれるような者とのダンスを踊れないと、一年の間音楽に触れられなくなるという厄介な呪いだ。


復讐の為に持ち込んだ呪いを封じられた白百合の妖精は、最後に、自らの命と引き換えにそんな呪いを残したのだった。



「ではあなたは、あまり好きでもない人達の為に妖精さんの呪いを封じて差し上げ、尚且つ、きっと本当はある程度同情的な思いすら抱いていた妖精さんにも、死なれてしまい、尚且つその呪いを受けてしまったのですか?」

「……………俺が、その妖精に同情していると思ったのは、なぜだ?」

「この場所にうんざりしているのなら、まず、そちらに同情的になるでしょう。因みに私は、断然妖精さん派です。……………それに、広間から聞こえてくるのは、先程からずっと苦し気なワルツで、それなのに楽しそうな歓談の声が混ざるのですよ。……………そんな事件があった後の様子には到底思えませんし、それすらも余興のように楽しまれてしまっているのなら、そのような方々なのでしょう」

「……………それを強いているのは、この帝国の皇族達だ。彼等にとっては、他人事でしかないからな。夜が明けて、音楽に触れられなくなった音楽家たちを放逐するばかりだろう。苦い思いを抱いている参加者も多いが、かといって」



ネアは、静かな声でそう言ったウィリアムを見上げ、ノアの腕をくいくいっと引っ張った。



「……………えー」

「ノアは、狐さんにでもなって、私の首に引っかかっていればいいのです」

「まぁね。そうすれば君から手を離さなくて済むけど、……………ウィリアムかぁ。それにここは、本来の場所には紐付かないよ?」

「危険だというのならやめておきますが、ただ、どこかの舞踏会で出会った見知らぬ誰かのように出来るなら、そうしたいのです。……………それにきっと、私は大丈夫なのでしょう?」

「……………まぁね」



肩を竦めてみせたノアが、ふっと微笑みを深める。

仕方ないなぁというような微笑みの甘さに、ウィリアムが瞠目した。



「ウィリアム。僕の大事な女の子が、君をそんな状態で帰せないって言うんだよね。僕は妹に甘いから、渋々そのお願いを聞き入れるしかない訳だ。……………だから、一曲の間だけ、……………あ、踊るっていう条件設定だから一小節だけでもいいのかな。……………まぁ、その間だけ、この子を貸してあげるよ」

「……………ノアベルト?」

「白百合の口付けの条件から、外れた方がいいんじゃない?だって、ウィリアムは、煮詰まった時には結構バイオリン弾いてるもんね」

「俺に、……………彼女と踊れと言うのか?」

「すぐに済むので、ちょっと嫌でも我慢していて下さい。何なら、私がリードするのでその間は目を瞑っていてもいいですからね」

「……………え、それ、何か違う意味に聞こえる」



ネアは、どれだけここに居られるかも分からないのでと、唖然とした面持ちでこちらを見ているウィリアムの手を、むんずと掴んでしまった。

ふっと目を瞠ったウィリアムが、僅かに眉を寄せたのは、ディノの指輪の気配を感じたからだろうか。

その隙にぽふんと擬態で銀狐姿になったノアが、ネアの肩の上にひょいと下り立った。

もう少し重いかなと思っていたのだが、いつもより小さめ狐なのかもしれない。



「……………君は、」

「時間がないかもしれないので、さっと条件を整えてしまいましょう。……………私は、あなたの持つものには損なわれないので、少しだけ観念して踊って下さいね」



ちょうど、曲が終ったのだろう。

わぁっと歓声が聞こえてきて、広間は大盛り上がりのようだ。

とは言え、皇族のご機嫌を損ねない為のから騒ぎであれば、ますますそんな場所には行きたくない。


そもそも、呪いをかけようとした妖精を封じたのがウィリアムなら、どうして彼は、たった一人で広間を出てきたのだろう。

誰も、自分達を守ってくれた音楽家を追いかけようと思わなかったのか、それとも、退出を認識されないように魔術的な何かを施し、うんざりしたウィリアムが一人で出てきてしまったのか。



(魔物さんとしての盛装姿なのだから、呪いを封印した音楽家と、このウィリアムさんとが同一人物だと思われないようにしていたのかしら。でも、人外者の多い場所のようだから、そこまで気を遣ってはいないのかもしれない……………?)



どこか途方に暮れているような魔物の手を取り、ネアは、始まった次の音楽に合わせてぐいっと引っ張った。

すると、諦めたように息を吐き、ウィリアムの手が腰に回る。



「……………我が儘だと言われることは?」

「あるでしょう。そして、とても強欲です」

「成る程、ノアベルトと似合いかもしれないな」



いつものダンスとは違い、余所余所しくて強引で、優雅で軽やかだが、どこか嘲るような冷え冷えとしたダンスだ。

愚かな人間の我が儘に付き合ってやっているという感じでしかなかったのだが、そんなウィリアムの表情が、何度目かのターンの時にふっと変化した。



「……………呪いが、」

「む。もう解けました?」

「……………ああ。……………君と踊って、解けたのか……………」

「であれば、もう、こんなところとはおさらばして下さいね。この後に予定がないのであれば、お家に帰って楽な服装に着替え、のんびりゆっくり休むべきです。……………ゆっくり寝るか、美味しい物でも食べるか、或いは、きっとバイオリンを弾くのもいいのかもしれません」



その言葉を、こちらを見ている終焉の魔物は静かに聞いていた。

やや呆然としたように、或いは、何かを見定めるように。


音楽はまだ続いていたが、ウィリアムが動きを止めてしまったので、ネアは、もういいだろうと預けていた手を引き抜き、肩の上に上手に引っかかっていた銀狐も、ひょいと飛び降りがてら擬態を解く。



「うん。条件は満たしたみたいだね。……………あ、僕達の滞在時間もそろそろかな。記憶の共有と、ウィリアムの介護と、どっちが招待状の目的だったと思う?」

「後者の方が素敵ですが、介護ではなく呪いを解くお手伝いでいいのでは?」


そんな話をしていると、こちらを見ていたウィリアムが、まるで目の前で突然ネア達が消えてしまったかのように視線を彷徨わせた。

おやっと思っていると、またくらりと視界が揺らぎ、ひたひたと桶の中で揺らされる水面のように、周囲の景色が曖昧になる。




「……………ほわ、お部屋に戻りました」


視界の揺らぎが鎮まる頃にはもう、ネア達は元の場所に立っていた。

お互いに擬態はそのままだが、いつもの部屋のいつもの洗面台の前である。



「うん。戻ってきたね。……………あ、コンパクトはなくなったね。あの道具と、先程の場所の繋がりがいまいち不明瞭だけど、このリーエンベルクで暮らした誰かが、あの日の記憶を有していたのかな」

「もしかすると、ここに暮らすような方の中に、あの夜の舞踏会に招かれていた方がいたのでしょうか?」

「うん。その上で、あの国にあまり良い印象は持っていなかったんじゃないかな。……………もしかしたら、一人で広間を出ていくウィリアムを見て、踊ってあげたいって思ったのかもしれないよ」

「……………そうだったのなら、私達があの場所に招かれたのも納得なのです!」

「多分さ、今回のザルツの一件についての話をしていたことで、リーエンベルクの記憶に触れたんだろうけど、あのコンパクトも、もしかしたらどこかに残ってるのかなぁ。エーダリアに聞いてみる?」

「むむ!聞いてみたいです。まずは、ドレス姿から寝間着に戻り、その後で着替えを済ませ、朝食の席でにしますね。……………ほら、窓の外が随分と明るくなってきましたから」

「うん。シル達もそろそろ帰ってくるかな」



なお、ネア達が見かけたコンパクトは、後日、ウィーム中央博物館に収蔵されている事が分かった。

ウィームの王族の持ち物だったと言われており、随分と古いものなので、中央の金の装飾の模様の一部は、削れて見えなくなってしまっているそうだ。


ザルツで封印を解かれてしまった白百合の呪いは、無事にディノとヒルドの手で封じられたそうだ。

対象となるような生贄を与える訳にはいかないので、呪いの成就は難しい。

よって、かつて終焉の魔物が扮した音楽家が呪いを閉じ込めたバイオリンは、今後、伯爵家の手を離れて封印庫に眠る事になる。



ネアは、その日のことを覚えているかウィリアムに聞いてみたかったが、何となく躊躇われた。

しかし、ディノによると、あの夜以降のウィリアムがとても荒んでいたので、理由を聞いたところ白百合の呪いの話を聞いたのだとか。

だからこそ、今回の呪いにも覚えがあったのだと聞けば、終焉の魔物は、音楽に触れられない一年を過ごしたのかもしれない。



「ディノは、その時の事を覚えていたので、ウィリアムさんが気付いてしまう前に収めようとしてくれたのですね」

「そうかもしれないね。ヒルドが妖精の眠りの魔術をかけていたから、白百合の妖精も、この先の封印では穏やかに眠るだろう」




ネアは、ウィリアムと白百合の妖精とその恋人のことを思いとてもむしゃくしゃしたので、今年の薔薇の祝祭では、ウィリアムの為に薔薇のマフィンも焼いてしまうぞと心に誓ったのであった。












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