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薔薇のカタログと天井からのお客




ネアはその日、部屋に届けられる筈の薔薇のカタログを心待ちにしていた。


今年もまた、新しい品種の薔薇が出ているという前情報を聞いたのだ。

黄色い薔薇らしく、その色の系統はゼノーシュの担当領域なので、こちらで頼む事はないと思うが、図鑑のような薔薇のカタログを受け取るといつも心が弾んでしまう。


繊細で複雑な色合いや様々な花の形。

見れば見る程色とりどりで、どんな薔薇も美しい。

ページを捲る度に心が色付くような薔薇の祝祭の専用カタログは、来る祝祭に向けての期待感や高揚感も盛り上げてくれる。



(新しい薔薇の絵を、早く見たいな………)



そう思い、唇の端を持ち上げるとネアが弾むような足取りになるのも致し方あるまい。

愛情を形にする誰かがいなければならない祝祭は、選べる薔薇の数が多い程贅沢な気持ちにさせてくれる日なのだ。

伴侶や家族がいると思うだけで、たいへん満ち足りた気持ちになってしまうのである。



廊下の絨毯を踏む爪先はふかりと柔らかく、窓の外は朝からしっかりとした雪が降っていた。

青白い雪の日の光の色は、青い絨毯を美しく美しく際立たせる。


窓枠の装飾は華美なものでは無いが、この大廊下はアーチ型の窓が等間隔に並び、天井から吊り下げられたシャンデリアの煌めきも含めて王宮らしい装いだ。

リーエンベルク内の大通りにあたる廊下はこのような造りなのに対し、中庭側にあるもう少し狭い廊下には長方形型の窓のところもあった。



あの区画に、この区画。

リーエンベルクを訪れたばかりの頃は迷路のようだったが、今はもう、見ただけでどの棟なのかが分かるような場所も多い。


その美しさは人ならざる者達の住まう禁足地の森のような静謐さがあって、単純に贅を尽くして造られたというよりは、やはりリーエンベルクは、おとぎ話の王宮なのだった。

それはつまり、ネアは未だに歩くだけでもうきうきだってしてしまうということである。

薔薇の祝祭を控え既に心が弾んでいる乙女は、これでもかとご機嫌であった。


「可愛い、弾んでしまうのだね」

「ええ。薔薇の祝祭のカタログを見るのは、大好きなのです!」

「カタログが好きなのかい?」

「基本的にカタログ一般は好きな方だと思いますが、以前は、カタログのようなものを見ても心が弾まない事もあったのですよ」


そう言えば、隣を歩いていたディノが目を瞠る。

水紺色の瞳は澄明で、真珠色の睫毛の影にも雪の日の光が揺れていた。


「そうなのかい?」

「ええ。綺麗だなと見ていられるものもありましたが、自分には何も手に入れられないのだと考えるのは、とても惨めで悲しいことでした。しかし今は、望めば綺麗な薔薇を買えるので、たっぷりと素敵な薔薇の紹介されているカタログを見ていても、楽しいばかりになったのです」

「……このような時ではなくても、好きなだけ、望んでいいんだよ?」


案じるようにこちらを見た優しい魔物に、ネアは、微笑んでぴょいと跳ねる。


自分のお金で美しい薔薇を購入して我が物に出来るという自由さが持つ喜びも勿論だが、こうして、大事な魔物がいて、その魔物が薔薇を贈ろうという愛情を向けてくれることに勝る贅沢さはない。

契約した魔物がどれだけ素敵でも、薔薇なんてどうでもいいというような魔物であったなら、そんな贈り物こそに憧れるネアは、とてもむしゃくしゃしただろう。


「ふふ、私はとても強欲なので、そんなことを言われると、何だか素敵な贈り物を欲しくなった時に、薔薇を一本買って貰ってしまうかもしれないですよ?」

「一本でいいのかい?」

「ええ。薔薇の祝祭のように花束の薔薇が嬉しい時もあるでしょうが、ディノからの贈り物が欲しいなと思ってお願いした時に貰える一本の薔薇は、きっと特別な贈り物のように思える筈です。或いは、私が薔薇を買って、ディノに贈るのもいいかもしれません。大切な魔物に贈り物が出来てしまうのも、この上ない贅沢ですものね」

「虐待する………」

「解せぬ」



なお、今年の薔薇のカタログの予約特典は、綺麗な薔薇の絵のタペストリーであった。

薔薇の花束や薔薇園を表現したものではなく、ふくよかな菫色の織物の真ん中に一輪のバラが表現されたものだ。


ネアは散々迷ったものの、思っていたよりも大きく飾るところがないのでと、今年は自費購入を見送ったのだが、その後、一足先にリノアールに飾られていたタペストリーをうっかり目撃してしまい、思っていたよりもずっと美しかったタペストリーに憤死しそうになった。


今でも、その瞬間の事を思うと机に突っ伏したくなる。


実物を見ることでしか分からない美しさというものがあるし、印刷ではなく織物なのだから、糸の種類や織り方、表現の質感などもそれぞれだろう。


だがネアは、そんな事をすっかり失念していた。


おまけに今回のタペストリーの制作工房は、ネアが知らないだけで、有名な工房だったらしい。

その名前に飛び上がり、慌てて薔薇のカタログを注文した者も多かったと聞けば、ネアは、どんな付録も実物を見なければいけなかったのだという苦い失敗を噛み締めざるを得なかった。



(ああ、欲しかったなぁ………)



物欲というのは不思議なもので、もし、買いそびれたのが店頭にあるような品物だったら、こんな落胆は感じずに済んだのかもしれないと考えないこともない。

予約特典には予約特典の良さがあり、こんなものが付いてくるなんてという喜びも商品の内なのだろう。

だからこそ、買い逃した時の落胆の大きさには、皆の手の中にある素敵な贈り物を貰い損ねたような不思議な苦さがあるのだった。


勿論、実物を見て慌てて書店に駆け込んだのだが、あまりの人気に予約分も三日で完売してしまい、その後二次予約が行われたのだと聞けば、間際になって思い立っても間に合うような物ではなかったのだろう。

そして、ネアが書店で打ちひしがれている間にも、半泣きで駆け込んできて同じ顔になったご婦人がいたので、タペストリーならいいやと思って仕損じたのはネアだけではなかったらしいのが、せめてもの救いだろうか。


なお、ネアがあまりにも織物工房を調べたので、ディノが連れて行ってくれようとしたのだが、強欲な人間は、このような状況で同じようなものを求めて買うと、結局、最初に欲しかったものには敵わないという悲劇に繋がる事を知っている。

よって、暫くは、その工房の商品の購入も己に禁じておいた。


あれだけ美しい薔薇のタペストリーなのだ。


きっと、今回の予約特典を手に入れた人達や買えなかった人達が作品を見て再評価の流れとなり、暫くの間、工房は忙しくなるだろう。

後悔をしない買い物の目安は、その流れが落ち着く頃合いである。

皆のタペストリーブームが終わっても尚、欲しいと思った感情が残っているかどうかで判断しよう。



(私はとても賢いので、失敗に失敗を重ねたりはしないのだ!)



ふんすと胸を張ってそう考えた乙女は、薔薇の祝祭限定の銀狐カードで、自分が幾ら使ったのかは考えないようにしている。

場合によっては、夜中に泣きたくならないように、誰かにその記憶だけを消して貰った方がいいのかもしれない。


カードいっぱいの薔薇の花籠と、籠に前足をかけて花びらを散らせたけばけば狐のカードは、可愛さと美しさのバランスが素晴らしい、近年稀に見る当たりカードぶりであった。

失敗を取り戻すべく投資した金額は、きっとあのカードを手にする瞬間を夢見る為に使ったに違いなかった。


「今年のカタログでは失敗してしまいましたが、来年はこのような悲しみに見舞われないように、事前にしっかりと情報収集をします!」

「うん。あのタペストリーが欲しいのなら、工房に同じものを依頼してはどうだろう?」

「………ぎゅ、………ぎゅむ!それは、己が敗者だという事を噛み締める行為に繋がりますので、今回は潔く諦めます!その代わり、あちらの工房が落ち着く頃合いの具体的に言えば晩秋の頃合いに、一度工房を訪れてみたいと思います」

「晩秋と決めているのかい?」

「ええ。私なりの計算による最適な時期なので、その時は一緒に行ってくれますか?」

「うん。欲しいものがあれば、好きなだけ買ってあげるよ」

「………ふぁ」


優しい伴侶の言葉に、工房を訪れる日を心待ちにしてしまうのは、ネアがまだ未熟だからだろう。

だが、その時こそ、今回の薔薇のカタログの予約特典よりも素晴らしい品物を見付けてみせると思えば、ちょっぴりささくれ立った心が宥められた。

後はもう、類似品に飛びつき失敗しないよう、当分の間は軽率な買い物を控えるばかりだ。


勿論、銀狐専門店の前は、当分通るつもりはなかった。



本日の任務は幾つかある。



まずは、会食堂に用意されている貸出用のカタログを借りてきて、薔薇の祝祭で選びたい薔薇を大まかに選んでおくこと。


祝祭用の薔薇は、見本が来てから注文を変える事は出来るが、お目当ての薔薇の見本が届かない事もあり得るので、実物を確認しておきたい薔薇は、予め届くかどうか確認しておくといい。

その為にも、カタログに目を通しておくことは大切な備えである。



「ですので、薔薇のカタログを受け取って、午後のおやつまでの間に薔薇選びをしましょうね。念の為に晩餐の時間まで借りていますが、あれは、読み直せば読み直すだけ迷路に入る恐ろしい書物なので、出来るだけ早く候補を絞るのがこつなのですよ…………」

「恐ろしいのだね………」

「はい!大事な魔物に特別に素敵な薔薇を贈りたくて、どれもこれも素敵な薔薇に見えてくるのですから、無垢なる乙女の心を惑わせる効果があるに違いありません…………」

「ずるい…………」

「ふふ。また、お部屋に沢山の薔薇がもらえる季節になりましたねぇ」


この季節は色とりどりの薔薇があちこちに生けられているので、雪の色影を落としたリーエンベルクにはパッチワークのような彩りが加わり、なんとも華やかだ。

春や夏の花々の色とはまた違う、薔薇の祝祭だけの色があって、瞼を閉じるとそんな色付いた幸福に身を浸すことが出来る。


「庭の薔薇と、花瓶に生けた薔薇は違うのだよね……………」

「ええ。どちらにも良さがあって、それぞれに出会えないといけないのですよ」

「うん。部屋に飾る薔薇は、届けられた見本の中から選ぶのがいいのだろう?」

「はい。ディノは、前にお話ししたことを覚えていてくれたのですね」

「うん。君が好きなようにしよう」


以前の薔薇の祝祭の時に、ネアがあまりにも部屋に飾られた薔薇を喜んでしまうのでと、ディノが、庭に咲いているありったけの薔薇を切り花にして持ってこようとしかけた事があった。

リーエンベルクの庭園の薔薇は、景観を作るだけではなく、広大な土地の中で暮らしている小さな生き物達の糧や傘でもある。

そんな薔薇を一網打尽にされかけたあの時は心臓がぎゃっとなったが、幸いにも、ディノは欲しいだろうかという提案から行ってくれたので即時却下し、リーエンベルクの庭の薔薇を全て手折ってはならぬと説明する事が出来た。


はっと息を呑む程に美しい魔物が、ちらりとこちらを見て三つ編みを手渡してくるのは変わらない習性だが、今はもう、ご主人様は風景を見たいので窓側を歩くということをよく知っていて、こんな日は窓側歩行を譲ってくれる。

ネアは、そんな伴侶がとても愛おしくなり、歩きながらばすんと体を寄せてみた。

しかし、伴侶にいきなり体当たりされた魔物は、目元を染めてがくりとよろめくではないか。


「ぎゃ!死なないで下さい!!」

「……………ネアが、虐待した」

「ぐぬぬ、本物の虐待のようになりました………」

「すごく触れてくる………。甘えてきた………」

「そ、そちらなら、私の評判は死なないので、くれぐれもそのように言うのですよ………」


壁にもたれかかってへなへなになってしまったディノを慌てて引っ張りながら、ネアは、危うく魔物虐待の疑いをかけられかねなかったぞと、手の甲で額の汗を拭う。

何だか、それもそれで問題がある気がするものの、ご主人様からの体当たりは、攻撃ではなくご褒美なのだと皆に共有しておきたい。




「何をやっているんだ………」


人影が落ち、もしや今のやり取りを見られてはいまいかと警戒するように顔を上げたネアが見たのは、なんとも不思議な組み合わせの三人、もしくは二人と一匹だ。


けばけばになった涙目の銀狐を抱いたエーダリアに、なぜか隣にはアルテアも立っている。

おや、パイのお届けの予定があったかなと首を傾げると、目を細めた選択の魔物が、先程まで行われていた、ダリルを交えた会議に招かれていたのだと教えてくれた。



「まぁ。統括の魔物さんとしての出席だったのですね………」

「他の何だと思ったんだよ」

「………パイのお届け的な?」

「お前な………」

「今回は、ザルツとアルビクロムとの業務提携の調整だったのだが、こちらからの出席は、私とダリルだけだったからな。表立って良好な関係である事を示さずとも、アルテアがウィームから参加してくれたのは心強かった」

「そうだったのですね。………狐さんも、会議に参加していたのですか?」


しかし、ここでネアが、どうしても気になってしまいそう尋ねると、エーダリアの表情が曇り、銀狐の尻尾は使い古した歯ブラシのようにけばけばになってしまう。

ぎりりと眉を寄せると、アルテアが、呆れたような顔で涙目の銀狐を一瞥する。


「会議に使われた部屋の椅子の下で、仰向けになって寝ていたぞ」

「ほわ、狐さんが………」

「その、………私とダリルは、直前までそこにいることに気付かなくてだな。………アルテアが気付いて、会議が始まる直前に椅子の上に上げてくれたのだ」

「まさかとは思いますが、狐さんは………」

「……………ああ。そのまま、会議中は椅子の上で寝ていたのだ」

「……………会議終わりのエーダリア様が抱っこしているのでもしやと思ったのですが、最後まで起きなかったのですね」



ネアも呆然としてしまったが、そんな経緯を聞いてしまったディノは、いっそうに落ち込んだようだ。

アルテアがいるので、魔物としての自覚を促す為にノアの名前を呼ぶ事も出来ず、悲しそうにぺそりと項垂れてしまう。


ネアは、けばけば狐を抱いて必死にあやしているエーダリアの手助けもした方が良さそうだと考え、こちらの伴侶には、早々に自力で真っ直ぐ立って貰おうと、きりりとした。



「ディノ、真っ直ぐに立てますか?」

「…………椅子の上でも寝てしまったのだね」

「まぁ、狐さんの尻尾は、それ以上にけばけばになるのです?」

「こ、こら、落ち着かないか………」



ムギーと声を上げた銀狐は、せめてエーダリアには、何かを説明しようとしたものか、ムギャムギャと狐語で訴え始めた。

エーダリアの腕を前足でたしたし叩き、けばけば尻尾をぶんぶんと振り回して全身で釈明に入ったのだから、そんな銀狐を抱いているエーダリアは堪らない。


抱き上げている銀狐にそうされてしまうと、顔の前で尻尾をふかふかぶんぶんと振り回されることになる。

慌てて銀狐を宥めているが、すっかり前は見えなくなってしまったようだ。


アルテアは我関せずといった様子なので、ここは、何とかネアが助けに入るしかない。




しかし、そんな時にこそ、悲劇は訪れるのだろう。




(おや………?)



ネアは、突然、はっとしたようにこちらを見たアルテアが赤紫色の瞳を瞠った事に気付き、眉を持ち上げた。


素早く駆け寄ったアルテアにさっと抱き上げられてしまいとても驚いたのだが、それは、びたんと音を立てて天井から落ちて来た、沢山の触手を持つ生き物を見てしまう迄のことであった。



「ぎゃふ?!」

「バケツ怪人か………!!」



この至近距離なので、相手を刺激するのは得策ではないのだが、思わずといった感じでエーダリアが小さく呟き、その腕の中の銀狐がムギーと鳴いている。


だが、その時のネアにはもう、そんな家族の様子を見る事は叶わなかった。



ぎゅうぎゅうと、体を強く壁に押し付けられている。

とは言え、痛みを感じる程ではなく、ネアを持ち上げたアルテアが何とか僅かな空間を作ってくれているようだ。


しかし、思うように身動きが取れない狭さであるのは変わらない。



「………ぎゅ」

「ネア、大丈夫かい?」

「……………ふぁい。ぎゅうぎゅうですが、アルテアさんとディノのお陰で、あやつに直撃されて圧死せずに済みました……………」



どうやら、アルテアの只ならぬ様子に気付いたディノが、寸前で排他結界を展開して、うねうねと暴れる触手が体に触れないようにはしてくれたらしい。


しかし、ネア達が確保出来たのは、ほんの僅かな空間のみであった。

辛うじて確保したとても狭いスペースにぎゅっと押し込まれたか弱い乙女は、覆い被さるようなバケツ怪人の姿を直視しかけてしまい、くしゃくしゃになってしまう。



「……………無理でふ」

「シルハーン、気配は調整したか」

「………うん。まだこちらに気付いていないようだけれど、狂乱させたり、壊してしまうと、バケツに障りがあるからね。ネアは、薔薇の祝祭をとても楽しみにしているから、それは避けたいかな」

「こちら側には目がないんだろう。となると、俺達に気付かずに飛び降りたのか」

「ネア、大丈夫かい?」

「ぎゅむ。………アルテアさんと、とてもぎゅっとなっています」

「アルテアなんて………」

「おい、おかしな動き方をするな!」

「し、しかし、アルテアさんはあやつに背を向けていますが、持ち上げられた私は今、アルテアさんの肩越しにあやつのお腹と向き合っているのですよ?………で、ですので、アルテアさんの首元に顔を押し付けて目隠しするより他になく……」

「っ、………目を閉じればいいだろうが!お前の情緒はどうなってる!」

「は!目を閉じればいいのでした………」



しかしネアは、聡明さ故に、それが最善策ではないことにすぐに気付いてしまった。


目を閉じれば視覚情報は遮断出来るものの、このままでは、もしもの時に、バケツ怪人の直撃を顔面で受けることになりかねない。

よって、やはり使い魔の体の影に出来るだけ潜り込んでおくのが正解なのだった。



「や、やっぱり、アルテアさんにもぐりまふ!」

「……………おい、まさかとは思うが、わざとじゃないだろうな?」

「ぎゅ。このままでは、もし結界がぱりんとなったら、あのうねうねの足が私のお顔に直撃することになります。やはり、アルテアさんの体の影に身を潜める事にしますね」

「…………っ、お前な!おい、服を捲るな!」

「む。アルテアさんのいい匂いがしますが、今はそれどころではありません」

「アルテアなんて……………」


ふうっと、小さく呻いたのは誰だろう。

ネアは一生懸命顔を隠そうと奮闘しており、ぐりぐりと使い魔の胸元に顔を押し付ける。


「シルハーン、結界で押し戻せるだろう。もう少し空間を確保しろ」

「やっているのだけれど、………不用意にこちらに気付かせて、狂乱に繋がりかねないような負荷はかけられないからね。動きを見て、緩んだ時にだけ押している状態なんだ」

「長期戦になるのであれば、一度、私を地面に下ろしていただき、アルテアさんの体で完全に覆うようにしてくれてもいいのですよ?」

「残念ながら、もう少し押し戻さない限りは、その動きが出来るだけの空間もないだろうな」

「ぐぬぅ……………」



思いがけないバケツ怪人の出現により、窮地に立たされたネア達だったが、幸いにも、難を逃れたエーダリアがすぐ近くにいた。


こちらの窮地を見て取ったウィーム領主は、どうにかしてバケツ怪人をネア達から引き離そうとしてくれたらしい。


その際、腕に抱いていた銀狐を床に下ろしてしまったのだと、後にエーダリアは語ってくれた。


そしてその結果、うねうね動く触手に大はしゃぎした銀狐は、自分が塩の魔物であることを失念したまま、バケツ怪人にじゃれかかってしまったのだ。



いきなりもふもふの銀狐に飛び掛かられたバケツ怪人は、たいそう驚いたのだろう。

思わず、壁沿いにずるりと後退してしまい、ネア達はいっそうにバケツ怪人に包まれる事になった。


瞬間的には高位の魔物らしく対応してくれたディノも、バケツ怪人に押し潰されそうになる経験はさすがになかったらしく、どしんと圧迫を増された事で、すっかり怯えてしまったようだ。


よって、騒ぎを聞きつけたヒルドが駆け付けた時には、排他結界は死守したものの、蹲って震えるディノと、持ち上げてくれているアルテアの服の中に、何とか顔を突っ込もうとしているネアと、それを阻止しようとしているアルテア、更には、大はしゃぎの銀狐と、そんな銀狐を真っ青になって何とか捕獲しようとしているエーダリアという救いようのない構図になっていたらしい。



優秀な森と湖のシーの尽力によって、銀狐はすぐに捕獲された。


銀狐のあまりのじゃれっぷりに驚いてびったんびったん暴れていたバケツ怪人は、触手に狂乱した毛皮の生き物が引き剥がされた途端に、思っていた以上の素早さでその場から立ち去ってくれたので、自分が押し潰しかけていたのが、最高位の魔物達であるということには気付かなかったようだ。



「……………ヒルド、お前が来てくれて助かった。もし、バケツ怪人がディノ達の姿をしっかりと認識してしまい、狂乱や崩壊でもしようものなら、大惨事になるところだった」

「まったく。あのような動きをするものの前で手を離せば、こうなることは予測出来たでしょうに。……………ネア様、大丈夫でしたか?」

「…………ふぁい。何とか目を閉じたまま、無事に乗り切る事が出来ました……………」

「ほお、お前は、自分が何をしたのか覚えていないようだな?」

「まぁ。アルテアさんは、………私が目を離した隙に、なぜかちょっと衣服が乱れているのです?」

「アルテアなんて……………」

「あらあら、ディノはすっかり怯えてしまいましたね。この乗り物から下りたら、手を握ってあげますので…」

「虐待しようとする………」

「解せぬ」



ヒルドに捕獲された銀狐は、全力で触手と遊んでしまったのでと、その後、丸洗いされる事になった。


ネアは、七つも目があるのに、自分が押し潰しかけているのが白持ちの魔物だと気付かずにいたバケツ怪人が、実は目が悪い説を提唱してしまい、はっと息を呑んだガレンの長が、過去の記録を求めて書庫に駆け込む切っ掛けを与えることになる。


出現の仕方から、バケツ怪人は天井に張り付いて移動することもあると判明したことで、騎士達は警戒を強めたようだ。


海の近いヴェルリアなどでは、バケツ怪人のような生き物は少なくないが、毛皮の生き物が主流であるウィームの騎士達は、バケツ怪人を苦手としている者も多い。



とは言え今年も、深夜に廊下の突き当りにバケツ怪人に追い詰められたアメリアが失神するという悲しい事件が起こったので、警戒していても遭遇せずに済むものではないのかもしれなかった。


バケツ怪人は、よく使い込まれたバケツに派生する妖精なので、毎年、薔薇の祝祭の準備をする時期には顕現が避けられない生き物ということもあり、引き続き今後も対応策が練られてゆくという。



なお、塩の魔物の供述によると、銀狐姿の時には、不規則に動くものがとても魅力的に感じられるそうだ。

より魅惑的なお気に入りのボールなどがあれば、あの誘惑に勝てたかもしれないと述べている。











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