甘い夜と旋律の歪み
静かな夜だった。
その夜のしじまに響くのは、さらさらと紙を滑るペンの音くらいであったが、小さな呻き声が混ざる。
「…………また潰したか。書き音が美しいペンは少ないんだがな…………」
そう呟いたリシャードは、先の歪んだ水結晶のペンを足元の箱に投げ入れ、今月五十七本目の廃棄を嘆いた。
勿論、必要な磨耗品として毎月二箱は注文している愛用のペンだが、最近それを作ってくれている職人に老齢の衰えが見え始めていた。
書きやすさではなく、ペンを走らせる音が気に入っているのだと言えば、あの職人はその仕上がりの為の調整は難しいと言う。
しかし、三十本のペンを収めた一箱の中に一本の割合で微かに音が違うものが混ざり始めたので、体の機能が落ちてきたことで、作り方に癖が出始めた可能性が高い。
「さて、…………」
ばさっと重たい音を立てて、決済を済ませた書類を黒い漆塗りの木箱に入れる。
今回の申請書類やら始末書やらは、全て白藍と沈黙の教区で行われた任務時に提出されたものだ。
教会組織は何かと戒律に縛られる要素が多く、大掛かりな任務になるとこれくらいの量になるのは普通であるし、そんな任務が同時に複数箇所で動くことも珍しくはない。
それに加えてリシャードの枢機卿としての執務も求められる。
働き過ぎだと言う部下もいるが、この種の達成感はとても気に入っていた。
必要なことをした上で達成感も味わえるのだから、戒律の隙間を縫い咎人を選定する異端審問局の仕事は性に合っているのだろう。
勿論、この人間の作り上げた教会組織の持つ独特な静けさと歪さも、とても気に入っている。
「おお、まだ仕事をしているのか。余っている聖女がいたら、いつでも引き受けるぞ?」
ひたりと足音が落ち、そんな声が聞こえた。
月光だけを光源とした薄暗い夜の聖堂の中で、リシャードは瞳だけを動かして声の主の位置を絞り込む。
姿を隠す気はないものか、すぐに西側の柱の影に簡素な神父服姿の魔物を見付けた。
「トム神父。赤白の教区での仕事は終わったのかな?」
「あれは、教区内の怪異でもなく祟りものの仕業ではなかった。司教を守護する精霊の暴走だな。黒髪のシスターのことをあの司教が気にかけているのが許せないらしい」
「…………またその手の理由か。閉鎖的な組織ではあるが、当事者同士の揉め事も十分な数であるのに加え、その守護者や契約者達の相性まで考える必要があるようだな…………」
「剪定が必要な聖人がいなくてうんざりだ。もっとまともな仕事を用意しておいてくれ」
「コット司教については、元々北部の教区への異動願いが出ている。それを承認しておこう」
こつこつを床を鳴らして歩いて来たのは、それはもう悪名高い砂糖の魔物である。
教会組織としては、聖女というものは片っ端から食べてしまうので長年の仇敵と言ってもいい人物ではあるが、この国内においては良い管理者がいるようで、剪定してはならないものを砂糖にして食べてしまうことはない。
(飄々としてはいるし、穏健派であるという主張を国内では隠しもしない。だが、その実、あの国王は人間におけるアルテアやアイザックのようなものだ…………)
ごく稀に、人間にはそのような変異種が現れる。
だからこそ愉快であり、こうして人間が作り上げた組織に身を置く理由にもなるのだが、リシャードのようにそうした興味の対象に出会える者は運がいい。
(昨年末に、聖域特区の庭園で育てていた薔薇を何とも簡単に奪っていったあの人間の魔術師といい、先日この執務室を訪れたあの人間の歌乞いといい…………)
先述の魔術師については、スープの魔術師と呼ばれる特等の人間の一人で、教会の聖域の植物すら食材としか思っていないという、こちらもまた砂糖の魔物と同じような教会組織の隠れた仇敵の一人だ。
後述した歌乞いについては、この国の歌乞いの顔となるべき人物として、リシャードも事前に情報は集めさせている。
(何の力もない、可動域も蟻ほどの人間だというのに…………)
ある日、アルテアが交代でもないのに訪ねて来て、自分の獲物なのでその人間にだけには手を出すなと忠告した日から、使い魔になったのでお前もその傘下扱いとなると突然告げられ、彼女が何らかの事件に巻き込まれている素振りがあれば知らせるようにと最初の注文の水準を劇的に上げて来たあの日まで。
リシャードは、ネアという名前の歌乞いの持つ力を見極めようと、長らく注視してきた。
信仰を司る魔物からも、教え子であるニコラウスからも、ウィームの歌乞いには余計な手出しをしないようにと、教会に在籍する一定数の就労者には通達がなされていた。
しかしこちらについては、その通達を理解した上で遵守出来そうな者に限ってのものだったので、同じように教会の庭に住む人外者の中には、アンセルムのように聞いていない者達も多いようだ。
(万象の魔物の伴侶であり、塩の魔物を義兄とし、選択の魔物を使い魔にした上で、今度は終焉の魔物を一時的にとは言え契約の魔物にしてしまった…………。弟についても、かなり気に入っていたようだ………が、)
「………そう言えば、お前もあの歌乞いを気に入っているのだったな。………会に所属しているのだとか」
「ご主人様を見守る会だが、入るか?」
「…………遠慮しておこう。そもそも、あれはそんな器なのか?」
「おや、猊下はあまり心に響きませんか?人を選ぶ高尚さこそ我々の会の特徴ですから、まぁ、そういうこともあるでしょう」
片方の眉を持ち上げて魔物らしい表情を収めると、グラフィーツは片手を胸に当ててわざとらしく一礼してみせた。
どうやら、漸くトム神父としての会話を始めるらしい。
ここにいるのが、ナインという名前の死の精霊ではないように、今の彼もトムという名前を持つ一介の神父なのだ。
「いや、気に入ってはいる。アンセルムには手に余ると思うくらいにはな。…………が、その愛で方は理解出来ない」
「その弟君も、十二席に入る最高位の精霊ですけれどね…………。ですが、何というかまぁ、アンセルムは趣味人としての気質が強い方ですから、あちらの保護者達とは相性が悪そうだ」
そのアンセルムは、古くから、異端審問局に外部協力者として砂糖の魔物が在籍していたことを知らなかったのだろう。
ここ暫くは他国の聖女にかかりきりで姿を見せていなかった上に、トム神父に成ったのは最近のことだが、精霊として過ごしている時間があったのにもかかわらず気付かなかったのであれば、いささか迂闊としかいいようがない。
「静謐は身を潜める事は得意だが、調整や剪定には長けていない。私達の一族は、その資質ごとに気質が変わるからな。………さて、国王主催の演目はもう終いだろうな?」
「取り敢えず、これで一区切りでしょうね。俺は満腹ですし、あなたも弟を精霊として扱えるようになった。筋書き通りに進むのは、面白くないですか?」
「筋書き通りであれば何ら問題はない。だが、こちらも忙しい身だ。次回からは書類仕事が増えるような仕事はご遠慮願おう。それと、昨日の書類は差し戻しだ。異端審問局に籍を置く以上は正確な書類を上げろ」
「…………差し戻しですか」
そう項垂れたのは、この国の王が直々に異端審問局局長の執務室に乗り込み、食費が馬鹿にならないので、時々仕事をさせてやってくれと置いていった砂糖の魔物の別の顔だ。
他の人外者達のように特定の擬態を纏うことはなく、目をつけた聖職者を壊した後に成りすまして仕事をしているので、こちらとしてもなかなかに管理費のかかる審問官ではある。
しかしながら、聖人という厄介な生き物の間引きをするにあたり、これ程に適任な人材はそうそういない。
後腐れがないという意味では、砂糖の魔物に砂糖にされてしまう以上などありはしない。
その魂は潰え、その記憶はどこにも引き継がれなくなり、おまけに正体を正せばそれは不可侵の階位の悪名高い魔物である。
後々に残る禍根など生れようもない。
ふうっと息を吐き、モノクルを外して鼻の付け根を揉んだ。
転族してしまったルグリューはその括りではないが、死の精霊は、力を蓄えたままでの擬態を取ると、身に宿る魔術により目が敏感になる傾向が高い。
リシャードは片目で済んでいるが、アンセルムのように眼鏡を必要とする者が多くなり、その結果として他の人外者の巧妙な擬態を見逃してしまう事もあった。
(アンセルムは、トム神父の正体を知らなかったがそれを知った。同時に、隠者であるアンセルムの正体を今回の件で国の中枢が知る可能性もある。…………これは厄介な絡まりだな。だが、この魔物が対価を支払ってまでそれを人間達に知らせるかも未知数だ)
あくまでも、隠者の正体を知っているのは教え子のみと定められたそこには、幾つもの教区を管理する為に、厳しい信仰魔術の戒律が敷かれている。
信仰の庭では、どんな高位の生き物であっても、出来る事と出来ない事が明確に区分されていて、その理解と徹底が必要とされるのが教会という組織の治める土地なのだ。
崩壊した鹿角の聖女を祀ることから始めた教会組織において、事実の共有は決して美徳ではない。
それは、鹿角の聖女が自ら敷いた戒律ではない其れ等は、けっして矛盾や誤植のない完璧な聖典ではないからだ。
また、人間の為の組織であるという側面も強く現れており、人外者達の暗躍を防ごうとする努力も各所に見られている。
恐らく、彼らが恐れたのは機密の流出による弱体化や、祀り上げている聖遺物を奪われることなのだろう。
よって、教会組織の内部には、“知られないことで力を蓄える”という魔術の仕掛けがあちこちにあった。
そのようなものが備わっているからこそ、精霊である自分が人間に成りすまして働けているのも確かなのだが、時にはその固有魔術が足枷にもなる。
異端審問局の局長をしていれば入ってくる情報の中から、外部とも共有しておきたいものは幾つでもあるのだが、それが中々に難しい。
リシャードがここにいて、選択の魔物があえて手間のかかる枢機卿の役目を自分に課しているのはなぜかと言えば、この信仰の庭には、個人の記憶の領域外に持ち出せないような取り扱いの面倒な情報が幾つもあるからだ。
(勿論、完全に持ち出せない程に堅牢ではないが、その為に支払う対価が、情報の価値には釣り合わなくなる……………)
例えばリシャードは、かなり前から、静謐と銀白の教区の隠者が弟のアンセルムだと考えていたが、それは本来、教え子にしか明かされない教区の秘密でなければならない。
そうなると、秘密や秘儀を明かしてはならぬという約定の下、情報としての自由は縛られてしまうのだ。
もし、その気付きが正式なルートで齎されたものであれば、経験を生かした抜け道もあるのだが、今回、弟がそちらの役目も兼ねていると気付いたのは兄だからこそである。
となると、その情報には外に持ち出す為の取っ掛かりとなるべき魔術の足跡がなく、抜け道を作る事も出来ず柵の中に閉じ込められてしまう。
(だから、ここにも拠点を構える必要がある。労力を省き利益を上げる為の最善策として)
人間の編み込む魔術はとても稚拙なようで、時として愚かさが故の絶対性で立ち塞がる。
そして、そんな出来ない事があるということこそが人外者達を楽しませ、思いがけず呼び集める理由にもなっていた。
(もし、私が上位精霊である事を公表するのなら、その立場の上でなら幾らでも話しようもあるだろうが、ここまで育てたリシャード枢機卿としての役割を今更手放すのは惜しい…………)
アンセルムなどは隠者としての階位で信仰の魔術の檻を抜けられるだろうし、擬態で降り立った万象などは、その擬態を脱ぎ去れば何ら制約はなかった。
そうなると、リシャードの目の前にある天秤は到底公平と言える程の価値がある傾きではないのだが、単純にこの生活が愉快だと言うだけで目眩がする程の制約にも耐えられる。
そんな愚かさは珍しいかと言えばそうでもなく、よく終焉の魔物が人間に擬態して暮らしていたのも、そんな、何でもないものに成り下がってその制約の中で暮らしてみたいという欲求からだろう。
あまりにも不自由な場所は、時として、生まれながらに与えられた王座よりも自由なのだ。
「おや、猊下の手が止まるのは珍しいですね」
「………不自由さの与える自由について考えていた。もっとも、お前が神父を装うのは全く別の理由だろうが」
「そんな小難しいことですかね?ただ、誰が何と言おうが愉快ならばそれでいいんですよ。猊下だって、この前は俺のご主人様で散々楽しまれたのだとか」
「あれは傑作だったな…………」
「おおっと、その言い方だと、上位席の魔物達に消されかねませんよ?」
「その心配はないだろう。ウィリアムは、私があの歌乞いに毛嫌いされているのを見て、そうそう見かけない程に満足げだったぞ」
「……………ああ、あの方はそういう人なんで……………」
『…………いつか、うっかり偶然を装って滅ぼしてくれる…………』
震える声でそう宣言した人間の姿を思い出し、リシャードはくつくつと笑った。
リシャードは、音の響きが好きだ。
死の精霊として死者の行列を管理する役目を担うからか、その中でも何かを生み出す音に心地良さを感じる。
それはペン先が文字を書き出す音であったり、布地を鋏で断ち縫製に進む音だったりする。
中でも特に好むのは歌声で、歌劇などの感情を作って歌うものではなく、聖歌などの決められた音の中で整えられ、けれどもそこから溢れる命の揺らぎのある歪さを持つものこそが好ましい。
であるからして勿論、リシャードはウィームの歌乞いの歌声が、下位の生き物を殺してしまう程のものだと事前に聞き及んでいた。
「個人的に教本から指導をつけてその経緯を見たいくらいにはたいそう愉快な人間なのだが、さすがに万象の魔物の伴侶に指導をしたいと口にしたなら、一度くらいは首が落とされかねないな……………」
「寧ろ、その前にあなたが死ぬかもしれませんよ…………。あれは本気でまずいらしい………」
「それはないだろうな。私の資質の死の訪れとは相性がいい」
「いや、歌声に死の訪れの資質があるとか、それって本物の資格持ちってことですよね…………。それもいい…………」
弟を始めとした万象の魔物達が、この執務室を訪れた時のことだ。
グラフィーツの砂糖への興味までとはいかないが、噂に聞く程に酷い歌声なのか、是非に一度確かめたいではないか。
帰り際に、ここから出るにあたり、聖域の対価と引き換えに特例的に階位を高める守護を与えておこうと言えば、こちらの嗜好を勿論知っているウィリアムだけでなく、万象までもがはっとしたようにこちらを見た。
『ナ……………やめた方がいい。本気で命にかかわるぞ…………』
こちらの真名を呼びかけてまで動揺する終焉の魔物というのも珍しい。
本人の前でその反応を示していいのだろうかと思わないでもなかったが、聞き流して話を前に進めることにした。
提案としての会話なので、ここは枢機卿や異端審問局の局長ではなく、あえて同系譜の仲間として話しかける。
『そう言われると、余計に気になるだろう。それに、この教区内で特例階位を授けられるのは、私くらいのものだ。認証印付与符による贈与であるからして魔術の繋ぎにもならない。受け取っておいた方がいいのではないか?』
『…………けれども、君が望むものは私達にとって意味のあるものだ。安易に差し出せるものではないよ』
そう言ったのは万象の魔物だ。
僅かばかりの鋭さが声音に滲み、滅多に見る事のないその瞳の力にひやりとはしたが、幸いにも声が出なくなるような階位ではない。
あくまでこれは、上司の主人である人間に特別に切り分けた厚意の一欠片だ。
とは言え彼等はリシャードの嗜好を知っているから、そう思うだけで。
『私にも利益があるのでこっそりお分け出来る付与効果ですから、聖域の申請としての体裁を成していれば構いませんよ。例えば、その聖歌を受けるのは、あなたかウィリアムで構いません。…………ただ、私とは資質が違いますので、アンセルムの耳は塞いでおきましょうか』
『……………受け手が私ならば、君が得られる魔術的な繋がりはないね。…………やれやれ、悩ましいことだが、………守護が多い方がいいのは確かだろう』
そこで言葉を切り、万象の魔物は自身の伴侶にその提案を説明した。
『聖域の理において儀式に相当するものを差し出せば、それに相応しい恩寵を得られるという提案なんだ。私に歌えば良いそうだし、短い聖歌を歌うことをその儀式に見立てる事で、彼からの付与効果を得られるよ』
目を瞠ってその説明を聞いていた少女は、すぐに眉を寄せて不安そうにこちらを見た。
『………私にとって有用なものを授けてくれるのだとしても、この方がその前に儚くなってしまったりは…………』
『…………彼なら死にはしないと思うけれど
……弱ってしまうのであれば、避けた方がいいのだろうか………』
『うーん、思い止まった方がいいような気もしますけれどね』
『………いや、なぜそんなに深刻なんですか。ただ、レイノに聖歌を歌わせるだけでしょう?』
その途端、しんとした沈黙が落ちた。
ウィリアムは青ざめていたしアンセルムは訝しげに首を傾げていたが、万象からしてみれば、唱歌による魔術付与が結ばれなければ問題はないらしい。
『わたしのうたごえはすばらしいのですよ』
『うん、とても可愛い歌声だと思うよ。君が嫌でなければ、………本来であれば望ましくはないのだけれど、このような場所なのだから付与効果を得ておくのは良いことかもしれないと思っている。アルテアも、そこまでを見越していた可能性もあるからね………』
『むぐぐ…………やりましょう!………猊下、…………そ、その、これでも私は素晴らしい歌唱力の持ち主なのですが、時として刺激が強過ぎることもあるかもしれません。具合が悪くなったら、片手を上げて下さいね』
そんな前置きをされて頷けば、今は力を削ぐことが望ましくないウィリアムは、自主的に音の壁を展開しておくことになり、その様子を見たアンセルムも、こちらの会話を聞いて思うところがあったものか、同じように音の壁を立ち上げて魔術遮蔽の措置を取った。
『……………解せぬ』
『私は可愛いと思うよ…………』
『…………ふむ。ここは素晴らしい歌唱力を披露してみせ、これまでの不当な評価を払拭してみせます!…………その、聖歌のみなのですよね?』
『そうですね、聖域での対価として付与されるものですから』
『くっ、聖歌でさえなければもっと……』
ネアという名前の少女は、眉を寄せて暗い目をしたが、すぐに覚悟を決めたのか重々しく頷いた。
そうして、教本にも記されている最も一般的な聖歌を歌い始めた。
(ほお、……………)
選んだものは、ミサで歌われる為に作られた、聖歌としてはとても短いものだ。
思っていたよりも伸びやかな歌声は、透明な音。
残念ながらその歌はすぐに終わってしまい、程なくして余韻が消えた。
正面に立っていたアンセルムの愕然とした視線を辿れば、この執務室に何匹か飛んでいた聖域の蝶が、床に落ちて息絶えている。
可動域で言えば二百程もあり、普通に考えれば、歌い手の少女が遠く及ばない筈の生き物だ。
『………………猊下。い、生きてますか?』
『…………身体的な影響はありませんが、………ああ、聖衣に織り込んだ祝福は一つ破壊されたようですね』
『私の歌声のあまりの偉大さに、その祝福めも己を恥じて滅びたのかもしれませんね。…………む?』
『………っ、』
ここで、堪らずに口元を片手で覆えば、音の壁を解いたばかりのウィリアムが、これもまた滅多にないことに青ざめるのが見えた。
アンセルムはすっかり警戒してしまっているものか、なぜか魔術防壁を解こうとせずに立て籠もっている。
どこか祈るような眼差しでこちらを見ている少女の為にではなく、静かな瞳を向けた万象の魔物の手前、何とか平静さを装おうと努力したが、リシャードは込み上げるような感情を抑えきれず一度目を閉じた。
『……………っ、っは。ははは!これはいい』
『……………よ、良かったです。無事なばかりか、とうとう私の才能に気付いてくれる人が現れたようで…』
『稀に見る程に素晴らしい音痴だな!』
これ程の歌声を聴いたのは久し振りだ。
高揚した心のままにそう言えば、こちらを見た少女の表情が凍りつく。
ウィリアムが片手で顔を覆うのが見えた。
『…………よく聞こえませんでしたが、私の才能のあまりの素晴らしさに感動されているに違いありません。胸がいっぱいで、心にもない言葉が出てきてしまったのですよね?』
『声は悪くないが安定は皆無。………最も壊滅的なのはリズムか。あれは死滅していたな。それは、階位の低い妖精は死ぬだろう』
『………………壊滅していません』
『私も、この資質で王族でなければ失神くらいはしただろうが、…………ぶはっ…はは!何とも素晴らしい酷さだ。感動した!』
『……………むぐる』
小さく唸った少女は、伴侶である万象を見上げて悲しげそのその三つ編みを握り締めた。
困ったように微笑んだ万象は、そんな歌乞いの頭をそっと撫でている。
『だから言っただろう。彼は、…………変わっているんだ』
『壊滅していませんよね?』
『うん。君の歌声はとても可愛いよ』
『ふぎゅ。……………類稀なる美声をけなされて、とても心が傷付きました。…………ぎゃ?!なぜ体を折り曲げて突っ伏した机を片手でばんばんしながら笑っているのだ!!』
『……………彼はな、少し個性の強い歌声が好きなんだ。歪んだペンや、歪な形のパンが好きで、料理の中の切り損ねた野菜も喜ぶ。あの姿も、今の聖歌を気に入って喜んではいるんだろうが…………』
『ぎゅ?!』
そう説明しているウィリアムは良かれと思ってのことだろうが、ネアという少女の瞳が絶望に揺れた事には気付かなかったようだ。
人間にはこの上なく優しい魔物だが、このような場面での器用さは相変わらず皆無である。
『…………っはは、いいものを聴かせて貰った。その肩書きでまさかの音痴か。高音になると声が返りそうになるのは、勿論、演出ではないんだな?素晴らしい!』
『ゆ、許すまじ!数々の淑女を貶める発言を、今すぐ撤回して下さい!!』
『素晴らしい歪み方だ。リズムが取れないという事は、矯正するのは絶望的かもしれないが一度指導してみたくなる。可動域が高ければ魔術で調整も出来るだろうが、どちらに転んでも行き詰まりか……ははは。これはいい、ずっとあの歌声が聴けるのか!』
我慢出来ずに執務机に突っ伏して笑っていると、またしてもよせばいいのに説明を重ねたウィリアムの声が聞こえてきた。
『喜んでいるみたいだな………』
『あやつは、殺して欲しいのでしょうか…………?』
『……………あんな風になってしまうのだね。グレアムが歌っても、似たような反応になるそうだよ…………』
『……………ほわ、グレアムさんも…………』
『ギードの絵に関しては交換日記をしているくらいの気に入りようだ。…………因みに、こうなると笑い上戸になるから、暫く待った方がいい』
『……………します』
『ご主人様…………?』
『この精霊めを滅ぼします!』
その声には、確かな殺意が込められていたのだが、すぐさまウィリアムが説得にかかってくれた。
残念ながら、こちらは笑い過ぎて息が苦しくてそれどころではない。
『っ、落ち着いてくれ!俺が、後でしっかり叱っておくからな!』
『彼の言葉は彼の嗜好だから、気にかける必要なんてないんだよ?君の歌声はとても可愛いし、その歌声は私のものだろう?』
『……………むぐるる』
『焼き菓子を食べるかい?』
『…………食べまふ。そ、そして、この精霊めは、物凄く嫌な奴です!ぎゅ…………』
『っははは、よく聞けば、唸り声の音程もおかしいな……!』
『むぎゃ!何という辱めなのだ!!やはり、こやつはもう生かしてはおけません!!きりんボールからきりん箱までの、きりんまみれの刑に処してくれる!!!』
『いけないよ。この階位の死の精霊を滅ぼすと、ガーウィンの大半に人が住めなくなってしまうからね』
『し、しかし、心の底からむしゃくしゃします!頭頂部の髪の毛を失うがいいのだ!』
『ここまで君を悲しませたのだから、彼とは私から話をしておこう。ごめんね、慣れない土地だから、最後まで安全を重ねておきたかったのだけれど、君に悲しい思いをさせてしまった。………ただ、………彼は悪意があってこうしているのではなく、本当に褒めてはいるようなんだ』
『ぐるるる!』
『ご主人様…………』
『………っ、暴れないでくれ。………シ、シルハーン、他に食べ物を持っていませんか?!』
『ほら、アルテアの作ったギモーブの残りがあるよ。これで少し落ち着こうか?』
『ぐるる……………ギモ………ブ』
その後、何とか約束していた付与符は渡したが、ネアの怒りは冷めやらなかったようだ。
万象の魔物については、伴侶をここまで激昂させた相手に対して不快感を示せばいいのか、あまりの素晴らしい音痴さに付与する祝福を二個も追加されたことを喜べばいいのか、とても困惑しているようだ。
そう言えば絵はどうなのだろうと気になり、ギードと交換しているノートを見せて尋ねてみたのだが、それを見た彼女は、今度は慄いたような目をして万象の魔物の後ろに隠れてしまう。
暗い顔をしたウィリアムに止められたので、今回はここまでとしておくしかなさそうだ。
『…………いや申し訳ありません。ここまで愉快な気分は久し振りで、少々取り乱しました。とても気に入りましたので、こちらの領域でお困りの事があれば、いつでも交渉をお待ちしておりますよ』
『まぁ、不思議ですね。誰もいないのに声が聞こえてきます』
『ご主人様…………』
『そうか、見たくないくらいに嫌なんだな』
『うたってなどいませんし、かいめつしてません』
『可哀想に…………。アルテアに、すぐに晩餐にして貰おうね』
『………………うたっていませんし、へんなひとにはであっていません………』
『怖かったのだね………』
その様子のまま帰って行き、表側のリシャード枢機卿の執務室に着く頃には、彼女は、聖歌を歌った下りの全てを記憶から消してしまったようだ。
それについてはとても残念だが、忘れているのならば、また歌わせる機会はあるかもしれない。
アルテアには、あの愉快な歌声が聴けるなら幾らでも可能な範囲で祝福を与えようと言えば、何とも複雑な顔をしていた。
ぴしゃんと、水音が響く。
グラフィーツことトム神父が立ち去り、リシャードは枢機卿としての擬態を解いて、本来の姿に気配だけを人間に変えた状態で訪れた、暗い修道院の礼拝堂に立っていた。
夜に立ち昇るのは、甘い終焉の香り。
身の丈をゆうに超える大鎌を振り捌き、審問官を向かわせるまでもなく、刈り取った者達の数を数える。
この修道院に暮らしていた全ての者達を無事に剪定し終えた事を確認すると、本来の仕事で入り用な聖遺物を持ってきた革のトランクに収めた。
異端審問局の局長として信仰の道を違えた者達を処理し、尚且つ仕事として良い品物を回収する。
これは、仕事上の報告書を都度中央教会に提出する必要のない、異端審問局の局員でなければ出来ない事だ。
以前、クラ・ノイの骨を収めた聖遺物を回収したのも、このような仕事の中であった。
「……………書類仕事ばかりではなく、やはり体も動かさなくてはな。………さて、暫し聖職者としての仮面を脱ぎ、死者の行列に戻るか…………」
跳ね上がった血飛沫で濡れた鏡に、銀髪に紫の瞳の精霊の姿が映った。
擬態を解いても教会の仕事をしていればモノクルはかけたままだが、死の精霊に戻る時には外すようにしている。
ふと、誰かの啜り哭くような恐怖と祈りの声が聞こえた。
眉を寄せると、大鎌を持ち直して隣接した祈り間にゆっくりと歩いてゆく。
元々、こうして刈り取る事には何ら抵抗はないし、そもそも、それこそを資質とする死の精霊なのだ。
(またいつか、あの歌声を聴きたいものだ…………)
歌乞いでありながら、階位の低い妖精を即死させるだけの力を持つ、整っているようで身悶えしたくなる程に音階の死んでいる聖歌を思い出す。
万象の魔物の伴侶になるのであれば、これからも長い時間をこの世界で過ごしてくれる筈だ。
またどこかで困っていたら、あの歌声と引き換えに手を貸してやろう。
信仰の庭はとても広いのだ。




