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香辛料と孔雀石 6




帰りは窓からになってしまったが、ティディア伯爵家を出ると、外には、先程感じたような湖は勿論のこと、窓から見えるような距離に森もなく、なだらかな丘陵地と静かな夜が広がっているばかりだ。


遠くには、伯爵家で何があったのだろうと、手に魔術の火を灯した松明を持って街から駆け付ける騎士達の姿も見える。

だが、ネアが驚いたのは、屋敷から少し離れた場所で待っていてくれたディノの足元に、くしゃくしゃになって転がっている一人の男性がいたことだ。



「……………なにやつ」

「おや、こちらで押さえておりましたか」


地面に転がっているので何とも言えない姿だが、白い肌に散らばる肩口までの淡い緑色の髪は乱れていて、仰向けの状態を、剣らしきもので腹部を地面に縫い留められている。

容姿的な年齢は、出会った頃のグラストや先日出会ったシャーロックくらいで、どこか親しみ易い面立ちに見えるが、よく見れば高位の人外者らしく美しい面立ちのようだ。



「ほわ、……………ウィリアムさんの剣です?」

「ああ。彼は今回の事件の当事者のようだからな。こちらで確保しておいたんだ。向こうに渡す前に、かけておきたい調整もあるからな」


にっこり微笑んだウィリアムにそう言われ、ネアはこくりと頷く。

既に物理的な調整をかけられてしまっている感じも否めないが、魔術的な拘束などを図るのだろうか。



「……………怪我はなかったかい?」

「ディノ!」


心配そうに手を伸ばしたディノの腕に移され、ネアは、こわこわになった背中を緩めた。


大事な魔物の頭を撫でてやると、ああ、今回の任務も無事に終わったのだなという感慨が押し寄せてくる。

元々危うい部分もある任務だったが、思いがけない階位の精霊が潜んでいたせいで、きっと怖い思いもさせただろう。


ぎゅっと抱き締められ、ほっと息を吐けば、当初の目的であった選択の魔物による魔術道具の効果こそが本来は懸念点だったのだと思い出し、また重ねてほっと息を吐いた。



(こうして迎えに来られたということは、あの魔術道具の効果が確実に無効化されたということなのだろう。良かった。これで、やっと安心出来るな……………)



そんな事を考えていると、先程のくしゃぼろの男性が口を開いた。



「やぁ、懐かしい孔雀石だ。僕にくれるのかい?」


擬態をしたままのミカにも冷ややかに見下ろされ、なぜかその男性が声をかけたのは、ヒルドであった。

手に、サフィールな長銃を持っているヒルドの眼差しの冷ややかさは、もはや例えようもなかったが、不思議な事に、地面に転がされた男性の口調は妙に親し気な様子である。


ネアが、大事な家族に何かしたら許さぬぞとポケットからもう一度除草剤の小瓶を取り出すと、ご主人様を抱えた魔物が、慌ててお口にギモーブを押し込んでくれた。


むぐむぐする美味しいおやつは新作のオレンジ味なのでいただくのは吝かではないが、ネアは、転がっている男性の挙動からは目を離さないようにする。



「……………久し振りですね、クウェンティン。片腕は、死の精霊王に持ち去られましたか?」

「はは、王都にいるのは知ってたけど、まさか君に会えるとはなぁ。因みに僕は今、終焉に片足も捥がれている。可哀想だと思ったら、昔の馴染みの縁でここから逃がしてくれないかい?まぁ、少しすれば治せるけれどね」

「あなたのせいで、私の羽の庇護を受けた者が、先程の襲撃に巻き込まれましたが、それでも、私がそのようにすると?」


凍えるような声音でそう返されると、クウェンティンと呼ばれた男性は、あははと苦い微笑みを浮かべる。

何となくだが、こんな調子で、万事をのらりくらりとすり抜けてゆく様子が目に浮かぶようだ。


年長者めいた力の抜けたような砕けた言動は、ゾーイや先日出会ったシャーロックにも共通するものだが、この男性の表情は少しだけ自堕落度合いが高めで、頼もしい大人の男性というよりは、信用して物などを貸してはいけない人物という感じがした。



「……………あー、成る程。羽の庇護ねぇ。それは……………難しいだろうなぁ。今回はさ、別件でちょっと忙しかったから、適当に手配したんだけれど、総じて失敗したって感じかなぁ。それにしても、大きくなったなぁ、僕の孔雀石は!僕の渾身の求婚を断っておいて、誰に求愛したのさ……………って、おいおいおい?!首を落とそうとするなんて、物騒だなぁ?!」


片手で抜いた月光の剣の剣先を首筋に当てられ、クウェンティンと呼ばれた男性は、あわあわと体を捩っている。


人間で言えば動くのもままならない大怪我の筈だが、やはり人外者は元気だ。

ふうっと溜め息を吐いたヒルドが、これがクローブの魔物であると教えてくれ、ネアは目を丸くした。



襲撃を仕掛けた魔物とは別人とは言え、ここにいるのは、今回の騒動の筋書きを書いた人物である。

思っていたよりもずっといい加減な感じだが、寧ろ、こういう気質だからこそ、ぞんざいな剪定をやってのけるのかもしれないと思えばそんな感じがした。



(……………何と言うか、クローブの魔物と聞いた時には、清廉な印象の、どこか異国風な装いの女性を想像していたのに、随分と違う印象なのだわ……………)



そして、オーブリーの表情などから、きっと以前はこのクローブの魔物もティディア伯爵家を丁寧に守っていたのだろうと思えば、ネアが次に想像したのは、アルテアのような人物であった。


どちらもとても違うのだと知ってしまった今、ネアは、人間なりの感覚ではあるが、こんな人物に大事な伯爵家を歩かせてはならぬと、オーブリーにお説教したい気持ちになる。


とは言え、奇跡的に外面がいいという者もいるにはいるので、そちらの才能があったのだろうか。



「……………私は女児ではないと、何度も申し上げましたが?」


ネアが、とんだ魔物だったぞと半眼になっている一方で、ヒルドとクウェンティンのやり取りも続いていた。

ヒルドの祖国をクローブの魔物が訪れた事があるとは聞いていたが、思っていたよりもしっかりとした顔見知りであったようだ。


「はは、あの頃の君は美少女みたいだったから、勘違いしたんだよ。僕だって、男になんぞ興味はないさ……………って、ごめん、首は切り落とさないで欲しいかな?!」

「であれば、口を慎むべきでしょう。相変わらず、状況を判断出来ずに身を滅ぼす事が得意のようですね」

「ははは、君の父上から借りた宝石は、あの時はどうしても必要だったんだよ。ほら、追っ手から逃げないといけなかったからね…………」



そんな会話を聞き、ネアは、これは確かに関わるなと言われる魔物だなと重々しく頷く。


そして、出来れば今後ずっと関わりたくない魔物だ。

事前に聞いていた器用さは、この魔物の逃亡生活を助けるものである可能性が高い。

最も近付いてはいけない人種である。



「……………ヒルドとは、顔見知りなのだね。では、クウェンティン、彼や、私の守護を与えた者達と、その土地には近付かずにいられるかい?」


小さく息を吐き、そう告げたのはディノだ。

ネアは、珍しく温度の低い声音におやっと首を傾げつつ、真っ青になって何度も頷いている男性を観察した。



「も、勿論です、我が君」

「君の約定は軽いと聞いた事がある。であれば、君がその境界を自身の意思や何らかの思惑を承知した上で越えたのなら、クローブは代替わりでいいだろう。植物の系譜の魔物は、再派生が容易いからね」

「っ、……………お約束します。他の誰かとの口約束ならいざ知らず、王との約定を破るなど、そんな真似をする筈もございません」

「こちらに伸びる枝葉に養分を与える行為も含むけれど、それも理解しているかい?」

「勿論ですとも!私はこう見えて、善良に生きる事にも長けておりますれば………」


クウェンティンがそう言った途端、ウィリアムがざりりと足を踏み替えた。

何かを思い出したのか、ぴっとなったクローブの魔物は、剣での串刺し状態だったのを忘れていたようで、痛い痛いと顔を顰めている。



(魔物さんとしても、教会に近しくしているのかな…………)



この暗さに目が慣れてくると、とても分かりやすく神父服を着ていると判明したので、そちらから来ましたと自分で示しているようなものではないか。

であれば、薔薇の魔術師の擬態をしておらずとも、この魔物は聖域にも住まいがあるか、或いは教会関係者に扮して何かをしていたのかもしれない。


ネアは、クローブを使った食べ物が好きなので残念に思いながら、これも使うだろうかと除草剤の小瓶をディノに見せてみた。



「念の為に、これをかけて弱らせておきましょうか。いい具合に傷も負っているので、少しは効果を得られるかもしれません。過大な恐怖を植え付けておけば、今後悪さをする際の抑止になるかもしれませんよ?」

「……………ご主人様」

「……………な、何と邪悪な人間の子だ。その地味な面立ちからすると、あの屋敷の使用人だな。……………っつ、ウィリアム?!胴体を両断されると、苦労するのは運ぶ君なのだからな?!」

「……………シルハーン、これを向こうに届けてきます。俺の方でも誓約をかけておきますので、ネアの除草剤を借りても?」

「うん。階位を落とすのは構わないけれど、崩壊はさせないようにね」

「ええ」


ネアが除草剤の小瓶をウィリアムに渡すと、クローブな魔物はきゅっとなってしまい、剣は抜いて貰えたものの、残った足を掴んで引き摺って運ばれるという悲しい方法で視界から退出した。

ディノによると、こちらに到着した際に、近くの森に隠れているところをウィリアムが見付けて捕縛したそうなので、オーブリーには嬉しい知らせになるに違いない。



「さて、私はそろそろ失礼しよう。クローブの魔物が階位を落とすのなら、食楽の者には、妖精のクローブの買い付けを勧めておいた方が良さそうだ」

「精霊の守護を脅かしたのであれば、そうなるのだろうね。…………ミカ、有難う」


ディノのお礼に、真夜中の座の精霊王は穏やかに微笑んだ。

造作を擬態に落とし込んだままでも、人ならざる者の長い生を感じさせる眼差しは、まさに今この時間を司る最上のものである。


ネアも帰宅するというミカにお礼を言い、ウィリアムの方の話合いは長引くかもしれないというので、一足先にアルテアの用意している遮蔽地を経由してリーエンベルクに帰る事になった。



伯爵家の庭だけでなく、丘のいたるところにも咲いているのか、さわさわと夜の風に揺れるカモミールの花の香りがする。

ネアは、アルテアのいる場所なら、カモミールティーの備蓄はあるだろうかと考えつつ、転移の薄闇の向こうに消えるティディア伯爵家に唇の端を持ち上げた。



(……………良かった。これで、憂いを残さずにここから立ち去る事が出来る)



黒幕が排除されただけでなく、杜撰な手配をかけた脚本家も確保されたのなら、きっと今回の事件も落ち着くだろう。


明日は難しいかもしれないが、いつか、あの居心地のいい屋敷で、ほんの少ししかお喋り出来なかったティディア伯爵や扉の魔術師達が、穏やかな食卓を囲めるようになればいい。

引き続き、薔薇色の瞳をした魔術師も一緒なのだとしたら、きっとあの素敵な声を持つ人達はこの地で穏やかに永らえられるだろう。




「という事なので、思いがけない参加者が沢山いましたが、死の精霊王さんはどちらかと言えば好きな精霊さんでした」

「……………浮気する」

「ほお、まさかとは思うが、余分を増やすつもりじゃないだろうな?」

「あら、あの方はこちら側にいない、あの素敵な伯爵家の輪の中の方なので、私の余分になど出来る筈もないのですよ。それに、オーブリーさんが好ましい精霊さんだなと思う条件としては、あの方がティディア伯爵家の皆さんを慈しんでいてこそなので、その要素がなければそんな思いも持ちようがないのです」


ふんすと胸を張ってそう主張したネアは、アルテアの用意した工房で、丁寧な魔術洗浄を受けていた。


ヒルドは自身の魔術でネアより自由が利くので、一足先に手入れを終えてリーエンベルクに帰還している。

これで漸くエーダリアやノアも安心出来ただろうかと微笑み、ネアは、荒ぶって三つ編みを持たせてくる魔物をもう一度撫でてやった。



「……………あんな精霊なんて」

「ふふ。これは、私にはディノや皆さんがいるからこそ、同じような別の輪を微笑ましく思うだけなので、どうか安心して下さいね」


ネアがそう言えば、悲し気に三つ編みを持たせてきていた魔物は、水紺色の澄明な瞳を揺らした。


「そういうものなのかな」

「はい。あちらのお家の、あの家族は素敵ですねという感想だと思って下さいね。他所のお宅の方なので、攫ってきてしまったりはしないのです」


ネアがそう言えば、ディノはこくりと頷いた。

髪の毛が密かにぱさぱさになっていたりはしないので、今回の任務の上では、そこまで負荷がかかっていないのだなということも確認してしまう。


「あのお嬢さんも、もう、ご家族を悲しませるような事をしないといいのですが」

「ティディア伯爵家の孫娘は、修道院入りだ。教会の監視下に置き、あの地や、扉の魔術師の育成と保存を損なえないようにする」

「まぁ。もうそのような決定がなされたのですね。……………そう言えば、アルテアさんも、時々リシャード枢機卿なのでした……………」

「アンセルムについては、ナインからの処分もあるだろうな。ティディア伯爵領の守護の要が自分ではないと言わなかったクウェンティンの口車に乗せられた形ではあるが、伯爵家の守護を損なった以上、あいつの執着の嵩だけは報復も受けるだろう」



そう言いながら、アルテアは捲っていた袖を引き下ろした。

先程までネアは鉱石化の進んだ美しい木桶に足を浸されており、ラベンダーや薔薇の入ったお湯で足を温めていた。


素敵な癒しの時間にしか思えない時間だが、こうして足元の魔術を洗うのも立派な魔術洗浄である。

ほかほかになった足をふかふかの真っ白なタオルで拭いて貰い、もう帰れるのかなと立ち上がったところで、ひょいと抱え上げられ、布張りの椅子の上に設置された。



「これを飲んでおけ」

「ぎゃ!沼!!」


ネアは用意されたほかほかの沼味薬湯にしびびっとなったが、腰に手を当てた使い魔がこちらを見ているのと、おろおろしながらこちらを覗き込んでくる伴侶がいるのとで、覚悟を決めざるを得なかった。


特別に恐ろしい場所に足を踏み入れた訳ではないのだが、信仰の魔術の周りは何かと恐ろしい。

また、ティディア伯爵家がカルウィの襲撃者の標的にされたことを思えば、薬湯はきちんと飲んでおいた方がいいだろう。


あの土地が香辛料の交易路の要所だと思えば、そのようなものはどこからでも摂取出来てしまう。

ましてや、こんな時間にこれだけ手をかけてくれているのに、沼味は受け付けたくありませんという我が儘を言う訳にいかない。


湯気を立てている大きめのマグカップのようなものを手に取り、出来るだけ鼻呼吸しないようにしながらちびりと飲み込む。

だが、むわっとした臭気にすぐに喉の奥からぎゃんとなってしまい、加えてのあまりの不味さに涙が滲んだので、心が死んでしまう前に一気に飲み干すことにした。



「……………むぐ。……………ぎゅう……………のみきりました」

「可哀想に、何か食べるかい?」

「えぐ……………くすん……………お口の中が、温かい沼の味です」

「精霊の仕掛けだ、薬湯が定着するまでは他の物を摂取するなよ」

「……………ぎゃむ?!……………な、なぜそんな拷問なのです?オーブリーさんと一緒に食事をしたせいなのですか?」

「アンセルムだからな」

「……………む?……………アンセルムさん?」



思ってもいない名前が出てきて首を傾げたネアに、こちらを見た選択の魔物は、鮮やかな赤紫色の瞳を細め、ふうっと息を吐く。

魔術洗浄に使った様々な道具を片付けているので、この薬湯で最後のようだ。



「ウィリアムのかけた約定の隙間から、仕掛けてきただろうが。薔薇の魔術師の種明かしをしなかったのは、そういうことだ」

「む、……………むむ?」

「…………あの場所で、薔薇の魔術師の中にいるのが、死の精霊王だと知ったら、お前はどう対処した?」



その問いかけに、ネアは首を傾げた。

隣の椅子に座ったディノは、薬湯の沼味が抜けるまでを励ます為に、しっかりと手を握っていてくれる。

お口の中は、カモミールティーどころか沼風味になってしまったが、仕立て屋の工房のような内装の部屋の中は、先程の足湯的魔術洗浄のお湯の香りが残っていて、居心地が良かった。



「……………ウィリアムさんの、名前を出したかもしれません。或いは、カードからディノや皆さんに相談し、対策を練って貰いました」

「あれの対処法は、少なくはない。お前が死の精霊王だと言いさえすれば、そこまで問題視しなかった可能性もある。……………とは言え、面倒な奴だからな、二度と近付くなよ」

「……………むむ。となると、誰なのかが明かされれば、私には打つ手があったのに、アンセルム神父はそれを知っていながら、あの方の正体を明かさなかったということなのですね」

「あれには頼るな、自分を頼れと言われたそうだな」

「はい。その言葉を真に受けた訳ではありませんが、とは言え、見知らぬ、それも、格別に厄介そうに見えた方を頼ろうとは思わなかったでしょう」


ふっと隣の魔物の気配が冷え、ネアはディノの顔を覗き込んだ。

いきなり凝視された魔物は目元を染めてずるいと呟いているが、あれだけ手を打って誓約を結ばせた上で同行となったアンセルムの画策には、やはり、少しの不機嫌さを示してしまうのだろう。


「もしヒルドが傍に居ない状況が作られ、薔薇の魔術師とアンセルムしかいなかったなら、お前はどうした?」

「……………むぐ。……………アンセルム神父めに、警戒しながらも協力を仰いだかもしれません」

「そう言う事だな。今回の一件は、ダリルの下準備もそれなりに悪辣だが、恐らくは、あの屋敷に到着する迄に状況が二転三転したのは間違いない。あいつは、それをまんまと利用してのけた訳だ。言っておくが、異端審問局の動きは俺にも入ってくるんだからな?」

「……………ほわ、そうでした。アルテアさんが問題視していなかったのであれば、途中までは、聞いていた通りの状況だったのですね……………」



今更にそんな事に気付いてしまい、ふっと冷ややかな微笑みを浮かべたアルテアに、だからこそウィリアムが現場に残ったのだと聞いて、更に驚いた。

ウィリアムも、あの場でその答えまで辿り着いていたようだ。


(という事は、アンセルム神父はウィリアムさんにもお仕置きされてしまうのかな……………)



「……………転移申請か、……………ノアベルトだな」

「おや、リーエンベルクからかい?」

「ああ。……………ったく、うるさくなるな」


顔を顰めながら、机の上で光った水晶のベルのようなものを手に取ったアルテアが、そのベルをちりりと鳴らす。

するとどうだろう。

画家のアトリエのような作りの工房に、しゅわりと青塗りの扉が現れるではないか。

しかし、そんな青い扉を開いて現れたのは、白混じりの水色の髪の毛が愛くるしい、見聞の魔物であった。


「まぁ。ゼノ?」

「……………ノアベルトはどうした?」



グラストから離れる事が珍しいので何かあったのかと立ち上がりかけたネアに、こちらを見たゼノーシュが首を横に振る。


「ノアベルトはね、今はエーダリアと一緒に、ヒルドにお茶を淹れているの。グラストもそこにいるから、伝言は僕が引き受けたんだよ。特別にね」

「まぁ。そうだったのですね。有難うございます」

「いや、その程度ならあいつが来れるだろ……………」

「あのね、ヒルドが、悦楽の資質を動かされるといけないので、精霊の食卓の成立妨害の為に、羽の庇護を一時的に深めてるって。一日くらいで抜けるって言ってたよ」

「……………おい」

「なぬ。なぜこちらをそんな目で見るのだ」

「ネアが浮気した……………」

「解せぬ」

「ネア、多分ヒルドの妖精の粉を食べちゃったんだよね」



そう言われ、ネアは寝起きに美味しい粉をいただいたことを思い出し、ぎくりとした。


ゼノーシュの伝言によると、ヒルドが、場合によっては魔術洗浄の際に妨げになるかもしれないと気付き、言伝を頼んでくれたらしい。

そして、もし妖精の庇護が魔術洗浄の妨げになるならと、妖精の酔い覚ましの薬草酒を持たせてくれたのだ。


「でも、もう洗浄が終わったなら、飲まない方がいいよ。これ、酩酊や幸福感から覚ますっていうお酒だから、凄く苦いんだ」

「……………なぬ。本日は、まずいのと苦いのは受付終了したので、飲みません」

「ヒルドなんて……………」


ディノは少しだけ荒ぶったが、これは拗ねてみせるだけのものだなと察したネアは、ちゃんと妖精の酔い覚ましの苦さを教えてくれたゼノーシュに、手持ちのクッキーなどをふるまっておく。



そこに帰ってきたのは、ウィリアムだ。


こちらもアルテアが転移申請を受けて扉を作ってからだったので、この工房は、許可なく立ち入る事が出来ない場所なのかもしれない。

窓の向こうには雨に滲む夜の街の風景があるが、不思議なことに視界がぼやけるように、街の灯以外の風景は良く見えないのが不思議であった。



「……………やれやれ。アンセルムが、思っていたよりしぶとかったな」

「ウィリアムさん、お仕事が終わったばかりなのに、有難うございました」


どこか疲弊したような眼差しに慌ててお礼を言うと、こちらを見たウィリアムがふわりと微笑む。

手のひらを頭の上に載せてくれると、向いの椅子に座り、テーブルの上に置かれた水差しからグラスに水を注いでいる。

アルテアの領域での過ごし方の自由さに、付き合いの長さが覗えるので、ネアはやはり仲良しなのだなとにんまりした。



「ゼノーシュは、何かあったのか?」

「ううん。僕、伝言に来ただけだから、このクッキーを食べたら帰るね」

「有難う、ゼノーシュ」

「うん。ネアは友達だから、特別なんだよ」


ゼノーシュにお礼を言ってくれたディノの向かいでは、アルテアがウィリアムと何かを話している。

僅かにだが音の魔術で声量を下げたようなので、ティディア伯爵家の事件の事後処理についてかなと盗み聞こうとすると、すぐに気付いたアルテアにひと睨みされてしまった。


「……………余分を増やすなと言わなかったか?」

「話の前後が見えませんが、オーブリーさんのことだと推察します」

「ネア、……………彼は厄介だからな、くれぐれも、どこかで見かけても近付かないようにするんだぞ」

「今回は、お前も妙に心象を変えてきたからな。何の要素で篭絡されたか知らんが、あれは、死の精霊の王だぞ」

「むぐぅ…………。意外に丁寧にお気遣いいただきましたし、思ったより好ましい気質の方に思えましたが、それだけなのですよ?」

「お前な……………」

「あのね、僕、そういう言い方しない方がいいと思う」



ここで思わぬ援軍が現れた。

もすもすと食べ終えたクッキーの袋を畳みながら、檸檬色の瞳で選択の魔物を見上げたゼノーシュに、ネアは、おおっと眉を持ち上げる。


アルテアは顔を顰めているが、とは言え乱暴に遮ったり無視したりはしなかった。

これこそが、同じ輪の中の仲間だからこそなのだと、ネアは少しだけほんわりしてしまう。



「死の精霊王ってね、ウィリアムとアルテアに似てるんだよ。ちょっと、ディノにも似てる」

「……………まぁ、そうなのですか?」

「うん。だからね、ネアが仲良くなっちゃわないか、みんな心配なんだと思うよ。精霊って、仲良くなり過ぎると凄く大変な事になるから」

「ふむふむ。であれば、良い方だなと思ったのは、ただの邂逅における感想でしかないので、ウィームに戻る私は、そんな精霊さんとはもうさようならなのですよ。ただ、ほんの少しの時間でしたが温かくもてなして下さったあの家の方々の側に、ずっとオーブリーさんがいるといいなと思うくらいです」

「うん。そうだよね。ネアは、あんまり増やすの得意じゃないもんね」

「ふふ、ゼノはさすが私の友達なのです!」

「うん。僕、友達だから、そういうの分かるの。だから、大丈夫だよ」



愛くるしい見聞の魔物に真っ直ぐな眼差しでそう言われてしまい、さしものウィリアムやアルテアも、それ以上の追及はしてこなかった。



「成る程。仲良しになってしまうと、種族的なお作法や嗜好の違いによる危険さがあったので、厄介だと言われていたのですね」

「……………そうだな。彼は、どちらかと言えば、ルグリューと同じような気質の死の精霊だからな」

「おい……………」

「まぁ、ルグリューさんに似ているのですね!オーブリーさんは、ちょっととげとげしていましたが、私が大好きなティディア伯爵に近付いたので、むしゃくしゃしていたのでしょう。獣さんの警戒行動だと思えば、あんな感じかもしれません」



ネアは、オーブリーがルグリューと似ていると教えてくれたウィリアムの言葉に、サフィールが、死の精霊王の選定は、その時代に合った者が選ばれると話していたことを思い出した。

であれば、オーブリーに似ていたという青玉の宝石妖精の友人も、ルグリューやオーブリーに似た気質だったのだろう。


しかし、ネアがそんな話をすると、ウィリアムが意外な事を言うではないか。



「………最初の候補者はルグリューだったから、彼の事だろう。ルグリューは、……終焉の系譜の名前の認識魔術を避ける為にここではオーブリーと呼ぶが、死の成就を司ったオーブリーと同質の、死の系譜の中でも比較的穏やかな資質を司る者同士だったからな」

「となると、……………サフィールさんは、ルグリューさんが存命なのをご存知ないのですか?」

「うーん、難しいところだな。完全に秘密にしているという訳でもないから、機会があれば伝える筈だ。そのあたりは、個人の問題だから何とも言えないが…………。今度、砂風呂に行った時に、それとなくあの妖精の話をしてみるか」

「はい。たまたま言う機会がなかったのか、或いは、サフィールさんもご存知の上で秘密なので言えなかったということだといいのですが……………」

「その、宝石妖精はどうしたんだ?」

「何やらとても楽しい事があったので、真っ直ぐにタジクーシャに帰るのだそうです。忘れたくないわくわくを堪能する為に、今夜は、すぐにご自宅に帰って眠るのだとか。なお、そうなることを見越してお土産は先に買ってあったようですので、潜入調査を楽しんでくれたのかもしれませんね」



ネアがそう言えば、なぜか魔物達は顔を見合わせて複雑そうな目をしていたので、武器から派生した宝石妖精の冒険心を案じていたのかもしれない。

なお、アルテアから、もうオーブリーのことは気にならないのかと尋ねられたディノは、輪の外側という表現をしたご主人様は、本当にそれはいらないのだと使い魔に説明してくれていた。



「けれど、林檎のパイは美味しかったのだよね」

「はい!毎日のおやつとしては、ウィームのものやアルテアさんのパイの方が食べ易くて好きですが、旅先でいただくデザートとして、あのシナモンの風味がくっきりした林檎のパイも、絶対に食べてみるべき美味しさだと思います。ゼノは、ティディア伯爵領のお菓子は食べた事がありますか?」

「うん。香辛料を使う前に挽くから、みんな香りが強いんだよね。ローストビーフも、ちょっと風味が強くなるけど、ウィームとは違って美味しいよ」

「分かります!リーエンベルクのローストビーフと、ウィリアムさんに連れていって貰った、砂漠のお店にある串焼き肉の間のお味という感じでした!あれはあれで、大好きです」

「ローストビーフなんて……………」

「あらあら、ディノは、先程のお話は納得してくれたのに、ローストビーフには荒ぶってしまうのですか?」



そんな話をしたからか、ゼノーシュが今度、仕事で近くに行った際に、ティディア伯爵領で売られている胡椒のクッキーを買ってきてくれる事になり、ネアは喜びに弾んでしまった。

今回の仕事では、香辛料側はどちらかと言えばあまりいい印象ではない対岸のもので、その美味しさを堪能したという感じではなかったからだ。



「特に、クローブの魔物さんにはがっかりでした。好んで楽しむ香辛料の一つなので、今後、二度と会う事がないといいなと思います」

「ご主人様……………」

「まぁ。ディノはどうして震えてしまうのです?」

「……………あれもあれで、当分はガーウィンの悲嘆から出てこないだろうさ」



ふっと歪んだ微笑みを浮かべ、アルテアがそう呟く。


ちょうど、ネアのお口直し解禁があり、早く帰りたいゼノーシュがグラストの下へ戻ったところだったので、皆でお茶などを淹れて、どのような意味なのかを聞かせて貰うことにした。



「性根は屑だが、執着にかけてはそれなりに手をかける方だぞ。ぞんざいな手入れだと言われているようだが、どちらかと言えば、あいつらしいやり口の囲い込みだろう」

「だが、……………ティディア伯爵領は離れる事になった筈だ。彼が、近付くのを許さないだろう」


アルテアの言葉に首を傾げたのはウィリアムだ。

だが、唇の片端だけを持ち上げて、選択の魔物は首を振る。


「クウェンティンの獲物は、孫娘の方だったらしいぞ」

「……………ほわ、キーアンさんなのです?」

「おや、その人間は、異端審問局の裁判にかけられるのではなかったのかい?」

「形式上はな。今後の処遇は、悲嘆の教区で生涯幽閉の教会暮らしだと既に内々に決まっている。クウェンティンも、そいつが死ぬ迄はその教区からは出てこないだろう」

「ぞくりとしました……………」




ネアは、となると、幼い頃のヒルドへの執着もかなりまずかったのではと慄いたり、あの少女の今後がとても心配になってしまったりしたのだが、後日、クローブの魔物がキーアンに向ける執着は、父親のような愛情であるらしいと判明した。



キーアンの父親は研究気質の魔術師で、どちらかと言えば子育てには積極的ではなく、母親は元気いっぱいの次女を少しばかり持て余していた。

そんなキーアンを気にかけ、大事に大事に、魔物らしい執着と愛情で、父親のように育てていたのが、クローブの魔物だったというのだ。



だが、成長したキーアンは、そんな薔薇の魔術師に恋をした。



そして、優れた目を持つ魔術師でもなく、妖精の目薬を使っている訳でもない彼女に、その違いを見抜けというのも酷な話であるが、キーアンは、よりにもよって死の精霊王入りの時の薔薇の魔術師に自分の恋心を打ち明けてしまったらしい。


オーブリーはその告白を丁重に断り、いつも自分の側に居てくれた大好きな同居人に拒絶された少女は、悪い仲間と出歩くようになったのだとか。


調査報告などが上がってきて、そんな背景を聞けばなんとも込み入った話だと思うが、溺愛する娘のようなキーアンが死の精霊王の方に告白してしまったと知ったクウェンティンは、魔物らしく、対岸に渡ってそちらからお気に入りの人間を手に入れようとしたのだろう。


長年守護を授けてきたティディア伯爵家への襲撃という形を取ったのは、自分の大切な子供の心を奪った、……………或いは、その子供の恋を受け取らずに彼女を傷付けた、死の精霊王への報復だったのかもしれない。


クローブの魔物が目を離した隙に、カルウィの商人達に取り込まれてはいたようなので、キーアン自身にも自己責任という部分もあるが、近くにいた筈の守り手が破滅への道筋を付けたのだから、なんとも後味の悪い話でもある。



「おまけに、この先ずっとあの娘に寄り添う魔物は、我が子を愛でるような愛情と執着しか持っていないっていうんだから、女としては救われないだろうね」



薄暗い書庫の中でそう笑った書架妖精に、ネアは、キーアンが生涯を暮らす教区で、二人はどんな出会いのやり直しをするのだろうかと考えた。



クローブの魔物にとっては子供に向けるような執着でも、キーアンがどんな女性に成長するかによっては、物語の顛末をひっくり返すようなハッピーエンドもあり得るのではと考えてしまうネアは、きっと甘いのだろう。



それでも彼女にはまだ、魔物の執着と愛情という形で、自分の過ちを取り返す手札が残されている。


それが人間を惑わせる恐ろしいものだとしても、誰にも気に掛けられずにどこにも行けない者達の方が多いのだと思えば、箱の中に残った最後の希望なのかもしれなかった。


何しろ、発覚すれば厳罰に処されるカルウィ絡みの異端審問案件なので、伯爵家のこれ迄の功績が考慮されなければ、魔術浸食の洗浄などの手間すらかけて貰えず、処刑という可能性もあったという。


本来、人外者の魔術に取り込まれた人間は、余程の理由がない限りは生涯の監視が必要になる。

ガーウィンの固有魔術、それも領地を守る為の技術を他国に流出させかねなかった事件なのだ。


そう思えば、キーアンの教会から出られないというだけの措置は、引き起こされた事件に対し、驚く程軽い罰と言えよう。



「無事に、アルテアさんの古いお道具の回収は終わりました。アンセルム神父用の外付けの理由でしたが、結果としては、薔薇の魔術師さんとの顔合わせも出来てしまい、ウィリアムさんから、今後、こちらには手を出さないようにというお話もして貰えたようです」

「死の精霊王とはびっくりだね。私が、あわよくばと考えていたのは、ガーウィンの教会医局院のお抱え魔術師でもある、恐らくは、クローブの魔物が演じていた方の、薔薇の魔術師だったんだけどねぇ」



そう微笑んだウィームの軍師が、どんな戦略を立てていたのかをネアは知らない。

死の軽薄を司る精霊との邂逅から始まった、死の精霊続きの事件の最後に現れたのが、その王だというのは、あまりにも出来過ぎているような気がしたのだとしても。


とは言え、薔薇の魔術師と呼ばれる者は、ミルクティー色の肌に薔薇色の瞳の男性だけではなく、他にも複数名確認されているので、そちらを見込んだものだった可能性もあるのだ。


けれども、当初より見据えた戦果は手に入った今、ダリルが、どのような策略をその頭の中に描いていたのかを明かす事はあるまい。

この書架妖精は、そういう性分なのだ。



「ところで、ネアちゃんは、もう、ウィリアムの終焉としての名前って聞いてる?確か、王族相当の魔物にはあるんだよね」

「いえ。それはまだ、あまりいい影響にならないからと、ディノが教えてくれませんでした。もう何年かして、私が前の世界で育んだ終焉の気配がこちらに根付いてから、教えて貰えるのだそうです」

「ふぅん。まだなのか。………じゃあ、今回の死の精霊王の名前もかな」

「ええ。そう言えば、そちらも仮のお名前のまま、オーブリーさんと」

「ディノ達がいいって言うまでは、進んで聞かない方がいいんだろうね。………ふむ。今後の為に、伝えておいた方がいいかなと思ったけれど、その時まで寝かせておこう」




(いつか………)



いつかのネアは、この日の会話を思い出し、そんな会話をしたなと思うのかもしれない。

それはただの懐かしさであるかもしれないが、そういう事だったのかという謎解きとなる可能性もあるのだろう。



ふと、あのティディア伯爵家の空気は、孤独ではない筈なのに、どこかネアハーレイの暮らした屋敷に似ていたのだと気付いた。



(時々、ダリルさんは全てを見透かすような目をする事がある。…………けれども)



ネア達には語られなかった企みがどこかにあったのだとしても、それはもう、美味しく出来上がった料理の下に、香辛料のようにぴりりと効かせておくくらいがいいだろう。


いつか、レシピの話をする日が来るのなら、その時に知る名前もあるのかもしれない。










明日2/27の更新は、お休みとなります。

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― 新着の感想 ―
[一言] 万象としてのディノ・シルハーン。 アルテアとウィリアムの、塩の魔物の正式名称を知るすべはもうないのか。 そうか。 この話を再読して、喪われてしまったのだなと改めてそう思った。 残念でならな…
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