香辛料と孔雀石 5
目を覚ますと、柔らかな口付けが額に落ちた。
むず痒いような多幸感にふにゃりとすれば、柔らかく微笑む気配がある。
部屋は静かで優しい花の香りがして、ネアは、小さな子供に戻ったような気持ちになって、寄り添う誰かの体に顔を押し当てた。
また柔らかな微笑みが揺れ、耳朶に口付けが触れる。
その柔らかさにはなぜか背筋が震えるような甘さがあって、ネアはむふんと息を吐く。
頭を撫でる手が心地よく、深い深い森の底で丸まっているような気がする。
けれども、心のどこかで、仕事中なので起きるべしと主張する自分がいて、ネアは、なぜこの甘い眠りに溺れていられないのだろうと瞼を震わせて目を開いた。
「……………目を覚まされましたか」
「………ぎゅ。ヒルドさん………です?」
「ええ。こうして手を離さずにおりましたが、怖い夢などは見ませんでしたか?」
「はい。…………森の香りがして、ぐっすりとろとろでした」
「先程の精霊が、悦楽の質を持つ可能性がありましたので、少しだけ、私の魔術領域を深めさせていただきました。あなたに庇護を与えるのが私だけなら、もう少し甘やかして差し上げられたのですが」
「……………む、………む!」
そう言ってふわりと微笑んだヒルドは、寝台のカーテンを少し下ろしているからか、薄闇の中で、どきりとするような背徳的な美しさに見えた。
優しい眼差しだが瑠璃色の瞳は鋭く、ああ、この人は妖精王でもあるのだと、なぜか強く思わせられる。
(そして、私に望まない形での侵食のようなものがあるかもしれないと考えて、怒ってくれたのだわ………)
ネアは上手く答えられずにもぞもぞしてしまい、部屋の明かりに煌めく青緑色の羽に走る光の美しさを見ている。
カーテンの向こう側が明るいので、部屋の明かりはそのままなのだろう。
ヒルドの羽にはその色が落ちるのに、ネアが見上げる寝台は薄暗い。
眠っていた間に体温が上がったのか、指を絡めるようにして繋いだ手が少し汗ばんでいるかもしれず、繊細な乙女は、是非に手を引き抜いてヒルドの手のひらを守りたいのだが、それをどうやって告げればいいのかと考える。
それなのに、寝起きのぽわぽわした意識は、美しい妖精の羽に目を奪われてしまうのだ。
「…………触れても構いませんよ」
「……………にゅ」
ふっと微笑みを深めたヒルドに、耳元に唇を寄せ、そう告げられるとついつい手が伸びた。
どれだけ美しくても造作は人間と変わらないディノ達とは少し違い、ヒルドには妖精の羽がある。
お伽話に憧れ、それだけを薬として生きてきた人間は、宝石を削ったような羽にはいつだって触れてみたくて堪らないのだった。
「…………は、」
伸ばした指先で、こちらに傾けられた内羽に触れると、あえかな吐息がこぼれる。
ネアは、そういえばこれは痛いのではと思い出してひやりとしたが、ヒルドはそれで構わない界隈の人であったことも思い出した。
それなのにここで、指先に残った妖精の粉を無駄にしない為にと、意地汚くぱくりとやっていいのだろうか。
そんな躊躇いに気付いたのか、どこか悩ましげに瞳を細めたヒルドが薄く微笑む。
唇に触れたのは、たっぷりと妖精の粉に触れた指先で、まだ意識がぼんやりしていたせいで食欲に負けたネアは、我慢出来ずにそんな妖精の指先をぱくりとやってしまってから、家族をおやつにしてしまう罪悪感にへなりと眉を下げた。
「先程の晩餐の消毒もかねていますからね。真夜中の座の振る舞いは問題ありませんが、死の精霊の要素は一欠片たりとも許し難い。………こうして、しっかりと手を繋いでおかねばなりませんね」
「………あぐ。…………む、ヒルドさんはだいじなかぞくなのでふ」
お口の中に残った美味しい妖精の粉をむぐむぐしながら、それでもと、何だか妖精の粉を味わいながらでは違う気もする家族の大事さを伝えると、ヒルドがふわりと微笑んだ。
「ええ。今は消毒程度ですが、今度また、ゆっくりと差し上げましょう。………ネア様が眠っていたのは半刻ほどですので、もう少しゆっくりとされていて構いませんが、体調は如何ですか?」
「先程よりは、だいぶすっきりしました。まだ少し気になる事もあるので、起きて待つようにしますね。…………それと、先程の晩餐では、精霊さんと二人きりにならないようにしたつもりでしたが、それでも、何か良くないものを結んでしまっていたのでしょうか?」
もしやと思いそう尋ねてみたネアは、ヒルドが首を横に振ってくれてほっとした。
「いえ、私が同席しておりましたので、そちらは問題ないのですが、…………あの精霊の司るものによっては、魅了や誘惑などの影響が後追いであるといけませんから」
「まぁ。そんな効果が………?」
「ネア様もご存知の真夜中の座と同じように、独立した複数の資質を有する精霊達の王は、一族の者達が司る全ての資質を持つ事が多い。死の精霊の系譜には、死の悦楽の資質があります。…………当人がその言葉に言及しましたので、あの者がその資質も持つと仮定し、念の為に警戒はしておきましょう」
「ふぁ、なんと嫌な精霊なのだ………」
体を起こすと、幸いにも、ひと休みする前のような強烈な眠気は残っていなかった。
ヒルドや、カードから休むように言ってくれたディノ達の言う通り、魔物の薬を飲むよりも、短い時間でも眠っておく方が有効だったのだろう。
ヒルドに寝台のカーテンを開けて貰うと、こちらを見たサフィールが、顔色が良くなりましたねと言ってくれる。
幸いにも部屋を誰かが訪ねてきたりはしておらず、屋敷の家人は、ネアが食事を終えて眠ってしまったと思ってくれているようだ。
起き上がり、よれよれしながらブラシを手にすると、ヒルドが髪を梳かしてくれる。
何だか甘やかしてもらってふんにゃりのんびりとしてしまうが、何も起きていないのなら、このままやり過ごすのがいいだろう。
「そう言えばヒルドさんは、なぜ、オーブリーさんが精霊だと分かったのですか?」
「ああ、それは彼が、クローブの魔物が擬態した人間を演じていたからですよ。僅かな香りや気配などにクローブの情報を滲ませておりましたが、私は森の系譜のシーなので、植物の系譜の者ではないことはすぐに分かりました。そうなると、クローブの持つ資質を擬態出来る者というのは案外少ないので、終焉の系譜の精霊であると予測を立てることが出来ます」
「まぁ。それでだったのですね……………。ふふ、ヒルドさんが一緒だったからこそ、あの助言を貰えてしまいました」
クローブには、終焉の領域があるらしい。
シナモンもそうであると聞けば驚きだが、確かに香辛料には薬や儀式などに不可欠な側面もある。
だが、胡椒は悦楽と商売の方面だと知ると、まだまだネアの知らない区分けがあるようだ。
「夜があり、信仰があり、けれども異教の信仰は持たない。そのように組み立ててゆくと、残された選択肢が存外に少なかったのが今回でしたね。クローブの魔物は、私の祖国にもよく訪ねて来ていましたから、そのような意味でも、判断の材料に恵まれていたのでしょう」
「むむむ。私も一生懸命考えようとしたのですが、途中から、全部美味しいやつとしか考えられなくなったので、ヒルドさんがいてくれて良かったです………」
そう項垂れたネアは、香辛料周りの推理は苦手かもしれないと思い始めていた。
香りのイメージが強いので、思索の最中に、頭の中で美味しいお菓子や料理が主張し始めてしまうのだ。
「今回は、サフィールを同行したのも幸運でしたね。私があの場で気付かなくても、彼にもあの者の素性が分かったでしょうから」
「ええ。僕の場合は、同じ属性があるのと、実際にあの擬態で会った事がありますからね」
「なぬ。こんなに近くに、あやつの正体を知っている人がいたのですね……………」
ネアは、そんな事実を知ってがっくりしてしまったが、綱渡りだったのだと知るよりも、実際にはかなり手厚い布陣だったのだと知る方が安心出来る。
けれどもそんな話をしていると、顎先に手を当てたヒルドが何やら考え込む様子を見せ、サフィールの方を向いた。
「ネア様の言うように、あの擬態には、魔物の気配も残っているように感じました。となれば、擬態そのものを複数名で共有しているのでしょう。そちらについては、何か知っていますか?」
「いえ、僕が出会った時の薔薇の魔術師は、彼でしかなかったので、他の利用者については知らないんです。ただ、ああして見ていると、クローブの魔物の気配があるのも確かなので、彼と分け合っている擬態なのかもしれませんね」
「……………むぅ。となるとこのお屋敷には、そんな魔物さんも来ている可能性があるのですね」
ネアがそう言えば、妖精達は難しい顔をした。
オーブリー本人が口にした執着を思えば、それも悩ましいところであるのだとか。
「伯爵を気に入っての滞在であれば、ここでの擬態は、あの精霊だけのものである可能性が高いかもしれません。元々、薔薇の魔術師が教会に属する者だとすれば、そちらでの活動の際にあの擬態を使うのが、クローブの魔物という区分ではないでしょうか」
「うーん、精霊の執着は重いですからね。ましてや、どちらかと言えば魔物寄りなら、クローブなんかは近付けないという気がするなぁ………」
「クローブさんはどんななのだ………」
「あまり名前を出すのは望ましくないかもしれないので、仮にオーブリーとしますが、オーブリーは、儀式的な死などを好まず信仰を第一とする聖職者の嗜好を嫌うので、教会とは相性が悪いと思います。あまり表舞台に出ないので、他の死の精霊達よりは大人しく見えますが、人の好き嫌いがかなり激しい男でしたよ」
サフィール曰く、死の精霊の王は、聖職者の取り澄ました魔術が大嫌いなのだとか。
であればアンセルムは大丈夫かなと思わないでもないが、古い友人というような表現をしていたくらいなので、そこまで仲が悪いという感じではないのかもしれない。
(おや?友人………?)
「と言うより、身内の方だったのですよね……」
「うーん、どうかな。司るものを持つ精霊は、基本単一派生なので、近しい資質の付き合いがないと、階位の近い同族というくらいの認識かもしれませんよ。死の精霊は、階位付けをする為に便宜上の家族設定はしていますが、血族としての親しみを持つという感じじゃなかった筈ですから。そこは、僕達とは違うんですよね」
「宝石妖精は複数派生ですし、育まれるのが人間の文化圏であることが多いからか、人間と変わらない形での家族形成を好みますからね」
「そうそう、あれも不思議ですよね。ああ、家族はこっちで、こっちは似た資質だけで家族じゃないなって、不思議と分かるんです……………」
ヒルドとサフィールの会話から、思いがけず宝石妖精の家族認識についても聞いてしまい、ネアはふむふむと頷いた。
(そう言えば、死の精霊の王族は十三人ひと揃えの兄弟なのだとか……………)
リシャードが王弟で、アンセルムがその弟なのだとしたら、オーブリーは長兄にあたるのではないだろうかとも思ったが、サフィールは、実質上の王というような言い方をしていたので、国王代理のような立場なのかもしれない。
ウィリアムによると、死の精霊の構成には秘密も多いのだとか。
であれば、後でウィリアムに教えて貰おうと、心の中の確認メモに加えておいた。
しかし、その直後ににっこり笑ったサフィールが、そんな秘密を事も無げに口にする。
「因みに死の精霊の王族は、王に繰り上がった者が、兄弟の一番上に順列を入れ替える仕組みらしいので、現在は彼が長男ですね」
「まぁ。入れ替え方式なのですか?」
「ええ。昔、死の精霊の王族の中に、友人がいたんです。今はもう、崩壊してしまっていませんけれど。………そんな友人が、次期精霊王候補だった事があったので、色々と話を聞いていたんですよ」
戦場にも、単調で暇な時があるんですよとサフィールは微笑む。
それは荒天の日や政治的な駆け引きがあっての停戦中、双方の陣営に、一時的に壊滅的な被害が出た日だったりする。
そんな日にサフィールと沢山の話をしたのは、当時の死の精霊の中では穏やかだと言われる人物だったのだとか。
「司る死の比重や階位が高い王族が上に立つ仕組みなので、王としての役目を拝すると、全ての資質を得た結果、入れ替えが発生するみたいですね。ただ、そこだけ変なんですけれど、誰が王になるかだけは、兄弟の順番とは関係ないんです」
思いがけない詳細情報に、ネアとヒルドは顔を見合わせた。
あまり公にされない内容の筈なのだが、おや、身内かなという細かさではないか。
「ほわ。……となると、弟だったのに、気付けばお兄さんになっていたりするのですね……………」
「死にも世相があるらしくて、時代に合わせて王に相応しい者が変わるのだとか。ちょっと不思議ですよね」
「…………王になる者が全ての資質を備えるのであれば、確かに、選定される者の死の階位はどうでもいいのでしょう。死の精霊のそのような事情を聞くのは初めてですが、そもそも代替わりが稀なのでしょうね」
そんなヒルドの言葉に頷き、美しい青い羽を揺らしたサフィールも頷く。
「かもしれません。僕が知る限りでは、一度きりですしね。王冠を得た者は、実務に向かなくなると先王に下がり、……………ほら、精霊は見えなくなっちゃいますから、死の行列の仕事が出来ないらしいんですよ。そして、実務を執り行う王が選ばれる。ここで決まったら絶対なので、僕の友人は、絶対に嫌だと逃げ回っていて、結果としてオーブリーが王になった」
つまり、ここにいる青玉の宝石妖精は、当時の、死の精霊の王の選定を知る人なのだ。
ネアは、だからこそオーブリーがどこか懐かしげな様子だったのかと、呆然としたまま頷いた。
「……………そうなりますと、あの者が当代の死の精霊の王、或いは実質的には王として座しているということは確実ですか。やはり、ディノ様達に合流をお願いしておいて良かったのかもしれません」
「はい。………今のお話を踏まえると、アンセルム神父にとっては、ひとまずお兄様で確定のようです。となると、友人というような言い方をされていたのはやはり、クローブさんなオーブリーさんを指してのことなのかもしれませんね」
ネアは、何気なくそう言っただけであった。
しかし、となるとアンセルムは、ここに来てオーブリーと対峙するまで、ティディア伯爵家にいるのは友人の方な薔薇の魔術師だと考えていたということにならないだろうか。
ふと、それが気にかかった。
(十三人ひと揃え。王になる人は、その全ての資質を持っているのなら、兄弟のことは良く分かったりするのかもしれない………)
ぼんやりとした思考の端で、サフィールと話すヒルドを見ている。
何かが捕まえられそうだったのに、やはり掴みきれない。
ただ、もし、アンセルムがここに来るまで、兄と友人の入れ替わりを知らなかったのだとしたら、それは急な事だったのではないかという気がした。
「クローブの魔物については、王都にいた頃に、ガーウィンで姿を見たという話を何度か聞いています。アンセルム神父と交流があるのなら、確かにそちらの方が自然でしょう」
「…………ふと気になったのですが、まだ、異端審問局案件での、魔物さんの従者とやらの問題がどうなったのか、分かっていませんよね?クローブさんが教会側であるのなら、内々に今回の手入れの情報が流れたりしてしまい、オーブリーさんはお気に入りの伯爵さんが心配でこちらに来たという可能性もあるのでしょうか?」
「……あー、それを考えると、………戦の駒の配置としてはあまりよくありませんね」
「…………ネア様、私から離れないようにしていて下さい」
「なぬ……」
そう告げたヒルドの横顔の厳しさに、ネアは、慌ててポケットをごそごそする。
まだまだ武器はあるが、正直なところ、ここで備えなければいけないのが何なのかが、まだ不明瞭なのだ。
そもそもネアは、アンセルムが探している魔物の従者という存在において、その魔物がどんな人物なのかすら知らない。
ダリルも、同行するのがアンセルムということもあり、ネアが不用意に反応を見せるといけないのでと、そちらの詳細までは教えてくれなかった。
こつこつ。
しかし、きっとまだ何かが起こるのだろうと覚悟を決めたネアの耳に届いたのは、そんな音だった。
誰かが窓を蹴破ってくる訳でもなく、しゅわんと足元が歪んでどこかに落とされる訳でもない。
ただ、静かなノックが響いたのだ。
「むぅ。どなたでしょうか。ハンマーでがつんとやります?」
「…………さて。扉を破るのも考えものですね」
「歴史のある建物なので、扉は傷付けないようにしていただきたいですね。………これより、異国の商人達による、扉の魔術師の奪取を目的とした襲撃があります。私の優先順位はあなた方にないので、屋敷と家人を損なわない程度に自衛していただきたい」
「ほわ、………オーブリーさんです」
扉の向こうから聞こえてきたのは、オーブリーの声であった。
静かな静かな声音に、ネアはふと、廊下はひどく暗いのではないかと思う。
窓からの夜の光も差し込まないような暗い場所に立っているのかもしれない誰かは、ぞっとするくらいに不機嫌で、凍えるように冷たい。
「ああ、やっぱりでしたか。病を持ち込む花芽の剪定を決めたのが誰なのかはさておき、どうせならと、諸共、邪魔な根を絶とうと考えた軍師がいたようですね。使い古された戦略ですが、よりにもよって、ご主……このか弱い女性を巻き込むとは」
「やはり、サフィール、あなたでしたか。………この雑な筋書きは、クローブによるものですよ。………片手は捥いだが逃げられたので、見付けたら好きに撃ち殺しておいて構いません」
「………あなたが、この手の策略に巻き込まれるのは珍しいですね」
「魔物の執着は、その品質までが気紛れです。こちらからしてみれば、長年守護を与えてきた土地に対し、枝を折ればいいだろうというような手入れは、無責任だとしかいいようがない」
(……………あ、)
その言葉にネアは、扉の向こうの精霊が腹を立てているのは、大事に守り慈しんできたこの家の人達をぞんざいな篩いにかけた、クローブの魔物に対してなのだと気付いた。
とは言えその魔物も、屋敷の人達を傷付けようとしたのではなく、ただ、とんでもなく雑なやり方で邪魔な枝を剪定しようとしただけのようだ。
恐らく、本来は器用で慎重だった筈の魔物が、今はそんな仕掛けをしてゆくくらいにぞんざいになったのだと気付いたオーブリーは、どんな思いでこの夜を見つめているのだろうか。
もしかしたらその人物は、オーブリーにとっても、ここで共にティディア伯爵家の人々を守る友人だったのかもしれないのに。
かつかつと、今度は歩き去ってゆく靴音が響き、ネアは壁にかけられた時計に目を向ける。
もう少し。
あと、もう少しなのだけれど。
(でも、間に合わないだろうか………)
あともう少しで、きっと頼もしい魔物達が迎えに来てくれる。
だが、事が起こる前に撤収するのは難しいのだろうし、オーブリーがこの家の人達を守ろうとしているのなら、それを妨げるようなことにはなりたくない。
我が儘な人間らしくそう考えたネアは、素早くカードを取り出し、これからティディア伯爵家で起こるであろう事を家族に共有した。
ウィリアムの方にも同じ内容を書いておき、カードをしまいきりりと背筋を伸ばす。
「………やれやれ、こちらの騒ぎに、巻き込まれる可能性が高いようですね。既に包囲が済んでいるのなら、我々だけで脱出するのも悪手でしょう」
すらりと月光の剣を抜きながら、ヒルドがふうっと息を吐く。
ネアがさっとハンマーを手にすると、おやっと目を瞠ったサフィールが微笑んで首を振る。
首を傾げて水鉄砲を取り出すと、そちらも首を振られた。
「香辛料界隈ですから、その水鉄砲は効果がないでしょう。除草剤や、ブーツの方が有効ですよ」
「では、近付いてきたら、除草剤をかけて踏み滅ぼしますね!遠隔の武器も欲しいところですが…」
「ここにあなたの遠隔の武器がいますよ?撃ちたいものを言ってくれれば、ずどんとやりますからね」
「ふぁ!」
「おや、ネア様、この土地は損ないたくないのでしょう?」
格好いい長銃で涼しげに敵を撃ち払う姿を思い描き、ネアはちょっぴり興奮してしまったが、ヒルドが優しく微笑んで窘めてくれたので、はっと我に返った。
その時のことだ。
くわんと世界が揺れた。
はっと息を飲んだネアは、窓の向こうが見たこともない深い深い森に包まれ、夜なのであまりよく見えないがどこか寂寥としていた丘陵地が、澄み渡った湖になっているように思えて目を瞬く。
甘く静謐な香りに、この窓の位置からは見えないが、空には宝石のような星々が煌めいているのではないだろうか。
なぜだか強くそう思うと、意味もなく胸が苦しくなって、涙がじわりと滲みそうになる。
そうか、この死の色は美しくて悲しいのだと、痛切に感じた。
(どこかで、誰かが笑っている……………)
艶やかに冷ややかに、艶やかに悍ましく。
それはどんなに美しいのだろうかと思ったが、決して見てはいけないのだろう。
「レイノ!無事ですか?!」
「ぎゃ!いきなり扉を開けるのはやめるのだ!!心臓がきゅっとなりました!」
「ああ、良かった。………まだこちらには、カルウィの商人達の侵食はないですね。それにしても、彼は、本当にあちら側しか守りませんねぇ。こちらの棟で預かっている、商人達と通じて異国を拠点とした魔物の魔術侵食を呼び込んだ孫娘には、すっかり見切りを付けてしまったらしい。………あ、レイノのことは僕が守りますからね!」
「こちらは手が足りていますので、歴史のある建物をお願いします。もしくは、お庭の花壇でもいいのですよ!」
「僕のレイノが冷たい………」
目元を片手で押さえてよろめいてみせたアンセルムは、ここで、ふいに後ろから現れた青年にひょいと押しどかされた。
えっとなっている神父姿の死の精霊は、現れた青年を見て瞠目すると、なぜかそろりと一歩下がった。
そんな青年は、こちらを見て柔らかな微笑みを浮かべる。
オーブリーが訪ねて来ていた時には真っ暗に思えた廊下は、扉を開いてみればしっかりと明かりが灯っていて、至極正常であった。
「ご無事でしたか。………どうやら、招かざる客が来たようですね。今、襲撃をしかけている者達は、認定の儀式の前の夜には、伯爵と扉の魔術師達、そして新しい候補者しか屋敷にいないと知っていたようだ」
「…………もしかすると、その情報を与えてしまったのは、キーアンさんなのでしょうか」
「恐らくは」
短く肯定した青年に、ヒルドも頷く。
「だからこその今夜でしたか。先程、薔薇の魔術師から、扉の魔術師狙いだと聞かされていなければ、我々の訪問を狙ったのかと思うところでした」
「固有魔術の奪取が目的だろう。この屋敷の娘を取り込む事で、祝福と称して、彼方の経典に記した解錠魔術の術符のような物を持たせていたらしい」
「…………む。何やら、知り合い感がある息の合ったやり取りです。さてはやはり、ダリルさんのお弟子さんなのでは………」
この青年が苦手なのか、じりじりと後退して逃げていこうとしているアンセルムは放っておき、ネアは、こちらを見た青年はダリルの弟子に違いないと安堵に微笑んだ。
ヒルドとサフィールが一緒だが、今回の相手は、キーアンを取り込もうとしていたカルウィの商人達なのだろう。
おまけに、固有魔術を奪いに来ているのであれば、相応の力は持っている筈だ。
(でもそうか。そんな人達がいたのなら、キーアンさんの向こう見ずな気質を利用して薔薇のコテージに残るように唆したのかもしれない)
つけ入る隙を与えたのは本人の責任だが、あの盲目ぶりは、心に毒を注がれてのことだったのかもしれない。
何しろ、相手はカルウィの商人だというではないか。
どう考えてもあの少女が受け流せる訳がない。
「襲撃そのものについては、死の精霊達も想定済みだったようだ。先に、この襲撃を仕組んだカルウィの魔物の方を狩り出していたようで、そちらは終わっている」
もはや使用人を演じる事を放棄したのか、口調を変えて、ヒルドにそう説明してくれている青年に、ネアは、成る程そちらの魔物の対応もしていたのかと、アンセルムの方を見る。
確かに、依頼主を潰しておかないと、増援などを送られては堪らない。
なお、アンセルムは、しきりと首元を気にしているのだが、熱いのだろうか。
「つまりこれは、アンセルム神父とクローブさんとで一芝居打ち、教会の教えに背くお嬢さんと、ガーウィンの大事な要所から固有魔術を奪おうとしたカルウィの侵入者を、諸共、それも雑に手に入れようとした結果、この土地を大事に思うオーブリーさんを怒らせたという展開なのですね」
「あはは、………まぁ、そんなところですね。でも、ウィームの介入も、利権絡みでしょう?境界域での小競り合いですから、事前に情報を得たのなら、ちょっと立ち合って恩を売っておけばいい手札になる。普通に考えて、ウィリアムが、クローブなんかにレイノを会わせたがる筈もないですからね」
アンセルムの推理が清々しいくらいに違う方向を向いてくれている間に、今度は、がたんと窓が揺れた。
はっと息を飲んだネアが振り返るより早く、窓の蝶番を壊して飛び込んできた不思議な装束の男たちは、どこからともなく現れた黒い布のようなものにくるくると包まれて消えてしまう。
「ほわ、………何かが入ってきて、一瞬で消えてしまいました」
「助かります。今のが、カルウィの手勢ですね」
「いや。私が不愉快だったんだ。………どうされました?」
「もしかして、………ミカさんなのです?」
「これはこれは、あなたにはすぐに見付かってしまう」
ネアは、切り出された魔術の色を見て漸く、今日だけの日雇いであるらしい青年が、ダリルの弟子ではなく、真夜中の座の精霊王であると気付いた。
にっこり微笑んで頷いてくれた青年姿の真夜中の座の精霊王に、思わず、頼もしいではないかの足踏みをしてしまう。
(先日の会議でエーダリア様と仲良しになったようなので、そちら経由でヒルドさんが協力を依頼したのかもしれない………!)
そちらの繋がりだったかとふんすと胸を張り、とは言えネアは、やはりあの上司は普通ではないのだと少しだけ遠い目にもなる。
そんなミカはなぜか、サフィールを見ると、野良だなと呟いているが、こちらの妖精がタジクーシャから出てきているのは、ディノがヒルド経由で仕事の依頼をしたからで、決して迷子ではないのだ。
「むむ!」
ここでまた一人、今度は廊下側から、駆け込んで来た男がいた。
けれども、その瞬間だけネアの側を離れたヒルドが素早く切り捨ててしまい、どさりと倒れて動かなくなる。
ネアは、襲撃者の命より絨毯の方が大事なのでぴっとなったが、日々、恐ろしい塩の魔物からリーエンベルクの絨毯を守っている森と湖のシーは、巧みにその上に残骸が落ちるのを避けてくれたらしい。
かしゃんと剣を鞘に収めると、ヒルドは、再びネアの手を握っていてくれた。
「…………気配からすると、この程度でしょうか」
「そのようだな。一師団に近い数だったが、殆どはあちらで片付けてしまったのだろう」
「あれ、僕は、これからいいところを見せるつもりだったんですが、もう終わりなんですね………」
「むむ、私もまだ、除草剤すら使っていません……」
もしゃもしゃとそんなやり取りをしていると、どこからともなく冷ややかな気配が揺れる。
ネアもひやりとしたが、如実に反応をしたのはアンセルムで、びゃっと飛び上がっているではないか。
「アンセルム」
廊下の向こうから現れたのはオーブリーだった。
艶やかな黒髪には乱れすらなく、襲撃に対して何かの手立てを講じていたと思わせる様子は微塵もない。
だが、何となく溜飲を下げたような気配があり、ネアは、彼が守ろうとした人達は無事だったのだなと胸を撫で下ろした。
(そして、こちらに来たのは残党的な人達だったのかしら。オーブリーさんが持ち場を離れているのだとしたら、伯爵達はもう安全なのだろう………)
「………うわ、………さては、まだ凄く怒っていますね?!」
「当然だ。今回の件で回収した害虫の引き取りは、お前の仕事だろう。一欠片も残さず、この土地から持ち帰るといい」
「ははは、残業代は出ますかね……」
「さてな。………そちらも、怪我などはありませんね?」
「はい。私はここで、除草剤の小瓶を握り締めて立っているばかりでした。お気遣いいただき、有難うございます」
案じるような言葉にそう答えると、オーブリーは薔薇色の瞳をこちらに向けて、短く頷いた。
相変わらずその瞳には人外者らしい煌めきはなく、やはりこの姿は擬態なのだなと得心する。
「扉の魔術師のいるこの屋敷で、客人に怪我をさせでもしたら、外聞が悪いのでね」
「伯爵や、扉の魔術師なお二人はご無事ですか?」
「勿論です。……………アンセルム?」
「っ!………行きます、行きますよ!!」
「は!失念していましたが、そろそろ家族が迎えに来るので、我々は、お先に失礼させていただきますね。………きっと、私の可動域を踏まえると、こんな時にこちらにまで気を遣わせてしまうよりも、既に教会から派遣された誰かに回収されたとでも言っておいた方が、皆さんも安心して家の事だけを考えられるでしょう」
どうやら逃げて来ていたらしいアンセルムを捕縛していたオーブリーが、こちらを見て僅かに瞳を細める。
一拍置いてからではあったが、短く頷いたので、屋敷を訪れていた後継者候補の不在は、何とでも誤魔化しておいてくれるだろう。
「お勧めの林檎とシナモンのパイは、素晴らしく美味しかったと、お伝え下さい。ここは、とても素敵なお屋敷だったとも」
「…………気が向けばと返しておきましょう。私も今夜は忙しい。迎えのあてがあるのなら、早々に帰るといい」
「では、彼女は連れ帰らせて貰おう」
「………っ?!」
そんな声が窓の方から聞こえてきたときに初めて、オーブリーは、ぎょっとしたように瞳を瞠って、体を揺らした。
出会ってから初めて、目に見える形で激しく動揺を示した薔薇の魔術師に、ネアは、さすが系譜の王様であると眉を持ち上げる。
ばさりと揺れたのは、真っ白な軍服であった。
「ウィリアムさん!」
「…………レイノ、………無事で良かった。聞いていない騒ぎが起きたようだが、これはどうしたんだ?」
「むむ、カードに書いておいたのですが、先に迎えに来てくれたのですね。実は、アンセルム神父とクローブなる魔物さんが悪巧みをし、このお屋敷の方達と私達は、その騒ぎに巻き込まれてしまったのです」
「…………そうか。アンセルムは、後で叱っておこうな」
「レイノ?!僕はもう、こっちで一度首を落とされているんですからね?!」
「うむ。気体になれる精霊さんなので、問題ありませんね」
手を離してそっと背中を押してくれたヒルドに促され、ネアが伸ばされたウィリアムの手の中にぼふんと収まると、ほっとしたように目元を和らげた終焉の魔物は、外にディノ達もいるのだと教えてくれた。
「だが、流石に、これ以上の人外者を迎え入れると、土地の魔術基盤が崩れる。屋敷に迎えに行くのは一人にしたんだ。…………おっと、ミカもいたのか」
「ああ。慣れない場所で、彼女にもしもがあるといけないからな」
「さて、無事にお迎えが来たので、僕はそろそろ無骨な武器の姿に戻っていましょうかね。持っていていただいても?」
「はい。しっかり担いでゆきますね!」
「折角ウィリアム様が来て下さったので、武器はこちらで預かりましょう」
「………はは、流石に二度は許して貰えませんか」
ネアは、ウィリアムにひょいと持ち上げられながら、この騒ぎでもひっくり返ったりしなかった、寝台の横の花瓶のカモミールを見つめた。
窓の金具や窓枠の一部は壊れてしまったが、窓の近くにある飾り棚は無事であったし、このくらいであればきっと、人外者の手立てがあればすぐに修復可能な範囲だろう。
これから、アンセルムを主導とした形で、カルウィの商人達の洗い出しや調査が行われる筈だ。
また、異端審問局の方では、彼等を招き入れてしまったキーアンの聴取なども行われるに違いない。
この屋敷や伯爵達はどうなるのだろうと考えてしまうが、それはもう、ネア達にとっての線引きの向こう側のことである。
けれども、死の精霊の王が薔薇の魔術師として滞在する限り、きっとここに暮らす彼等は大丈夫だろう。
ネアは、ウィリアムに頼んで、外に出る際に辛うじて残っていてくれたカーテンだけは閉めさせて貰い、壊れた窓からの風などが部屋に悪さをしないようにすると、ひとまず、伯爵家の屋敷から少し離れた位置にある森に面した小高い丘の上に向かうことになった。
どうやらそこに、ディノが待っていてくれるらしい。
ひらりと夜風に揺れたカーテンの向こうにオーブリーの姿が見えたような気がしたが、目を瞬くと、その向こうにはもう誰もいなかった。