香辛料と孔雀石 4
かちゃかちゃと、カトラリーを使う微かな音が響く。
音楽も楽しい家族の会話もない晩餐は、どれだけ美味しいローストビーフがあっても心は躍らない。
それどころか寧ろ、美味しいローストビーフに対し、冒涜であると言ってもいい。
また、ネアは、隣に立ち給仕に徹してくれているヒルドと、本当は並んで晩餐の席に着きたかった。
ヒルドは大切な家族なのだ。
オーブリーへの対策とは言え、こんな形で過ごしていて居心地がいい筈もない。
(でも、せめて契約を交わした従者という関係に見えるようにして、与える情報を少しでも減らしておかなければ………)
例えば、後からオーブリーがヒルドの話をアンセルムにしたとして、アンセルムがヒルドの正体に気付いたとする。
或いは、この場にアンセルムもやって来てしまうかもしれない。
けれど、ネア達の家族の本来の関係性迄を、アンセルムは知らないし、高位の人外者達は基本的に一人上手だ。
各々のテリトリーのようなものがあるので、よほど親しく、尚且つ情報を共有することに益がなければ、手持ちの情報の全てを同族や知り合いと共有する事はとても稀なのだという。
己の遊び場に入り込まれる事を、とても嫌がるのだ。
「成る程、感情や魔術を糧とすることが出来る階位の妖精のようですね。であれば、共に晩餐を摂ったという形にすることが出来る」
「ええ。ですので、精霊の食卓を成立させるのは、少々難しいかと」
「それは残念です。その羽の庇護が揺らぐかどうかを、確かめてみても良かったのですが」
「おや、随分と無作法な発言ですが、そちらの領域でこの方を篭絡するのは、まず不可能でしょうね」
「妖精の執着も困ったものだと思いますがね。それに、無作法どころか、食事は元々悦楽のテーブルのひと皿ではありませんか」
ネアは、たいそう冷え冷えとしたヒルドとオーブリーの応酬を聞きながら、ローストビーフに夢中なふりをしつつ、目の前の精霊の正体について考える。
(今のやり取りは、この人が、ヒルドさんの階位を正しく見定める事が出来るということなのだろう)
アンセルムの言葉を信じるのなら、この精霊は、姿を隠して生活をしながらも、自分の正体を暴く者を歓迎するのではないだろうか。
あの時は、なぜ、そんな事を伝えられたのだろうかと思っていたのだが、アンセルムなりの助言だったのかもしれない。
そこもまた高位の人外者達の気紛れさではあるが、今回のアンセルムは、ウィリアムからネアを守るように命じられてもいる。
なのでネアは、あの精霊はとても捻くれているので、ちょっとした対オーブリーの秘策をネアに授けておき、それでもう、自分は充分な助けを与えたと言ってのけるつもりではないかと推測を立ててみた。
(私が仕損じれば、手を貸す事で恩が売れる。オーブリーさんが仕損じたなら、それはそれで愉快だと思うのではないだろうか………)
ネアは勿論、そんなアンセルムと知り合った事件が引き起こされた動機を覚えている。
即ち、暇を持て余した高位の人外者は、そんなものなのだ。
(となると、アンセルムさんの助言には、私が薔薇の魔術師をどうにか出来る可能性が隠されているのかもしれないと考えてみる。………正体を暴かれても、満更ではない………となると)
ネアの持てる知識の中では、それに該当するものは一つしかなかった。
物語の技法に則り、姿を隠している高位の人外者を見付けた場合には、願いを叶えてもらえたり、祝福が得られる事もあるという。
それを利用して、気紛れで残忍な人外者達から逃げおおせる人間達がいる一方で、高位の人外者を手玉に取る者もいる。
現に、選択の魔物が、似たような形で使役された事があった。
付け合わせの蒸し野菜も美味しくいただきながら、ネアは、その路線で推理を進めてみようぞと、きりりと背筋を伸ばした。
(ヒルドさんは、オーブリーさんが精霊だと断言していた。そして、本人も否定せずに会話に応じているような気がするので、そこ迄は間違いないのだろう。………それ以降、ヒルドさんが細かな言及をしないのは、私にそう判断した情報を与えるのが不利だと判断してのことなのであれば、もしかすると、ヒルドさんが押さえようとしているのも、物語の技法なのかもしれない)
例えばここで、目の前の精霊の正体を、ネアが華麗に言い当ててしまえたのなら。
人間の姿を纏ってここに隠れている精霊に、ネアは、正体を当てたご褒美を強請る事が出来るのかもしれない。
とは言え、アルテアとバーレンの時のように、かけられた呪いを解くという形式ではないので、それを可能とする舞台を作らねばならない。
本人が取り引きに応じなければ意味がないし、どんな場面でも適用出来るものではないが、アンセルムの言葉を信じるのなら、オーブリーはその挑戦を受けるような精霊である可能性が高いのではないだろうか。
(アンセルム神父の知り合いで、よりにもよってという言い方をされる人物。アンセルム神父の領域から大きく外れず、……………とても冷ややかな気配があって、悦楽という領域の言葉を口にする人)
それはなんだろうと考えかけたネアは、ふと、窓の外で揺れているカモミールの茂みに目を留めた。
この土地の夜はウィーム程明るくはないが、それでも、カモミールの白い花は夜の光を集めている。
花の系譜に幾つかある特例だが、カモミールや鈴蘭、水仙など、白を有していても白持ちの階位ではない白い花は少なくない。
寝台の横に飾られた花瓶と、重厚で穏やかな空間。
美しい声と魅力的な微笑みを持つ人達と、まるであのカモミールの花のような色合わせのティディア伯爵。
そこでネアは、先程のオーブリーが、孫娘の失態に消沈していたティディア伯爵に向けた言葉を思い出した。
(……………あ、)
それを思い出した途端、かちりと嵌るピースがあった。
そうか、既に幾つかのヒントが出されていたのだと思えば、ネアは、ディノが最初からその可能性について考えていたのではないかと思い、にっこりする。
ネアの大事な魔物は、いつだって頼もしいのだ。
「………オーブリーさん。もし、私があなたの正体を見極める事が出来たのなら、この悪趣味な揶揄い方をやめていただけますか?」
それは唐突な提案であったが、ネアがそう言えば、オーブリーは興味を惹かれたように、こちらを見た。
切り分けたローストビーフを口に入れ、ゆっくりと咀嚼して小さく笑う。
「おや、それはどういう事でしょうか。私は、お客人が一人で食事をせずに済むよう、精一杯もてなしているつもりなのですが」
「有体に言えば、私は、あなたの玩具にも、アンセルム神父の玩具にもなるつもりはないので、放っておいていただきたいのです。この晩餐の席は、あの素敵な伯爵のお気遣いですからお受けしますが、私は、これ以上あなたと親交を深めるつもりはありません。そして、だからといって暇潰しの悪さをされるのも御免なのです」
真っ白なナプキンに落ちるのは、火の魔術が揺らすシャンデリアの灯り。
部屋は居心地のいい室温で、僅かに風の音がする。
ここはウィームのように魔術基盤が豊かな土地ではないけれど、この屋敷はどこもかしこも居心地が良かった。
それこそ、ネアがたったこれっぽっちの滞在で、屋敷の人達の安寧を願う程に。
「それは残念ですね。………長く生きていると、愉快な事はとても少ないんです。ですが、ええ。そう仰られるのであれば、構いませんよ。晩餐を共にした女性からのお願いを叶えるのも、もてなす男の役目かもしれませんからね」
「私の同行者にも、悪さはしませんか?なお、アンセルム神父はぽいして差し上げますので、今後とも、一緒に楽しく遊んで下さって構いません」
「はは、彼と楽しく遊んだのは、もう随分昔の事かな。では、私はとても寛容ですので、あなたの同行者にも手を出さないと誓いましょうか。…………ですが、例えば、この屋敷の者達に手を出すなとは、言わないのですね」
弄うようにこちらを見た薔薇色の瞳に、ネアは静かに微笑んだ。
そう問いかけられたことに安堵したのは、所詮この精霊は、その答えを知らずに向かいに座っているのだとほっとしたからでもある。
人外者との駆け引きに於いて、こちらの嗜好を握られていること程厄介な事はない。
(そしてやはり、私はどちらかと言えば、人外者との対話の方が向いているのだろう。前にダリルさんに連れていかれたお屋敷での議論より、こちらの駆け引きの方が怖くないのだから……………)
困ったものだなと、少しだけ思った。
そんな風に自分がこちら側なのだと思うのは、少しばかり寂しく恐ろしい。
けれどもネアは、そんな感傷からは顔を上げ、真っ直ぐに目の前の薔薇の魔術師の瞳を覗き込む。
隣にいるヒルドが何も言わないのは、ネアの回答を信じるのと同時に、もし仕損じても共に戦ってくれるつもりだからなのだろう。
背筋がひやりとするような危うさがあっても、そうして隣にいてくれるのだと思えば、とても頼もしかった。
「あの方達をどれだけ魅力的だと感じても、所詮、私の領域のものではないのです。私はとても強欲なので、自分の領域の外側のものまでは手を伸ばさないのですよ。……それに、あの方々があなたとどう関わるのかは、彼ら自身が選ぶ事なのでしょう」
「ふぅん。成る程。…………そのような考え方は、嫌いではないかな。では、教えていただけますか?あなたは、私を何だと思っているのか」
その問いかけに、ネアは、紹介された時よりもオーブリーが同じ目線で会話をしている事に気付いた。
これは取り引きだから、こんな風に真っ直ぐにこちらを見ているのだろうかと思えば、やはり人外者達は少しだけ生真面目である。
「…………あなたは、死の精霊ですね。このお屋敷には、ティディア伯爵に会いに来られているのですか?」
ネアの言葉に、オーブリーは微かに目を瞠り、やがて愉快そうに微笑みを深めた。
少なくとも不機嫌ではないので、アンセルムの言う通り、正体を見抜かれるのは嫌いではないらしい。
「どうして、ティディア伯爵だと?」
「終焉の系譜の方々は、きっと、あのような方がお好きだと思ったのです。扉の魔術師のお二人もそのような気質なのでしょうが、まだ髪の毛にも色が残られていて、あなた方の領域に近しいのは伯爵だけでしたから」
「ふむ。………確かに、あの二人はまだこちら側を覗く場所にはいませんね」
「それにあなたが精霊であるのなら、後援者というくらいの立場の方から、晩餐で誰かをもてなせと頼まれるのは、あまり愉快な事ではないでしょう。それなのに、そんな伯爵のお願いを快く引き受けて差し上げた上に、励ましさえしていたあなたは、やはり、あの方をかなり気に入っているとしか思えません」
「……………これは驚いた。人間に、私達の嗜好を語られるとは」
大仰にそう言ってみせたオーブリーに、ネアは小さく首を傾げる。
こんな風に笑う人を前にも見たことがあったので、少しだけ懐かしく思ったのだ。
それは、いつかのウィリアムにも、アルテアにも似ていて、線引きの向こう側の、野生の人ならざるものの目だった。
「やはりあなたは、………どこか、魔物に近しい気配があるのですね。以前、私の伴侶から、それぞれの種族に、少しずつそのような方がいるのだと聞いた事があります。であれば尚更に、あなたは、私の知っている方にどこか似ているのかもしれません」
「私の領域の魔物となると、何人かに絞り込めそうですね。……………ですがまぁ、それ以上踏み込むのも無粋でしょう。………残念だな。あなたのような人間を取り込んでこの地に縛れるのなら、より愉快な日々が送れたのかもしれなかったのですが」
そう微笑み、オーブリーはグラスに葡萄酒を注いだ。
当然だが、ヒルドはそちらの給仕まではしない。
目を閉じ深く深く微笑んだオーブリーは、これ迄とは違う、温度のある眼差しでネアを見る。
「このような駆け引きで負けたのは、何百年ぶりだろう。アンセルムが連れて来たというのが、少々不愉快ですが、私のお気に入りまで見抜かれているともなれば、先程の約束は誠実に守りましょう。…………それと、そちらの武器とやらには、随分と重い終焉の気配があるようですが?」
姿勢や表情を変えないようにしながら、何とかこの場を切り抜けた安堵を噛み締めていたネアは、オーブリーの視線を辿り、テーブルに立てかけてある棒状の武器を見る。
あまりあからさまな形状を見せないように、持ち手の部分には本体と同じ色の布を巻いて棒状にしているが、抑止力としての同席なので、ケースなどに入れてはおらず、よく見れば何だか分かるようになっている。
「ふふ。私の伴侶が、このお出掛けにあたり、危なくないようにと持たせてくれたのですよ。とても頼もしい武器さんなのです」
「冬と宝石の気配に、………殺戮と終焉の気配か。随分と懐かしい知り合いの気配だ」
「……………む。もしや、お知り合いですか?」
「戦場で何度か。ですが、素知らぬ顔をされているようですね」
「まぁ、…………知り合いという認識には、各々の捉え方がありますからね」
「………ほお。その言い方だと、私が一方的に認識しているように聞こえますが?」
すっとオーブリーの微笑みの温度が下がったが、ネアは、答えずに微笑むに留めた。
晩餐の席に同席してくれている素敵な武器は、当初はアンセルム対策用であったのだが、偶然とは言え、オーブリーにも効果的であったらしい。
なぜだか、武器としての姿でぎゅっと抱き締めるという報酬で今回の任務に同行してくれたこちらの武器は、オーブリーには興味がないのか、ここで敢えて本来の姿を晒して答えを示す必要はないと判断したのか、ただの武器の姿のまま大人しくテーブルに立てかけられている。
(……………む)
こつこつと響いたノックの音に眉を持ち上げたネアは、応答を待たずにがちゃりと開いた扉に振り返った。
そこには、一仕事終えた感でいっぱいのアンセルム神父が立っていて、目が合うとひらひらと手を振られた。
ほんの少しだけその締まらない微笑みにほっとしかけてしまうが、いやいやこちらも厄介な相手なのだぞと、気持ちを引き締め直す。
「あれ、僕のレイノの隣に、一人増えてません?…………ん?二人?」
「アンセルム神父とは、お仕事でご一緒しているだけの関係なのですが、一人は、先程からずっと一緒でしたよ?」
「おっと。………あの契約の獣でしたか。てっきり、魔物の方かとばかり」
「妖精の方が、浸食には長けておりますからね」
そう告げてひっそりと微笑んだヒルドは、アンセルムとは初対面ではない。
アンセルムは、神父としてウィームを訪れた事があるので、その際に顔を合わせている。
こうして装いで印象を変えていても、さすがに、対面してしまえば、アンセルムを欺くのは難しい。
とは言え、アンセルムが、ヒルドがどこの誰なのかをオーブリーに話すかどうかはやはり、彼次第なのだ。
「だとしても、そちらの武器は、レイノが扱うには負担が大き過ぎますよ。くれぐれも、興味本位で撃ってみたりしないようにして下さいね。この辺り一帯が消し飛ぶかもしれませんし、もし君に何かがあると、離縁した場合に、お嫁さんに来て貰う計画が台無しになりますから」
「離縁はしないので、そちらの計画はぽいしておいて下さいね。………まぁ、デザートです?」
そこで、再びこつこつとノックがなされ、オーブリーの返事を受けて先程の青年がやって来た。
今度は、銀色のワゴンの上に、美味しそうな林檎のパイが載っている。
「林檎のパイは、こちらの土地のものをと用意されていましたので、そのままお持ちしました。もう一つのケーキは、夜無花果と月明かりのケーキとなります。こちらの、アルバンのクリームチーズを添えてお召し上がり下さい」
「はい!どちらも、なんて美味しそうなのでしょう!」
オーブリーのお皿には林檎のパイしか載せられていないが、ネアのお皿には、もう一つ、美味しそうなケーキが載っている。
喜びに椅子の上で小さく弾めば、栗色の髪の青年はにっこりと微笑んでくれた。
紅茶のポットを用意しながら、ヒルドに伺いを立てており、頷いたヒルドがお茶の支度を引き受けてくれたようだ。
とても気の利く青年である。
「……………君は、いつからこの屋敷に?」
ふと、何かに気付いたのか、オーブリーがそう尋ねている。
顔を上げて淡く微笑んだ青年は、訝し気に自分を見るオーブリーの眼差しがやや剣呑な光を帯びていても、動じる気配もない。
「僕は、お客人のいる今夜限りの給仕ですよ。趣味の友人から、この方がティディア伯爵領を訪れると聞いたので、いてもたってもいられずに」
「……………まさか、」
「こちらは、正真正銘の精霊の晩餐ですので、私の列に割り込むような無粋な真似をせずにいて貰えると良いのですが。夜と死は、適度に親密なものですが、この方を勝手に精霊の食卓に招かれるとあれば、さすがに許し難い」
「……………あぐ。……………む?」
ネアは、美味しいケーキを頬張っている間に、何かまた妙な雰囲気になっているのかなと首を傾げたが、デザートを運んできてくれた青年は、優雅に微笑んで部屋を出るところであった。
ヒルドが、ほかほかと湯気を立てる紅茶をカップに注いでくれたので、ケーキと合わせて美味しくいただいてしまう。
シナモンの香りの豊かな林檎のパイは、風味でもう一つのケーキを邪魔しないよう最後にし、お皿の上のケーキは全て美味しくいただいた。
なぜか、アンセルムとオーブリーが信じられないものを見る目でこちらを見ているが、ケーキの二個くらいは淑女の基本配分である。
「ぷは。これで、しっかり最後まで美味しく晩餐をいただいたので、後はぐっすり眠るばかりです。そろそろ退出させていただいても?」
「……………そうですね。これから、アンセルムと少しじっくりと話をしたいので、そうしていただいた方が良いようだ」
「はい。では、よいしょ。もう一度ポケットに戻すのも申し訳ないので、こちらの武器さんは、お部屋まで担いでゆきますね」
「おや、私がお持ちしましょうか?」
「いえ、こう見えてとても軽いのですよ。それに、私が持っていた方が威嚇になります」
「ええと、レイノ。客人が伯爵家の中で長銃を担いでいるのはどうかと思いますよ?」
「お屋敷の方に何か言われたら、アンセルム神父の計らいだと答えておきますね」
「……………あ、そうなると、必然的に僕の評判が死にますので、部屋まで送りましょう。……………オーブリー、レイノを部屋まで送ってからこちらに戻るようにして構いませんか?」
「……………ああ」
「……………はは、本当は戻りたくないなぁ」
ネアは、アンセルムの付き添いでヒルドと共に部屋に戻り、ぱたんと扉が閉じるとすぐさま内側からしっかりと施錠した。
勝利の雄叫びの代わりに無言で天井に向かって拳を突き上げ、ヒルドに頭を撫でて貰うと、深く安堵の息を吐いた。
背後でばさりと広げられた羽の青い青い色彩に振り返り、ほうっと安堵の息を吐く。
「サフィールさん」
「扉の守りは僕が行いますので、どうか今夜はゆっくりと休まれますよう。まさか、こんな土地で、昔馴染みの死の精霊の王に会うとは思いませんでしたが」
「……………なぬ。あやつは、まさかの王様なのですか?」
「ええ。先王の方が階位は上ですが、そちらは気体化が進んでいるので、実質、彼が王ですね。変わり者で滅多に姿を見せない事でも有名なんですが、案外気儘に暮らしているんですね」
「す、すぐさまカードに書きます!」
死の精霊だというところまでは兎も角、それが王様だとは思わなかった。
ネアは、慌てて遮蔽措置を行ってカードを取り出したが、遮蔽の定着確認とネア自身の簡易魔術洗浄を待たねばならない。
「……お二人の晩餐がまだですので、何か食べられませんか?リーエンベルクで、お弁当を作って貰ってあるのです」
「おや、それではいただきましょうか。庇護する者からのふるまいは、妖精にとって力となり得ますからね」
「あ、僕にもくれるんですね。それなら遠慮なく」
忘れずに、首飾りの金庫から取り出したのは、擬態で過ごす事になるヒルドの為にと、リーエンベルクから持って来たお食事セットである。
バスケットの中に、しっかり食べ応えのあるサンドイッチやちょっとしたおかず、水筒に入ったスープなどが揃えられていて、二人で食べるにも充分だ。
ネアがこちらも準備してあった魔術洗浄セットの苦くない薬湯を飲んだり、専用の石鹸で手を洗ったりしている内に食事を終えた妖精達は、先程のオーブリーの部屋での事を話したりもしていたようだ。
「今夜は、私がネア様の側に付き、彼が扉の護衛をすることになりました。死の精霊への対策では、彼の方が相性がいい」
「はい。お手数をおかけしますが、引き続き宜しくお願いします」
「ええ。充分な対価を既にいただいているので、しっかりと働きますよ」
そう言ってくれて、扉を背に立ったサフィールは、戦場での暮らしが長いのでと、椅子を置きそこに腰掛けただけで夜を明かせるらしいが、とは言えそれではあんまりなので、ネアとしては、早めに空間遮蔽を行える家族にも合流して欲しいところだ。
同じ屋根の下に、死の精霊の王様がいるのは、さすがに心臓に悪い。
(場合によっては、早めにここから立ち去れるかもしれないし………)
部屋まで送って貰いながら、アンセルムから、キーアンの一件を優先させるので、明日の認定の儀式を執り行うのはもはや難しいだろうと言われている。
思っていたよりも根の深い異端審問案件に重点を置き、ネアは一度帰還することになりそうだ。
カルウィ絡みであれば、確かに教会側も調査の手を緩める事は難しいだろう。
「…………こうなってきますと、ダリルは、確証はなくともおおよその予測を立てていた可能性もありますね」
「………薔薇の魔術師が、死の精霊の王様だと、ご存知だったという事ですか?」
「最近、それ関連の事件が続きましたから、何の関係もないとは言えないでしょう。ダリルの説明にあった薔薇の魔術師でも良しとし、もし、最も稀なカードを引くのであれば、そちらとの顔合わせもさせておこうと考えた可能性もあります。………とは言え、ダリルは認めないでしょうが」
「むむ、…………そう考えると、ダリルさんならあり得るという気もしますね。そして、その領域の中で最も厄介な相手の一人なのだとしたら、アンセルムさんに説明した理由でしたが、魔術に触れる事で対策を練るという目的に於いてはこの上なく大きな獲物です………」
「はは、盤上に載せられた仲間を容赦なく動かすところは、うちの宰相といい勝負かもしれませんね」
そう笑ったのはサフィールだ。
今回の一件について、守秘義務に近い誓約を結んだ上で、サフィールもある程度の事を共有してある。
こちらの妖精にそこまで踏み込ませる事に対しての懸念もあったが、なぜだか、サフィールならもう安全だろうと賛成する者の方が多かったからだ。
「全てが計算の上となると、今回は、一度しくじってしまってとてもひやりとしたので、ヒルドさんがいなければ危うかったのです……。ダリルさんに叱られてしまわなければいいのですが………」
「………そのあたりまで、計算していたかもしれませんよ。この屋敷には、他にも我々の仲間がいたようですので、これからは、そこまでの警戒も必要ないかもしれません。あの場では申し上げませんでしたが、葡萄酒も真夜中の座の系譜のメゾンのものでしたからね」
「………むむ?そうだったのですか?………味方というと、ダリルさんのお弟子さん的な………?」
ふと、それは、あの食事を運んできてくれた青年のことだろうかと思い、ネアはあんな擬態の誰かを見たことがあったような気がするぞと首を傾げた。
(真夜中の座………?)
しかし、ここで遮蔽の確認が終わり、カードを開けるようになったので、慌ててメッセージの確認に入る。
“ネア、もう一刻程で、こちらの作業が終わるようだ。問題はなさそうだから、真夜中過ぎにはそちらに行けると思うよ”
“胡椒は別の国にいたから、こっちの可能性は却下しておくよ。今は、アルテアにクローブの捜索をして貰ってるんだけど、どうもここ数年の目撃情報がないんだよね。シル曰く代替わりはしてないみたいだけど、どこかに入り込んで生活しているのかもってなると、ネアの聞いたアンセルムの台詞の、一時的な滞在って感じと一致しないんだよねぇ”
“ヒルド、ノアベルトが手を離さないのだが、何か言ってやってくれ……………”
「あらあら、エーダリア様が……………」
「まったく、何をしているのやら……………」
ここで、ヒルドがこちらのカードに返信を書く事になり、ネアは、まずはディノに無事であるとだけ伝えてしまいつつ、ウィリアム宛てのカードもぱかりと開いた。
“ネア。アルテアの魔術具の問題が解決され次第、そちらに向かう。ガーウィンのティディア伯爵領だな。その外見的な特徴で薔薇の魔術師となると、ごく稀に、厄介な死の精霊が使っていることがある。くれぐれも、彼から勧められた食べ物を一対一で受け取らないようにしていてくれ”
「ほわ…………。ウィリアムさんも、こちらに来てくれるみたいです?」
「おや、ウィリアム様は、あの精霊をご存知だったようですね」
「ひとまず、ディノ達と話をするよりも、ウィリアムさんにも無事を伝えて差し上げた方が良さそうです………」
“ウィリアムさんの言うように、今回は死の精霊さんでしたので、物語の技法な感じにお話をし、ひとまず、こちらに悪さをしないような約束で着地をしたようです。ですので、どうかご無理をされないで下さいね。これから、ディノ達にもその報告をしようと思います!”
ネアは、うっかりティディア伯爵領が、終焉の魔物に滅ぼされてしまったりしないように先んじてウィリアムのカードに一言返すと、すぐさま伴侶と分け合ったカードに移る。
ヒルドがどんな返事をしたのかは見ていなかったが、エーダリアの片手は無事に解放されたようだ。
“ディノ、薔薇の魔術師さんの正体はヒルドさんのお陰で判明しました!なんと、死の精霊さんだったのですよ。それに、カードを確認したところ、ウィリアムさんもそのように教えてくれていました。物語の技法を使って、今は我々に悪さをしないような約束を取り付けてはいますが、無事にこちらに近付けると判明した後には、迎えに来てくれると嬉しいです”
“…………うん。怪我をしたり、怖い思いをしたりはしていないかい?”
“はい。最初に少し仕損じてしまい、そやつめと晩餐を一緒に摂る事になったので、ヒルドさんに助けて貰うようになってしまいましたが、ヒルドさんがいてくれたお陰で、無事に乗り切れたようです”
“晩餐……………”
文字からも悲しげな様子が伝わってきてしまい、ネアは、そんな伴侶の文字をそっと撫でる。
ディノは、きっとカードの向こうでしょんぼりしているのだろうが、大事な魔物をそんな風にしてしまうのが、この程度のことで良かった。
寝台の横の台の上に置かれた花瓶にさわりと揺れるカモミールの花を見ていると、なぜだか、そんなことをほろりと思った。
(…………私がオーブリーさんとの交渉を有利に進められたのは、ティディア伯爵や、あのお二人の扉の魔術師さんのお陰なのだろう……)
オーブリーに紹介された時の会話の一つが、ネアの記憶にくっきりと残っている。
あの時にオーブリーが告げたのは、伯爵の立場を損なうような事はしないというくらいのものであったが、ネアはそこに、表面的なものではなく、リーエンベルクで家族を慈しむ魔物達によく似た言葉の温度を見たのかもしれない。
ネアが心を落ち着けてオーブリーと交渉出来たのは、ここが、彼が心を傾けて留まる人達の屋敷だからでもある。
容易ならざる精霊に人間如きが付け入る隙を与えたのは、この穏やかで美しい屋敷を作る人達が、彼から勝ち得た執着あってこそなのだ。
“え、その席では、ヒルドも一緒だったんだよね?”
“はい。なので、擬態を解いて貰うしかなかったのです。正体を見抜いたのでと、この場では悪さをしないようにお願いしていますし、どうやらティディア伯爵はあの精霊さんのお気に入りのようですので、この場所を傷付けるようなことはしない気もするのです。……ただ、ここを出た後の問題もあるので、我々だけで帰らない方が良いかもしれませんね”
“死の精霊で、薔薇色の瞳となると一人しかいないね。君が魔物かもしれないと考えたのは、彼の成り立ちが限りなく魔物に近しいからだろう。サフィールも一緒にいるかい?”
“はい。ポケットの外に出ていて貰っています。そして、お屋敷には他にも味方がいるようなのですが、ダリルさんのご手配でしょうか?”
こちらも気になるのでと聞いてしまえば、カードの向こうのディノは困惑したようだった。
“他にも……………?”
“……………いや、私はダリルから何も聞いていないぞ。確認してみるが……………”
“え、……………それって、ネアの会じゃないの?だって、あっちの関係者に今回の事話しちゃったし………”
“かいなどはないのですよ?”
(…………あれ?)
そんなやり取りをしていると、くあっと欠伸が漏れそうになった。
なぜこんなに眠いのだろうかと、むぐぐと目を擦ると、隣に座ったヒルドがそっと頬に手を当ててくれる。
気遣わし気にこちらを見た瑠璃色の瞳に、ネアは、またしても心がむずむずしてしまった。
「……………やはり、高位の死の精霊の気配に当てられたのかもしれませんね。物語の技法は、こちらの体力なども大きく削る、魔術の儀式です。この連絡を終えたら、私とサフィールが起きていますので、少しお休みになられた方がいいかもしれません」
「むぐ。………お、おのれ、あと少しなのに、眠たくしてくる嫌な精霊です。………体力を回復するお薬では、効果はないのでしょうか?」
「魔術的な対価に近いので、薬を飲むよりは睡眠を取った方がいいでしょう。ディノ様に事情を伝えて、少しだけでも横になられては?」
「ふぁい…………」
ネアがその事をカードに書くと、薬を飲むのではなく、やはり眠った方がいいと伝えられた。
とても迷惑な話だが、高位の人外者との交渉では、気力や体力を大きく削るという認識が根深くある。
これは、物語などで定番とされる表現のせいなのだが、そのせいで認知の魔術が働き、後付けの対価として作用をネアの体に及ぼしたのだった。
(でも、まだアンセルム神父の側の問題がどうなっているのかも不透明だし、ヒルドさんがどうして、オーブリーさんを精霊だと判断したのかも聞きたいのに………瞼が開けていられないなんて………)
「……………ぐぅ。………むぐ、ディノ達が来てくれる前迄には、起きまふ」
「ええ。ネイを通して、あの方にもその旨を伝えておけば、死の精霊達の動きは抑えられるでしょう。私が隣におりますから、安心してお眠り下さい」
「…………ふぁい。ぐぅ」
ネアは、謎の協力者の事をヒルドがやけに把握しているのが気になったものの、強い眠気には敵わなかった。
椅子の上でくてんとなってしまい、寝台に運ばれると、ヒルドに優しく寝かしつけて貰う。
目を離している隙に何らかの方法で拐われないようにと、寝ている間はヒルドが手を握っていてくれるようで、何だかエーダリアとノアの事を思い出してにっこりしてしまった。
髪を撫でる手のひらの温度に、甘く清しい、カモミールの匂いがする。
ふかふかの布団と清潔な匂いのする寝具に、ネアは、幸せな眠りにすとんと引き込まれた。