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香辛料と孔雀石 3




「まぁ、神父様なんですね。私、毎朝教会のミサに行っているんですの」



そう言ってぴょこんと弾んだ少女の後姿を見ながら、ネアは、さっと手を伸ばして蜂蜜チーズサラミをお口に入れた。


オーブリーに目撃された気がするが、この際は致し方あるまい。

思っていたよりもずっと美味しかった香草と果実の食前酒だって、本当はお代わりしたかったのだ。

柔らかな声の素敵な人達との時間がここ迄であるなら、目を付けておいたサラミだけは収穫しておかねばなるまい。


むぐむぐとサラミをいただき、香辛料の扱いに長けている土地はこうなるのかと至福の溜め息を吐くと、ネアは、ナプキンで指先を拭い空になったグラスを整え、ドーリャとギーグに黙礼して立ち上がる。


ドーリャ達も頷いてくれたし、戦況を見る限り、ここに残る方が被害を出しそうな頃合いだ。

しかし、勇気ある撤退に向かおうとしたネアを発見してしまったのは、よりにもよって同行者であった。



「……………はは。そうですか。あれー、おかしいな。僕のレイノはどうして戸口にいるんですか?」

「アンセルム神父は、教会から派遣された監視官なので、特筆するような関係はなかった筈ですが。私は、お部屋での晩餐の時間が待っているので、お先に失礼させていただきますね」

「あれ、ティディア伯爵領まで二人で一緒に旅をした仲ですよね?すっかり仲良しですよね?」

「とても表面的で、お仕事上の関係に徹した旅路だったと思います。きっと今後もそうでしょう」

「僕のレイノが冷たい…………」



なんという危険な言葉を発するのだとアンセルムを睨み、ネアは、確かにはっとするような美少女だが、これはいけないぞという雰囲気がびしばし伝わってくるティディア伯爵家の孫娘の鋭い視線を避けるように、そそっと後退した。


しかし、こちらの部屋に連れて来られるなり、ぎゅむっとアンセルムの両手を握ってしまっていた美しい蜂蜜色の髪の少女は、なぜかこちらを振り返ると眦を吊り上げ、無言で歩み寄ってくるではないか。


解放されたアンセルムがすかさずオーブリーの影に隠れてしまったが、折角捕獲したばかりの獲物を手放してしまっていいのだろうか。

代わりにずずいっと歩み寄られたネアは、まだ扉の前に辿りつけておらず、不自然な姿勢でのけぞらなければいけなかった。


ふわりと香ったのは、薔薇の香水だろうか。

ネアは、おや、瑞々しくてなんともいい匂いの香水だぞと一瞬だけ気が逸れてしまい、開戦の合図を見逃したようだ。



「変な髪の色。汚れた雪みたい」

「キーアン!」

「だって!お爺様、この子を見て。ちっとも可愛くないし可動域も低いじゃない。扉の魔術師になんてなれる筈がないわ。それなのに何なの?あなたみたいな穢れの子が私の家に来るなんて、ここが、ティディア伯爵家の屋敷だと分かっていての無礼なのかしら」

「……………キーアン、お黙りなさい」



(穢れの子……………?)



ネアが、またしてもご新規の悪口がきたぞと目を丸くしていると、鋭い声が響いた。

明らかに空気は読めない系だが、少女らしい美貌には、ぱっと周囲を明るくするような快活さも感じられる少女が、名前を呼ぶ声のあまりの厳しさに眉を顰める。


そこに立っていたのは、ドーリャであった。

すっと背筋を伸ばして立ち上がったドーリャは、年齢を重ねた眼差しが、まるで女王のような凛々しさである。


そんな扉の魔術師の厳しい声に、キーアンは、たじろいだように一度はぴっとなったものの、羞恥に頬を染めて弓なりの眉をぎゅっと持ち上げると、美しい緑色のドレスを揺らして、鮮やかな萌黄色の瞳を細めた。


不謹慎な感想ではあるが、そんな姿を見たネアは、胸の内に弾けるような賑やかで鮮烈な感情をいっぱいに抱えたこの少女が、そんな危うさごと美しいのだなと思ってしまう。


若さ故の輝きなのだろうが、ぱちぱちと弾ける松明の火のようではないか。

大人達は眉を顰めても、同世代の少年少女であれば、こんな美貌に魅せられる信奉者もいるかもしれない。



なお、ネアの今回の擬態は、青みを抜き、薄茶色がかった灰色の髪の毛に、深い灰色の瞳だ。

個人的には、森狼のようでとても気に入っているし、こんな色合いのコートがあったらとても素敵だろう。



「私、間違った事は言っていないわ。こんな可動域で生まれるだなんて、きっと、前の生で悍ましい罪を犯したに違いないもの。或いは、生まれながらにして高位の人外者の障りでも受けているんだわ」

「どこでそのような思想を聞き齧って来たのか知りませんが、教会でも、そのような教えは許されていない筈ですよ。キーアン、だから、異国の商人達にはあまり近付かないようにと言ったのに…………」

「ドーリャこそ、差別はやめるべきだわ。あの人達は、とても自由で愉快な人達というだけではないの!彼等の教えはちゃんとしているし、私は正しいことを言っていると思っているわ!」

「ははぁ。穢れの子というのは、随分強烈な言葉を選びましたね。否定しようもなくカルウィの教会の教えなので、さすがに僕も聞き流せません。ヴェルクレアでは禁忌とされる思想ですが、どこでそんな言葉を知ったのか、教えていただいても?」

「……………え、」



ほんわりと微笑み、そう言ったのはアンセルムだ。


ネアは、へらりと笑っていてもこんなに平坦な声が出せるのだなと驚いて目を丸くしたが、その言葉はティディア伯爵の顔を真っ青にするには充分であった。


慌ててアンセルムを見た伯爵の様子からすると、伯爵自身は、その言葉の意味を知らなかったのだろう。


先に気付いて咎めたドーリャには、キーアンが口にしていた言葉や彼女の交友関係を、以前から案じていた節があるので、事情を知る者達と共に、キーアンの言動に頭を痛めていたようだ。



「まさかお前、……………カルウィの経典などには触れていないだろうな?」

「お爺様……………?」


さあっと水面を走った波紋のように緊張を孕んだ席で、キーアンは、なぜアンセルムの声が冷ややかになったのだろうと困惑に目を瞠っている。


詰め寄られたままだったネアは、ばさばさの睫毛とうるうるの唇の美少女をこの距離で見るのは初めてだぞと考えながら、向こう見ずな若さを湛えた少女の瞳の中に、小さな不安と反発心が揺らぐのを見ていた。



(ここで、どうか気付いて言葉を収めてくれればいいのだけれど……………)



そう思わずにはいられないが、ネアが口出しをすれば事態を悪化させるだけだろう。

だから、ただ静かに息を潜め、キーアンの次の発言を待つしかなかった。


長い睫毛に縁取られた、少女らしい瞳は、人外者のような光を透かした瞳ではない。

だからこそ、その瞳を覗き込むのは容易く、複雑な感情の揺らぎに目を奪われてしまう。

そして、残念なことにその主導権を握ったのは、鮮やかで強い感情の方であった。



「お爺様はご存知ないと思いますけれど、今は、そう言うものなのよ。でもそう思われても当然だわ。だって、この子は到底普通ではないんですもの。綺麗でもなく、一つも綺麗な色を持たずに生まれてきたのだって、この子が穢れているからでしょう。そんな子が、我が家を守る扉の魔術師候補に名を連ねるなんて、考えただけでもぞっとするわ」

「……………キーアン」



ひび割れたような絶望と失望を宿した伯爵の声音に、きりりと痛み始めた胃を押さえ、ネアは小さく息を吐いた。


ここにいる伯爵や兄妹の魔術師がお気に入りになりかけていたので、この少女は、なんてことを言うのだという思いでいっぱいになる。

キーアン自身も嫌いではないが、この人達を傷付けるような言動は、やはり問題であった。



正直なところ、彼女が嫌悪感を示したものは少なくとも真実には違いないので、であれば、信仰や思想に関しては個人の自由もあるのではないかと思うのだが、分別を持ち、発言には相応しい場というものがあるのは知っておかねばならない。


不用意な発言が、自分の家族を危うくするものであれば尚更だ。

何しろ信仰や思想には、国の意向というものがあるのだから。



(そして、実は言われている事はあながち間違いではないので、伯爵や皆さんを傷付けるような振舞いをしている以外のことについては、そこまで不愉快でもないのだけれど……………)



ネアは強欲な人間だが、自分がどういう人間であるかを知っているつもりだ。

なので、奥に立っているギーグが浮かべる悲壮な表情程の精神的な苦痛を受けている訳ではないし、もし、ネアがこの無作法には違いない少女の言動を受け流してこの場が収まるのであれば、そうしても構わないとすらは思う。



(この女の子の言葉は乱暴だけれど、悪意にまでは届かない、無鉄砲さや幼い威嚇という感じだからかな………)




そう思い、ネアは深い溜め息を吐きたくなる。


枕元の優しい花に、穏やかで均整の取れた温もりのある会話。

そんな素敵なものに触れさせて貰ったことで、この場をどうにか丸めて収めてしまえないかと考えるくらいには、この家の人達に好感を抱いていたのだけれど。



(でも、カルウィの経典という単語が出てきてしまったからには、異端審問局案件は、恐らくここなのだろう。迂闊に口を出すと、アンセルム神父の仕事を邪魔してしまうことになるし、下手をすれば、私も異教の教えを受け入れていると思われかねない)



さすがにこれは難解な場面だぞと途方に暮れたネアは、目をぱちりとさせて、何か凄い事を言われたようだがよく分からなかったぞという表情を作っておいた。


どれだけこの家の人達に好感を抱いていても、所詮は自分が一番可愛い人間なので、危ない場所には踏み込まない主義なのだ。



(でも、どうか少しでも穏便な解決に向かって欲しいな。と言うか、これから晩餐の時間なのではないだろうか。ローストビーフはきっと焼いてしまってあるだろうし、どこでも保温魔術が使える訳ではないのだから……………)



もし、そんな言葉は知らないので、さして傷付いていませんよという無垢な眼差しを見せていたネアの表情に、若干の怨嗟が滲んでいたとしたら、それはローストビーフの存亡にかかわる怨念だろう。


ネアは、まさかのこの騒ぎの中で、お部屋に戻っていますのでお食事を始めて下さいと言う訳にもいかないのだろうなと悲しい思いでいた。


すると、そんなネアの思いを見透かしたように、声を上げた者がいる。



「……………伯爵、彼女は私が部屋に案内しておきましょう。アンセルム神父は、さすがにここを離れられないでしょうから」

「オーブリー、すまないが頼んでもいいだろうか。……………レイノさん、孫娘の愚かな言葉を、どうか真に受けないでいて欲しい。この子が口にしたのが、どんな言葉であるかを私は知らないが、それでも、あなたの可動域とあなたの信仰や魂には何の因果関係もないと断言出来る。それは、教会が保証していることだ」

「ええ。そうさせていただきます。先程の言葉の意味は存じ上げませんが、きっと、若いお嬢さんですので、刺激的な情報やお喋りに感化され易い時期なのでしょう。私は気にしておりませんから。それと、お部屋には一人で戻れますので………」

「そういう訳にはいかないでしょう。あなたは、選定者であるのと同時に客人でもある。このような状況で、女性を一人で部屋に帰す訳にはいきませんよ」



つい先程引き合わされた時にはうんざりとした微笑みを浮かべていたくせに、なぜこの魔術師はそんな提案をするのだろうと、ネアはぎりりと眉を寄せた。


こちらにおわす淑女は沢山の本で知見を得ているので、出来れば、こちらの美麗な魔術師と二人きりで行動することは避けたいと考えている。

何しろ、未だにすぐ近くに立っているキーアンが、そんなオーブリーの言葉を聞いた瞬間、さっと表情を強張らせたのだ。



(ああ、こっちを凄い目で見ていらっしゃる……………)



案の定、キーアンは、物凄い目でこちらを見るではないか。


祖父である伯爵にすかさず叱られているが、年頃の、素敵な男性に目のないお嬢さんが家族に隠れて一人で屋敷に残った理由なんて、推して知るべしというところだろう。

今回はたまたまアンセルムという目新しいお客がいたものの、キーアンが屋敷に残った当初の理由は、恐らく、こちらのオーブリーに違いない。



同じ屋敷の中に、謎めいた美貌の高名な魔術師が暮らしていたら、ちょっとそわそわしてしまう気持ちも分からないではないので、不憫と言えば不憫でもある。

ネアだって、ヒルドが装いを変えただけでも落ち着かなくなったのだ。



(そして、ここで得体の知れない魔術師と二人きりにされるのは、是非にやめていただきたい…………!)


なのでネアは、この通りオーブリーと二人きりになるのは得策ではないのだという目配せをアンセルムにしてみたが、ふっと紫の瞳を瞠った神父姿の精霊は、なぜだか嬉しそうに目を輝かせる。



「そして、この通り僕はレイノのものですからね」

「何一つ伝わっていませんので、対話を終了します」

「はは、レイノは恥ずかしがり屋ですねぇ」


この悲しい顛末に一つだけ良い事があったとしたなら、どこか酷薄な気配を纏っていたアンセルムが、元通りのへらへらとした雰囲気に戻してくれたことだろうか。

あのままの様子では、すっかり顔色を失くしてしまった伯爵や、どこか気落ちしてしまったような様子のドーリャやギーグにも負担がかかった筈だ。


残念ながら、キーアン本人は未だに事の重大さを理解していないように見えるので、この後にどんな話し合いが設けられるのかはあまり考えたくない。



「オーブリーさんは、晩餐もこちらで摂られる予定なのでしょう?一人で歩かない方が良ければ、使用人の方に付き添っていただきますから、どうかお気遣いなく」

「いえ、ここから先の話は、ご家族だけで行った方がいいでしょう。あなたを送りがてら、私も部屋に下がらせて貰う」

「そんな、どうして?!」



ここで、よりにもよってのキーアンがそんな風に声を上げてしまい、ネアは、退出を見誤ってしまったことに気付き頭を抱えたくなった。

あまりにもオーブリーと二人きりになりたくなくて必死に抵抗してしまったが、ここは、素早く退出して二度目の惨事を避けるべきだったのだ。



オーブリーから、ほら見て御覧という薔薇色の冷ややかな一瞥を受け、更にげんなりしてしまう。

おまけに、オーブリーの方に体を向けたキーアンに、どしんと肩をぶつけられる。



「これは君達家族の問題で、私が同席していいような話し合いにはならないだろう。君は今、ガーウィンの教会の戒律を破った疑いをかけられている。先程の主張が、場合によっては伯爵家そのものにも懲罰が課されかねないような発言だったと、理解はしていないのだろうね」

「オーブリー、……………だって、……どうして、そんな子を気遣うの?あなただって、分かってくれるでしょう?」



(……………あ、やってしまった)



その途端、ネアは両手で顔を覆って蹲りたくなった。


輝く瞳に涙をいっぱいに浮かべ、薔薇の魔術師にそう尋ねてしまったキーアンは、憧れている男性に向けたそんな問いかけが、彼をどれだけ面倒な状況に追い込んだのか気付いていないのだろう。


ただ、彼がネアを部屋まで送って行くと言い出したので、自分の側に引き寄せようと、女性らしい手管で甘えてみただけに過ぎない。



(でも、この人は元々、伯爵家には恩があるので、異端審問局の捜査には協力出来ないと言っていたのだ)



だが、それが状況を正しく理解していない少女からの問いかけとはいえ、どちらを選ぶのだと選択を突き付けられてしまえば、アンセルムの同席するこの場で選べる回答は一つしかない。


そしてその答えは、明確にその発言が罪であると指摘することで、世話になっている伯爵の立場をより悪くし、場合によってはこの土地での研究の継続を難しくさえしかねないものであった。



すっと瞳を細めたオーブリーが浮かべたのは、はっとする程艶やかな微笑みであった。


ほっとしたように笑顔になったキーアンは、けれどもその薔薇色の瞳がどれだけ冷淡なのかに気付いていないのだろう。


魔術師という肩書きだが、白いシャツに漆黒のジレにフロックコートを羽織ったオーブリーは、どこか貴族的にも見える。

でも、いっそ生真面目にさえ感じられる言動でありながら、この男性はなぜか、はっとする程に艶やかで暗いのだ。



「何を議論しているかすら、分からないのだろうか。君の持っている思想は、この国では危ういとされるものだという話を、皆でしている。私は教会に属する魔術師なので、率直に言わせて貰えば、教会の教義に泥を塗るような君の発言には驚いたし、とてもではないが賛同出来ない」

「……………え、……………その子に、何か言われたの?」

「…………話にならないね。……………申し訳ないが、私は失礼させていただこう。レイノ嬢、部屋までお送りしましょう」

「……………はい。お願いします」

「すまないな、オーブリー。こんな場に同席させてしまって、その上で君に頼むことではないが、彼女を任せてもいいだろうか」

「ええ。勿論ですよ、伯爵。これは、あなたが頭を下げる事ではありません。私は、あなたのことはとても尊敬しておりますし、彼女はもう、デビューも済ませた立派な大人ですから」



孫娘の振舞いに恥じ入ってしまった伯爵が頭を下げると、浮かべた微笑みをふわりと温度のあるものに書き換えてみせ、オーブリーは優雅にお辞儀をした。


ティディア伯爵は少しほっとしたような目をしていたが、この魔術師は、敢えて温度のある微笑みに目の前で切り替えてみせることで、キーアンに向けて、そちらに向けたのは嘲りの微笑みだったのだと示したのだろう。


どれだけ空気を読まずに荒ぶってしまう少女でも、憧れや恋を向ける相手の変化だからこそ、敏感に感じ取れることはある。

はっと息を呑み、輝くような瞳に残っていた快活さを失ったキーアンだったが、彼女を労わるような者は、この部屋の中にはもう誰もいなかった。



部屋の扉の所に立っていた家令も、二人の女中も、これからこの家はどうなってしまうのだろうという動揺を隠しきれておらず、心配そうに伯爵や二人の魔術師の方を見ている。


部外者であるネアは当然だが口を挟める問題ではないし、伯爵達の性格を思えば、家人達はどちらかと言えばそちらの味方だろう。

また、キーアンが薔薇のコテージに隠れて残っていたという事が分かった瞬間の伯爵達の反応を見れば、彼女が問題を起こすのは初めてではなさそうだ。



(……………となると、ダリルさんの仕込みは、ウィームとの領境を治めるティディア伯爵領で、今後、場合によってはウィームに被害を齎すような問題を起こしかねないこちらのお嬢さんに、事前に足枷を付けてしまうというものでもあったのかもしれない)



そんな事が漸く腑に落ち、ネアは天井を仰ぎたくなった。


当初のネアは、こちらの道具回収の為にこんな騒動に巻き込まれてしまった人達の不運を嘆いてもいたのだが、ダリルダレンの書架妖精が、意味のない剪定を行う筈がなかったのだ。

今回は、エーダリアの身を危うくしかねない道具の回収を目的としつつ、その上で、今後の不安要因になりかねない少女に縄をかけ、場合によっては、彼女に異教の教えを説いた者達までを引き摺りだしてしまおうという計画であったのだろう。



とは言え、それぞれの目的が、どちらも思っていたよりも早く表面に出てきたなと思いつつ、ネアは、こちらの戦いはこれからであると覚悟を固めた。



恐らく、ネアの失態でもあった先程の報復がある筈だ。

それを見逃す程、薔薇の魔術師は善人には見えない。




「さて、あなたのせいで、私は余計な損失を出した訳ですが、あの場で、早々に退出しようという意図を、まさかとは思いますが理解出来ていなかったのですか?」



残念ながら、食前酒をいただいていた部屋から、母屋までは少し距離がある。

ネアは、部屋を離れ、周囲に人がいなくなった途端にそんな問いかけをした薔薇の魔術師に、むぐっと眉を寄せた。



「……………思いがけない事故ではなく、想定の上で、あの方を追い詰めたのではないのですか?」

「……………想定の上で?」



内心は竦み上がりつつ、ネアは辛うじて生き延びられる方向へと、会話の舵取りをする。

後でアンセルムが死んでしまうかもしれないが、そこは頑張っていただこう。



「あなたは、アンセルム神父のご友人だと伺っています。私を紹介した際のお話ぶりや、その後のアンセルム神父の言動からすると、キーアンさんが良くないご友人を持ち、教会の教えに背くような思想に染まりかけていると知った上で、先程の舞台を設定されたのではないのですか?」

「ほお。であれば、最後のあれも、私が望んでいた展開であるとお思いか」

「あら、違うのですか?アンセルム神父が、わざとあのお嬢さんが癇癪を起すようにと、私を囮にして仕掛け、あなたがその仕上げをしたのだとばかり思っていました。私の感想としては、どうか、狩りで使う生餌にしないでいただきたかったというところです。これでも私は、このお屋敷の方々がとても好きだったのですから」



(………でもこのやり方は、私の退路も絶ってしまうものなのだ)



既に目的の魔術道具を回収していなければ、到底こんな荒業は使えなかった。


けれども、瑕疵ありと巧妙に囲い込まれて何か良からぬ言葉を奪われるくらいであれば、こちらには爪も牙もあるのだと知られた方がまだいい。

ネアがそう判断したのは、もし、この男性が何かを本気で仕掛けてきた場合、こちらの話術では回避しきれないと判断したからであった。


野良であればその場で滅ぼして終わりなのだが、本当にガーウィンの要人であった場合は、そんな事をしたら政治的な大問題に波及しかねない。



(なので、そんな駆け引きがあったに違いないというだけの判断をする人間なのだと、そう思わせるしかない………)



こちらを見ていた瞳が、僅かに揺れたような気がした。


それはまるで、嘲りと悪意の滲む眼差しが、これは少し面白いかもしれないぞと目を眇めるよう。

思惑通りではあるが、恐ろしい獣の視線をこちらに向けさせるようなものだ。



「成る程。…………転がせばその場で壊れてしまうような張りぼてかと思えば、その実、中にはそれなりの遊び場が隠れていたとは」

「私は、見ず知らずの方に何かを提供する程に善良な人間ではないので、そのような言葉はとても不愉快です。このような場所に連れて来られた事で、既にとても疲弊しているので、お送りはここ迄で結構ですよ」

「残念ながら、そうは出来ませんね。あなたは、客人だ。この家の中を自由に歩かせていい家人ではない」

「……………雪道でも砂利道でもないのに、腕を取っていただく必要があるとは思いませんが」

「失礼。少し足元が危ういように見えたので。………それと、連れ歩いている契約の獣については、あなたの契約でしっかりと手綱をかけておくと良いでしょう。輪郭と形が重ならないようなので、それなりに高位の従者なのかもしれませんが、私とてそれなりに自衛はしますから」



オーブリーがネアの腕を取った瞬間、胸元に身を潜めていたちびふわ風擬態中のヒルドが、ぐっと体に力を入れるのが分かった。


どうやらそれを気配で感じ取ったらしい薔薇の魔術師は、おまけに、それが擬態である事までを確信しているようだ。



(この人は、誰なのだろう……………)



体を寄せた事で感じられるのは、僅かな夜の香り。

それは静謐で沈黙で、喧しく冷ややかだ。

カードで挙がっていた香辛料の名前を思い、ネアは、その中の不似合いな一つの気配に眉を寄せる。



(仮にも植物の系譜であれば、こんな風に冷ややかな気配を纏うだろうか)



ネアが感じるのは寧ろ、良く知る魔物達にこそ近しい人ならざるものの硬質な気配である。




「おや、随分と静かになってしまいましたね。お疲れのようですから、すぐに食事にしましょう。こちらへどうぞ」



なぜか、オーブリーが足を止めたのは、先程の母屋からはネア達の客間より手前にある、彼の部屋の前だった。


ゆっくりと顔を上げたネアに驚いたような目をしてみせたので、こちらが意図せざる場所であることは承知の上での嫌がらせなのだろう。



「ここは、あなたが使っておられる部屋なのでは?私は、晩餐は、自分の部屋でいただけると聞いていた筈なのですが」

「おや、伯爵の言葉を正確に理解しておられなかったようだ。あの方は、孫娘の心無い言葉に傷付いているであろうあなたが一人で食事をしなくていいように、私に、晩餐に同席せよと頼んでこられたのですよ。なので、晩餐の準備はこちらに届く事になる」

「なんと狡猾なのでしょう。私のローストビーフを盾に取るだなんて……………」



怒りのあまりに声が低くなったネアに、オーブリーが目を瞠る。

困惑したような薔薇色の瞳に、ほんの僅かに揺らいだのは人間の持つ色彩にはない筈の煌めきだろうか。


しかしその揺らぎは、ネアが襟元を僅かに寛げ、その中からもふもふと出てきたちびふわ風生物が、ふわんと擬態を解いてしまう迄であった。



ばさりと、宝石を削ったような羽が打ち鳴らされる。


夜よりも暗い漆黒の装いは、けれどもひどく鮮やかで、孔雀色の髪色をくっきりと浮かび上がらせていた。

何もその気配はないのに、ネアはふと、タジクーシャの妖精達の煌びやかさを思い出してしまう。



「……………女性を誘うには、いささか優雅さに欠ける振舞いですね」

「ほお。……………妖精でしたか」



擬態を解き、ネアの横に立ったヒルドに、オーブリーの唇が深く微笑みの形を作る。

相変わらず、物静かにさえ見える形であるのに、ひやりとするような暗い微笑みだ。



「…………クローブの残り香でしょうか。アンセルム神父の仰っていた意味が、腑に落ちたように思います」

「そうだな。妖精であれば、そのあたりの嗅ぎ分けも出来るようだ」


ヒルドの言葉に微笑んだまま頷き、オーブリーは大きな黒樫の木のテーブルに付く。

伸ばした片手を優雅に広げてみせ、さぁどうぞと、ネアにも座るように促した。



「従者がいるのなら、椅子を引くのは私の役目ではないでしょう。お任せしても?」

「ええ。レイノ様のお世話をするのは、私の役目ですから」

「よくもまぁ、このティディア伯爵家の中にまで、この階位の妖精を連れ込んだものですね。あんな小さな獣ではないとは思っていましたが、まさか、シーを連れているとは。………その可動域で」

「まぁ。そのような含みのある言い方をなされるということは、実は、あのお嬢さんと同じ思想を持たれているのでしょうか?私の記憶が確かであれば、この国では、こうした可動域は上品という表現の範疇だと思いますが?」



ネアはヒルドが引いてくれた椅子に座り、オーブリーと向かい合う。


こんな風に一緒に食事をするのは業腹であるし、何を企んでいるのか分からない人外者と一緒に食事をすること程に危ういことはないので、こうしてヒルドが擬態を解かなければいけなくなったのも腹立たしい。



(でも、二人きりで食事などしてしまったら、魔術的な意味を持たされかねない)



だからこそ、この屋敷の主人が指定したもてなしを受けるしかないのであれば、ここには、ヒルドもいなければいけないのだった。


こんな厄介な人物と二人きりにしようとしたアンセルムについては、後でウィリアムに言いつけるとして、こつこつと扉をノックして、銀のワゴンを押して入ってきた使用人に、ネアはいっそうに眉を寄せる。


ヒルドの姿に気付いた使用人の男性はぽかんとしていたが、そこは、にっこり微笑んだオーブリーが、彼女の連れている妖精の従者ですよと説明している。


アンセルムが側を離れているので、低い可動域で身を損なわないように姿を現したのだと説明され、料理を運んできた青年はネアとヒルドを交互に見た後、こくりと頷く。



(……………ワゴンには、確かに二人分の料理がある。この状況では、伯爵が、確かにこの人に、私の相手をして欲しいと頼んでいたのだと信じるしかない)



ネアが気付かないところで、使用人に頼んだのかもしれないが、それを証明出来ない限りは、客人としての作法に従い、ここで食事をするしかないようだ。

ネアが身分と名前を偽ってティディア伯爵家を訪ねている以上、客人として適用される魔術的な規則は疎かには出来ない。


どんな規則であれ、相手が人ならざる者である以上、そこにどんな罠を仕掛けられているか分からないではないか。


幸いにも、ガーウィンの一般的な晩餐は、一皿ずつ出てくるのではなく、一度に全部並べてしまう方式だ。

さっさと食事を終えてこの部屋を出ることにしよう。



ぷわりといい匂いを届けてくれるローストビーフのお皿が並べられると、ネアは、こんなに素敵なものを敵地で味わう羽目になったことを心から呪った。

植物の系譜であれば除草剤案件であるが、先程のヒルドの発言は、どうやらそうでもないような気がする。


ネアがあまりにも鋭い目をしているからか、料理を届けてくれた青年が、よろよろと部屋から出てゆくと、オーブリーはにっこりと微笑んでこちらを見た。



(この人をどれだけ見ていても、どうしても正体に辿り着く為の糸口が掴めないのだわ………)



黒髪にミルクティー色の肌、そして薔薇色の瞳。

なぜだかその色彩は、彼が持つ本来の色からさして遠くないような気もするのに、どうしても上手に掴み取る事が出来ない。


それでも、こちらを見ている暗い暗い瞳はなぜか、決して見慣れないものではなかった。



「晩餐の前に一つ。……………彼女には、伴侶がおります。葡萄酒を勧めるのであれば、魔術の繋ぎを切るのが礼儀かと」

「……………それは残念ですね。とは言え、人間は指と耳と首の数だけ、伴侶の証を贈れると聞いているので、何もその候補者に名を連ねるつもりはないにせよ、階位的にこちらの誘いには応じるのが礼儀では?」

「さて、それはどうでしょうね。レイノ様、彼は精霊です。………ですが、この擬態は本来、魔物の為に作られたものなのでしょう」

「まぁ、………精霊さんなのですか?」



きっぱりと言い切ったヒルドに、ネアはこくりと頷いた。


どうしても魔物のような気配を感じてしまうのだが、これだけはっきりと断言するのであれば、ヒルドには、そう告げるだけの根拠があるのかもしれない。



「では、いざという時の為の除草剤はポケットにしまいますね。代わりに、持ってきた武器を出しておきます」

「……………ん?」

「あら、私は仮にも淑女ですので、このような席では、多少の警戒をすることをご容赦下さいね。何しろ、オーブリーさんは先程の青年に、部屋の扉を閉めるように言ってしまわれたでしょう?見ず知らずの男性の部屋で、扉を閉めて食事をするともなると、か弱い女性は少しの安心感を求めてしまうのです」



そうにっこり微笑み、ネアは、念の為に膝の上に出しておいた小瓶をポケットにしまうと、代わりに、身の丈程の黒く細長い武器をポケットからずるりと取り出しておいた。


さすがに膝の上に置いて食事をする訳にもいかないので、ちょっと邪魔だが、テーブルに立てかけておく。



「……………何ですか、それは」

「武器ですよ。悪い事をする方がいた場合は、これで撃退します」

「どうやって……………、そうか、ポケットが金庫になっているようですね」



思っていたより奇妙なお客であるらしいと気付いてしまったオーブリーが、窺うようにじっとこちらを見ている。



ネアは、とは言えまだ充分に警戒するべき薔薇の魔術師を一瞥すると、ぷいっと視線を逸らし、用意された葡萄酒の栓を開けたヒルドから、最初の一杯をグラスに注いで貰ったのだった。














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