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香辛料と孔雀石 2




部屋に戻るとネアがまず行ったのは、金庫から華麗に取り出した義兄特製の術符を部屋の中の四箇所に置き、臨時の隔離結界を作ることだ。



ネアに割り当てられた客室は、アンセルムの隣の部屋である。

先程の薔薇の魔術師の部屋とは違う階になっているのがせめてもなのだが、あちらは居候的長期滞在者なので、母家近くの部屋となっているらしい。



(………こうして見ると、やはり綺麗なところだわ)



深みのある飴色の木の家具に、美しい青緑色の絨毯が敷かれているこの部屋は、どこか寂寥とした窓からの景色と合わせ、静かに読書でもしたいような佇まいである。


こんな訪問理由でなければとても好きな雰囲気なので、ついつい唇の端が持ち上がってしまう。


磨き上げられた部屋の木の床は鉱石のように光り、部屋には、備え付けの浴室で使われたものらしい磨き粉の匂いと飾られた花の香りがする。

大きな寝台には上品な花柄のカバーがかかり、寝台の横のテーブルの上に置かれた花瓶には、可憐な野の花がたっぷりと生けられていた。


寝具のカバーと長椅子のクッションは落ち着いた暗めの水色で、窓のカーテンは上品なレースである。

長く使われてきた屋敷の重厚さと、居心地のいい木の家具と建物の柔らかさが随所に見られる、素敵な客間だ。



(……………歓迎はされているのだろう。そう思えば尚更、少しだけ後ろめたいのだけれど)



ちりりと痛んだ胸に深く息を吸い、ネアは、ここで暮らす人達のことをあまり考え過ぎないようにした。


細やかな気遣いで部屋を調えてくれた人達が、今回の騒動で傷付くことがなければいいと思う感傷的な人間は、とは言え、家族の安全のために必要だったこの訪問が間違いだったとも思わない。


身勝手な人間にとって、ここはやはり、線引きの外側なのだ。



「フキュ?」

「いえ。…………寝台の横に、このような可憐で優しいお花を用意してくれた方の事を思っていました。見て下さい、カモミールがこんなに沢山。このお屋敷の庭には薔薇や百合も咲いていますし、窓辺の花瓶や浴室の一輪挿しには、薔薇が生けてありました。けれどきっと、柔らかな香りで気持ちよく眠れるようなお花を、寝台の横の大きな花瓶にと選んでくれたのでしょう」

「フキュ」


ちびりと頷き、胸元からぽてりと寝台に着地した青灰色のちびふわ風生物が、むぐむぐとちびこい両手で顔を擦っている。

初めてこのような姿になる家族なので、ふわふわの毛皮生物の過ごし方にまだ慣れないのだろう。


ネアが、僅かに躊躇いつつもそっと頭を撫でると、瑠璃色の瞳がこちらを見上げた。

澄んだ瞳の色に思わずぎゅっとしてしまいたくなり、ネアは慌てて金庫に指をかける。



「ま、待っていて下さいね。すぐに擬態を解きます!」

「フキュ」

「カードを開いて、……こちらの術符ですね。えいっ!」



連絡用のカードを開きながら取り出した術符を貼り付けると、しゅわんと現れたのは、長い孔雀色の髪を持つ美しい妖精だ。


いつものウィーム風の装いではなく、どこか異国風の従者めいた服装をしているのは、万が一この状態で見付かったとしても、ヒルドの素性を探り当てるまでの時間を稼ぐ為である。


髪色や瞳の色を擬態しても良かったのだが、一部の妖精や精霊は、そうする事で扱える魔術の領域を狭めてしまう。

ヒルドにもその傾向があるらしく、能力の制限を受けずに済むようにと、擬態ではなく服装での印象操作としたのだった。


いつもなら一本に結んである長い髪は、前に流すような独特な三つ編みにされ、飾り紐を一緒に編み込みこちらも異国風としてある。

漆黒の織布を主とした装束は、その色の中に複雑な色が幾重にも重ねる独特な物で、聖衣のような雰囲気もありつつ、不思議と色めいて感じられるではないか。


寝台の上で向かい合ったヒルドの微笑みに、ぴっとなったネアは、なぜか意味もなく頷いてしまった。



「おや、この姿はやはり馴染みませんか?」


小さく微笑みを深めたヒルドにそう尋ねられ、ネアは、なぜ自分は意味もなく頷いたのだろうとあわあわと視線を彷徨わせる。

奇妙な気恥ずかしさに首を傾げていると、ふわりと頭を撫でられた。



「………むぐ。ヒルドさんの筈なのに、どこか見知らぬ方のような気配もあって、なんだか不思議です」

「となると、アルテア様のような方はやはり、このような装いを駆使して、簡単に印象を変える事に長けておられるのですね」

「ふぁい…………」

「………ですが、今はこうして二人でいるのですから、この時間だけはどうか寛いでいて下さい」

「はい。なぜだか、心がもぞもぞするのですが、こんな装いのヒルドさんもとても綺麗なので、しっかり堪能しつつ、今は少しだけのんびりしてしまいますね」



ネアの言葉に、ヒルドがまた微笑む。

脆弱な人間は、深い森の中にある美しい湖に指先が触れたような思いで心がくしゅんとなりかけたものの、ここは、見惚れている場合ではないとぐぐっと堪えた。



(予定していたよりも余裕はあるけれど、とは言え、予定外の懸念もあるのでしゃんとしなければ!)



本来なら、ここからは作戦会議となる筈だった。

しかし、そんな当初の計画は大きく狂い、あの薔薇の魔術師は何者なのだろうという懸念が増えてもなお、少しの安堵を心に残してくれる。



「………目的の物が、早々に手に入るとは思いませんでしたので、それについては幸いでしたね」

「ええ。お目当ての魔術道具が、まさかの、通された客間にいきなり飾られているとは思いませんでした。アルテアさんから預かっていた置き換えの魔術で特設工房に移動された筈ですので、カードを開いたら確認してみます」



ティディア伯爵家に到着して、ネアが何よりも驚いたのは、様々な推理や困難を経て発見する筈だった目的の品物が、客間の壁にどどんと飾られていた事だった。


花弁の少ない野薔薇と妖精の羽を模した美しいペーパーナイフ型の魔術道具は、一度限りの利用を終えて残された後、繊細な細工が美しい美術品として、こちらのお宅の壁に飾られていたらしい。


恐らく、ガーウィンの女公爵の家に残された品物が何らかの経緯で人手に渡り、巡り巡ってこのティディア伯爵家にやって来たのだろう。

どうしてこの屋敷にと思っていたが、飾られている様子を見て得心した。


天鵞絨の台座のある展示用の額縁の中のペーパーナイフは、成る程、美術品として欲されるだろうなという美しさであったのだ。


しかし、特別な材料を使われている訳ではなかったからか、硝子や泉結晶の覆いもなく飾られていたので、ネアは、美術品があちこちに飾られたお部屋の中をうろうろ歩いてしまう田舎者を演じただけで、簡単に目的の品を回収出来てしまった。



アルテアから、置き換えの魔術を添付された模造品を渡されていたのだが、それを本物の魔術道具に触れ合わせるだけで置き換えと回収が出来てしまうのだから、魔術の叡智は素晴らしい。



(物語だと、いざ回収という時に手間取ってしまい、そんな時に限って誰かがやって来て発見されてしまったりするけれど、そんな間もなく一瞬で済んでしまった………!)



伯爵家からの魔術道具の回収と聞き、ネアが真っ先に案じたのは、他人様のお宅に所蔵されている道具を盗み出すだけの怪盗的な技術が、自分にあるだろうかということだった。


慌ててその不安をディノに訴えたところ、微笑んだ魔物から、恐らくアルテアはその手の懸念に対応出来るような策を持っている筈だよと教えて貰いどれだけ安堵したことか。


まさか触れるだけで模造品に入れ替える事が出来るとは思わなかったが、よく考えれば、あちこちに姿や名前を変えて紛れ込んでいる魔物達は、これ迄にもそんな必要に駆られたことがあるのだろう。



「恐らく、あのように飾られる道具として象ったのも、アルテア様の策なのでしょうね。希少な美術品や魔術道具ともなれば、多くの者達が触れるような場所には置かず、部外者が手を出し難い場所に保管されるのが常です。引き取り迄に時間をかける場合や、回収する前に道具が流れた場合も見越し、金庫に収める程の魔術を残さず、尚且つ、あのような形で表に出されるような装飾としたのでしょう」

「むむ、そこ迄を考えていたかもしれないのですね。さすが使い魔さんです………」

「さて、調べてしまいましょう」

「はい。宜しくお願いします!」



ヒルドが手のひらの上で開いたのは、一輪のアネモネのような花だ。


これは魔術反応を見る花らしく、しゅわしゅわと細やかな光になって解けてゆくのは、空間の遮蔽が万全である証らしい。

この検証は手筈通りなので、ネアは、確認が終わるのを待ってからカードを開いた。



連れているちびふわ風の契約の獣の正体であれば露見しても言い逃れようがあるが、さすがにカードでのやり取りは見られたらまずいものだ。


会話については術符を置いた段階で音の壁が展開されているものの、視覚的な監視の魔術は、念の為にこうして排除出来ているかの確認をしておいた方がいい。




“ネア、何も問題は起きていないかい?”

“え、屋敷に入ってすぐに、目的の魔術具を回収してない?早過ぎて、お兄ちゃんびっくりなんだけど”

“こちらで、回収された道具に付与した魔術効果が残っていないことは確認済だ。魔術消失の時期を見る限り、使われた直後に全ての魔術効果が失われていたことも間違いない。所在を見失っていた間に、何者かが魔術証跡を拾った痕跡もないようだな。……………とは言え今回は、念入りに調べる。こちらの結果が出るまでは、そこで堪えろよ”

“あ。ヒルド、僕はちゃんとエーダリアの手を握ってるから大丈夫!”



「む。ノアは、エーダリア様の手を握っているようですよ……………」

「やれやれ、そのまま一日を過ごすつもりではないでしょうね………」

「ふふ。ヒルドさんの分も、エーダリア様を守ろうときりりとしているのですね。困惑してしまうエーダリア様が見えるようで、ちょっぴりほっこりしてしまいます。我々も、目的の物は回収済みなので、本来ならもういつでも帰れるところなのですが…………」



ネアがカードへの返信の前にその話をしたのは、ヒルドの意見を聞く為だった。

ちびふわ風の生き物に擬態していたとはいえ、あの場にいてオーブリーとの会話を聞いていたヒルドも、ネアの感じているものを共有してくれるかもしれない。



「あの魔術師ですね。………確かに、あのような人物がいるのであれば、回収を終えたからと迂闊に動かない方がいいでしょう。異端審問局の捜査という盾があっても、滞在期間を切り上げれば、それだけ証跡を狭めることになります。訪問理由を訝しまれた場合、こちらの目的を特定されやすくなる。………ダリルは、彼の事を知っていたようですが、事前情報にあった魔術師の印象とは、少し違うような気がしますからね」

「私の印象だけでは心許ないので、ヒルドさんも同じ考えでいてくれて、少しほっとしました。私もそう思いましたので、これから、ディノ達にもあの方の事を相談してみますね」



(やはり、何らかの理由を付けて滞在を切り上げるのは難しそうだな………)



そのような作戦もあったのだが、こちらは諦めざるを得ないようだ。

勿論、問題の道具の回収を終えているので、ディノ達にもこの屋敷に来て貰い、守り手を増やすという手もある。

だが、その為には、回収した道具の廃棄と、そこに付随した魔術効果が本当にこの屋敷に残されていないかの確認を、全て済ませる必要があった。


アルテアの簡易確認では問題はなさそうだが、もし、あの道具から何らかの魔術の証跡を引き抜かれていた場合は、本体の破壊が一番の対策となる。


その前に、あの道具に付与された排除術式に触れるディノ達が近付き、どこかに残されているかもしれない術式が反応してからでは、持ち去った者を警戒させ、手元の魔術に保護をかけられてしまいかねない。



なので、道具を回収してもすぐには合流出来ないことは、元々決まっていた。

魔物達の擬態に寄せた形で、ネアとの契約の結びがあるヒルドが同行してくれることになったのは、ネアが、どうしても一定時間はこの屋敷に留まらなければならないからである。


何しろこの作戦には、二度目はない。

こんな形で潜入出来るのは一度限りで、他に手がない訳ではないのだが、事故調査などで事態を大きくするのは可能な限り避けたい。



(一緒に来るのがヒルドさんでなければいけなかったのは、アンセルム神父の目を欺く為だ。私と契約を交わしている人でなければ、ディノやアルテアさんではないだろうとすぐに見抜かれてしまうもの)



不在を悟られれば、疑念に繋がる。

こちらに不足があると知ってもウィリアムの言いつけを守るかどうかとなると、アンセルムはやや危うい。

何しろ精霊は、自身の欲求に正直過ぎる傾向があるので、協力者であっても用心せねばならない。



“ディノ、お部屋に入って遮蔽空間を作りました!”

“良かった。……………ヒルドも一緒だね”

“はい。探していたペーパーナイフは、よりにもよって、少々お待ち下さいと家令さんに通された部屋に飾られていたのですよ。アンセルム神父が、家人の方と話している隙に、えいやっと回収してしまいました!”



やり取りを始めると、ふっと視界が翳り、ネアは小さく息を呑んだ。

小さな紙面を一緒に覗き込むので、ヒルドの体がぐっと触れるようになる。

こんなにぎゅぎゅっとなるのは、座面が寝台だからと気付いたネアは、臨時ちびふわ姿から擬態を解くのでと寝台に下ろしたものの、今はもうここにいなくてもいいのだと漸く思い出した。


立派な寝台には天蓋のカーテンが下され、僅かに翳った視界のせいか何となく秘密めいた雰囲気がある。

清廉な雰囲気のヒルドとその上にいると、たいへん申し訳ありませんでしたという気分になってしまう。



「ぎゅ…………、カードにお返事を書くので、あちらに移動しましょうか」

「おや。言われてみればそうですね。失礼しました」


ふっと微笑んでネアの頬を撫でたヒルドは、びゃむっとなったネアにくすりと笑い、書き物が出来るような大きなテーブルと椅子が用意された場所に移動してくれた。



ぴっちりと畳んだ羽は禁欲的な美しさで、いつもとは違う服装や髪型のせいか、ネアは、やはり少しだけ心がそわそわする。


いつものヒルドもたいそう美しいのだが、異国風の美しい妖精感を出されてしまうと、妖精の王らしい気品のようなものが高まり、ついつい凝視したくなってしまうのだ。


敵は己の心の中にもいたようだと胸を押さえ、ネアは、しっかりし給えと自分に言い聞かせる。

とても素敵な装いを観察するべく、ヒルドの周囲をぐるぐるしたい欲求は、何とか押さえねばならない。



「ポットを持ってきたので、お茶を淹れますね」

「では、そちらの作業は私がやりましょう。ネア様は、カードへの返事を優先なさって下さい」

「むむ、ではお任せしてしまいますね。………ふふ、エーダリア様からも、回収が早過ぎないかと書かれてしまいました」

「到着直後でしたからね。ですが、………あちらの解析と確認が間に合えば、我々がこの屋敷を出るよりも早くに、ネイ達の合流が可能かもしれませんね。………おや」



ふと、ここでヒルドが視線を持ち上げた。

ネアもそちらを見たのだが、瞳を細めたヒルドに人差し指を唇に押し当てられ、ぐむっと言葉を飲み込む。


がしゃんと、扉が閉まるような音が聞こえたのはその直後で、こつこつと響く靴音からすると、誰かが絨毯の敷かれた廊下を歩いて行ったようだ。

扉の魔術を展開しやすいようにと、この屋敷は規模に見合わず木造なので、靴音には独特な響きがある。



「…………もう大丈夫でしょう。我々の同行者は、部屋を出たようですね」

「ふむ。隠す様子はなかったので、こちらを警戒する必要のないお出かけかもしれません」

「ただ、異端審問局の仕事の為であれば、彼の行動によって、屋敷内の均衡が崩れる可能性もあるでしょう。早めにこちらの会話を終えておいた方がいいかもしれませんね」

「は、はい!」



アンセルムが騒ぎを起こしてしまえば、落ち着いて部屋に篭ってもいられなくなる。


その事に気付いてぎくりとしたネアは、慌ててカードに返信を書き込み始めた。

何しろ、伝えておかなければならないことは沢山あるのだ。


まずは、屋敷の中にいる者達のことと、アンセルムに引き合わされた薔薇の魔術師の印象を告げる。

アンセルムの奇妙な言葉も併せて書き込むと、カードの向こう側でも少し考え込む気配があった。



“工房に入ったアルテアにも確認してみるけど、ネアが人間じゃないって感じたのなら、それで間違いないと思うよ。エーダリアに、ダリルとも確認を取って貰っているから、ちょっと待ってね”

“はい。……何と言うか、変わり者の研究者というよりは、……………もう少し危うい方だという気がするのです。他の方からの情報であれば、そちらとは感じ方が違うのかなとも思えますが、ダリルさんがそのような要素を見落とすとも思えません………”

“あの精霊の言葉を考えると、薔薇の魔術師という通り名の魔術師は、複数名で共有されている擬態なのかもしれないね。アルテアがよくそのような事をしているようだから、何か知っているかもしれない”

“むむ。そうなると、この屋敷にいるオーブリーさんの中にいる方が、ダリルさんのご存知の方とは同じではない可能性があるのですね……………”




であれば、あの薔薇色の瞳を持つ男性は、誰なのだろう。


見返した瞳の色は、ネアが良く見るような魔物達の瞳とは違っていた。

光を孕むような鮮やかな色ではなかったし、複雑な色味を湛えていた訳でもない。


けれどもどこか、ひたりと暗く甘い美貌のようなものが見えたような気がしたのだ。



“……………私だ。ダリルに確認を取ったところ、ガーウィンに古くからいる高名な魔術師だという認識しかなかったらしい。ノアベルトも、同じように考えていたようだ。…………とは言えその魔術師も、教会魔術に古くから携わる、かなりの階位の人物なのだが、人間であるのは間違いない”

“であれば、今回は別人が内側にいるようですね。私は擬態をしておりましたが、妖精の気配ではなかったように思います”


ここでヒルドもペンを取り、そう書いてくれた。

人間の内側が変わっているとなれば、最もよくあるのが妖精の浸食だが、そうでなければやはり、擬態であるのかもしれない。



“アルテアからの返信が来たよ。……………薔薇の魔術師という名称だけだと、同じ銘を持つ魔術師は他にもいるらしい。薔薇の花に関わる者は、擬態で使っている色の嗜好から外すってさ。ええと、魔物の可能性としてはクローブか胡椒、……………わーお。クローブだと面倒だなぁ。……………でも、アンセルムの反応を見ていると、そっちと接点を持っているとは思えないって書いているね。でもまぁ、クローブについては、一応は終焉の領域魔術も持っているからなぁ………”

“……まぁ。お料理を美味しくしてくれるだけではないのです?”

“ありゃ、クローブは階位の割に器用な魔物で、ちょっと面倒だから見付けても近付かないようにね”



ネアは、思いがけないところから香辛料の魔物達についても知ってしまい、ぐぬぬっと眉を寄せた。

特に胡椒については、胡椒の祟りものの姿しか印象にないので、あんな姿なのだろうかとふるふるしてしまう。



(おや、………でも………)



“そう言えば、アンセルム神父も、あの方を頼るのはやめるようにという趣旨の発言をされていました。その場の雰囲気ではなくて本気の忠告なのだとしたら、面倒な方だと、暗に伝えて下さったのかもしれません?”

“…………元々、あの精霊と薔薇の魔術師が知己だったということであれば、擬態を共有している者達の領域は、そう大きく変わらないのだろう。死の静謐はね、どれだけ柔和に見えてもとても排他的なものだ。本来、あまり多くと関わる気質ではないんだよ”



ディノの言葉に、ネアは少しだけ驚いてしまった。


アンセルムと言えば、誰とでもひょいひょいと距離を狭めてしまいそうな印象だったが、ディノの言葉を念頭に置いて考えてみれば、教区の奥深くに人間のふりをして暮らしている彼は、同族の精霊が自分の上司だと知らずにいたくらいだ。



(そうか。言動に惑わされてしまいがちだけれど、あの場所での暮らしの大部分は、死の精霊としてのものではなく、アンセルム神父として維持しているような人でもあったのだわ……………)



“ディノは、アンセルムさんの生活の領域から、あまり遠くにいない人だと思うのですね”

“うん。鳥籠に入ってしまってこちらに来れずにいるから、カードで、ウィリアムにも聞いてみるといい。私の方でも話をしておくけれど、君のカードからの方が返事が早いかもしれないからね”

“はい。ウィリアムさんのカードにも、質問を書いておきますね!”



残念ながら、開いたウィリアムのカードには何のメッセージも入っていなかったので、これは、本当に忙しい日なのだろう。

ネアは、そのカードに薔薇の魔術師の中に入りそうな人物に心当たりがないかという質問を書いておき、ディノ達にもその旨を伝えておいた。



“その家の家族と、晩餐は一緒じゃないんだよね?”

“ええ。もし私が本物の選定者の場合は、明日の再認定の儀式で、当代の方と交代となってしまう可能性もありますから、認定の儀式の前の夜は、ご家族だけでの晩餐となるようです。アンセルム神父が、昼食後の午後遅くの到着となるよう調整されていたのは、恐らくこちらの家人の方たちとの接触を出来る限り減らす為なのでしょう”




とは言え、お客には違いないのだから、全く未接触という訳でもない。

晩餐の前の時間に、交流も兼ねた短い食前酒の席が設けられており、ネアとアンセルムはそこに招待されていた。



「おやまぁ。こちらのお嬢さんが。遠いところまで、すまないね」

「あらまぁ。可愛らしいお嬢さんね。教会の手違いでこんなところまで来させられてしまったというのは本当?」


指定されていた談話室に案内されると、真っ先に話しかけてくれたのは扉の魔術師達だ。

兄妹だという二人は孫がいてもおかしくないというくらいの年齢なので、年齢的には確かに代替わりの時期なのかもしれない。


暖炉の中の火のような優しい色彩を持つ二人は、普遍的な家族の温もりの象徴のような、優しい容貌である。

一目見ただけで素敵だなと思える人は、そうそう多くはない。



「はい。私は可動域が低くて保護されていたので、あまりない可動域に触れた選定魔術が、びっくりして誤作動してしまったのだと思います。どう考えても間違いであると申し上げたのですが、形式上、こちらで認定の儀式を受けなければならないと言われてしまいまして、お二人と、伯爵様にはご迷惑をおかけします」

「まぁ、それは災難でしたねぇ。教会側も融通が利かないこと」

「君が気にすることではないよ。教会の連中にも、困ったものだ」

「はは、定められた規則を変更するのは、なかなか大変みたいですよ。僕としては、伯爵領で有名な美食を堪能出来てしまう仕事なので嬉しい限りなのですが」

「まぁ、彼も、上からこの役目を押し付けられただけなのだろう。随分と細いな。ちゃんと食べてゆきなさい。ティディア領の料理なら、どれだけ食べても食べ飽きるということはない」



矢面に立たされてしまったアンセルムを庇った伯爵の言葉に、ネアはおやと眉を持ち上げそうになった。


ひどく鋭い眼差しのご老人なので気性も荒いのかと思っていたが、何て温かくて柔らかな声なのだろう。

言葉に溢れる自領への思いに、この一言だけで好きになってしまいそうだと慌てて自分を戒める。

私情で目を曇らせないように、注意しなければならない。


(でも、扉の魔術師のお二人も、とても優しそうな方々だわ。それに、実のお子様ではないにせよ、親しげにお喋りをしていなくてもこの方達がとても仲良しなのも伝わってくる………)



視線の交わし方や、飾らないやり取り。

座る位置やグラスの受け渡しにも、家族の関係性は映るものだ。



「ええ。晩餐を楽しみにしています!…………それと、今回の選定については、僕の立場では、上の意向まではよく分かりませんが、現在のお二人に出来るだけ長くお任せしたいという意見が出ているようですね。ただ、年齢的な不安を挙げる者達もいるようなので、現在のティディア伯爵領の体制を維持したい上層部が、ひと芝居打ったのかもしれません。………と言うのは、あくまでも僕の想像なのですが」

「…………おや、君はそう考えているのかね?」

「だって、………レイノの可動域では、庭園の手入れも出来ないのは一目瞭然ですからね。僕だって、認定の儀式に立ち会う程に偉い聖職者じゃありません。こちらで認定の儀式が行われ、当代の方々がお役目を継続する事になったという結論だけが必要なのではないかなと、こんな下っ端でも考えてしまいますよね。まぁ、お陰で僕は、噂に聞くローストビーフが食べられる訳ですが!」

「…………ローストビーフ」

「あ、さてはレイノも、ローストビーフが好きですね?ティディア領のローストビーフは、それはもう有名なんですよ。香辛料を使った煮込み料理も有名ですが、シナモンを使った菓子類も大人気です」

「シナモン………」



堪らずにネアが目をきらきらさせると、ドーリャという名前の女性の扉の魔術師が、にっこり微笑んでくれた。


年齢で言えば祖母でもいいくらいの女性なのだが、生き生きとした瞳は少女のようで、うっとりとしてしまうような穏やかな声をしている。



「ふふ。今夜のデザートは、シナモンたっぷりの林檎のパイですよ。とても美味しいから、楽しみにしていて頂戴」

「これ、お前はまた、自分が作ったように」

「あらいやだ。作ったのは、この家の料理人なの。どこのご馳走にも負けない、素晴らしい料理を作ってくれる人だから、今夜は、美味しいものを食べてゆっくり体を休めるといいわ」

「はい、有難うございます。お部屋もとても素敵ですね。枕元にカモミールが生けてあって、とてもいい匂いでした」

「この時期は満開なんだよ。上質な睡眠と食事、穏やかな暮らしこそが扉の魔術の糧となるので、枕元に季節の花を生けるのが、この屋敷の習わしなんだ」



土地に根付き、その土地を愛すること。

それこそが扉の魔術の糧となるのだと教えてくれたのは、男性の扉の魔術師である、ギーグである。


ネアは、こちらの御仁もなんて優しい声なのだろうと感動してしまい、ふと、そんな人達が土地に捧げる詠唱を思った。



「皆さんが、とても素敵な声で驚いてしまいましたが、その土地を慈しむ魔術師の方々は、土地によく響く美しい声を得ると教えて貰った事があります。きっと、それでなのでしょうね」

「まぁ。そうだといいですねぇ。私は、このティディアの土地が大好きよ。でも、だからといって、認定の儀式では遠慮しなくてもいいですからね。もし負けてしまったら、お父様が離れで暮らせばいいと仰ってくれていますから、私はそこで老後をのんびり過ごす予定なのよ」

「そうそう。あの離れは薔薇の季節の特等席だから、実は私も狙っていてね」

「あら、負けた者しか手に入れられないのだから、兄さんでも、抜け駆けは許しませんよ?」




(…………この人たちではないわ)



深い安堵と、すとんと落ちるような確信で、ネアは異端審問局を招き入れる為の罠にかかった獲物を思った。



いつかのネアには欠片も得られなかったものだから、本物の安らぎと幸福を手にしている人達の顔はよく分かる。


こうして大きなテーブルを囲み、果実を使った美味しい食前酒とチーズを楽しんでいるティディア伯爵家の人達には、この地を損なうものを取り込む欲などは微塵もない。


この人達は、もしかすると土地の発展すら望んでいないくらいだろう。

彼等の幸福は、当たり前の毎日にこそあるのだから。



(だからといって、穏やかなばかりでもなく、優秀な魔術師でもあるのだろう。このような人達が、どんな仕掛けであれ、土地の魔術を壊すような取り引きに手を貸す筈もない)




「おや。あの薔薇のコテージに手を入れているのは、それででしたか。先程通りがかった時に人の気配があったので不思議に思っていたのですが、それで納得だ」



しかし、そんな事を言って微笑んだオーブリーが加わると、俄かに空気の気配が変わる。


ネアは、こんな人達の暮らしの中に、よくもここまで得体の知れないものが入り込めたなと嘆息してしまいそうになった。


因みに、本来の薔薇の魔術師はガーウィンの教会組織お抱えの魔術師なので、教会からの紹介で、ティディア伯爵領への滞在を決めたらしい。

よって、どれだけ胡散臭くとも、こちらは異端審問局案件ではないのだ。

そもそも、アンセルムの知り合いでもある。




「……………まさか。申し訳ない、外させていただく」




ここで、オーブリーの言葉を聞いた途端に顔色を変えた伯爵が退出してしまい、ネア達は顔を見合わせた。

額を押さえて呻いたのは、ギーグである。



「………あの我が儘娘め。また両親に心配をかけおって」

「あらいやだ。またあの子なの。………困った子ねぇ」

「…………ええと、何か問題が起きたようですけれど、僕も何かお手伝いした方が良さそうですか?」

「………まぁ。困ったわ。ギーグ、アンセルム神父は、眼鏡を取ればなかなかに美男子じゃないこと?」

「………やめてくれ、ドーリャ。まさかとは思うが、これ以上、父さんの心労の種が増えるとか、考えたくもない………」





そのやり取りを聞いて、ネアはぴんと来てしまった。




(どうやら薔薇のコテージには、屋敷を離れている筈の我が儘娘さんが残っていて、その方は、顔の整った男性がお好きな模様………。物語では、時々ある展開だなぁ………)




巻き込まれなければいいなと遠い目をしたネアが、それは儚い願いだったと知るのは、その夜のことであった。







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