香辛料と孔雀石 1
ガオンと音を立てたのは、見た事もないような不思議な道具だった。
弓型の渡し金に薄っぺらくしたような鐘がかかっており、渡し金についているハンドルを回して音を立てる。
音の響きも短いので何のための道具だろうと思っていると、こちらを見た薔薇色の瞳の男が小さく笑った。
「ロイドーン。扉の魔術を助ける魔術師の鐘ですよ。このようなものもご存知ないとは、確かに教会側が監視を付けるのも頷けるなぁ」
「はは。ですよねぇ。とは言え、とばっちりを受けているのは彼女もなので、僕としては、このティディア伯爵領で美味しい料理を堪能して、その後に契約不履行で送り帰していただくのが一番なんですけれどね」
「だとしても、選びようがあるというものだろう。よりにもよって、魔術浸食ぎりぎりの可動域の小娘を選ぶとは、捨て駒にしても趣味が悪い」
ガーウィンから派遣されてきた神父と話す時だけ、黒髪に薔薇色の瞳を持つ魔術師の言葉が崩れる。
僅かに褐色がかった滑らかな肌は、雪混じりの風を吹かせる窓の向こうの灰色の光を受け、濃い紅茶を使った美味しいミルクティーのように見えた。
人間的な美貌ではあるが、擬態をしているアルテアに似ていると思う。
であれば、この男性は高名な魔術師などではなく、本当は魔物なのかもしれない。
不思議な事に、人外者であるのだとすれば、その他の種族には思えないのだ。
「捨て駒になんてしませんよ。可愛い、僕のお気に入りの女の子ですから」
「……………やれやれ。……………で、正直に教えていただきたいのですが、あなたの、扉の魔術師に対する知識は、ほぼ皆無に等しいのでは?」
こちらを見ると言葉を改め、そう尋ねた男性にネアはこくりと頷いた。
美しい瞳を眇めて呆れたような表情をその瞳の中だけに押し込めた男が、唇を微笑みの形に歪め、眉を下げるだけでお気の毒にという表情を浮かべてみせる。
これはなかなかに腹黒いぞと考え、ネアは、無作法ではないが賢くもないくらいの配分で目を瞬いてみせた。
「この伯爵領では、伯爵のご子息とご令嬢が扉の魔術師の仕事をなされていると、そう伺っているくらいです。後は、この土地は香辛料の取引きが盛んで、料理がとても美味しいと」
「……………アンセルム神父?」
「嫌だなぁ。僕は、正直にこの土地の利点をお伝えしただけですよ。それに、ここはガーウィンの中でもウィームとの境界に近い。中央には、あまり情報が入って来ないんですよね」
「異端審問の手入れをしたいのなら、悪いが、協力は出来ないぞ。私は、ティディア伯爵の支援で研究を続けている。後援者を裏切るような真似は出来ない」
「疑い深いですねぇ。……………ああ、レイノ。彼は、僕の古い友人の一人なんですが、何しろこの通りの気性で。ティディア伯爵領の唯一の知人ですので紹介しましたが、いざという時も頼ったら駄目ですよ。困った事や怖い事があったら、僕を呼べばいいんですからね」
両手を広げて飛び込んできてもいいのだぞ風に主張されたので、ネアは、微笑んで優雅に見えるよう苦心しながらお辞儀をしてみせ、敢えて返事はしなかった。
この屋敷に入ったところから、綱渡りは始まっている。
案内人であるのと同時に、油断のならない敵になるかもしれないアンセルムには、こちらの弱みを握らせないようにしなければならなかった。
「私の領域を荒らされても不愉快だ。ざっと、説明してあげよう」
少し考え、そう言った男性に、ネアはおやっと眉を持ち上げる。
面倒見がいいようには見えなかったが、確かに、無知過ぎて周囲を荒らされるのも嫌だろう。
部屋は深い飴色の木の家具で統一されていて、敷かれている絨毯はこっくりとした薔薇色だ。
天井は高くシャンデリアには火の魔術が入り、スパイスを使った紅茶の香りがする。
「有難うございます。オーブリー様」
「このティディア伯爵領は、ガーウィン国境域の丘陵地を治める、旧王家に仕えた扉の魔術師の領地です。古くより流通の要所でもあるからこそ、伯爵家では代々扉の魔術師の名を継ぐ子供達を育てます。勿論、実子がその役目を担う事が出来れば良いのですが、そう都合よく優秀な術者を生み出すのは難しい。よって、扉の魔術師の名前を持つ子供が、都度、教会からの紹介で迎え入れられている。……………ここまでは、既にお聞きしているのでは?」
そう問いかけられ、ネアは苦笑した。
「残念ながら、アンセルム神父は、時間を惜しまれたようですね」
「……………成る程。では続きを。伯爵家では、十年に一度、扉の魔術師の再認定が行われます。領の境界を守る為の結界の補強には、一定の魔術階位が求められる。とは言え人間の体は磨耗されてゆくものですから、一定の期間毎に新たな候補者を迎え入れ、再認定の後、より扉の魔術師に相応しい者が、伯爵家の魔術師としてこの地に残るという寸法です」
「今回は、それで私が、この地に呼ばれたのですね……………」
「ええ。ですがあなたの場合は、静謐の教区で手違いがあったようです。魔術師が用意されるべき選定において、あなたのような可動域の候補者が用意される事はあり得ないのですから」
オーブリーのその言葉に、ネアは静かに頷いた。
勿論、ネアがその候補者に選ばれる事はあり得ない。
何しろ今回の派遣は、異端審問局との合同捜査のようなものだ。
アンセルムは、なぜだか選定魔術で選ばれた粗悪品の監視者としてティディア伯爵領に同行し、ネアは、魔術の混線によって誤って選ばれた選定者のふりをして、ティディア伯爵家に潜入する。
双方共に、この地を訪れて一定期間滞在したい理由があり、今回は秘密裏に手を組んだという訳である。
(……………私は、とある魔物の道具を回収に。そして、アンセルムさんは、この地に潜伏していると思われる、とある魔物の従者を捕縛する為に)
今回の任務は、ダリルからの依頼だった。
死の静謐を司る精霊との合同任務となるという作戦を伝えられ、ディノは勿論、エーダリア達もノアも最初は首を縦には振らなかったのだが、この任務をネアに齎したダリルは、とんでもない情報を持っていたのだ。
傘祭りで祝祭汚しに使われた傘が、リーベルの呪物だったと判明したのはつい先日の事だ。
それをウィームに持ち込んだ妖精が、なぜ、都合良くそんな道具を手に出来たのかと言えば、他のどんな系譜よりもある意味精度の高い、終焉の領域魔術による探査能力があるからに他ならない。
自身の系譜の魔術を帯びる物を探し歩けばいいのだから、これ程簡単な探索もないだろう。
かくしてあの妖精は、自身の目的に適うような道具類を探し出し、その中から最も復讐に相応しい道具を選び、ウィームに持ち込んだ。
その時に見付けた他の道具も、念の為に入手しておいてくれれば良かったのにというのが、ダリルの意見だ。
エーダリアは、そんな物は持っていなかった方が良かっただろうと項垂れていたが、回収の手間が省けたという意味では、放置するには問題のあり過ぎる道具でもあったのだろう。
何しろ、かの妖精が目を付けていたもう一つの道具は、このティディア伯爵家の屋敷のどこかにある、魔物に作られた魔術道具だ。
厄介な魔術を備え、尚且つ特殊な扱いの条件を持つその道具は、発動させれば、一度だけリーエンベルクの魔術師を殺す事が出来るという。
(そして、エーダリア様は、魔術師なのだ)
騎士達も魔術師の称号を持つ者が多いが、何よりも、エーダリア自身にその肩書きがある。
それは、到底見過ごせないことであった。
問題となる道具を作ったのは、選択の魔物なのだそうだ。
その魔物なりの、世界の剪定と暇潰しを兼ねたスパイスとして、数百年前にガーウィンの女公爵に強請られて授けられた物だという。
その女公爵は、実際に与えられた道具を使ってウィームの王宮魔術師を殺したので、一度しか使えない道具である以上、状態としては既に使用済みではある。
とは言え、かつてそのような条件を与えた道具の残骸が残されているのは、あまりいい事ではない。
(そして、アルテアさんがかけた保護魔術のせいで、その道具の近くには、制作者であるアルテアさんは勿論、指定された魔物さんは近付けなくなっている。……………らしい)
女公爵がウィーム王宮魔術師を手にかけてみせた時、リーエンベルクには三人の王宮魔術師がいた。
その中の一人が人間に擬態したグレアムであることを知っていたアルテアは、自分もその道具に近付けなくなるという大きな対価を魔術の天秤にかけ、グレアムや、グレアムが手を借りる事が出来るような魔物達による道具への接近を禁じたのだ。
よって、その道具には、ディノもウィリアムも、グレアムもギードも近付けない。
加えて、ちょっぴり用心深かった選択の魔物は、その排除条件に、かつて交流のあった雲の魔物や、ウィーム贔屓だった欲望の魔物に、剣の魔物なども加えてしまった。
かくして、ネアが力を借りたい魔物達が総員排除という、たいへんに厄介な状況が出来上がったのである。
そしてそれは、裏を返せば、それだけの魔物達を排除するという危うい選択を帯びた道具でもあり、ダリルは、その危険性を指摘したのだった。
(かつて、白夜の魔物が手にしたことのあるだけの傘が、一人の人間の魔術師によって、理の魔術に守られた祝祭汚しという道具に作り替えられた。それは即ち、もう使えない筈の魔物の魔術道具を材料に、私や私の家族を脅かす道具が作られるかもしれないという可能性を示してもいるのだ)
捕縛された妖精の情報からそんな道具の現存を知ったアルテアが頭を抱えていたのは、既にその道具が失われていると思っていたからだという。
問題の道具を授けた女公爵は、その事件の直後、選択の魔物の手配で殺されている。
ウィームで行いたい事業の邪魔になった魔術師を殺す為だけの駒だったからなと告白してのけた魔物は、女公爵が自身が魔術付与を行った道具を持っている事を確認の上で部下に排除を命じたそうなのだが、何と、その時に所持していたのは別の道具だったらしいという話なのだ。
(魔術による承認作業を行って、確実にアルテアさんの作った魔術道具を所持しているという確認の下で手を下したという事だったけれど、他にもアルテアさんの作った魔術道具を持っていたらしいだなんて、高位の魔物さんにも想像し得ない事が起こったりもするのだわ……………)
頭を抱えてしまった選択の魔物に、それはあり得るよねと暗い目で笑ったのはネアの義兄だった。
なお、今回の条件指定に入っていない塩の魔物は、この地に住む精霊に呪われた為に、ティディア伯爵家の敷地にだけ入れないという、こちらもまた厄介な状況にある。
何世代か前の扉の魔術師に、ちょっと口には出せない系の悪さをしたらしい。
ノアによると、女性絡みではなく、魔物らしい悪さであったとのことだ。
(でも、ノアの言うように、その女公爵さんがアルテアさんに執着していたのなら、そして、三席の魔物を召喚してみせるだけの手腕を持つ優秀な魔術師でもあったのなら、他にもアルテアさん製の道具を密かに所持していても不思議はないのだろう)
時として、自身よりも外野の方が物事の輪郭がよく見える事がある。
アルテア自身も、その女公爵から向けられた好意や執着は把握していたようだが、禁忌に近い魔術を行って自分を召喚する前から、選択の魔物の手掛けた魔術道具を隠し持っているとは思わなかったようだ。
ノア曰く、何とか近付き、その魔術道具を核として契約や守護を取り付けようとしていたのではないかという事なので、であれば、女公爵がもう一つの魔術道具の所持を隠していたのも当然だろう。
駒とされた人間も、それなりに牙を隠し持っていたという訳だ。
(そして、使い魔がうっかり残した魔術道具を、絶賛、ご主人様が捜索中という現在に至る…………)
前述の話に戻ろう。
ここ、ティディア伯爵家は、ガーウィンとウィームの旧国境域を任された、特殊な土地である。
教え子のいる教会組織の中央から派遣される選定者を受け入れ、外周の守りを任され続けてきた、力のある辺境伯の治める土地だ。
魔物達の助力を望めず、そんな一族の屋敷に保管された魔術道具を回収するのは骨が折れる作業である。
ましてや相手は、防御に長けた一族で、その役割が故に潜入を阻む為の魔術を長らく育ててきた。
おまけに今回は、回収したい道具の存在を出来る限り知られたくないという、とても危ういオプションが付いている事案ではないか。
その事態のややこしさに唸りつつ、ダリルが一計を案じたのであった。
邪悪で有能な書架妖精は、まず、ティディア伯爵家の篭絡から始めた。
残念ながら、事態が発覚した際には何の伝手もなかったティディア伯爵家を調べ上げ、その屋敷に滞在中の魔術師が、アンセルムの知己であることを掴んだのだ。
アンセルムを動かす伝手ならある。
アルテアの扮するリシャード枢機卿は、ガーウィンの異端審問局の局長であり、アンセルムの上司にもあたるからだ。
そして、そんなアンセルムを友好的に扱える駒が、ネアだったのだ。
(何しろ、アルテアさんが作った道具は、擬態をしているいないに拘らず、人間の女性にしか持ち運び出来ないようになっている。これだけでも条件が狭くなる上に、アルテアさんと契約のある私程に、その道具を探し易い人材がいないという利点が加わる。更には、今だからこそ私は、死の精霊さんに強気に出られるという特権も持っている)
ネアをこの屋敷に送り込みたい理由は、ウィーム領側の事情として幾らでも捏造出来る。
なので、ウィーム側は、アンセルムがティディア伯爵家への訪問調査を命じられたのを知って、ネアとの繋がりを利用したという体にして、最近重なったばかりの死の精霊の失態の責任を問う形で、アンセルムの調査にネアを同行させる了承を得てきたのだ。
とは言え、問題を犯した死の精霊とアンセルムは本来無関係なので、そこは、系譜の王様であるウィリアムの権力を悪用し、この調査中は、ネアに悪さが出来ず、尚且つとても守らなければならないという条件を結ばせている。
より踏み込ませた形で関わらせなかったのは、こちらの秘密を守る為でもあったが、アンセルムは元々ネアを気に入ってはいるようなので、この程度の条件であれば守れるだろうという範囲での強要に敢えて留めたのだそうだ。
(契約に必死さが滲めば、アンセルムさんは、私がこの地を訪ねる理由を訝しむだろう。だからこそ、こちらの訪問目的は、あくまでもウィームの歌乞いとしての任務だと思わせておかねばならないのだ)
「……………フキュ」
そんな現状を踏まえ、ティディア伯爵家の成り立ちや扉の魔術師についての説明を聞いていると、ネアの胸元から顔を出したちびこい生き物に、オーブリーが目を瞠るのが見えた。
「……………契約の獣ですか?」
「はい。私と一緒に暮らしている、大事な獣さんなのです」
「契約を得る事が出来るくらいの可動域は、辛うじてあるようですね」
「はは、レイノと僕の二人きりなら良かったんですが………」
「まさかとは思うが、今回の騒ぎは、お前が愛玩用に目を付けた人間を連れまわす為だけに画策されたものじゃないだろうな……………?」
「そうだったら、僕も楽しかったんですがねぇ」
へにゃりと笑って見せたアンセルムに溜め息を吐き、もう一度こちらに視線を向けたオーブリーが、ネアの胸元から顔を出している青灰色のちびふわ風な生き物に目を細めた。
こちらの参加者は、主に死の静謐を司る精霊への牽制用だが、契約の獣だって持ててしまうのだぞという、外野への威嚇としても機能してくれるかもしれない。
(でも、そのような意味に於いては、警戒するべきはアンセルム神父だけでいいような気もする………)
さすがのティディア伯爵家も、どれだけ今回の選定に纏わる一連の流れを訝しんでも、選定者であるネアには危害を加えないだろう。
どう考えても規格外なので、形式上一度受け入れて魔術認定を行い、やはり不良品のようですと送り帰せば簡単に追い払えてしまう。
なぜか条件を満たさない選定者が出てしまったからと監視の為に同行したというアンセルムこそが本命だと気付いていても、そちらの神父も、レイノという選定者を早々に送り帰せば一緒に帰らざるを得なくなる。
(であれば、一時を凌いで公式な手段で追い返した方が、ティディア伯爵家にとっても損失が少ないのだから)
今回のネア達の訪問は、誰にとっても形式上の茶番のようなものなのだろう。
アンセルムにとっても、ネアにとっても、ティディア伯爵家にとっても。
そこにかかる、一日か二日の時間こそが、それぞれに必要なものなのだ。
なお、ネアの建前上の目的は、目の前にいる薔薇の魔術師との顔合わせという事になっている。
こちらの魔術師もなかなかに曲者であるらしく、今後、認識魔術で接触を弾けるようにその魔術領域に触れておくという理由が、ウィームからアンセルムに伝えられていた。
(でもそれは、表面上の理由で、このお屋敷には、ダリルさんの仕込みで一冊の魔術書が送り込まれている。アルテアさんが流通させた偽物の魔術書なのだけれど、アンセルム神父が表面上の理由を信じなかった場合は、私はその魔術書を回収しに来たと思わせるように仕向けられているらしい…………)
幾重にも、幾重にも。
奥深く目を光らせ、罠をかける。
あのダリルダレンの書架妖精と、この場にはいなくても、有史の頃から世界で悪さをしてきた魔物達が台本を作っているのだと思えば、ネアは頼もしい思いでこの地に赴く事が出来た。
勿論、守り手がいない状況下で他領に潜入しているとなると緊張はするが、アルテアの作った魔術道具をそのままにしておく方が余程に恐ろしい。
(私をここに潜入させる為だけに、異端審問案件を仕込まれた伯爵家には申し訳ないけれど、差し出された餌が罠だと気付かずに食べてしまった以上は、罪を犯した事に違いはないのだから、そちらも深く考えないようにしよう……)
そうは思っても、脚本を書いたのが選択の魔物だと思えば、何だか気の毒な気がしなくもない。
元々、この一族の足元にどれだけの秘密があっても、本来であれば、暴かれるのは今ではなかった筈なのだ。
或いはそれこそが、高位の魔物の障りを受けるという事なのだろうか。
選択の魔物にとって不愉快な選択をその手の中に持っていたのだから、どれだけ人間の側からすれば理不尽な理由でも、身を滅ぼすには充分な毒とも言えるのかもしれなかった。
「この家の二人の子供は、…………子供と呼ぶには、いささか年嵩ですが、そう呼ぶのがしきたりなので、間違えないように」
「はい。伯爵令嬢、伯爵令息とお呼びすれば宜しいのですよね?」
「ええ。その肩書を敢えて言葉にする事で、彼等は、ティディア伯爵家に縛られるという契約でもありますからね。大きな役割を与えられ、裕福な貴族の家の子供としての様々な権利を得られるという恩恵がある反面、彼等は、扉の魔術師としての役目にも縛られる事になる。その為の呼称です」
「性別の拘りはないので、レイノは、その二人と一緒に魔術認定を行い、もし勝てたら令息と令嬢どちらとでも入れ替われます。とは言え、今回は、君に資格がないのは分かり切っているので、安全上僕が同席しますね。認定試験は魔術の壁作りの技量を競うものなので、ちょっとだけ危ない儀式なんですよ」
「……………初耳なのです」
「あ、でも大丈夫ですからね。レイノが危ない目に遭いそうになったら、すかさず僕が守りますよ。監視員だなんて仰々しい肩書を付けられちゃいましたが、保護者だと思ってくれれば。ほら、どーんと僕の胸に飛び込みたくなったでしょう?」
「なりません」
「即答!でも、レイノはそこが可愛いんですよね!」
(……………あ、)
ふっと、本気で煩わしいのだろうという気配が揺れた。
オーブリーの方を見てしまいそうになるのをぐっと堪え、気配に敏いと気付かれないようにしていると、アンセルムがふっと笑ったような気がする。
何しろ、便宜上の目的としてさり気なく引き合わされているこの薔薇の魔術師は、思っていた以上に厄介そうな御仁なのだ。
こちらの情報を出来る限り与えたくないと、ネアが警戒するのはどうしようもない。
こんな相手であれば、魔術書の仕込みなどせずとも、この魔術師を本気で警戒しているという理由だけでアンセルムも納得しているのではないだろうか。
もういいだろうかと顔を上げると、こちらを見ている薔薇色の瞳があった。
華やかにも可憐にも見える筈のその色は、このオーブリーが持つ黒とミルクティー色と揃えると、ひやりとするような秘密を宿した色に変わる。
それは、生き生きとした若者達が手にする色ではなく、成熟した老獪な生き物達が好むような、深い深い色であった。
「ご挨拶が遅れましたが、私は、この地で扱われる、香辛料を使った古い魔術の歴史を研究しています。学問の分野でも利益を生むような研究ではありませんので、伯爵が、歴史的に貴重な魔術の保存に理解のある方でなければ、私の研究への支援や協力は望めなかったでしょう。得難い方ですよ。よって、この神父の訪問目的が私の研究の邪魔になると判断すれば、私はその行為に手を貸す事は出来ません」
「……………不躾な質問かもしれませんが、その場合は、伯爵側に付くとは仰らないのですか?」
ネアがそう尋ねると、薔薇色の瞳に浮かぶ嘲りが僅かに強まった。
けれども、このくらい愚かな質問をして侮らせておくのがいいだろうと、ネアは判断したのだ。
「ご存じないかもしれませんが、この男は、選定の不具合があったとは言え、このような場所に意味もなく派遣されるような立場の聖職者ではないんですよ。アンセルムに隠された訪問目的があるとすれば、異端審問局の捜査でしょう。捜査の妨害を行えば、私も同罪になりかねない。さすがに、そこ迄身は削れませんからね」
「ほら、こういう男なんですよ。確かに僕はそれなりに偉いのでレイノはもっと憧れてくれてもいいんですが、それをこんな言い方で明かしてくるあたり、なかなか狡賢いでしょう?見目はいいですが、気を許して近付かないようにして下さいね」
「と言うより、アンセルム神父のお知り合いだという事でこうして事前にご挨拶をさせていただきましたが、私の訪問目的上、もうお会いすることもないのでは………」
ネアがそう言えば、アンセルムがくすりと笑った。
「さて。そうであればいいんですが、何しろオーブリー君もそれなりに裏のある男ですので、どこで我々の道が交差するか分かりませんからね」
「まぁ。そうなのですね。………私は、明らかに人違いな選定でやらざるを得なくなった認定試験が終わりましたら、すぐにでも帰らせていただこうと思っております。そうして道が交差するような悪さをされる場合は、くれぐれも、私に火の粉がかからないようになさって下さいね」
「オーブリー、この通り、僕のレイノは冷たいんですよ……………」
「お前が胡散臭いからだろう」
冷ややかな返答に困ったように笑い、さてととアンセルムは呟く。
ネア達がいるのは、ティディア伯爵家の屋敷の中の客間の一つで、窓から見える景色はゆっくりと僅かな陽光を翳らせつつあった。
この屋敷に到着したのは、一刻程前のこと。
既に、ティディア伯爵とこの家で扉の魔術師と呼ばれる二人の子供達には、挨拶を済ませている。
白髪に黄水晶の瞳のティディア伯爵は、眼光鋭いご老人だ。
チェスナット色の髪に淡い橙の瞳をした二人の扉の魔術師は、元々兄妹であったという。
現ティディア伯爵の血族ではなく、教会からの紹介を受け、扉の魔術師である間だけティディア伯爵家の養子となっている選定者だ。
彼等は、新しい扉の魔術師が現れると、その役目を引き渡し伯爵家の子供としての立場を失う。
とは言え、多額の退職金を貰えるし、望めばこの地で扉の魔術師の仕事を続けることも出来るので、万が一交代となっても、手放さなければいけないのは、せいぜいが伯爵の子供という肩書きくらいだろう。
ティディア伯爵家の担う境界域を守る上で課せられるという、かなり厳格な誓約や責務に縛られる事もないと思えば、引退後の方がずっと恵まれているとも言えるのかもしれない。
相続などの争いを避ける為に、外部から迎え入れられた扉の魔術師達は、婚姻も子を持つことも許されていないという。
「伯爵の実のご家族は、今だけこの土地を離れているのですよね?」
「ええ。認定で扉の魔術師が入れ替わるとなれば、幾つかの儀式が行われる事になります。ティディア伯爵家の子供にするという契約魔術を行うにあたり、よりその肩書を濃く担う実子たちが近くにいると、契約が弱まってしまう可能性があるそうですよ」
「そうそう。なので今夜は、伯爵と扉の魔術師達と、僕とレイノと、オーブリーだけが屋敷にいるってことになりますね。ああ、勿論、家令や使用人たちはいますが、テーブルを囲むのはその顔ぶれじゃないかな。変な社交を強いられる事もなさそうなので、今夜はゆっくりと二人の時間も取れますよ」
「部屋は別々ですので、そのような時間はないと思います」
「酷い!レイノが冷たい!!」
じたばたしたアンセルムに、オーブリーが額に手を当てた。
「……………アンセルム、騒ぐならそろそろ出て行ってくれないか」
「君もですよ?久し振りに再会した僕と、こう、もっと時間を忘れて語り合いたい的な情熱が感じられないんですが?!」
「その情熱がないからだろう。………僅かばかりだが、紹介をされただけの義理は果たしたつもりだ。もういいだろうか?」
「はい。不勉強だったことを色々と教えていただき、有難うございました」
ネアはぺこりと頭を下げ、もう少しオーブリーとお喋りしたいと駄々を捏ねているアンセルムを部屋から引っ張り出した。
もしオーブリーが魔物だとすれば、アンセルムが探している魔物の従者の他に、正体の不確かな魔物がもう一人いるという事になる。
面倒ごとに巻き込まれるのは、こちらとしても御免であった。
「顔を洗ったりしたいので、お部屋に戻りますね」
「さては、僕を追い出そうとしていますね?」
「そして、家族にお手紙を書いたりするのです」
「はぁ。その邪魔をすると、ウィリアムあたりに叱られるってことですか。…………そうそう、レイノ。オーブリーには、本当に気を付けるんですよ」
オーブリーの部屋を出て、ネアが与えられた客室に戻ろうとすると、アンセルムがそんな事を言った。
飄々としてはいるが、相変わらず掴みにくい気配があり、本心を引き出し難い相手である。
「あの方は、人間ではないのでしょう?」
「…………さて、どうかなぁ。僕のレイノは勘が鋭いのでちょっとひやひやしているんですが、彼はね、隠れ遊びが好きで、自分を見付け出す者がいると喜ぶ変態なんです」
「ふむ。二度と、個人的な接点を持たないようにしましょう」
「薔薇の魔術師の名前は、リシャード枢機卿の名前によく似ていますね。よりにもよって、今回は彼だったということなのだから、ウィームはそこまで掴んでいたのかな。はは、相変わらず目がいいですねぇ」
続けられた言葉に、ネアはふと不安になった。
欲しいカードを引こうとして、入ってはいけない怪物の巣の中に足を踏み入れたような気がしたのだ。