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211. 傘祭りで捲られます(本編)





椅子を窓向きにし、テーブルの上には、買ってきたばかりの屋台料理が並ぶ。


ネアが期待しているのは、街中で美味しい定食屋さんとして有名なお店の鴨のオレンジソースがけと、購入二度目となるパイの専門店の、傘飾りのある可愛いスパイスクリーム煮込みの入ったパイである。


鴨のオレンジソースには、クネドリーキという、むちむちと詰まったしっかりめの蒸しパンのようなものが添えられており、鴨肉と合わせてサンドイッチのようにいただいても美味しい。

ネアはまず、味付けの濃いクリームパイは後回しにして、鴨を美味しくいただいてしまい、幸せな味わいに身震いした。


こちらは、ディノ用にグヤーシュも買ってあるので、伴侶程に鴨肉に執着のない魔物は、クリームたっぷりのまろやかなグヤーシュにクネドリーキをつけ、黒スグリのジャムなどで味を変えたりしつつ、幸せそうに食べている。

グヤーシュには独特の風味の強いものと、クリームで濃厚で滑らかになったビーフシチュー系のものがあるが、このお店のグヤーシュは後者のようだ。


アルテアがおやっと目を瞠っていたので、付け合わせの黒スグリジャムは、なかなか高得点なのだろう。

ネアは、今度お店にも行ってみようときりりと頷く。



「みぎゃ?!」




直後、ばしんと音がして、ネアは椅子の上で飛び上がった。


何事かとわなわなしていると、ここで、大乱闘の傘達が壁伝いに転がり落ちてきて窓に激突するという一幕があり、こちらへの攻撃ではなくほっとする。

そんな大迫力の傘祭りが楽しめるのも好立地の工房故の楽しみだろうと思えば、ネアは、ご機嫌で昼食に戻った。


議事堂での昼食がないのは残念だが、こうして、安全な場所から傘祭りをじっくり観覧するのは初めてなので、暴れ傘たちが飛び去ってどきどきが収まると、特等席で傘祭りを観戦しているような楽しさに唇の端を持ち上げた。


しかし、ネアにへばりついている魔物は、傘たちがいきなり窓にぶつかってきたのが怖かったらしい。



「ご主人様………」

「もういなくなってしまったので、大丈夫ですよ。それにしても、傘さん達は元気いっぱいですねぇ。………むぐ。これは、………チキンマサラでふ……?!」

「まさら……」

「これまで、よく似た香辛料煮込みは沢山ありましたが、香辛料の風味が本格的過ぎました。………むぐ!……このような、私の祖国で売られていたトマト風味のお料理に出会ったのは初めてでふ!!」



それは、パイの中に入っていたクリーム煮だった。


ごろりと入っている鶏肉はほろりと柔らかく、トマトと生クリームを使ってこちらの世界にある各種の香辛料煮込みより格段にまろやかになった味わいは、ウィームの人達にも食べ易いようにという工夫だろう。


だが、そんなまろやかさが、ネアの祖国にあった異国から入ってきた料理、チキンマサラによく似ていたのだ。


男性達が飲んだ後の締めといえばの一品としてよくいただいていたようだが、残念ながらネアは、その食べ方は知らない。


また、国内で家庭料理として普及していたものの、ネアの家では、両親が生まれ育った家で働いていた人達が別の国の料理を好んだ為、あまりスタンダードではなかったような気がする。


それでも、鶏肉の入ったコリアンダーとトマトの風味のチキンマサラは、何度か家族で食べに行った事があった。

もっとスパイシーなものの流行もあったようだが、そちらは未体験のままだ。



(………懐かしいな。この、トマトを生かして香辛料の風味を少し落とした感じとか………)



「気に入ったかい?」

「むぐ。………あちらの世界では、特別に好きという程ではなかったのですが、こうして食べるとほんわりしますし、やはり香辛料煮込みとしては、食べやすく完成された味なのだなと再確認してしまいますね。……干し葡萄が入っているのがウィーム風で、そんなところも併せてとても美味しいです!」

「可愛い。弾んでる……」

「なお、おかずクリームの入ったパイは、この、クリームとの接触面の、とろりとさくりの双方を兼ね備えたところが美味しいのですよ!」

「………いいか、この程度のものなら、作ってやる。それに、お前の好みなら、もう少し香辛料の香りがある方がいいだろうが」



パイを一口食べたアルテアにそう言われ、ネアは首を傾げた。



「む?しかし、チキンマサラはこのくらいでいいのですよ?私の祖国で売られていたものは、このくらいの、大衆向けの粗い香辛料感でした。むぐ。………かつての我が家ではあまり出てこない料理でしたし、個人的な嗜好としては、シチュー類の方が好きです。また、異国風となると、もう少しぴりりとした香辛料の方が好きなのですが、こやつは、………あぐ!………懐かしい美味しさなのです」



ネアがそう言えば、なぜかアルテアは暗い目になってしまう。


買い物をしている時から思っていたが、こちらの魔物は、あまりにもパイ作りの名手としての自負があるが故に、パイ専門店に対しやや狭量になってしまうらしい。


料理人としての矜持に触れるものがあるのだろうかと頷き、ネアは、今後、素敵に切磋琢磨してゆくのだぞと微笑みかけておく。

その為に作られる試作品は、幾らでも受け取る所存なのだ。



「浮気………」

「あら、これは皆さんが買える売り物のパイですので、ディノが心配することはありませんよ?」

「………パイを焼く魔物に、浮気しないかい?」

「むむ、魔物さんのパイなのですね。ですが、私には、パイは焼かなくてもバレンタインにリボンの贈り物をくれる素敵な伴侶がいるので、ディノよりそちらの魔物さんを選ぶことはありませんからね」

「ご主人様!」

「…………そして、おやつパイから、私の好きな、シチュー型クリーム煮の入ったパイまでを幅広く作ってくれるのはアルテアさんなので、懐かしい味一つでそちらに鞍替えしたりもしませんよ?」

「それを、わざわざ俺に言う意味はあるのか?」



ネアがそう言えば、アルテアは不機嫌そうに顔を顰めたが、伴侶と顔を見合わせた人間は、手を伸ばしてそんな使い魔の頭を撫でてやる。


なぜか呆然と目を瞠ったアルテアは、一拍置いてから凍えるような冷ややかな瞳でこちらを見たので、ネアは、にっこりと微笑んだ。



「ふむ。予めこうして伝えておけば、時折あちらのお店のパイをいただいていても、角は立ちません!」

「ご主人様………」

「…………おい」

「ぎゃ!最後の一口を奪われました!!………ぐるるる!」

「………ったく。もう一度言うが、この程度なら、今度からはこちらに言え。オーブンの魔物は、厨房から離れると移り気で享楽的だ。くれぐれも、接点を持って騒ぎを起こすなよ」

「ぐるるる………」



ネアは、そのような忠告は忠告として行い、パイを奪うのはならないのだと怒り狂ったが、傘の焼印を押した、傘祭り模様のケーキと呼ばれる丸い焼き菓子が現れると、はっと息を飲み、背筋を伸ばして座り直した。


唸り声を上げている伴侶の為に、ディノが紙袋から出してくれたのだ。



(袋も可愛いな…………)



個包装の紙袋は、淡い檸檬色の袋の真ん中に、ウィーム領の紋章に見立てた小さな傘模様がある。

いつも完売していて買えたことのない、傘祭りで毎年売られているものの、やや日陰のお菓子だ。


なぜ日陰のお菓子なのかと言えば、色鮮やかな傘達を見ていると、傘祭りの参加者は、ついつい色とりどりの袋に入った綿菓子の方に惹かれがちになるらしい。

その結果、傘祭りと言えばのお菓子で名前が挙がり難く、ネアも存在を知ったのは二度目の傘祭りが終わった後であった。


だが、歴史としてはこちらのお菓子の方が古いらしく、販売数がそこまで多くないから目立たないのだとも言われている。

古参のウィーム領民に人気なので、リーエンベルク勢が議事堂に入っている間に売り切れてしまい、今迄はなかなか手に入らなかったお菓子だ。



「ふぁぐ!……ほろほろとしたクッキーのような生地で、中にさくらんぼジャムが入っています。…………こ、これは………!!」

「こちらは、……オレンジのようだね。………ネアと同じ物にしようかな………」

「思っていたより、ずっと美味しかったです!………なぜ、傘祭り限定なのだ………」

「おい、こっちを見るな。何でも作る訳じゃないぞ」

「………むぐぅ」



三種類詰めの十二個セットをひと箱買ったのだが、残りのもう一種類は杏ジャムであった。

欲望のままに食べ尽くしたいところだが、エーダリア達やアルテアとウィリアムの他に、グラストとゼノーシュにもあげる予定なので、後は、ディノともう一回食べるくらいだろう。


(でも、これだけ完成されたお菓子なのだから、このお菓子屋さんの通常商品で、似たようなものがあるのかもしれない………)


狡猾な人間はそう考えてふっと笑うと、不審そうにこちらを見たアルテアに、よく味わって食べるように伝えておいた。


今更だが、こうして一緒に食事をしていると、ネアの周囲では、ノアとヒルドがお酒などの組み合わせ如何によっては少食めになるものの、食事の楽しみ方に大きな違いのある者がいないことに気付く。


そのお陰で、こうして食事をしていても必ず一緒に楽しんでくれる人がいて、一人ではしゃいでしょんぼりすることはなかった。



(エーダリア様とは食事の好みも似ているし、アルテアさんのお料理も、同じお料理上手の区分でも、変にお洒落なばかりの量が少ないお料理じゃないし………)



ネアにとって、食事の嗜好が合うというのは、とても大事なことだ。

一致するかどうかもそうだが、やはり、一緒に楽しい時間を過ごせることが嬉しい。

そう考えていたら、何だかほっこりしてしまった人間は、笑顔になって傘模様のケーキを頬張った。



「…………なんだ?」

「ふふ。ディノがディノで、アルテアさんがアルテアさんで良かったです!私にとってこの出会いは、かけがえのない幸運でした」

「………は?」

「虐待する………」



へなへなの伴侶に三つ編みを持たされながら、ネアは、柑橘系のいい香りのする紅茶をいただき、新しい美味しさとの出会いをくれた、いつもの傘祭りとは違う祝祭の昼食を終えた。


天秤にかけると、やはりどうしても望んでも滅多に行けない場所でもある議事堂の昼食に傾いてしまうが、今年だからこその屋台の料理やお菓子に出会えた事にも感謝しよう。


議事堂で食べるという付加価値への憧れが大き過ぎるものの、時折はこちらを挟んでもいいかもしれないと厳かな気持ちで考え、きらきらと光る細やかな魔術の煌めきに窓の方を見た。



「………そろそろだな」

「ええ。この時間になると、遊び疲れたのか、昇華する傘さん達も出始めましたね………」

「エーダリア達と合流するかい?」

「はい。……………むむ?そんな折に、エーダリア様から連絡が入りました」



襟元のピンブローチに通信が入り、ネアは慌てて応対する。

心の準備がなかったのでむぐぐっとなったが、何とか、食べるだけ食べて実は少し眠くなってなんかいないという澄ました声を整える事が出来た。


「ネア、もう外に出てしまったか?」

「いえ、まだ、アルテアさんの工房の中にいます」

「良かった。であれば、このまま聞いてくれ。………先程、祝祭汚しの事件の関連で、グラストとゼノーシュに、先日の市場の一件で捕縛された死の精霊の従者だったという妖精が捕縛された」

「まぁ。…………その犯人めも、ウィームに来ていたのですね?」

「ああ。ダリル曰く、そちらが真犯人で間違いないだろうということだ。傘を持ち込んだ者は、依頼を受けて動いていたに過ぎないようでな。……………恐らく、その妖精は、祝祭汚しが予定通りに機能するかどうかを自分の目で見たかったのだろう。そして、標的は、宛先になっていた事務員で間違いなかったようだ」



その妖精は、ウィームで姿を消した主人を探しに、狙われた事務員が働く騎士団本部を訪ねて来たらしい。


だが、あの精霊を回収してしまったのはアレクシスであったし、仲間の妖精達を捕縛したのは別の担当地区の騎士達と通りすがりの領民だったので、そちらの事務員は、やって来た妖精の質問に答えられるような情報を持っていなかった。

その結果、欲した情報を与えて貰えなかった妖精は、身勝手に事務員への恨みを抱いていたらしい。


また、後に自分の主人が粛清されたことを知ったことで、階位を落とすには至ったものの、排除が叶わなかったフィアンがウィーム贔屓であることも災いし、逆恨みをしたウィームの祝祭を貶めるような方法で事件を起こそうという結論に至ったのだとか。


白状するまでの時間がとても早いのが気になるところだが、通りがかってそちらの妖精を捕まえた事務員の女性の旦那さんが、きゅっと吐かせてしまったようだ。


根の深そうな事件であったが、最後の追い込みの早さのお陰で、呪いが展開されてからまだ間もない間に事件の全容が解明されてしまった。



「因みに、その旦那さんは、妖精めにお手製のクラッカーを食べさせて、自白させたようですよ」

「クラッカーなのだね……」

「いや、おかしいだろ。何でクラッカーなんだよ」

「香草味やチーズ味など種類も豊富でリノアールでも取り扱いのある、ノージャのお店のノージャさんです!あちらのお店のクラッカーは、アレクシスさんのスープ屋さんでも取り扱いがあるのだとか」



そう言えばアルテアにも思い当たる店名なのか、若干遠い目をしていたが、ネアは、緑がかった銀髪の優しげな青年が、奥様の為なら竜も放り投げる愛妻家で、アレクシスとも時折食事を一緒にする仲の御仁だという噂は聞いていたので、さもありなんと、犯人に向けて黙祷しておいた。



「だが、それは今回の事件を計画した者だろう。あの、祝祭汚しの術具の製作者も、特定出来たのか?」

「リーベルさんでした」


ネアがその名前を出すと、魔物達がふっと目を眇める。

ネアとしても、ダリルの弟子である彼がウィームにとって密かに身近な人物だと知りつつも、久し振りにこの名前に触れたような気がした。


「……………おや、ガーウィンの枢機卿だね」

「はい。そんなリーベルさんが、ウィームを害そうとしていた頃の、ダリルさんのお弟子さんになる前に作られた物だったそうで、とうに無力化されたと考えてすっかり失念していた青年期の作品なのだとか。ご本人は、ダリルさんのお仕置きが怖くて通信先で泣き崩れていたそうです」

「そちらは、ダリルに任せておけば良さそうだね。彼なら、動機との不接合がないかどうかも含めて、丁寧に調べるだろう」

「………明後日から、ガーウィンでは聖典開きがある。あいつは、使い物になるんだろうな………」

「あらあら。それまでに、リーベルさんが泣き止めるといいのですが………」

「泣き止めるのかな………」



ネアは、不注意で放置していた作品が引っ張り出され、こんな事件に繋がってしまったリーベルが不憫になったが、それもまた、遠い日の枢機卿がウィームに潜ませた棘の一つ。


今回は、犯人がそのような道具の発掘に長けた終焉の領域の妖精であったことと、傘祭りが近付いていたので、傘の呪物が力を蓄え易い時期ということもあって、ダリルダレンの書架妖精には届かずにずっとガーウィン領界域の小さな町に残っていたあの呪物を見付け易い条件が揃ってしまったらしい。


ネアに手袋を投げつけた精霊の従者は、あの日に彼の傍に居た二人と、その日は屋敷で留守番をしていた今回の妖精を含めての三人なのだとか。


あの手袋事件の精霊は、謹慎処分になる前までは多くの従者や使用人たちを抱えていたが、謹慎にいたるまでの経緯の中で、彼の下を離れた者達も多かったという。



あの手袋投げつけ精霊は、より高位な死の軽薄を司る精霊達の真似をして、フィアンを陥れようとした結果、あっさりフィアンの従者に返り討ちにされての謹慎処分だと聞けば、ああ成る程と思わないでもなかった。

逆恨みをされた騎士団の事務員はとばっちりだが、死の軽薄という領域の者達は、そもそもが己の軽薄さで死に突き進むものを司る資質を持つので、このような事件は珍しくないそうだ。



「だからこそ、あの系譜は代替わりと人数が多いんだ。今回の一件で半数が処分を受けたが、まだ十人以上は残っているからな。今後、欠けた数の、再派生による補充も早いだろう」

「それが死の軽薄というものだからこそと思えば、何だか世知辛いですが、そちらは減らしても支障がなさそうなので、ほっとしました」


(祝祭汚しには、その祝祭に纏わる道具の中でも、祝福や災いを齎すに至るような高位の人外者が関わった品物が、材料として必要になる…………)


その祝祭そのものを司る人外者以外の、ある程度階位の高い人外者との縁を、証跡魔術を使って道具そのものの特異性に置き換え、祝祭が異物を廃棄場に落とす作用を利用したのが、祝祭汚しの道具であるらしい。


今回は、その履歴にたまたまクライメルが紐付き、結果としてネア達は大いに警戒した。




「だが、そこで何かが起こってしまった場合、そちらの履歴が何にも作用しないとは言い切れないのだからな」

「ええ。なので今年は、傘祭りが終わるまで気を引き締めてゆきますね」

「ああ。だがまずは、お前たちが無事で良かった」


静かな声でそう呟いたエーダリアに、ネアは微笑んで頷いた。


ただそう言う事が許されない場面もあるだろうエーダリアが、今はこうして言える事が嬉しかった。

隣には、銀狐ではなく騎士姿でエーダリアに寄り添うノアがいる。


今日のエーダリアの盛装姿は深い青色のケープに銀灰色の毛皮の襟巻きで、これは、傘祭りの開会の時にいた銀狐不在を目立たなくする為の装いらしい。


今日のノアが騎士姿の運用を主としたのは、ゼノーシュから、昼食の時間を含め銀狐姿でエーダリアに寄り添うと、銀狐目当てで近付いてくる女性達が多いので気を付けるようにという忠告があったからだという。

よって今年のノアは、壇上に立つときだけは狐姿で挑み、それ以外の時間は騎士として過ごしている。

成る程そういう危険があるのかと頷きつつ、ネアは、どこか疲弊したように微笑む義兄を見上げた。



「ノアは、疲れてしまったのですか……………?」

「はは、……………僕さ、見ず知らずの女の子に求婚されるのって、嫌いじゃないよ。ないけど、…………ザルツ方面のご婦人はもうお腹いっぱいかな……………」

「何があったのだ……………」

「グラスト達も、早めに議事堂を出ておりましたからね。ああした、適齢期と言われる女性達は、世代によって特徴が違うのですが、今年になってシーズンに入った者達の中に、苛烈な思想を持つ派閥がいたようです」

「……………何があったのだ」


ネアは、ヒルドにも遠い目をさせた女性達が何をしてしまったのかがとても気になったが、塩の魔物と森と湖のシーを辟易とさせるとなると、かなり激しい抗戦だったに違いない。

しっかり守られていたらしいウィーム領主も、どこか困ったような微笑みを浮かべていた。



「あら、傘さん?」


そこに、しゅわんと、ネアの赤紫色の傘が戻ってきた。

以前にも引き受けた事のある選択の魔物の傘が紳士的だったのに対し、今回の傘は、びゃんびゃんと周囲を跳ねまわる銀狐型の傘である。

戦えば強いのだが、どちらかと言えば撫でて欲しい系の愛くるしいちびふわ型傘だ。

構って欲しそうにぴょいぴょいしているので、ネアが撫でてやると、くたりと傾いてしまう。



「ありゃ、その傘、凄く懐いてるよね……………」

「傘なんて……………」

「おい、こっちを見るな」

「ああ、私の傘も戻ってきたようだ。やはり、今年は少し昇華が早まるのかもしれないな」



エーダリアの言葉にネアが首を傾げると、祝祭汚しの気配があると、傘たちは早めに昇華するのだと教えて貰った。


傘たちに悪影響があるという訳ではないのだが、昇華と正反対に位置する廃棄場の気配は恐ろしいのだろう。

散歩を済ませた後は駄々を捏ねずに早めに空に昇ろうと、傘達の危機意識を高めるらしい。

そのあたりは、しっかりとした意識を持つような傘程高いそうなので、エーダリアの紫陽花の傘はそろそろと考えているようだ。


街中でも、今年は早めに領民達も戦いを切り上げるようで、よれよれになった男達が飲み屋に移動してゆく様子や、ドレスの裾を早めに下ろすご婦人方がいた。

ずたぼろになっている手袋を取り換えている可憐なご婦人には、一体どんな戦いがあったのか気になるところだが、知らない方がいいようなことかもしれないと、ネアはそっと視線を外した。



「走って帰るのかな……………」

「まぁ。確かにあちらの方々は、物凄い早さで帰ってゆくのですね」

「ああ、ジッタの店の傘の日のパンを買いに行くのだろう。そろそろ販売が開始される筈だ」

「噂のジッタさんの限定パンです!傘祭りに因んだ物なのでしょうか?」

「いえ、傘祭りで疲弊した領民達に、晩餐の支度をしなくて済むように、食べ応えのある総菜パンを沢山売るそうですよ。ですが、ジッタの店ですからね。付与効果などを求め、あのようにして急ぎ並ぶ者達も多いのだとか」


そう教えてくれたヒルドに、ネアは、死の進行を司る精霊は、お目当ての総菜パンを買えたかなと心配になってしまった。

王様ガレットを万象の魔物でも買えない土地なので、フィアンが高位の精霊だとしても、戦いに敗れる想像は難くない。


しかし、そんなジッタの店の傘の日パンは、思わぬ形でネア達にも齎される事になった。



「これを、……………くれるのかい?」

「まぁ。ディノの傘さんが!」


例年程大きな流れはまだないものの、あちこちで傘たちが昇華してゆく細やかな光の煌めきを見ながら街の中を歩いていると、姿の見えなかった、ディノの選んだジッタの傘が戻ってきた。

オパールグリーンの傘は艶々していて、お洒落な柄の部分には、お代不用と書かれた紙を貼った手提げのある紙袋がかかっている。


「ジッタの店の紙袋のようだな……………」

「ディノ、受け取ってみて下さい。何が入っているのか知りたいです!」

「うん……………。これでいいのかい?」


ディノがおずおずと紙袋を受け取ると、ジッタの傘は嬉しそうに宙返りをした。

どちらかと言えば質実剛健な雰囲気を漂わせていたが、そんな傘が素直に喜びを表現すると何だか可愛らしい。

ネアがそちらを見て微笑むと、はっとしたように、赤紫色の傘も宙返りをしてみせてくれた。



「ふふ。私の傘さんは、甘えたさんですね?素敵な宙返りが出来るので、驚いてしまいました」

「わーお。……………アルテアの傘が……………」

「いいか、こちらを見るな?」

「ネイ、あなたの傘はどうしたのです?」

「……………ほら、あそこにいるよ。僕の事はあっという間に見限って、もっといい相手を見付けたみたいなんだよね」


どこか悲しそうな声にノアが差し示した方を見れば、ラベンダー色の綺麗な傘が、濃紺の紳士物の傘にべったりと寄り添っている様子が見える。

時折、柄の部分を絡めてくるくると舞い踊っているので、初々しい恋人達のようだ。


「まぁ。傘さんにふられてしまったのですね……………」

「ほら、僕にはもうこの家族がいるから、どうしてもそっち優先になるしね。いい相手を見付けたのなら、良かったよ」

「ノアベルト……………」

「え、シル、可哀想な感じで見るのはやめて……………」

「まぁ!紙袋の中は、おかずサンドイッチですよ!!」

「……………となるとまさか、ジッタの店の傘の日のパンなのか?!魔術付与が特殊だとは聞いていたのだが………」

「ほわ、エーダリア様が食いつきました……………。むむ!卵揚げのタルタルサンドがあります。ディノの大好物が、素敵なサンドイッチに………!」

「卵揚げ……………」


目をきらきらさせて、一緒に沢山のおかずパンの入った紙袋を覗き込んだディノは、何かと気にかけてくれるジッタが、卵揚げを作ってサンドイッチにしてくれたのが嬉しかったようだ。

ネアは、グラタンパンのようなものを見付けて心が弾んでしまい、一緒に覗き込んだ赤紫色の傘もぴゃんとなっている。


嬉しそうにしているディノを見て満足したのか、紙袋を渡したジッタの傘が、しゅわんと細やかな光の粒子を帯び始めた。

奇しくも、どこからか吹き上げる温度のない風が、ざわりと街路樹の木々を揺らす。

そうすると、あちこちで傘たちが風の流れを追うように体を傾げ、そろそろかなというようにぷかぷかと集まってくる。



(今年も始まるのだわ……………)



ざざんと、強い上昇気流が生まれた。

ジッタの傘がさらさらと細やかな金色の光の粒子になってゆき、ディノが微笑んで頷いたような気がする。

その様子を見ていた、エーダリアの紫陽花の傘や、通りの向こうの噴水の上で恋人かもしれない傘と踊っていたラベンダー色の傘も、しゅわりと昇華に向かう光の粒子を纏う。



「……………あら、傘さんも皆さんと一緒に行っていいのですよ?今年は、傘さん達が空に昇るのが早いそうですので、きっと、昇華せずに隠れている悪い傘も少ないに違いありません。こちらは、もう大丈夫ですからね」


ネアの体にぴったり寄り添いながら、困惑したように仲間達を見上げていた赤紫の傘に、ネアがそう言えば、少し迷っていたようだが、こくりと頷いていたので、自分だけ残るのは寂しかったのだろう。

ネアにぎゅっと体を寄せ、この紙袋は何だろうとジッタの店のパンを覗きにやって来た細身の青い傘をばしんと遠くに吹き飛ばして排除すると、光の粒子に解けてゆくジッタの傘の下に飛び込んでゆく。



「おや、もう宜しいのですか?」


そう尋ねる声に振り返れば、深緑色の妖精の傘が、何本かの傘を連れて挨拶に来ていた。

ヒルドに微笑みかけられ、嬉しそうにぶるりと震え、仲間達に美しい相棒を自慢するように振り返るような様子を見せている姿は、これが自分のお散歩相手なのだと教えてやっているよう。


「森の系譜の妖精の傘たちのようだ。あの傘の案内で、ヒルドに挨拶に来たのだろう」

「まぁ。何となくですが、さすが学長さんの傘という感じがします」

「……………始まったな。今年も、見事なものだ」


エーダリアの言葉に、ネアは、ディノの持つパンの紙袋を金庫にしまわせながら、きらきらと解け、雪のように、花びらのように散らばる傘たちの昇華を見守った。



今年は、ひときわ高い位置まで飛び上がったのは、ヒルドの選んだ妖精の傘で、そんな仲間を、幾つもの傘が追いかけてゆく。


ざざん。


風に乗ってどこまでも、どこまでも高く。

細やかな光の煌めきは、傘たちの色を映して、脈打つようにぼうっと光を強めたり弱めたり。


そのあまりの美しさと、どこか胸を締め付けるような優しさに、ネアは、ただただ無言で空を見上げていた。



(……………ずっと、高く高く、新しい円環の中に向かうところへ)



けれども、そうして昇華してゆく傘たちの足元のあわいの中には、昇華出来ず彷徨い続ける、祝祭の廃棄場もある。


その対比をあらためて目にしてしまった傘祭りであったが、こうして昇華の瞬間を見ると、ちっぽけな人間はただその美しさに胸をいっぱいにしてしまうのだ。


くるりと回り、最後にひと際鮮やかに光って花びらのように光の粒になった赤紫色の傘に手を振り、森のさざめきのような音を立てて光の雨を降らせたヒルドの傘に耳を澄ませた。

その光景を見上げて涙を流している領民達は、空に昇ってゆく傘達に、遠くへと渡った愛する人の面影を重ねたのだろうか。



「……………綺麗ですね」

「うん。最後に、パンを届けてくれたのかな。……………支払いは誰がしたのだろう」

「ふふ。今度ジッタさんに聞いてみるといいかもしれません。その時に、パンの感想も言いましょうね」

「うん……………」


いつもなら、このくらいの時間になると、ぱたりと畳まれて物陰に転がり込む傘達もいるのだが、目にしている範囲ではそのような姿は見られないようだ。

エーダリアが言うように、祝祭の廃棄場の気配を感じて空に昇るのであれば、人知れず物陰に潜むような行為は、傘達にとって怖いことなのかもしれなかった。



「ぎゃふ?!」


大きな光の波がうねり、ざあっと風に溶け、周囲が少し暗くなった時のことだった。

ネアは、いきなりコートの背面がぐわんと持っていかれるような感覚があり、前のめりによろめく。


「ネア?!」


慌てたディノが支えてくれようとしたものの、三つ編みを持ったネアとディノの間を、しゅんと横切る鮮やかな黄色い影があり、ネアはべしゃりと転びそうになったところを、素早くアルテアに支えられた。


「……………わーお。子供傘だ」

「……………言い忘れていたが、このような日は、大人用の傘達の昇華が早い代わりに、子供傘が最後まで残る事が多いのだ。祝祭の廃棄場の不穏さを、まだ実感し難いのかもしれないな」

「ぎゃふ!!……………か、解説していないで、このスカート捲り傘共を追い払って下さい!!…………にぎゃ!!!」


またどこかに落とされては堪らないと、ネアはディノの三つ編みを放さずにいるのだが、そのせいで行動域が狭まってしまい、しゅんしゅんと飛び交うすばしこい傘達の攻撃を避けきれずにいる。

無言で眉を上げたアルテアが、飛び交う傘の一本を掴み取り、遠くに投げてくれたが、その様子に怯むこともなく、悪戯っ子めいた傘達は、ネアのコートの裾や、スカートを捲ったり、怒り狂う乙女をからかったりし続けた。



「……………ぐるるる」

「ネア、可哀想に。ギモーブを食べるかい?」

「食べまふ……………。おのれ、子供傘め……………」

「ありゃ、すっかり荒んだなぁ……………」

「大人達が姿を消したので、羽目を外したくなったのでしょう」


傘達の最後の煌めきの余韻を楽しむ一番素敵なところでスカート捲りにあったネアは、混乱と怒りのあまりに唸りながら、ディノの腕の中に避難するしかなかった。

仕事中ではあるものの、こうして持ち上げて貰う体勢になれば、少なくともスカート捲りからは身を守れるようになる。


あの後、子供傘達は、ディノやノア、アルテア等の高位の魔物達にはさっぱり怯える様子もなく、しかし、ヒルドがすっと近付くときゃあっと逃げ出してしまった。

こんな時に有効なのは、怖いお母さん感なのだなと思い、ネアは、乗り物になったディノにも、出来るだけヒルドの近くにいるようにして貰っている。


そんなヒルド達は、今年は一緒に残った傘の捜索に出てくれたのだが、捜索を開始してみれば、街のあちこちで、残った子供傘による惨劇が繰り広げられていた。

思えば、早めに打ち上げ会場に避難していた領民達は、この惨事を予期していたのだろう。



「……………あれは、心にくるものがあるな」

「わーお。ヴェルリアの船乗り達かな……………」

「自分の意思で参加したのですから、救助の義務はありませんが、あの傘達にも早々に昇華して貰いたいところですね」


書店通りの角のところで、がっしりとした体格の海の男達がちびこい傘に囲まれて囃し立てられていた。

恐らく、戦いで負けた後なのだろう。

男たちの中にはぐしぐしと泣いてしまっている者や、来年こそはと拳を握る者など、様々な反応がある。

しかし、彼等を囲んでいるのが、同じシリーズの品らしい、ファンシーなうさぎさん模様の傘の群れなので、なんとも涙をそそる光景ではないか。



「…………残酷な光景ですね。……………ぎゃ?!またです!!」

「何で、ネアのところばかりに来るのだろう……………」

「可動域で、対等な遊び仲間だと思われているんじゃないのか?」

「ぐるる……………」



子供傘達は隠れてしまうような事はなく、あちこちで、楽しそうに遊んでいる。

しかし、どこか平坦な眼差しになったエーダリアから、ここからは体力勝負で、捕まえては昇華を促すのだと聞き、ネアはとても嫌な予感がした。

何となくだが、狡猾に物陰に隠れてしまう大人用の傘よりも、元気いっぱい無邪気に跳ね回る子供傘の回収の方が大変ではないかなと考えたのだ。



その嫌な予感は当たり、ネア達は、晩餐の時間を大幅に上回った頃まで、ウィームの街中を子供傘を追いかけて駆けずり回る羽目になった。

もしかすると、それを見越しての贈り物だったのかもしれないが、紙袋いっぱいのジッタの店のパンがなければ、誰かが疲労のあまり倒れてしまっただろう。



へとへとになって、休憩時間に食べたグラタンパンは美味しかったし、くしゃくしゃになったディノも、卵揚げパンを美味しくいただけたようだ。


帽子はどこかに仕舞ってしまい、僅かに髪を乱したまま無言でジッタの燻製鮭とチーズのサンドイッチを食べている選択の魔物は、もう帰りたいけれど、傘見舞いの示した悪意の訪れがあれで終わりかどうかの判断がつかず、ずるずると子供傘捜索に参加し続けている。


最後の一本をゼベルが確保した頃には、皆がへとへとのへなへなになって、あちこちの店から聞こえてくる楽しげな傘祭りの打ち上げの賑わいを背に、リーエンベルクや、街の騎士団の詰め所に戻っていったのだった。



なお、フィアンは無事にお目当てのパンを買えたようだ。

後日、祝祭汚しの事件の聞き取りでリーエンベルクを訪れたイアンが、袋いっぱいのおかずパンを持ち、弾むような足取りで帰ってゆく死の精霊と、興味が出てきてしまったのか、こちらも並んでおかずパンを買ったらしい配送の魔物の擬態と思われる男性を目撃したらしい。


イアンは、来年は刺されない祝福はやめて、因果の成就の魔術の最高位術式の取得を目指そうと考えているのだとか。










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[一言] 傘祭りのお話を読むたびに、ビニール傘をやめて世界で一つだけの私のお気に入りの素敵な傘を買いに出かけようと思うのです。これまで実行出来なかったけれど、今年こそ私とお散歩してくれるような相棒を見…
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