210. 傘祭りで戻ります(本編)
青い空の下に広がる雪景色の美しい街並みに、ネアは、むずむずする胸をそっと押さえた。
屋台の下から空を見上げると、色とりどりの紙吹雪のような傘が、街のあちこちを飛び交っている。
(ああ、傘祭りだわ………)
地上に戻ると、シャーロックが持っていた呪物の傘は、配達完了の魔術を添付され、ディノ達が用意していた身代わり人形をばくんと飲み込むと、そのまま、真っ逆さまに祝祭の廃棄場に落ちていった。
その様子があまりにも潔く、そして悍ましくて、ネアは、背筋が冷えるような思いでばちんと閉じた祝祭のあわいを見つめていた。
ただ真っ逆さまに落ちてゆくその光景こそが、呪いの本来の姿なのだろう。
「傘模様のケーキを買えて良かったね」
「はい!おまけに、人気のお店でこんなお料理まで買えてしまいました!むふぅ。鴨様ですよ………!こんなに素敵な屋台が沢山あるのに、あのお二人は、さっと解散してしまいましたね」
「シャーロックなんて……………」
「ふふ。今回は、そんな配送の魔物さんとアルテアさんがいたので、早く戻れたのですからね?」
そう微笑みかけた先で、ご主人様をシャーロックとフィアンに祝祭の廃棄場に落とされた魔物は、まだ少しだけめそめそしている。
ネアは、そんな魔物にしっかりと三つ編みを持たされ、今度こそ手を離したりしないとにぎにぎしてやったり、配送の魔物や死の進行の精霊に報復はしなくていいのだと、魔物を宥めてやったりしていた。
隣でとても暗い目をしている使い魔の手には、買ったばかりの屋台料理の紙袋がある。
とろとろスパイスクリーム煮込み入りのあつあつパイは、川沿いに出来たばかりのパイ専門店の屋台で買ったのだが、なぜか選択の魔物は、このお店をとても敵視しているのだ。
(イアンさんは、そのまますぐに仕事に入ってしまったけれど、休憩などは取れるのだろうか……………)
あの後、飛んできた傘が顔面に直撃したイアンはふらふらになっていたが、ディノ達と一緒に待っていてくれた同僚の騎士に助け起こされ、簡単な手当を行った。
人外者組はさっと帰っていってしまったので、ネアとイアンは、封印庫近くの広場で簡易的な魔術洗浄を行い、イアンは騎士の仕事へ、ネアは念願の昼食へ向かう為に別れている。
勿論、事故調査による聞き取りも個別に行われるが、そちらは傘祭りが終わってからになるそうだ。
身元は確かなのでと必要な情報だけ押さえておき、今は人手が欲しい傘祭りを優先させる、ダリルらしい決定である。
今回問題の傘を持ち込んだ観光客は、あの後すぐに捕縛されたのだという。
ネア達が呪いの爆散に巻き込まれた際の混乱に乗じて逃げ出そうとしたのを、ディノが捕縛して騎士に引き渡してくれており、所持品の検査で他にも危険物の所持が認められた為、ダリル預かりとなったそうだ。
あの傘の宛先になっていたのは、ウィーム中央にある街の騎士団に在籍する事務員だったというが、そちらとの繋がりも含めて、今はダリルの弟子たちが事件の背景を探っているという。
「でも、この中から、探し人を見付け出すのは、ほぼ無理だと思うのですよ……………」
「うん……………」
ネア達がいるのは、傘祭りの主会場となる区画からは少し離れた、美術館通りの広場だ。
傘達がお店をひっくり返すと大惨事なので、こうした場所に、遮蔽空間を設けて屋台村が出来ている。
だが、そんな場所から見ても、傘祭りがどれだけわいわいするのかは言うまでもない。
(なぜ、お祭り当日に、傘を送る相手を、この状態の街の中から探せると思ってしまったのだろう……………)
件の傘を持った観光客が街中にいたのは、標的にした事務員に傘を送り付けようとしたものの配送準備が間に合わなかったようで、直接届けに来たからだと判明した。
傘祭りに間に合わなければ、祝祭汚しは意味をなさなくなる。
そのまま手元に置いて来年を待つにしても、そこまで呪いが安全に管理出来るかどうかは危ういところなので、焦って持ち込んだのだろうというのが現段階での予測だ。
とは言え、街はこの様子なのだから、敢えて配送先不明での呪いの爆散を見越していた可能性もあるらしい。
(あの傘を残しておけたのなら、調査はより進んだのかもしれない。でも、それは出来なかった)
祝祭に纏わる呪物には、魔術の理がある。
今回の祝祭汚しが、それを成就させて作られた正式な呪物だったことで、アルテアは、地上には残しておけないと判断したようだ。
話を聞いていたディノやノアも同じ判断をし、身代わり人形を用意していたのだと聞けば、あの傘がどれだけ危険なものだったのかがよく分かる。
「脱出手段を持たないような方が巻き込まれず、無事に終わって良かったですね……………」
そう言えば、ディノは少しだけ悲しそうにこちらを見たので、ネアは、ご主人様は無事に戻って来たのだと、そんな魔物に体を寄せてやる。
「正式な手順を経て、丁寧に作られた呪物には魔術の理が宿る。それは、私達にも歪める事は出来ないものだ。標的を変えたり、封印する事は出来るけれど、その理を宿したものを残しておくのは良くないからね」
「階位が低くても、高位の魔物さんの術具ではなくても、困ったものはあるのですね」
「例えば、リンデルがそのようなものだ。階位の高い魔術具ではないけれど、丁寧に魔術を織り込んで作られ、願いの刻印が刻まれる。思いを願いとして贈られるあの指貫は、小さな災いを幾つか、もしくは、一つの大きな災厄を退けるという」
「…………何となく、分かるような気がします」
魔術の種類にもよるが、時として、王都にある大聖堂の祭祀より、祭壇の一つすら持たず敬虔な祈りを捧げる誰かの祈りの方が、強くなる事もある。
強い思いが魔術に宿るのであれば、丁寧な手仕事で作られた呪物はやはり脅威だ。
「ウィーム中央では、あの程度の呪物は見付けられるだろうがな」
そう呟いたのはアルテアだ。
どこか憂鬱そうな眼差しに、ネアは、この魔物が呪物となった傘を見た瞬間の表情を思い出す。
「そうだね。言葉を返せば、この土地に暮らす者達の技量に相当するくらいの呪物だったという事だ」
「ここならまだしも、領外にそれだけの魔術師がいるとなると、面倒な話だな。私怨ならまだしも、こちらの動きを計る為だとすれば、幾つかの計略の内の一本の糸という可能性もある」
「今回は、君がこちらの駒となった。そして、死の精霊はどちら側かな」
冷たい声でそう呟いたディノに、ネアは目を瞬いた。
フィアンは本人だと判明した筈だが、何らかの策略を持ち、あの場所にいたのだろうか。
「踏み滅ぼします………?」
「やめろ。対岸の盤上だとしても、あいつ本人の意思じゃない。無断で使われた駒だ」
「ですが、お手つきになっているのであれば、ぽいするのも吝かではありません。私は、家族に害を及ぼすのであれば、広めに剪定する派です」
ネアがそう言えば、魔物達は言葉を失った。
呆然とこちらを見ていた魔物達に、ネアは、生身の人間として感じた、祝祭の廃棄場の恐ろしさを思う。
今回、予め黒ちびふわを装着していたネアはまだしも、イアンが生きて帰れたのは、運が良かったからという面が大きい。
イアンが不審な傘に気付かなければ、本来なら、力を貸してくれる高位の人外者の存在もなくあの場所に落とされたのは、騎士団の事務員だったかもしれないし、あの場で、呪いの爆散に巻き込まれた領民達だったかもしれないのだ。
そんな、幸運を得られなかったかもしれない被害者達がいたのなら、どんな目に遭ったことか。
祝祭の廃棄場に落とされ、その顛末を想像出来るようになってしまったネアは、こんな形で駒を動かした誰かの悪意があるのなら、その誰かの手の内の駒も含め、許さず潰しておくべきだと思う。
廃棄場体験ツアーは、本来ならあのような災いに対応する力を持たない無力な人間を怯えさせ、とても警戒させるのに充分なものだったのだ。
「……………いいか、何度も言うがあれはやめておけ。終焉の界隈に支障が出る」
「むむぅ……………」
「ネア、あの精霊とは、ウィリアムを通じて話をしておくつもりだよ。………アルテア、もう話は通してあるのかい?」
「ウィリアムには、この後で少し時間を空けろと言ってある。…………まぁ、良くも悪くも、フィアンはこちら贔屓だ。ウィームに支障が出るとなれば、不本意だとしても警戒は強めるだろう」
「そうだね。駒とされたのかどうかは分からないけれど、この先に備えて、不確定要素は少ない方がいい」
がさりと買い物袋を持ち直していると、アルテアが引き取り、金庫か転移かでふわんとどこかにしまってくれた。
大事なソースが溢れたら困る物だったので、暴れ傘などに襲われる前で良かったと胸を撫で下ろしつつ、次なる屋台に向かう。
「それは、あの精霊さんが、死にかけたことでしょうか?それとも、あの場所にいた事でしょうか?」
ディノとアルテアの言葉を噛み砕いて追いかけながら、そう尋ねてみる。
屋台村にもそれなりのお客がいるが、音の壁で会話は漏れないようにしてある。
「その、どちらもだと思うよ。進行を司るあの精霊は、確かにいつも疲弊していると言われている。でも、今回のウィリアムの不在よりも酷い時代は幾らでもあったし、その中で、彼が階位を落とした事は一度もない。そう考えると、彼が階位を落としたのであれば、それは相当の事なんだ」
「…………ジッタさんのお店のパンがなかったから、というだけではなかったのですね」
「あいつの側仕えは、五人だ。………パンが原因かどうかはさて置き、主人に忠実な側仕えの妖精を五人も持っておいて、それ程までに必要な物を切らせる筈もない。………それは、フィアンが進行を司るからこそだな」
「ふむ。となると、あの方が予期せぬ繁忙期とは言え、命のパンを切らせた事がそもそもおかしいのですね……………」
「まぁ、それくらいは本人も承知の上だろうがな。結果として、二度とそんな事がないよう、祝祭の日も警戒を緩めずに、ウィームを訪ねても不思議はない。…………ましてや、計画や予定に拘るあいつなら、限定の商品が出る日にこそ買い出しをする可能性は高いだろうな」
「ほわ。結局、ジッタさんのパンが大好きだというところに戻ってきました……………」
(でも、そうか。………この流れを仕組んだ人がいたのなら、フィアンさんが、この傘祭りの日にウィーム中央にいる事が必要だったのかもしれない。………でも、それはなぜだろう………)
首を傾げたネアに、そこから考えられる可能性を示唆したのは、そんな伴侶を廃棄場に落とされたばかりの魔物だ。
真珠色の三つ編みは青灰色に擬態されているが、屋台に並んでいる観光客のご婦人が、こちらを見て呆然と立ち尽くしていたり、眩暈を感じたようによろめいていたりする。
ネアを挟んで、こちらは黒髪に擬態したアルテアもいるので、そちらを見て似たような反応を示す者達もいた。
本来なら、認識を薄める術式を常時敷いているのだが、今は屋台のお買い物中なので、そうもいかないのだ。
「幾つかの可能性がある。ウィームでも、宛先にされた事務員でもなく、標的があの精霊だった場合。或いは、あの精霊を駒として、ウィームや、今日この街にいた誰かを狙った場合。或いは、その両方だった場合。……………最後の一つは、定められた動きを持つ呪物を正しく動かすという魔術祝福を持つ彼が、たまたまその場所にいたという場合」
「………フィアンさんが近くにいると、あの呪物が不発になる可能性を下げられるのですね」
「うん。彼は、死の進行を司る精霊だ。今回のような理を持つ呪物は、彼の周囲では、………言い方は良くないけれど、とても健全に動くんだよ」
なのでディノ達は、ウィリアムを介して、フィアンに注意喚起をしておくことにしたらしい。
幸いにも、この地を損なうかもしれない企みの手駒になるなと言っても、誰かに狙われているかもしれないぞと言っても、今のフィアンには、どちらの忠告も響くだろう。
本来なら前者の意見はフィアンにとってどうでもいい事なのだが、ジッタの店のパンをこよなく愛する今の彼には、とても大切な事なのだ。
「そうなってくると、…………例えば、あの方が嘘を吐いているという可能性はないのですか?ジッタさんのパンが大好きなふりをしているかもしれません」
「それは無理だな。あいつは精霊だ。精霊は、耽溺する程の嗜好については、嘘を吐けない」
「……………むむ、とても納得しました。確かに無理そうです……………」
「全てが杞憂かもしれないのだけれど、アルテアは、あの傘があまりにも良く出来た呪物だった事が気になるらしい。そのような品物を多く知るアルテアにそう感じられたのであれば、きっとそうなのだろう。こちらでも、打てる手は打っておかなければだからね」
順番になり目当てのものを注文したネアに、アルテアがお会計をしてくれる。
ネアは自分の物は自分で買うのも大好きなので、ディノと二人だけだとこのようなお買い物の支払いもさせて貰えるのだが、アルテアがいる場合は払われてしまう事が多い。
「………おい。もう充分だろうが。何品買うつもりなんだよ」
「むぐぅ。…………ですが、この鴨のオレンジソースで予定に至る品数は入手し終えたので、リーエンベルクに戻りましょうか」
「そのつもりだったが、まだ廃棄場から戻ったばかりだろ。祝祭の足場を崩さないよう、俺の作業場を貸してやる」
「なぬ。使い魔さんの作業場……………?」
「大通り沿いだから、傘祭りも見えるだろうな」
「い、行きます!!」
(あの傘にどのような思惑があったのかは、これから読み解いてゆくことなのだろう。……………どうか、大きな問題になりませんように……………)
アルテアの作業場に向かうにあたり、再び傘達の荒れ狂う外通りに出ながらウィームの街を見回せば、力強く傘と戦う人々を見てそう思わずにはいられない。
ただの陰謀であればこれまでにも経験してきたが、高位の精霊の階位が意図的に落とされたのであれば、それを可能とするだけの首謀者がいることになる。
ネアはとても身勝手な人間なので、どうかそのようなものは人外者の領域の問題でありますようにと願うばかりだ。
「それにしても、ここまで大変なことになるのですね……………」
「ご主人様……………」
「ディノがすっかり怯えてしまうくらいですので、……………まぁ。ディノ、ジッタさんの傘が、道を開けてくれますよ」
「うん……………」
この時間は、本来ならリーエンベルクの面々は、議事堂での昼食中である。
つまり、領民達は思い切り羽目を外す時間なので、ネア達はこれ迄、外の光景を目にすることはなかった。
初めて見た感想を言わせて貰えば、控えめに言っても、戦争かなという有様である。
上品な紳士が傘と取っ組み合いで地面を転げまわり、華奢な婦人傘を手に、襲い来る紳士傘を全て打ち払う可憐な少女がいる。
暴れ傘にぶら下がって戦っている老婦人や、小さな子供傘に襲われてさめざめと泣いている観光客まで。
なお、後者の観光客は、この祝祭になるとヴェルリアからやって来る腕試しの海の男達のようなので、傘に負ける筈なんてないと意気込みやって来たものの、ちびこい傘に襲われてしまったのだろう。
そんな狂乱の渦に叩き込まれたウィームの街を歩くにあたり、ネア達の進路は、前方をジッタの傘が、後方はネアの持つアルテアの傘が守ってくれている。
双方ともそれなりに強いようで、飛び込んでくる暴れ傘たちは、見事に弾き飛ばされていた。
アルテアは頑なに自分の傘の方を見ようとしないが、ネアは、時折こちらにやってくる赤紫色の傘を、その度に褒めてやっていた。
こちらは、地上に戻った途端に飛び付いて来た可愛い傘であるし、ジッタの傘は、ネア達の帰りを待つディノをずっと暴れ傘達から守ってくれていたらしい。
(……………わ、華やかだな)
勿論、傘たちは戦うばかりではない。
そもそも、傘祭りの本来の目的は、傘の散歩なのである。
綺麗なフリルのある婦人傘達は、何本かで連れだってぷかぷかと浮かび、リノアールのショウウィンドウを覗き込んできゃっきゃしているし、お気に入りらしい公園のベンチでぐでんとお昼寝している傘もいる。
美術館の屋根から雪を落として遊んだり、噴水に飛び込んで妖精達をきゃっとさせたりと、傘祭りの日の楽しみ方はそれぞれだ。
ネアは、大輪の花が咲き誇るような婦人傘の群れとすれ違い、人ならざる者達の暮らす世界らしい、不思議な美しさに唇の端を持ち上げた。
傘祭りの日は、やはりこのような景色が見たかったのだと笑顔になると、隣を歩くディノも嬉しそうに瞳の表情を柔らかくする。
「どの傘も作りが繊細で、見ていて素敵ですねぇ……………。自分で持ってお散歩させるなら、今年の傘さんのような傘さんがいいのですが、集まってぷかぷかしているのを見るのはやはり、婦人ものか子供傘です!」
「男性用の傘は、いいのかい?」
「野生の獣さんと同じで、じっと見てしまうと、暴れ傘が体当たりしてきたりするので、そちらの傘さんは遠くの安全なところから見守りたいですね……………」
「そうなのだね」
こくりと頷いたディノはしかし、路地裏の看板の影に潜んでいた暴れ傘が飛び出してきて、どすんと体当たりされてしまった。
大事な魔物が悲しげに目を瞠ったのを見たネアが、怒り狂って鷲掴みにした暴れ傘を力いっぱい投げ遠くへ捨てたところ、慌てて駆けつけた赤紫色の傘とジッタの傘が、すぐさまばきばきにしてくれた。
すっかり怯えてしまった魔物を連れて入ったのは、大通り沿いにある石造りの建物だ。
お散歩中の傘達とは、ここで一時お別れとなる。
「ご主人様……………」
「怖かったですね。もう屋内に入るので大丈夫ですよ?」
「うん。…………どうしてぶつかってくるのかな」
「領民の方々と戦う様子を見ていると、あのようにして一緒に遊ぼうという合図なのかもしれませんが、私の大事な魔物が吹き飛ぶところでしたので、決して許さないのです……………。まぁ。ここは、インク工房の事務局なども入っているのですね」
両開きの木の扉を開けると、シャンデリアの明かりに照らされた石造りのエントランスには高級感があり、魔術仕掛けの郵便受けが並んでいる。
その奥に続くのは、所有者用の承認魔術を設けた階段だ。
「おや、このようなところにも、工房を作ってあったのだね」
「あら、工房なのです?」
「うん。この魔術領域は、工房だと思うよ。交差路を持つ大通り沿いで、店舗を入れていない建物だから、そのような目的で部屋を持つ者達も多いのかな」
「……………まさかとは思うが、他にも工房があるのか?」
「最上階の左側も、工房ではないかな」
「……………ほお」
低く呟いたアルテアの様子からすると、この建物に他に工房が入っていることは知らなかったようだ。
こてんと首を傾げると、ディノが、どちらも、工房である事は隠してあるのだろうと教えてくれたので、ネアは、アルテアが憮然としているのは、隠しておいたのに工房であることを見抜かれてしまったからでもあるのだなと頷く。
水色がかった灰色の石材の建物は四階建てで、天井が高めの建築なので、その三階となると、それなりに階段を登らねばならなくなる。
エレベーター的な物はないものの、ウィームのこうした建物には、荷物を持ち上げる為の魔術転移台が設置されていたり、階段補助の祝福がかけられていたりするのだそうだ。
とは言えネアは、魔物な同行者がひょいっと転移してしまうので、そんな階段補助魔術を体験することもなく、淡い薄闇を踏めば、綺麗なレリーフのある紺色の扉の前に立っていた。
取り出した鍵束から水晶の鍵を選び、がちゃりと開けると広がっているのはアルテアらしい空間だ。
花と水の香りに、僅かなインクのような香りが混ざる。
「まぁ。……………家というよりはやはり、工房のような空間なのですね」
「土地に紐付いた魔術や、街中でしか動かせない魔術もあるからな。その為に購入してある部屋だ。窓際のテーブルを好きに使え。……………飲み物の準備はしておいてやる」
「はい!」
僅かに薔薇色がかった木の床を、そのまま結晶化させたような質感の床石だった。
卵型の泉結晶のシェードのあるお洒落な照明が天井のあちこちから釣り下がり、その内側に収められているのは、昼間は控えめにきらきら光る星結晶だろうか。
大きなシンクのような陶器の作業台には、使い込まれた木の板が渡され、束ねた花や薬草が壁に設けられた掛け金に吊るされている。
糸を通した結晶石のようなものもかけてあり、ネアは、魔術師の工房とお洒落なカフェが一体化したような空間におおっと目を輝かせてしまった。
「……………まぁ。窓から、びゅんびゅんしている傘さんが見えます!ふぁ………、大通りの様子がなんて綺麗なのでしょう!この高さからだと、荒ぶる傘さんも怖くないので、色とりどりの傘が楽しく動いているように見えますね」
「屋根にも登るのだね……………」
「むぅ。屋根の上でも戦いが繰り広げられていたのは、これ迄知りませんでした……」
窓辺に面した大きな森結晶のテーブルでいただくのは、屋台料理とアルテアが作ってくれた南瓜のクリームスープだ。
ネアは、以前に別の祝祭で南瓜のスープが売っていた屋台を見て、傘祭りでの取り扱いはないのだとしょんぼりしていたので、飲みたいお口になっていたスープの登場に弾んでしまう。
「南瓜のスープ……………」
「ふふ。ディノも好きなスープですよ。南瓜は、このスープになると、大好きなのですよね」
「うん………」
目元を染めて嬉しそうに南瓜のクリームスープを見ているディノは、南瓜は料理によっては苦手だということがつい最近判明したばかり。
チーズたっぷりのグラタンか、このようなスープや、ペースト状にしてサラダにしたものは好きなのだが、蒸した南瓜がごろりと入っていると、食べ方が分からずにしょんぼりしてしまう。
元々、南瓜のお菓子もあまり得意ではないようなので、今後はより気を付けてやらなければならないようだ。
「ウィリアムと話をするが、ここで開くか?」
「そうだね。そうして貰おうかな」
「むむ。ウィリアムさんにもお会い出来てしまうのです?」
「このような工房だから、場を繋ぐ鏡や扉の魔術が備えてあるのだろう」
「限定的な繋ぎだ、話すのは俺だけだぞ」
そう言われて目を瞠っていると、アルテアが何かをしゃわんと動かした途端、近くの壁に大きなアーチ型の窓が現れた。
硝子などは嵌め込まれておらず、窓枠だけがあるように見える。
そしてその向こうには、戦場に立つ白い軍服姿の終焉の魔物の姿があった。
「……………アルテアか。何だ?」
憂鬱そうにそう尋ねた声は低く、ネアは、仕事中のウィリアムの表情の平坦さに眉を持ち上げる。
瞳だけはどこまでも冷たく冴えていて、唇に浮かぶ浅い微笑みのカーブのせいで、いつものウィリアムの表情がどきりとするほどに凄みのある暗い美貌に見えた。
どうやら、アルテアの事は認識出来るものの、ネア達の姿は見えないらしい。
「フィアンについて聞きたい。ウィームで姿を見たが、まさか、あいつが階位落ちしたことに気付いていないんじゃないだろうな?」
「……………アルテア。幾ら俺でも、それくらいは気付く。本人には伝えていないが、階位を回復出来るような魔術支援は行っているし、あちらの王とも話はしている。…………階位を落とした際の状況が、あまりにも一部の者達に都合が良過ぎるものだったからな」
「気付いていたのなら、共有しろ。原因は掴めているんだろうな?」
その問いかけに小さく溜め息を吐いたウィリアムは、ネアがこれは正しい軍服の活用法であると拳を握ってしまうくらいに疲弊した冷たい瞳をしていた。
「同族内での派閥争いだな。階位の上では中堅だが、フィアンは、進行を司るので戦場での指示役を担う事も多い。彼と同階位の死の精霊の中で、それを快く思わない者がいたようだ」
「お前が不在だった時に、その歯止めが効かなくなったという訳か……………」
「残念ながら、そうだったみたいだな。……………制裁措置として、そちらの派閥は、二階位程削いである。後継者問題はあるにせよ、ある程度解決はしている筈だ」
「念の為に聞くが、それによる、終焉の運行に支障はないんだな?」
「ああ。……………階位を落としたのは、軽薄の派閥だ。……………この前、ネア達に絡んだのは、その処分の後に行われた跡目争いで粗相をした者だな」
その言葉に、今度はアルテアがひやりとするような目をしたが、ネアは、スープの燃料になった精霊の周囲にいた者達の顔はあんまり覚えていないぞとしょんぼりする。
何しろあの時は、手袋の直撃を受けた目元がひりひりしていて、瞬きをしたりと忙しかったのだ。
「……………あの界隈か。ナインにも監視させるが、くれぐれも問題をこちらに持ち込ませないようにしろよ」
「もし、俺の与り知らないところでウィームに問題が出るようであれば言ってくれ。こちらの運行にも支障が出るようであれば、大掛かりな整理を行った方がいいかもしれない」
「やめておけ。お前は、剪定のつもりで枝ごと切り落とすからな。……………だが、進行の階位上げはある程度注視しておけよ。漂流物前となると、不安要因になる」
「ああ。だが、問題がなければ今月中にも階位の回復が見込めるだろう。……………ちょっと良く分からないんだが、ウィームで気に入っているパンとスープにも、それだけの効果があるらしい」
「……………スープもなのかよ」
やり取りが終わり、窓がしゅわんと消えると、ネアは、ほかほかと湯気を立てる南瓜のスープボウルを手にしたまま、目をゆっくりと瞬いた。
これはちょっと失礼な感想なのだが、ウィリアムがあのように系譜の手入れや調整を行っていたことが、何だか意外だったのだ。
「……………死の軽薄となると、先日、アレクシスが回収したと言う精霊の従者達がいたね」
「従者そのものは捕縛済みだと聞いたが、あの人数だと、仕えていた妖精の全てとは限らないな。そちらを探らせた方がいいかもしれないのか。………あの従者になる階位の妖精なら、呪物の入手も出来るだろう」
「妖精さん………」
「家や一族に仕える妖精は、忠誠心が高い反面、主人に害を成した者に逆恨みをすることも多い」
「むぅ。…………むぐ」
ネアはここで、待ちきれずに南瓜のクリームスープをごくりと飲んでしまい、美味しさにふにゃりとした。
それを見たアルテアがふっと微笑み、とは言えまずは、昼食だなと頷く。
暗い暗い祝祭の底から一転、青空と雪景色の街に浮かぶ色とりどりの傘達を眺めながらの、素敵な昼食会が始まった。