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209. 傘祭りで探します(本編)





ちびこいもふもふした生き物が離れると、心配のあまり胸が苦しくなってしまった。


だが、人間というのはとても利己的な生き物で、何かがあるといけないからそのままでいいとは言えず、とは言えこちらも不安が多いので、是非に人型に戻って欲しいとお願いしてしまったのだ。


幸いにもこの階層には死角になる曲がり角があったので、ちびふわはそこを利用することとなり、イアンがこちらを隠してくれている内にと、ててっと曲がり角の向こうに走っていった。



そこで人型に戻って合流するという作戦なのだが、現れ方がとてもわざとらしいのは、もはやこの際目を瞑るしかない。


シャーロックなどは薄々気付いているので、どちらにせよ、もうぐだぐだだ。



「あの傘は、観光客の持ち込みの手荷物だったんです。傘見舞いの注意は出ていましたし、おかしな気配がしたのでと預かって検分するところだったのですが、触れない方が良かった事迄は知りませんでした………」

「へぇ。そうなると、あの傘を持っていたのは、送り主だろうな。受け取り主なら、引き取る前に呪いが開いている筈だ」

「………成る程。騎士団の決まりで、呪物を持っていた者には必ず聴取がありますので、そのまま放免する事はないとは思いますが………」

「むむ。では、そちらの情報も含めて、私の魔物に連絡してしまいますね!」

「……………お嬢さん、相手が万象なんだから、俺もこの精霊も、何らかの連絡手段があるのは想定出来る。何も、そこに隠れてやり取りせずとも、普通にこっちでやっていていいんだからな?」



そんなシャーロックの声が聞こえてきたが、ネアは、ここで油断して顔を出してしまうような事はしないのだった。


今はどうであれ、人外者とは生来気紛れなものである。

いつ何時敵になるのかが分からないのだから、誓約を交わした訳でもない相手に、こちらの手の内を明かさない方がいい。


ましてや一人はまだ、本物のフィアンだと確定した訳ではないのだ。

イアンは身元を保証してくれたものの、ネアはこちらの精霊については未だに疑念を抱いていた。



(お知り合いとは言え、相手は高位の人外者なのだ。同階位の人外者の方の証言がないと、やはり確定には至らないかな……)



シャーロックの仮に対しては首を横に振った黒ちびふわが、なぜかフィアンの仮に対しては無反応だった事もある。



「…………それに、深く考えなくても、もう来るんだろうしな……………」

「何だ、万象が迎えにくるのか?」

「気付いていなかったお前が、心から羨ましい……………」

「……………僕を馬鹿にしているのか?」

「何で俺は、今日のアクスとの商談が終わった後に、少しだけ祝祭を眺めてみようと思ったりしたんだろうな…………」

「ネア様、いらっしゃったようですよ」

「むむ、イアンさんにすらばればれです………」



こつこつと濡れた石畳を踏む音がして、雨の向こうから姿を現したのは、漆黒のスリーピース姿の選択の魔物だ。


トップハットにかけたリボンは濃紺のような色で、羽織ったコートまでもが黒である。

シャツとクラヴァット、ポケットチーフと杖が雪のように白い。



「…………ったく。お前はまた事故りやがって」

「巻き込まれただけなのです…………」



本人としても、現れ方が微妙なのは承知の上なのだろう。


気恥ずかしく頬を染めたりはせず、たいそう不機嫌そうに顔を顰めているアルテアは、この場所の色相と相まって、ぞくりとするような凄艶さであった。


黒い雨の降る区画から現れたアルテアが濡れていない事に気付いてから、ネアは、そう言えばイアンも濡れていなかったなと首を傾げ、あることを思い出した。



(…………そうだ。イアンさんは、雨の特等魔術を持っているんだった)



白持ちの魔物と、恐らくこちらも高位には違いない配送の魔物と仮とは言え、そちらの系譜には違いない死の精霊がいる中、一介の街の騎士であるイアンがにこにこしている様子からすると、やはりこの騎士は凄いのだろう。


ネアは、伸ばされた手にひょいと持ち上げられ、そのまま使い魔な乗り物に乗車してしまい、ほっと安堵の息を吐いた。



「………選択の魔物。どこから入ったのだ……?」



アルテアを見た途端に顔を顰めたのは、フィアンだ。

ふんと鼻を鳴らしたアルテアを冷え冷えとした瞳で見ている様子に、ネアは、本物の死の進行を司る精霊は、アルテアとの関係が良くなかった事を思い出した。



「そうか、ずっと気付いていなかったのか。ある程度は馬鹿なんだな……」

「…………何だと?」

「フィアン、喧嘩は駄目ですよ。祝祭中の事故ですから、どうか皆で地上に帰れるようにご協力下さい。それに、早く帰らないと、ジッタの店の傘祭り限定パンは買えなくなりますからね」

「………君がいると、やり難いな」

「はは。ここは私の担当地区ではありませんが、祝祭警備の中でしたので、騎士としての責任もありますからね、領民としてご協力いただけますと幸いです」



高位の精霊かもしれない人外者が街の騎士に窘められる一方で、こちらに向き直り、深々と一礼したのはシャーロックだ。


アルテアもシャーロックも、何とも言えない暗い目をしているが、互いに、思うことは決して言葉にしないと決めたらしい。

表情から見る限り、今夜は二人とも、強いお酒などをいただいたほうが良さそうだ。



「弁明させて貰うと、進んで関わった訳ではない。だが、不注意で危険に晒したのは事実だな」

「………まったくだな。とは言え、この程度のことならこいつにとってはさして珍しくもないだろう。今回、妙なカードを引き当てたのは、こっちのようだが」

「………ああ、やはり私でしたか」



アルテアの指摘に、困ったように微笑んだのはイアンだ。


ネアも、何となくだが、傘に刺されない祝福を得たと聞いた時から、そんな気がしていた。



「職人の祝福持ちだな。………傘に関わる血筋だろう」

「ええ。父の代までは傘職人でした。恐らく、家業を継がなかった事で、私は、傘達によく刺されるんでしょうね。とは言え、軽微なものですが、物作りに向かない障りを持っていますので、どうしようもないというのが実情でして」

「まぁ。イアンさんがよく刺されてしまうのは、理由があってのことだったのですね………」

「そのようです。傘達からすると、私は傘作りの血統を蔑ろにしているように感じられるのでしょう。ですが、傘祭りの警備では暴れ傘の初撃を引き当てやすいので、領民を守るという役割に於いては、便利とも言えるんですが、今回は祝祭汚しとは………」



(イアンさんが毎年傘に刺されてしまうのには、きちんと理由があったのだわ………)



あらためて、色々な人がいるのだとネアは頷いた。

そして、全員が揃ったところで、もう一度、どこまでも続く暗い階段の下を見下ろす。



問題はここからだ。

どちらにせよ、投げ捨てられた傘は拾ってこなければならない。

アルテアの様子を見ていると、選択の魔物が加わったので、さっと解決するという問題でもないのだろう。



「シャーロック、お前が拾って来い」

「…………はぁ。そう言われると思っていたさ。まぁ、お嬢さんをあんたに預けられるのなら、その方が早いんだろうな。だが、傘に最後に触れたのはこいつだからな。こっちも連れていかないと、証跡は追えないが」

「だろうな」

「やれやれ。その人間の保護者が来たのなら、それでもいいだろう。戦場では害獣だが、守り手としては上々だからな」

「えい!」

「……………おい。お前は何をしたんだ何を」

「む?なかなかの近さで、びゅんとやられましたので、この悪い傘めをハンマーでがつんと叩きました」



ぼさっと足元に落ちてぴくぴくしているのは、周囲を飛び交っていた黒い鳥のようなものなのだが、こうして落としてみると、シャーロックの言う通り傘だったようだ。


全員で覗き込んでいると、酷く傷んでいた黒一色の傘は、ネアのハンマーの一撃が致命傷だったのか、そのまま、さらさらと灰になる。



「終焉の魔術が有効なのか。……………ふむ。であれば、底まで下りても問題なさそうだな」

「……………いや、あのハンマーは何なんだ?!誰もそこは気にならないのか………?」

「フィアン、私も同行しましょうか?」

「いや、君はここに残っていてくれ。同行しなくても済むのなら、その方がいい。祝祭の底に人間が下りるのは、やはり好ましくはないだろう」

「では、お任せします」



何やら得心気味の仮フィアンと、慄いたようにネアの持つハンマーを見ているシャーロックは、そのまま、したんと軽く石段を踏み、暗い暗い祝祭の底に下りていった。



(………あ、) 



階下に向かう二人の、先程迄の足取りとは違う軽妙さに、ネアは、気を遣って貰っていたのだと目を瞠る。



「……………むぅ。私に合わせてゆっくり歩いてくれていたのなら、踏み滅ぼすのはやめておきます……………?」

「どちらにしろ踏むな。だが、あいつ等のせいでお前が巻き込まれたのは間違いないからな、対価は俺が取っておいてやる」

「むむ、とても悪いお顔をしています。なお、イアンさんは騎士さんとしての務めを果たしていただけですので、対価などを取ってはいけないのですよ」


きりりとしたネアがそう言えば、ちょっぴり申し訳なさそうにしていたイアンが、安堵の表情になる。


「雨の祝福持ちだろ。こいつが手にしていれば、そもそも、呪いが弾けることもなかった筈だ。傘周りの呪物に効果のある魔術だからな」

「…………まぁ。という事は、今回はあのお二人の善意が、完全に裏目に出た事件なのですね…………」

「はは。そんな気はしたんですが、良かれと思って手を出してくれたようなので、なかなか言い出し難くて…………」

「………あの精霊が紛い物でなければ、不幸な偶然で済むんだろうが………」

「むむ!」



ここで、漸く核心を突いた話題が出たぞと、ネアは、その話をするのだとアルテアの腕の中で弾み、顔を顰めた使い魔におでこを指で弾かれてしまう。



「仮フィアンさんは、髪の毛が長過ぎます!」

「そこかよ………」

「以前に、リーエンベルクにご挨拶に来ている様子を物陰からじっくり見た時には、短い髪の毛だったのですよ。そして、もう少し落ち着いた大人の雰囲気でした。………しかしこちらは、シャーロックさんととても相性が悪そうなので、そのせいで雰囲気が変わったように見えるのかもしれません………?」

「髪は昔からあの長さだ。終焉の領域では珍しく目立つからと、注目を浴びるのを嫌がって擬態で短くしている事が多い」

「………なぬ」

「だが、俺が知っているフィアンとは、少し気配が違う。魔術の系譜的に、死の進行なのは間違いないんだがな。代替わりしたという話は聞いていないが………」

「あ、………」



瞳を眇めたアルテアが低い声でそう呟くと、思い当たる節があるのか、声を上げたイアンがいた。


何かを言いたそうにそわそわしているので、おやっと思ってそちらを覗き込むと、困ったようなくしゃりとした微笑みを浮かべたイアンが、とても悲しい話を教えてくれる。



「実は、………彼は、ジッタの店のパンを食べられずに倒れた時に、………その、………本当に死にかけたそうでして」

「………は?」

「少し体が欠けたものの、壊れた部分は削ぎ落とし、届けられたジッタの店のパンで生き延びたと話していました」

「………まぁ。となると、ジッタさんのパンを食べられずに死にかけ、ジッタさんのパンで生き返ったのです?」

「いや、おかしいだろ。何でパンごときで死ぬんだよ………」

「しかし私も、楽しみにしていたローストビーフなどを取り上げられて仕事漬けにされたら、憤死することは間違い無いので、それは頷けるのですよ」

「なんでだよ」



ネアは、焼肉弁当が食べたくて荒ぶる魔物がいたり、ボール中毒で塩の魔物が箱に頭を突っ込んで抜けなくなる世界なので、そんな事もあるかもしれないと考えたが、アルテアは懐疑的なようだ。


困ったように微笑んだイアンが、とは言え、偽物かもしれないと言われると自分には判断が付かないと前置きをした上で、死の進行を司る精霊の、とても悲しい職務環境を教えてくれた。



「初めて見かけた頃は、とにかく暗い顔をしていて、……こう、疲弊しきった様子でしたが、暫くすると肌艶が良くなってきたので、それだけでも印象はだいぶ変わったと思います。最近は、上司が仕事を早く終わらせて適度に休むようになったと話していて、この前も初めて、仕事の合間に連休が取れたと喜んでいました」

「………ほわ。労働環境がまずいやつです」

「進行担当だからな。ウィリアムと同様に、大掛かりで長期化する終焉の領域になる程、外せない役割だ」


アルテアの説明に、だからなんですねとイアンが頷いている。

ネアは、何と恐ろしい職場なのかと震え上がった。


「ここ最近は生活環境が改善されていたようなのですが、昨年の秋に、上司の方が突然傷病休暇を取られたらしくて、以前よりも過酷なくらいの日々が続き、ジッタの店のパンも食べられずに生死を彷徨う羽目になったのだとか」

「…………ちょっとだけ、思い当たる節がありますね」

「………クロウウィンの後か………」

「うちの隊長曰く、一命を取り留めた後の彼は、少し若返ったようだとか。フィアン曰く、腕一本分は命を削ったので、今はジッタのパンを沢山食べて、階位を戻せるように力を蓄えているみたいですよ」

「………おいおい、階位落ちか。おまけに、ウィリアムが気付いてないのかよ」

「そのような方は、無理をしてでも職場に出てしまうので、どれだけ弱っているかを上司に気付いて貰えないのです。ヨシュアさんのような方の方が、寧ろ、自己管理能力には長けているのですよ」



そう言ったネアがふんすと胸を張ると、アルテアは嫌そうな顔をしたが、イアンの説明で納得した部分もあるようだ。



「シャーロックが確認をするだろうが、………となると、あちらも問題ないだろうな」

「ふむ。そのような内緒のやり取りもあったのですね。偽物が混ざっていないのなら一安心ですし、今の、イアンさんのお話を聞くと、イチイさんの弓をばきばきに折ったものを下さったのは、二度とウィリアムさんに傷病休暇を取らせないという強い主張だったのかもしれませんね」

「前から、進行担当は増やしておけと話しているんだがな………」

「増やせるものなのですか?」

「外注になるがな」

「謎めいています………。死者の行列の外注………」




さぁさぁと、雨音が聞こえる。

階段の下の方は完全に闇に包まれていて、もう、シャーロックやフィアンの姿を探す事は出来なかった。



コートは着ているが、脱いだら寒いだろうなという気温である。

しっかりと背中に回された手の温度を感じ、ネアは乗り物になってくれている魔物を見つめた。


帽子の影になっていても白い髪は光を孕むようであるし、赤紫の瞳は、はっとする程に暗く眩い煌めきだ。

じっと見上げていると視線に気付いたのか、アルテアがこちらに視線を向ける。

魔物らしい酷薄な眼差しだが、森に帰っている時のような怜悧さはなかった。



「何だ?」

「アルテアさんが、お仕事を無理やり片付けて一緒に居てくれたお陰で、何とか無事に帰れそうです」

「……………俺の代理でアイザックと商談に出ていたのが、シャーロックだがな」

「まぁ。………ちょっとややこしくなってきました………?」

「今回は、クライメル周りで手を重ね過ぎたかもしれんな。何もしなければただの一本の糸だったものを、こちらで絡めた可能性もある。………とは言え、傘そのものには大した術式の付与がないと知れただけでも、収穫とも言えるのか」



溜め息を吐いたアルテアが齎したのは、一つの朗報であった。


ネアとしても警戒していた部分なので、あの魔物が触れた影響が問題のない範囲であったと判明したのは、いい事だろう。

高位の魔物達の手立てが、いつだって最善ではないのだ。

であれば、終わり良ければ全て良しとするのがいい。



じゃりん。



また背後で雨足が強まり、硬質な音がする。

暗闇に目が慣れてきたのか、ネアは、時折聞こえてきていたその音が、海沿いに巡らせた柵に通した鎖が揺れる音だと気付いた。


だが、その向こうに広がる川か海のようなものは、先程より水嵩を増してきてはいないだろうか。



「……………アルテアさん、背後の水辺が、なかなかに増水してきているような気がします」

「ああ。ジューデッカの入り江だ。長雨の水害で一度滅びた街だからな」

「…………つまり、ここにいると、ざぶんとなるのでは?」

「階層の境界で遮蔽される。本来なら問題はない筈だが、この手の魔術領域には経年の風化も少なくない。傘を持ち帰るのが、冠水が始まるまでの刻限だということは、あいつ等も分かってはいるだろう」

「…………は!もしや、境界の機能がいまいちだと、溢れた水が下にざばざばと落ちてゆくのです?」

「そういうことだな」



それを聞いた邪悪な人間は、どうしようと焦るのではなく、しめしめとほくそ笑んでしまった。


きちんと締め切りが設けられているのであれば、昼食に間に合う可能性が高くなる。

一人で残されたディノの為にも、散歩に出している傘の為にも、少しでも早く地上に戻りたい。



(でも、入り江という事は、ここは海だったのだわ)



背後の暗い水辺が海だと分かると、この階層の暗闇に目を凝らすのはあまり好ましくないように思えた。

だが、そう考えたところで、なぜイアンはこの奥からやって来たのだろうと不思議になる。



「イアンさんは、どうしてこの奥の通りから来たのですか?」


そう尋ねたネアに、少しだけ所在なさげにしていたイアンがこちらを見る。

ふわりと揺れた黒髪は、この階層の雨の色に似ていたが、ウィームの夜のような輝きがあった。



「私は、このすぐ上の階段に落とされたんです。呪いの核となる傘からは手を離してしまいましたので、どうしたものかなと、まずはこちらの階の探索を行うことにしました。………ほら、この階段の上にいると、飛んでいる傘に攻撃された時に、身を隠す場所がないですからね」



イアンは、この階層を探索はしてみたが、ウィームの騎士らしい慎重さで、ここは人間の領域ではないと判断し、踏み込み過ぎないようにもしていたという。



「なので階段の上から話し声が聞こえて来た時にはぞっとしましたが、その中にネア様の声が聞こえたので、慌ててこちらに戻ってきたところだったんです」

「まぁ、そうだったのですね。あの瞬間は、私達から少し離れた場所にいたので、我々と違う場所に落ちてしまったのかもしれませんね」

「ええ。早めに合流出来たのが何よりでした。この階層は、………奥に進むと、警報だと思われる半鐘の音が聞こえてくるんです。その音に、どこか、火の慰霊祭の時のような不穏さがありましたので、あまり奥までは進みたくなかったんです」



そう言ったイアンに、アルテアが頷いている。

どうやら、奥に入り込まずにいたのは、賢明だったようだ。



「浸水が始まったのは、この位置からは右奥にあたる、港に面した地区からだ。そちらに巻き込まれると、最悪、鍵が開いてもここからは出られなくなっただろうな」

「ふぁ。イアンさんがこちら側にいてくれて良かったです。…………各階に雨の景色があるのは、ここが傘祭りの底だからだと伺いましたが、このような場所は、傘さんに由縁のある土地なのでしょうか?」

「昇華出来ずに祝祭の底に残った傘達が持つ、破滅の顛末の領域だな。空に持ち上げられないくらいに、壊れている記憶ばかりだからだろう。お前が、薔薇園を見ても警戒したのはそういう事だ」



あの時はちびふわ姿で肩の上にいたので、美しい薔薇園を見たネアがなぜか不安な気持ちになり、それを訝しんで眉を顰めていた事には、アルテアも気付いていたようだ。


見事な薔薇が幾つも満開になっていたのに、なぜ少しも心惹かれないのかと思っていたが、あまり良い土地ではなかったのだと知り、こくりと頷く。

悍ましくても美しい場所もあるのだが、このあわいの中には、未だにそのような暗闇はない。



(それが、廃棄場というものなのだろうか……………)



どこにも行けずに打ち捨てられたもの。

災いや障りとしての美しさすら欠いたそこは、どこまでも暗くべったりとしていて、その光の欠落がとても悲しい。


こんな所に閉じ込められてしまったなら、きっとネアも無事では済まなかっただろう。

けれどもどこか、この星一つない暗闇の色は、ずっと昔のネアハーレイの棲家の暗さにも似ていた。



「ぎゅむ。…………一人で落ちなくて良かったです」

「お前一人なら、本来は落ちようがない。祝祭の領域では、クロムフェルツの祝福の方が強いからな。今回は、お前を掴んだシャーロックとフィアンの比重の方が重たかったせいで落ちたんだ」

「あ、あの方達は、私が一人で放り出されないようにしたからだと仰っていましたが、落ちてゆくときに、二人で私を掴んだのですよ。となると、その所為でここに落ちたという事ではないですか…………!!」

「だからだ。それもあっての対価だからな」

「ぐぬぬ。ここで、イアンさんと合流出来なければ、やはり踏み滅ぼすところでした………」




安全な魔物の腕の中で、ネアは真っ暗な空を見上げた。


ぽつぽつと街灯の光が丸く切り取った部分にかかる時だけ、飛び交う傘達の黒い影が見える。

それ以外の部分は暗い闇に沈んでいて、いつも綺麗な青空の傘祭りの日の底に、どこにも行けないこんな景色が残されているのだと思えば、なんとも言えない気持ちになった。




「もしかして、影傘さんは、このようなところから来たのですか?」

「独立したあわいか、この祝祭そのものの底からかは分からんが、同じようなものだろう。ここで飛んでいる傘達は、まだ原型を留めている方だ。やがて、形を失って底に落ち、別の物になり果ててゆくんだろうよ」

「アルテアさんは、ここに来た事はあるのですか?」

「道具類の祝祭の底は、こんな事でもなければ来ようとは思わないな。表側の祝祭が引き継がれてゆけば、本来は開く筈のないあわいだ。スリフェアのような場所以外から、不要なものとして廃棄された道具を持ち帰るのはあまり望ましくない。特にこれは、祝祭の底に溜まった滓のようなものだからな」



では、終わってしまえる物は、せめて幸運なのだろうか。

ネアは、先程ハンマーで壊してしまった傘を思い、終焉の魔術が有効だと話していたフィアンの言葉を思う。


そうして齎されるのは、解放なのか死なのか。

そんなことは、傘達にしか分からないものなのかもしれないし、どんな場所であれ、そこを心地よい揺り篭とする怪物もいるだろう。



「祝祭が正しく受け継がれてゆけば、廃棄場が溢れる事はない。受け継がれるべき祝祭が廃れた土地が滅びるのは、祝祭に廃棄場が溢れたからという場合もある」

「ぎゅむ…。そんな場所には行きたくありません……」

「それを閉じるのも、ウィリアムの役目だ。…………やれやれ、見付けたようだな。やっとか」



待ちに待った呟きに、ネアはぱっと笑顔になった。

イアンもふぁっと安堵の息を吐いている。



「よ、良かったです。実は少しだけ、もしや、こんなところに投げ捨ててしまったとなると、そう簡単には見付けられないのではという不安もあったのですよ………」

「ある意味、ここでの捜索には長けた組み合わせだったな。配達が完了するまでは、あの傘はまだ配送の魔術の管理上に置かれている。シャーロックがそれを辿り、終焉の魔術で群がる傘の排除も出来るだろう」



それを聞いたネアは、もし、ここに落とされたのがイアン一人だったらどうなってしまったのだろうと思わずそちらを見てしまい、同じようにこちらを見たイアンと目が合った。


互いにふるふると首を横に振り、重々しく頷く。

かなり良くない顛末しか思い浮かばなかったので、そちらの可能性については、これ以上考えるのはやめておこう。



(……………っ、)


じゃりんと鎖の鳴る音が、これ迄よりも大きく聞こえてきた。

不安になったネアはそろりと背後を窺い、ぴっと竦み上がる。


いつの間にか石畳の上に水がかかり始めており、奥に続いているように見えていた道は、既に水没しているようだ。


海は暗く重く、ぞろりと暗い闇色が上がってくるような圧迫感がある。

何となくその冷たさを想像してしまったネアは、自分の想像でしびびっとなってしまい、呆れたような溜め息を吐いたアルテアにゆっくりと背中を撫でられた。

しっかりと抱え直され、ネアもぎゅっとしがみつく。



「むぐ!」

「ったく。奥はもう見るな。どうしても視線が向くなら、目を閉じていろ。………間に合うだろうが、ここの境界は破綻しているようだな。上に上がるぞ」

「………か、海水など浴びたくないので、是非にそうして下さい!」

「……………うわ。何か出てきましたね」

「ぎゃ!へんてこな生き物が………!!」

「………ほお。どこで傘の記憶と繋がったのかと思っていたが、海難事故の積み荷か。海との相性の悪い魔術付与を持つ傘を、かなりの数で積んでいたようだな」

「ふぇぐ。お、おばけです!」



イアンの声に思わず見てしまった海の方からは、ずるりと頭から布を被ったような奇妙な生き物が這い出てくるところだった。


頭の部分が丸く大きいので子供のようにも見えるが、目の部分だけを丸く切り取ったシーツめいたものをかぶっているので、造形はどこかぼんやりとしている。


人型かもしれないし、爬虫類かもしれないし、はたまた、蛸のようなものかもしれない。

アルテアがその生き物を見て、どこに積み荷な傘の要素を感じたのかは分からなかったが、ただ、どう見ても友好的な生き物には思えなかった。



ネア達は少し広くなった階層に繋がる階段の踊り場を脱し、階段を少し上がったところで待機に戻った。

あの怪物がこちらに出てくるような派手な動きはないものの、境界とやらはやはり機能していなかったのか、静かに溢れ出た黒い水が階段を伝って階下へと、ひたひたと流れ落ちてゆく。


このまま水量が多くなるとまずいのではと思っていると、階段の少し下の方から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。



「うわ、何だこの水は…………!!」

「階層の海が冠水したんだろう。時間ぎりぎりだったか……………」

「ああ、くそ。よりにもよって海水かよ………」



階段が上がれなくなる程の水量になる前に、何とか傘を見付けて戻って来た二人の姿を認め、ネアはほうっと安堵の息を吐く。


シャーロックの手にはへしゃげた黒い傘が握られており、アルテアがすっと瞳を眇めた。



「………思っていたより、手の込んだ呪物だな」

「ああ、そのようだな。地上への鍵を開くのは簡単だが、未配達の呪いだ。こいつを持ち帰ると同じ事を繰り返すがどうする?」

「持ち帰らずにおくには、魔術の証跡が面倒だ。開錠と共に、宛先の書き換えを行うしかないだろうな。完結させておいた方が後腐れがない。…………シルハーンに、身代わり人形の用意を頼んでおけ。ウィームなら用意がある筈だ」

「は、はい!」



そう言われたネアは、慌ててカードを広げ、言われた通りのメッセージをディノに送る。

議事堂の方のノアとも連携は取れている筈なので、きっとその備えはエーダリア達が手伝ってくれるだろう。



“もう用意してあるよ。ノアベルトが、きっと必要になるだろうと話していたからね”

“まぁ!さすがノアです!”

“怖い思いはしていないかい?”

“はい。すぐに戻るので、ディノも、もう怖くなくなりますからね”

“ずるい……”




アルテア曰く、今回の傘を使った解錠は、シャーロックだからこそのやり方なのだそうだ。


配達の魔物の領域の上で、未配達の送付物を正しい配送路に戻す固有魔術を使い、まずはネア達をこのあわいの外に戻す。

その後、配送差し止めの状態付与をかけるのだが、配送の魔物ならではの不自由さで、差し止めの期間は無限ではない。



(そうか。だからこそ、傘祭りにしか開かないこの呪いを、正しく動く日の内に、身代わり人形で終わらせておくべきなのだわ)



シャーロックが手に持ち、くるりと回した傘がぼうっと青白い光を帯びる。

ぴしぴしと空間にひびが入り、その中に現れた術式模様に、配送の魔物は躊躇いもなく傘を差し込んだ。


すると、どこからかひらりと一枚の紙が落ちてきて、傘を術式模様の真ん中に突き立てたまま、それを受け取ったシャーロックが、取り出したペンでさらさらと署名をする。




「さて、誤配送の荷物を元の場所に戻すぞ。足場を組めないのなら、俺に触れていた方がいいだろう」

「………そうさせていただいても?」

「ああ。今回はこちらの仕事だからな。対価は取らんさ」


おずおずと手を伸ばしたイアンに、配送の魔物はふっと口元を歪めてそう笑う。

へにゃりと微笑んだイアンは、その直後、きゃっという顔になった。




「ぎゃふ?!」

「………おい、持ち上げが雑だぞ」



ぶんと振り投げられるようにして落とされたのは、見慣れたウィームの街だ。

空には色とりどりの傘が舞い、わぁぁぁと、どこからともなく雄叫びが聞こえてくる。

見上げた空は青く、少し座標がずれたのか、地上で待っていてくれたディノが慌ててこちらに走ってくるのが見えた。

その隣にゼノとグラストの姿を見たネアは、大事な魔物が一人ではなくてほっとしてしまう。



ぎゅいんと飛来した傘が、ごちーんと音を立ててイアンの顔面に直撃したのを見た瞬間、ネアは、なぜだかもう大丈夫だという気がした。







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