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誘惑のサラダと触れずの記憶




『可哀想に。ここで見てしまったものを忘れられると良いのだけれど…………』



何だか、悪い夢を見たような気がする。

けれどもそれは、きっとただの夢なのだろう。



ふと脳裏を過ったその感覚に内心首を傾げ、ネアは再び大切な交渉に戻った。





「もぐもぐサラダを再びなのです………」



その日、検診の為に使い魔に呼び出されたリーエンベルクの一室で、そう主張する我が儘なご主人様に対し、最近、ガーウィンでリシャード枢機卿としての活動も行っていると判明した使い魔は、腰に手を当ててこちらを見た。



「ほお、まだ検診も済んでいないのに、よくも言えたものだな」

「もぐもぐサラダ…………ぎゅ」

「ネア、可哀想に…………」



悲しい目をしたネアにおろおろしたディノは、すぐ隣にいたノアの方を見た。

その瞳に期待を見たものか、ノアはだしんと自分の胸を片手で叩いて頷いてくれる。



「よーし、可愛い妹の為に、お兄ちゃんが作ってあげようかな!」

「まぁ!ノアが、もぐもぐサラダを作ってくれるのですか?」

「サラダくらいなら作れそうだよね。えっと、何が入ってたのかな?」

「葉っぱとマッシュルームと二種のチーズと、細かく刻んだドライトマトと黒いオリーブ、茹でアスパラです。クリーム系なのにさっぱりした美味しいドレッシングがかかっていて、上に夜鶏の半熟卵がとろりと割り乗せてありました!」

「ありゃ。ドレッシングが難関そうだから、厨房に相談してみようかな………」



早々に試合放棄してしまったノアに、ネアは、兄はあてにならないと悲しい目をしてアルテアを振り返った。

そんなネアを抱き締めて、潜入調査で離れていたからかまたしても抵抗力が弱くなってしまった伴侶な魔物は、そっと頭を撫でてくれる。



「アルテア、この子はとてもそのサラダを気に入っていたんだ。作ってあげてくれるかい?」

「……………もぐもぐサラダ」

「ったく、術式の洗浄と検診を終えてからなら、作ってやる」

「はい!」



今朝も、もぐもぐサラダの夢を見てうっかりディノの髪の毛を齧ってしまいながら目を覚ましたくらいには、すっかりあのサラダの虜になってしまったネアは、そんな提案に大はしゃぎで弾んだ。


ディノは、喜び弾むご主人様に恥じらって目元を覆ってしまい、尚且つ難しい顔をしたアルテアにすぐさま肩を押さえられてしまったが、この喜びを表現するには弾むしかないではないか。


押さえつけられてぐるると唸ったネアに、窓際の椅子に腰掛けて剣の手入れをしていたウィリアムが淡く苦笑した。



「一応、俺が契約の魔物の間に、おかしなものが添付されないように何度か終焉の剪定はしているんだがな…………」

「はい。帰る前にもウィリアムさんが、悪いものをばっさりやってくれたのですよね」

「わーお、楽しんでた感じだぞ…………」



ノアはそう言って眉を寄せたが、いつもなら荒ぶるディノは、ふるふるしてはいるが我慢したようだ。


こちらに帰って来てからのディノは、ウィリアムがいてくれたからネアが損なわれなかったと何回か話していたので、やはりとてもウィリアムに感謝しているのだろう。



「ほら、さっさと準備をしろ。昼食に間に合わなくなるぞ。魔術探査の妨げになるから、上は脱いでおけよ」

「なぬ…………。アンダードレスでいいのですか?それとも浴室着のような…」

「やめろ。アンダードレスで充分だ」

「はは、アルテアは油断も隙もないな」

「ほお、あの状況を散々利用していたお前だけには言われたくないがな…………」



お互いに静かな視線を交わし、謎に向かい合ってしまったアルテアとウィリアムは取り敢えず置いておき、ネアは、男前に上に着ていたドレスを脱ぎ捨て、伴侶な魔物をきゃっと恥じらわせた。


然し乍ら、このドレスシステムは、上に着たものを脱いでもアンダードレスという普通に可愛いワンピース的なものを着ているのだ。

白い木綿ワンピースに見えるので、夏場などはそれだけで麦わら帽などをかぶって森にピクニックに出かけられそうなのだが、こちらの世界ではなしらしい。


なお、白く柔らかな木綿に思えるこの布地は、それぞれの季節の夜明けの霧から糸紡ぎの妖精が織った布で、とても柔らかいだけではなく涼しかったり暖かく思えたりと効果も高い。


実はこちらの世界では安価な布地で、魔物達はもっと特別な守護や祝福があるものをと言うのだが、ネアは、庶民向けのお店でこの布地に出会って以来、一番のお気に入りなのだ。


貴族は着ないと言われても断固としてこの布のアンダードレスを愛用していた結果、ディノは、縫製や裾の部分の刺繍などで使い心地の良さや守護を足した、ネア用の庶民風アンダードレスを用意してくれるようになった。



「うーん、僕としては、浴室着の方がいいと思うなぁ」

「やはり、布地が少ない方が検診はしやすいのですか?それならさっと着替えてきますが………」

「お前の情緒は、とうとう減り始めたな………」

「なぬ。なぜ、髪の毛がくしゃくしゃでちょっぴり怒っているのだ………」

「ネアが脱いだ服のスカートが、アルテアに当たったからではないかな…………」

「まぁ、それで…………」



どうやら、ずばっと脱いだドレスを振り捌いた時に、アルテアを巻き込んでしまったようだ。


ネアは、検診を早く終えてもぐもぐサラダを食べるのだという意気込みが強過ぎた己の過去を反省し、これからサラダの為にドレスを脱ぐときには、まず周囲に通りかかった人がいないかを確認してから脱ごうと決意する。



「…………うむ。それでこそ淑女と言えましょう」

「……………よく考えてみろ。幾つかおかしいだろうが」

「む?」

「大幅減点だな。これ以上下がるようなら、強化期間を設けるぞ」

「それは、夏合宿的な………?」

「そういうものがあるのかい?」



伴侶な魔物が不思議そうに首を傾げたので、ネアは、昼間は鍛錬の時間となるが、夜にバルバをしたり、花火をして楽しく過ごす、少し甘酸っぱい思い出込みの青春イベントだと教えてやった。



「特にバルバでは、採れたての夏野菜などを使って美味しくいただくんですよ」

「甘酸っぱい思い出…………が、出来るのだね…………」

「平等に全ての参加者が得られるものではないと言いますが、合宿を共に過ごすと恋も芽生えやすいですからね」

「君はもう私の伴侶なのだから、それは行かないでいいと思うよ」

「情緒を育てる為に、バルバの必要はないだろうが」

「で、では何の為の夏合宿なのですか………?」

「お前な…………」



ネアは呆然としてそう問い返したが、アルテアは、片手で前髪を直しつつ冷ややかな目でこちらを見ている。

ノアとウィリアムは夏合宿も満更ではないようで、開催する場合は一緒にバルバをしてくれるようだ。




「ノアベルト、助けてくれ…………」



そこにやって来たのは、とても虚ろな顔をしたエーダリアで、ネアは滅多に聞かない上司の言葉にぎょっとして振り返った。



「ありゃ、どうしたのさ」

「エーダリア様が、誰かに虐められたのですか?」

「いえ、抗体の錬成で行き詰まっただけですから」



よろよろしているウィームの領主を支えているのは、呆れた顔をしたヒルドだ。

そしてその二人は、こちらを見てぴたりと動きを止めてしてしまう。



おやっと目を丸くしてネアに、こちらを見ていたエーダリアは、珍しく目元を染めてから首がもげそうな勢いで顔を逸らす。



「す、すまなかった!!」



ばたんと激しい音がして、部屋を飛び出していってしまったエーダリアに、ネアはこてんと首を傾げた。


幸い、同じように固まりはしたが、ヒルドは部屋から駆け出すことはなく、あんなに弱っていたのに元気に走り去っていったエーダリアをやれやれと見送っている。



「む…………どうしたのでしょう………?」

「うーん、ネアが脱いでるからじゃないかなぁ…………」

「しかし、上を脱いだだけでまだアンダードレスは着ていますし、このくらいなら夏服程度のものなのです。そもそも、祝福たっぷりのドレスを脱いで検診に備えているだけなのでは…………」

「アルテアなんて………」

「なぜ今度はこちらが荒ぶりだしたのだ。サラダへの道を平坦にしておいて下さい…………」



ちらちらと、細やかな光が窓辺で揺れた。

庭で新芽を伸ばした木の枝葉に落ちた陽光が散らばり、室内の床に光の粒を投げかけている。


窓の外では、いつの間にかあれだけ積もっていた雪がなくなっている。

日影にはまだ少し白いものが残っているが、あちこちの花壇に花が咲き乱れ、すっかり春の訪れに近い彩りをリーエンベルクの中庭に添えていた。



(あの、冬の系譜と春の系譜が揺らぐ、季節の変わり目の風の強い夜が大好きだったのにな…………)



ネアは、一年に一度しかない季節の移り変わりの一瞬を見逃した事で密かに落胆していたが、今回の潜入調査は、これまでに遭遇したどんな事件よりも損なうものなく終わったのだと思う。


未然にウィームを標的にした陰謀を防げたり、アルテアのグラタンが更なる高みに到達したりと、本来の目的を超えて得られたものも多かったので、是非にそちらに視線を向けてゆこう。



「じっとしていろよ」

「はい。………むぐぐ、凝視されています」

「視覚的に動く魔術もあるからな。…………左手に持っているものは机の上においておけ」

「飴さん…………。検診に非常食はいらないのでしょうか?」

「いらん」


すげなく否定されたので、ネアは検診用の非常食である檸檬の飴を机の上にそっと置き、暫しの別れを惜しんだ。


もしもという事故があるといけないからと、ガーウィンから戻った後も、リーエンベルクにはアルテアとウィリアムが滞在してくれている。

それならばと少し先に延期していたウィリアムの誕生日をやってしまいたかったが、ギード達を招いての事なので、そうそう簡単に予定を変える訳にもいかない。



(…………昨日まではゆっくりと眠って休養させてくれて、今日にはこうして検診をするくらいに、信仰の魔術というものは厄介なのだろう………)



昨日の日付が変わる直前にウィリアムによる魔術洗浄を受け、日付が変わるのと同時にガーウィンを出た後は、リーエンベルクに戻る前に、遠い異国の地でアルテアから魔術洗浄を受けた。


そこは、ランシーンよりも遠くにある小さな島にあるアルテアの仕事用の屋敷の一つで、アレクシスから貰った薔薇の根を使った苦いスープも作って貰い、我慢して全部飲んだ。

あえて、そこまで遠い異国での魔術洗浄となったのは、ネアが触れた信仰の形がないところでその影響を拭うのが最も効果的だからなのだそうだ。



(リーエンベルクに帰ってからは、ノアにもあちこち診て貰って、昨日は一日中ディノがべったりだった。ガーウィンで寂しい思いをさせてしまったからかなとも思ったけれど、それから今日の検診だと考えると、それだけ警戒しなければならないものなのだわ…………)



与えられたそのどれもが、最高位の魔物達の手によるものだ。


かつてこの魔物達が警戒していたものと言えば、闇の妖精達による侵食や、昨年の蝕という、それなりに大きな爪痕をネアに残したものばかりではないか。


そう考えると、この懸念されている後遺症も同等の危険なのだろうかと少し不安になってしまい、ネアは、敬虔な気持ちで目視による検診が終わるのを待った。



「…………やはり、少し信仰の魔術の翳りがあるな」

「ぎゃ!何か悪い影響があるのですか?」

「良し悪しは特にないが、人間は、信仰に深く触れるとその思考を深めてゆくことが多い。そうして思考の中で気配を強めてゆくのが、信仰の魔術の翳りだ」

「むむ…………?」

「ほら、特定のものを意識すると却ってそっちに体が傾くことってないかい?その傾きが、場合によっては生死を分かつ差分になったりもするんだ。だから、不要なものについては元々持っていたもの以外は増やさない方がいいって話だけど、その中でも特に信仰は、増えたものを足がかりにされる事が多い」

「とてもわかり易かったです!さすが私の弟ですね!」

「ありゃ、格下げだ…………」

「まぁ、確かに弟だったと記憶していますが、何か問題があったでしょうか?」

「シル、ネアが仕事を利用して僕を丸め込もうとするんだけど…………」

「ご主人様……………」



全体の輪郭を凝視して立ち昇る気配に目を凝らし、まずはその信仰の魔術の翳りとやらが削ぎ落とされた。

削ぎ落としはいたって簡単なもので、ネアは、その伴侶であるディノにふわっと抱き上げて貰い、その瞬間にネアの影をアルテアが杖で縫い止める。


持ち主から剥がされた思想はとても脆く、後はもう、そのまま風化してしまうのだとか。



信仰は、信仰の庭に住む覚悟がない場合は、元々の持ち分以上を深めない方がいいらしい。


一度気にかけるとのめり込み易い領域であるので、自覚なく信仰に傾倒してゆくと、本人ですら踏み止まれずにあっという間に転がり落ちてしまう者も多いのだとか。



「怖っ………」

「必要としている者達にとっては、悪いものではないけれど、君はそのようなものを喜ばないだろう」

「加えてネア様は、あまり信仰の響きに心を寄せる資質はないと思いますが、思想からの侵食を図るという意味では、信仰の庭は格別に厄介なんですよ。リーベル枢機卿などが、特にその種の魔術に精通していますが、ネア様の場合は、今更彼を恐れるというのも難しいのかもしれません……… ……」

「……………リーベルさん。……昨年末から豆の精を送るのはやめましたが、順調に謝罪の品は届き続けています」

「死者の国で彼がした事を思えば、当然の事です。しかし、それでもやはり、彼の持つ固有魔術は厄介だという事を覚えておいて下さいね」


にっこり微笑んでそう言ってくれたヒルドと、あの時は大変だったなと微笑んでくれたウィリアムが並ぶと、この二人を同時に敵にして生き延びたジュリアン王子の運命力を思わずにはいられない。


その侵食を払いのけようとすればする程に術式に絡め取られるという、リーベルの持つ魔術は確かに怖いものなのかもしれないが、今回はとても過激派な二人が並んだところを見てしまい、ネアの記憶にはこの二人を敵に回してはならないという記憶ばかりが焼き付けられてしまった。



「……………これは、捕獲……?」

「指先の検分だ。いいか、暴れるなよ」

「理由が分かれば暴れません。一体どんな生き物の想定なのだ…………」



そこからは触診になるが、仕事を終えた後に引き剥がして貰った覆いの下までも忍び込みかねない程に微細な信仰の魔術の侵食があるとすれば、それは決まった場所からしか浸透しないのだそうだ。



「そうなると、調べるべき場所は限られてくるのですね…………」

「信仰の魔術は主に思考を司るとされるが、教本からの知識を指で辿る為に、指先から肘までの腕。聖歌や詠唱、鐘の音で浸透を図る耳、祈りの言葉からその魔術を刻む喉。聖餐で異物を取り込む胃の中。聖域中に敷き詰められた聖なる魔術を踏みしめる足の裏から膝までの五つだ」

「…………結構な部分を押さえられています…………」



ネアは、それは体の殆どではないかと渋面になったが、指先で触れるだけの簡単なものだったので思っていたよりも随分と早く終わりほっとした。



「以前にその作業を見た事がありますが、片手だけでも二時間ほどかかっていた記憶があります。やはり、これだけ時間の差が出るものなのですね」

「…………二時間もかかったら、ぐーぺこで死んでしまうのでは…………」

「ネアは死なない…………」

「ぎゃ!ディノの心が、たいへん柔らかくなってしまったことを忘れていました。この通り、食べ物を捧げておけば私は死にませんからね?」

「食べ物を捧げ続ければいいのだね………」

「ほお、それでムグリスの体型を目指すんだな?」

「むぐるるる!!」



脱いでいたドレスを着て身支度を整えながら鋭く抗議していると、細く部屋の扉を開けて安全確認をしてから、エーダリアが入って来た。




「エーダリア様が戻って来てくれました。これでやっと弁明が出来ますが、私はアンダードレスを着ていましたし、検診中だったのですよ?」

「それでだったのか…………。だが、アンダードレスであっても、伴侶以外の者に見せるようなものではないだろう。先程は突然扉を開けてすまなかったな」

「…………とても紳士的で素敵だと思うべきか、あの、私の生まれた世界では夏の訪問着くらいには着ている状態でこうなってしまう事に慄けばいいのか分かりません…………」

「わーお、前から思ってたけど、ネアの暮らしていた前の世界ってかなり刺激的だよね。楽しそうだなぁ………」

「確かに、そこかしこにきりんさんとぞうさんの品物がありますし、刺激的ではあるのかもしれず…………」

「そうだった。僕は行かなくていいかな…………」



この世の不条理を知ってしまった顔で微笑んだノアに対し、持っていた魔術の欠片を収めた紙片をアルテアに見て貰っているエーダリアは、新しい魔術の知識に目を輝かせている。




「…………そうか。この部分の術式文言が余計だったのだな」

「ありゃ、エーダリアは僕の契約者なんだけど」

「さっさと練り上げて抗体にしておけ。でないと、すぐに事故る奴がいるだろうが」

「た、確かに、今はリーエンベルクにアルテアさんが滞在中ですものね………」

「何でだよ」



アルテアの指摘で、無事にエーダリアの錬成を阻害していた箇所は取り除かれたようだ。

今回のものは、呼び落とした後に記憶の引き剥がしをして新たな記憶を上書きした上で、名前を奪ってそれを固めるというかなり悪質な魔術だったようだ。



奪われたり封じたりされているのではなく、乱暴に引き毟られて壊された記憶は二度と戻らない。


ネアは、ついついアリスフィアを見舞った運命に心を寄せてしまったが、彼女が集めた迷い子達にも、本来の運命や家族があった筈なのだ。

その全てを奪われた残酷さを思えば、既に心を祟りもののそれにしていたとしても、決して許してはいけない所業なのだ。



(でも、為政者の立場から見れば、あの迷い子の門はとても便利な物でもあった筈なのだわ…………)



それを、危うい効果はいつか国の安定を乱す過ぎたるものだと壊すことを決断した事に対し、ネアは、その決断が出来る人がいたことの幸運を思った。


ダリルなどは、今回の事件の最後の幕引きを受け持ったヴェルクレア国王一派が、迷い子の門に欲を出す可能性を見越し、ほこりを通じて白百合の魔物にも協力を要請してあったそうだ。

だが、それが取り越し苦労だったと知り、少しだけあの王を見直したと呟いていた。





「……………ディノ?」

「ネア、考え事かい?………幾重にも手をかける事で、怖い思いもするだろうけれど、君に何かがあるといけないからね」



ネアが黙っていたからか、気付いたディノがそう言ってくれた。

滲むような水紺色の瞳を細め、すりりっと指の背でネアの頬を撫でてくれる。


そんな心配性の魔物が愛おしくて、ネアは唇の端を持ち上げた。



「ふふ、こうして皆さんが手厚く調べてくれる事には、とても感謝しているんですよ。…………今、考えていたのは、……………私にはもうこんなにも優しい伴侶なディノがいて、このリーエンベルクの家族がいて、弟なノアや、使い魔なアルテアさんに、今回のように駆けつけて契約の魔物さんになってくれるウィリアムさんがいて。ここで満足しない進歩ある人間ではいるつもりですが、これだけの幸運に囲まれていることに対してあらためてとても感謝させてくれるお仕事でした」

「え、僕ってこのまま弟にされちゃうの?!」

「いや、何の為の進歩だよ。余分を増やすなと言わなかったか?」



エーダリアが完成させた魔術抗体は、容易く受けた者の人生を壊してしまう恐ろしいものが封じられたのだとは思えないくらい、優しい春の色をした紙片となった。


こうして抗体術式にする事で、特殊な術式模写の魔術師達によって増やされ、ガレンにもいざという時の為の備えとして保管されることになる。


ウィームでの所持はリーエンベルクのみという報告に留めるが、念の為にもう三枚増やして、ダリルの手元とノアにも預けておき、更にはネアの厨房にも保管しておく事になるらしい。



エーダリアが手にした紙片には、柔らかなピンク色に萌黄色、春の空を思わせる澄んだ水色が揺らぐ。

もし、またいつかその術式が世界のどこかで息を吹き返しても、この手にその治療薬があるのだと思えば、体を張ってそれを得てきたことへの誇らしさよりも、深い深い安堵に心が揺れる。




「これで、安心してもぐもぐサラダをいただけますね」




季節は確実に春に向かっていた。


その優しい色彩に思い浮かべたのは、かつて戻り時の事件でネアのこと忘れてしまったディノの眼差しで、ぶるりと身震いしたネアは、そんな記憶は心の奥の方にえいっと放り投げて沈めておいた。



(………………ん?)



ふと、つい最近にも同じような事をしたような気がした。


それに、ガーウィンから帰ってから、何かとても大切な事を一つ忘れているような気がしたのだが、それが何なのかはどうしても思い出せない。



「ディノ、…………私は、ガーウィンから帰って来てから、何かを忘れているような気がするんです。これも信仰の弊害だったりしますか?」



問題のあるものだといけないので、その不安をディノには打ち明けてみたが、ディノが、そのような事は何もなかったよと微笑んでくれたので、きっと忘れてしまっても構わないものなのだろう。




しかしその後、ネアには苦手な言葉が一つ増えた。




某、縄で始まる特定の技術を持つ肩書きについてあまり深く考えたくないのは当然の事なのだが、それに加えて、なぜか局長という言葉を聞くと、心の奥底にある開けてはいけない扉がぎいっと軋むような気がする。




「まぁ、あいつはお前を気に入っていたようだが、お前は余程気に入らなかったらしいな。とは言え、存在ごと葬るなよ。教会の領域では教え子なんぞより余程力になる」

「…………それは、異端審問局の局長のことだろうか?ダリルは全員を把握しているそうだが、私でも三人程しか把握出来ていない。あれもまた、秘密の多い組織だな………」

「私は五人の審問官を存じ上げておりますが、彼らについてもよく分かっていない事が多いですからね。その局長となれば、それなりに個性もあるでしょう………ネア様?」

「こせいなどありません」

「わーお、こりゃ重症だぞ…………。ええと、彼ってことはあの趣味かな?」

「…………この子は、それがとても怖かったみたいなんだ………」

「しゅみなどしりません!」

「はは、まぁ、相手は精霊だしな。適度な距離感が保てていいんじゃないか?」

「お前らしいな…………」




(……………うん、忘れよう)




きっと世の中には、ずっと忘れたままでいた方が良い事もあるのだ。

そう考えたネアは、心の奥深くにあるその扉に、とても頑丈な鍵をつけておいた。









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