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海の見える部屋とチョコレート




あまりの静かさに、窓の外を見た。

降り続ける雪は確かに、ネアの言うようにさらさらとした質感である。

はらはらと花びらのように舞い落ちる日もあるが、今日は何故か、砂時計の砂が落ちるように細やかな雪が降る。



書いていた執務記録に、菫青のインク台で押印をする。

専用の紙にインクを吸わせ、出来上がった本日分の記録が魔術の檻の中で守られる様子を確認してから、ふうっと息を吐いた。



(これは必要な措置だ。…………いつか、ウィーム領主の役目を引き継ぐ者の為にも)



まだまだずっと先のことだと周囲は言うし、エーダリア自身もそうであって欲しいと思うが、こればかりは望むからといって続けられる仕事ではない。


だからこそ、日々の執務記録は丁寧に記し、この魔術の檻に入れて記録を守るようにしている。

大規模な魔術侵食などで、土地の人々の記憶が改竄される事は少なくない。

定められた一日から出られない者達や、自分達の国が滅びた事を忘れて過ごしている者達もいる。



とは言え、もし、その闇の中に留まるという結論を出すのであれば、それでも構わないとエーダリアは思う。


価値観はそれぞれのもので、幸福は正しさばかりと均等ではないのだ。

そんな事を教えてくれたのは、ネアだった。



(だからこそ、選択肢としての経験を情報にして残しておかなければならない。こうして過ごした日々の中で得られた知識や経験を、後世に伝えてゆくのも私の役目なのだから)




すりりと爪先を合わせ、冷えてきたようだと思えば、室温を上げるかどうか思案した。

本日の仕事を終えた後に、やりたい事が一つあるのだ。

明日の仕事に響かないように行うのであれば、ここで体を冷やして疲労などを溜めない方がいい。



立ち上がり、ふと恐ろしくなったのはあまりにも部屋が静かだからだろう。



まるで、もう誰もいないかのような静謐の中で途方に暮れると、ウィリアムが、こんな日は苦手だと話していた事を思い出す。




(…………ああ、そうか)




静謐が恐ろしいのは、孤独を知る者だからなのだろう。

失いたくないものがあって、それを奪われたくないと考えるからこそ、他者の息吹を感じ取れないこんな静けさは恐ろしいのだ。



「私も、こんな夜は苦手かもしれないな………」



呟き、小さく苦笑する。

今の自分が、どれだけ恵まれた環境なのかが分かる一言なので、このまま甘え過ぎないようにしなければと背筋を伸ばした。



こつこつとノックがされ、けれどもこちらの返答を待たずにそのまま扉が開いたのは、直後のことだ。



「エーダリア、いる?」

「ノアベルト?」

「あ、執務記録終わった?…………じゃあさ、今夜はやっぱり作っちゃう?」

「あ、ああ。お前の物も作るのだから、心配しなくていいのだからな?」


それを心配して来てしまったのだろうかと思えば、青紫色の瞳を瞠った塩の魔物は、くしゃりと柔らかな微笑みを浮かべる。


「ありゃ。その心配じゃないよ。エーダリアは僕の分だって作ってくれるもんね。…………ただ、今夜は静か過ぎるんだよね。ヒルドは割と平気だって話してたけど、僕はちょっと苦手かな。エーダリアが料理している間、僕もこの部屋にいていいかな?」

「ああ。勿論だ。………私も、お前がいてくれた方が、………その、………嬉しい」

「え、………告白?」

「ち、違う!そうではなくてだな………!!」



慌てて弁解しようとしたのだが、途端にノアベルトが笑い出したので、揶揄われているのだと気が付いた。

頬を手の甲で押さえ、肌に籠る熱を確かめると、まだこちらを見て微笑んでいるノアベルトの視線を避けるように、机周りの片付けを始めた。



「静謐の日はさ、前は好きだったんだよね。………今日は静かで寂しいよねって言うと、一緒にいてくれる女の子が多かったから」

「………そうなのだな」

「あ、そんな目で見ないで………。でもさ、…………翌朝になると、何だか余計に寂しくなってうんざりするんだ。でもほら、今夜は家族と一緒にいるだけだし、エーダリアからチョコレートを貰ってヒルドの驚く顔も見られるし、僕も貰えるから幸せだよね」

「おや、そのような予定があるとは、存じておりませんでした」

「…………ヒルド?!」

「………わーお」



気付けば、背後にヒルドが立っているではないか。

これから、そんなヒルドに秘密の贈り物をする予定だったエーダリアは、よくネアがやっている真上に飛ぶ反応をしたくなった。



目が合ったヒルドはにっこりと微笑み、秘密でしたかと首を傾げる。



「…………いや、…………や、………秘密と言えば秘密なのだが、………その、………お前に菓子を作ろうと思ったのだ」

「私に、………ですか?」

「ああ。………ネアが、ディノにこの時期になると作っている物で、家族や友人などに贈ることで、幸せを祈る風習らしい。バンルと話していた時に、南方の島国にもこの時期に似たような風習があると聞いたので、………その」

「私の祖国にも、そのような風習があると思われたのですね?」



静かな声に頷き、エーダリアは優しい目でこちらを見ている森と湖のシーに、そわそわと足を踏みかえた。

ゆっくりとこちらに来たヒルドが、ふわりと片手を頭に載せる。



「……………こんな時間に、作り始めるべき物ではないのだが」

「ですが、今迄は執務記録を書いておられたのでしょう?」

「ああ。その、………贈るべき日が決まっているそうなのだ。折角であれば、私もその日に合わせようと思って……」

「…………私の国には、苺を使った菓子を贈り合う風習がありました」

「ヒルド………」



さりりと頭を撫でられ、むず痒いような気恥ずかしさでいっぱいになる。

だがヒルドの微笑みを見れば、分かっていてやっているのだろうから、逃げ出す訳にもいかない。

ネアが魔物達に撫でられて唸って暴れるのも、このような感覚から逃れようとしてのことなのだろうか。



「二年に一度の風習で、その日が近くなると、流通する苺ばかりか、森に自生する森苺や木苺も取り尽くされてしまうと父が嘆いていた記憶があります。………少しは残しておかなければ、森の生き物達が不満を言いますからね」

「では、苺にしよう。…………ネアの知っている風習は、薔薇や贈り物をするものと、チョコレートを使った菓子を贈るものなのだそうだ。チョコレートは異国の文化なのだと話していたが、イブメリアと薔薇の祝祭の間なので、どちらとも重ならないチョコレートにしたのだそうだ」



説明をしながら少し早口になってしまい、にやにやと笑ってこちらを見ているノアベルトを、恨めしい思いで振り返った。



「確かに、この季節になると、ネア様はチョコレートを使った菓子類を作っておられましたね。今年はクリームを使ったものにするのだとか」

「………ああ。ヒルド?」


ふっと微笑む気配がして顔を上げると、また微笑みを深めたヒルドの羽が、僅かに光っていた。

きらきらと細やかに揺れる煌めきに目を奪われ、唇の端を持ち上げてしまう。


すると、こほんと咳払いが聞こえた。



「やれやれ、そのような理由であれば、仕方ありませんね」

「ヒルドも素直じゃないなぁ。ここで、僕と一緒に見学しちゃう?」

「………で、あなたはなぜここに?」

「僕は、静謐の日は、ちょっと寂しくなるみたいなんだよね。だから、ここでエーダリアがヒルドへの秘密の贈り物を作るのを見ていようと思って」

「…………ここで?」

「あ、しまった…………」

「……………ノアベルト!」



契約の魔物が慌てて口を押さえたが、少し遅かったようだ。


これもネア達の真似をして、執務室に簡易的な厨房を作り付けた事が知られてしまい、火や刃物の取り扱いがあるのにと叱られてしまう。

これでも、ガレンの長だった頃は自炊もしていたのだが、ヒルドの感覚ではそれは危ういものらしい。



「今はもう、料理人達に頼めるのですから、そちらを頼るべきでしょう。やっと、そうして周囲の力を借りられるようになったのですから」

「………ああ。だが、………その」

「エーダリアはさ、執務の切り上げが遅くなった時に、ヒルドに軽食を作れるようになりたいんだよね」

「ノアベルト?!」

「だって、言わない方が拗れるからさ。………ヒルドだってもうここの家族なのに、僕達みたいに厨房に料理や軽食を頼まないよね?エーダリアは、それが心配みたいで、自分が作れるようになれば、気軽に食べられるようになるって考えたんだよね」



ノアベルトが全てを話してしまい、呆然としていると、瑠璃色の瞳を瞠ってこちらを見ているヒルドと顔を見合わせてしまった。



「……………あなたという人は」



ややあって口元に片手を当てたヒルドが、そう呟く。

僅かに目元を染めているようで、これはどちらだろうとおろおろしていると、こちらにやって来たノアベルトにばしんと背中を叩かれた。



「うん。仲良し仲良し!僕の大事な家族って、最高だよね。因みに、試作品は僕に食べさせてくれるんだよ。ほら、第三者目線って必要だからさ」

「あなたは、その計画も私に隠していた訳ですか」

「ヒルドは僕の友達だから、こうやって喜ぶ姿を見たいよね。それに、僕にもくれるっていうから、厨房くらい作っちゃうよ。…………まぁ、揃えについては、ネアに知恵を借りたけど」

「………でしょうね。………さて、私に、チョコレートを作っていただけるのですよね?」

「ああ!」



ヒルドの気分は、こんな時はよく読める。

こうして、仕方がないというようにふわりと緩んだ瞳の温度は、幼かった頃に大好きだった表情で、今ではよく見られるようになった。


そして、肩を抱くようにして、言った方が上手くいったねとにんまりと微笑んだ契約の魔物は、たった一人で恐ろしく悲しい思いを噛み締めた長い夜に、エーダリアを救ってくれたことがある。




(…………この二人に、チョコレートを作ろう)




それは、贈り物が出来るという贅沢として。

やっと、その贅沢を知り、享受出来るようになった一人の人間の我が儘として。



ただ、エーダリアは調理が苦手だ。

やっとオムレツは完璧に作れるようになったのだが、簡単な具材を挟む物ではなく、より食べ応えのあるおかずを挟んだサンドイッチを学んでいる今、その他に手の込んだ菓子類までも習得する事は難しい。


料理は、オーブンに入れて焼くだけでも、かなり緻密な魔術調整が必要になるのだ。



「………なので、とても簡単な物なのだが、魔術調整は計算出来ているので、任せてくれ!」

「わーお。そっちから?!」

「エーダリア様、手順を想定していたようであれば、苺の要素は加えずとも良いですからね」

「いや。元々、私にも作れるような簡単なチョコレート菓子だからと、見栄えが良くなるように果実類は使う予定だったのだ」



そう説明しながら、壁に手を当てた。

ノアベルトに作って貰った併設空間の厨房は、両手を壁に押し当てる事で扉が浮かび上がる。

これは、ネアの厨房が鍵を用いたのに対し、魔術封印の解錠の儀式を鍵としたものだ。


可動域の低いネアには選べなかった方法なので、この厨房について伝える時に、解錠方法の違いについてどのように説明するのかは、しっかりと考えておかねばならない。



かちゃりと開いた扉は、使い込まれた木の扉で、ざらりとしておらず、磨き込まれて艶の出た赤みがかった木材は、敢えて火の系譜の守護を与えてあるのだとか。

扉の枠組みに夜の系譜の希少な鉱石を使い、冬や雪の系譜の魔術の豊かなリーエンベルクとの親和性を高めている。



(ただ、火の魔術を使えば冬や雪は傷付くが、夜の鉱石を縁取りにしたことで、火の意味合いが変わるのだ。そうして篝火や火鉢や暖炉を象徴する魔術に転じれば、冬の気質の強い、リーエンベルクの基盤を傷付けずに併設する事が出来る)



これは、扉を作ったノアベルトが教えてくれた事だ。

だが、いくら厨房とは言え、敢えて火の守護を持たせた隔離部屋を与えられたのは、彼なりの用心でもあるのだろう。


リーエンベルクが火に脅かされることを、この優しい塩の魔物は、今でもとても嫌がるのだから。




「この内装も、あなたが………?」

「うん。任せて貰えたから、ちょっと異国風の明るい感じにしたんだ。ほら、仕事の合間に気分転換になるからさ」

「………加えて、リーエンベルクやウィームとは傾向の違う魔術基盤の隔離地を作ることで、有事の備えともしましたか」

「ありゃ。…………でも、異国風にしたのも本当なんだよ。旅をしているみたいな気分になると、わくわくするからさ」



扉の向こうにあるのは、リーエンベルクにはあまりない、壁紙を使った内装の部屋だ。

この壁紙は魔術符と同じ扱いになっており、エーダリアは、そんな物を一巻き作ってくれたノアベルトには、あらためて驚くばかりである。


淡い水色の地色に細い線で生き生きと描かれた南の国の森の絵柄は、ウィームにはない景色を見せてくれるが、繊細な意匠なのでくどくならない。

カーテンはかけずに木戸を取り付けた窓の向こうには、ざざんと音を立てる柔らかな色の海があった。


なお、ネアの厨房と違い、作り付けられた空間は安全の為にこの部屋だけとされている。

あの海に出かけてゆく事は出来ないのだが、それでも窓から眺める景色だけで、やはり気分は変わる。



今は夜なのだが、南洋の空は星明かりで眩しい程だったので、砂漠で見た流星雨を思い出した。



クリーム色の木の椅子には、壁紙と同じ淡い水色の布が張られている。

床は掠れたような風合いで少し暗めの焦げ茶に塗られた木の床で、鮮やかな緑色の絨毯が敷かれていた。

これは、絨毯のあわいの事件を経て新たに購入した物で、エーダリアの完全な私物である。


あのあわいで手にした物程に高価ではないが、持ち帰った絨毯を博物館での研究に出している間に、つい、自分の物が欲しくなってしまったのだ。

そこで買い物に長けていそうなネアに相談したところ、山猫商会経由で良い買い物が出来た。



「時間もあまりかからないと言われているので、そこに座って待っていてくれ。窓から海を眺め座っていられるからな」

「あ、それがヒルドの椅子だからね。こっちの椅子が僕の椅子」

「まさかとは思いますが、決めているのですか?」

「うん。僕のものは少し深く座れるんだよ。ヒルドは、食卓では体が沈む椅子は嫌いでしょ。だからそっち。エーダリアはこれね。因みに今は三脚だけしか出てないけど、ネアとシルの椅子も用意はしてあるんだ」

「そちらにある、座面の高い椅子は?」

「……………えっと、狐の時の僕の椅子かな」

「やれやれ………」




そんなやり取りを聞きながら、ネアに言われた通りに箱の説明書きを読み、まずは苺のチョコレートを作ってしまう事にした。


今回は、リノアールに売られているチョコレート作りの為のセットを使うのだが、果実の味が七種類もあるので選ぶのに苦労してしまった。


散々悩んで苺とオレンジとブルーベリーを買ったものの、ネアが、最も食べ易い味になる気がすると勧めてくれた苺のセットが、まさかここで生きるとは思わなかった。



(苺のチョコレートを作れて、良かった………)




そんな喜びを噛み締め、定められた手順に従う。

試作品を作った時には、葡萄の味だったので紫色に染まったチョコレートが、特殊な乾燥方法でかさりとした質感になっている乾燥果実を崩しながら混ぜる事で、綺麗なピンク色に染まってきた。



「……………生クリームは、この分量だな」

「わーお。手順は完璧なのに、見ているだけで妙にはらはらするぞ………」

「ネイ、座ってはどうですか。部屋を歩き回ると、エーダリア様が緊張するでしょう」

「そっか。エーダリアが量り間違えたら大変だからね」

「……………言っておくが、私はこれでも魔術師なのだからな?」

「よし、頑張れ!混ぜるのを手伝うかい?」

「ヘラはもう少し下げて持ちませんと、湯煎で火傷をしかねませんよ」

「い、いや、だから私とて魔術師なのだ。このくらいは負担にならないのだが………」



それでもとあれこれ心配してくれる二人の声を聞きながら、出来上がったチョコレートを、まずは薄く型に流し込む。


続けて、先程砕き入れたものと同じ乾燥させた苺をたっぷりと、夜の雫にリーエンベルクで採取された冬苺の祝福蜜を少しだけ。

この部分は、冷やし固めるとかりかりとした食感になり、乾燥苺はさくさくとした食感になる。

チョコレートそのものも甘酸っぱい果実味のある、食べやすい物に仕上がる筈だ。



(そして、残りのチョコレートも流し入れる)



ネアは、果実の入れ方を考えれば見た目も綺麗に整うし、何よりも、余分な手間をかけて美味しさにむらのあるチョコレートが仕上がるよりも、こちらの方が危なげなく美味しいのだと教えてくれた。


確かに、試作で食べた葡萄のチョコレートも美味しかったと思えば、ヒルドやノアベルトに渡すチョコレートの味を心配する必要がないのは有難い。


また、エーダリアの場合は執務などで予定通りに時間が取れない可能性もあるので、調理の手間がかかり、時間を必要とするレシピも避けてくれたのだろう。



「…………よし。これでいい」

「わーお。思っていたより綺麗だね。苺の赤がたっぷりと、夜の雫の少しの紫色に、花蜜のところは蜂蜜色なんだ」

「これを、魔術で固めるのだ。……この階位の氷の魔術でいいだろう」

「夜の雫の周囲の花蜜に祝福が結ばれて、僅かな結晶化があるのですね。自然に結晶化した花蜜は高価なものになりますが、こうして調理の中でその状態を整えられるとは知りませんでした」

「ああ。私も幾つか術式や組み合わせを試行錯誤したのだが、この組み合わせが一番でな」

「エーダリアって、やっぱり魔術師だよね………」

「型から外して、これで完成だな。………ヒルド、もう一種類作るので、少し待っていてくれるだろうか」

「ええ。お待ちしておりますよ」

「あ、僕の色だ!」



ネアのように複数の作業を並行して行うのは危険なので、もう一枚のチョコレートは、また最初から個別に作り直した。


こちらはブルーベリーの入ったもので、花蜜の代わりに雪菓子を砕き入れる。

一通りの手順をこなしたばかりなので、最初の物よりも早く出来上がった。


その頃には、ヒルドが執務室の方に置いてあるポットから紅茶を淹れてくれていて、ノアベルトは、温かい牛乳をカップに注いでいる。


ノアベルトがこの執務室によくやって来るようになってから、部屋に置くポットには常に温めた牛乳を用意してあるのだが、空になってしまうことも多いので、塩の魔物は飲み物は多めに摂る方らしい。



「ヒルド、受け取ってくれるだろうか」

「……………あらためてそう言われると、不思議な気持ちになりますね。……………勿論ですとも。エーダリア様、有難うございます」

「ああ!……………ノアベルト、お前にはこちらにしたのだ。買ったときから、お前の色だと思っていたからな」

「わーお。僕の色のチョコレートだ!オレンジもいいけど、ブルーベリーの方が好きだな」

「では、早速いただきましょうか。………ネイ、いきなりその割り方ですか」

「あ、そうじゃなくてさ、ヒルド、この列を交換しようよ。僕も、ヒルドの故郷の味も食べておかないと。親友だからね」

「やれやれ。……………割るので少し待っていて下さい」



そんなやり取りを微笑んで見つめながら、溶かし固めただけではあるが、食べて貰う迄の僅かな不安に身を浸す。


ネアが見付けてきてくれたチョコレートの作成セットは、板型のチョコレートを作る為のもので、型にはチョコレートを綺麗に割る為の線を付ける窪みもある。

早速それが生きているのを見ると、何だか、また嬉しくなってしまった。


おまけにこのセットには、味見用の型がついているので、同時に自分が試食するためのチョコレートも作る事が出来る。

材料もその為に少し多めになっているそうで、試食が必要なければ、作ったチョコレートのデコレーションなどにも使えるらしい。



(……………よく考えられているのだな。指で摘まんで食べるようなチョコレートとは違い、試食用の物が取り分けられないという不安に対応したのだろう。箱の表面に書いてある材料を揃えたなら、子供にも作れる菓子だが、中に入れるものの組み合わせによっては、幾らでも複雑に出来る。きっと、魔術師にも好まれるだろう)



素材の組み合わせを考える工程は、魔術薬の調合や新しい術式の構築に似ている。


ただ美味しいだけでも充分とは言え、そこにはやはり、贈る相手に相応しい祝福も込めておきたい。

そう考えると、ガレンの重鎮としてカップケーキの魔術師がいるのは、当然なのかもしれなかった。



「これは、食べ易くて美味しいですね。チョコレートというものは、美味しくてもあまり多くは食べられないものだとばかり思っていましたが、果実味が強くて爽やかです」

「うん。甘酸っぱくて美味しいね。僕、これ凄く好き………」

「この果実の乾燥のさせ方は、リノアールの専売商品のものですね」

「ああ。氷の魔術を応用した乾燥方法らしい。アクスとの共同開発だったが、ネア曰く、アクスにその権利を譲ったのはアルテアなのだそうだ」

「…………アルテアって、仕事好きだよね。何で、果実の乾燥方法の権利とか持ってるんだろう………」



首を傾げたノアベルトは、ブルーベリーのチョコレートを、小さく小さく割って食べている。

食べただけなくなるので、何度にも分けるそうだ。


「ネアの祖国にあった、食品類の組織を壊さないような冷凍方法を試行錯誤してゆく上で、こちらも、魔術式が構築出来たのだそうだ。……………低い魔術使用量でより品質の良いものをという作業なので、どちらもギルドでは好評だったな」

「乾燥果実の魔術構築をされたのがアルテア様だったのは存じておりませんでしたが、新しい保冷庫魔術については、ご自身の商売の方で使われるようですね」

「ネア曰く、道具類はアルテアの持つ販路で扱い易いからであるらしい。だが、製法そのものの流通となると、大手の食品商会との結びつきの強いアクスの方が、無駄がないのだそうだ」



そんな話を聞く度、これまでに知らなかった魔物達の暮らしぶりを思う。


アルテアは、時として世界の人員調整も図る恐ろしい魔物だが、同時に、食品加工の技術を向上させてゆくことで、世界各地の食文化に新しい局面を齎した。


高位の人外者であれば可能な保存や状態保持の魔術を使える身でありながら、それが叶わない者達の水準を上げる事にも尽力している姿は、鋏と肥料のどちらをも持つ庭師のようなものなのだろう。


そして、そのような一面を持つのは、何もアルテアだけではない。



例えば終焉の魔物は、大きな戦や死者の行列の現れるような事案の少ない凪の年には、人間に紛れて暮らしている事がある。


そのようなときにウィリアムは、騎士や兵士として身を立てることが多いらしく、結果として、死者の王として様々な戦場で培った技術が、仲間達に共有されることも少なくないという。


また、終焉の顛末に立ち会う為とは言え、人間の集落に立ち入る事が多いウィリアムは、各文化における人間達の営みにも詳しいのだそうだ。

例えばそれは、とある肥料を使うと、収穫の時期に祟りものが集まってしまうというような経験で、伝えられることで、人間の暮らしを密かに助けていることが多いのだった。



(だからいつか、……………ここで暮らした私達の記録もまた、後世に引き継がれてゆくのだろう)



「エーダリアは考え事かい?」

「……………ああ、すまない。傘祭りに向けて、少し考えるところがあったのだ。傘見舞いについての執務記録を付けていると、私達が遭遇した様々な出来事が、後世の領主達に生かされるといいと思ってな」

「ありゃ。後世っていうか、まずはエーダリアの中での備忘録になりそうだけどね」

「………そうなのか?傘見舞いの出現は、さすがにそう多くはないと思うのだが………」

「またきっとあるんじゃないかなぁ。頻繁だったら嫌だけど、何百年かの間にはもう一度くらいありそうだし………」

「……………何百年かの間」



ノアベルトが事も無げに言った内容に少し慄き、ヒルドの方を見て途方に暮れた。

いつもなら、さすがにそれはと苦笑してくれるヒルドもまた、事も無げに頷いたからだ。


ネアでもあるまいし、さすがにそこまではと考えかけ、ふと気になる事を思い出してしまう。



(あのスープ屋の兄妹は、一体何歳なのだろう。ジッタは?……………ハツ爺さんは規格外なので追及はしないが、工房の陶器職人には、花の魔術師が王になった時代を知る者もいる……………)



彼等は皆、思いがけず高位の魔術に身を晒し、長寿を得てしまった人間達だ。

前例がある以上、その可能性も視野に入れなければいけないのだろうかと考え、ふと、兄のことを思い出す。



「……………そう言えば兄上は、かなりの長命が約束されているのだったな」

「まぁ、そうだろうね。僕としては、現王もかなり長生きしそうだって感じているけど」

「ヴェンツェル様は、命の火の魔術を持つドリー様の契約者となられましたからね」

「まぁ、僕としてはエーダリアが現役の間くらいとはいかなくても、彼に王都を任せておけると安心だけどね」

「……………そ、そうだな。兄上が王都を治めてくれていれば、私も安心だ」



兄よりも長い間領主職に就いているかのような発言が気になったが、もはやそこは、深追いしないことにした。


これもまたネアの教えに従えば、受け止め難い事は無理をして聞かなくてもいいのだそうだ。

家族や自分の安全を脅かすような情報ではない限り、不都合な真実の受け取りは、心がそれに耐えられる時まで、先送りしてもいいらしい。



はくりと、困惑に揺れた胸をそっと片手で押さえる。

だが、この気付きは、既にかなり心臓に負担をかけているのではないだろうか。



なお、翌日の朝食の席では、ノアベルトやヒルドが、チョコレートの話をしていた。


特にノアベルトは、これ迄に食べたチョコレートの中で一番に並ぶ味だったと言うので、ひと揃えにして箱詰めされた材料の購入に付き合ってくれたネアがいる席だということもあり、気恥ずかしくてならなかった。


今度は、自分で全ての材料を揃え、全てが手作りだと胸を張って作れるようになりたいものだなと思う。

その先がどれだけ長いのかは分からないが、ずっとと思うこの心は、まだまだ、得たばかりの家族との時間を手にしていたいようだ。





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― 新着の感想 ―
バレンタインの風習がウィームに広がって、魔術や魔物などの人外者が生まれそうですね。 その生みの親はネアかな?w
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