ミアム
ミアムは、今年で五歳になる。
ウィーム中央で暮らすには可動域が低い子供で、このまま可動域が育たなければ、どこか郊外に移住する事も考えなければいけない。
そう考えると、母親であるトアムは憂鬱だった。
大事な大事な子供なのだ。
折角、古くから家族で所有してきた立派な家がここにあるのに、折角、リーエンベルクが近く、街の騎士達の巡回も多い安全な土地に暮らしているのに、どうして大事な我が子には、この豊かな土地で暮らしてゆくだけの準備が育たないのだろう。
トアムにはもう、家族がいない。
ただでさえ天涯孤独であったところに加え、夫は四年前のクッキー祭りで亡くなってしまった。
それもまた、ウィーム中央に暮らす上での弊害とも言えたのだが、移住者である夫は、トアムがどれだけ堅焼きクッキーに気を付けるように言っても聞かなかったのだ。
たった一人で。
たった一人で、愛する我が子を守ってゆかねばならない。
であれば、自分だけこの家に残り、可動域の低い子供達用の施設に娘を預けるのはまっぴらだった。
可愛い盛りなのだ。
ぷくぷくした頬も、小さな指も、その全てが愛おしい。
ずっと傍に居て、大事に大事に抱き締めていたい我が子を、この手から離すなんて考えられない。
ミアムは、トアムの生きる喜びなのだから。
だとしても、移住するには多くの苦難が考えられる。
今は、幼いころからの知り合いであるご近所の人達が、何かとトアム達の事を気遣ってくれる。
知り合いばかりが暮らす土地であるし、手当も厚いウィーム中央だ。
酷い天気の日には、お隣のお爺さんが食料品を余分に買ってくれたりもして、魔術的な障りが出れば、顔馴染みの街の騎士が様子を見に来てくれる。
それにまだ、ミアムの可動域は、この土地で暮らせない程ではなかった。
だが、成長してゆくに従い、触れる魔術は多くなる。
いずれは全てを諦めさせるのであれば、喪失感の少ない幼い内の方がいい。
いや、それとも、ここでの暮らしを享受させてやれる間は、ここで暮らしているべきなのだろうか。
大事な大事な、可愛い娘。
この子が大きくなる頃にはもう、トアムはいないかもしれない。
可動域が低過ぎる子供もまた、長命なのだから。
では、施設に入れてしまった方が、同じだけの時間を共に生きる仲間を得られるのだろうか。
そんな考えが頭を過らないでもなかったが、トアムは慌てて首を横に振った。
まだだ。
まだ、この子の未来を狭めてはいけない。
少しでも多く、少しでも豊かに、いつか自分のいない未来をゆく愛娘が、幸せに過ごせるだけのものを母親であるトアムが用意してやらなければ。
「お母さん。……………窓の向こうで、傘を選んだのかと尋ねる人がいるの」
しかしある日、厨房で料理をしていると、娘がそんなことを言った。
(傘見舞いだ……………!!)
ぞっとしたトアムは、慌てて娘を抱き上げ、その声に応えてしまったかどうかを問い質す。
可動域が低い代わりに頭のいい子なのは、生活の中で気を付けなければいけないことが多いから。
こんな風にまだ幼い我が子を早く成長させてしまうしかなかったことへの口惜しさは、娘の薔薇色のほっぺを見ていると、いつだってトアムの胸を締め付けた。
幸い、ミアムは傘見舞いの声には応えていなかった。
綺麗な宝石のような青い瞳を不思議そうに丸くした娘に、安堵に胸を撫で下ろしながら、すぐにでもやって来るであろう街の騎士の聴取に備える。
可動域の高い騎士達が家を訪ねて来る時には、ミアムは、二階の子供部屋に居て貰う必要があるのだ。
一人で待たされて寂しくないように、銀狐のぬいぐるみと、クッキーを用意しておいてあげよう。
いや、クッキーは喉に詰まらせると怖いので、パウンドケーキがいいだろうか。
そんな事を考えていると、ご近所のお爺さんが家を訪ねてきた。
「やぁ。傘見舞いが来たそうだが、ミアムは大丈夫かな?」
「ハツ爺さん!……………この通り、怖がってはいないようなの。傘祭りに出られないのも元々だから、我が家には支障はないけれど、皆さんに申し訳ないわ」
「いやいや、そんなことを思う必要はないよ。もし、何か障りがあるのなら払ってあげようと思ったのだけど、……………大丈夫そうだね」
「ええ。いつも有難う。こんな時、お隣さんが頼もしいと安心してしまうわね」
「はは、ミアムはもう、孫のようなものだからなぁ。トアムと同じように頼ってもらうさ」
「うん。私が小さな頃、水路に落ちたのを助けてくれたのも、ハツ爺さんだったわ」
そう言えばくしゃりと笑うハツ爺さんは、トアムの両親とも仲良くしていた。
両親は、先代領主の時代に課された無茶な祝祭儀式の運用のせいで、クロウウィンに亡くなっている。
その時も、ハツ爺さんとまだ存命だったお婆さんが、トアムの面倒を熱心に見てくれたのだ。
まるで、本当の家族のように。
そう考え、トアムはくすりと笑う。
素晴らしい才能を持つ魔術師だったお婆さんは、自分でお婆さんだからねと言うよりもずっと若々しく、あの当時は、トアムの母親と変わらないような外見であった。
それなのに、まだ幼かったトアムは、お婆さんと呼んでいたのだ。
「それと、この花を貰って来たんだ。祝福を受けて咲いた花だから、ミアムにいいかもしれないよ」
「まぁ、チューリップね。花びらがたっぷりある種類のものって、可愛くて大好きよ」
「リーエンベルクの歌乞いの魔物が咲かせた、表通りの花壇のチューリップだよ。あの魔物が幸せそうに微笑んだ瞬間に咲いたものだから、良いものを齎すかもしれない」
「だから、切り花ではなくて鉢植えにしてくれたの?」
「家に置いておくと、お守りになるからね」
そう言われて渡された水色の鉢には、淡いピンク色の可愛らしいチューリップが咲いている。
薔薇のようにたっぷりと花びらを蓄え、けれども可憐な佇まいに思わず笑顔になってしまった。
そして、そんなチューリップを娘も気に入ったのだろう。
ミアムは、水やりの際に、あれこれと話しかけているようだった。
そんな姿があまりにも可愛くて、何度ハツ爺さんを呼びに行ったことか。
二人で、子供の言葉でチューリップに話しかける娘を見つめ、微笑み合う日は幸せだった。
また、ある日のことだった。
「お母さん、この子と友達になったの」
「……………ミアム?……………ミアム!!!」
そう言われて振り返ると、娘の頭の上には、もさもさとした小さな鼠のような生き物が乗っている。
その背中に妖精の羽を見付けてしまい、魔術浸食かと思い蒼白になったが、慌てて払い落としたりしたら、友達を傷付けられたと思った娘が泣いてしまうかもしれない。
途方に暮れておろおろしていると、また、誰かが扉をノックした。
ハツ爺さんだった。
「ああ、妖精が派生したのだね。これは階位の高い、いい妖精だ。この子と契約をしてくれたのかい?」
「ムギ!」
「……………ハツ爺さん、ミアムは可動域が……………」
「いやいや、もう大丈夫だよ。……………ごく稀に、高位の魔物の慶事で咲いた花は、大事に育てると大きな祝福を齎す事があるんだ。ただ、祝福を得られるのはなぜか、決まって子供だと言われている。私の育った国での言い伝えだったが、こういうことだったのだろうね」
「……………え、……………?」
「ほら、ミアムの可動域は、随分増えただろう。それでもまだ、魔術師になることは出来ないけれど、この家で暮らしてゆくには支障がないくらいだ。インク工房くらいなら、働けるかな」
「え?!」
目を丸くして震えた後、トアムは突然視界が半分になった。
にっこり笑ったハツ爺さんに、随分泣いてしまったねぇと言われて涙を拭いながら、頭の上にもさもさした鼠を乗せたままの娘を抱き上げる。
ミアムは何が起こったのか分かっていないかもしれないが、それでも楽しそうに笑っていた。
頭の上の鼠も、ミアムが笑うと嬉しそうに跳ねている。
ああ、この鼠姿の妖精は、この先きっと娘のいい相棒になるだろう。
そんな予感に幸せでいっぱいの胸を張り、トアムはハツ爺さんにも抱き着いた。
あの、一本のチューリップの鉢。
あの贈り物がなければ、ミアムはいずれ、この土地を離れなければいけなかった筈だから。
「ってことなのよ。でもね、ミアムはお母さんと一緒なら、どこでも幸せだったの。でも、ハツ爺さんや街のみんなと一緒に暮らせて、とっても幸せ。だって、お母さんがどこか知らない土地で寂しかったら嫌だもの」
「ムギ!」
そう話しかけると、チューリップの妖精であるココンは小さく鳴いて、ミアムの頬にすりすりしてくれた。
この大好きな友達は、ミアムの家で暮らし始めた頃よりだいぶ太ったようで、今や、ジッタさんのお店の小麦パンくらいの大きさだ。
今もまだ、水色の鉢で咲いているあのチューリップと同じピンク色で、ミアムの自慢の友達である。
「ずっと、ミアムにはお母さんの心の声が聞こえていたの。大好き、大好きって。だからミアムは、お母さんが大好きなのよ」
「ムギ……………」
「ココンも大好き!」
「ムギ!!」
「可動域が増えて魔術計測に行ったら、やっぱり、生まれた日に貰った祝福が大き過ぎて、何かの回路が詰まっていたみたい。お母さんは泣いちゃうし、騎士さんも泣いちゃうから、びっくりしちゃった」
「ムギ!」
大事な友達のふかふかの毛に頬を寄せ、ミアムはにっこり微笑む。
間違いかもしれないから一度も言わなかったけれど、何となく、ミアムはずっとこの家で暮らせるような気がしていた。
一度だけ、ハツ爺さんに話したことがあるのだ。
お母さんの心の声が聞こえるし、花の系譜の妖精が近くにいると、心がふわっとするのだと。
そんなミアムの言葉を聞いて暫く考えていたハツ爺さんも、なぜだか、可動域が低かった頃からずっと普通に接する事が出来ていた。
何か、理由があるのかもしれないねと頭を撫でてくれたハツ爺さんは傘見舞いの来たあの日、ミアムの為にチューリップを持って来てくれた。
どうして誕生の祝福が悪い作用になっていたのかは分からないが、もしかするとミアムの名前は、あまり知られていないものの、人外者の名前の響きを得ていたかもしれないと、調査に来ていたリーエンベルクの騎士が話していた。
お母さんは驚いていたし落ち込んでいたが、そのような事は時々あるのだそうだ。
知らずに与えられた高位の人外者の名前は、人間の体には負荷が大き過ぎる。
結果として、受け取り切れない祝福が魔術回路を塞ぎ、ミアムの可動域は広がらなかった。
「でも今は、ココンがいるから。ココンと契約をしたことで、回路の詰まりが取れたんだって。あのチューリップを咲かせた魔物は、凄い魔物なのよ!私の名前を持っているかもしれない誰かより高位だから、その花から生まれたココンは、私を悩ませていたものを吹き飛ばすことが出来たの」
「ムギ!!」
褒めて貰い、喜んで弾む友人を撫でていると、階段の下からご飯が出来たよという声が聞こえてきた。
はぁいと返事をして、ココンを抱き上げる。
(でも、……………本当はいつか、この名前を持つ人にも会ってみたいな)
ココンと出会った日の翌日から、ミアムは母親の心の声が聞こえなくなった。
それはなぜなのかは分からないし、ミアムの名前を持つ人外者が誰なのかも分からない。
ただ、ハツ爺さんの考えによると、植物の系譜の妖精だったのではないだろうかということだ。
また、身内の心を読むような、そんな魔術を持っていたのかもしれないという。
しかし、そんな願いは、ココンの前では厳禁である。
何しろこの友人は、ミアムがその話をするととても拗ねるのだ。
明日は、ミアムが参加出来るようになってから、三回目の傘祭りである。
残念ながら、その開会の壇上にウィームの歌乞いの姿を見る事は出来なくなったが、今年の傘は綺麗な水色の傘なので、散歩させるのがとても楽しみだった。
ミアムはいつだって、コートの左のポケットに銀狐のぬいぐるみを入れて、右のポケットにココンを入れて参加すると決めていた。
大好きな家族とお祭りに出かけ、ココンと一緒に屋台のお菓子を食べるのだ。
なお、可動域は順調に増えているので、将来は魔術師になろうと考えている。
ただ、その為には苦手な魔術史の勉強をもう少し頑張らなければいけないようだ。