新しい部屋と傘見舞い
傘祭りが近くなると、ネアには大仕事が待っている。
即ち、大事な家族達を守る為に行う、ビーズの腕輪作りだ。
今年のリボンは珍しいもので、淡い青色なのだが、裏側が白いという特別なものである。
真夜中の座に有名なリボン職人がいると聞き、紹介して貰って購入したリボンの一つなのだ。
なお、届いたばかりのリボンを手にうっとりとしているネアの手元を、横から羽織ものになっている魔物がそっと覗き込んでくるのは、ここがアクス商会の貴賓室だからである。
「二重属性なのだね………」
「こちら側の面が、真夜中の座の祝福なのだそうです。工房だけで実店舗はありませんが、サンプル付きのカタログがあると、とても選び易いですよね」
「買っていた他のリボンは、選ばなかったのかい?」
「あら。あのリボンは、ディノへの何でもない日の贈り物用に隠し持っているだけなので、傘祭りでは使わないのですよ?」
「ご主人様!」
(……………うん。この色を覚えておこう。今年はリボンが二色だから、出来るだけビーズの色は同系色ですっきりと纏めたいもの。よく見ると様々な色が入っているような、持ち主だけに分かるような上品さがいいだろうか…………)
ネアがリボンを取り出していたのは、何もお買い上げのリボンを取り出して悦に入っていた訳ではない。
いつもとは違うリボンなので、ビーズの色選びでうるさくならないよう、事前にもう一度色の確認を行っていたのだ。
りぃん。
どこかで呼び鈴のような音が聞こえる。
今日のアクス商会の回廊は、土砂降りの雨の音が聞こえていて、ネアは、窓から見える庭園を眺めながら、はてさてどこにある建物に通されているのだろうかと考える。
ウィーム中央に本店のあるアクス商会の扉をくぐってはいるのだが、その奥に続く通路の先の部屋がどこにあるのかまでは、アクス商会幹部だけの秘密なのだ。
窓の向こうには、芍薬に似た花が咲いている。
かといってエキゾチックな雰囲気にはならず、遠くに見える人工湖の真ん中にあるガゼボには、蔓を絡ませて重たい花をつけたアプリコットカラーの薔薇が美しい。
穏やかで柔らかな庭園の色彩は暖色系に偏り、ウィームの花々を見慣れたネアには新鮮な色彩ばかり。
(風が出ているみたいだ……………)
庭園の向こうに広がるのは草原で、この窓からも草原を渡る風が見える。
低い空と重たい灰色の雲は、ざあっと音を立ててヴェールのように揺らめく激しい雨を、そっとけぶらせるよう。
「……………ディノ、ここは実在する場所なのでしょうか」
「ランシーンの西側ではないかな。土地の魔術がいささか不安定だから、隔離地として作り付けたばかりなのだろう。……………私がいるのでと、君を招いて顧客対応に使えるのかどうか、様子を見ているような気もするけれど」
「なぬ。…………実験なのです?」
こつこつ。
そんな話をしていると、音の響きがいい美しいノックがあり、アイザックが入ってきた。
昨年のとある舞踏会以降、ネアは暫く、その微笑みを見ると僅かに緊張するようになっていたが、ここ最近は獲物を売りに来ることも多かったので、また慣れてきたような気もする。
漆黒のスーツ姿の黒髪の魔物は、優雅に慇懃に一礼すると、光の入らないような黒い黒い瞳を細める。
「ご慧眼の通り、こちらの応接室にお客様を通すのは、初めてでして。この通りに、空間固定がなされていると判明しましたので、明日より通常対応でも使わせていただこうと思っています」
「この子を君の魔術の試用にかけるのは、やめて欲しいものだね」
「初めてのお客様ということでしたので、ご不安をおかけしました。勿論、このような形でご迷惑をおかけしましたお詫びは、きちんとさせていただきます」
そう言ってアイザックが取り出したのは、滑らかに整えられた木箱であった。
繊細な細工を施した蝶番は真鍮色で、蓋の部分の留め金は黒真珠のような不思議な艶のある素材で出来ている。
蓋の部分に押された焼印はリボンを模した繊細な絵柄で、きらきら光る宝石のようなものをリボンのリースで囲む図案であった。
白い手袋に包まれた指先がその蓋をぱかりと開けると、その中には真珠のような多色性の艶を持つビーズがぎっしり収められているではないか。
思わず目を丸くしてしまったネアは、それでも余すことなく箱の中のビーズを凝視してのけ、制作時の個体差なのか、水色がかったものや、薔薇色がかったものなど、白いビーズの中にも様々な個性があることまでを認識する。
(ディノの髪色に似ている………)
とは言え、白に多色持ちのビーズではなく、白にかかる他の色の影がビーズそれぞれ、複雑に繊細に個体差があるのだろう。
そんなビーズが箱いっぱいに詰め込まれているので、集められた色彩でディノの髪色のように見えるのだ。
有体に言えばとても好みで綺麗なので、すぐさまお持ち帰りしたいところだった。
「……………おや、白織の結晶だね」
「はい。白織の工房で出る、廃棄用のリボンの素材屑を、何かに使えないかと工房内に長年保存していたところ、結晶化していたようです。このようにビーズに加工して取り扱わせて貰えるようになりましたので、こちらでも初めてのお客様として、商品をお受け取りいただけませんでしょうか?」
「だそうだ。欲しいかい?」
「ほ、欲しいです!」
冷静に対応しようとしていたのだが、もはやこのビーズで出来るあれこれを考えずにはいられず、思わず力いっぱい頷いてしまったネアを見て、ディノの表情が僅かに柔らかくなる。
しかし、視線を戻してアイザックに短く頷いたディノは、ああ、魔物の王様なのだなという酷薄さもあった。
「では、そのビーズを受け取ろう。また同じような事を考えるのであれば、事前にこちらにも連絡をするべきだね」
「ええ。今後はそのように」
もう一度深々と腰を折り、アイザックが頭を下げる。
さらりと揺れ落ちた長い髪に、照明が深い闇色の輝きを灯した。
とは言え、こうして謝罪をする姿は真摯にさえ見えるが、商人でもあるアイザックの言葉を全面的に信用するのは難しいだろう。
彼が商人である限り、取引の天秤がネア達ではない方向に傾く事はある。
信用商売とは言え、商人と顧客の関係なのだから、その度に裏切られたと思うのもおかしな話だろう。
常にそれを意識した上で、関わってゆくべき相手なのだ。
「こちらがランシーンであるのなら、休憩時間などに、ルドヴィークさんに会いに行き易くなりますね」
「……………庭園の造りや窓からの景色で擬態をかけているのですが、その目を欺く事は出来ませんでしたか」
ネアとしては社交会話に戻したつもりの一言だったが、アイザックはひやりとしたらしい。
おや、この言葉こそが有効だったのかなと首を傾げ、ネアは曖昧に微笑んでおいた。
「だからこそ、魔術に揺らぎが出てもランシーンを脅かさない、私達にしたのだね」
「仰る通りです。あの山からは離れているとは言え、魔物は狭量な生き物です。そしてそれは、私とて例外ではありません。自分の守護するものを脅かすような懸念材料は、進んで増やしたくはないですからね」
(……………おや、)
ネアがここで驚いたのが、アイザックが明確に守護という言葉を口にしたからだ。
であれば、これまでに積み重ねてきた彼等の時間の何かが、欲望の魔物にその自覚を齎すだけの覚悟を促したのだろう。
与えるものに名前を付けずとも、傍にはいられた筈だ。
それでもアイザックは、ルドヴィーク達に与えるのは守護だと決め、そのことを公言するのを躊躇わない段階に入ったらしい。
「それでもと、この土地にお部屋を設けたのは、近くでお仕事をしていたいというばかりではなく、この土地の産業などにも目を付けられているのですか?この質問は、あくまでも、ランシーンの織物が大好きな、いち愛好家としてのものなのですが…………」
「大規模な流通には向かない品物ばかりですが、そのような試みも僅かにはありますね。ただ、ネア様のご購入分くらいの確保は出来ますので、あちらの織物がご入り用な場合は、どうぞ私にお声がけ下さい」
「ふむ。では残りの大部分は、仲良しのご友人の側にお部屋を構えたということなのでしょう。エーダリア様も、ルドヴィークさんが最近狩っていたのは、どう考えても咎竜ではないだろうかと心配されていました。そんな話を聞いて私も心配していましたので、こうして、アイザックさんが、かつてお世話になった素敵なご家族のお近くにいるのであれば一安心です」
「……………失礼ですが、それはいつの事ですか?」
「昨晩届いたお手紙を読んで仰っていましたので、ずっと昔の事だというものではなさそうですが…………」
そう言えば、明らかにアイザックはそわそわし始めた。
ネアは、この様子だと、すぐに安否確認に行きたいのだろうなと考えた。
とは言え、ルドヴィークの手紙にあった蛇の神様は、すっかり骨まで加工されてしまって畑用のスコップになっていることを知っている。
どう考えても問題はなさそうなので、こちらの取引きが終わるまでは待ち給えと、その顛末を伝え、ビーズの買い付けを続ける事にした。
ざあざあと雨音が響く。
であれば今日は、ランシーンは雨なのだろうか。
ルドヴィーク達の暮らす標高の高い山の上の集落と、麓の街とでは随分と気候が違うと聞いているので、山の上では雨は降っていないかもしれない。
エーダリアへの手紙では、ふかふかとした雪を踏む羊達が可愛いと書かれていたそうで、ネアは、あのひたむきで美しい土地とそこで暮らす人々の温かさを思う。
にこにこと笑っていたお母さんに、砂小麦の魔物のブブさん。
ぴんと張られて丈夫そうなテントの天井に、敷き詰められた織物の色鮮やかさまで。
ぱたんと扉を閉じ、扉の外で待っていた背の高い男性の従業員に案内されて長い廊下を抜けると、ふっと空気が変わり、いつものお店に出る。
店内を歩きお店の外に出ると、そこはもう、見慣れたウィームの街であった。
「不思議ですね。先程までは、お店の中とは言えランシーンにいたのに、今はウィームにいるのです」
「……………そうだね。あのような事に君を利用されるのは不愉快だったけれど、あの土地に繋がる魔術の道が近くに作られたということは、こちらにも有用な備えかもしれない」
魔術の道に入ると、少し考えるようにしながら、ディノがそう教えてくれる。
ネアは、単純に、アイザックが友人の暮らすランシーンの近くにいたいのだなという認識しかしておらず、こちらに関わるような意味があるとは考えていなかった。
「まぁ、そうなのですか?」
「あちらの国は、古い魔術が多く残る土地だからね。もし、そのようなものが効果的な病や損傷に当たった場合、君達であれば、あの魔術師を頼ってランシーンを訪れる事も出来るだろう?個人ではなく、アクス商会ともなれば、交渉の余地がある組織だからね」
「……………むむ!」
「勿論、私が君を連れてゆけば、あのような道を経由する必要もないのだけれど、魔術の縛りや効果で、私達が、長距離の転移などの手札を封じられる場合もあるかもしれない」
「もしもの時には、アクス商会へ依頼をかけ、そちらのルートからの訪問が可能になるということなのですね………」
「うん。アイザックが、守護する人間の暮らす土地に、わざわざあの部屋を作ったのも、自分の移動手段を増やしておく為だろう。でなければ、他の誰かを招き入れるような通路なんて、作りたくはなかった筈だからね」
「そのようなものなのですね……………。私はただ、お仕事の合間に頻繁にルドヴィークさんに会いに行きたいのだろうとばかり、考えてしまっていました」
「それもあるのではないかな。………欲望を司る彼が、今回のように個人に執着するのは珍しい。けれども、あの人間であれば、いいのではないかな」
(おや……………)
そんな風に言うディノは珍しいので、ネアは無言で首を傾げた。
すると、少しだけ困ったように眉を寄せ、ディノは、おずおずと言うではないか。
「あの人間は、………どこか少しだけ君に似ているだろう?」
「まぁ。ルドヴィークさんはとても素敵な人でしたので、似ていると言われると嬉しいばかりなのですが、私は竜さんをスープにしたり、咎竜さんをスコップにはしないのですよ?」
「浮気……………」
「お話をしていると、ほんわりする方ですよね。エーダリア様と仲良くなれそうだなと思っていたので、今回、理由は兎も角、お二人が文通を始めたことを実は喜んでしまっています」
「ノアベルトは、心配そうだけれどね。……………そうして、自分の好むものとの相似性を思うと、アイザックも、君を損なうような真似は控えるようになるかもしれない」
「………ディノが考えてくれたのは、……………今への影響ではなく、ずっと先の事なのです?」
「うん。そうだね。………君がグラフィーツの事を話してくれたから、考えてみたんだ」
魔物が心を傾けた者に向ける執着は、綺麗な一本線になる。
ネアもよく知る事であるし、それが彼等の種族的な気質なのだろう。
だが、大事な者を喪っても生きてゆかねばならないことはある。
例えば、グラフィーツのように。
(そしてディノは、グラフィーツさんが私にそうするように、アイザックさんが、いつかルドヴィークさんがいなくなった後で、ルドヴィークさんにどこかが似ているかもしれない私を、積極的には損なわなくなるかもしれないと考えているのだろう……………)
「……………ディノが、そう考えてくれたのは、きっと今のアイザックさんが、決定的には私達を損なわない立場で、けれどもそれが、とても流動的なものだからなのですね」
「うん。彼は商人であるし、私達の内側に入るような者ではないからね。そのような意味では、エーダリアが、あの人間と文通をしているのはいいことなんだ。だからこそノアベルトも、少し我慢して受け入れたのだろう」
「あらあら、私の一番が大事な魔物であるディノでしかないように、エーダリア様の一番だって、きっとヒルドさんとノアなのに、不安になってしまうのですねぇ」
「……………虐待した」
「ぎゃ!まだお外なので、もう少し頑張って下さいね………!」
思わぬところでくしゃりとなった魔物を、傾かないように必死に立たせ、ネアは、こうして先々を見据えて思考する魔物達に、アルテアの屋敷で見た駒盤を思い出した。
ディノが有益とした手は、あのように動かす駒ではないが、それでもずっと未来のことまで考える。
(そうして、ここにいる誰かのいない未来を思うのは、怖かったりはしないのだろうか……………)
「……………ネア?」
「ディノ、手を繋ぎませんか?」
「……………凄く虐待する……………」
「まぁ。大事な伴侶をぎゅっとしたいのに、駄目なのです?」
「虐待する……………」
たいそう恥じらった魔物は、三つ編みを両手で持って何とか持たせようとしてきたのだが、ネアは、動体視力は悪くないぞとそんな魔物の手をさっと掴んでしまった。
きゃっとなった魔物が震えた瞬間、歩道のチューリップがぽこんと咲いてしまう。
「お目当てよりずっと素敵なビーズが手に入りましたから、これで傘祭りも万全ですね」
「あの、白織のビーズを使うのかい?」
「はい。アイザックさんのお詫びの品だということが、何か問題になったりしますか?」
「いや、彼は商人だから、あのビーズで問題はないよ。今回の贈与は、売買契約の上で得たのではなくとも、対価という形を取って渡された物だからね」
「良かったです!そして、残ったビーズはビーズ刺繍をして貰うのですよ」
「何か欲しいものがあるのかい?」
「どこまで出来るかわかりませんが、折角ディノの色に似たビーズが手に入ったのですよ?ビーズ版の、ムグリスディノポーチを作れてしまうではありませんか!」
「凄い懐いてくる……………」
ご主人様が自分のポーチを作ろうとしていると知り、魔物はまた恥じらってしまったようだ。
しかし、もじもじしているディノの隣を歩いていたネアは、ふっと視界が翳った事に気付き顔を上げた。
このような視界の翳り方は、初めてではない。
何か、魔術的な異変だろうか。
「ディノ……………」
「大丈夫だよ。……………あの橋を、何かが渡っているようだね。通り過ぎるまでここで待とうか」
「はい」
すぐ近くの水路には、生活用の小さな橋がかかっていた。
歩道を歩いていたのはネア達だけではなかったので、他にも気付いた人達が足を止める。
楽しげにお喋りに興じていたご婦人たちですらぴたりと足を止めるのだから、ウィームの人々の対応力の高さは言うまでもないだろう。
ネア達は魔術の道の中にいたので、こちらの動きをみたという訳ではない。
その不自然な翳りは暫く続き、ふつりと途切れて元の色相を取り戻した。
「ああ。報告を受けている。傘見舞いだろう。お前が、遭遇しないでいてくれて助かった。あの魔物は、子供達を狙って現れるものなのだ」
「……………魔物なのかな」
リーエンベルクに帰り、その時のことを話すと、エーダリアが傘見舞いという魔物の仕業だと教えてくれた。
しかし、実際にその気配に触れたディノが首を傾げてしまい、その様子を見たエーダリアが、えっと目を瞠っているので、もしかしたら魔物ではない可能性も出てきてしまうのだろうか。
「傘見舞いですか。………王都では聞きませんので、ウィームの固有のものかもしれませんが、あまりいい質のものではなさそうですね」
「ああ。今のところ、国内ではウィームでしか観測例はない。派生起源は尖り棒祭りに近く、尚且つ、私がウィームに入ってからは二度目の報告例なのだが、またどこかで、禁忌となった昔話をしてしまった者達がいたのだろう」
額に手を当ててふうっと息を吐いたエーダリアに、膝の上でムギムギと尻尾を振っていた銀狐が、目を丸くしている。
慌てて足踏みして慰めているが、膝の上でもふもふの尻尾をぶんぶんされるせいで、エーダリアがお茶を飲めなくなっているのが悩ましいところだ。
「所謂、噂話などから生まれたものの一種だな。魔物だと言われているが、それについては俺も懐疑的だ。精霊の質も感じる以上は、既存の種に属さないようなものである可能性が高い」
そう言ったのはアルテアだ。
本日はどのような訪問かなと思ったところ、ウィームを空けている間に、死の精霊に手袋を投げつけられたご主人様の確認に来たらしい。
仕事が立て込むそうで、傘選びには同席出来ないからと、事前に手入れもしておくと話していた。
なお、何の手入れなのかは未知数だ。
「……………そうなのだな。正直なところ、私もよく知らないものなのだ。アルテアが、そのような話を知っていてくれて助かる」
「あれが現れた以上は、今年の傘祭りには厄介な傘が紛れ込むぞ。因果の結びというよりは、予言や託宣の系譜の前兆に近しいものだからな。くそ、よりにもよって俺が不在の間か……………」
「まぁ。傘祭りで良くないものが出るぞと、教えてくれる生き物なのです?」
であれば、災いの天秤のように有効活用出来てしまうのではないかと考えたネアだったが、難しい顔をしたアルテアは、悪意のある生き物なのだと首を振る。
「元はと言えば、どこかの誰かが傘祭りの傘によからぬ物を紛れ込ませたという流言や、或いは実際にあった事件から派生したものだ。訪れには悪意がある。お前が出会わずにいて良かったと言われたのは、傘見舞いが災いを齎すものだからだぞ」
「なぬ。………そんな悪い奴だと知っていれば、あの場で踏み滅ぼしてしまえば良かったのでしょうか」
「……………それがな、傘見舞いは声しか存在しないものなのだ。対処法はないに等しい」
「まぁ……………」
それは、ホラー映画では最も嫌な敵にあたるものではないかと絶句したネアに、ご主人様が怯えていると考えたらしいディノが、さっと膝の上に持ち上げてしまう。
ネアは、不安を鎮める為に手に取ろうとしていた焼き菓子のお皿が遠くなってしまい、慌てて抵抗しなければならなかった。
「見たことがない以上は、断言は出来ないが、長らく生きるものではないだろうな。該当する条件を誰かが満たすと派生し、傘見舞いをする間だけ存在しているようなものだ。傘見舞いを受けた子供が死ねば、それを糧に在り様を変えるかもしれないが、試してみる訳にもいかないだろう」
「……………ということは、まだ、傘見舞いさんの出現による被害は出ていないのですね」
「ああ。お前も知っているだろうが、傘祭りはあの通りの激しさだからな。傘見舞いを受けたような子供を、何の対策もなく祭りに出す者がいなかったのだろう。そもそも、傘見舞いの訪問を受けるのは、一人で外に出ないような幼い子供ばかりで……………すまなかった」
「……………あら、なぜエーダリア様は、私に謝るのでしょう?」
説明しながら、何かに気付いたようにはっと息を呑んで青ざめたエーダリアに、膝の上の銀狐がけばけばになってこちらを見る。
ネアは、謝られる意味が分からないという、穏やかな微笑みを浮かべておいた。
「その、自立歩行もままならないような幼児相当の可動域しか、お前にはないからだろう」
「ぎゃ!ゆるすまじです!!私は、立派な淑女なのですよ!」
「うっかり訪ねられて、その認定を受けずに済んで良かったな」
「ぐるるる!!」
怒り狂った伴侶の為に、ディノは、慌てて焼き菓子のお皿を引き寄せたようだ。
狙っていた苺のマフィンを手渡され、ネアはふすんと息を吐く。
失礼な事を言った使い魔に可動域の上品さを説明したい気分だったが、手の中の苺のマフィンは念願の物なので、その尊さを優先し、今は見逃しておこう。
「……………具体的に、どのような逸話があるものなのかは、ここでは触れない方が良さそうですね」
考え込むようにそう言ったヒルドに、エーダリアが頷く。
「ああ。……………その、………ネアがいるからな」
「むぐ。中に苺がジャムのようになって入っているのが、とても美味しいです」
「ご主人様……………」
「そして、その活動にたいへん感銘を受けた子供見舞いさんと、命名が似ているのでむしゃくしゃします」
「それについては、現れ方が良く似ているからなのだそうだ。敢えて似た命名にしておくことで、子供見舞いだと思って受け入れないようにという戒めであるらしい」
ある日突然、誰かがこつこつと窓を叩く。
誰だろうと思い窓の外を覗くにしても、ウィームの子供達は用心深い。
自分を攫いに来た妖精や、食べ物を盗みに来た精霊かもしれないので、声を出して応じたり窓を開く事は滅多にないという。
けれども、窓を開かずともノックの主の声は、不思議と聞こえてくるのだそうだ。
そしてその声は、近付いてきた傘祭りに散歩に連れ出す傘はあるのか、もしお目当ての傘がなければよい傘を授けようと話しかけてくる。
ここで、多くの場合はその声に応えずにやり過ごしてしまうので、窓の下には空っぽの籠が残されるだけで済むそうだ。
一度だけ、素直な子供がまだ傘は選んでないと答えてしまったときは、その籠の中にはくたびれた子供用の傘が入っていたらしい。
幸いにもその時は、一緒にいた家族が、すぐさま籠ごとその傘を簡易封印に押し込み、封印庫に持ち込んだのだそうだ。
当時はまだ国だった頃のウィームなので、王族や貴族達、国に仕える魔術師達で話し合われたものの、授けられた傘を祭りまで残しておく危険は冒せないからと、その子供用の傘はすぐさま調伏されたという。
稀に、丁寧に浄化すれば祝福を返す品物もあるのだが、その可能性に賭けるのは危険だという結論になったらしい。
「そこでお返事をしなくても、傘祭りには、結局何かが紛れ込むのですか?」
「ああ。その場で授けられるか、傘祭りに紛れ込むかの、どちらにせよ災いを齎すものなのだ。であれば予め傘を顕現させてくれた方がいいとも言えるのだが、最初の一回はたまたま封印が成功しただけで、それに仕損じれば、まだ幼い子供を危険に晒すかもしれない。であれば、傘見舞いの訪問はやり過ごして貰い、傘祭りの中で対処するようにした方がまだ手の打ちようがある」
「ふむ。となると、ロジさんなどが大活躍してしまうのですね」
「残念ながら、災い持ちの傘が紛れ込むということを、事前に多くの者達が知ってしまうので、災いの天秤では感知が難しくなる」
「ぎゃふ……………」
「とは言え、通常の傘祭りで現れる災い以上に手に負えないような傘が現れた事もないので、例年と同じように、問題のある傘に丁寧に対処してゆくのがいいだろう」
「……………こいつに任せる傘は、くれぐれも丁寧に選べよ」
なぜか、顔を顰めたアルテアに疑うような眼差しを向けられたが、ネアは、何となくだが、そんな傘はこちらには現れないような気がした。
(その傘見舞いの訪れが、前兆であるのなら)
悪意で示される災いを運ぶ傘は、きっと、ある程度の物はどうにか出来てしまうネア達の前に現れる傘ではないのだろう。
だが、そんな予感よりも何よりも、その日一番の心臓が止まるような恐怖の瞬間は、傘見舞いの話題の最後にやってきた。
「ノアベルトはどうしたんだ?この手の話題こそ、あいつの得意分野だろうが」
「……………ほわ」
「……………アルテアが」
塩の魔物を探すアルテアの向かいには、エーダリアの膝の上でけばけばになった銀狐がいる。
ネアは賢い人間なのでそちらを見てしまう事はなかったが、ぴしりと落ちた沈黙の不穏さは、言葉に出来ない程の恐ろしさであった。
「さて、どこでどのような悪さをしているのやら」
そのように対応してくれるヒルドがいなければ、ネアは無言で微笑むくらいしか出来なかっただろう。
「……………そうなのです。ノアに、何か伝言しておきますか?」
「後で、あいつが戻ったら話があると伝えておけ。傘見舞いは、どこでもないどこかから現れるものだ。まだ時期ではないが、近付いてはきているからな。漂流物の年の出現である以上、手は打っておいた方がいい。……………俺が知る限りの、二十七件の出現報告の内、二十件は、漂流物の現れた年だった」
そんなアルテアの言葉に、はっとしたようにエーダリアが瞳を揺らす。
しかし、けばけばになったままの銀狐の瞳の色がよく見える位置に座っていたネアは、不穏な出現の符号よりも、アルテアがその色の意味に気付いてしまうかもしれないという事の方が恐ろしかったのだった。
繁忙期の為、明日2/9は短めのお話となります。