クリームの日と手袋の訪れ
見知らぬ手袋の訪れがあった。
そう言えば、多くの人々が首を傾げるだろう。
多分、ほんの少し前のネアであれば、また新たな鳥類かなと思う程度だったに違いない。
そして、華麗に背を向けただろう。
何しろネアは、本日のおやつに向けてとてもうきうきしているところなので、そんな事よりもと帰路を急いだに違いないのだ。
しかし今はもう、見知らぬ手袋の訪れを受け、わなわなと震える羽目になっている。
更に言えば、同行していた義兄な魔物が、三人組の迷惑妖精の対処をしているので、そちらが無事かどうかも確かめたいのだった。
「どうした?その手袋を拾え」
「……………ぐぬぅ」
屈辱に震える乙女にそんなことを言ったのは、一人の美麗な男性である。
オリーブ色の上等なコートは、ストール使いといい悔しいくらいのお洒落上級者ではないか。
それがまた、なんとも腹立たしい。
わざとぞんざいに巻いたストールが抜け感を出していてもどこか貴族的な服装なので、ガーウィンかヴェルリア貴族かなという装いにも思えるのだが、いまいち特定しきれない独特の気配がある。
この国の文化に不慣れにも思える僅かな言動の不確かさに、ネアは、この男性はどこからきた観光客なのかを計りかねていた。
そして、そんな男性は、市場でお喋りをしながら歩き、こちらにぶつかってきたばかりか、ネアと、歩いていた二人の女の子をどしんと突き飛ばしてしまい、転んだ子供達を助け起こしていたネアに、わざとらしく騒ぐなと一方的に絡み始めたのである。
弁明をさせて貰えば、ここにいる賢い人間は、この手の男性のたいへんな面倒臭さをいち早く察していた。
なので、この男性に文句を言うのはやめておき、泣きべそをかいている子供達に、ここは危ないので少し離れたところに行こうと声をかけていたのだ。
(それなのに、なぜ、それでも絡まれたのだろう………)
おまけに、立ち去らせて貰おうと立ち上がった瞬間、その顔はなんだと顔面に手袋を叩きつけられたのである。
それでいて、自分で投げた手袋を拾えと言うのだから、投げるのか投げないのかはっきりして欲しいと言いたいくらいだ。
それなりの年齢に見える男性なのだし、こちらはただの被害者で紳士同士の決闘ではないのだから、自分で投げたものは自分で拾うのが紳士のマナーであろう。
「…………手袋を落とされたのであれば、ご自身で拾って下さいね。私は、なぜか目元がひりひりするので、このまま失礼させていただきます」
「まさか、私にここまで礼儀を欠いた振る舞いをしておいて、その稚拙な言い訳で通ると思っているのか?」
「寧ろ、あなたのような方が、どうして今までこの土地で無事だったのだろうかとは考えています。そして、皆さんがあなたを生かしておくしかなかったのだとすれば、私が短絡的に滅ぼすのは望ましくないのだろうとも」
むしゃくしゃしていた人間は、このあたりで微笑みが剥がれ落ちた。
するとなぜか、泣いていた子供達がぴっとなってしまい、慌ててどこかへ走り去ってゆくのだが、確かにこの物知らずの観光客が暴れるのであれば、避難した方がいいだろう。
そしてネアも、怪我をしたかもしれない子供達が近くにいる間はここで暴れる訳にはいかないと健気にも我慢をしたものの、投げつけられた手袋を拾ってこの乱暴者を喜ばせる程、犠牲を美徳とする人間ではない。
寧ろ、手袋を顔面に叩きつけられたお礼に、きりん箱の中に叩き込んでやろうぞという、百倍返しの乙女なのだ。
「…………何を言っている?一枚では伝わらなかったらしいな。……………っ?!」
ここで、二つの事件が同時に起こった。
男性が二枚目の革手袋をネアの顔面に投げつけたことと、その瞬間に、誰かが首が吹き飛ぶかなという勢いで、その男性を殴り飛ばした事だ。
「……………ほわ、……ノア………ではありません」
「お前は、何でされるがままになっているんだ」
「先生です………!」
そこに立っていたのは、実は若い頃はプロボクサーだったのだと言われても成る程と思えてしまいそうな素晴らしいパンチをお見舞いした、砂糖の魔物が立っていた。
手袋に包まれた片手を汚いものでも払うかのように払ったが、それでも、たった今劇場から出てきましたという涼やかさなのが憎い。
吹き飛ばされたオリーブ色のコートの男性は市場の通路に仰向けにのびていて、あらごめんなさいと市場のキノコ屋のおかみさんにおでこを踏み付けられていた。
「顔を見せてみろ。………赤くなっているな」
「騒ぎにしたくなかったのです。今日は、とても大切な用事がありますし、あちらで、騎士さんのご家族に悪さをしようとした妖精さん達に囲まれているノアが、焦ってこちらに来ようとして、あの方達を滅ぼしてしまうといけませんから」
ネアの顎を持ち上げて、二度も手袋の直撃を受けた顔面を確認してくれているのは、ふくよかな金髪に擬態したグラフィーツだ。
藍青の瞳によく似合う色彩だが、僅かに白くけぶるようにも見える。
貴族的な、漆黒のコート姿が、人外者の擬態だなという美貌にこの上なく似合っていた。
「俺を呼んだのはノアベルトだ。先程、市場ですれ違ったことに気付いていたんだろう。まだ声が届く範囲にいたからいいが、お前はもっと早く、シルハーンなり、アルテアなりを呼ばないか」
「…………そうすると、この観光客めを滅ぼす騒ぎに時間を取られ、私の大事な午後の予定が流れてしまうかもしれません。それでは、結局私の損失なのです」
「怪我をしてまでのことか?」
「滅ぼすだけであれば、簡単でしたから。………ただ、この粗暴ぶりでまだウィーム中央で生きているのですから、滅ぼしてはならない方である可能性も思案していました。どこかの有力貴族のご家族ですとか、下手をすれば、他国の王族の方である可能性もあります」
今回、ネアが懸念したのはその部分だ。
ネア達にどすんとぶつかった段階でもう、あの男性は、周囲の人々に凍えるような目で見つめられていた。
となれば勿論、その前にも何かをしでかしているに違いない。
お付きかなと思われる二人の男性達が慌てて助け起こしているが、ぐったりしているので、すぐには立てなさそうだ。
ネアは、あらためてグラフィーツをまじまじと見つめ、思わぬ武闘派ではないかと目を瞬いた。
(確か、近接戦は苦手なのでは…………)
とてもそんな風には見えないが、対人外者となると変わってくるのかもしれない。
「あれは、死の精霊だ。そのせいで、周囲も手を出さなかったんだろう。市場の中に死の経由地を作る事になるからな。だからこそ、俺は本気で殴ったがな」
「……………まぁ。あやつめは、人間ではなかったのですか?私は、その手の擬態はなかなか鋭く見抜ける自負があったのですが、今回は少しも分かりませんでした………」
「正確には、死の精霊だが王族から謹慎処分とされ、人間に擬態させられて放り出されたばかりの男だ。俺達にも今朝に噂が届いたばかりの相手を、こうも容易く引き寄せるとはな………」
「私としても、まさかそんな方が、ご近所の市場ではしゃいでいるとは思いませんでした………」
しかし、相手が精霊だと分かればこちらのものだ。
ネアは、いそいそときりん箱を取り出そうとして、渋面になったグラフィーツにその手を押さえられた。
「言っただろう。死の精霊は、崩壊の扱いが面倒になる。安易に滅ぼさんようにしろ」
「…………きりん箱に入れておき、暫くしたら中身の激辛香辛料油だけを海に捨てます?」
「…………却下だな」
「ぐむぅ………」
「加えてこの男は、死の軽薄を司る精霊の一人だ。妙な縁を付けると、軽薄さで死に向かうような運命の轍を付けられかねない。他の系譜の連中は幾らでも調整が付けられるが、死の精霊については、その死の要素に直接触れる事になるから用心しろ」
「まぁ。では、精霊さんの方のリシャードさんは、どれだけむしゃくしゃしても倒せないのですね………」
「………趣味はどうであれ、あの精霊はまともな方だ。代替わりをさせない方がいいと思うがな」
「まともな方………?」
ここで、漸く殴られた男性が立ち上がった。
ネアの見立てでは、少なくとも鼻はなくなった筈なのだが、自己修復でどうにかしたのだろうか。
若干線が細すぎて神経質そうだが、それでも美しい面は僅かに赤くなっているだけで、ネアは、ずるいではないかと腹を立てた。
「ウィリアムさんを呼んでみます?」
「鳥籠の中でなければだな。だが、ナシアの北西部で大規模な戦闘が行われている以上は、鳥籠だと思うが」
「ええ。鳥籠に入られているようです」
「やはりか。今回の戦いは、あの土地に巣食う悪食の精霊達の殲滅戦だ。管理側ではなく、最前線で剣を振るう側だろうな」
「なぬ。それは初耳です………」
ネアは、ウィリアムがまた怪我をしていないか心配になってしまい、目の前で激昂している精霊は、重りを付けてアルビクロムの排水用の貯水庫にでも捨てておけばいいのではと考えた。
「………貴様、人外者だな。私が誰だかを知らずに手を出したのなら、……」
「フィスルの妹の息子だそうだな。満足に頭を働かせる事も出来ないくらいに魔術が足りていないのなら、災いに傾けて補填してやろう」
「………っ、………」
冷ややかなグラフィーツの声に、男性はあからさまにたじろいだ。
人間の擬態が自分の意思で解けないものであれば、ある程度の階位の人外者は厄介な相手だろう。
だが、自分が一瞬たじろいでしまったことを恥じるように息を吐くと、瞳を細めてこちらを睨み付けるではないか。
「…………それならば、私を損なうということがどのような事なのか、分かってはいるだろう」
「魔術の施しをしてやろうと言うのだ。多少壊れはしても、肉体の檻ごと壊れるには至らないだろう」
「……っ、………はは、そのような子供染みた脅しで、………え、」
ぽかんと口を開けたまま、その男性がこちらを見た。
ざらりと崩れるように体が揺らぎ、けれども傾きかけた体を支えるように踏み止まると、目を瞬く。
(……………あ、)
ネアは、目の前の人が蒼白になり、額にふつふつと浮かんだ冷や汗が前髪を濡らす様を、ここまで鮮明に見せられたのは初めてだった。
まるで、ホラー映画で恐ろしいものに出会ってしまった子供のように、前屈みになったままゆっくりと振り返る姿は、祈りのようでもあった。
背後に立っていたのは、黒いコートを着た一人の男性だ。
リボンで束ねた髪は、擬態で青灰色をしている。
「やぁ。君が、僕の妹に酷いことをしたのかい?」
「……………お前は、…………」
「もう一度、今のをやってみようか。僕はね、昔からずっとそちら側の干渉は得意なんだよ。ああ、でも大丈夫かな。君は材料が死の精霊だから、この上なく脆いんだよなぁ」
「……………何をした」
「ありゃ、もしかして、不器用なのかい?何があったのかよく分からなかったのなら、もう一回だね」
「や、やめ………!!」
そこで何が行われてしまったのかは、ネアには分からなかった。
だが、教え子のか弱い乙女が虐められないようにと、グラフィーツの腕の中にしっかりと収められていたので、砂糖の魔物が小さな声で趣味が悪いなと呟いたのは聞こえていた。
何かをされてしまったオリーブ色のコートの男性は頭を抱えたままぶるぶると震えているので、死んでしまった訳ではないのだろう。
ぞくりとするような深い深い青紫色の瞳で、にっこり微笑んで、心から愉快そうにその男性を見ていた塩の魔物は、こちらの視線に気付くと顔を上げ、いつもの表情に戻った。
(…………ノア?)
ここで、いつものノアなら駆け寄ってくる筈だ。
それなのになぜ、こんなにも余所余所しいのだろう。
もしや、まだ近くに油断のならない敵がいるのかもしれず、ネアはすぐにでも滅ぼせるように心の準備をしておいた。
「その子は大丈夫だよね?」
「顔に、二度も革手袋を叩きつけられたようだが、他には何の問題もない」
「………治癒の魔術の気配があったから、僕の角度から見えていなかっただけで、他にも酷いことをされたのかと思ったよ。……………ネア、………治癒は終わっているね。僕は、これを片付けてくるから、ちょっとだけグラフィーツと待っていてくれるかな。………ごめんね、すぐにこっちに来られなくて」
「あちらの妖精さんも厄介そうでしたので、仕方がなかったのですよ。騎士さんのご家族を守ってくれて、有難うございました」
「………うん。………さてと」
あらためて、蹲ったまま震えている男性に手をかけようとしたノアに、こちらはなかなかに忠義が厚い者達なのか、男性のお付きの二人が何とかその間に割って入ろうとした、その時の事だった。
「うちの娘を殴った、死の精霊がいるらしい。ちょうど良かった。書の獣を煮込むのに必要な、よく燃える薪を探していたんだ」
どすんと音がして、大きな鍋を通路に置いたのは、このウィーム中央では知られたスープの魔術師である。
ネアは、今日も娘のような存在として大事にしてくれるのだなとほんわりし、あのお鍋の中には書の獣とやらが入っているのだろうかと眉を寄せた。
若干、殴られたのはネアという事になっているが、そこは特に問題はないので、訂正に時間をかけなくてもいいだろう。
「ありゃ。君まで呼ばれちゃったかぁ………」
「妹が、丁度市場に買い物に来ていたからな。……ああ、人間に擬態させられているのか。精霊の仕事で錠前の魔術となると、刑務のようなものだな。暴れ難くなるから都合がいい」
そう微笑んだアレクシスは、よりにもよっての、お店に立つエプロン姿であった。
外は雪景色なのだが、下に着ているのがセーターだからか、寒くはないようだ。
そんなスープの魔術師の出現に、塩の魔物には対峙してみせようと踏み留まったお付きの二人は、スープの魔術師だと小さな声で呟いている。
成る程、この出立ちで正体が分かってしまうのだなと様子を窺っていると、先程の主人を凌ぐくらいに真っ青になった二人は、屋台からお菓子を盗む栗鼠妖精かなという素早さで逃げていってしまう。
どうやら、スープの魔術師は恐ろしかったようだ。
一人取り残された男性は、自分の背後に立っているスープの魔術師を認識する余力もないのか、蹲って震えているままだ。
そんな獲物をひょいと抱え上げると、アレクシスは、問答無用で手に持っていた小さな紙袋に押し込んでしまった。
「……………明らかに大きさが違うのに、ずるりと入ってしまいました。金庫に大型の獲物を入れると、こんな風に見えるものなのですね………」
「ネア、これは薪にして構わないな?」
「私の管轄にない方ですし、そもそも、乙女の顔に悪さをした以上は、最も軽い罰でもきりん箱ですので、アレクシスさんにお任せしますね」
「ああ。君の方で用がないのなら、こちらで使わせて貰おう。………大丈夫か?」
最初ネアは、その言葉はこちらにかけられたものだと思ったのだが、アレクシスはノアを見てそう言ったようだ。
それに気付いたノアも、目を瞬き、薄く苦笑している。
「僕はね。………ちょっとだけ、僕の妹の方が残虐な報復を考えていたみたいで、ほっとしているくらいかな」
「これは、俺が貰っていくぞ」
「うん。僕の考えていた処理法より、君のやり方の方が有効活用だね。任せるよ」
ネアは、優しく微笑んで、明日から新しいメニューが一つ増えるぞと教えてくれたアレクシスを見送り、グラフィーツとそっと顔を見合わせる。
手を持ち上げてくれたグラフィーツから解き放たれると、ネアは、ててっと駆け寄ってどこか所在なさげに立っているノアの手をぎゅっと掴んだ。
いきなり手を掴まれ、ノアが目を丸くする。
「ノア、………まさか、怪我などしていませんよね?」
「………うん。勿論、僕は大丈夫だよ。すぐに、格好良く助けに来れなくてごめんね」
「あら、ですがグラフィーツさんを呼んでくれたのでしょう?」
「うん。………僕の方が、ちょっと手間取っていたからさ。すぐに解決する筈だったのに、………僕が離れた隙に、まさか君があんな目に遭うなんて……」
「そんな悪い奴めは、グラフィーツさんが殴りつけ、ノアがくしゃっとやってくれました!私は、滅ぼしてはいけない人なのだろうかと迷うばかりで、ポケットのきりん箱を使う間も無く………」
「………ありゃ、もしかして、落ち込んでる?」
「むぐ!先生は、ピアノを弾くので手は大事なのですよ!そしてノアは、ちょっとしょんぼりしています………」
そんな、ネアが落ち込んでしまう理由を聞けば、ノアは目を瞬き、ふにゃりと笑った。
するとそこにいるのは、尻尾をけばけばにした銀狐にも似た、ネアの大事な家族になる。
くしゅんとなって恥ずかしそうに微笑んだノアにはぜひ、商品棚の向こうからそっと銀狐カードを振って応援している会の人を見て欲しい。
この市場には、銀狐の会の人だって沢山いるのだ。
「そっか。…………そうだよね、僕の妹はそう考えるよね。………うん!それなら僕も、落ち込んでいても仕方ないや。………グラフィーツ、来てくれて有難う」
「隙さえあれば、あの精霊を箱に入れようとするのを、力尽くで押さえておいたんだ。一つ貸しだな」
「………え、もしかしてしっかり腕の中に入れてたのって、ネアが怖がっていたから守っていたんじゃなくて、拘束………?」
「そういうことだ」
「解せぬ…………。邪魔者は、ぽいなのですよ……」
ネアは悲しく訴えたが、ノアは途方に暮れたような目をしているし、グラフィーツは厳しい目でこちらを見ていた。
ただ、どうやらネアが酷く怖がっていると思って落ち込んでいたらしい塩の魔物は、ほっとしたようだ。
「先生、有難うございました。お礼はまた…」
「今回俺を呼んだのは、ノアベルトだ。対価はそちら支払いでいい」
「うん。僕が支払うよ。………それと、………有難う」
ノアのお礼に、グラフィーツは目を瞬き、少しだけ動きを止めてからゆっくりと立ち去っていった。
どうやら、お礼を言われた事に驚いたらしい。
雑踏に紛れるその後ろ姿を見送り、ネア達は、おやおやと顔を見合わせた。
「ありゃ、………つい、シル達と同じ感覚で言っちゃったよ」
「ふふ、先生が、驚き過ぎてちょっぴりへなりとなっていましたね。………ノア、お買い物は終わっているので、リーエンベルクに帰りましょうか」
「うん。専用のお茶も買えたしね」
「はい!今日は、クリームの日なのですよ!!」
二人で市場を訪ねていたのは、市場の紅茶専門店に数量限定で売りに出された、クリームの日用の紅茶を求めてである。
この事件が目的の品物を買い求める前だったら絶対に許さないが、幸いにも、買い物は終えた後だった。
淡い転移を踏めば、あっという間に我が家に帰れるのが魔術の不思議である。
「ノアが後ろに立った途端、そやつは、くしゃりとなったのです!」
「おや、それは残念ですね。残しておいて下されば、こちらでも対処出来たのですが………」
「ヒルド………」
「ネアが、呼んでくれなかった………」
「ご、ごめんなさい、ディノ。街のみなさんが葬り去らないくらいの相手なら、事を大きくすると、クリームの日のおやつの時間に間に合わなくなると考えてしまいました。その結果、私は寛容な人間ですので、手袋一枚までは見逃そうと思ったのですが、二枚目は…………きりん箱に入れるしか」
暗い目をしてそう告げたご主人様を、ディノは、ぎゅうぎゅうと抱きしめているところだ。
現場は、パイと素敵な檸檬クリームの一度目のターンを終え、次なるお皿を待つ、会食堂である。
ネアが多少の口惜しさを堪えてもと早く帰ろうとした理由は、このクリームの日にある。
今日は、オレンジ風味の焼き立てのパイに紅茶のジャムを添え、それだけではなく、檸檬クリームをたっぷりと載せていただく日なのだ。
なお、こんなおやつを愛していた王様がいたことで生まれた風習なので、王様のパイとも呼ばれている。
王様ガレットと合わせ、どれだけウィームっ子が食いしん坊なのかを教えてくれる日でもあった。
(今年は、きちんと当日に出来るという事もあって、ノアと一緒に、クリームの日限定の紅茶を買いに行ったら、あんな事件に巻き込まれてしまったのだわ)
お目当ての紅茶は、檸檬クリームや紅茶のジャムという、なかなか紅茶合わせが難しい味が揃う日だからこそ開発されたお茶で、檸檬の苦味を引き立て過ぎたり、紅茶のジャムと組み合わせるので、また紅茶なのか感を出してこない特別なブレンドのものだ。
「ネアが、パイのせいで呼んでくれなかった………」
「で、ですが、グラフィーツさんが、がつんと殴りつけて吹き飛ばしてくれたのですよ?」
「グラフィーツなんて………」
「クリームの日なのに、そんな精霊がいたんだね。焼きたてのパイが美味しいのにそんな事されたら、僕も怒るよ!僕がそこにいたら、ネアに手袋を投げた精霊は、すぐに森に埋めてくる。だって、急いで帰らないといけないもんね」
「まぁ。クリームの日の最重要課題を知っているゼノは、とても頼もしいですね!」
「………パイなんて」
ディノは、パイを定刻でいただくことしか優先しなかったネアに、まだめそめそしていたが、人間の擬態をさせられていた相手だったので、ネアに倒せない筈もないということは分かっているようだ。
有事に名前を呼ばれなかったと荒ぶるのではなく、その場を収めたのが、グラフィーツやアレクシスだった事が悲しいらしい。
「ノアベルト。ロマックが、お前にあらためて感謝を伝えたいそうだ。夕刻にでも、会ってやってくれ」
「ありゃ、いいのに。ロマックの妹はさ、陽光とチーズの祝福持ちだからね。………あの手の、仕入れの為なら何でもする連中に目を付けられると、かなり厄介なんだ。国際ギルド条約の保護下にあったから面倒な相手だったけど、あらためて出会い直さない限りはもう狙われないよ」
「他国の商人達は、条約下で動かれると厄介ですね。特に商談の妖精達は、言葉による交渉ごとに長けておりますから、望まざるとも言質を取られるとまずいことになるところでした………」
「うん。今度からは、交渉禁止の対応術符を持つといいよ。食品の祝福持ちだから、用心しないとね」
ネアが手袋の訪れを受ける前に、ノアが慌てて助けに行ったのは、たまたまウィーム中央を訪れていたロマックの末の妹と祖母である。
その二人に話しかけていたのは、商談の妖精というとても厄介な生き物で、言葉巧みに交渉を持ちかけた相手を頷かせると、そのまま連れ去って死ぬ迄働かせるという。
ウィームへの立ち入りは禁止されている筈だが、今回は、ギルドの許可を得ている他国の人間の商人の内側に入り込み、市場にやって来ていたらしい。
逃げ出したり、仲間を呼んだりしないよう、ノアは、魔物である事を隠して慎重に対処して刈り取ってくれたのだ。
「少なくとも、五人は仲間を得て、活動する妖精さんなのですよね?」
「ああ。体を使われた商人は、ヴェルリアに駐在する者達だった。こちらで捕縛した妖精を早急に引き渡せたので、本日中には、あちらの商会でも大規模な捜査が行われるそうだ」
「ロマックさんのご家族が、無事で良かったです。よりにもよっての、チーズだったのですね」
そもそも、ヴェルリアも豊かな土地である。
となると、その上で、正体が露見する危険を冒してまでわざわざウィームに仕入れに来た妖精達は、ウィームでしか得られない品物を求めていたに違いない。
そしてチーズは、まさしくそんな、ウィームの誇る、ウィームでしか手に入らない品物も多い人気食材の一つであった。
固有の食品の祝福持ちの子供は、美しい子供や魔術に長けた子供達とはまた別の理由で、人外者達から狙われやすいのだそうだ。
ロマックの末の妹はまだ幼い子供で、その資質が発現したばかりだった為、対策がなされていなかったという。
「まぁ、あの中央市場で、祝福が芽吹いたみたいだね。慌てた家族が連れて帰るところで、よりにもよって出会っちゃったみたいだから」
「その手の祝福は、優れた品物に出会い、芽吹く事が少なくないからね。けれども、祝福が花開いた瞬間に、商談妖精達が近くにいるという事は滅多にない不安だろう。あの妖精達を退けるのは、とても難しいんだ。ノアベルトが近くにいて、良かったのだと思うよ」
「ふふ、ノアのお陰でしたね?」
「…………え。パイを食べながら、泣かされちゃう?」
ここでまた、焼きたてさくさくのパイが運ばれてきて、ネアは、たっぷりのほろ苦い檸檬クリームと紅茶のジャムでパイをお口に入れた。
買ってきた紅茶はパイにぴったりで、大事に飲むというよりは、ごくごく飲める美味しい紅茶だ。
ゼノーシュの食べっぷりに微笑むグラストと、エーダリアにヒルドは、食べながら王都での商談妖精の捜索について話している。
ネアは、不器用にクリームをパイに載せているディノを応援し、こちらを見てカップを傾けていたノアに微笑みかけた。
「ノア、また一緒にお買い物に行きましょうね」
「うん。今度はさ、ネアの欲しいものを買いに行こうよ。お兄ちゃんが何でも買ってあげるよ」
「………で、では、クリームの日が終わった後に値下げされる、紅茶ジャムを買いに行きたいです!」
「勿論、僕に任せて!」
「ノアベルトなんて………」
また一つ、クリームを山盛りにしたパイを口に入れた。
オレンジの風味のパイになぜ檸檬クリームになったのかは分からないが、素晴らしく美味しいのは間違いない。
ネアはにっこり微笑んで、やはりこの時間を守れて良かったと満ち足りた思いでむぐむぐしたのだった。