34. 思惑と取り分が交差します(本編)
しゃりしゃりと鉱石のキノコを踏んで歩けば、今度は羽で出来た花畑が広がっていた。
見た事もないその空間に目を丸くし、ネアは、不思議な白いもふもふとした灯りに触れようとする。
すると、その手をそっと掴んだ魔物がいた。
顔を上げれば、こちらを見たのは光を孕む水紺色の瞳で、宝石を紡いだような真珠色の髪が揺れた。
「それはいけないよ。ほら、ここに鱗があるだろう?これは信仰の竜の卵なんだ」
「と、と言う事は、産まれたら白もふ竜に…………?」
「この信仰の竜は、信仰の為に全てを捧げて産まれてくるんだ。成体は殆ど枯れ木みたいな姿だぞ」
「何という白もふの無駄遣いなのだ。解せぬ…………」
ここは、銀白と静謐の教区の中にある、異端審問官専用の通路だ。
ネア達は現在、教区に残されたアリスフィアの魔術の穢れに触れないように、特別にこちらの通路を使わせて貰っている。
羽で出来た花畑を抜けると、琥珀の書架が並ぶ幅広の壮麗な螺旋階段が現れた。
階段そのものは牙や角を磨いたような柔らかなクリーム色で、階段を踏む靴裏には薄く積もった雪を踏むのにも似た感覚がある。
(何て不思議なのかしら。…………でも、さくさくして面白いかも…………)
琥珀の書架に並ぶのは、全てが魔術書めいた装丁の美しい本ばかりだが、少し進めば頑丈な硝子扉をつけられ、その上から魔術符まで貼り込んだ物々しい書架が現れた。
これは何だろうと伸び上がって所蔵された本達を眺めれば、出して欲しいのか内側でかたかたと動いている。
「ディノ、これは何でしょう」
「飛び本だね。書の中には、知識を求められる場所に自ら赴いてしまうものも多いんだ」
「とても積極的ですが、悪い事ではないように思えてしまいます…………」
「ここに封印されているのは信仰の書物だから、信仰の知識や戒律を説くものなのだろう。それを望まない者達には、安易に望んだ知識を道標にして書物の姿で忍び寄る障りになる」
「………引くという事が出来ないのですね」
「精霊だからかな」
「ふむ。精霊さんならそんな感じですね…………」
「その括りはやめていただけませんか?精霊とは言え、その気質は様々ですよ」
ネア達が納得しかけていると、すぐさまそこに制止の声がかかった。
ネア達の前を歩いていたアンセルムが、こちらを振り返って首を振っている。
「特に問題はないんじゃないのか?」
「あなたは、いつもそうですね………」
「精霊さんとはそのようなものです。故に、荒ぶる場合は、激辛香辛料油を使って滅ぼすのも吝かではありません。悪さをしなければ、もう少し穏やかな手法で滅ぼすのですが…………」
「…………なぜ滅ぼす前提なんですか。君にそう信じ込ませた精霊が誰なのか、是非に知りたいところですね」
「因果の精霊王さんと、そのお兄さんです」
「…………ああ、それなら、そうもなりますか……………」
ネアに指名された精霊達に思うところがあったものか、アンセルムはがくりと肩を落とした。
「ご理解いただけたようです。…………ディノ?そんなに威嚇しなくても、私はもう激辛香辛料油を所持している事を思い出しましたので……」
「こんな精霊なんて…………」
「ふふ、めそめそしなくても、簡単に滅ぼせるから安心していいんですよ?」
「いや、だからなぜ滅ぼす前提なんですか…………」
「はは、殺されても仕方がない事しかしていないのを、どうやったら忘れられるんだろうな…………」
朗らかに微笑みながら、とても鋭い目をしているウィリアムは、歩くたびに揺れる白いケープが物語のようだ。
上を見上げると、どれだけの労力をかけて描かれたものか、どこまでも続く天井画には鉱石の蔓草が這っている。
見たこともない花が咲いていたり、吊るされたシャンデリアの明かりはぱちぱちと魔術の火花を散らしたりしていた。
「それにしても、異端審問官さんは凄いのですねぇ。………こんな隠し通路を持っているだなんて………」
「これだけの通路を持っておられるのは、局長だけですよ。有事に備えて各地に秘められた通路を持っているという噂はありましたが、まさか実在するとは思いませんでした………」
そう呟いたアンセルムの銀髪がさらりと揺れた。
時折書架から魔術の風が吹いたり、本から零れた雫が泉になっていたりして、この階段はなかなかに騒がしい。
細い髪質の銀髪を一本結びにしたアンセルムは、神父服の裾を揺らして階段を上がっているが、足を置くとじゅわっと光る魔術陣が浮かび、そこには魔術承認の文字がさらさらと手書きされるように浮かび上がる。
これは、異端審問官用の隠し通路に精霊が入り込んでいるが、承認済みの人物だと保証する為のものなのだそうだ。
そうでもしないと、目のいい審問官達がアンセルムを攻撃してしまう可能性がある。
(と言うか、アンセルム神父が死の精霊だと知った上で雇用しているのだから、物凄い人なのでは………………)
しかし、アンセルムですら、その正体は知らないのだそうだ。
異端審問の局長ともなれば、各所から恨みも買うのは必須であり、呪い避けに名前や素性を伏せているのだという。
会う事は可能なのだが、毎回、媒介となる他の人物を介しての対話が限度とされる。
ネア達はこれから、そんな異端審問局の局長に会いに行く道中なのだった。
「ディノは、その方をご存知だったのですね…………」
「アルテアやギードが親しいからね。ウィリアムも、顔見知りではあるのかな。…………とても変わっているよ」
「……………私の伴侶にここまで深刻な顔をさせてしまうとなると、かなりの逸材です。ぞくりとしました」
ネアがそう慄けばディノは困惑していたが、変態のお作法を持つ魔物の王様からかなり変わっていると言われる御仁なのだ。
そうなると、ここから先はもう何が起こるか分からない。
師匠以来の驚きが待ち構えている可能性もあるので、気持ちを引き締めておかなければなるまい。
ネアはしっかりとディノの三つ編みを掴み、やっと三つ編みを引っ張って貰えるようになった魔物は嬉しそうにもじもじした後、どこか誇らしげにアンセルムの方を見た。
「…………万象の君。僕はそれなりに多趣味だとは思いますが、そちらの趣味ばかりはないんですよ。寧ろ、それが必須項目なら、どれだけ他の要素が気に入っていても承服しかねます」
「この子はこういうものが気に入っているからね。であれば、君はもう私のものには手を出さないのかな」
「それがなくとも、あなたの伴侶であることは理解しています。心は動けど手を出すだけの行為には及びませんし、損益の計算上割りに合わなければ動けないくらいには、僕は、現実的なつもりです。その天秤が吊り合わせられずに破滅する者達ばかりを見るのが、終焉の系譜ですから…………」
「…………なぜ私発信で語られるのだ。解せぬ……………」
やがて、ネア達が辿り着いたのは一枚の重厚な扉であった。
チェリーアンバーとでも言うべきか、何とも重厚な色合いの琥珀扉は、到底人間の手では開けられないような見事さで、高さだけでもネアの身長の四倍はありそうだ。
ディノが扉を開けば、向こう側の部屋と室温が違うものか、凝った空気の塊が吐き出されるような、ふしゅんという音が聞こえた。
ひやりと、陽の当たらない場所らしい空気がこちらに流れ込んでくる。
「……………ほわ」
「彼が君を傷付ける事はないから、怖がらなくていいよ」
「この中で待ってくれている方よりも、この重そうな扉を指先で押し開けてしまったディノにびっくりです…………」
「びっくり…………」
「言い換えるなら、私の魔物はとても力持ちで格好いいのですね」
「ご主人様!」
ぎぎぎっと開かれた扉の向こうには、いつかどこかのあわいや影絵の中で見たような、薄暗く美しい聖堂が広がっていた。
半円形の天井画も美しい頭上からは、月光に照らされたステンドグラスが、えもいわれぬ青白い光を真下の床に落としていて、モザイクの床の上にまた複雑な模様が重なる。
がらんどうだ。
なぜかネアは、そう思った。
聖堂としての建物だけを残し、内側にあった祭壇などの全ては取り払われている。
そんな、どこか廃虚にも似たがらんどうの空間の真ん中に、寝台くらいの大きさの立派な執務机が置かれていて、そこでは、一人の男性が仕事をしていた。
細い煙がたなびくので、どうやら煙草を嗜むようだ。
ネアは、モノクルもとても素敵な文化であると頷きながら、つい先程別れたばかりの魔物の擬態と同じ姿をしている誰かをじっと見つめた。
(使われなくなった聖堂を、事務所にしてしまったみたいな感じに見える……………)
聖堂があまりにも広いので、その中央部分だけを使っていると、残された空間が勿体無いようにも思えてしまう。
だが、その光景こそが、執務用の机についた男性を、この上なく高貴にも見せていた。
「むさ苦しい所で申し訳ありません、万象の君。今夜中に決済しなければならない書類がこんなにありまして」
「忙しい時に手間をかけるね」
「いえ、今回の事では未熟な弟がご迷惑をおかけしました。……………おや、どうしたんだ、アンセルム?」
「リシャード枢機卿…………?」
呆然とそう呟いたアンセルムの驚きも当然で、真正面に座ってこちらを見ているのは、声音も姿もそのままの、リシャード枢機卿ではないか。
ただし、同じ容姿なのにどこか表情の温度が違っていて、ネアにはどうしても別人に見える。
(でも、…………ここまで、そっくりに見えるだなんて…………)
オールバックにした銀髪と、鮮やかな青緑色の瞳やその造作はそのまま、違うと言えば左目のモノクルくらいで、やはりここは驚かざるを得ない。
「リシャード枢機卿…………?」
全く同じ問いかけをアンセルムがしたばかりなのに、ついついぽそりとそう呟いてしまったネアに、その男性はくすりと微笑む。
「如何にも。ですが、あなた方が先程まで会われていた方も、正式なリシャード枢機卿ですよ。とは言え忙しい方ですので、年に数回足を運ぶだけですけれどね」
「……………む」
「元々、リシャード枢機卿という人物は、私と彼との二人で演じております。あの方こそが主なのですが、どうしてもリシャード枢機卿でいる時間は私の方が長くなる。ですので、私こそがそうだと考える者も多いのですが」
「という事は、お二人はお知り合いだったのですね」
「ええ。私は彼が代表を務める事業の中で、信仰の部門の統括をしています。ただし、この身に宿る資質における活動としては、そちらにいる終焉の魔物と共に、戦場や疫病で滅びた土地に降り立つ事もあります」
そこで言葉を切り、リシャード枢機卿と言えば、たいへん紛らわしい二号目の男性は、目を瞠って固まってしまっている、アンセルムの方を冷ややかに一瞥した。
「まさか…………」
「まさかも何も、私はずっとここにいたのだが、お前は今日まで気付かなかったようだ。だが、上司が兄だと知ったこれからも、審問官を辞める事は認められないからそのつもりでいるように」
「あなたが上司だと知って、その場に居座り酷使される程に僕は自虐的ではありませんよ…………」
「………………ウィリアム、これは交換条件だったのでは?」
「その通りだ。アンセルム、俺達が時間までをこの場所で過ごす事は、今回の事で、君がこちらの領域を踏み荒らしたことへの補償として成り立っている筈だが?」
「……………っ、」
漸く企みの全貌が見えたのか、アンセルムはがくんと崩れ落ちて蹲ってしまった。
(そう言えば、局長とは既に話を通してあるので、今回の件で領域を侵したことへの償いとして、異端審問局の管理地を時間までの避難壕に使うことと、異端審問局の管理下において、アンセルム神父がこれからも局長の指示に従う事が、アンセルムさんに課された対価だった……………)
すっかり落ち込んでしまったアンセルムは、暗い声で何やらぶつぶつ呟いているのだが、いただく補償は正当なものであるし、後はもう家族の問題なのでそちらで対処していただこう。
この取り決めを示したのはアルテアなので、どうやら選択の魔物ビジネスでは上司と部下にあたるこの二人が、これからもアンセルムを使う為に交わした約束であるらしい。
「君は、ここに自分の弟がいることを、誰にも話していなかったのかい?」
「お恥ずかしながらと言いたいところですが、異端審問局の局員達は直接の接点を持たないのが習わしでして。雇用から就職にあたり、その全てを特殊な固有魔術の密書だけで取り交わしますからね」
その話を聞けば、ネアの感覚では、到底危なっかしくて勤められない職場のように思えてしまうのだが、こちらの世界では魔術で交わされる誓約は絶対である。
契約書作りを周到に行えば、それは相手の名前や姿を知らずとも、この上ない信頼になり得るのだろう。
「私が誰なのかを部下達は知らないことで成り立つ組織であり、全てのやり取りもその密書の上でしか成されません。ただ、通常の聖職者としての暮らしの中で同僚と出会う可能性も少なくありませんので、お互いを信頼して身分を明かす事までは禁じておりません。……………ん?この書類は不備だな……………」
ここで、一枚の不備書類を見付けてしまい、リシャード枢機卿は顔を顰めた。
不備があったもの用と思われる判子をばしんと押し、しゅわりと空中に現れた銀色の鳩に持たせている。
水銀が凝ったような鳩は、渡された書類をぱくりと食べてしまうと、音もなくどこかへ持ち去ってゆく。
提出者に差戻す為のシステムのようだが、聖書の一場面のようで何とも美しい。
「死の精霊の中でも、死の訪れを司る精霊の名前は影響が強い。あえて名前は出さないが、彼はアンセルムの兄で、現在の死の精霊の王の王弟にあたる」
「そうなると、アンセルム神父も王様の弟さんという立場なのですね?」
「ああ。終焉の系譜は、大所帯になる種族が多い。それだけ終焉というものがありふれているからこそなんだが、死の精霊の王族は、必ず一つの代につき十三人派生するという決まりの上で続いている種族なんだ」
そう教えてくれたのはウィリアムで、なぜ十三人もの王族が必要なのかと言えば、それだけ終焉には色々な顔があるからなのだそうだ。
例えば、ネア達の前に座っている男性は死の訪れを司り、死の静謐を司るのがアンセルムと、司るものによってその資質を微妙に変えてゆき、満遍なく死の精霊としての役目を果たす。
そう教えられれば、ルグリューは転属してしまって大丈夫なのだろうかも心配になったが、欠ける資質については、王族の中にまたその要素を司る者が現れるので大きな支障はないらしい。
また、死の精霊の王族が大家族である事は、本来は秘密とされており、終焉の生き物達には、自身の系譜における守秘義務めいた規則が厳密に定められているのだとか。
ウィリアムが普通に教えてくれる事も多いネアは知らなかったが、終焉の系譜に外部から入ると、その系譜との繋がりを公言する事を禁じられていたり、家族構成を外に漏らしてはならなかったりと決まり事が多い。
終焉というものの詳細を明かしてはならぬという暗黙の了解は、生きている者達に終焉の多さを知らせないという配慮でもあると言う。
(…………と言うか、今回のことでアンセルム神父の心にかかった負荷は大丈夫なのだろうか…………)
終焉の秘密をまた知ってしまいつつ、ネアは、悲しく蹲ったままでいるアンセルムの姿にそう思わないでもなかったが、相手は精霊であるので、迂闊に慰めたりも出来ない。
何という面倒な生き物なのだと、ネアは遠い目をした。
「何もないところですが、椅子などはご自身で用意していただき、お好きな場所で寛がれて下さい。ここは確かに銀白と静謐の教区の中ですから、あなた方の敷いた魔術の規則にも反しない筈です」
「では、そうさせて貰うよ」
「ところで、今回の事件の調査結果をお聞きになりますか?私の上司から、…………ああ、これはアルテアからという事ですが、調べがついた事はあなた方が望めば話して構わないと言われています」
「………………アルテア?!」
兄である精霊のその言葉に、蹲っていたアンセルムががばっと顔を上げた。
ふるふるしているので何だか不憫にも思えるが、先程の捕り物のあたりで、ウィリアムがその名前を出していたような気がするネアは、何だか今更な感じもしてしまう。
(気付いていなかったんだ……………)
「成る程。一族の者達中でも最上位の擬態の腕を持つお前でも、あの擬態を読み解く事は出来ないのか」
「……………はは、あれはアルテアだったんですね。…………そうなると…………君はアルテアに食事を作らせていたのですか?!」
「あら、アルテアさんは、私に美味しいパイやタルトを与える事を喜びとする、とても優秀な…………魔物さんなのですよ?」
うっかり使い魔だと言いかけて口を噤み、ネアはそれを誤魔化す為に微笑んでみせた。
しかし、既にアンセルムはたいそう引いているので、今更使い魔である事を隠しても隠さなくても、大差なかったのかもしれない。
今度は先程よりもしっかりと蹲り直したアンセルムから、ネアはそっと視線を外した。
「少し彼と話してみたいから、ここに座っていてくれるかい?」
「む。素敵な長椅子が出現しました。ディノもお隣に座ってくれるのですか?」
「…………ずるい」
「ふふ、私の魔物特有の彷徨える使用法ですが、何だかそれも、とても私の魔物という感じで今は胸がほかほかしますね。ここで座って寛いでいるので、必要なだけお話しされていて下さいね」
ネアがそう言えば、ディノは目元を染めて恥じらってしまう。
蹲ったアンセルムがとても暗い目でこちらを見ているのは、頭の痛い問題まみれになった自分に対し、ネア達があまりにも呑気に見えるからに違いない。
ネアを真ん中にディノとウィリアムも座り、アンセルムは引き続き床の上に蹲った。
リシャード枢機卿の机の上に置かれた天球儀のようなものがぺかりと光れば、見たこともない銀色の魚の群れが現れ、ざあっと何処かへ泳いでゆく。
この人の魔術は、水銀を凝り固めたような生き物達なのかもしれないとその色について考えていたネアは、ふと、この教区の名称がアンセルムを指している事に気付いた。
銀白は、精霊としての顔を覗かせている時のアンセルムの髪の色で、静謐は、そんなアンセルムが死の精霊として司る要素だ。
今回の事で散々話題に上がり、その関与が疑われていただけに、どこかに静謐の系譜の生き物も紛れているのかなと思っていたが、隠者として教区を庇護する精霊をそのまま示した教区の名称なのではないだろうか。
「この教区の教区主は、ウィームを随分と敵視していたようだ。禍根が残ると後に災いになりかねない。その理由を知っているかい?」
「アルテアから、アリスフィアの行動源力はかつて他国に差し出されて処刑された、ヴェルリア王族の庶子だと聞き調べたところ、その青年は、ヴェルリアとウィーム間の摩擦で命を落としていた事が分かりました。…………やれやれ、この書類は受理出来ないな。差し戻しだ。…………両国間に敷かれた公路上の諍いで、ヴェルリア側がウィームを拠点としていた高位の魔物に謝罪する形で、その王子が差し出されたようです。王族の血を使わねばならない場面も確かにありますから、そんな時の為に作られていた子供なのかもしれません」
「おや、であれば国同士の問題と言うよりは、魔物への鎮めの儀式としてのものだったのだね」
「仰る通りですが、当時はまだ六歳だったアリスフィアには、そこまでの説明はされていなかったのでしょう。ですから彼女は、自分の家族になったその青年が国に切り捨てられ、ウィームに殺されたと認識していたようです。当時のヴェルリアには調停の魔物を信奉する神殿があり、彼女の一族はその守りを任されていました。そんな主神たる調停の魔物に対しても裏切られたと言う思いがあったらしく、だからこそ、異端者の門から呼び落とされたものかと」
この短い時間でそんなところまでを調べてしまったことに驚いたが、こうした造り付けの空間は時間の流れが外側と一緒だとは限らない。
(…………でも、こんな風に話を聞けば、分からないままだった事が、胸に染み込みやすくなる……………)
アリスフィアも、家族を奪われた人だったのか。
だからこそネアは、彼女の眼差しにいつかの自分を見たのだろうか。
けれども、アリスフィアが憎むのがウィームであるのならば、どれだけその憎しみの形を知っていても、ネアは彼女を認める訳にはいかない。
共感することと同時に拒絶するその身勝手さもまた、人間であるネアの一部なのだから。
「その魔物までは掴めていないのかな?」
「アイザックですよ。彼のアクスとしての商売で、ヴェルリア王家の御用達商人がぶつかったようです。王家はその商人の後ろ盾となりアクスに圧力をかけ、結果としてかなりアイザックを怒らせたようですね。これについては、アイザックにも確認を取りました。受け取った王子は、公開で処刑した後に魔術の材料にしてしまったのだとか」
「…………そう言えば、似たような話を聞いた事があったな。あの時は鳥籠の案件ではなかったが、アクスの薬を取り扱う商隊を襲撃したヴェルリア王家の指定商人がいて、アイザックは、その一族を根絶やしにした筈だ」
(つまり、それだけの事をした後で、結局、怒らせたアイザックさんを鎮める為に、生贄を差し出す羽目になったのかな…………)
それはもう迂闊の極みだと言わざるを得ないが、アリスフィアは、そんな悲劇の切れ端を聞き齧り、アイザックより力を持つ魔物の後ろ盾を得てウィームを滅ぼさんとしたのだろうか。
白持ちの魔物をあそこまで必要としたのは、アイザックに対抗する為なのかもしれない。
「アリスフィアさんの願う、国に切り捨てられない歌乞いというのは、国の犠牲になったその王子様のことがあってなのですね」
「アリステルに対しての思いもあるのでしょう。かつての自分を重ねて期待し、そうであるが故に失望も大きかったようですから」
少し立ち直れたものか、やっと自分用の椅子を作ってそこに腰掛けながら、アンセルムがそう付け加えた。
「前の歌乞いとの関係は悪くなかったのだろうか」
「ええ。血族である事を認識していたのはアリスフィアだけでしたが、名乗らずとも、最初は血族としての思慕もあったようですよ。そんなアリステルが、かつての自分には成し遂げられなかった高位の魔物を得る歌乞いとなり、ヴェルリアに住む王子の婚約者になったこと迄は、かなり喜んでいた記憶があります」
「つまり、それを全う出来なかったことへの失望という訳か」
そう言ったウィリアムに、アンセルムは短く頷く。
「おおよそは。そこに至る、理想の名を騙り自己満足で足を踏み外すまでの経緯は、アリスフィアに、かつて自分の愛した王子を切り捨てた者達の愚かさを彷彿とさせたようです。アリステルの自滅以降、彼女はあれだけ慕っていたアリステルへの思いを一切口にしなくなりました」
それは、なんと複雑な愛で憎しみなのだろう。
アリスフィアが愛した王子に託されたのは、その王子を切り捨てた国そのものなのだ。
その複雑な愛を抱えたまま、アリスフィアの心はきっと、アリステルの顛末を見てまた引き裂かれた。
歪み壊れたものが祟りものなら、アリスフィアという祟りものを生み出したのは、彼女の数奇な人生そのものなのだろう。
ボーンボーンと、何処かで柱時計が時報を鳴らす。
ここに来る前にもその音が遠く聞こえた筈なのだが、あれから一時間が経ったとは到底思えない。
真上のステンドグラスから差し込む月光の明るさは変わらず、リシャード枢機卿は、こうしている間にも相当な数の書類に目を通している。
「教会側では、アリスフィアの迷い子の認定が遅れました。………それは、そこにいるアンセルムが拾い上げた駒を管理せずに放置したからでもありますが、本人がただの記憶喪失者として身を隠していたからでもあります。その為の管理不足ですから、今後は是正してゆかなければなりませんね」
「……………異端者の門から呼び落とされたアリスフィアは、自分が誰なのかを知られるのをとても嫌がったんですよ。確かに記憶そのものも当時は損傷していましたけれど、暫くするとしっかり思い出してはいたんですけれどね…………」
ネアには、そうしなければならなかったアリスフィアの心の動きが、何だか少しだけ理解出来るような気がした。
それは、かつてのネアが、一度は考えたことのある夢物語であるからだ。
「もしかすると、その時のアリスフィアさんは、過去の自分から切り離されたかったのかもしれませんね。………ここではない何処かで、怖かったことや悲しかったことの全てを手放し、それは自分ではない誰かのものだと思えたのなら、それも救いと言えるのかもしれませんから」
「…………君も、そう考えていたのかい?」
「全てが終わってから、何度かはそう考えた事があります。……………けれどもその全てが心の中で整理されてしまいあるべき抽斗に仕舞われた後は、二度と考えなくなりました。寧ろ、自分は自分でしかなく、そんな自分を自分だけは愛おしいと思えるようになるので、アリスフィアさんにもそのような思いの変化があったのかもしれません。………む?!」
思わしげにこちらを見ていたディノは、ネアをひょいっと持ち上げると膝の上に乗せた。
またしても公衆の面前でこちらの趣味を出してしまった魔物に、椅子になられるという苦悩に晒されたネアだったが、いつもの魔物の膝の上にいる安堵感は格別なものだ。
「ウィームに歌乞いを送り込もうとしていたのは、国の歌乞いというものを、自身の管理下に取り戻す為でもありそうだな」
「そう言われてみると、あの方の期待の通りに働き、その願いを叶えて大切だった王子様の残したものを守る事こそが、アリスフィアさんにとっての歌乞いだったのかもしれませんね…………」
そんなアリスフィアは、国の求める情報を吐き出させた後、今回の事件に力を貸した魔物に与えられるのだそうだ。
有り体に言えば、砂糖の魔物に引き渡されて砂糖にされてしまうのだが、そこにもこの国の中枢に位置する者達が巧妙に仕組んだ筋書きがある。
「異端裁判の中で、彼女は待ち焦がれた契約の魔物を得ますが、その魔物が召喚の対価として望んだのは彼女の命そのものだったという筋書きにするそうです。中央教会や王家の裁定が出る前に高位の人外者に刈り取られた事にすれば、禍根が残らないですからね」
「砂糖にしてしまえば、死者の国に残る魂もない。そういう意味では、俺としても助かる」
「彼女の場合は力そのものよりも思想が厄介ですからね、死者の法に触れずにこの国に残った棘になりかねない。結局、国を守ろうという理想を掲げつつ、どこまでも私利私欲の為に土地を荒らす。あの一族はそんな人間ばかりでしたか…………」
怜悧に断罪し、リシャード枢機卿は嘆かわしいと言わんばかりに片手を振った。
見れば、それまでに処理した書類を豪奢なクリップのようなもので束ね、決済済みの箱に投げ込んでいる。
どうやら、数百枚はあろうかというその束一つで、一つの案件に纏わる書類となるらしい。
やはりかなり忙しそうだ。
「残った歌乞いはどうするつもりなのかい?」
「これもまた、国の意向に合わせて処理します。たいへん遺憾ながら、今回の案件は我々にもある程度の権限は移管されていますが、国の管理案件とされてしまいましたから。あなたが懸念されているであろう、聖人未承認案件百十三号ことシャーロットは、ウィームへの不当な領域侵犯と越権行為を行なった咎人として断罪される予定です。………御身も、今回の仕事の中ではあの少女に随分と困らされたのでは?」
「…………そこまでが彼らの思惑だったのだね。不愉快だと言わざるを得ないが、それをきっかけとしてウィームへの意図的な接触を禁ずる圧力へと置き換えるつもりなら、今回は見逃すしかないだろう…………」
ディノのその言葉を聞いて、ネアは、この魔物が、シャーロットやその契約の魔物を排除してしまおうとしていたのだと知った。
「ディノ、…………もしかして、会えなかった夜に何かありましたか?」
「………………何もなかったよ」
「む。なぜに震えているのだ。まさか、やましいことが…………」
「虐待する…………」
突然ぎくりとしたように体を震わせて怯え出したので、ネアは、鋭い目で魔物を凝視したが、ディノは悲しげにふるふると首を横に振った。
賄賂のつもりなのか、どこからか取り出されたザハの焼き菓子も手渡されたので、それを貪り食いながらもネアは追求の手を緩めはしなかった。
「さぁ、きりきり白状して下さい!場合によっては家族会議ですからね!」
「……………まだ壊してしまう訳にいかなかっただろう?…………そうすると、こちらの部屋に来たあの人間を追い返す方法がなかったんだ」
「……………黒ですね」
「……………ひどい」
「も、もう少し、話を聞こうな」
ネアが凍えるような声で審判を下すと、慌てたウィリアムが宥めにかかる。
ぎりぎりと眉を寄せ、椅子になった魔物を冷たい目で見返せば、ディノは途端に髪の毛をぱさぱさにして項垂れてしまう。
「では、続きを聞きましょうか?」
「…………擬態している状態では、祭壇の魔物すら追い払えなかったんだ。……………あの人間は、朝まで私に自分の事を話し続けていたよ……………」
「……………もしかして、押し売りを受けていただけなのですか?」
「うん…………。でも、君に会いにゆけなかった……………」
「まぁ。お喋りさんから逃げられなかっただけであれば、私も怒りませんよ?寧ろ、今回のような条件下ですし、不問にして当然です!」
「ご主人様!」
「けれど、また同じような事があって危険があるといけないので、私の兄から、そのような場合の対策講習を受けておきましょうね」
「そうだね、………でも、刺されてしまうのかな………」
「むむ、確かにいつもそれで終わっているような気もします…………。私の大切な魔物が刺されたら嫌なので、やはり、別の方に講習を頼みましょう…………」
どうやらディノは、擬態した立場上、自分よりも高位となる歌乞いのシャーロットや、その契約の魔物のお喋り攻撃から逃れられずにとても辛い夜を過ごしたようだ。
会話の内容を聞いてみれば、日々の生活の不満や、結婚したら伴侶にして欲しいこと、更にはレース編みを始めた動機やその作業の難しさと楽しさまでを喋り倒され、とても悲しかったと言う。
その後、やはり特殊な空間なのかあっという間に時間は過ぎてゆき、ネア達は今回の事件の詳細を教えてくれたリシャード枢機卿と別れて、外側にいるもう一人のリシャード枢機卿の部屋に戻るという、とてもややこしい事をした。
アンセルムについては、少し兄のところに残って、兄弟で話し合いをしてゆくそうだ。
ここでお別れとなるので、ネアはさらばだと手を振っておいた。
異端審問局の管理する隠し通路を出てしまえば、また残された教区の魔術に触れたり、擬態して留まるが故の煩わしさも残ってはいる。
ネアは、ディノからまた暫くはウィリアムに託され、今度こそ引き離されないように、しっかりと乗り物になってくれた終焉の魔物にしがみついた。
それを見てもう一人のリシャード枢機卿は冷ややかな瞳をしていたが、安全上の措置なので仕方がないではないか。
「…………遅くなったが、食事の席で中央教会と王家の決定を共有する。ガーウィン領主の裁定も、既に幾つか出ているな」
「こ、これは鴨様ですか………?」
「ったく。少し落ち着け…………」
テーブルの上に並んだご馳走に目が釘付けになってしまいがちだが、始まった晩餐の席で、アルテアなリシャード枢機卿からも今回の事件の落とし所について触れられた。
「いやはや、今晩の砂糖は美味い!」
「お前は少し黙っていろ」
「グラフィーツなんて………」
「なぜディノが荒ぶるのか、とても謎めいております………」
ネアは、途中参加の砂糖の魔物こと、トム神父がテーブルの端で白い陶器のボウルに山盛りの砂糖を食べているのが気になって仕方なかったが、今回の事件を踏まえ、銀白と静謐の教区は内部調査と不要な魔術の洗浄などが行われることになるそうだ。
第三者機関として、ガーウィン領主の関係者と国からの調査団も入り、当分は忙しなくなるようなので、アンセルムがこれからもこの教区に暮らし続けるのかは、彼がどこまでを人間達に赦すかの判断次第と言えるだろう。
なお、デュノル司教へのシャーロットの行為を重く見た国は、他領への、人外者との契約を持つ聖職者及び教会関係者の配属に条件を付けた。
配属を希望する場合は、配属先の組織長と各領地の領主の承認、加えては宰相の最終承認が必要となったので、今後、迷い子達が道具のように振り分けられる事は少なくなりそうだ。
迷い子の門は国の管理下に置かれ、その門の魔術の核とされているのが白百合の魔物に纏わるものである事から、かの魔物の不興を買う前に解体へと向かう予定である。
既に呼び落とされてしまった迷い子達については、アルテアなリシャード枢機卿が捕縛した者達はそのままリシャード枢機卿の判断で処分が決定し、残りの者達も引き続き、危うい魔術の被験者として厳しく管理される事になりそうだ。
リーエンベルクに帰ったネア達に、シャーロットの契約の魔物が、ガーウィンを去った日の翌日に崩壊したという一報が入って来た。
その現場には恐ろしく高位な魔物の気配が残っていただとか、その翌々日にはアリスフィアの思想に賛同していた聖職者達が、一斉に終焉の魔物の手で粛清されたという噂も届いたが、真偽の程は定かではない。
ただ、ネアは、シャーロットの魔物が崩壊したという一報を伝えられた時、ノアがとても満足げな顔をしていたのは、見間違いではないと考えている。
計画とはあまりにも違う結末となったものの、ネアが持ち帰ったアリスフィアの魔術の残滓は、その付与と破壊の因果を魔術で紡ぎ、抗体に作り替えてガレンとウィームに保管されることになる。
これで、またどこかであの魔術が生まれても、治療方法は確立されているから安心だ。
しかし、破壊ではなく治療という因果の結びにする予定だったものを急遽変更しなければならなかったので、エーダリアは抗体固めにとても苦労したと話してくれた。
かくして、ネア達の短くも長い、ガーウィンへの潜入調査は無事に幕を引いたのである。




