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魔術師と蛇のスープ




麓では晴れていても、山の中腹からは霧深い日も多い。

ルドヴィークは、深呼吸をしながら、そんな霧を足で捌きゆっくりと斜面を歩いた。

からんころんと、羊の長につけたベルの音が聞こえてくる。


指先が冷たくなる朝の空気に、愛用の毛織のストールをしっかりと巻いた首元は温かい。

母さんは毎朝、羊の世話に出るルドヴィークが寒くないよう、コートやストールをストーブの側で温めてくれるのだ。


こんな風に体に纏わりつくような霧の日には、どこかから神様が来ている事が多いのだが、柵を開いたところ羊達は何事もなかったように外に出ていったので、現れたのはこの辺りではないのだろう。

濡れた草を踏み、テントから少し離れた位置にある畑にも異常がないのを確かめる。



「それか、僕達には害を及ぼさないものかもしれないね。蛇の神様が出ると、どれだけ離れていても、羊達は柵から出ようとしないんだ。放牧している時に現れると、子供達は怯えてしまって岩陰に隠れてしまうから、連れ戻すのが大変なんだよ」

「ふむ。羊達の方が、悪しきものへの気配に敏感なのかもしれぬな。いやはや、それにしても朝のチーズと牛蒡のスープは美味かった。昨晩は遅くまで話し込んでいたのに、すっかり目が覚める美味しさだ」

「うん、昨日は楽しかったね。いつか、エーダリアも加えて、三人であのように過ごせるといいのに」

「手紙から察するに、ウィーム領主は、立場的にも行動の制限の多い御仁なのだろう。あの国では、敗戦国の王家の血筋にあたる難しい立ち位置だとも聞く。だが、ここに呼んでやれば喜ぶような気がするのう。同じように制限の多い私の立場からでは働きかけてやることも出来ないが、確かに、いつかここで三人で魔術の話をしたいものだ」



そう微笑んだのは、友人になったばかりの魔術師だ。

土地の調査を兼ねて三日間の予定でこちらに来ているらしいのだが、市場で意気投合したからと母さんがテントに招き、魔術の話ですっかり盛り上がってしまい、昨日はテントに泊まって貰った。


おまけに、あれこれ話している内に、共通の知人がいる事が発覚したのは、よくこの土地に遊びに来るアイザックとの出会いの話が発端だっただろうか。

互いに慎重に確認をし合った結果、ウェルバがランシーンを訪れた理由もネアやエーダリアとの知り合いであるからだと知ると、こちらもすっかり意気投合してしまった。


そうなってしまうともう、魔術談義は盛り上がるばかりである。


前だったら、一緒に暮らしていた兄さんがそろそろ寝るようにと止めてくれたのだが、今は結婚して麓の街に下りているので、眠っている家族の隣で二人でストーブを囲み、温かなお茶を飲みながら様々な話をしていたら、あっという間に真夜中過ぎになってしまった。

ウェルバは薬作りに長けていたので兄さんにも会わせてあげたかったが、この時期に呼び戻す訳にもいかない。

何しろお嫁さんは、お腹に子供がいるのだ。



(エーダリアは魔術書に詳しいみたいだから、ウェルバの薬作りと、僕の魔術とで、色々な事が出来るかもしれない)



そう考えるとますます、ネアを介して文通を始めたばかりのウィームの領主にも、このテントに泊まりに来て欲しかった。


ルドヴィークが知っているのは害獣の退け方や、畑を豊かにする方法くらいが主な物だったが、それでも彼は、珍しい魔術が沢山あるととても喜んでくれるのだ。

前回の手紙に挟まっていた新年のお祝いのカードはとても綺麗で、家族に見せたところ、すっかり母とブブさんのお気に入りになっている。

ただ、ミュウさんは、食べ物の絵のないカードは気に食わないのだそうだ。



(エーダリアは、優しい人だと思う)


ルドヴィークは、彼の誠実さや、魔術の事になるとページ数の増えてしまう手紙がとても好きだ。

魔術が大好きな彼は、世界のあちこちを見て回りたいけれど、一番大好きなのがウィームなので出来ない事が沢山あるらしい。

であれば、せめて、ルドヴィークの暮らす山くらいは、安心して訪ねられる場所だと思うのだが。



「叔父さんの友達も、この前、この山に泊まりにきたんだ。あの国の王子様である彼が大丈夫なら、エーダリアも大丈夫ではないかなと思うのだけど、国内での立場を考えると難しいのかな。羊達を見せてあげたいのに、大きな国では色々と難しい事があるのだね。それとも、彼の契約の魔物が一緒ならいいのかな」

「これ。お主にも親しくしている魔物がいるのであれば、魔物達の領域が重ならないようにしてやらなくてはならんぞ。安易にあちらの魔物を招待すると、拗れるやもしれん」

「そのような事も必要なんだね。では今度、アイザックに相談してみよう。アイザックなら、ネアとも知り合いのようだし、彼が働いているのはウィームだから、エーダリアの事も知っていると思う」



ルドヴィークがそう言うと、こちらを見た少年姿の魔術師は、鮮やかな水色の瞳を細めて、小さな子供を見るような柔らかな微笑みを浮かべた。


寒いのは苦手らしく、温かそうな琥珀色の毛皮のコートを着ていて、首元には、ルドヴィークが巻き方を教えた水色の毛織のストールを巻き付けている。

そのストールは、母さんと出会う前に麓の店で買ったものだというが、知り合いが織った物だったので、ルドヴィークは、その温かさをよく知っていた。

一番柔らかな祝福が織り込まれていたと話すウェルバに、何だか誇らしくなってしまったくらいだ。


(ハンドラさんの家の娘さんは、織物上手なんだ。まだ若い女の子だけれど、昨年からお店に出すような織物も織れるようになったって、母さんが話していたっけ。あの家のお父さんの誕生日のお祝いのお返しにと僕が貰った敷物も、温かかったなぁ)


ルドヴィークは、ランシーンが好きだ。

だからこそ、こうして遠方からの旅人で友人になったばかりの彼が、ランシーンの知り合いの手仕事を褒めてくれると誇らしい気持ちになる。

そして、そんな友人は何かを考えるように、顎先に手を当てていた。


「…………そうか。お主はそう考えるのか。であればその接し方こそが、お主の魔物には心地良いのかもしれん。案外、そのようなことも相談してみた方が、喜ぶかもしれんな。その代わり、無理を言うでないぞ」

「そうだね。アイザックが忙しくなさそうなときに、話してみるよ。昨日は朝から忙しいって話していたから、今は仕事が大変なのかな」

「お主とその魔物は、沢山話すのだな」



ウェルバによると、この時代の人間達は、あまり高位の魔物と話をしなくなったらしい。


ずっと前の時代はそうではなく、人間の国の王や貴族や魔術師、或いは集落の長や土地のまじない師などが、もっと積極的に交流を持とうとしていたのだそうだ。

しかし、人間の側が境界を越え過ぎてしまう事が多く、また、人外者側も、近しいからこそ人間の領域から多くの物を持ち去った。

この時代の関わり方は、そんな長い歴史の中で測られた適切な距離なのかもしれないのだとか。



(だからウェルバは、僕達の暮らしが懐かしくて心地よいらしい)



彼の暮らした土地とは気候も風土も違うようだけれど、暮らしの中で関わる世界の形が、ウェルバが生まれ育った国の在り方と似ているのだそうだ。

それはもしかしたら、ルドヴィークが、この新しい友人を大好きな理由と同じなのかもしれない。



「うん。アイザックとは、色々な話をするよ。彼は物知りで、色々な場所にも連れていってくれる。ただ、いきなり出掛けようと言うことも多いんだ。山には山の機嫌があるから、事前に伝えておいてくれないと」

「はは。それは違いない。だが、お主を気に入っているからこそ、突然どこかに共に行きたくなることもあるだろう。…………それにしても、………お主の育てる羊達は利口だのう。あの岩陰には小さなあわいが出来ているが、器用に避けておる」

「三日前から出来たあわいなんだ。最近は、少し増えてきたのかな。子羊が足を取られると可哀想だから、柵を作っておこうと思っているけれど、消えてしまうものもあるから様子を見ているんだ」

「漂流物の訪れが近いからかもしれんの。随分久し振りだと言うが、こうしてあわいが増えるのは変わらぬようだ。やはり、前の世界の魔術が濃く残る土地を視察させて貰って正解だったのう」



そう呟いたウェルバの細い金糸の髪の毛が、朝露にしっとりと濡れる。

少年の姿をしている彼が、もう随分昔に滅びた国の魔術師だと知った時、ルドヴィークは興奮してブブさんを持ち上げてしまった。

それは、本当は秘密なのだそうだ。

けれども今回は、双方の事情が上手く噛み合ったのでそんな話までをする事が出来た。



ルドヴィークと彼は、ネアを通してエーダリアという魔術師と知り合い、それぞれ文通をしている。

今年に控えた漂流物への対策の助言を求められ、その為に始めた文通だ。

だからこそウェルバは、より古い世界に近い土地を視察しにランシーンを訪れていたのだ。


なお、彼をこの国に連れてきたのは、ネアの使い魔らしい。

迎えは、明日の正午で約束しているそうだ。


(同じ問題に関わっているのなら、今後の為に連携が取れた方がいいだろうと言って、ウェルバがエーダリアに連絡をしてくれた。そのお陰で、ウェルバにかけられていた秘密の誓約を越えて、色々な話をして貰えるようになったのだから、やっぱり遠方から訪ねてくる人は、良いものを運んできてくれるみたいだ)



エーダリア達の暮らすウィームに知恵を貸す代わりに、ルドヴィークも、彼等の知恵を借りられる約束になっている。


困っている知り合いを助けるのは当たり前であるし、ネアには家族を助けて貰ったこともある。

対価なんていいのにと思ったけれど、他国間の知識の共有であるので、エーダリアの立場上、何かあった時の為に魔術的な契約を結ばないといけないそうで、それであるならばと提示された条件で文通を始める事になった。


だからこそウェルバは、ルドヴィークとの情報共有が出来るよう、あちらに交渉してくれたのだ。


本来なら、こちらは個人のやり取りなのでそのような必要はないのだが、ウェルバは、高位の魔物達の特赦で、定められた期間だけ、地上で生者のように暮らすことを許された死者で、尚且つ、そんな彼を受け入れてくれているヴェルクレア国との間には、幾つもの複雑な誓約があるという。


ただ、今後も仲良くしたいと言い出すのにも、あちこちの承認を得なければいけないのだ。



(彼は、漂流物の影響は、このような土地の方が出易いと話していた。ただ、ランシーンは古くから前の世界の影響を大きく受けているので、対処に困るという事はないらしい)


だとしても、その時になってみなければ、何が起こるのか分からないのだ。

温かくもてなしてくれた家族にもしものことがないようにと、ウェルバは、いざというときにはルドヴィークが彼の知恵を借りられるようにもしてくれたのだ。



もしものとき。

家族が怪我をしたとき。

その場にいる者だけでは、どうしようもないような危険に見舞われたとき。

年長者としてだけではなく、そんなもしもを気に掛けるウェルバには、きっと、そのもしもといえる過去があったのだろう。


何か悲しいことがあったのだろうかと尋ねてみると、以前に、娘を亡くしたからだろうとからりと笑う。

経験でしか語れないもしもを案じるのは年寄りの役割だからと、ウェルバは、ルドヴィークのテントの周りにあった薬草で、来訪者除けのまじないの品を作る方法を教えてくれたりもした。

丈夫な布があって染色が可能なら作れる道具なので、もう少し温かくなったら作ってみようと思っている。

エーダリアにも教えたそうで、そうなると、同じ布籠を作ることになるかもしれず、ちょっと嬉しい。



歩いていると、ゆっくりと屈んだウェルバが、黒い実をつけた植物に触れた。

きちんと屈んで手を伸ばす仕草は、植物を大事にする人のものだ。

そんなところも素敵だなと思いながら、とは言え、実の匂いを嗅いでいるウェルバに慌てて声をかける。


「これは、霧時草だよ。食べるのはやめておいた方がいいかな」

「はは、安心せい。食べはせん。………もしかするとこの実は、割ると鮮やかな赤だろうか」

「うん。知っているのかい?」

「爪にその赤い果汁を塗っておくと、春や夏に現れる土精を退けるのに使えるかもしれん。私の知る植物と同じかどうかは確証が持てないが、霧と火の系譜であるなら間違いないとは思う」

「畑仕事の時に、畑の四隅にこの実を埋めて使っているから、ウェルバの知っている植物かもしれないね。爪に塗って使えるのなら、畑仕事がもっと楽になるのかな」



ウェルバは、色々な事を知っていた。

風のこと、土のこと、薬のことに獣のこと。

その知識の多さには、驚かされるばかりだ。

昔はもっと世界が狭かったので、今はあちこちに散らばってしまった知識が、一つの土地に集まっていたのだと笑って教えてくれる。



(エーダリアも色々な事を知っている凄い魔術師だけど、僕がランシーンの魔術しか知らないみたいに、大陸の方の知識に偏っているのかなという感じもする。だから、ウェルバのように、あちこちの国や文化の知識を持つ魔術師と会うのは初めてだ)


でもウェルバは、その知識が災いして大きな罪を犯したのだそうだ。

どのような罪だったのかは終焉の魔物との誓約に触れるので話せないそうだが、結果として多くの人達を不幸にしてしまったその時のことを、とても後悔しているという。


大罪を犯したのだと、彼は言う。

大勢の人が死に、国が滅びた。

ネアと会わなければ、こんな生活が送れる筈もなかった人間なのだと。

だから彼は、同じ轍を踏まぬようにと幾つもの助言もしてくれた。


世界の理を侵すような魔術にだけは、手を出してはならないと。



「ふむ。ないのう。昨晩のテントの影が、どんな獣だったのかが知りたかったのだが、足跡や痕跡も残らないのだな。さぞかし美しい獣だったろうに」

「こつこつさんは、いつも、真夜中になると現れて、テントの支柱の上を叩くだけなんだ。僕もどんな姿だか知らないのだけど、ブブさんは友達なんだって」

「パンの魔物の言葉が分かれば、どのような獣なのかを知ることも出来るのか……………。真夜中の座の系譜の生き物が好きなのだ。いつか、姿を見てみたいものだ」



こうして話しながら歩く時間は、アイザックと過ごす時間にも似ている。

だが、彼はあまり魔術の話はしたがらないので、ウェルバとの会話は新鮮だった。

エーダリアとの手紙でのやり取りでもとてもわくわくしたのだけれど、やはり、一緒に鍋を囲んで話を出来るとぐっと仲良くなれるみたいだ。


(だから、今度はエーダリアも一緒がいいな。いつか絶対にランシーンを訪ねてみたいと話していたエーダリアは、お兄さんがランシーンに遊びに来たことは知っているのだろう。自分も行きたいなと思っていたら、少し寂しくなるかもしれない)



子供の頃、兄と一緒に街の港に行く約束をしていた事がある。

けれども兄は、叔父の仕事に同行して先に港へ行く機会を得てしまい、ルドヴィークは、それを知った日の夜は、何だか無性に寂しくて堪らなかった。

山の神様に忘れられてしまわないよう、五歳になるまでは麓に下りてはいけないとされていたので、自分もとすぐに出かける訳にはいかなかったのだ。


手紙のやり取りで何度か、エーダリアは、ランシーンの山やそこで暮らす羊達、そして羊飼いの魔術を見てみたいと話していた。

この土地の織物は、ランシーンに買い物に来たネアがエーダリアにもと贈ったようで、とても温かくて美しいと気に入ってくれている。


それならばいつかは、新しく出来た友の為に、彼の為の織物を贈ってあげたい。

ランシーンではそうするのが常だ。

優秀な織り手を持つ家庭では、そうではない友人や仲間の為に、織物を贈ることになっている。

厳しい土地での暮らしを協力し合い乗り切る為に生まれたのであろう風習だが、ルドヴィークは、この決まりで皆が温かく暮らす冬が大好きだった。



(……………美しい土地で、可愛い羊達で、僕の自慢の故郷なんだ)


それを見せたいと思うのは、どこにでも行ける魔物の友人に向ける思いとはやはり違う。

ああ、アフタンもこのような気持ちだったのだろうと思えば、友人たちが遊びに来た日の叔父が、ずっとご機嫌だったのも頷ける思いだ。


(君の土地を僕は知っていて、とても素晴らしいと思う。だから、ランシーンも見せてあげたいなぁ。君が美味しそうだと言う三つ編みパンだって、母さんに頼んで焼いて貰うのに)



『弟とは、きっと話が合うだろう』



叔父から紹介された時に真っ先にそう言ったヴェンツェルの眼差しには、大事な家族を気遣う年長者の微笑みがあって、ああ、彼は、弟にもこの土地を見せてあげたかったのだなと考えた。

その後に、こうして縁があってエーダリアと友達になれたのだから、そんな友人にだって、いつかはランシーンを見せてあげたい。


多分、昨日の夜があまりにも楽しくて、ウェルバがとても素敵な友人になったから、こんな時にエーダリアも一緒だったら良かったのにと思ってしまうのだろう。



「漂流物は、ウェルバが生まれた国があった頃は、頻繁に訪れていたのだよね」

「ああ。よく、無垢な子供達が攫われて騒ぎになったものだ。こちら側が自分達の世界ではないと認識している漂流物は良いのだが、それを理解していない者達は、意思疎通が出来ない事も多い」

「うん。時々、とても壊れてしまっているものが上がってくるよね。…………そういうものに、ネアが攫われないといいな。彼女は、とても強くて優しい魔物と一緒にいるけれど、………少しだけ、あちら側に近い気配もするし、女の子だから」

「私もそう思っておった。エーダリアに注意を促してあるので大丈夫だろうが、漂流物とは出会わせないようにしてやるべきだろう。…………前の世界層とは一概には言えぬのだが、あの子には、ここではないどこかの気配がある。迷い子であるというのは、まさにそうなのだろう」



その言葉で考える。

ネアのように、ウェルバのように、生まれた土地を離れて彷徨う者がいる。

また、エーダリアのように、血族が治めた土地に苦労して戻り、そこをずっと守ってゆくのだと安堵している者もいる。


だとすればルドヴィークは、生まれた土地からずっと動かず、ここで幸せに暮らす者なのだろう。

いつか一緒に暮らす家族がいなくなっても、同じ羊飼いの仲間達が近所で暮らしているし、ずっとこの地に暮らしている山の神様やその他の生き物達も沢山いる。


どこまででも行けるけれど、ここからどこかへ行こうとは思わない。


だからこそ、新しい友人たちと過ごす時間や会話は、この上なく素敵な贈り物で、そう簡単にはどこかへ行けない友人達に、ランシーンの美しい景色を沢山見せてあげたかった。



「……………ウェルバ?」

「そう言えば、叔父上のテントには、客人がいたのだったな」


ふと、顔を上げたウェルバが、何かを考えるような顔になる。

視線の先には、霧では見えないけれど叔父のテントがある筈だ。

実はあちらにも、昨晩、山を散策しているところを保護したというお客がいるのだが、遅い時間だったのでまだ顔を合わせていない。


「うん。叔父さんは、最近は友達を招くからって新しく自分のテントを建てたんだ。叔父さんのところのお客にも、会ってみるかい?」

「いや、私はやめておいた方が良さそうだな。……………うむ。ルドヴィーク、私は一度、テントに戻っていよう。国や人との交わりで、結果として会わない方がいい者もいるだろう。あの客人が挨拶に来ている間は、私は姿を隠していようと思う」

「そうなんだね。では、僕も一緒に戻ろうか?」

「こちらに出てきそうな気配からすると、お主の叔父上は、客人を紹介したいのだろう。であれば、少しそちらとも話すといい。お客が重なるというのは、珍しいのであろう?土地を訪れる者が益である教えを持つのだから、その教えに従い、挨拶をしておくのがいい」

「うん。では、叔父さんが紹介してくれるのなら、あちらのお客さんにも会ってみるよ。ミュウさんを連れて行くかい?」

「ミュッ?!」

「はは、それもやめておこう。大好きな主人から離されたら、砂兎が寂しかろう」

「ミュ!」


そうだと言うようにポケットの中で爪を立てられて、生地を傷付けないようにねと頭を撫でてやる。

雪が沢山降る季節になると、ミュウさんはポケットの中で眠るのが大好きで、いつだってこの中に入っているのだ。



暫く羊たちを見ていると、霧の中に人影が浮かび、叔父さんとそのテントに泊まっていた客人の姿になった。

アフタンのテントに泊まったお客は、服装からすると異国の人だろう。

こちらに気付くと叔父さんが手を振り、ルドヴィークも手を振り返す。

馬を連れている様子からすると、あのお客をどこかへ送っていくのだろうか。


傾斜のある足元を気にしながらこちらに歩いて来るのは、叔父さんと同じくらいの年齢にも、もっとずっと年上にも見える不思議な男性だ。

黒髪に緑の瞳に擬態しているけれど、あんまり似合わないので、擬態なのだろうなとすぐに分かる。


こちらまでくると、叔父さんが出掛ける前に立ち寄ったのだと教えてくれた。

弓の入った筒を持ち、剣を下げているのは山で獣が出た時の為だろう。

この時期は、時々人間を襲うものもいる。



「ルドヴィーク、麓まで客人を送ってくる。この様子だと、どこで道を外れるか分からないからな」

「はは、これは申し訳ない。だが、初めて見るものばかりの土地で、すっかり興奮してしまった!」

「うん。ここには僕がいるから大丈夫だよ。明るいお客さんだね」

「彼が、君の自慢の甥っ子か。私の息子には負けるが、いい感じの青年じゃないか。初めまして。君の叔父さんにはすっかり世話になってしまった」

「初めまして。この季節は雪が深くなるのに、その靴で登ってきてしまったんだね」

「ああ。頑丈な靴なら何でもいいのだと思っていたが、ただの雪靴では斜面が厳しいのだな。だが、少し無理をしても、息子がランシーンに旅をしたと聞いて、どうしても来てみたかったんだ」

「観光で来ているのなら、バター茶を飲んだかい?」

「ご馳走して貰ったとも。私が捕まえた高山棘牛でスープも作って貰った。普段であれば口にしない香草ばかりを使う料理だったが、その味を好まれる土地で食べるとこんなにも美味しいとはなぁ」


そう言って楽しそうに笑った男性を見て、ちょっと複雑そうだけれど悪い人ではないのかなと考えた。

ではなぜ、ウェルバは彼を警戒しているのだろう。

もしかすると、契約や身に持つ魔術に触れる相手なのかもしれない。


そんな事を考えていた時のことだった。



「……………彼は、私の領域の人間ですので、手出しをされませんよう」


不意に、そんな声が背後から聞こえた。

叔父の客人が目を丸くして後退りしているが、ルドヴィークは笑顔で振り返る。

すると、そこに立っていたのは長い黒髪の魔物だ。

靴の話をしていたばかりで、こちらは革靴であるが、魔物なので問題はないらしい。



「アイザック!ちょうど、紹介したい友達が来ているんだ、会っていくかい?」

「……………ええ。そちらは聞き及んでいますよ。ですが、この客は想定外ですね。まさか、お忍びで旅行ですか?」

「はは、……………ま、まぁ、嗜好品の買い付けも兼ねてだな。私だけ、ランシーンの織物を持っていないし、この土地の食べ物を知らないのは狡いだろう。あの子が好きなものは、父親として、是非に私も体験しておかねばらない」


なぜか、震えながら胸を張ってそう言ったお客の男性に、アイザックは顔を顰めている。

問題のあるお客なのだろうかと首を傾げると、彼は、一つの国の王ですよと教えてくれた。


(……………王様)


そう聞いて驚いてしまった。

困ったように笑ったお客に、叔父さんも、なんとも言えない顔になる。



「あんた、王様なのか?!……………ん?まさかな……………」

「すまない!ヴェンツェルの父だ!!」

「やっぱり親父さんか?!」

「息子が、ランシーンに興味深々だったのに、行ったことのない国だったのでつい…………。すまないが、息子には内緒にしてくれないか?いや寧ろ、嫌われると困るので絶対に秘密で頼む!!」

「……………ヴェンツェルの、……………?……………は?……………いや、おかしいだろう。あの大国の王がなんで、こんな場所に一人で来ているんだ?!」

「だって、羨ましいだろう!!あんなに可愛いがっているのに、息子は、私に旅のお土産の一つもくれないんだ。ここはもう、自分でランシーン旅行をして織物や工芸品を買って帰れば、あの子から貰ったお土産に思えるじゃないか」

「いや、それは自分で買った土産でしかないからな……………」

「それに、君と仲良しになれば、さりげなく父親とも仲良くしてやれと言って貰えるしな」



(そっか。息子さんが心配で来てしまったんだ。……………という事は、この人は、エーダリアのお父さんでもあるんだ…………)



そう考えると、少しだけ寂しい気持ちになった。

エーダリアは、王子だった頃、国内での立場があまり良くなかったらしい。

アイザックも、彼は王都では複雑な立場で、ヴェンツェル以外の家族とは折り合いが悪いのだと話していた。

命を狙われた事があり、今もなお、それは続いているという。

そしてそんな彼は、会ったことがなくてももう、ルドヴィークの友人なのだった。


(もう一人の息子の事は、こんなに大事にしているのに、どうしてエーダリアには優しくしてあげられなかったのだろう。大きな国には難しいことが沢山あって、それが僕の友達に優しくない事なのが、何だか悲しいなぁ……………)


そして、彼がヴェルクレアの王だと判明すれば、ウェルバが姿を隠した理由も腑に落ちた。

ウェルバの存在は、あの国でもエーダリアと統括の魔物くらいしか知らないようなことなのだそうだ。

彼の持つ、ずっと昔に喪われた危険な魔術の知識を狙う者達もいるかもしれないからと、くれぐれもその存在を公にしないようにと交わした昨晩の約束を思い出せば、ウェルバが顔を会わせないようにしたのも、目の前のお客が王様だったからに違いない。


「今後のランシーンへの立ち入りは、私の領域に於いて禁じておきましょう。これは、商会に関わる問題ではなく、私個人の問題としてです。こうして私の守護を預ける者に意図的に接触したのですから、当然の措置ですがね」

「はは、そう睨まないでくれ。大丈夫だ、土産物を買って帰れば、当初の目的は達成したことになる!君は、ヴェンツェルに宜しく頼む」

「……………夜の雪山で牛を狩るような人が、あいつの親父さんだとは思わなかったな……………」

「叔父さん、……………ええと、もしまだ落ち着かないようだったら、僕が麓まで送ろうか?」



少し動揺しているようなので、道中が心配になりそう言えば、こちらを見たアフタンが遠い目をする。


「やめて差し上げろ。そちらは、お前に関わらせたくないから、もうここに来るなって言ってるんだろうが」

「でも、今日は霧も出ているから、雪の斜面で転ばないようにね」

「ああ。麓までは……………そうだな……………親父さんか……………頑張って送ってくるさ」

「すまないな。取り敢えず当てもなく山を登ったので、帰り道はさっぱりだ!案内して貰えないと、無事に帰れる気がしない」

「……………ということだ。俺は麓まで行ってくるから、お前は、そちらのご友人に茶でも出してやれ。この時間だと、羊の世話は終わったんだろう?」

「じゃあ、僕はアイザックとテントにいるよ。…………ああ、ミュウさん、ここでアイザックと喧嘩しないようにね。……………アイザック、今は友達もテントにいるんだ。紹介するよ」

「……………彼と、一晩で随分親しくなったようですね」

「うん。魔術の話が出来るのが、とても楽しいんだ。すっかり彼が大好きになってしまった」


そう言った途端、馬の手綱を王様に預けて、こちらに来た叔父さんに両肩を掴まれ、もう言うなと言われるではないか。

なぜなのだろうと首を傾げていると、無言で首を横に振られる。



「ああ、心配になってしまうということかな。大丈夫だよ、アイザック。彼は、僕の特別な友人だから」

「あああ、そっちにはいくな!!気遣って差し上げろ!!」

「叔父さん?………でも、アイザックとは出来ない魔術の話も出来るから、特別なのは変わらないよ?」

「……………よし、俺はもう何も言わないぞ!……………俺は、麓までの道案内があるから少し外すが、こちらには、夏至祭の茶を出すんだ。いいか、一番いい茶を出すんだぞ?お前が育てたやつだ、俺でも、レンリでもなく、お前が育てた茶葉を使った茶を出すんだぞ?」

「……………叔父さん?」



なぜだか、くれぐれも上等なお茶か酒を出すようにと言い含められ、麓に向かう叔父さんと、エーダリアの父親であるヴェルクレアの王様を見送った。

笑顔で手を振ってくれた王様は、少しも王様らしい感じはしなかったが、アイザックの警戒の仕方からすると、ただ穏やかなばかりの人でもないのだろう。


(うん。意味もなく、アイザックは誰かを遠ざけるようなことはしないから、あまりここに来てはいけない人だったんだろう。王様だし、国から大勢の人達が探しに来たら、羊が驚いてしまうかもしれない)



「アイザック、お茶を飲むかい?それとも、君も、テントにいる友人とは会わない方がいいのかな」

「……………会っておきましょう。アルテアとは話をしておくので、ウィーム領主との調整はこちらで済ませます。それと、今日は昼食をご一緒させていただいても?珍しい氷酒を持ってきたので、もし良ければ」

「うん。食事は人数が多い方が楽しいから、一緒に食べよう。今日は、蛇のスープだよ」

「蛇の……………スープ?」

「僕の新しい友達も好物らしいから、きっとアイザックも食べられる味だと思うな。母さんが三つ編みパンを焼いてくれるのだけど、焼き立てのパンと一緒に食べると美味しいよ」

「……………失礼、その蛇はどんな蛇なのですか?」

「白くて、胴幅は子羊くらいかな。あまり長くはないけれど、羽を毟るとしっかり脂がのっていて、冬のご馳走になる蛇だよ」

「……………白い」



今度はなぜか、アイザックが頭を抱えてしまった。

だが、毎年冬になると一匹は仕留められる立派な蛇で、毎年みんなで食べていると言えば、よろよろとテントまで付いてきてくれた。


ウェルバは、前に暮らしていた国でも、アイザックの事を知っていたらしい。

彼がアイザックにした美しい舞踊のようなお辞儀は、きっと失われた国の作法なのだろう。

なお、ずっと蛇だと思っていたのは、雪食い竜という竜だったそうだ。




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― 新着の感想 ―
[一言] アルテアとアイザック、どっちが大変だろう。 少なくともネアは魔物の質を分かってるから、分かってないウェルバに執着してるアイザックの方が可哀想かな? まあアルテアの方が事件やらなんやらで振り…
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