ドウドウとフレッチャー
「そんな訳だから、僕の誕生日はもう少し後でね」
朝食の席でそう告げたノアに、ネアはこくりと頷く。
「足引きさんが現れた後は、ノアの魔術の系譜的には静かにしていた方がいいのですね」
「うん。僕の系譜のものじゃないんだけど、あれはね、もう失われたものの道を作るって性質があるからね。折角の誕生日だからさ、心配ごとのない日にやりたいんだ」
「ふふ。そうですよね」
ネア自身の誕生日もまだ完遂されていないので、その気持ちはよく分かる。
ウィリアムからの贈り物は受け取れたのだが、アルテアと、エーダリア達の家族からの贈り物は、これからなのだった。
なお、騎士達からの贈り物は、本日よりこっそり適用されるようになる。
今年は品物ではなく権利なので、お祝いの言葉などを割愛してさらりと活用可能としてしまえば、どの祝福にも響かないという便利さなのだった。
そんな贈り物のことを思いもじもじしていると、伴侶の変化に気付いた魔物がこちらを見る。
「明後日なら使えるけれど、予約をしておくかい?」
「い、いえ。楽しみ過ぎるので、準備を調えてからがいいです。それに、週末だとお店も忙しいでしょう。来週以降の平日で調整してもいいですか?」
「うん。可愛い………弾んでしまうのだね」
「湖水メゾンの、限定のお料理を復刻してくれるのですよ!………むふぅ。楽しみでなりません。あの時の絶望と悲しみを、ゼベルさんに話しておいて良かったです」
「うん」
今回の騎士達からネアへの誕生日祝いは、既に季節限定のメニューが終わった後にそのようなものがあったのだと知ってしまい絶望した、湖水メゾンの限定料理の復刻チケットである。
二日前までにお願いしておけば、今はもう食べられない、特別な料理がいただけるのだ。
なお、チケットは三枚綴りで、他にもネアが食べ逃してきたメニューが並んでいる。
受け取った瞬間にぱたりと倒れそうになったのも、やむなしの素敵なメニューばかりだ。
「ノアのお誕生日が先延ばしになるのは残念ですが、その分、より素敵なお祝いになるように、開催直近まで作戦を練っておきますね」
「わーお。僕、大丈夫かな。グレアムみたいに、ハンカチを用意しておくべき?」
「ふふ。きっとノアは泣いてしまうのでしょうね。大切な家族なので、我慢して下さいね」
「……………ヒルド」
「………やれやれ、なぜもう泣いているんですか」
なぜか既にじわりと涙目になってしまったノアに、ヒルドが苦笑している。
だが、ちらりと隣のエーダリアを見ると、僅かにその微笑みを甘くした。
「大丈夫ですよ。中止になった訳ではないのですから」
「…………ああ。その、何か、皆で過ごすような予定を立てるか?」
「ありゃ。もしかして、エーダリア、僕のこと心配してくれてる?」
「こちらへの影響を考えて、日程をずらしたのだろう?代わりに、何か楽しめるような予定を立てておくのはどうだろうか」
「……………わーお。……………え、今日は僕を泣かす日なのかな」
「むぅ。ノアはすぐに感動してしまいますねぇ。このままだと、誕生日に耐えられるかどうか……………」
「え、僕の誕生日、どうなってるの?」
両手で自分を抱き締めてみせたノアに、ディノが心配そうにこちらを見るが、これは喜んでいるだけなのだと教えてやるとこくりと頷く。
だが、誕生日は嬉しいよねとぽそりと呟く魔物を見てしまったネアは、すぐさまこちらの魔物の誕生日も行うのだという荒ぶる思いに駆られそうになってしまった。
とは言え、誕生日は年に一度と決まっている催しだ。
特にディノは、記念日に拘る繊細な魔物なので、ネアの気分一つで誕生日を増設してはならない。
「ところで、騎士さん達が朝からリーエンベルクの周りに刺繍糸のようなもので柵を作っているのは、何事なのでしょう」
「ああ、あれは儀式用の柵なのだ」
ここでネアは、朝から気になっていたことをエーダリアに聞いてみた。
その場で騎士達に尋ねても良かったのだが、儀式周りの作法には、傍目で見ていても分からないような色々な規則がある。
もし、ネアの安易な質問が何かを損なってしまったらと思い、こうして落ち着いた場所で教えて貰う事にしたのだった。
「ドウドウの儀式ですね。まさか、ウィームでも見る事になるとは思いませんでしたが…………」
「むむ。ドウドウの儀式、なのです?」
「ああ。そこまで危ういものではないという前置きで聞いて欲しいのだが、祟りものになった道具の侵入を防ぐための措置なのだ」
「……………おのれ、祟りものめ」
「お、落ち着いてくれ。適切な対応さえすれば、人命を損なうような危ういものではないのだからな?」
「………それが、あの刺繍糸なのです?」
「あの糸は、儀式に使う土地の魔術から紡ぐものなのだ。今回はヒルドが手伝ってくれたお陰で、人間だけで作るよりも遥かに短い時間で終わらせることが出来、結界の備えが朝の内に出来ている」
ネアは目を瞬き、また一つ明かされる魔術儀式について教えて貰った。
ドウドウの儀式は、家の中に招き入れてはならない災いだが、通り過ぎてゆく上では害がないというものを敷地に入れないよう、敷地の周囲に結界を張り示すものだ。
土地の魔術から紡いだ糸で敷地を囲い、正門の前に聖域を示す香炉を置いたり、酒に浸した木の枝を立てておいたりする。
リーエンベルクでは、広大な敷地を守る為に用意された香炉は七つだというが、本来であれば自分の暮らす土地を守る為に行う、素朴で古くからある儀式なのだそうだ。
「という事は、招き入れてはいけないものが来るのですね。………むぅ。足引きといい、通りすぎてゆくものが多く現れますねぇ」
「今回、ウィームを横断するという報告のあったフレッチャーは、足引きの現れた土地を好んで通り抜ける障りだからな。その手のものが現れかねないことは周知されているので、足引きの出現報告の直後から準備をする家も多かった」
「なぬ。関連がある出現なのですね……」
「ほら、さっき話したみたいに、足引きの通り道には、暫くは道が出来やすいんだよね。本来なら現れた川だけを警戒すればいいんだけど、フレッチャーはさ、水辺には近付かないんだ。迂回して、街のどこかやこの禁足地の森沿いを通るって予測なんだ」
フレッチャーは、鳥の姿をした障りなのだという。
だが、この世界の鳥をとても信用していないネアは、すかさずどんな形状なのかを聞いておいた。
するとやはり、黒塗りの箱型だと言うではないか。
「………むぐぐ、鳥の姿?」
「見ればわかるだろうが、目にせずに済むのであればその方がいいだろうな」
「むむぅ……………」
「今回の物は、元は馬車だっけ。馬車型の呪いや障りって、まぁ仕方ないんだけど多いなぁ……………」
「やはり、生活で最も多く使われる乗り物ですからね。列車などは、管理上そこまで事故になりませんから」
「そうなんだよね。それに、列車は、線路のない場所にはあまり出てこないしね。………シル、こっちへの到達は、午後くらいだと思う?」
「そうだね。ネア、今日は外に出る際には転移を使おう。ただ、あまり出掛けない方がいいかな」
「はい。ではお家にいますね。おかしな鳥さんには会いたくありません!」
ネアは確かにそう言っていたし、ディノ達もそのつもりだったのだろう。
けれども、そういう前置きで教えられたもの程出会ってしまう事が多いのは、ネアの運命周りの癖なのかもしれない。
とは言え、今回ばかりはそれだけではなかった。
「……………エーダリア様が?」
その一報を聞いたのは、ネア達がリーエンベルクの庭を散歩していた時だ。
外には出られないが、お気に入りの季節の風景は楽しむ派であるネアが、抜け目なく伴侶と庭の散策をしていると、ロジが物凄い形相でこちらに走ってくるではないか。
そして、ネアに、暫くの間エーダリアの傍に居て欲しいというのだ。
「ノアベルトはどうしたんだい?」
「それが、ヒルド様と共に、禁足地の森側の警戒に行っておりまして。たまたま、ウィームを訪れた高位精霊が禁足地の森で散策していたそうで、その対応に当たって下さっています」
「まぁ。であれば、安易に呼び戻せませんよね。ディノ、私達でエーダリア様のお仕事に同行しましょう」
「助かります。こうして、フレッチャーを警戒して外に出ないようにされているお二人に、ご無理をお願いするのは重々承知の上なのですが……………」
「君がこうして来たからには、災いの天秤の傾きだろう。この子が、エーダリアの傍にいた方がいいのだね」
「はい。………どうぞ宜しくお願いいたします」
一つ頷き快諾したディノに、ロジはほっとしたようだ。
この騎士が災いの天秤持ちである事は以前から知っていたが、鳥羽竜の一件に引き続き、最近はよく関わるなという気がする。
「…………前回も鳥さんでしたが、関係はあるのでしょうか?」
「そちらの縁続きではないと思うよ。今回、ウィームを通り抜けるものは、履歴がしっかりした障りだからね」
「確か、婚礼を控えた方を迎えに行く為に出された馬車だったのですよね?」
「うん。慶事から災厄に転ぶものは、障りや呪いを残すことが多いんだ。フレッチャーは、移動を性質とする道具が障りに転じる経緯で、鳥の意匠が絡む事で鳥の性質を帯びたものの総称なんだ。渡りをするものという魔術領域なんだよ」
「だからこそ、こうして通り抜けてゆくものなのですね………」
障りや呪いの中には、派生した場所に留まらないものも多い。
明確な理由があってそうするものもあるし、理由なく彷徨うものもいるが、今回、ウィームに向かっている障りは、理由があって彷徨うものなのだとか。
馬車を障りに変えた事故は、それはそれは痛ましいものだったという。
婚儀を控えた二つの家族があり、新郎の姉と母親が命を落としたのだ。
(その二人は、花嫁さんと昔から仲良しで、婚儀より一足早くそちらの家に入る事になったお嬢さんを、迎えに行くところだったのだとか。……………そして、事故に遭ってしまった………)
両家はさして離れておらず、花嫁の移動に馬車が使われたのは、主に荷物の運搬の為であった。
だが、迎えの馬車に乗る必要はなかった新郎側の母親と姉は、道中の馬車で、仲良しの花嫁と女だけの秘密のお喋りをするのだと言って、出掛けていってしまったらしい。
その日は良く晴れていたが、見通しのいい筈の十字路で野生の岩竜が飛び出してきて、馬車は細い山沿いの道から転げ落ち、乗っていた者達は誰も助からなかった。
花嫁を乗せる前だったのが不幸中の幸いだが、それでも、耐え難い程の悲劇なのは言うまでもない。
(……………そして、馬車に乗っていた人達が死者の国に旅立っても、残された馬車だけは、誰かを迎えに行かなければと彷徨っているのだわ…………)
死者達に深い怨嗟があると、諸共馬車に取り込まれての、より大きな災いになることもあるが、今回は、死者達の回収は速やかに行われたのだそうだ。
残された馬車の残骸に気が回らなかったのは、そうして土地の者達が、皆に愛されていた母娘の弔いを丁寧に行っていたからなのだとか。
結果としては、回収が遅れたが故にフレッチャーに転じてしまい彷徨うことになった馬車なのだが、幸いにもその手の彷徨うものには、動きを止める切っ掛けとなる境界がある。
そもそも国外に出ようとしているものや、彷徨う理由を忘れているものでなければ、国境域に差し掛かると自然に消えてしまう事が多いらしい。
一説では、触りや呪いなりに、土地の魔術の変化に気付き、ここから先には行けないと考えて立ち止まると言われている。
そして、そのまま姿を消してしまう事が少なくない。
なので、ヴェルクレア国に於いては、特に国民を損なうような災いを齎すものでなければ、通り抜けだけはさせてしまうという措置が取られている。
これは、ウィーム本来の風習ではなく、立地上、彷徨うものが数多く現れるヴェルリア独自の習わしなのだとか。
何度かガレン主導で検証がなされ、他の領でもそのようにしても問題がないという結論が出た現在は、国内全領でも同じ運用がなされている。
(無事に辿り着けば、そして帰ってきてくれたなら、幸せな事ばかりが待っていた筈なのに……………)
残された家族の悲嘆を思い、ついついそんな事を考えてしまったネアの手を、ディノが掴んだ。
この魔物が自分から手を繋いでくるのは珍しいので、思わず目を丸くしてしまったネアに、こちらを見たディノの眼差しはどれだけ魔物らしく、そして美しいことか。
雪景色の白の中で、水紺色の瞳は、はっとするくらいに鮮やかだった。
ふんわりと編んだ三つ編みに結んだ今日のリボンは、買うのに苦労した思い出のある灰雨の色である。
「……………君は、部屋で待っているかい?」
「いえ。犠牲になられたご家族を思ってしまっただけですので、大丈夫ですからね」
「うん。けれども、悲しかったり、怖かったりしたら言うんだよ」
「はい。ディノがこうして一緒にいますし、ロジさんも一緒なので、今の私はもう怖くないのですよ」
ネアがそう言えば、先導するロジの肩が僅かに揺れただろうか。
きっと、ネアが感じてしまうこの心の揺らぎこそが、災いの天秤なのだろう。
だからこそネアは、ロジが胸を痛めないように、言葉を丁寧に選んだ。
ネアは歌乞いで、ディノは狭量とされる魔物である。
危険が及ぶかもしれない場所にネアを誘っただけでも許さないのが普通なのだから、加えて、ネアが過去を思い出し心を揺らすようなことがあれば、普通の歌乞いの魔物なら、その切っ掛けを作ったロジを責めても不思議はない。
そうして呪いの持ち主を窮地に陥れるものだからこそ、災いの天秤は、不穏な予兆をロジに齎すのだ。
ネア達が向かうのはリーエンベルクの通用門の一つで、エーダリアはそちらで仕事をしているという。
ロジは反対側の門の担当だが、今は、エトに任せてネア達を案内してくれている。
雪の積もった中庭を横切り、さくさくと積もったばかりの雪を踏むと、清廉な花の香りがした。
今日は、昼近くからまた雪が降り始めていて、灰色の空からはらはらと白い雪片が舞い落ちてくる。
雪を積もらせながら膨らんだ雪薔薇の蕾は、うっとりとするような薄紫色で、冬ライラックも重たい花枝を下げていた。
菫や紫陽花に、最近植えられるようになったラベンダーの茂みの中を飛び交う細やかな光は、近くにある他の花の花蜜を求めて庭園を訪れた妖精達だろう。
美しい庭はしんと静まり返っていて、こんな時でなければ、なんと美しいのだろうと幸せな気持ちで歩けた筈だ。
だが、目的地へと急ぐネア達は早足で庭園を抜けなければならず、目的の通用門に向かう。
転移を使えないのは、道を示す足引きから続くフレッチャーの来訪なので、出来るだけ同じ領域の魔術を使わないようにしているからだ。
なので、はらはらする思いで庭園の目隠しとなる大きな木々と薔薇の茂みを抜けると、見慣れたケープコートを羽織ったエーダリアの姿があり、ネアはほっとした。
(……………良かった。まだ何も起きてはいないようだ)
その姿を見ただけで小さく弾んだネアに、いきなりの弾みに驚いたのか、近くにあった三色菫の花壇に潜んでいた毛玉妖精が、わっと葉っぱの裏に隠れてしまった。
「エーダリア様です!」
「……………ネア?………ディノまで。……………ロジ、何かあったのか?」
声を上げたネアに振り返ったエーダリアは、こんな雪景色の中ではオリーブ色の色味を濃くする瞳を瞠り、すぐにネア達を先導してきたロジに気付いたようだ。
聡明なウィーム領主は、すぐにどのような状況なのかを察したのだろう。
驚いたような表情をすぐに引き締め、周囲に視線を配る姿は高位の魔術師らしい対応だった。
なぜ自分が一緒にいるのかをすぐに理解してくれた主人に、ロジは、胸に手を当てて深々とお辞儀をする。
こうして騎士達が時々見せる敬礼は、主に、指示や命令にない行動を自分の意思で取った後に示される事が多いようだ。
「エーダリア様。僕の予感に過ぎませんが、ヒルド様達がお戻りになるまでは、ネア様達と一緒にいていただきたいのです」
「……………ああ。お前が言うのなら、そうした方が良さそうだな。ロジ、気付いてくれて助かった」
「いえ。本当は、このような予感など、働かない方がいいのですが………」
「そう言ってくれるな。リーエンベルクの警備を主配属としてから、お前には何かと助けられている。その分、お前には負担をかけているだろうが、これからも宜しく頼む」
エーダリアがそんな事を微笑んで言うものだから、ロジは、目元を染めてしまうではないか。
ネアが、これはまた無意識のやつだぞとじっと見ていると、ふるりと瞳を揺らして嬉しそうに唇の端を持ち上げた災いの天秤持ちの騎士は、深々と一礼して、本来の持ち場に戻ってゆく。
きっと、先程の言葉で、更に自分の主人が大好きになってしまったに違いない。
「そして、最近よくロジさんに関わるなと思っていたのですが、これ迄は、こちらの配属ではなかったのですか?」
「ああ。ロジは昨年まで、街の見回りを中心に行っていた騎士なのだ。災いの天秤があれば、人々の集まる場所でもいち早く危険を見付け出せるからなのだが、この年明けからの三か月間は、リーエンベルクの周辺の警備研修を積んでいるところでな」
リーエンベルクの騎士達には、やはり、それぞれの得意分野がある。
その中でもロジは、リーエンベルクの騎士の中からはあまり数を割けない街の警戒任務に向いており、尚且つ、ウィーム中央で育っているので、街中の騎士達やギルドとの連携にも長けているそうだ。
本人もその役割を好んでいるのでと、街側の警備を主体とした役回りが変わる事はないそうなのだが、有事の際に持ち場の交代が出来るように、今は、数年に一度あるリーエンベルクの周辺警備の研修期間としているらしい。
騎士になった直後は、先輩騎士と行うリーエンベルクの周辺警備だが、今はロジが先輩として、エトや、その他の後輩騎士と共に行っているのだ。
「ふむ。これで、最近ロジさんとよくお会いする謎が解けました!」
「その期間中は、誘導に長けたエドモンと、目のいいレナンが、ロジの担当していた街周りの任務に当たっている。………ネア、ディノ。すまないが、フレッチャーを見ない方がいいと言ったばかりだが、今暫くここに居て貰っても構わないだろうか」
「勿論です。エーダリア様も、どうか、我々から離れないようにしていて下さいね」
「ああ。折角、事前に危険を知らせて貰えたのだ。私がここで気を付けておかねば、ロジの努力を無駄にしてしまうからな」
「ふふ。私とディノがいれば、もう安全です!良くないものが現れたら、全て踏み滅ぼしてしまえばいいのでしょう。……………む。ディノ?」
勇ましい宣言の直後にふわりと頬に落とされた口付けに、ネアは眉を寄せた。
すると、こちらを見た魔物が、とんでもないことを言うではないか。
「恐らく、その何かに対処するのは、君になるのだろう。守護を厚くしておいたよ」
「まぁ。私が、……………なのですか?」
「うん。あの騎士は、君に、エーダリアの傍に居て欲しいと話していただろう?漠然とした予兆を受け取る事が多い災いの天秤持ちが、君の名前を出したのであれば、それだけしっかりとした予感があったのではないかな」
「むぅ。であれば、ハンマーも出しておきます?」
「………それは、いらないかな。私もいるからね」
「きりんさんは…………」
「ご主人様……………」
(そう言えば、エーダリア様が一人でこのような所に残るのは珍しいな………)
ふと、そんな事が気になって尋ねてみると、ドウドウの儀式で張り巡らせた糸を、食い意地の張った小さな妖精が食べられるだろうかと思って齧ってしまったのだそうだ。
なので、森に現れた精霊への対処に当たるヒルド達と別行動とし、エーダリアは糸の修繕を行っていたのだという。
その修繕が終わってもこちらに残っていたのは、結界の再展開を見届け、尚且つ全ての騎士達がリーエンベルク内に退避したと言う連絡が入るまでの待機だったらしい。
「だから、一人でこちらに残っていたのだね」
「他の場所で糸が齧られていないとなると、特別に食い意地の張った妖精さんだったのですね」
「ああ。そうなのだろう。先程まではゼベルも一緒だったのだが、今は、フレッチャーが近付いてきているのでと、騎士達が門の外に取り残されていないかどうかを、調べて回ってくれている」
とは言え、エーダリアも一人でいた訳ではない。
周囲には席次のない騎士達の姿があるので、フレッチャー対策であれば、本来ならこれで充分なのだそうだ。
となると、これから起こるのは、そんな騎士達では対処出来ないようなことなのだろう。
「では、我々は、丁度いいところで合流出来たのですね」
「ああ。そうなのだろう。……………そろそろだな」
「うん。近くに来ているようだね。ノアベルトには、私達が一緒にいると伝えておいたよ。森に現れた精霊は、ウィームを訪れている旅人なのだそうだ」
「まぁ。旅行者の方々であれば厳しくは言えませんが、何もこんな日の、この時間にと思ってしまいますね」
「そのような偶然が揃ったからこそ、何かが起こる筈だったのかもしれないね。……………ネア?」
「馬車の車輪の音が聞こえてきました!」
ガラガラと聞こえてくるのは、雪の積もった道には不似合いな、馬車の車輪の音だ。
しかし、よく聞こえるようにと耳をそちらに向けていたネアがきりりと報告すると、ディノとエーダリアは首を傾げるではないか。
まさかの、車輪の音が聞こえるのは自分だけという嫌な展開に、ネアは途端に渋面になる。
「……………ホラーの展開はやめるのだ」
「恐らく、魔術可動域の影響ではないかな。フレッチャーは、居住地に招き入れなければ災いを齎すものではないけれど、君の可動域だと……」
「ぐるる………」
「…………っ、また来てしまったのか?!」
その直後、エーダリアが焦ったような声を上げ、ネアは、赤紫色の刺繍糸のような糸の上にふわりと降り立った栗鼠妖精に気付いた。
エーダリアの動揺ぶりからすると、どうやら、あのちびこい生き物が、ドウドウの儀式結界を危うくした犯人であるらしい。
「ぎゃ!糸を齧っています!!」
「果実と同じ色にしたせいなのだろう。……………ディノ、」
「そうだね………。門の外に出たくはないけれど、修繕せずに放置した方が危険だろう。ネア、私の手を絶対に離さないと、約束してくれるかい?」
「………門の外に出て、あの糸を直すのですね?」
「うん。糸を張り、ドウドウの儀式を行うのは、土地の管理者でなければいけないんだ。私では、その役割を成さないから、エーダリアが行うしかない」
「はい。では、ディノの手をぎゅっとしておきますね」
「うん…………」
そうするしかないと決めても、ディノも不安なのだろう。
どきりとするような美しい魔物の眼差しは静謐な程で、寧ろ冷え冷えとしてさえいたが、ネアには、この魔物がとても怖がっているように見えた。
慌てて門を開ける騎士達と、儀式結界の修復の為に、魔術の糸車を取り出したエーダリアの後ろに並びながら、ネアはそんなディノの手をぎゅっと握る。
「手を繋ぐのもいいですが、ディノを羽織っておきましょうか?」
「そうしようかな……………」
「念の為に、やはりハンマーも手にしておきますね」
「……………すまない。もしもの場合は、私も自分で防壁を立ち上げられるようにしておこう」
「いや、君は自分の作業に専念した方がいい。ドウドウの儀式は簡単なものだが、糸を紡ぐ作業はとても繊細なものだからね」
ディノの言葉に目を瞬いてから深く頷き、門を出るエーダリアも厳しい面持ちになる。
この通用門の警戒にあたっていた騎士達には、万が一の場合に備えて門の内側での警戒を引き続き命じ、外に出るのはネア達だけだ。
「キキッ?!」
ディノが近付いた事で、糸に悪さをしていた妖精はびゃっと飛び上がって慌てて飛んで行ってしまった。
だが、再び齧られた部分の糸は既に細くなってしまっていて、今回、雪の中でも目立つようにと赤紫色にしたことが裏目に出てしまったのは明らかであった。
エーダリアは、次回からは、冬にこの儀式を行う際には別の色にしなければと呟きながら、からからと回る糸車で素早く糸を紡ぎ、取り外した糸を丁寧に修繕箇所に巻き付けてゆく。
がらがら、がしゃん。
車輪の音がまた響くのに、リーエンベルク沿いの道にはまだ、馬車の影はないようだ。
それでも聞こえてくる車輪の音に、ネアは、落ち着かずにきょろきょろとしてしまう。
鳥な馬車というだけでも想像がつかないし、いざという時にはエーダリアを守らなければいけないと考えると、緊張のあまりに呼吸が浅くなる。
(………あ、)
細くなった糸の前で地面に膝を突いて屈んだエーダリアは、静かな声で詠唱を始めたようだ。
新たに紡ぎ直された糸がぼうっと光り、するすると切られた細い繊維を集めながら一本の糸として繋がってゆく様は美しかったが、残念ながら今のネアは、その光景ばかりを見ている訳にはいかないのだった。
(…………むむ!)
ふとどこかで、大きな質量を持つ物が、雪を跳ね上げる光景が見えたような気がした。
ばさりと打ち鳴らされた羽音に、磨き抜かれた黒い馬車の車体に映るのは、禁足地の森の木々だろうか。
なぜそんなものが見えたのだろうと訝しむのと同時に、ネアは、見えてしまったものから、フレッチャーはどこまで近付いているのだろうかと考える。
(森の中にいるのだろうか。でも、禁足地の森の木々は、あんなに規則的に生えていたかしら。まるで並木道の…………)
「……………これは……………!!」
気付いたネアがはっとするよりも早く、どおんと凄まじい音がした。
めりめりと街路樹の木々を押しのけ、先程まで何もなかった筈の空間を押し破って真正面から向かってきたのは、大きな漆黒の翼を蕾のように添わせた黒い馬車だ。
箱馬車の表層が見事な翼に転化しかけていると言えばいいのだろうか。
そして、まるで生き物のようにばさりと動くのだ。
「……………っ、正面から?!」
「エーダリア様!!」
思ってもいない場所から突如として現れた大きな馬車に、エーダリアは咄嗟に糸の前に出ようとしてしまったのだろうか。
ぞっとしたネアは、すかさずそんな家族の肩をがしりと掴み、その僅かな一瞬で張り巡らされた赤紫色の糸がびいんと音を立てて暗く眩く光る。
誰かに何かを説明されずとも、結界の修復が間に合ったのだと分かるくっきりとした魔術の光に、ネアは、凄まじい音を立てて不可視の壁にぶつかったフレッチャーから目を逸らさずにいた。
(……………これは、)
体も心も確かにここにあるのに、目の前に広がるのは暗い夜の畔のようだった。
そこには、呼吸に合わせて揺れる黒い翼を持つ巨大な何かがいて、じっとこちらを見ているような気がする。
だからネアは、その招かれざる生き物を、じっと見返した。
或いはその眼差しには、もう二度とこのようなものに家族を奪われてなるものかという、憎悪さえあったかもしれない。
そんなネアの眼差しに僅かに震え、暗闇の中に佇む何かが、視線を逸らしたような気がしたその時、ぱちんと暗闇の幻が晴れる。
「……………立ち去ったようだね」
「ふぁ!……………エーダリア様……………」
「す、すまない!もう間に合わないと思ったのだ………」
「だからと言って、なぜ、エーダリア様が糸の囲いの外に出ようとしたのですか!」
気付けば、フレッチャーはもうどこにもいなかった。
ネアが暗闇で不可思議なものと対峙している間に、ここから立ち去ってしまったらしい。
なのでネアは、ディノの言葉にふうっと安堵の息を吐き、いつもならヒルドの役割である、お説教を始めることにする。
だが、意外にも、怒り狂っているネアを鎮めたのは、ディノだった。
「エーダリアの判断は、正しかったのだと思うよ。あそこまで状態の悪くなったものは、私には、排除出来なかったからね」
「なぬ………」
「私が前に出ると、余計に怯えや混乱を深めかねなかった。………あのフレッチャーは、道ではない場所から現れただろう?」
「ええ。まさか、何もない場所から現れるとは思ってもいませんでした………。それが、混乱状態だったという事なのですか?」
「うん。リーエンベルク周辺には、この土地に古くからあるあわいの層や魔術の道が多い。それは、ここにリーエンベルクがあるからこそのものなのだろう。あのフレッチャーは、その中のどこかの層に迷い込み、表層の道を外れてしまったのではないかな」
「……………まぁ。つまり、迷子になっていたのです?」
「うん。その結果、酷く混乱していたし、怯えていたようだ。私が手を出すと、………場合によってはこの場所で崩壊してしまいかねなかった」
という事はつまり、あの一瞬で、エーダリアはそこまでを読み解き、自分が前に出て対処するしかないと判断したのだろう。
「………それなのに私は、咄嗟にエーダリア様を捕獲してしまったのです?」
「ああ。あの瞬間は、間に合わないかもしれないとぞっとしたが、寸前のところで糸が結ばれたのだから、お前が止めてくれて良かったのだ。つまり、ロジがお前を呼んだのはそういうことなのだろう。……………あの状態のフレッチャーと直接ぶつかれば、私とて無傷では済まなかっただろう。………っ、すぐに街の騎士達に…!!」
「ノアベルトに任せてあるよ。既に、ヒルドが連絡をしているそうだ」
「…………すまない。対応が遅れてしまった」
あれだけの現れ方だったのだ。
エーダリアも、まだ動揺していたのだろう。
街への伝達が遅れてしまったエーダリアに、精霊への注意喚起を終えこちらに戻る途中であったノア達に連絡を取り、ディノはすぐにフレッチャーの状態異常を伝えてくれたらしい。
「私も、胸がばくばくしていて、急いで街に連絡をしなければいけないことを失念していました。ディノ、有難うございます」
「うん。ドウドウの糸の外側にいなければ、問題はない範囲のものだと思うけれどね。………それに、足を速めたようだから、もうこの辺りは大丈夫じゃないかな」
「むむ、そうなのです……………?」
エーダリアの無事を喜ぶ騎士達に門の中に迎え入れられながら、ネアは、そんなディノの言葉に首を傾げた。
すると、こちらを見た魔物は、何かを確認するようにネアの頬にそっと触れる。
「フレッチャーが結界に接触している時、君は、私の呼びかけに応じなかった。……………何かを見ていたのかい?」
「………はい。どこだか分からない暗い場所にいて、暗がりの向こうには、大きな黒い鳥のような異様なものが佇んでいました。エーダリア様に何かをしたら許さないのだと、そやつを睨みつけていたような気がします」
「……………それはまさか」
ネアの話を聞いたエーダリアが青ざめて振り返ると、ディノが頷いた。
ネアの頬に触れていた手を持ち上げると、そのままネアを持ち上げてしまう。
「退ける事が難しくないものだからこそ、フレッチャーと対峙した者の記録はあまりないんだ。けれど、君が出会ったのは、恐らくフレッチャーなのだろう。君に睨まれたのが、怖かったのかもしれないね」
「………なぬ。そ、それで足を速めたのですか?」
「うん。そうだと思うよ」
ディノはほっとしたように微笑んでくれたが、ネアは、ぎくりとして周囲を見回した。
すると、エーダリアだけではなく、騎士達までもが呆然とこちらを見ているではないか。
そしてそれは、ディノのような安堵の眼差しではなく、この人間は得体のしれないものを睨んで追い払ったらしいぞという驚愕の眼差しであった。
「わ、私は、とても可憐でか弱いのですよ?!」
「うん?……………ネアは可愛いよ?」
「な、なので、私如きに怯えて、あのよく分からない羽まみれが逃げ出した筈はないのです!」
「そうか。……………あの混乱状態で結界に正面から接触した割には、素早く立ち去ってくれたと思っていたが、お前がいてくれたからだったのか………」
「感謝している風に動揺するのはやめるのだ!」
ここに、慌てて駆けつけたヒルドとノアが合流し、ネアがなんとか否定したいその出来事は、もう一度語られる事になる。
思いがけない迷い込みで酷く混乱していたフレッチャーであったが、ウィーム中央では、そのような場合に起こりがちな想定外の被害は出ず、それどころか、黒い羽馬車は目を瞠る程の速さで駆け抜け、あっという間にウィーム領を抜けてしまったらしい。
ウィーム領を抜けたところで少し落ち着いたのか、そこで漸くというのもおかしな言い方であるが、通常の動きを取らずに悪変の兆しが見えたそうで、次の経由地であったガーウィンでは、調伏の対応となったという。
なぜフレッチャーが道に迷ったのかと言えば、ノア達が対応していた精霊が原因だったらしい。
捕食階位となる精霊の気配に気付いたフレッチャーが、遭遇を無意識に避けた事で道を外れた可能性が高いのだそうだ。
ネアは、騎士達からまた拝まれるようになってとても落ち着かなかったが、ヒルドから沢山褒めて貰えたので、結果としては何だか誇らしい気持ちに落ち着いたのであった。
なお、あれは鳥ではなく、翼の装飾のある箱馬車だったと主張させていただこう。
明日の更新は、少し短めのお話となります!




