花茶と足引き
しゅわしゅわしゃりん。
水晶のポットの中で、ふんわりと花開くのは、山猫商会から貰ってきた花茶である。
この花茶は夜にしか飲めない特別なもので、ほんのり甘い林檎の後味が大人気なのだとか。
「お湯を注ぎました!」
「可愛い…………」
「おや、開き始めましたね」
「これでいいのだな………」
「この魔術の変化はどうなっているのだ……?」
「ありゃ。エーダリア、今はそっちじゃなくて、ポットの方を見ていた方が楽しいよ?」
「むぅ。湯気ばかり見ているエーダリア様です………」
リーエンベルクの会食堂に集まったのは、いつもの面々である。
仕事を中抜けして来てくれている終焉の魔物は、ついでに軽食のコンビーフサンドを食べていた。
付け添えのポテトグラタンのいい匂いにネアはついついそちらを見てしまい、くすりと笑ったウィリアムが、スプーンで一口食べさせてくれる。
「むぐ!」
「ウィリアムなんて……………」
「ありゃ、腹黒いぞ……………」
「誰かが食べていると、気になるものな」
にっこり微笑んだウィリアムに対し、ご主人様の食事量に厳しいアルテアに何の反応もないのは、絶賛お仕事中だからだろう。
ただし、注意深く様子を見ていると、きちんと顔を顰めたりという反応はしているようだ。
「はい!……………因みにこの花茶には、朝にしか飲めない香草と檸檬のお茶もあるのですよ。………まぁ!枝がしゅるりとなって、葉っぱが出てきました!」
「随分と手の込んだものだね。取り込める祝福も多いから、体にもいいのかな」
「おや、これは素晴らしい枝ぶりですね」
「…………このような花茶があるのは、初めて知った。どうやって、あの小さな塊にしておけるのだろうか……」
「あ、だから硝子じゃなくて水晶のポットなんだね。ある程度の祝福付与のある茶器じゃないと、枝で割れちゃうのかぁ」
「………こんな茶葉があるんだな。ネアからの贈り物を受け取りに来たお陰で、思わぬものが見られたな」
「ふふ。みんなでお揃いの額縁シールです!」
しゅわしゅわ、しゃりり。
瑞々しい葉が茂り、蕾が膨らむ。
ネアが大興奮で覗き込んでいるポットの中では、今まさに花茶の花が開かんとしていた。
(………わ、花が!!)
「お花が咲きました!」
「うん。良かったね。………おや、実もなるのだね」
「まぁ。艶々の林檎まで!」
ネアの考えていた花茶とは違い、この花茶は、ポットの中で林檎の木が生い茂り、綺麗な白い花が咲くのだ。
錠剤のように小さく固めた緑の茶葉をぽこんとポットに落とし、お湯を注いだだけでこんな不思議で美しいものが現れてしまうのだから、ネアは、感動に打ち震えるしかない。
お湯を注ぐとまず、緑の茶葉の塊がしゅわしゅわと、シュプリの泡のような祝福の光の煌めきを立てる。
小さな枝葉がするすると伸びてゆき、立派な林檎の木がポットの中いっぱいに広がると、そこに満開の花が咲くのだ。
実際の林檎の木にはない状態だが、花が満開になるのと同時に真っ赤な林檎も実っていて、なんとも可愛らしい光景ではないか。
ポットの中の林檎の木は、飲み納めでカップに冷水を注ぐまではこのままなので、暫くの間はテーブルの上で美しい花木を楽しめてしまうという贅沢さだと知れば、諸王達にも人気だというのも頷ける。
(…………おまけにこの花茶は、驚く程に高価ということもないのだ)
確かに普通のお茶よりは割高だが、これ程の美しさを楽しめるのだから当然だろう。
更には、お茶としてもカップ十五杯分が保証されている事を思えば、ザハのケーキセット一人分のお値段では安過ぎるくらいだ。
「このきらきらしたものは、何なのでしょう?」
「夜の雫と、夜風の祝福が入っているようだね。冬用の商品なのかな、雪明りの砂糖の魔術付与もある」
「はい。この季節の林檎の花茶は、砂糖林檎にしてあるそうなのです。冬場は甘めのお茶が人気なのだとか」
一緒にポットを覗き込んでいたウィリアムが、考え込むように顎先に手を当てる。
白い軍服姿でそんな仕草を取ると、ぞくりとするような怜悧な凄艶さがあった。
「ここまでの物だと考えると、利益を上げる為の商品というよりは、山猫商会の商品の質の良さを伝える為の宣伝も兼ねているんだろう。いい匂いだな」
「…………むふぅ!甘酸っぱい林檎の香りと、夜の森のような素敵な香りがしますね」
「騎士棟で、時々グラストが花茶を出すって言ってたけど、これなんだろうね。そっちは檸檬のお茶だって聞いてるから、ネアの話していた朝用の茶葉ってやつなのかな」
「そちらも貰ってあるので、また今度、みんなで飲みましょうね!…………もうそろそろでしょうか」
「ええ。そろそろ良さそうですね。………では、お注ぎいたしましょう」
やっとその瞬間が来たのだと椅子の上で弾んだネアは、隣の席で無言で仕事をしていたアルテアに肩を押さえられ、むぐぐと眉を寄せた。
お隣の選択の魔物は、文字を介した魔術通信で何やら込み入った商談をしているようだが、この花茶と、花茶を飲んだ後のスケートに参加するべく、こうしてリーエンベルクを訪れている。
尚、スケートへの参加は、仕事の間の適度な運動という事ではなく、アルテアの手掛ける事業区画に新たに氷雪地帯が加わったらしく、そこでの移動用に使うスケートや橇に付与する魔術の種類を考えているので、参考の為に滑ってみるのだそうだ。
こぽこぽと、薄緑色のお茶が注がれる。
用意されたカップは、折角なのでと林檎の絵付けのある物が選ばれた。
花びらのような筋を付けた造形の薄いカップは白色で、カップの内側の底の部分にだけ、林檎と花輪の絵付けのある繊細なものだ。
ほこほこと湯気を立てるカップが全員の前に行き渡った頃には、アルテアの仕事も無事に終わったようで、少しだけ遠い目をしてアイザックかと呟いているので、アクス商会に出し抜かれるような事があったのだろう。
ネアは、今日も残念ながら銀狐はいないのだが大丈夫だろうかと不安になったが、幸いにも、選択の魔物の興味はポットの中の林檎の木に移ったようで、癒しを求めて銀狐を探すような事態にはなっていない。
ノアが密かにほっとしているのも、その為だろう。
「……………ほお。限定展開させる祝福の形状を、元の林檎の木に重ねたのか」
「祝福と薬効がかなり多いよね。悔しいけれど、凄くいい商品だよ。ゼノーシュが目を付けたのも納得だなぁ」
「ゼノは、十年程前にトンメルの宴で出会ったのだそうです。二年に一度新作が出るので、来年にはまた一つ増えるのだとか」
「今は、何種類だ?」
「十一種類もあるのです。最初は、ラベンダーのお茶から始まって、その次がニワトコの木だったのだとか」
「え、僕、そのラベンダーのお茶飲みたいんだけど…………」
「ふふ。ノアはそう言うと思って、ラベンダーのお茶もいただいていますからね!そちらの花茶には、夕闇の祝福の蜂蜜が入っているのだとか」
「……………それを淹れる時にも、声をかけろよ」
「あら、すっかり気に入ってしまったのです?」
他にはどんな花茶があるのかを確かめたアルテアは、自分の同席の日にしか飲んではいけないお茶を何種類か指定していった。
こうしてみんなで飲む方が楽しそうなお茶なので、ネアもふむふむと頷く。
ウィリアムも仕事がなければ呼んでくれというので、またみんなでお茶会が出来てしまいそうだ。
「以前にアレクシスさんが考えていたスープも、このような物だったのかもしれません」
「アレクシスが、かい?」
「ええ。前にお店で教えて貰ったのですが、こうして、お花が咲いたり、木々が生い茂るのが見えたりと、使った材料が祝福の形で立ち上がるスープを考えたものの、アレクシスさんのスープの材料の中には危険なものもあるので、飲んだお客さんが死んでしまうと困ると思ってやめたのだとか」
「……………そりゃ、ウィリアムとか、どう考えてもまずいもんね」
「そう言えば、アルテアさんの欠片入りのスープもありましたものね……………」
「やめろ……………」
今回は、砂糖林檎の花茶なので、口に含むとまずは爽やかな甘酸っぱさを感じる。
ほろりと甘い後味に優しい気持ちになれば、夜風にざわりと揺れる大きな林檎の木を見上げるよう。
ポットの中で枝を広げる林檎の木が見えているので、お茶の味の向こうに広がる情景が簡単に想像出来てしまうのだ。
林檎の花茶でこうなのだから、より詩的な情景が期待出来てしまいそうな雨音と薔薇の紅茶はどうなるのだろうと、ネアは今から楽しみでならなかった。
「……………美味しいですね」
「うん。祝福の重なりで、心が安らぐようなレシピになっているのだね。……………美味しい」
「果実の物が飲みやすいと聞いていましたので、今夜はこの紅茶を選んで正解でした」
こんなに穏やかな気持ちになれるのだから、くたりと疲れた夜などに、ゆっくりと飲むのもいいだろう。
だがしかし、本日はこの後から夜間スケートなのだ。
なのでネアは、美味しい花茶を楽しむと、ウィームにある大きな川に向かうのだった。
「ふぁふ!」
穏やかな夜のお茶会を終え、ネア達が訪れたのはいつものスケート場である。
スケート場とはいえ、凍った川をそのまま使っているだけなので、周辺住民の生活路としても利用されていた。
びゅおると吹き抜けた風に首を竦め、ネアは、もふもふした耳当ての位置を直してむふんと息を吐く。
まだお口の中には先程の美味しい林檎の花茶の味が残っているので、今夜は屋台のホットミルクはお預けだ。
お茶会を終えたウィリアムはまた戦場に帰ってゆき、エーダリア達は、明日の執務に備えて就寝した。
ではなぜそんな時間にスケート場に繰り出したのかと言えば、最近、凍った川の下を氷鯨が泳いでいたという目撃例が上がっており、是非に見てみたいと考えた人間は、一番目撃例が多い真夜中前後の時間帯を狙ったのだった。
氷鯨は、きらきらと細やかな光をなびかせて泳ぐ生き物で、精霊に近く、冷たい川の水を体内に循環させ、氷の魔術を食べて暮らしている。
時々、子育ての為に川を遡上してくるのだが、本来は、海近くの川で暮らす鯨なのだそうだ。
「鯨さんに会えるといいのですが……………」
「お前の場合は、事故に遭わない事の方が重要だがな」
「ぐるる…………」
「氷鯨の遡上の理由は、未だによく分かっていない。だが、普段は起こらない何かが起こるという事は、どこかで何かの条件が調っているからだ。そう考えるだけでも、いつもとは違う状態にあるという証明になるんだぞ。警戒して然るべきだろうが」
「……………むぅ。そう言われてみると、確かにそうだという気がします」
「これまでの夜は、昨年などよりは川全体の氷の魔術の純度が高いように感じたよ。…………ただ、今夜はそうでもないようだ」
「……………ぎゅ。鯨さんに会えないのかもしれないのです?」
「今夜はなぜか、…………川の中や川底の魔術の動きが、とても静かだね。まるで、息を潜めているようだ」
(息を潜めて……………?)
それはなぜだろうと顔を上げると、美しい夜景に目を奪われた。
川沿いには、家やお店に灯る明かりや、川沿いのカンテラの灯りが星屑のよう。
真夜中近い時間だが、氷鯨見物の人もいるのか、まだまだスケートを楽しむ人達があちこちに見え、その中を、残業だったのかなという顔色の魔術師達がついっと滑ってゆく。
お気に入りのスケート靴はしっかり足に合っていて、きゅっと結んだ紐にも緩みはない。
ただ、このザルツへと続く川でのスケートは、雪熊も現れるので要注意だ。
特にこの時間帯は、疲れ果ててよろよろと滑っている魔術師や学生達を狙い、川岸に潜んでいたりする。
その為にあちこちで特別な猟銃を貸し出しているので、スケートのお客達は、腕に自信のある者以外は猟銃を担いでいる事が多い。
(なので、こんな夜に猟銃を持っていないスケート客は、腕の立つ魔術師や人外者なのだ)
例えばもし、ネアが一人ぼっちでこの世界に住んでいて、夜のスケートに来ていたのなら。
猟銃を担いで滑り、少しどきどきしながら、武器を持たないスケート客を目で探しただろう。
ウィームの夜のスケート場には、川沿いの明かりをきらきらと映す羽を持つ妖精達は勿論、人間に紛れてスケートを楽しむ魔物や精霊も多い。
そんな誰かをスケート客の中に見付けられたなら、物語が始まるような気持ちになれるから。
「む、何か轢きました……………」
「氷罅の精霊かな。あまり良いものではないから、そのままでいいと思うよ」
「はい。では、何もなかったことにしますね!」
「……………やはり、あの術式を使うのは、非効率だな……………」
隣では、巧みにネア達の速度に合わせて滑りつつ、アルテアが脳内会議に入っている。
髪色を珍しく淡い砂色に擬態し、瞳の色はそのままだ。
ラムネルのコートでほかほかになっているネアに対し、魔物達は少しの厚みのある毛織のコートだけなのだが、各自の魔術領域で気温の調整をしているので、寒くて凍えてしまうということはないのだろう。
(でも私は、この身を切るような冷たい風も好きだな……………)
対岸の奥に広がる森は雪に覆われ、時折、ぼうっと光るものがある。
揚げドーナツの屋台からいい匂いがすると思えば、最近では、この川で捕縛された雪熊を使った、雪熊鍋のお店の客引きなんかもいるらしい。
足元の氷の下にきらきら光る鯨は現れなかったが、見上げた夜空には星が散らばっていて、ネアは、リボン専門店の星屑のラメが控えめにぽつぽつと織り込まれた真夜中のリボンを買うかどうか悩んだ。
アルテアは、思索の答えを出したらしく、ふうっと息を吐いて、片手で前髪を掻き上げる。
しんしんと。
しんしんと。
雪の日ではないのにこの言葉を思うのは不思議な気持ちであったが、胸の奥に降り積もってゆくのは、どこか静謐な夜の空気と冬のウィームの景色だ。
スピードを上げれば、夜風の中にびゅんと通り過ぎてゆくのは、様々な夜の光。
冴え冴えとしたその美しさに、青白い雪景色の色と川沿いの建物の窓明かりの色が加わると、ネアの大好きなウィームの冬の夜が出来上がる。
きゃっきゃしながら滑るというよりは、速度を上げて滑るネアのスケートは、どこか思索の時間に近い。
そんな道中で、おかしな生き物や危険な生き物との出会いがあって、時々、知り合いの姿を見かけたりもする。
(……………おや、)
ふと、やけに暗いお客がいる事に気付いた。
それは決して、何かでとても落ち込んでスケートをしに来てしまったという感じではなく、街灯りや川沿いのランタンの光が届かない、ずっぷりと異様に暗い人影のようなお客達だ。
真夜中という時間なだけでなく、今夜は細い三日月しか出ていないのだが、それでも、川沿いの明かりや雪明りに照らされたスケート客の顔は、それなりに見えている。
通勤や通学の為に滑る者達は、ランタンを持っている者も多い。
それぞれの顔を照らす明かりの色は違えど、男性だか女性だかもわからないような暗さを纏うその姿は、どこか異様であるような気がした。
「ディノ、……………今夜は変わったお客さんがいますね」
「……………足引きのようだね。ネア、エーダリアに連絡を取れるかい?」
「一度止まりますか?」
瞳を細めて短く頷いたディノが、ネアの手を取る。
手を繋ぐと弱ってしまう魔物がこうするのなら、どうやら、暗い影を纏うようなお客達はあまり良いものではないのだろう。
少しだけぞくりとしつつ、ネアは、けれども周囲には普通のスケート客達もいるのだとざわめく胸を落ち着かせた。
「いや。彼等が近くを滑っている間は、その流れを妨げないように、こちらは止まらない方がいいだろう。アルテアと私の間から、出ないようにするんだよ」
「はい」
「……………足引きの姿を見るのは、久し振りだな。どこかで大きな事故があるのか、或いはもうあったんだろうが、ウィリアムが鳥籠に戻った事を考えると、これからの可能性も高いのか………」
静かな声でそう呟くアルテアに、ネアは、その事故はまさかウィームで起きるのだろうかと眉を寄せた。
アルテアが、また事故かと言うこともなく警戒するような鋭い目で周囲を見ているだけでも、気を引き締めてかからねばと思ってしまう。
(……………あ、)
ここで、ピンブローチの通信端末に触れたネアは、周囲を滑っていたお客達の、先程とは違う不規則な動きに気付いた。
どうやら、足引きに気付き始めたようで、はっとしたように滑走の軌道を変えたり、ドーナツや飲み物の屋台に向かうような動きで川を離れたりする者達もいる。
こんな時に、現れたものへの対処法を知らずにおろおろする人が少ないのがウィームだなという感じなのだが、より対応が早かったのは、やはり人外者達であった。
「……………ほわ、」
素早く軌道を変えてゆくのは、どれだけ人間に見えても気配のどこかが異質な者達だ。
こんな事でも人間のふりをした人外者達を見付けられてしまうようだし、やけに多いなと思っていると、どこからともなく颯爽と滑り込んできたお客の一人が、足引きに並走すると、ひょいと捕まえてしまった。
動きを妨げない方がいいとディノが話していた生き物を捕まえてしまう暴挙に、ネアはぎょっとしてしまう。
だが、伸ばした手に捕まれた足引きは、そのままぺらりと楽譜のようなものになっただけで、特に抵抗したりする様子はなかった。
嬉しそうに羽を震わせた捕縛者に、ネアは、足引きを捕まえたのが妖精であることに気付いた。
よく見かけるような妖精ではなく、人外者らしさを全面に出したような美しく酷薄な微笑みを浮かべている。
「ディノ……………あれは、」
「足引きに集まるのは、普段はあまり人間の領域に現れない妖精達なんだ。あのような者達が現れるので、足引きの動きを乱すのは、よくないことなんだよ。邪魔をすると、人間は代わりに捕食されてしまう事もあるからね」
「……………ぎゅわ。そちらの理由でした……………」
「夜や終焉の系譜の妖精達だ。その系譜の一部の妖精は、足引きや亡霊を好んで食らうからな」
「足引きさんは、掴まれても抵抗しないのです?」
そう尋ねると、いつの間にか川岸に辿り着き、氷の上から上がりながら、ディノが教えてくれる。
どうやら魔物達は、氷の上で立ち止まってしまったり、足引き達の流れに動線が重なってしまったりしないように全体の流れを見ながら、川岸に上がれるようにしていてくれたようだ。
「足引きは、大きな事故などの予兆や、既に事故があった際に現れる、死者の影のようなものなんだ。区分としては祟りものに近いけれど、一つの個体が祟りものに転じるのではなく、その残滓が凝るものなので気配がとても薄い。死者が残してゆく影や記憶の欠片が、世界の表層に焼き付けられて祟りものになったと言えばいいのかな…………。だから、生き物のようには反応しないのだろう。捕食される際には、あのように楽譜に姿を変えると言われている」
「だから、あまり良いものではないのですね。……………ディノ、エーダリア様が出てくれました」
襟元のピンブローチからかけた魔術通信に、就寝準備をしていたエーダリアが応じてくれた。
ネアは、川のスケート場に足引きというものが現れたのだと報告し、途端に緊張を孕んだ声に変わったエーダリアには、ディノがその説明を引き継いだ。
その間にも、光を吸い込む絵の具で描かれた人型のようなものが、凍った川の上をすいすいと滑ってゆく。
この川がスケート場になっているので足引き達もスケートをしているように思えてしまうが、実際には、音もなくふわふわと飛び交っているという感じであるようだ。
何となく、群れで飛んでいる渡り鳥や蝶の群れを思わせる動きには、確かに、人間の感情を思わせる気配はない。
ふわりと飛び込んできては獲物を狩ってゆく妖精達は、生け簀で狩りをする鳥のようにも見えた。
「触れない方がいいのは確かだが、足引きそのものには大して害はない。とは言えお前の可動域だと、触れない方がいいだろうな。……………どこも接触していないな?」
「ええ。…………元々、ディノとアルテアさんに挟まれて滑っていたので、大丈夫だったようです。ここに足引きが現れたのには、何か理由があるのですか?」
「たまたま道になったんだろう。足引きは、起点に予兆として現れ、事故現場までを直進路で渡ってゆく。事故現場でその場所の被害者の影を回収し、また消えるまで列になって流れてゆく。ここにいる足引き達が現場になる場所を通る後か前かで状況は変わってくるが、こいつらも、氷鯨の遡上と同じようにどうして派生するのかは分かっていない生き物の一つだな」
「……………不思議なものが、沢山いるのですね」
足引きの事を、死者を迎えにきた災いの行列だと言う者達もいる。
だが、実際にその姿を見た者は、足引きの魔術系譜が終焉の範囲ではない事に気付くだろう。
とても不思議な事に、一言も声を発さず、音楽を奏でる訳でもない足引きの魔術属性は音楽なのだそうだ。
だから捕まえられると楽譜になるのだなと思えば、ネアは、黒い音符の並ぶ葬送の音楽の譜面を思い浮かべた。
どこからともなく流れてきて、悲惨な事故の現場に焼き付けられた影を集め、また、どこへともなく去ってゆく。
足引きは死者達を迎えに来る生き物なので、見かけてしまうと不幸になるという者達もいるし、事故現場に向かうものなのだから、早めに発見出来れば事故の被害を最小限に抑えられる、とても大切なものだという者達もいる。
ウィームでの運用は後者であるらしく、ディノが示した幾つかの予測地点を参照し、エーダリアは、早急に騎士達を事故対応に向かわせたらしい。
どうやら今回は、まだ事故現場に到着していない予兆となる足引きだったようで、これがもし事後のものであっても、少しでも早く現場に救援が向かえば、まだ生きている者達を救える事がある。
「ディノ、私達もお手伝いに向かいますか?」
「ゼノーシュが、すぐに場所を特定したようだ。山間部での列車事故のようだが、近くの街の騎士達とグラスト達が向かったから、問題はないだろう。そちらでは酷い雨が降っていて視界が悪いようで、危うく後続車との衝突事故になりかねなかったと話していたよ」
「こんなに夜遅くに、列車の衝突事故が起こるところだったのですね……………」
「雨結いの渓谷だな。今は、織物の染色に適した雨結いの花の収穫時期だ。雨の降る夜にしか収穫出来ない花だからな。かなり間隔を詰めて貨物列車を動かしていたんだろう」
今回は、事故を起こした列車の乗務員の人為的なミスにより、先頭車両の脱線事故が起こったようだ。
残念ながら、雨結いの花は可燃性が高いので、被害者の出ない事故という訳にはいかなかったが、続く大事故を回避出来たとあって、エーダリアはほっとしたようだ。
足引き達がいなくなってしまう頃には、通り道になった川の上のスケート場にも、そんな一報が届けられた。
このような場合と、予兆や前兆が現れた場合には、下手な憶測が飛び交う前に領民達に情報を開示するような取り決めをしたのはダリルで、そのお陰でウィームでは、事故情報などの共有がとても速い。
街の騎士達や各地の騎士団への通達は勿論、一定階位の魔術師やギルドにも即時連絡が下りる。
また、領民が多く集まる施設やこの時期のスケート場にも、情報共有を円滑にする為の魔術掲示板があるのだった。
場合によっては、たまたま近くにいた魔術師達が救援に向かうきっかけにもなるので、開示を厭わない情報は出来るだけ拡散してしまうという方針なのだとか。
ヴェルリアでもこのやり方を取り入れようとしたが、あちらは、情報を独占して販売する商人達の気質が強く、上手くいかなかったのだという。
「皆さんも、ほっとしたようですね」
「ひとまず、狩人共も立ち去ったようだな。本来ならウィリアムの領域だが、今は鳥籠の中だからな」
「そうだね。ウィリアムが来ている時にこの予兆が出ていれば、彼が対処しただろう。……………ネア?」
「……………ドーナツを買うかどうか、とても真剣に悩んでいました。鯨さんが現れる気配はもうなさそうですので、今夜の思い出として、何か一つ爪痕を残さねばなりません……………」
「爪痕、なのだね……………」
「おい、時間を考えろ。帰ったら寝るだけだろうが」
「あつあつの揚げたてドーナツで、お砂糖とシナモンの組み合わせと、苺のものもあるのですよ。……………じゅるり」
「可愛い、腕を掴んでくる……………」
結局ネア達は、足引き観察は出来たものの、氷鯨に遭う事は出来なかった。
翌日は素晴らしく大きな氷鯨が現れ、スケート場にいた領民達が大盛り上がりだったと聞けば、ネアが悲しみのあまりに大暴れしたのは言うまでもない。
ただ、揚げたてのドーナツは美味しかったので、決して無戦果だった訳でもないのだとここに記しておこう。
足引き発見の報告を爪痕に出来なかったのには、理由がある。
ネア達からの出現報告によって続く大事故は防げたが、さすがウィームという事もあり、その一報を入れたのはネア達だけではなかったので、残念ながら、お手柄を独り占めという事にはならなかったのだ。
とは言え、ダリルとエーダリアに褒めて貰ったのでそれで良しとしよう。
後日、迅速な救援のお礼にとリーエンベルクに届いた雨結い染めの布は、しっとりとした黒紫の美しいものであった。
ぼうっと滲むように光る水色の炎のような艶を持つので、夜間に外出する仕事に就く者達の上着などに使われることも多い。
星の火を宿す雨結いの花は、めらめらと青白く燃えているので、雨の日にしか収穫出来ないのだそうだ。
事故を起こした乗務員は亡くなってしまったが、いつもより収穫した花の燃え方が激しいという魔術通信の記録が残されており、貨物車の壁を焼かれない内に積み荷を運ぼうとして、慌ててしまっていた可能性が高いのだという。
美しい雨結いの花の布は、リーエンベルクの騎士達の夜間見回り用の上着の装飾に使われる事になったが、森の妖精達が大興奮で集まってしまう光り方であることが判明し、慌てて使用方法を見直す事になった。
ムグリスの群れにたかられたアメリアがあまりにも幸せそうだったので、勝手に持ち出さないように厳重に管理されるらしい。
なお、足引きと遭遇すると、本来はがちがちと歯を鳴らすような寒さに襲われるのだそうだ。
これは、魔術で排除出来るような効果ではないらしく、高位の人外者でも悪寒を感じるのだというのだから、そのようなところもこの世界の不思議である。
なぜだかその効果が出なかったネアは、図らずも体をほこほこにしてくれるという、林檎の花茶の効能の素晴らしさを知ってしまい、次の花茶会をいっそうに楽しみにしたのだった。




