額縁のシールとチョコレート
「ああ、良かったお嬢さん。先日のお詫びに伺うところだったのでね」
混雑したウィームの商店の前で、ネアにそう声をかけたのは一人の男性であった。
漆黒のロングコートを羽織ってしまうと、特徴的な飾り帯が見えないので、人外者も多いウィームの雑踏に紛れるのは簡単そうだ。
こっくりとした深みのある金髪に燐光の緑の瞳なので、コートで黒の分量が上がると、色の対比的に随分と凄艶な印象になる。
「まぁ、ジルクさん。……………この通り、今は立て込んでいるのですが」
「……………どこの世も、女達は買い物が大好きらしい」
どこか呆れたような眼差しでジルクがそう言ったのは、ネアが、限定品の販売会場で人垣の後ろで飛び跳ねていたからだろう。
幸いにも弾んではならないと叱る使い魔はいないので、何とかしてお目当ての品物への最短ルートを探っているところだった。
「ええ。このお店の可愛い額縁シールは、ウィームの女性の中で、銀狐専門店の限定品に次ぐ人気商品なのですよ。私は、この戦争で何としても勝たねばならないので、失礼しますね」
ネアがそう言うと、ふむと顎先に手を当てたジルクがひょいと人波の中に入り込み、身軽に戻ってきた。
どれだけぴょんぴょんしても隙間が見付からなかった魔境からの素早い往復に、ネアは、羨望のあまりにわなわなと震えて鮮やかな緑の瞳を見上げる。
「もしかして、お嬢さんの欲しいのはこれかな」
「ぎゃ!私の欲しいライラックと紫陽花のシールです!!」
「他に、取りたいものがあれば、先日の謝罪も兼ねてご随意に。これでも商人なのでこの手の競り合いは得意なんでね」
「ミモザのものと、木の実のもの、あの青いお花の淡い色のシールもです!」
「はいはい」
ぎらりと目を輝かせた強欲な人間に言われるがままに、ジルクはお目当てのシールを取ってきてくれた。
ひょいひょいと人並みを潜り抜け、どれだけ真っ正面に品物が見えていても、毎回このお客の波に潜り込めずに競り負けてしまうシールを軽々とラックから外すと、涼し気な様子でこちらに戻ってくるではないか。
憧れのシールを手渡してくれるジルクに、ネアは目をきらきらさせた。
「ふぁ!…………とうとう、お目当ての物が全て揃う日が来ました」
「わぁ、良かったね、ネア」
「はい!」
「……………ご無沙汰しております。見聞の方」
ここで、ネアの隣にいたゼノーシュに気付き、ぎくりとしたように体を揺らしたジルクが、恭しく頭を下げた。
以前にアルテアから教えられた事があるが、この山猫の精霊は商人なので、お得意様にはとても礼儀正しいのだ。
そして、そんなジルクに鷹揚に頷いたゼノーシュもまた、この愛くるしさでありながら、公爵位の魔物なのである。
「僕ね、前に頼んだ花茶を、また注文しようと思っているんだ。ネアもいる?」
「なぬ。ゼノが気に入るような、花茶なるものがあるのですか?」
「うん。お茶が甘くて、凄く綺麗だよ。それに、初めて注文する際には、何種類か試させて貰えるから、ネアは試してから買った方がいいと思う。でも、僕の注文する林檎の花茶と檸檬の花茶は、分けてあげるね」
「まぁ。ではお試ししてみたいです!そして、分けて貰ってしまってもいいのですか?」
「うん。友達だから特別だよ!」
周囲のご婦人をへなへなにしてしまう微笑みをくれたゼノーシュにお礼を言ったネアは、ちらりと売り場の方を見た。
既に、殆どの額縁シールはラックから消え去っており、戦いを終えたご婦人や、恋人や家族から額縁シールの入手を頼まれていた男達が、笑顔で両手を上げていたり、地面にうつ伏せになって悲しみに打ちひしがれていたりする。
今回、ジルクがあまりにも簡単に取ってきてくれたので、ネアは、お一人様の購入上限である二セット分のシールが欲しいと言ってしまいたいところであったが、どう考えても使うのは一セットだけだろうと、ぐっと堪えたのだ。
ずっと手に入らなかったシールなので、何となく予備も欲しくなってしまう荒ぶる購買欲を鎮め、より多くの人達の手に渡るように堪えてみせた己の心の清らかさには驚いてしまうばかりだ。
恐らく、この日頃からの慈悲深さが、額縁シールの購入に至る幸運を運んできてくれたのだろう。
(やっと買えるのだわ………)
手の中にあるシールシートは、憧れの絵柄が全て揃っている。
この中のどれか一枚を買えるだけでも嬉しかった筈だが、全部で十八種類あると思えば、ネアとしては無欲なくらいのお買い上げ数だ。
縦長の長方形のシートは上下で二分されており、二枚の花の絵が額縁ごと描かれている。
あらためて、なんて繊細で可愛いのだろうと思えば、喜びのあまりにふにゃんとなってしまうのは、致し方あるまい。
このシールのホーリートと薔薇シートを、ギルドの新商品の発表会で貰ったというエーダリアが持っていて、ずっとずっと欲しかった品物なのだから。
(エーダリア様は、祝祭儀式で使う魔術書の入れ物の裏側に貼って、魔術書を喜ばせる為に使っていたけれど、私は違うのだ!!)
勿論、ここにいる人間は、この品物を自分の為だけに使う予定である。
手帳の内表紙に貼って、毎日楽しむのだ。
伴侶の魔物と、家族と、ウィリアムとアルテアにはあげてもいいが、シールという品物の繊細さが理解出来るかどうか分からないウィリアムには、少しお裾分けを躊躇してしまいそうなくらいに素晴らしいシールではないか。
「…………ふぁ、可愛いです!」
「ロマックも、家族に頼まれているんだって。明日の回で買いに行くって言ってたよ」
「うむむ。二日目は、一日目の敗者復活戦も行われるので、なかなかに熾烈な争いになるような気がするのですが……………」
「うん。お菓子とかも、そうなんだよ。でも一日目の方が大変なこともあるから、僕はいつも行けるだけ行っちゃう」
「ふふ、さすがゼノですね」
今日は、星の巡りがお買い物に向いているという、年明けの月にある、特別な一日だ。
よって、ウィームの街の何か所かで、領民達に人気のある品物の売り始めがある。
この日を選んで売られるような品物は、売り始めとは言え数日で完売になってしまう事が多い物ばかりなので、このように、各所で壮絶な戦いが繰り広げられていた。
「にしても、初めて見ましたね。これが噂の額縁シールか………」
「あ、あげませんよ!」
「はは、取り上げたりしたら、途端にどこぞに潜んでいる趣味の仲間に殺されるだろうなぁ」
「もしや、商人さんの目線でも、気になる物なのですか?」
「ああ、とても気にはなるが、うちでは取り扱うのは無理だろう。仕入れから流通にかけて、そのどちらも現実的じゃない」
「ふむ。………確かに、この額絵を描ける妖精さんは、とても少ないのですものね」
「何枚かを高価希少な魔術具として売る事は可能だが、この手の品物に慣れない連中は、決まって製作者を囲い込もうとする。これだけの人気商品を生み出す妖精にもしものことがあったら、俺はウィームの住人達にどうされてしまうことか」
「………控えめに言っても、八つ裂きですね」
「んん?そこまでなのか………?!」
ジルクはまさかそんなと微笑んだが、たまたま話を聞いていたらしい二人連れの可憐な少女達が、害獣を見るような冷たい目でこくりと頷いたので、危険を悟ったようだ。
少し大きめの声で、これはウィームにあってこその品物なので、とてもではないが手を出そうとは思わないと呟いている。
「僕ね、三年前にミモザの花のシートを貰った事があるよ。グラストがくれたから、部屋に飾ってあるの」
「まぁ。ゼノは、額縁シールの先輩だったのですね?」
「うん。でも、グラストがくれた物だけでいいから、自分では買わないんだ。ネアは、ディノにもあげるの?」
「はい。ディノには最初に好きなものを選んで貰おうと思っているんです」
「わぁ、きっと喜ぶね」
「ええ」
ネアが手にしている額縁シールは、手帳やノートの装飾やワンポイントに使える、額縁とその中に描かれた花の絵が素晴らしいシールで、描かれた花の香りがしたり、耳を澄ますと雨音や葉擦れの音が聞こえる事もある、ウィームらしい品物だ。
妖精の画家が描いた絵を、特殊な魔術印刷でシールにしてあるのだが、元の絵に付与された情景の魔術が薄れてしまうので、それぞれ百枚程度の印刷が限界であるらしい。
「雪の日の夜明けのライラックと、雨の日の紫陽花のもの。夜風とミモザに、夜明けの薔薇。秋の木の実とホーリート、そして謎の綺麗な青いお花と、菫のものです!お会計をしてきますので、………その、ジルクさんは、ここで待っていたいですか?」
「まさかとは思うが、獲物が手に入ったら用なしか………」
「それでもいいのですが、それでも、待っています?」
「くそ!何でこれで腹が立たないんだ!!」
「……………僕、そういうのが好きだから気にならないんだと思う」
「ゼノ、ちょっと悪さをすることもあるジルクさんを置いていってしまいますが、もし悪さをしたら、ぽいしてもいいですからね。なお、お水をかけると弱ります」
「うん。分かった」
ネアは、弾むような足取りでお会計に向かい、途中で出会った市場のキノコ専門店のおかみさんと、互いの勝利を喜び合った。
驚いたのは、髪の毛をくしゃくしゃにして、手にした一枚のシールを嬉しそうに購入している、多分ニエークかなという男性がいるところだ。
(街歩きマップを見ていた事のある魔物さんだから、こういうお買い物は好きなのかな……………)
ネアは、より信仰の篤い人達の手に渡るようにと敢えて外したのだが、リーエンベルクの紫陽花と薔薇を描いたシールはとても人気がある。
このシールを巡っては、エーダリアの支持者達も参戦してしまうので、毎年、別に売り場が設けられるくらいの大騒ぎになるようだ。
昨年は、残念ながら死者ならぬ犠牲毛玉とパンの魔物が出てしまい、今年からは、販売区画にご近所に暮らす生き物達が迷い込まないような措置が取られているらしい。
「はい。お釣りになります」
「有難うございました。ふふ、やっと買えたのですよ」
「あら、初めて買えた方なんですね。自慢のシールなので、たっぷり楽しんで下さいね」
「はい!」
お金を支払い、青い紙の封筒に買ったばかりのシールを入れて貰うと、大満足でむふんと唇の端を持ち上げたネアは、弾むような足取りでゼノーシュ達を残してきた店の入り口前のホールに戻ってきた。
途中で気付き、どんな事件に巻き込まれるか分からないのでと、慌ててお買い上げしたシールは金庫にしまう。
これを奪われても、買い直しは出来ないのだ。
(ゼノは、ジルクさんと一緒で大丈夫かな………)
店前のホールは、今日だけは額縁シールの特設販売会場になっている。
円柱に囲まれ天井のあるこのホールには、毎年イブメリアになるとインク協会の飾り木が置かれていた。
扉の向こうのお店は、文具販売と印刷業務を兼ねる、ウィームの老舗商店の一つだ。
そして、そんなお店の前のホールでは、時間を無駄にしなかった見聞の魔物による、山猫商会への大型発注が行われていた。
「それとね、この前の干した芒果も。それから、僕はあの白い缶のクッキーは嫌いだったから、前と同じような黒い缶と緑の缶だけでいいよ」
「承知いたしました。先日、お試し品をご利用いただいた、オレンジの花水の石鹸はどうしますか?」
「あれは、グラストはいらないんだって。でも騎士達が気に入ったみたいだし、ノアベルトも洗えるから、三本ね」
(……………あ、この前の匂いの石鹸だわ!)
ネアはここで、影の庭で擬態したノアから漂っていた、オレンジの花のいい匂いの正体である石鹸の事だろうと、ふむふむと頷いた。
ネアがいい匂いだなと思っていたあの香りは、擬態した騎士の設定に肉付けする為の香りではなかったらしい。
あの朝に、一緒にボラボラの見回りをした騎士達が使っている液体石鹸でノアが手を洗ったことで、身に纏っていた香りだったのだそうだ。
なお、その液体石鹸はハンドクリームとセットのお得さなので、ネアも、愛用しているものがなければ買ってしまったかもしれない。
(でも、狐温泉の石鹸を買い足したばかりだから、また今度にしよう。お気に入りを増やすのは、ゆっくりでいいのだから、今日はこの額縁シールだけで充分に幸せだもの)
とはいえ物欲というのは恐ろしいもので、その囁きにぐぬぬと堪えていると、ネアの帰還に気付いたジルクが、巻物のような注文表をしまいながらこちらを振り向く。
「やぁ。お嬢さんを見付けたお陰で、この通り仕事が捗ることこの上ないね」
「うん。沢山注文しちゃった」
「ゼノは、ジルクさんの商会ともお付き合いがあったのですね?」
「アクス商会とは扱う商品が違うから、山猫商会のお菓子も買うよ。次は、僕のお店ね」
「はい!次は、ゼノの楽しみにしていたチョコレートのお店です。ジルクさん、ご用向きによっては歩きながらのお喋りだと厳しいでしょうか?或いは、こちらの買い物を終えてからであれば、お茶をしてゆくくらいの時間は取れますが………」
わざわざ待っていてくれたので、さすがにと思いそう尋ねてみる。
とは言え、本日のネア達には大事な用事があるので、ここですぐにどこかお店に入ってとは出来ないのある。こちらの予定のどこかの隙間で手を打って貰うしかない。
「いや、このままで構わんさ。今日はダリルとの約束でウィームに来たんだが、先日の謝罪も兼ねて、リーエンベルクに寄ろうと思っていてね。そうしたら、ここで飛び跳ねているお嬢さんを見付けたという訳だ」
「報復はあの場で終えてしまったので、特別な謝罪は結構ですよ。ジルクさんがしでかした事は、ご自身の立場を説明せずに、我々を警戒させ、状況をややこしくしかけたくらいなのでしょう。………そして、微妙に影の庭の出口の方向が間違っていました」
「はは、これは手厳しい。それでは、お詫びの品はいらないかな」
「……………どのようなものなのです?」
強欲な人間がそわそわと尋ねると、ジルクは、にんまりと微笑んだ。
仕草や表情が華やかな精霊だが、仄暗い独特な鋭さが気配に重なるので、ただ明るいだけの華美な感じにはならない。
そんな雰囲気を注視したのだろうか。
たまたますれ違ったアレクシスが、何か困っていないだろうかと問いかけるようにこちらを見たので、ネアは、これは、現状悪い生き物ではないのでスープにしてはならないのだと厳かに頷き、同じように視線でお返事をしておいた。
「……………その前に一ついいかな?……………今、通りすがりの男が、見間違いでなければ、鍋を出そうとしていなかったか?」
「ふむ。知り合いの方が、もしジルクさんが悪い精霊さんであれば、スープにしてくれようとしていたのですが、幸いにもそうではありませんでしたので、こちらは大丈夫ですよと眼差しで返答したという場面ですね」
「………スープの魔術師か!あの禍々しい気配を、どうやって隠していたんだ………?!」
微かに青ざめつつも、さすがは商人である。
ネアの、アレクシスに禍々しさなどあっただろうかという不思議そうな眼差しに気付くと、すぐさま気持ちを落ち着かせる為に深呼吸をし、ジルクは、ゆったりとした商人らしい老獪な微笑みを取り戻す。
「それでは……」
「む!ふわくしゃです!!」
「……………あ、また来ちゃったんだ。街の方に来ちゃ駄目なんだよ」
「思わず鷲掴みにしてしまいましたが、金色の房飾りのあるこやつは、はぐれふわくしゃでしょうか?」
「時々、荷馬車についてきちゃうんだって。僕が、近くの山に戻しておくね」
「はい。……………むぅ。暴れるのをやめて、死んだふりを始めましたよ…………」
「震えているから、掴まれて怖いのかな?」
「儚くならないよう、ふんわり掴んだのに、怖がりな生き物ですねぇ」
ぶーんと飛んできた雷鳥を捕獲して自然に返すという出来事を挟み、ネアは、それでどんなお詫びの品をくれるのかなと、わくわくとジルクの方を見上げる。
ジルクはまたしてもとても青ざめているが、もう周囲にアレクシスはいない筈なのだ。
「なぜそんな目で見るのだ……………」
「言っておくが、王様カワセミよりも王様雷鳥の方が、階位は高いんだ。規格外にも程がある」
「ふむ。私の偉大さに比べれば、ちっぽけなものですね。王様雷鳥だとは知りませんでしたが、こちらは、にゃんこも狩れる優秀な狩りの女王なのですよ」
「………そうか。そう言えばお嬢さんは、俺も狩ったのだったか。……………謝罪の品だが、……………その前に、通りの向こうのあれは何だろう」
ここでまた、ジルクは気になるものが出てきてしまったらしい。
なかなか話が進まないなと思いつつ、何だろうと思って通りの向かいを見ると、小柄なご婦人が、がっしりとした体型の美丈夫を氷漬けにしている。
「むむ?……………まぁ、夫婦喧嘩なのでしょうか?激しいですねぇ……………」
「あ、街の騎士団で働いている人間だよ。あの家の人間と竜は、すぐに喧嘩しちゃうんだって」
「あらあら、という事は、よくあのようになってしまうお二人なのですね」
「人間が持ち得ない階位の氷の魔術で、竜を氷漬けにしているのが……………?」
「綺麗な竜さんなので、階位も高そうですね。氷が溶けた後で、無事に仲直り出来るといいのですが…………」
「氷竜みたいだよ。伴侶に会えるのが嬉しくて、家に戻る時にいつも竜の姿のまま窓にぶつかって、すぐに窓を壊しちゃうから、怒られるんだって」
「ふむ。その流れをいつも繰り返しているとなると、奥様が怒っても当然という気もしますね………」
「いや、普通に考えて、高位の氷竜を氷漬けに出来る人間は、そうそういないだろう………」
ジルクはそう呟いているが、ウィーム中央では珍しい光景ではない。
世代を重ねてこの地で生きてきたウィームの領民達の、対人外者の能力は、卓越していると言ってもいいくらいなのだ。
先日も、浮気者の妖精の伴侶の羽を、奥様が全部毟ってしまう凄惨な事件が起きたばかりである。
その際、伴侶のシーは泣き叫んで逃げようとしたが、何度も転ぶという地味に効果的な呪いをかけられて逃げきれなかったのだとか。
ここで重要なのは、シーの羽を毟るという行為が、それなりに難しい事だ。
だからこそ妖精の伴侶も、次に浮気をしたら羽を毟るという奥様の言葉を信じていなかったのだろう。
妖精には、高位の魔物のように伴侶を一人しか持たない者達も多いが、恋多き生き方を好み大勢の伴侶を得るような者達も大勢いる。
今回の被害者は後者の種族だったのだが、一人だけを愛するという誓いを立ててから結婚したので、魔術誓約上も奥様に軍配が上がってしまい、浮気者の木苺の妖精は伴侶に謝り泣きながら家に帰っていったという。
なお、背中の治療をして貰っていて、もう一度恋に落ちたというので、人生は何があるか分からない。
結婚五十年目になる日を無事に終え、その二人は、新婚当時のような幸せいっぱいの夫婦になっているそうだ。
「あ、着いた。僕、ここでチョコレート買ってくるね。ネア、一人で大丈夫?会の人だから大丈夫だと思うけど、何かあったらすぐに呼んでね」
「はい。かいはありませんが、ここでジルクさんとお話ししながら待っていますね」
「うん!………わぁ、沢山並んでいるんだね………。頑張らなくちゃ…………」
「ゼノのお顔が………」
グラストにご婦人や女児が近付いた時に近しい表情になった見聞の魔物を見てしまい、ネアは、チョコレート戦争の苛烈さを思い知らされた。
嗜好品としてのチョコレート市場は、どうしても戦いが激化しやすいことは知っていたが、ゼノーシュにあの表情をさせた以上は、思っているよりもたいへんなことになるのだろう。
どうにか無事に予定時間に到着したので、後は、販売開始の合図と共に会場に飛び込むだけだ。
(ウィームだと、先着順にすると王様ガレットと同じ事が起こるから、販売会場を設けての奪い合いが多いからなぁ………)
からんころんと開始のベルが鳴った瞬間、あれ、殺し合いかなという雄叫びが上がり、ネアはそっと皆の無事を祈った。
何だか分からないけれど楽しそうだぞと飛び込んでみた毛玉妖精が、すぐさま掴み出されて街路樹下の花壇に投げ捨てられている。
さて、ようやくここで、謝罪の品が何なのかを知る事が出来るぞと考えたネアはしかし、不自然にそわそわした様子のジルクから、交代要員についての提案を受けた。
「お嬢さん、………少しの間、ベージに見張りを任せても?」
そんな申し出に目を瞬けば、いつの間にかすぐ後ろに、ベージが立っているではないか。
柔らかな微笑みを浮かべた氷竜の騎士団長が、どこか困ったように挨拶をしてくれる。
「なぬ。ベージさんとお会い出来たのは嬉しいのですが、後半の言葉がおかしいのでは………」
「俺は、………ここは参加しなければならないようだ。すまないが、待っていてくれ」
「さては、チョコレートが好きなのですか……?」
「商人として、こっちは参入の可能性がある品物なんでね。………ベージ、少しだけ任せていいだろうか?」
「ああ。………もし宜しければ、友人が戻る迄ご同席しても?」
「ふふ。またしてもこんな所でお会いしてしまいましたね。…………ですが、ここにいるということは、ベージさんもチョコレート目当てではないのですか?」
「いえ、俺は、あまりにも賑やかなので、何をやっているのだろうと近付いただけなので」
そこまでのやり取りが終わるのも待てずに、しゃっと売り場に走っていってしまったジルクを見送りながら、ベージが苦笑する。
影の庭での一件の際のお迎えでも思ったが、この二人の関係は、どちらかと言えばベージが面倒を見る側であるらしい。
「まぁ。やはり、このような買い物はお得意なのですね。あっという間にあんなところにいます!」
「困った男ですね。何か、用件があったんでしょうに」
「先日の一件の謝罪の品についてのお話をする予定でしたが、とは言え、このような品物はご縁あってのものですので、存分にお買い物をすればいいのでしょう」
「そう思っていただけるのなら、彼も幸いでしょう。何か、飲み物などを飲まれますか?」
「まぁ。あちらに屋台があるのですね。チョコレートの飲み物はあまり得意ではないのですが、他のものもあるでしょうか」
「メランジェなどもあるようですよ」
「むむ!では、メランジェを飲みながら、ゼノとジルクさんのお買い物を待っていることにしますね!」
荒れ狂う会場の待合スペースで、ネアは、屋台で買ったメランジェを飲みながら、ベージとお喋りをした。
聞けばベージも、明日の部で、額縁シールの購入に挑戦してみるのだそうだ。
何かお勧めのシールがあれば教えて欲しいと言うので、ネアは購入品を見て貰い、その中でもベージはライラックの物が気に入ったようだ。
檸檬色の虹彩模様に鮮やかな水色の瞳を持つベージは、穏やかな声で色々な事を話してくれる、ネアの中でのお気に入り度一位の座をダナエと争う素敵な竜である。
クロウウィンで失われた守護の中で、壊されずに残った守護を与えてくれた相手でもあり、こうして一緒に過ごせる時間は純粋に楽しい。
思いがけずすっかり豊かな時間を過ごしてしまい、ネアは、狙っていた商品の全てを買って帰ってきたゼノーシュと、何とかひと箱だけお目当てのチョコレートを買えたジルクを迎え入れた。
「そんなジルクさんからの謝罪の品は、薬草酒のセットと迷い、火織りの毛布セットにしました。既に火織りの毛布は持っていますが、ディノは毛布大好きっ子ですから、お洗濯なども見越して複数枚あると便利ですものね」
「……………ジルク……………なんて」
「ふふ。毛布が出てきてしまったので、荒ぶれていませんよ?それと、ノアからのお悩み相談は無事に終わったのですか?」
「うん。……………アルテアをとても心配していたよ」
「まぁ。最近、告白をする前提で仲良くしようと努力してしまっているので、尚更に本当の事が言い難くなるという悲しい状況に陥っていますものね……………」
「言えるのかな……………」
リーエンベルクに戻ったネアは、ゼノーシュとの買い物の間に行われていた、万象の魔物とウィーム領主、そして森と湖のシーにグラストという、錚々たる顔ぶれによるお悩み相談室の様子を教えて貰い、へにゃりと眉を下げた。
ノアは、春先の予防接種が終わった段階を告白の時期と見ているが、ネアの予想では、予定時期からなんだかんだと決心を固め直す期間を有し、夏頃にまでずれ込む可能性が高いと思っている。
「それと、ゼノのお勧めの花茶の、購入検討用のお試し品を貰ってきましたので、今日か明日にでも、みんなで飲んでみませんか?」
「ジルクなんて……………」
「ゼノが今度ひと缶分けてくれるという、仄かな甘みのある林檎の花茶は、ポットの中で綺麗なお花が咲くのだそうです。ディノのお気に入りがあるといいですね」
「……………うん。シールは、…………君が最初に選ばなくていいのかい?」
ここで、先程より額縁シールを預けられている大事な魔物から、不安そうにおずおずと尋ねられ、ネアは微笑んだ。
「ええ。私がこうして欲しい物を揃えていますので、この先はもう、どのシールが残っても嬉しいのですよ。なので、まずはディノに、一番のお気に入りを選んで欲しいのです」
「……………これかな。君が一番好きな祝祭を示すものだから」
時間をかけて、ディノが選んだのは、ホーリートのシールであった。
耳を澄ませると、時折しゃりんという祝祭魔術の結晶化の音が聞こえてくるものだ。
菫やライラックも悩んだようだが、ホーリートと言えば、二人にとっての大事な日である、イブメリアを象徴する植物でもある。
「どこかに貼りますか?シートをこの点線から切り取って、額縁に入れる事も出来るようですよ」
「額縁にする……………」
「では、硝子の入っていない額縁を今度のお休みの日に一緒に買いに行きましょうね。シールを販売していたお店で、このサイズの額縁を売っているそうですから」
「…………有難う、ネア」
目元を染めて嬉しそうに微笑んだ魔物を撫でてやりながら、ご主人様は、頭の中で必死にどのシールを取るかを考えていた。
いざ決めようとするとどれも手放し難く、なぜあのとき、シールを二セット購入しなかったのだろうと考えてしまう。
たっぷりたっぷり、夜までかかってネアが選んだのは、ライラックのシールであった。
晩餐の席で家族にもお裾分けをし、エーダリアが秋の木の実で、ヒルドが夜風とミモザ、そしてノアが菫を選んだ。
エーダリアは、花のシールは既に持っているのでと、今度は、風に揺れる葉擦れの音が楽しい木の実にしたようだ。
花茶の会が翌日に決まり、遊びに来たウィリアムが夜明かり草だという青い花を、そしてアルテアは案の定薔薇を選んだので、ネアの手元には、もう一枚、雨音を楽しめる紫陽花のシールが残った。
けれども、選びきれずに寝台を転げまわっていた伴侶が心配になってしまったディノは、そんな様子をノアに相談してくれたらしい。
翌々日のシールの販売最終日に、少しよれよれになったノアが二枚目のシールを買ってきてくれ、ネアは、もう一度お気に入りが勢揃いした事に歓喜し、大きく弾んだのであった。
1/28明日の更新は、お休みとなります。
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