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33. そこまでがお仕事です(本編)




ネアは、閉ざされた儀式の内側を視線の端から見回し、やはり、元々いた鹿角の聖女の聖堂とほぼ同じどこかなのだと、結論を出す。



(…………影絵のような場所なのかしら。魔術の内側だと話していたけれど、………あわいのように捕らわれてしまう事はないのだろうか…………)



けれどもここにはディノ達はいなくて、あんなにしっかりとネアを抱き抱えていたウィリアムの気配も感じられない。

それは、妖精の国やあわいに落とされた時のことを彷彿とさせる。


それでも、いつもなら首飾りの金庫から何か武器を取り出せばと考えるばかりなのに、こうして名前を握られるという事がこんなにも不安なのだと、ネアは初めて思い知らされた。


向かい合うアリスフィアをどうにかしても、ネアの名前を掴み、そのまま同じところに引き摺り込まれてしまわないだろうか。

そう考えれば、安易に激辛香辛料油を使う事も躊躇われた。


握られている名前を引っ張られないようにと口を噤みかけ、ネアは、アリスフィアの足元に黒い陽炎のようなものが揺らいだのを見てしまう。



(…………ううん。会話が途切れない方がいい。だって、この人はもう祟りものなのだから…………)



理知的に見えてもそこはもう狂気の領域なのだから、この今は表になっている正気を繋いだ方がいい。

そう考えたネアは、会話を続けることで為損じる怖さもあるが、ここは何とか繋いでおこうと、作戦を変更することにした。



「懺悔の時間は終わりましたか?新たな名前を授かる前に、過去の罪に触れるのは良い事ですよ」



(………そうか、ここは教会なのだわ…………!)



そんな一言に、漸くネアは、なぜアリスフィアが容易く自分の内側を覗けてしまったのかを理解した。



彼女は教区主なのだ。



ここは信仰の場であり、ネアの魂の奥深くには、世界を違えても変わらない信仰の根がやはりどうしても深く下ろされている。

その救いを諦めたか否かではなく、生まれ育った環境にその教育があったかどうかで、信仰というものへの認識は変わるのだと思う。



(だから、この人は私の内側を覗けたんだ……………)



教え導く立場の教区主であり、心を繋げるという侵食を可能とする同種族の祟りものとして。

ネアが、無意識にその心を審判させる上位存在と認識してしまっていたアリスフィアには、最初からその扉がちゃんと用意されていた。

彼女はただ、見付けた扉を開いてこちらを覗いただけ。


その扉の存在が見逃されていることをネアは気付かず、異世界の信仰と教育の親密さを映すこの扉ばかりは、魔物達にも到底理解し難いものだ。


自分にしか気付けなかった抜け道なのにと、その迂闊さにくしゃりとなりそうだったが、今はまだ諦める時ではない。



「後悔していない事を懺悔する程、私は恥知らずではありません。そもそも、私をこの国の歌乞いにして、あなたには得るものがあるのですか?…………あなたは、何の為に迷い子を集めていて、本当は何がしたいのでしょう」



もしここで、ネアという名前の付与をきっぱりと断ってしまったなら、ネアでしかないこの身は、一体どうなってしまうのだろう。


それが分からない以上、あまりこちらに踏み込まれる訳にもいかず、こちらを見たアリスフィアにそう問いかけるしか手がなかった。



ふっと静かに瞠った緑色の瞳は、ゆっくりとネアを見返し、悲しげに微笑む。



「以前のこの国の歌乞いだったアリステルは、理想と言う名の虚栄心が強く、とても愚かな子供でした。あの方の血を引く者と伴侶にならんとしていたのに、どうしてああも愚かな事が出来たのでしょう」

「では、その方の失策を補う為に?」

「………レイノ、国家にとっての歌乞いは、最良の道具でなければなりません。であれば、今代の無力な歌乞いもやはり罪人。国の贄として少しでも力のある魔物を招き入れ、その身と命を糧に国王を守るのが歌乞いなのですから」



その瞳の静謐さに、ネアはぞっとした。

ああ、これが信仰なのだと思わせるそのひたむきさに、やっとアリスフィアの願いに触れた気がする。



「………ヴェルクレアの王様を守る為に、より確かな力を得ようとしているのですか?」

「そうだと言えば、それは誠実さを欠くでしょうね。……………私がこの国を守ろうとしているのは、私の愛した、名前すら奪われたとある方の為です。あの方が自らの命を捧げたこの国とあの方の血脈を守る為に、迷い子達をより強く育てる必要があるのです。………レイノ、あなたは良い歌乞いになりますよ。残りの命が僅かになれば、私が優しく食べてあげましょう。そうすれば、どんな迷い子も皆、私のお腹の中で永遠にこの国を守る糧となれます」

「……………だから、………明確な順番があったのですね」



その為の順番だったのだ。



特別な理由など何もなくて、アリスフィアはただ、限界が近付いた迷い子達を無駄にしない為に食べていただけなのだ。


ディノやアルテアが話していたように名簿からの規則性が見られたのなら、ロダート達がレイノを襲うまでの犠牲は、名簿の古い順に出ていたのではないだろうか。


けれども、これまでは厳重に管理され守られていた迷い子の一人が、ネアがここに来て二日目の朝に、契約を為損じて命を落とす事件があった。


ロダート達がそれを光明と見たのなら、恐らくその迷い子にはまだ息があって、アリスフィアはその迷い子を食べたに違いない。

その様子を見た迷い子達は、他にも死にかけた迷い子がいれば、順番が入れ替わるのではと考えたのだろう。




(一欠片も無駄にせずに循環させる為だと知らず、純粋に食料として食べていると思われていたのではないかしら…………)



その平坦な妄執の内情を知り、ネアはざあっと血の気が引いた。


聖堂の窓の向こうで、木々がざわざわと揺れるのが見えた。

そこにもレース模様めいた木漏れ日が落ち、不思議な小鳥が飛んでいるのだろうか。



「その方を、…………大切に思っていたのですね」



(でも、なぜだろう…………)


アリスフィアの狂気はとてもさらりとしていて、ネアはそれを悍ましいとは思っても、なぜだか憎めずにいた。


これは、人間の身勝手な愛と愚かさの話で、その執着と覚悟の強さが、だからこそ、この歪んだ仕組みを作ってしまったような気がする。


どんな理由があれ、ネアのものに手をかけるのなら滅ぼすまでだが、この長くひたむきな復讐には、どこか奇妙な清廉さすら感じられた。



「あの方は、ヴェルリア王族の庶子でした。市井で育った後、私の家の養子に迎えられましたが、他の兄弟達に会う事もないまま、他国とのある街道を巡る諍いの補償として差し出され、処刑されたのです。…………私は、彼を守る為に歌乞いになる筈だった。でも、まだまだ子供でした。到底間に合わず、最後まで至らなかった」



それは、どれだけの絶望だったのだろう。

今は静かな声でその過去を語れるアリスフィアは、それでもどこかでは、異端者を集める門に呼ばれてしまうくらいに心を歪めたのだろうか。



(終焉の子供を求めたアンセルム神父が興味を失ってしまったのは、この人が、その心を鎮めて信念や理想を持つようになったからなのかもしれない…………)



多分ネアは、こんなアリスフィアの方が好きだ。


とても悲しいし悍ましいけれど、ここにいる怪物は、ネアが何度も見かけた鏡の中に住む怪物によく似ている。



(けれども、あまりにも中央に近付き過ぎてしまっている。その領域に介入しようとしているのであれば、見逃される事もないのだろうけれど……………)



素敵な生き物に出会い、そこで心を脱ぎ変えてしまえば良かったのに。

ネアがディノに出会ったように、かつてアリスフィアが契約を望んだという妖精が、彼女を愛してくれれば良かったのに。



でもそれは、所詮、ネアの頭の中で描くだけの綺麗事なのだ。



「さぁ、レイノ。私と一緒に行きましょう。

新しい名前にもすぐ慣れますよ」

「…………いいえ。私にはもう帰るべき家があります。あなたとは行けませんし、あなたを助けてあげる事も出来ない。私は、自分が可愛いばかりの冷酷な人間でしかありませんから」



ネアがそう答えた時、アリスフィアは困ったような目をして微笑んだのではなかっただろうか。

すぐに騒々しくなり、その眼差しはあまり思い出せないままになってしまった。



(あ、…………!)



不意に、姿のない誰かの手が、ネアの背中を覆った。

じわりと染み込む温もりにはっとし、ネアは、これ以上に胸が苦しくなる前にと、慌ててその名前を呼んでしまう。




「ウィリアムさん!!…………っ?!」



その名前を呼んだ直後、がらがらと轟音を立てて空間が崩れた。


思わず、あまりの音に耳を塞ぎかけたものの、その崩壊の隙間を縫って伸ばされた手にしっかりと抱き締められ、ネアは強張った胸の底から息を吐き出す。



顔を押し付け、強く強く抱き締められた腕の中で顔を上げると、こちらを見ているのは白金色の瞳だった。




「すまない。道を作るのに時間がかかった」

「ウィリア…………ウィリさん…………」

「もうここに敷かれた魔術の系譜が分かったから、本来の名前でいいぞ」

「ふぎゅ…………」



あの背中に触れた手の位置的にはこちらだと判断し、ウィリアムの名前を呼んだのは間違いではなかったようだ。

安全な腕の中でほっと胸を撫で下ろし、ネアは、堪らずへにゃりと眉を下げる。



「すぐに、シ………デュノル司教達のところへ連れて帰ってやるからな」

「……………はい。ごめんなさい、私の不手際で、前の場所にいた時の名前を知られてしまっていたようなのです……………」

「…………ああ、それで攫われたのか。いきなり消えて凄く驚いた。今、向こうでアルテア達が魔術の繋ぎに対処している。この癒着はすぐに引き剥がすから、もう少しだけ待っていてくれ」

「…………はい。………ふぐ」

「君が、俺を呼んでくれて良かった。下手をすると、かけられた覆いが破れかねなかったんだ」



頼もしい腕に抱き締められ、やっとしょんぼり出来たネアに、ウィリアムは、そうふわりと微笑みかけてくれた。



「そ、そうだったのですか?!」

「ああ。…………終焉の系譜でもなく、静謐や、ましてや白百合でもない。その人間の持つ魔術は、滅多に扱える者のいない信仰と調伏の粋だ。…………どれだけ備えていても、こうして場を覆される事もあるんだな………」

「信仰の調伏…………なのですね………」

「仕事柄、俺も随分と多くの特等の人間を見てきたが、彼女までのものは稀有な才能だと言い切れるほどに珍しい」



余程の技量だったのか、ウィリアムも驚いているが、それはアリスフィアも同様だった。

割れんばかりに瞳を見開き、アリスフィアは、真っ白なケープを翻したウィリアムを呆然と見ている。



「そんな、………………白持ちだなんて」



ひび割れた声でそう呟くアリスフィアが、ほんの刹那、泣きそうな目をしてこちらを見た。


ぎゅっとしがみついたウィリアムの腕の中からその姿を見ていたネアは、そのままがらがらと崩れ落ちてゆく聖堂の中で、虚空のような場所に立ちこちらを見ているアリスフィアを見つめる。



不本意ながら、今迄にも、こういう事は何度もあった。



そして、大抵の場合、追い詰められた良くないものは本来の悍ましい姿を現したりしたのだが、この少女については、殆ど変わらずに普通の人間にしか見えない姿のままで、僅かに足元に黒い陽炎を纏わせているばかり。



「この方は、本当に祟りものなのですか?」

「それは間違いない。だが、祟りものとして、ここ迄しっかりと輪郭を固めて生き延びる個体が確認される事も珍しいな。………ああ、帰り道が繋がったみたいだぞ」



ウィリアムの声を聞きながら、ネアは、またくらりと世界がひっくり返る感覚を体験する事になる。



そうして、揺らいで入れ替わった世界で目を覚ませば、そこには魔術の風に長い髪を揺らし、水紺色の瞳をしたネアの大事な魔物が立っていた。



「ディ……!………む?…………むぐぐ、……ふぐ!名前を呼べなくなってしまっていても、私の大切な伴侶です!!」

「……………怪我はしていないね?」

「…………ふぁい。ウィリアムさんが迎えに来てくれました」

「…………うん。私が迎えに行きたかったのだけれど、そうすると今の君の守りを剥いでしまうから、ウィリアムに頼んだんだ。…………瞳を通して見てはいたけれど、君が無事で良かった」



戻って来た聖堂の中はどこも壊れてはおらず、相変わらず静かな木漏れ日が揺れる窓が美しい、静かな聖堂であった。


では、アリスフィアが忽然と消えているということもなく、彼女はぺたんと床に座り込んだ茫然自失の体で、こちらを見ている。


ウィリアムはもはや姿を隠すこともなく、純白の軍服姿を晒し、そんなアリスフィアの視線を釘付けにしていた。



「…………やはり、祟りものに成り果てていたか。残念だが、祟りものを教区主に据えておく事は出来ないな。捕縛の上、中央教会で裁判となるだろう」



そう告げたのは、漆黒の聖衣姿のアルテアだ。


ディノが司教としての擬態を解いていないように、アルテアもまだリシャード枢機卿として振舞っているので、この二人にはまだ魔術的な制限があるらしい。

こちらを見て微かな息を吐き、瞳には窘めるような色がある。



「ったく。名前の一つを奪われたな?その名前との縁を切っておいたから良かったものの、そうでなければもっと厄介な事になったんだぞ…………」

「………はい。反省しています…」

「おまけに、少し剥がされて混ざったか。…………後でゆっくり魔術洗浄をかけてやる」

「おやつは出ますか…………?」

「何でだよ」


アルテアには呆れられてしまったが、それはとても大切な問題ではないか。




「…………なぜ、今になって。………やっとウィームを滅ぼせる魔物が現れたのに」



これからアリスフィアはどうなるのだろうと考えていたネアは、聞こえてきたその一言にぴしりと固まる。



「あの歌乞いといい、レイノの事といい、ウィームに妙な執着があると思えば、それが狙いか。当代の歌乞いが気に入らないとでも言うつもりか?それともあの土地そのものか?」


アリスフィアの言葉も、思わず吐露してしまっただけの呟きのようだったが、それに答えたアルテアの言葉も、本人に返答を求めたものではなかったのだろう。


けれどもそれを質問だと認識したものか、アリスフィアは、座り込んだままゆるゆると顔を上げる。



「あの歌乞いは国のものです。力の足りない者であれば挿げ替えなければなりませんが、憎しみなどはありません。しかし、ウィームは毒のようなもの。得体の知れない力と守護を持ち、いつ何時ヴェルリアに牙を向くか分からない。…………また誰かの命でそれを収めるくらいなら、あのような土地は滅ぼしてしまえばいいのです」

「やれやれだな…………。その主張を曲げずにいられるのなら、異端審問官達を説得してみるといい。中央教会での裁判まで、お前の身柄は審問官達の預かりだ。勿論、馴染みがあるらしいアンセルム神父ではなく、他の審問官に引き渡される」

「……………あのウィームですら得られなかった、白持ちの魔物にやっと出会ったのに。…………レイノ、お願いですから、その魔物に命じて下さい。いいえ、魔物の方。私の命など幾らでも差し上げましょう。せめて、ウィームを滅ぼしていただけませんか?」

「残念だが、そこには俺の守護を受けた人間が暮らしている。守りこそすれ、滅ぼす理由が存在しないな」



喘ぐように言葉を重ねたアリスフィアに、刃物のような声で嘆願を切り捨てたのはウィリアムだ。

穏やかに微笑んでいるが、だからこそ、その瞳はどこまでも凄惨さを予感させる氷のような瞳である。



精神圧に当てられてしまったのか、ひゅっと息を飲み、アリスフィアは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。



その途端、どこかでぶつりと糸が切れたような音が聞こえ、広大な規模でかけられていた天幕が落ちたかの如く、世界を覆った色が一枚抜け落ちる。




「…………敷かれた魔術が途切れたね。ウィリアムに願いをかけた事で、魔術の召喚の体裁を成してしまったのだろう」

「……………それは、良い事なのですか?」

「うん。…………私については、もうこの擬態も必要なさそうだね」



ふわっと空気が動き、デュノル司教の姿が消えた。


すると、そこにいるのはもうネアの大事な魔物で、とても久し振りに見るようにも思えてしまう真珠色の髪の伴侶の姿に、ネアはぱっと目を輝かせた。



「ディノ!」

「…………怖い思いばかりさせてしまったね。それなのに、最後に君を名変えの魔術に奪われてしまった」

「そんな風に悲しそうにしないで下さい。信仰というものに対し、生育過程で根を下ろした価値観を拭い去れずに囚われてしまったのは私なのです。…………特に信仰心が厚い訳でもなかったので、自分でもすっかり失念していましたが、私は一応は教会文化を基盤とする国の国民なのでした…………」




ネアが項垂れてしまったからか、ディノは落ち込むよりも慰めなければと思ってくれたようだ。


慌ててネアをウィリアムから受け取ると、しっかりと抱き締め、頬を寄せてくれる。

その温もりはとても心を柔らかくしてくれたが、三つ編みを持たせるのはオプション扱いになるので、ここではどうかやめていただきたい。



「…………はぁ。やはり万象の君でしたか」

「アンセルム。これだけの祟りものを育てていたのなら、前回の別の教区での死の精霊の召喚の事件もその輪の中の動きか?」

「まさか。僕はこれでも系譜の上位ですよ。自分の休暇用の領域に、わざわざ下位の同族を呼び込む程に愚かではありません。あれは、見たままの事故です。でなければ、とっくに僕が処理していますから」


そんな終焉の系譜同士のやり取りの傍らでは、アルテアが倒れているアリスフィアに魔術拘束をかけている。



「信仰の調伏か…………やれやれだな」

「……………その話しぶりだと、やはり猊下も人間ではなさそうですね。まさか、このまま教会組織内に留まったりはしませんよね?」



とても嫌そうにそう尋ねたアンセルムに、振り向いたアルテアは、これはという不穏な微笑みを浮かべた。



「言っておくが、これは侵食を解けば消えるような名前じゃないぞ」

「………………悪夢ですね」



(……………む?)



そうなると、アルテアはリシャード枢機卿としても生活しているのだろうか。

枢機卿ともなれば、なかなかの激務ではなかろうかと首を傾げたネアは、ぐりぐりと頭を擦り付けている魔物を丁寧に撫でてやる。


アルテアが、今回の任務中にやけに書類などを丁寧に決済していたのは、その業務がこの先も自分の領域のものだったからかもしれない。



顔を上げると、こちらを見ている魔物がいて、ネアはそんな自分の宝物の眼差しに幸せな微笑みを深める。

ほんのひと時、もう一度ネアハーレイとしての寄る辺なさを味わっただけに、もう自分には家族がいるのだと思えば、何と贅沢な気持ちだろう。



「…………私は、きちんとお仕事を終えられたのでしょうか?」

「うん。この人間の敷いた魔術は、ウィリアムに差し出した契約を破棄されたことで崩れた。それに侵食を受けていた君は、ウィリアムと契約を結んでいる状態にあったから、魔術的に競り勝ったことになっている。こちらで侵食の剥離を行うまでもなく、もう、きちんと抗体として機能するようになっているよ」

「…………ふぁ、ほっとしました!ここまで沢山の方が動いていて失敗してしまったら、取り返しのつかない事になってしまいます…………」

「………もし今後、この魔術がまたどこかで目を覚ましても、君が悩まされることはない。…………名変えで完結するものであれば、私の約定で名前を守ってある君に対しては侵食を完成させられるものではなかったのだけれど、とても厄介な術式だったからね………………」



ひとまず、任務は完了したようだ。

それを確認して胸を撫で下ろしているネアの向かいで、アンセルムは瞠目していた。



「……………術式を写しに来た訳ではなく、その治療薬目当てでしたか」

「アンセルム神父、お世話になりました。ご恩と悪さで差し引き真っ平らです。ごきげんよう」

「……………素晴らしく手早く手を切ろうという意思がこれでもかと窺えるご挨拶ですね。ですが確か、君達は日付が変わる迄はここを出られない筈ですよ」

「うむ。その場合は、美味しい晩餐をいただき、事後処理などを片手間に済ませつつ少しごろごろしていれば、あっという間に時間になりそうです。怠惰程に時間を早く燃やしてくれるものはありませんから」

「清々しい大雑把さですね。……………君が万象の魔物の伴侶でさえなければ…」

「アンセルム?」

「ほら、あなたはすぐに武力で解決を図ろうとする」



ふぅっと溜め息を吐き、アンセルムは肩を竦めてみせる。


こちらを見たようだが、ネアは現在伴侶な魔物を撫でるのに忙しいのだ。

どれだけ無理をさせ、どれだけ怖い思いをさせてしまったものか、これはもう、帰ったら髪の毛を洗って大事にしてやらなければなるまい。


少しだけアンセルムを威嚇している伴侶に、ネアは、今回の任務は、聖衣姿のディノとアルテア、そして駆けつけてくれたウィリアムでお腹いっぱいだと伝えておいた。




「……………アリスフィアさんは、どうなるのですか?」

「中央で派遣する審問官の預かりだ。実際にどうなるのかは知らん」

「それならトム神父かもしれませんよ。彼はまだ審問官を名乗れない異端審問局の局員ですが、最近姿を見たばかりですからね。猊下もご存じなのでは?」

「さてな」

「やはり少しだけ気になってしまうのですが、アンセルム神父は、アリスフィアさんの今後を案じられたりはしないのですね…………」



なんともからりとした様子に思わずそう尋ねたネアに、夜菫色の瞳をした美貌の神父は、こちらを見て穏やかに微笑んだ。

黒い簡素な神父服姿だが、そんな装いはこの精霊にとてもよく似合う。



「アリスフィアは、たいへんな才能と哀れな願いを持つ稀有な人間だったでしょう?終焉の子供としての気配を帯びていた時には愉快な玩具になりそうでしたが、でもそれも狩りの獲物としてです。その上、この通り今はいっそうに単純で面白みもない。僕にとっては、ロダート君と何ら変わりありません」



やはりそういうものなのだろう。

ネアは、言われた言葉に納得してふすんと頷いた。


けれどもそうするとなぜか、アンセルムには意外そうに目を丸くされ、三つ編みを持たせてくる伴侶は困ったようにこちらを見る。



「……………あの人間を、気に入っているのかい?」

「あの方は、かつての私にとても似ていて、途中までは不思議と惹かれてしまう方でした。しかし、最後の一言でさようならです」

「ご主人様………………」



ぐっと低い声でそう宣言したネアに、すっかり怯えてしまった魔物は、どこからか取り出したあの菫の砂糖菓子をネアの口に押し込んでくれる。

口の中でほろりと崩れる甘さにうっとりしつつ、ネアは握らされた三つ編みを引っ張ってやった。



「………………まさか、そういう関係なのですか?」

「まさかも何も、こいつ等はいつもこうだぞ」

「しかし、……………万象ではありませんか」



何やらアンセルムが青ざめているが、美味しいグラタンと殺されかけたことを天秤にかけ、更にはそこから精霊の厄介さを差し引いた後、ネアにとってのアンセルムは、ほぼ計測値なしとなっている。


グラタンにおいては既に新時代が到来してしまっているので、いつもの使い魔さえ押さえておけば問題ないのだ。




「ああ、やっと見付けましたよ。悪い遊びに興じておられた教区主様をお迎えに上がりました」


そこに、あの緑の鉱石の扉を開けて入って来たのは、トムと呼ばれていた隻腕の神父だ。


相変わらず印象の薄い容貌だが、ネアは、こうして記憶を取り戻して見てみればと、独特な瞳の表情にぎくりとする。

その姿を見た途端、ウィリアムの表情が虚ろになったので、ネアの予感は間違いなさそうだ。


アンセルムはまだ気づいていないようだが、どう考えても魔物に違いない。



「そうか、最初から居たんだな…………」

「下っ端審問官としてですが、勿論ここにいましたよ。はぁー、精神圧で失神させましたか。一応は聞きたいこともあるので、心の内側も無事だといいんですけれどねぇ…………。まぁ、こちらはゆっくりとやりましょう」

「さっさと連れて帰れ。くれぐれも、誓約以外のことをするなよ」

「はは、まさか。こんなに良い素材を、砂糖にせずにどうしますか。………おっと」



その一言で小さく呻いたのはアンセルムだ。



「…………………グラフィーツ。君まで、ここにいるとは思いませんでした。僕の後輩にあたる本物のトム神父はどうしたんです?」

「そりゃあもう、聖女でもない愚鈍な聖職者の砂糖なんぞさしたる甘みもないので、あの教え子達の畑の肥料にしてしまいましたよ」

「愚者の砂糖はそこから作ったようですね………………。アリステルの時といい、君は………」

「おやおや、今回の僕は誰の尻拭いをする羽目になっているのか、ご存じで?」

「この教区をどう扱おうと、それは隠者である僕の勝手で、人間達にとやかく言われる筋合いはありませんよ」

「いや、あんたは王の伴侶に手を出してますからね」



本来の話し方なのか、すっと声音を低くしたトムにそう指摘され、アンセルムは若干気まずそうにはしたものの、一応は死の精霊の王族であるからか、もうディノの方を見て恐縮するようなことはなかった。



「それに、アリステルについては、興味を持って視察には行ったものの、すぐに見付かってしまったので結局手を出せていないんですよ。砂糖にして残すことも許されず、接触を禁止されてしまいましたからね。今のご主人様には及びませんが、まったく勿体ないにも程がある……………」

「相変わらずの嗜好だが、畑作りをする意味は何だ。養殖ものは興味がなかったんじゃないのか?」


そう問いかけたアルテアに、トム神父はにやっと笑って首を振る。



「あ、残っている方の歌乞いのことですか?あれは、依頼があって多少遊ばせているだけなので、どうかご容赦を。結果丸く収まってそちらの邪魔にはならない予定だそうですよ。……………もうお帰りになられますか?実は、局長とも話しておきたいことがありまして、早めにお会いしたいのですが………」

「日付が変わるまでは無理だろうな」

「…………そろそろ僕は何に対して悩めばいいのか分からなくなってきましたが、その局長というのは、うちの局長の事ではありませんよね?」

「さてな」

「……………これはもう確定ですね」



そちらは何の話だろうと首を傾げて見ていると、リシャード枢機卿に擬態したアルテアが、青緑の瞳で鋭くこちらを見る。


「…………晩餐のメニューの相談ですか?」

「何でだよ。…………いいか、事態収拾の為に、俺は夜半過ぎまで忙しくなる。くれぐれも、目を離した隙にまた妙なところに迷い込むなよ」

「むぐぅ………。名前を取られかけた手前、反論しきれません………」

「彼女には俺とシルハーンが付いていますから、問題はないと思いますよ。最後まで、契約の魔物としてしっかり守るからな」

「ウィリアムさん!」

「ウィリアムなんて……………」


伴侶な魔物が少しばかり拗ねたが、こうしてウィリアムが来てくれた事で、想定より手数を少なくして解決したばかりなので、感謝もしているようだ。



(…………………む、)



ふと視線を感じ、ネアはトム神父の方に顔を向けた。

目が合うと、にっこり微笑んでくれたが、話を聞いている限りはあまりお近付きになりたくない魔物だ。



「夜にまた伺います。今回の事件に際しお聞きしたいこともあるので、…………そうですね、晩餐時に」

「………………食事の為にの間違いだろ」

「それが何か?」




その後、トム神父はひょいっとアリスフィアを担ぐと、ひらりと手を振って足早に立ち去っていった。


この後、あの教区主がどうなるのかを考えるとあまり晴れ晴れとした気分とは言えなかったが、無事に潜入捜査の山場は去ったようだ。



(最後までではなくても、私の仕事はここまで。…………残りの時間は危ない事に巻き込まれないようにして、みんなでリーエンベルクに帰るのだから…………)



後はもう、家に帰るまでが遠足な気持ちで残りの時間を静かに過ごそう。



教区の中の森はゆっくりと陽が暮れてゆき、春の夕暮れらしいけぶるような藤色の光に染まった。



ネアは、こうして記憶が戻ると、妙に見慣れない教会の迷い子の制服のスカートを撫でつけ、持たされたままの魔物の三つ編みのリボンを綺麗な形に直してやる。



何だか短いようで長い奇妙な時間だったと思いながら、大切な魔物達に囲まれて、今はもう日常になりつつあるこの世界の不思議に溢れるその森を出たのだった。







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