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204. 終焉の離宮に招かれます(本編)




しゃりしゃりしゃわん。

不思議な風の匂いが通り抜け、ネアは目を瞠った。



足元の砂は細やかな宝石の欠片のようで、じんわりとした温かさに肌が和らいでゆく。

淡い淡いシュプリ色の砂は、星の光を映した水晶を細かく砕いたかのよう。


きらきらと光るというよりは、敷き詰められた砂漠の砂そのものはマットな色合いなのだが、光の角度できらりと強く光る粒があちこちに見えるので、色合いを変えた星空のようだ。


砂山の影になった部分にだけ、はっとするようなライラック色の影が落ちる。

それがまた美しくて、ネアはほうっと溜め息を吐いた。



「リーエンベルクの中に、こんな不思議なお部屋があるのは知りませんでした」

「ああ、俺も驚いているが、………ここは、サナアークの砂漠によく似た風景だな。誰か、そちらの景色を知る者が、それを模して作ったんだろう。併設空間を設ける上で、相応しい部屋を開いてくれたのかもしれないな」




今日はいよいよ、因果の精霊王の八つ当たりで貰えなかった、ネアの誕生日の贈り物の一つを受け取る日だ。


漸くという喜びと、クロウウィンの事件以降欠けていた、ウィリアムの祝福を取り戻せる、やっとという安堵の思いと。

そのどちらにも胸を満たされ、ネアは、気持ちのいい砂を裸足で踏む。

元々、ウィリアムの領域で行われる筈だった贈り物の受け渡しは、冬と結び過ぎない終焉の魔物の隔離地で行うと伝えられていた。



(温かな場所だからと少しの薄着でいたのだけれど、裸足で砂の上を歩けるとは思わなかったな…………)



ネアは冬が好きだが、それとこれは別である。


雪景色に見慣れてしまったこの季節に、はっとするような穏やかな気候のえも言われぬ色合いに染まった砂漠を裸足で歩けるともなれば、大興奮となるのは致し方がない。



どこまでも、どこまでも。


この美しい砂漠が広がっているように見えるが、ここは広間の一つである。

天井にはシャンデリアの煌めきが宿るし、半円形の天井線が薄らと見えていて、それがまたこの景色にわくわくとするような物語の額装をするのだ。


石膏のような艶消しの白い彫刻装飾がある、セージグリーンの扉の向こうに、こんなにも美しい砂漠が隠されていたなんて。



「……………綺麗ですね」

「部屋壁はそのままなのに、ずっと奥まで続いているように見えるんだな。ここに扉を設けるんだが、ネアは多分驚くぞ?」

「むむ?……………まぁ!砂漠の国の宮殿のもののような扉ですが、このお部屋の壁と同じ色です!!」



唇の端を持ち上げて微笑んだウィリアムがすいと片手を振ると、現れたのは美しい彫刻とモザイクのある壮麗な扉だ。


見た瞬間の印象では、砂漠の国の宮殿のようだと思ってしまったが、よく見れば、扉の上にリースのようにかかる彫刻装飾の意匠は、ウィームのものにも近いモチーフではないか。


カルウィを中心とした砂漠の国を挟んだその向こう側の国々は、幾何学模様の装飾が多いのだが、ウィームを含むヴェルクレアの国内では、植物や羽など、実際の形を模様化した意匠が好まれている。

この門の装飾は、その二つの要素が複雑に絡み合い、そっと指先で辿りたくなるような繊細な美しさであった。


おまけにその門は、澄み渡った空や南洋の海を思わせる、ターコイズブルー色なのだ。

ただのターコイズブルーではなく、白混じりのような柔らかな色合いは、この広間の壁の色と全く同じであった。

つまり、この広間の壁の色と、ウィリアムの出した扉の色は殆ど同じ色で、尚且つ偶然だというのだから驚きではないか。


そんな色揃えにすっかり胸をときめかせてしまい、ネアは伸ばされたウィリアムの手を取った。



(……………わ!)



扉を開けてくれたウィリアムとその向こうに踏み出せば、しゅわんと吹き抜けたのは、温度のない風だ。

胸の中の疲労や強張りを吹き飛ばすような心地よさで、思わずむふんと頬を緩めてしまう。


今日の為に久し振りに引っ張り出してきたドレスは、灰色がかった菫色のお気に入りのものだ。

夏用の物程ではないにせよ、冬用のドレスよりは薄手の生地なので、風にスカートがふわりと翻る。



手に持っている靴は、ネアにとっては珍しい薔薇色の物で、リボンで足首にきゅっと結ぶ可憐さである。

だが今は、脱いで手に持っていた。



(……………ああ、こんな風景によく似合うな)



はたはたと風に揺れる軍服の白いケープに、鮮やかな裏地の深紅が揺れた。

このウィリアムのケープはとても不思議で、こんな晴れやかな空の下だと、僅かに薔薇色がかって見える。

だが、暗い夜の中や深い霧の中では、ぞくりとするような深紅に見えるのだ。

こうして明るい空の下で見ることはあまりないので、そんな色の翳りに気付いたのは初めてだったのだが、この風景の中の終焉の魔物は一枚の絵のよう。


なんて美しいのだろう。



「俺の領域だと、今の段階で、アルテアの時のように泊まるのは難しいが、一時的な祝福付与の定着の為には、こうした場所がいいんだ」

「はい。少し残念ですが、今日は滞在時間いっぱいを楽しんでしまいますね。……………まぁ、ここが、今日の会場ですか?」


扉の向こうにも砂漠があって、その中にはフィンベリアのような景色が見えた。

淡い色合いの砂漠の上に、はっとする程に鮮やかに灯るのは、瑞々しい緑と花々の色彩だ。


「ああ。気に入ってくれるといいんだが」

「何て素敵なお屋敷なのでしょう!入口から覗くお庭の木々が、満開の花のカーテンのようです。…………ライラックと、薔薇と、ブーゲンビリアでしょうか?」

「ああ。目立つのはそのあたりか。他にも色々、仕事先で気に入った花を持ち帰ってある。城に繋がる離宮のような場所と言えばいいのかな」

「という事は、………ここから、ウィリアムさんのお城にも行けてしまうのです?」

「いや、今日は守護の定着に専念しよう。その代わり、今日の守護が身に馴染んで落ち着いてから、またあらためて招待させてくれ」

「はい!」



終焉の魔物のお城に入れないのは残念だったが、ネアは、目の前に広がる建物の美しさにすっかり夢中で、小さく弾んでしまった。



何しろそこに広がっていたのは、高い壁と大きな木を目隠しにした、色とりどりの花の咲き乱れる美しい離宮なのだ。


石造りの建物は、柔らかなシェルホワイトの石材を組み上げ、屋根の部分は深みのある孔雀色だろうか。

敷地内の床石はテラコッタのようなざらりとした質感のもので、深い深い青色で統一されている。

咲き乱れる花々に、水盤や噴水がある様は砂漠の国の庭園のようだが、建物自体はウィームの建築様式に近い。


瑞々しい植物の縁取りがそれぞれの雰囲気を上手にまとめあげ、物語の中の不思議な宮殿のような場所を作り上げていた。



(何度か訪れたテントとはまた違う、優雅で華やかな雰囲気だわ。……………でもどこか、秘密めいた翳りがあって、その色さえもが美しいのだ………)



目を丸くして美しい離宮を見つめているネアに、ウィリアムが繋いだ手をきゅっとしてくれる。

その合図に顔を向け、ネアは、この感動をどう伝えればいいのだろうと足踏みした。



「ここに誰かを招く事は、殆どない。だが、中も自慢だからネアが気に入ってくれるといいんだが」

「もうここから見える入り口だけで大好きなのに、まだ素敵なものが隠れているのですか?」

「と言うよりは、素朴な美しさだろうな。魔物達の城の中では、俺の領域は、人間の作る物に似ていると言われている」

「不思議で美しくて、でもどこかひたむきで素朴で、………ですが、とても秘密めいているのです」

「………ああ。秘密もまた、俺の領域のものだ。ここから繋がる城の方は夜や静謐の要素が強いが、こちらは、終焉の普遍性を示す領域なんだ」

「だからなのですね…………」



靴を履いてから、手を引かれて色鮮やかな庭園の中に入りながら、ネアは、この秘密めいた不思議な空気の理由が分かったような気がした。


ここは日常なのだ。


とびきり美しく、物語の中の楽園のような場所だが、普通の人間の貴族や王様が住んでいたと言われたなら、成る程と信じてしまいそうな美しさでもある。

だが、そんな温もりや日常が、ある日突然にふつりと途切れ、物語の中に無人で取り残されたような密やかさが、どこにもない特別な空間を象っていた。


こつこつと青い石床を踏み、散り落ちた花びらや風に散った木の葉の彩りを楽しむ。

花影や木漏れ日が落ちていて、甘い花々の香りの中でさらさらと水の音がした。



「終焉の祝福の形は、音楽と乾杯なのですよね」

「ああ。終焉の儀式を、より効率的に切り分けた行為だからな。だが、折角だから昼食にしよう。ネアは、シュプリだけではなくて料理もあった方がいいんだろう?」

「はい!」

「とは言え、俺はアルテア程に器用じゃないからな。簡単なものだが………」

「あら、前にいただいたウィリアムさんのお料理は、とても美味しかったのですよ?」

「それなら、張り切って腕を振るっておいて良かった」



こちらを見て微笑んだウィリアムが、低く歌うような詠唱を呟く。

また温度のない風が吹き、誰もいないように見える離宮の二階の窓が開き、レースのカーテンが風に揺れていた。



美しい午後と、柔らかな風。

そこにひたひたと染み渡り、響き渡る詠唱は、なんて美しくて優しいのだろう。

手を繋いで歩きながら、ネアは優しい終焉の魔物の声を聞きながら、開け放たれたままになっている離宮の扉を潜った。



「………ふわ、」



木漏れ日が差し込む宮殿の中は、明るかった。

あちこちに落ちる影は、お昼寝に心地よい海辺のリゾート地のようで、好きな本を持って何日か滞在させて欲しいくらいだ。

この建物の中でごろごろ出来たら、どこにいたって気持ちいいだろう。


床には、薔薇の祝祭の時のように花びらが振り撒かれていて、その上を歩くようになる。

置かれている調度品は立派なものだが上品で、ここにある筈もない、穏やかに丁寧に生きる人達の生活が想像出来てしまいそうな佇まいであった。



「あちらに、風景の見える部屋があるんだ。そこで昼食にしよう」

「むむ、詠唱はもういいのですか?」

「ああ。この領域に入る為のものだからな。後は、食事の前と、音楽の魔術の構築の前にも少し必要だな」

「ウィリアムさんの詠唱が聞けてしまうだなんて、とびきりの贅沢ですね。声がふわりと柔らかくて沈み込むようで、………とても素敵でした!」



そう言えばこちらを見て微笑むウィリアムはまるで、一緒に旅をしている仲間のようにも見える。

なぜそう思ったのだろうと首を傾げたネアは、通り過ぎてゆくアーチ型の大きな窓の向こうの景色が、全て違うことに気付いた。



「この窓から見える景色は、どれも、もう残っていない場所の影絵なんだ。戦乱や疫病、区画整理で失われてしまったが、美しいところばかりなんだ」

「…………まぁ。こんなに素敵な景色なのに、もうないのですね。………むむ、このラベンダー畑は!」

「チェスカという国の感傷の雨の降る美しい土地だったが、戦乱で焼けてしまったな。この隣は、林檎畑に囲まれた小さな国の秋の景色なんだ。何回か騎士として暮らしていたことがあったが、穏やかでいい国だった」

「チェスカは、私がノアと出会ったところなのですよ!」

「おっと、そうだったか……………」



(まるで、美術館のようだわ)


美しい絵画のような窓の向こうの色の隣を歩けば、今いるここはどこだろうという浮遊感に、足元が揺らぐような気がする。

けれども、顔を上げて廊下の先を見れば、先程通り抜けてきた庭園が見えるので、夢から醒めたような気持ちになるのだ。


やがて長い廊下の突き当りに、素晴らしい景色を臨む部屋が見えてきた。

期待と感動に打ち震えたネアは、わなわなとしてしまう。


「………ぎゅわ」

「この部屋だ。………ネア、少しだけ顔を上げてくれるか」

「はい。………むぐ」


手を繋いだまま、隣に立ったウィリアムを見上げると、顎に指をかけられ、淡く微笑んだ終焉の魔物から、一つの口付けが落とされる。

白金色の瞳が息を飲む程に鮮やかで透明で、青い影と窓の向こうの庭園の色の中で浮かび上がる冴え冴えとした白い軍服は、なぜだかこの場所の案内人のようにも感じられた。



案内された部屋の向こうには、深い深い色を湛えた湖が広がっている。

モナの海辺を思わせる複雑で繊細な色だが、こちらの方がより鮮やかで宝石のような色合いであった。


開け放たれた窓の向こうにはそのまま繋がるように湖が広がっていて、窓の横から垂れ下がる蔓薔薇の茂みと、色鮮やかなブーゲンビリアの枝が額縁のようにかかって見える。

窓辺にはテーブルがあって、たった今作られたばかりのように湯気を立てている、美味しそうな昼食の準備があった。



「なんて美しいのでしょう。………こんなに美しくて特別なのに、ここにあるものはなぜか、特別な一日ではないような気がするのです」

「ああ。終焉の祝福を生きている形で重ねてゆくには、こうやって、………」


微笑みが深くなり、また一つの口付けが重なった。

まるで家族や伴侶のような親密さと穏やかさは、儀式めいた感じはしないのに、それでもどこかに、日常から切り離されたような荘厳さがずっとあるのはなぜだろう。


「……むぐ」

「生活や暮らしを模した中で、何度にも分けてゆっくりと重ねてゆくものなんだ。ネアは人間だからな。特別な一つではなくて、生者としての時間の中に散らばる祝福を集めて、その全てを結ぶやり方にした」

「だから、まるで家族のように感じるのですね」

「…………おっと、そう言われると少し揺らぐな」

「むむ?」

「いや、気にしなくていい」


何が揺らぐのかなと首を傾げると、くすりと笑ったウィリアムが大きな手で頭を撫でてくれた。

帽子を取り、しゅわんとどこかに消してしまうと、帽子がなくなってしまったぞと眉を下げたネアに気付き、ふっと悪戯っぽく笑う。


「帽子はまた後でな」

「………帽子」

「ネアが、俺の終焉としての正装を気に入ってくれていて嬉しいよ。だが、まずは昼食にしよう」

「はい。鴨様です!」

「日常を切り取る食卓なら、ネアが好きなものがいいだろう。それに今日は、ネアの誕生日祝いだからな」

「ウィリアムさんがくれる贈り物は、このお料理なのですか?」

「いや、実はとっておきのものがある」

「ふぁ!」


繋いでいた手を放して、椅子を引いて貰った。

ぷわりといい匂いの漂う食卓には、鴨肉のローストに果実のソースと、バターをたっぷり塗った葡萄パンのトーストに、新鮮そうな黄色いチーズはお好みで。

そして、二人で取り分けて食べるトリッパのトマト煮込みに、ほうれん草などの緑の野菜が色鮮やかな、魚卵の燻製を飾りかけたオイルベースのパスタまで。


テーブルには真っ白なクロスがかけられ、真ん中には、視界を遮らないように低めに生けられた白薔薇が飾られている。

テーブルの上に用意されているシュプリのボトルの影が淡い金色に輝き、繊細な彫り模様のあるグラスは見ているだけで嬉しくなるくらい。



(そうか。………これも日常なのだわ。人生にたった一度の特別なご馳走ではなくて、家族や友人と過ごす、ちょっとだけ特別な食事の席。例えば、誕生日の食事に出かけた日のような………)



だからきっと、この席でウィリアムが選んだ詠唱は、前の世界で言うところの食前の祈りのようなものだろう。


だが、燦々と降り注ぐ祝祭の日のミサのような涼やかな詠唱が終わり、食事の為に手袋を外す仕草にはどきりとするような男性的な色香が伺え、ネアは、慌ててグラスを取り上げる。



(び、びっくりした………!)



不思議なことに、こうして一緒に食事を始めようとすると、まるで家族や恋人と向かい合っているような錯覚に襲われた。

そして、そんな風に個人的な日常に落とし込むには、目の前の男性はあまりにも美しく、その枠組みの中に押し込めるには危うい生き物に見えるのだ。



(いつものウィリアムさんの方が見慣れた温度で、リーエンベルクのお部屋で寛いでいても、こんなに、……背徳的な感じはしないのに。寧ろ、戦場に出ている姿の方が、当たり前の風景に感じられてしまうくらい)



そう考えてしまえば、誰かとの二人きりの日常に収めるには凄艶過ぎるこの魔物は、どれだけ孤独なのだろうとも思った。


終焉というものは、生活の中や街中のそれこそどこにだってあるのに、ウィリアムが現れ微笑みかけただけで、非日常の装いに塗り替えられてしまう。

それは、ずっと隣にいるのに、当たり前のようにこちらに触れる事だけは許されない残酷さで、そのくせに例えようもないくらいに近しい隣人なのだ。


だからここは、日常の一場面で、けれども荘厳なくらいに切り離されていて。

何て穏やかで悲しいのだろう。



「誕生日、おめでとう。ネア」

「有難うございます!………ウィリアムさん、またここに連れて来てくれますか?」


だから、我が儘で強欲な人間は、この贈り物の儀式が終わるどころか、まだ乾杯もしていないのにそう言ってしまう。

すると、ウィリアムは途方に暮れたように目を瞠り、それから泣きたくなるような優しい眼差しで微笑んだ。


「…………この離宮を訪れた事があるのは、シルハーンとアルテアに、グレアムとギードだけなんだ」

「まぁ、………その、恋人さん達も招かないのですか?」

「一度招待しようとした事もあったが、怯えたように逃げ出してしまって、彼女とは、二度と会う事はなかった」

「……………ふむ。お名前を教えておいていただければ、機会があれば、豆の精の箱詰め合わせなどを贈っておけるのですが…………」

「ネア………」


少し困ったように微笑んで、ウィリアムがグラスを持ち上げたので、ネアは手に持っていたグラスを同じ高さに合わせ、微笑んだ。

注いで貰ったしゅわしゅわと泡の立つシュプリは、口に含めば、きんと冷えた冬の祝祭の日の夜を思わせる美味しさである。


「………だが、ここは、そういうところなんだろう。グレアムは、君らしい気配の場所だと言ったし、ギードは、美しいけれど少し寂しくなると話していた」

「ディノは、どう言っていたのでしょう?」

「……………シルハーンは、穏やかで優しい場所だと」


そう呟いたウィリアムがほろりと安堵にも似た喜びをこぼしたのは、無意識のことなのだろう。

けれどもここにいる人間は、魔物のお城が、その魔物の魂の領域のような場所であることを既に熟知しているのだ。


「ふふ、では、私だけでなく、ディノもまた呼んであげて下さいね。私は、あの木漏れ日や花影の落ちる窓辺に居心地のいい長椅子を置いて、ごろごろしながら読書をしてみたいです」

「はは、それはいいな。今度、一緒にやってみるか」

「まぁ、そう言ってしまったら、また遊びに来てしまう約束なのですよ?………そして、アルテアさんも何か言っていたのですか?」

「ああ。また遊びに来てくれ。今度の時には今日の祝福や守護が定着しているだろうから、より過ごし易くなる筈だ。……………アルテアは、………そうだな。勝手に泊まり込んで、床石をどこから仕入れたのかを聞いていったのと、この部屋のカーテンの素材を勝手に変えていったくらいだな。………後は、奥にある庭に面した部屋の窓の計測をしていったり、勝手に幾つかの植物の種を持って帰ったか」

「ほわ、……物凄く気に入ってしまっています………」

「ん?そうなのか?」

「きっと、床石や窓はどこかのお屋敷で取り入れられていますし、植物は同じものをどこかで育てています。ふふ、やはりお二人は仲良しなのですねぇ」



ネアがそう言えば、ウィリアムは暫し唖然としていたが、困惑したように首を振って話題を変えてしまった。

ネアとしてはもっとその時の事を聞きたかったのだが、アルテアがこの離宮を気に入って滞在していたという事実は、まだウィリアムには刺激が強いのかもしれない。



「今年の誕生日は、俺の領域の祝福を守護として付与するここで過ごす時間と、後はこれなんだ。………まぁ、こういう品物は好き好きだからな。好みに合わなかったら置物にでもしてくれ」

「香水です!」


美味しい食事が終わってしまい、ネアが、葡萄パンのトーストと黄色い蕩けるチーズの組み合わせをもう一度最初からやり直すのも吝かではないと考えていると、そんな前置きでことりとテーブルの上に置かれた物があった。


それはそれは優美な形の香水瓶で、木漏れ日を映して煌めくような淡い水色の香水が入っている。

瓶そのものは透明だが、瓶の口の部分の周りだけが、磨り硝子めいた加工で雪のように白い。


この手の品物が大好きなネアが大興奮で手に取って蓋を開けると、ふわりと漂うのは、この離宮を包む美しい庭の花々の香りではないか。


甘いのに清しく、どこか子供時代の優しい午後を思わせる香りにすっかり魅了されていたネアは、感動のあまりに椅子の上で弾んでしまった。



「こ、この香りを持ち帰れるなんて!わぁっと使いたいのを我慢しながら、すぐになくなってしまわないように大事に使いますね。瓶もとても綺麗で、これだけでも素敵な贈り物になってしまうのに、こんなにいい匂いだなんて……」


真鍮色の蓋を開けるとスプレー式になっていて、スポイト式の香水瓶だと加減が分からなくなるネアでも、上手に使えそうだ。

すっかりご機嫌で瓶を持ち上げたり、また蓋を開けてくんくんしているネアを、ウィリアムは、食後の紅茶のカップを片手にどこか満足げに見つめていた。



「君は、やっぱり終焉の子なんだな。………もし、ネアがこの離宮で過ごす時間が苦痛だったとしても、守護を終えるまでは帰せないだろう?その場合は、巨人の酒でも使うしかないかなと、悩んでいたんだ」

「むぅ。とても素敵な場所なので、意識や記憶を無くそうとしたら、家主さんでも許しません………」

「はは、そう言ってくれるなら、勿論そんな事はしないさ。………さて、そろそろ音楽としようか」


かちゃりとカップを置き、立ち上がったウィリアムがまた椅子を引いてくれる。

ナプキンを畳んで立ち上がり、ネアは、大事な贈り物をいそいそと仕舞いこんだ。


「はい。この香水は、もう二度と返せないので、私の金庫に隠してしまいますね。素敵な贈り物を有難うございます!」

「うーん、………寧ろ試されるのは、俺の方か。なかなかくるな………」

「ウィリアムさん?」

「いや、気にしないでくれ。……ここから、湖の方に出よう」

「はい。砂漠を歩いて来たのに、こちらにはすっかり砂はないのですね」

「ああ。砂漠は元々、何らかの終焉の顛末である事が多い。その分俺も気を抜けるんだが、俺の領域内のものは、こうして損なわれずに健やかなままでいてくれるからな」



湖の方へと続く窓から外に出ると、ネアはふと、懐かしい音楽が聞こえたような気がして振り返った。

繋ぎ直した手をウィリアムが、少し強めに握るので、おやっと眉を寄せる。

こちらを見下ろす終焉の魔物の眼差しは穏やかだがどこか酷薄で、じっと見つめる先のネアの中に、何かを見付けるような静謐さであった。


「……………シルハーンの考え通り、やはり俺に近しいものだな。ネア、一つだけ守護付与の儀式を増やそう」

「むむ。私にはさっぱりですので、お任せしますね。何か、お手伝い出来る事があれば、言って下さいね」

「ああ。少しだけ、特殊な儀式だが。……………後は俺の理性が試されるくらいだな」

「謎めいています……………」



湖面を僅かに揺らす風に、ふうっと深呼吸する。

そう言えばデザートはないのだなと考えてしまった強欲な人間は、誘われるままに湖面に足を載せた。








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