スカートと騎士
ネアはその日、とても油断していた。
元よりとても大らかで穏和な、大雑把と言い換えてもいい気質の健やかなる乙女である。
自然と共に伸び伸びと生きてきた最近では、周囲の物陰や扉の向こうに自分を損なうかもしれない誰かが潜んでいるとは思わなくなった。
潜んでいてせいぜい、むくむく毛皮のムグリスか、もわもわした脱脂綿妖精くらいである。
ごく稀に、もう少し獰猛な生き物がいることもあるが、その場合は狩ってしまえばいいのだ。
なのでもう、リーエンベルクの中庭はネアにとっての寛ぎの場所となった。
「………むぐ」
例えばそれは、コートの下のニットドレスのスカートが、もわもわこわこわしていて気になっていた場合、周囲を見回してぴっとコートを捲り上げ、それでも改善しないと知るや、タイツを穿いているのでまぁいいやとスカートを少し捲って内側でくしゃくしゃになっていたアンダードレスを引っ張って直せるくらいである。
案の定くしゃりとなっていたアンダードレスは、乱暴に着替えた人間に抗議するように、タイツに裾が挟まっていたようだ。
腰回りがとてもすっきりとしてほっとしたネアは、ふうっと息を吐いたところで、すぐ後方に立っている一人の男性に気付いた。
「…………ふぁ」
「………ええと、………見ていなかったから、安心していいよ」
「絶対に見た人の言葉です。………誰かの記憶を奪いたい場合は、頭を硬いもので強く叩けばいいのですか?」
「はは、それは困るな」
外回廊に立ち、そう微笑んだのは、王都からリーエンベルクを訪ねていたらしい剣の魔物である。
金糸の髪に青緑の瞳のこの男性は、かつてウィーム領主だったこともある、ヴェルクレア王都の騎士団長だ。
「ち、違うのですよ?………その、破廉恥ではありません!」
「ああ。着心地がおかしくて、どうしても気になる時はあるよな」
「ぎゃふ!見ているではないですか!」
「……おっと。でもほら、冬服だから異性として気まずくなるようなものではないよ」
「記憶を無くしておく必要はありません?」
「勿論。僕は、常に紳士でいるつもりだから、乙女の秘密は誰にも口外しないと誓おう」
ふわりと微笑んだオフェトリウスは、成る程、王都ではご婦人方に大人気の男性らしいというそつのない美麗さであったが、ネアは、なんだか胡散臭いぞと目を細めた。
どんな世でも、口約束ほど儚いものはない。
ここはやはり、しっかり憂いを絶っておくというのも選択肢の内だろう。
「むぅ………。誰にも言わないのであれば、見逃してもいいようです」
「これは困ったな。その眼差しは、場合によっては口封じをしようとしているだろう?」
「きのせいですよ?」
「こんな時は、実際に柔和な表情を浮かべて見つめるような相手を思って微笑むといい。そうするだけで、瞳の奥の表情は、だいぶ変わるから」
「まぁ。それで誤魔化せるのですね?………ふむ。今度、アルテアさんで試してみます」
「アルテアで試すのか………」
そう言えば、ネアとしては至極当然な人選なのだが、なぜかオフェトリウスは目を丸くする。
「ディノには使う必要のない技ですので、やるとしたらアルテアさんなのです。例えば、今週のおやつで貰ったケーキを二日で食べてしまったことを、何としても隠さなければいけない時もあります」
「ああ。それは由々しき事態だね」
にこにこと微笑みながら同意してくれたオフェトリウスだが、ネアは、この魔物はなぜ一人でリーエンベルクをうろうろしているのだろうと、周囲を見回した。
案内の騎士達がいる訳でもなく、一人で歩いてきたようにしか見えない。
ヴェルリアの騎士服とは違う意匠に見えるものの、着ているのは掠れたような色合いが温度のある色を作る黒灰色の騎士服で、華やかな髪と瞳の色を持つオフェトリウスがこのような装いを取ると、はっとするような凄艶さではないか。
「……………もしや、侵入者でしょうか」
「まさか。ここで待たされているだけだよ。あの扉の向こう側には今、敷物聖人がいるらしい」
「…………またしても、あやつが現れたのですね」
「僕も、深夜に執務室の前に横たわっていて、危うく落ちそうになった事がある。………彼女は、なかなかに強烈な個性の持ち主だからね」
「………敷物聖人さんは、女性の方なのです?」
「あれ、そうだと思ってきたけれど、違うのかな………」
その時、外回廊側の扉がばたんと開き、少しよれよれになったヒルドとノアが出てきた。
ノアが怯えたようにヒルドの腕に掴まっているので、敷物聖人は、またしても塩の魔物の心に大きな傷を残してしまったのかもしれない。
「…………おや、こちらでお待ち下さいとお伝えしましたが?」
「すまない。可愛いことをしていた知り合いを、偶然見付けてしまってね」
「ぎゃむ!!ひみつ、ひみつなのですよ!!」
「ああ、勿論。僕は紳士だからね」
「へぇ。目を離した隙に、オフェトリウスは僕の妹のどんな秘密を盗み取ったのかな」
「それは心外だな。これでも彼女とは、幾つかの困難を共に乗り越えた友人のつもりなのだけれど」
さくりと雪を踏んでこちらに歩いてきたノアがオフェトリウスと向かい合っていると、一緒にこちらに出てきたヒルドが、ふわりとネアを抱き上げてくれる。
いつも不思議に思ってしまうのだが、この華奢にも見える美しい妖精は、軽々とネアを持ち上げてしまう。
僅かに広げられた羽の中に入れて貰うと、森の教会の中にいるみたいだ。
「お一人でおられたのですか?」
「…………こっそりですが、ディノは胸元にいるのですよ」
「おや、そちらにおられましたか。では、安心ですね」
「ふふ。先程まで、ディノと一緒に雪の積もったお庭の木を見ていたのです。今日は雪雲の隙間に青空が見えるので、積もった雪の表面がざりりとしていて綺麗なのですよ」
「………ああ。祝福の煌めきもありますね。屋内にばかりおりましたが、こうして外に出てみると気持ちのいい午後だ」
ふつりと口元を和らげ、微笑んだヒルドは、見惚れてしまうくらいに美しかった。
ネアは自慢の家族の美しさに目をきらきらさせ、庭の散歩で得られた成果は他にもあるのだと、自慢したくなってしまう。
「あちらでは、雪薔薇が少しだけ結晶化していました。とても綺麗なので、今度見てみて下さいね」
「では、休憩時間にでも、ご一緒していただかなければ」
「はい!そして今夜の晩餐は、鶏肉のクリーム煮です」
「それは楽しみですね。………そうそう、中庭の雪ブルーベリーをご覧になりましたか?今朝から、接木をした枝の花が咲いておりますよ」
「まぁ!とうとう咲いたのですね。それは見に行かなければです!」
雪ブルーベリーの枝に接木したのは、雪スグリの枝である。
アルテアの温室で見かけたのだが、その組み合わせで雪ブルーベリーの茂みに花が咲くと、小さな花から甘酸っぱい花蜜が採れるらしい。
ヒルドにその話をしたところ、ウィームの市場でかなり高価な物として売っている蜜らしく、であれば、リーエンベルクの庭でもやってみようとなったのだ。
二人で接木をしたのは一年前なので、漸く収穫出来るようになったらしい。
「雪明かりの中で蜜を集めるのが良いそうですよ。晩餐の前の時間にでも、収穫をしてみますか?」
「はい!………期待のあまり、はぁはぁしてきてしまいました………」
「では、これは私との秘密の約束に」
「まぁ、ヒルドさんとも秘密が出来てしまいました」
「……………キュ」
「ふふ、ここに隠れている伴侶も、仲間なのだそうです」
「おや、では三人の秘密ですね」
ここで、ネアとヒルドは、そろりと背後を振り返った。
ノアとオフェトリウスは、まだ喧々とした雰囲気で会話をしているようだ。
一体何を話しているのかなと思い耳を澄ましてみると、どうやら、どちらがよりウィームの事を知っているかという、たいへん不毛な流れになっている。
「…………やれやれ、そろそろ回収した方が良さそうですね。中までご一緒しますか?」
「いえ。我々は、噂のブルーベリーの花をこっそり見に行ってしまおうと思います」
「では、収穫に適した状態かどうか、調べていただいても?」
「ええ。お任せ下さいね!」
さくさくしゃりん。
ノアとヒルド、そして二人と一緒に打ち合わせに向かうらしいオフェトリウスと別れ、ネアは胸元に差し込んだムグリスな伴侶と共に、雪ブルーベリーの植えられた花壇を目指す。
この辺りの区画は、背の高い木々を壁のように刈り込んだ通路の先の大きな噴水と、咲き乱れる花々が美しい庭園がある。
こちらの区画は、噴水の水の魔術の流れと、生垣で目隠しをすることで、食いしん坊な森の生き物達から、実をつける木々をこっそり隠しているのだ。
勿論、それでも目敏く見付けてぶーんと飛んで来てしまう生き物達もいるのだが、一部には排他結界で覆いをかけてあるので、その全てが持ち去られてしまうことはない。
不思議なことに、こうして生垣で覆われた区画に植えられたものだと、排他結界にご馳走を隠されてしまった野生の生き物達も、これは自分達の領域のものではないと諦めがつくらしい。
そして、わざと覆いを外してある箇所の果実に出会うと、寧ろ得をしたような気持ちでお帰りいただけてしまうので、荒ぶらないのだ。
「いつも、この生垣の歩道を歩くと、奥に見える噴水が物語の一場面のようで、わくわくしてしまうのです」
「キュ!」
「ディノとも、手を繋いで何度もお散歩しましたよね。今日は、ムグリスでもふふかな伴侶と一緒です」
「キュキュ!」
目隠しの生垣の向こうにある雪ブルーベリーの木には、見たこともないような美しい水色の花が咲いていた。
ふわりと清廉な水色の小さな花は、中央の部分に硝子細工のようなふわふわがある。
硝子の綿毛にも、雪の結晶にも思えるその部分にだけ、ほんの一雫の赤紫色が入り、なんとも言えない可憐な美しさではないか。
一緒に覗き込んだムグリスディノも、三つ編みをしゃきんとさせていた。
「…………ほわ」
「キュ!」
「綺麗ですねぇ。可憐ですが、このぽわぽわした部分の繊細さがなんとも上品で、こんなお花は初めて見ました!」
「キュキュ!」
暫くの間は花に見惚れていたネアだったが、使命を思い出すと、花蜜の様子を調べた。
くんくんと匂いを嗅いで、甘酸っぱい木苺のような香りがすれば、収穫可能のお知らせであるらしい。
「ふぐ!甘酸っぱい香りです!!」
「キュ!」
どうやら、お目当ての花蜜は無事に収穫時になったらしい。
接木をしてからここまでの苦労を思い出せば、ネアは、歓喜のあまりにびょいんと弾んでしまう。
しかし、足元を見ずにびょいんとやったせいで着地に失敗してしまい、ずるりと靴底が滑った。
悲鳴を上げる間もなく開脚のような体勢でくしゃりと雪の上に尻餅をつく羽目になったネアは、今、自分に何が起きたのだろうと目を瞬く。
「…………転んではいません」
「キュ………」
「これは、ちょっとだけ着地に失敗したというものですので、転んだ訳ではないのですよ?」
「キュ!」
「……むぐ。………一瞬、どきりとしましたが、ふかふかの雪の上で良かったとしましょう」
「ああ。だが、そろそろ冷たいんじゃないか?」
「まぁ、ウィリアムさんです!」
不意に割り込んだ声に、ネアは顔を上げた。
そろそろ到着する頃だと思っていたが、無事に仕事が終わったらしい。
生垣の切れ目にもたれるようにして、この庭の景色とのどこか不思議な親和性の高さで、白い軍服姿の終焉の魔物が立っている。
「キュ」
「…………ネア、体調はもういいのか?」
そう尋ね、さくさくと雪を踏んでこちらに歩いてくると、ウィリアムは、雪の上にぺしゃんと座っていたネアを軽々と持ち上げた。
元々身長差もかなりあるのだが、こうして持ち上げられると自分がとても軽く感じると気付いた最近のネアは、ウィリアムによる持ち上げはいつだって吝かではない。
(ウィリアムさんが、一番簡単そうに、ふわっと持ち上げてくれるのだ………!)
そんなことを考えてにんまりしていたネアは、続けて、大きな手のひらでお尻の雪を丁寧に払われてしまい、目を丸くした。
「むぐ?!」
「雪がついていたぞ。冷たかっただろう」
「…………ふぁい。申し訳ないです」
「ん?なんで落ち込んだんだ?」
「キュ………?」
「ちびころになったような、頼りない気持ちになりましたが、私は立派な淑女なのですよ………」
ぽふぽふと、お尻の雪を丁寧に払い落として貰ったせいで、自分がとても無力な生き物に思えてしまいそう告げると、目を瞠ったウィリアムがくすりと笑う。
「ああ。ネアは魅力的な女性だと思っているよ」
「………本当です?」
「勿論だ。でも、雪の上に座り込むと、体を冷やすから、今はやめておこうか。体調を崩したばかりだろう」
気遣わしげにこちらを見たウィリアムは、新年のお祝いにかけた一連の事件のことは聞かされていて、明日にはいよいよ、ネアの誕生日の贈り物をくれる事になっている。
もし、その直前に不確定な要素で贈与が危うくなるといけないということで、前日の今日からリーエンベルクに滞在する予定なのだ。
なお、なぜ明日と決められているのかと言えば、今度こそ誕生日の贈り物を貰えるよう、日付指定で星屑に願ったからである。
最初からこうしておけば良かったのだが、まさか、贈り物の受け取りが延びていることで、あんな危険があるとは思わなかったのだ。
(あの事件を踏まえて、まずはウィリアムさんの贈り物だけを優先させて受け取る事になった。アルテアさんや他の家族からの贈り物はまた今度になってしまうけれど、守護に相当する贈り物を丁寧に受け取ることで、もうあのような事件が起こらないようにしないと…………)
なので、明日はウィリアムからの贈り物を貰い、尚且つその贈り物に付与された守護で、クロウウィン以降欠けていた終焉の魔物の守護を補う予定である。
そんなことを考えていたら、不意に耳朶に唇が触れた。
「にゃふ?!」
「ああ、すまない。ネアの体調が少し心配だったからな。先に一つ祝福を与えておいたんだ。明日に向けて、少しずつ増やしていこうな」
「み、耳はぞわっとするので、するときには言ってください………!」
「はは、そうだな。今度からは事前に申告しよう」
「キュキュ!!」
「あらあら、ディノもちびこいお口で祝福してくれるのですか?」
「キュ!」
「ふぁ!なんてもふもふなのでしょう!!これはやみつきになります………」
「キュ…………」
「むぅ。なぜ自分からしてくれたのに、儚くなってしまうのだ………」
伸び上がって唇に口づけを落としてくれたムグリスディノは、その直後にへなへなとなって胸元で丸まってしまった。
その頭をそっと指先で撫で、ネアは、こちらを見ていたウィリアムと微笑みを交わす。
「そう言えば、今日はオフェトリウスさんが来ているようなのですよ」
「……………ああ。そうみたいだな。こちらに到着した時に、騎士棟からの廊下でヒルド達とすれ違った」
「ウィリアムさんは、騎士棟から入ったのです?」
「その方が対応出来る者が多いから、エーダリア達に負担もかからないだろう。今日みたいに、事前に訪問予定がある場合は、そちらに頼んでおいて貰うことも多いな」
「まぁ。騎士さんだったこともあるウィリアムさんだからこその、素敵な配慮なのですね。………ただ、私やディノに伝えておいてくれても対応しますので、もし手続きに時間がかかりそうなときや、対応出来る騎士さんがいなかったときには、こちらに連絡して下さいね」
「ああ、そうするよ」
訪問予定の管理とリーエンベルクへの入場許可は、エーダリアとヒルド、そしてグラストがその殆どを管理している。
ネアにも限定された権限があるのだが、魔術的な兼ね合いなどが判断しきれない事が多いので、有事以外は、全てお任せしている状態だ。
また、ノアにも限定的な権限が付与されていて、有事の際など、事態の対処に際して必要な人材を招き入れる事が可能となっている。
(でも、もうウィリアムさんとアルテアさんに関しては、お部屋も貰えるので自由に出入り出来るようにしてはどうだろうという話も出ているのだけれど……………)
だが、やはりここはウィーム領主館なので、訪れに関してのみ、ある程度の規則は設けようという話が、ノアを中心に進められているらしい。
とは言え、うっかり魔術付与された呪いや障りを持ち込まないような入館時の対策くらいなので、そこまで厳しい縛りにはならないだろう。
「そう言えば、ノアベルトから、ネアは、オフェトリウスとの間に何か秘密があるらしいと聞いたんだが、俺にも教えてくれないのか?」
「ぎゃ!告げ口されている!!」
「キュ………」
「ネアの騎士は、俺だろう?それなのに、オフェトリウスとの間に秘密を持たれると、少し寂しいな」
「ぐぬぅ。ノアは、こうなることを見越して、ウィリアムさんにその話をしたに違いありません………!」
「ネア?」
にっこり微笑んでこちらを見たウィリアムに、ネアは、かくりと肩を落とした。
スカートの一件は淑女の秘密なので、出来ればオフェトリウスにも記憶を失くして欲しかったくらいなのだ。
しかし、騎士としてのあれこれを持ち出されてしまうとやはり、騎士問題では色々と鬩ぎ合いのあったオフェトリウスとの間だけに秘密を持っているのは、ウィリアムに対して不誠実だという気もしてきてしまう。
「……………スカートの話なのですよ」
「スカート?」
こうしてネアは、ニット地のふかふかのスカートに纏わる悲しい事件についての秘密を、正規騎士であるウィリアムにも告白することになったのだった。




